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2023-06-11 30:57

「聖霊に従って歩みましょう」2023年6月11日(日)のメッセージ

東京ぶどうの木教会 2023年6月11日(日)主日礼拝のメッセージです。
牧師:アブラハム黄
▼教会へのお問い合わせ:tokyo.vine.church@gmail.com
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▼動画によるメッセージ:
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ローマ8:5-8肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えま す。6.肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。7. なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、 神の律法に従っていないからです。従いえないのです。8. 肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。
イエス様と聖霊様についていくことの重要性
今日は、聖霊に従って歩みましょう という対応をもって、メッセージを分かっちゃいたいと思います。
6月はペンテコステの日、 聖霊降臨を記念して、
聖霊様が来られてどれほど素晴らしいのか ということを、私たちが分かっちゃっているところであります。
先週は、メッセージの最後に 韓国のチョヨンギ先生の証を分かち合いました。
ヨイドにある一つの教会で、70万人の神徒が集まる。 皆さん、理解できますか?
その先生は、どのようにして、 そのようなすごいことができたんでしょう。
それは、聖霊様によくついていたからです。 これは福音書でイエス様が弟子たちを招きながら、
私についてきなさいと言われたことと同じです。 弟子たちがイエス様によくついていた時、
彼らは聖者になりました。 また、ローマをキリスト教国として変えることができました。
素晴らしいでしょう。 過去、人たちはイエス様によく従いました。
私たちは今の時代、聖霊様によく従っていかなきゃいけないんですけど、
人たちは目に見えるイエス様についていたから、 やりやすかったんじゃないかなと思います。
しかし、私たちは目に見えない聖霊様についていくものですから、 難しさがありますね。
ですから、イエス様を信じて、新たに生まれた私たちのうちに、 聖霊様が来ておられ、
私たちを助け、導いておられることを、 皆さん理解できているでしょう。
私たちのうちに、聖霊様がおられることを信じますか? 聖霊様の御声を聞いてますか?
私たちは、私たちのうちでいつもお話しされる、 聖霊様の御声を、また、来的感度、
直感、霊感、 また、聖書と祈りと環境と教会を通して、
その時、その時、私たちに語ってくださる、 聖霊様の御声を、よく聞いて従う私たちになればと思います。
今日は、聖書の中で、聖霊の章と言われる聖書があります。 それはどこですか?
ローマ章8章ところです。 その8章、今週と来週を続けて学びながら、
私たちがなぜ、聖霊様についていかなきゃいけないのか? また、どのようについていくのか?
また、そのようにする時に、どんな祝福と特権が与えられるのか? それを一緒に考えていきたいと思います。
立法と恵みの違い
まず、ローマの8章の前に、ローマ章の7章の言葉を少し分かち合いましょう。
また、罪と死の法則と、命をもたらす霊の法則はないのか? 何なのか? それについても考えていきたいと思います。
ローマ章7章1節2節に、こういうのがあります。 それとも、兄弟たち、私は立法を知っている人々に話しているのですが、
立法とは、人が生きている間だけ支配するものであることを知らないのですか?
結婚した女は、夫の生存中は立法によって夫に結ばれているのが、
夫が死ねば、自分を夫に結びついている立法から解放されるのです、と言います。
ローマ章7章では、結婚関係を通して、立法と私たちの間の関係について説明しています。
過去、聖霊様が来られる前、また、私たちが聖霊を知らないときに、私たちは立法と結婚しました。
倫理道徳的に正しく、罪を嫌がる立法兄弟、どれほど立派でしょうか?
立法兄弟と結婚するなら、こんな素晴らしい兄弟と結婚したら、兄弟が私を守ってくれるんじゃないかと思って結婚しました。
ところが、立法兄弟は結婚してみたら、これをやってはいけない、あれをやってはいけない、これをやりなさい、あれをやりなさい、
どれほど厳しいのか、毎日苦労します。 また立法を守れなければ叱ったり罰されたりします。
いくら努力しても守れないので、私たちはどうすればいいんでしょう? 毎日厳しい立法兄弟によって死ぬほどです。
これが私の運命かなと思って、罪の罰、呪い、苦難を運命的に受け入れながら過ごしました。
ところが、恵みという兄弟に出会いました。 恵み兄弟は、物足りない私たちをよく理解してくれる。
また愛してくれて、よく助けてくれます。 そうしながら、もし私たちが罪を犯すなら、
私たちが受けるべき罪の罰を代わりに受けてくれます。 呪いも代わりに全部背負ってくれるし、私たちを熱く愛してくれます。
本当に感謝ですね。 私たちはどうすればいいんですか?と聞いてみたら、
これからは自分の欲に従って生きるんじゃなく、 神の御胸通り、神様に栄光を与えるために生きなさいと言われるんです。
その恵み兄弟のおかげで、神様のために生きたいという気持ちになりました。
でも、私たちがうまく立法を守ることができなかったら、大丈夫、大丈夫、私が罪の罰を全部担ってあげるから、
あなたはこれからは罪を犯さないようにやってみなさい。 そうしながら恵みで教えてくださいます。
そうしたら、その愛と恵みに感動して、これからはもう罪を犯したくないんです。
本当に不思議ですね。以前は、ただただ罪を犯さないように頑張ったら、 むしろもっと罪を犯すようになりました。
ところが、今は恵みと愛に感謝する心ができたから、 罪は嫌になって犯したくないんです。
ああ、これが恵みによって生きるんだなと、これは分かりました。
恵み兄弟のおかげで、私は聖者になっていくような気がします。
結局、恵み兄弟は神の御言葉を守るようにして、 私たちを祝福受ける人になってくれるんじゃありませんか。
死によって立法との関係が断たれること
じゃあ、みなさん、ここで大事なのは、私たちが死ぬことです。
私たちが生きているなら、いつまでも立法と結婚関係はそのまま続けられます。
しかし、私たちが死ねば立法とは関係が断ち切られます。
夫婦も同じです。 夫婦の関係は神様を結び合わせてくださったことでしょう。
それは大事です。しかし、一人の方が死ぬなら、 夫婦の関係はなくなります。
そして他の人と結婚しても、これは問題ありません。
立法の支配下に過ごしていた私たちが、 どのように恵みの中で過ごすことができますか。
これは、私たちがイエスさんとともに十字架で死ぬとき可能なことです。
みなさん、これはパウロが経験したことです。 ローマ書7章でパウロは立法は神様の御言葉だから大事なことだ。
しかし、立法を守り抜くことができない自分自身の弱さのゆえに、 ローマ書7章24節にこのような嘆きをします。
私は何と惨めな人間なのでしょう。 罪に定められたこの体から誰が私を救ってくれるでしょうか。
そうしながら25節に、私たちの主イエスキリストを通して神に感謝します。
その意味は、パウロはイエス様の中でこの立法を守れない絶望感が解放できたということです。
それはどうしてできたんですか。 これをローマ書8章1節から4節に教えてくれます。
2節にこう言います。 キリストにイエスによって命のもたらす霊の法則が、
罪と死の法則から私たちを解放したからですと言います。 イエス様は十字架で死んでくださいながら、私たちの罪をあがなってくださったんですけど、
私たちもイエス様と共に十字架で死ぬなら、 どのように死ぬんですか。
自分を捨てて自分の十字架を背負うことによって私たちは死ぬことができます。
そしてイエス様共に死ぬなら、イエス様が私たちを罪と死の法則から解放させ、
つまり恵みと霊の法則の中で過ごすようにしてくださるということです。 ここで大事なのは私たちが死ぬことです。
なぜイエス様神様はこのようにされるのか、四節に答えがあります。 それは憎みではなく、霊に従って歩む私たちに立法の要求を満たされるためですと言います。
立法が私たちは何を望んでいるんですか。立法が私に望むことは何ですか。
霊に従って生きること
神の子供らしく 清い人になりなさい。
または神の御胸を成し遂げる人になりなさい。 そして立法はついついに
祝福される人としてさせてくださるのが立法の目的なんです。 それが恵みによってできたということが大事なことです。
ではこれから大事なのは私たちが憎に従って生きるのではなく 霊に従う人になることです。
大勢の人がイエス様の救いの恵みには感謝します。喜びます。 しかし
恵みをいただいて救われた後、私たちがどう生きるべきなのかについては 本当に軽く思っているんじゃないかと思います。
じゃあ皆さん 聖書は二つの見方があります。これは行理を見方です。
カルマンは 一度私たちがイエス様を信じるなら救われたと言います。
それからの人生は厳しく言っていません。 救われたから
だから予定論、権利論と言いながら イエス様を告白したから、あなたは救われたと終わったと言います。
しかし ヨアンヌ・ウェスレーのメソディストは何と言うのか
私たちがイエス様を信じますと言ったらすぐに救いが終わったんじゃない。 救いは祈祷され
聖火、栄火の過程に入ったらそこで救いが完成される。 イエス様を信じますと言っても
聖火、栄火に至るその過程に私たちがない場所にしてうまくできなければ 救いを失うこともあるよということを
ヨアンヌ・ウェスレーが教えたことです。 どちらカルマンの教えを従うか
ヨアンヌ・ウェスレーの教え、これは全部聖書から出たことです。 どこに従うのか皆さん自由ですけど
私は救いが本当なのかどうなのかは 最後の時神様の前に行かなければわからないなとそれを思います
私たちの教会はヨアンヌ・ウェスレーのこの考え方に従います 私はそのことがもっと聖書できたと信じるからです
ここで皆さん大事なのは 肉に従って生きるのか霊に従って生きるのか それと関係があるから私は今日前提として申し上げることです
大勢の人はイエス様の救いは感謝するけど 救われた後の私たちはどう生きるべきかに対しては本当に軽く思っているんじゃないかと思います
力に従う生き方と霊に従う生き方
イエス様信じて救いの恵みをいただいて それからは自分の欲に従ってこの世で上手くイエス様の恵みを得て上手く生きることばかり考えていくなら
それはイエス様の十字架を無駄にすることになってそれは本当に気の毒なことです 私たちを救われたこの神の御心を知るのはこれは本当に大事です
救われた後は自分勝手に過ごすように神様私たちは救ってないんです それをボーンヘッパーというドイツの神学者は安っぽい救いと言いました
私たちを救われた神の御心を知っているなら イエスキリストの犠牲を私たちは考えるなら
私たちはこれからは神の御胸を成し遂げる人生を過ごすではないかと言います ですからパウロはこのように言いますローマ1章8章の5節6節です
力に従って歩む者は力に直することを考え 霊に従って歩む者は霊に直することを考えます
力の思いは死であり霊の思いは命と平和であります 私たちがイエス様を信じて救われ新たに生まれた私たちとしても
私たちには自由意志があるので この自由意志を持って力に従って生きるか霊に従って生きるかどちらかを選択しなければなりません
もし力に従って生きるなら それは自分の本性に従って生きることです
神を信じるんだと言いますが 信じない人と違いが全くありません
この人たちが願っているのは力の欲目の欲この世の奢り 世の中の欲を満たすために生きることになります
そうするなら聖書はローマ書2章9節 苦しみと悩みが下り結局死に至るようになると言います
霊に従う生活の意味
私たちがこの世で過ごすから欲がこの世に対する欲が入ってくることはあります 私たちはこの世の考え
力の欲を追い出さなければいけません その時考えが入ってくるならイエス・キリストの御名によって出てけ
そうして考えを追い出さなければいけません 反面霊に従って生きるということは
聖霊の御声を聞いてその導きに従って生きることを意味します 私たちを救われた神を喜ばせるため
神の栄光のために生きるんだという確かな目標を決めて 毎日毎日それを成し遂げるために祈って見言葉を黙想して
聖霊の導きに従って生きることです その時妨げる 力の欲 世の中に様々な欲望と戦って
いつも神の道 神の保護は何ですか 神の御名は何ですかということを聞いて選択することです
皆さんこのように生きてみれば霊に従う考えをするようになり それが訓練されて神を喜ばれる信仰生活ができるんです
このような人たちは結ぶ実りは命と平安だと聖書は言っています これが信仰生活なんです
このように力に従って生きることと霊に従って生きる生活は極めて異なります ですから私たちはこの見言葉を覚えましょう
今日読んでくださった7節8節です なぜなら力の思いに従う者は神に敵対しており神の立法に従っていないからです
従い得ないのです 力に支配下にある者は神を喜ばせることはできません
また9節はもっと厳しい話です 力の思いを知っている人だったらキリスト社ではありません
また10節はもっと深刻です 精霊に従った生きる結果がイエス様のように復活することなんですけど
力に従って生きるならこんなことはありえないと言っています 皆さん私たちのこの信仰生活
本当に霊に従うのか力に従うのか 自分の心の本性に従うのか精霊に従うのか
ここで大きな違いがあるんだということを考えていただきましょう 考えがすべての始まりです
力の考えをするのか霊に従う考えをするのか 朝起きてからデボーションをしながら私の考えを神様に合わせるとき
私たちが霊に従う生活ができるし 命と平安そして一日を勝利の生活ができます
決して肉の考えに負けてはいけません では霊に従って生きる私たち神の子供に対する祝福は何でしょうか
霊に従う生活を選ぶ
朱三節にこう言います 肉に従って生きるならあなたたちは死にます
死にますということは神様との関係が断ち切られますということです 霊に従って体の仕業を立つならばあなたたちは生きます
神様共に生きるということ 私たちは度々周りの人々からいろいろな誘惑を受けます
この世の富楽しみまた自慢話をして生きることを見ながら 私だけこんな厳しく信仰生活やるんだってこんな苦労するのか
信仰によって生きる生活について懐疑を抱く場合があります しかし絶対そうではありません
霊に従って生きる生活には驚くほどの祝福と特権がありますけど それを分かるとき私たちは喜んで神の子供らしく生きることができるんです
では聖霊によって霊に従って生きるキリスト社の特権は何ですか 初めに神様をアッパーチチオと呼ぶことができたんです
十五節です あなた方は人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく 神の子とする霊を受けたのです
これ霊によってあなたたちはアッパーチチオと呼ぶのですと言います 私たちは過去サタンの奴隷になって
恐れ 臆病
その中で苦しめられました 罪を犯して罪意識から来る不安と恐れ
裁きに対する恐れ 将来に対する心配と不安などなど
この世で生きること自体が恐ればかりだったんです これは私たちが悪霊の支配下にあったからです
悪霊は恐れに陥れる霊だということを皆さんご存知でしょう しかしこのような私たちを神様はイエスキリストの父をによって
悪魔から救い出し私たちを神の子供にしてくださいました そして
神様をアッパーチチオと呼ぶことができるようにしてくださった 皆さんアッパーチチオ
霊に従う生活の特権
呼ぶ関係性 これは全ての世の中の全ての関係性を
もうこれを遥かに超える関係です 誰よりも近く愛し全てを叶えてあげる関係です
私たちがアッパーと呼ぶなら 神様が何があったの?来てくださいます
神様はこのようにいつも私たちの隣に 側に
いてくださいます またいつも豊かな愛を持って私たちを見守ってくださるんです
皆さん私たちは神様アッパーチチオと呼ぶことができたのは 聖霊様によって
聖霊様は私たちの家におられ そのようなことをさせてくださることです
これによって私たちはこの世だけではなく 永遠な世界まで一番心強い父を持つようになったんです
これ以上これよりもっと大きな祝福はどこにあるんですか 皆さん誰が
天地を作られた全世界の持ち主 神様を自分の父と言えるんでしょうか
私たちは言えます 聖霊によってできたんです
また2番目 霊に従って生きる神の子供の特権 これは栄光に満ちあおれる神の国を
聖辱を受けるようにしてくださった 中7節 もし子供であれば聖辱人でもあります
神の聖辱人 しかもキリストと共同の聖辱人ですと言います
皆さん下部奴隷はいくらうまくやっても 聖辱者にはなりません
しかし子供は どれほど物足りなくても聖辱者です
王子は王が味わう 栄華 独権 権力を全部受け継ぐことができるんです
特に今日の聖書は私たちはキリストと共同の聖辱人と言います
これは将来キリストが万物を回復され 神の国を受け継ぐようになって
栄光の王として支配する特権
栄光と神の全ての力を私たちはキリストの神父として 隣で共に味わうことができたということです
第二手もて2章12節 絶えしのぶならキリストと共に支配するようになる
私たちは支配する王様になるということです
キリストと共に永遠に永遠に統治する王として生きることができるんだということです
皆さんこのような祝福を私たちはいただいています
ところが100年のこの世の楽しみのゆえに それをないがしろにするならどれほど愚かでしょう
3番目 礼に従って生きる神の子供にはイエス様と共に価値ある苦難を担う特権があります
17節後半です キリストと共に苦しむなら共にその栄光を受けるようになるからです
キリストと共に苦難を受ける理由は キリストと共に栄光を受けるためなのです
人々は苦難を嫌がります しかし世の中には人を誇らしてくれる苦難もあります
ダビデは羊飼いとして羊を守るために猛獣たちと戦いました
神の羊を守ろうとする良い牧者の心を持っていたダビデを神様は非常に愛しました
なぜなら神様の御心とダビデの心は全く同じだったからです
キリストの残された苦難を共に担う特権
今日は父の日です お父さんたちは妻と子供たちのために朝早くから夜遅くまで職場で苦労して働きます
私は家族のために犠牲する楽しみのために熱心に職場の生活をしました
家族のために私が犠牲になって養っている これはこれは男としてどれほど価値ある生きがいがある苦難でしょうか
それはいくらでも担う気持ちじゃないですか イエス様はこの世にいらっしゃる時数多くの苦難を受けました
歴代者たちからポンディオ・ピラトから十字架にかけられ死ぬまで苦難をされました
なぜなら私たちを救うために 人類の歴史上救われたすべての人はイエス様の恵みに永遠に感謝するでしょう
神様もイエス様に感謝して今もイエス様を神の玉座の右に座らせ
全世界の統治権また最後の時の裁きを全部任せたんじゃありませんか
イエス様の苦難は価値ある苦難だったんです 私たちはコロサイ1章24節にキリストの残された苦難がある
キリストの残された苦難は何ですか イエス様は十字架で成し遂げた救いの御業を全世界に伝えることです
また神の家 教会のための救難があります 信徒たちに使えるための苦難もあります
このようなキリストの残された苦難に参加することは どれほど驚くほどの報いと栄誉を受けることでしょう
第一コリント15章58節 私の愛する兄弟たちこういうわけですから
聖霊に導かれた恵みによる信仰生活
動かされないようにしっかり立って主の業に常に励みましょう 主に結ばれているならば自分たちの苦労は決して無駄にはならないですよと聖書は言っています
皆さん苦難という言葉は 私たちの心を遥かに超える神の領域に直するものです
私たちの理解を遥かに超える高い次元の御業を成し遂げる方法として 神様は苦難を用いてくださいます
神様は苦難を通して神の恵みをもっと経験させ 苦難を通して私たちの内面にイエス様に対する信仰をもっと強くしてくれるし
苦難を通して天国に対する希望をもっと大きくしてくださいます またイエス様共に苦難を受けるならイエス様と共に栄光の冠をいただき
共に神の国を統治することになるでしょう また苦難の中でこのような革新と希望がますます強くなるのです
皆さんこの世の100年の人生 しかし天国地獄は永遠ですけど
後ほど終わってしまうこの世でしばらくの保るために心に奪われ 永遠な天国を準備することができない愚かなことがないように
しばらく受ける価値ある苦難は永遠な栄光の冠を得させてくれるんですけど これを見る霊的な目が開かれることを祝福します
結局信仰生活は私たちの熱心で立法を守り抜くことではありません 聖霊の導きによって恵みによって成し遂げる生活です
私たちが毎日主の御言葉を黙想し祈り 肉の考えよりは聖霊様が照らしてくださる
霊の考えに従うとき私たちの信仰生活を通して神の見守りが成し遂げられ 神に栄光になり私たちには主が与えてくださる豊かな祝福と特権を持つようになります
私たちの中におられいつも私たちの弱さを自ら担ってくださり 神のすべての特権を祝福を教えてくださる
得させてくださる助け主イエス聖霊様に感謝いたします お祈りいたします
主よ 私たちが何をしたから神様の子供にさせてくださり助け主聖霊を送ってくださり
神様を父よアッパーと呼ぶようにしてくださり 神の国を受け継ぐようにしてくださったんでしょうか
感謝します これから私たちに与えられたこのキリストの残された苦難
それを喜んで私たちは担いたいと思います 私たちの中でいつも恵み十万 聖霊十万を与えてください
その力で成し遂げることができるようにしてください イエス様の皆を通してお祈りいたします
アメンアメン
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