2022-06-05 25:16

#108/22/6/5 「アバ父よ」と叫ぶ〜「神に信頼して祈るには」

ガラテヤ4:1-7からの礼拝説教。2022年6月5日録音。今日2022年6月5日はペンテコステです。パウロはちょうど今日取り上げる箇所で聖霊の祝福について語っています。聖霊を授かった祝福も含め、私たちと神様との祝福された関係について、1.未だに奴隷であるのか、2.この世に遣わされたゲームチェンジャー、3.私たちの心に遣わされた御霊の3つの点から学びましょう。

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00:06
つまり、こういうことです。
相続人は、全財産の持ち主なのに、子供であるうちは奴隷と何も変わらず、父が定めた日までは、貢献人や管理人の下にあります。
同じように私たちも、子供であった時には、この世の諸々の霊の下に奴隷となっていました。
しかし、時が満ちて、神は御自分の御子を、女から生まれたものを立法の下にあるものとして使わされました。
それは、立法の下にあるものを贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためでした。
そして、あなた方が子であるので、神は、「アバ父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に使わされました。
ですから、あなた方はもはや奴隷ではなく子供です。
子であれば、神による相続人です。
以上です。
今日はこのところから、「アバ父よと叫ぶ」と題して御言葉を取り継ぎます。
皆さん、おはようございます。
早いもので6月になりましたね。
ほぼ1年の半分が過ぎようとしていますけれども。
今日はですね、ペンテコステです。
ペンテコステ礼拝は特別なことをしませんが、
ペンテコステと今日の歌唱がですね、
精霊の祝福について語っているのです。
ですから、この精霊を授かった祝福をですね、
このペンテコステの日に、私たちと神様との関係を考えながら、
神様からどんな祝福が与えられているかということを、
精霊と神様との関係ということを観点にですね、
3つの点から学んでいきます。
皆さんに質問する前に、まず1節、2節を読んでみましょうか。
読める方、前にありますので読んでみましょう。
3、はい。
つまり、こういうことです。
相続人は、全財産の持ち主なのに、子供であるうちは奴隷と何も変わらず、
父が定めた日までは、後権人や官人の下にあります。
これはですね、ユダヤ人クリスチャンやまた、
違法人クリスチャンが立法に立ち返ろうとしているところの警告の中で語られました。
立法の下にあるならば、
神の子として、たくさんの相続を、
全ての相続を持っている、全財産を持っているのにも関わらず、
まだ後権人や官人、前の政府では、
良いくがかりと言っていました。
前の説教などを参考にしてほしいんですけども、
そういう下にあるということなんですけども、
ちょっと皆さんにですね、考えてもらいたいんですが、
どのようなイメージを神様に持っているでしょうか。
03:03
神様がですね、私たちがですね、
間違いや罪を犯さないか見張っている、
そして過ちを犯した時には注意をする、
そんな番人のようなイメージを持っていますか。
であるならば、私たちはまだ奴隷である。
そして神様は私たちにとって、
父親ではなくて、良いくがかりや後権人、
また、官人のままだと言えるかもしれません。
そしてそれはとても窮屈な生き様になってしまいます。
すみません、ちょっと空気乾燥していますので、すみません。
皆さんの神様のイメージはどのようなものでしょうか。
私たちはですね、クリスチャンになる前からの
神様のイメージについて、
引きずってクリスチャン生活を送っているかもしれません。
あるいはクリスチャンホームの方もいらっしゃると思いますけれども、
他のクリスチャンの人から植え付けられたり、
あるいはこの世を一杯に留守しているこの神様や、
クリスチャンの間違ったこのイメージ、
それを引きずっているかもしれません。
そのような、クリスチャン像では先週見ましたけれども、
そういう神感を持って生活しているでしょうか。
それは、ユダヤ人の場合は立法でした。
そして、違法人もユダヤ人も含めて、
パウロはその奴隷としている状況を想じて、
今日の3節のところで、
この世の諸々の霊と読んでいるんですね。
前にもあります。ちょっと読める方、4章3節読んでみましょう。
3、はい。
同じように私たちも子供であった時には、
この世の諸々の霊の下に奴隷となっていました。
この諸々の霊とは、私たちを縛る宗教的なものに限らず、
あらゆる人間的な諸原則を指しています。
皆さんの聖書にその脚注があるならばですね、
3節のところ別訳と書いてあって、
幼稚な教えや原理があります。
なんとなく留守している日本人としての宗教化。
あるいは日本人としての、あるいは何か皆さんが育つ中で、
教育される中で植わった、そういう神に対する
クリスチャンは壊るべきだ、宗教的な人は壊るべきだという、
私たちを縛るイメージ。
そういうものを総称してパウロは、諸々の霊。
霊じゃなくてストイキアというギリシャ語なんですけれども、
そのようなものと呼んでいます。
この中でパウロはですね、私たちに対して、
クリスチャンに対してこういう成りかけをしているんですね。
06:02
全財産の持ち主であるにも関わらず、
後継人の下にある子供のような、この未熟で奴隷と何も変わらない、
そのままでいるのはもったいない。
あるいはですね、様々な人間的な立法に縛られて、
神様を未だ自分の奴隷の主人や、
カニのようなイメージでみなしているならば、
それはとても残念なことと言えるでしょう。
未だに私たちの神様とのイメージは奴隷であるのかということが最初の点です。
2番目、しかしですね、この世に使わされたゲームチェンジャーとしてのイエス様がいらっしゃいます。
4章4節5節ですね。
読んでいますね。前にあります。
しかし、時が満ちて、神は御自分の御子を、
女から生まれたもの、立法の下にあるものとして使わされました。
これは先ほど、首都心上で告白しましたね。
イエス様は乙女マリオに生まれ、という一連の下りは、
人間としてこの世に下ってこられたということです。
そして立法の下にあるものとして使わされました。
なぜそうだったか、読める方、前のこの部分一緒に読んでみましょう。
それは立法の下にあるものを贖い出すためであり、私たちがことしての身分を受けるためでした。
パウロは何度もここまで繰り返してきたように、
イエス様が私たちの奴隷の状況を一変させたと、ここでも語っています。
ゲームチェンジャーとしてのイエス様がここに到来した。
時が満ちて大人になって相続を得るように、
時が満ちて神様は巫女イエス様を使わされた、という、
そういうことを言っているわけです。
ゲームチェンジャー、皆さんも知っていると思います。
悪い状況を一変させるような存在。
それは人間であったり、何か人間でない存在であるかもしれません。
コロナになって2年経ちますが、緊急事態宣言の中で、NHKの討論番組を見ていたんですね。
その中で政府の役人、コロナ担当の役人と並んで医療者も出ていました。
その当時よく有名に出ていた方の一人に、
西流科国際病院の感染症対策を取りしきっている看護師の坂本さんという女性が出ていたんですね。
情熱大陸なり、ニュースステーションなり、いろいろなところに引っ張り抱く子になっていた。
あれに似ているんですね。
笑い芸人の、家族じゃねえよという、
何でしたっけ、
近藤春菜です。近藤春菜に似ているんですけど、
近藤春菜の知的にした感じですが、
09:01
その彼女がですね、このコメンテーターに、
これから先どういう展望があるのが望ましいですかと言ったときに、
彼女はこれから何かゲームチェンジャーが現れる、そのことを期待します。
例えばワクチンとか特効薬。
ワクチンが現れて多少は状況が変わりましたが、
まだ決定的なゲームチェンジャーが、このコロナの中で期待されるときでありますね。
それで今、ロシア危機が始まって2ヶ月経ちました。
そんな中にまさに、何らかのゲームチェンジャーが到来することが、
待ち望まれているわけです。
一方で、ゲームチェンジャーになるイエス様は、こういうふうに言うことができるでしょうか。
前にも表しました、青い字で書きましたけども、
ゲームチェンジャーのイエス様は、人としてはアブラハムの子孫です。
そして、立法を成就したお方。地上の生涯を通して立法を成就したお方です。
そして、神と人として、神が人となったお方として、
立法の呪いを十字架によって、その身に背負ってくださったお方。
イエス様は呪われた者となって、立法の呪いの中にある私たちを贖ってくださった。
そのようなお方だということなんですね。
ですから、パールがここで言っているように、私たちはイエス様によって、
奴隷から神様の子供という身分に昇格したというか、身分を授かったんですね。
この神の子という呼び名は、イスラエル民族に特別に神から付与された名前なんですね。
それが、執エジプト紀の4章22節にも由来している言葉です。
読める方は、ちょっと読んでみましょう。
3、主は子を生せられる。イスラエルは私の子、私の産子である。
実はこの私の子、この間も言いましたが、特別なヒュイヨスという言葉です。
イエス様がバブテ様を受けて水から上がった時に、天から声がして、
これは私の子、私に愛する者であると言った。
それは同じ言葉です。
そのように、イスラエルは神様から特別に選ばれた神の独り子のような尊い存在だったんですが、
その子としての尊い身分を今、イエス様を信じた違法人の私たちが受け継いでいる。
それが祝福であるということなんですね。
ここの執エジプト紀の物語の由来は、
エジプトの奴隷状態の中から、イスラエルの民族が救われるという物語です。
熱い過酷な中で、このピラミッド建設のために、
古き使われた奴隷状態から解放された。
12:01
その時に約束の言葉として、私の子という言葉が与えられました。
私たちも、このエジプトの奴隷から解放されたイスラエルの民族のように、
イエス様によって様々な私たちを縛り付ける、奴隷とする霊や、
人間的な原則、そういうものから解放されて、神様のことをされているわけなんですね。
最後の3番目、今日一番皆さんに知っていただきたかったこと。
それは、私たちの心に使わされた御霊、精霊ということなんですね。
実はですね、遡ってみますけど、
ここで4章の4節5節で、前にもありますけど、
神様は御子を使わされたっていう、
そういう御子を神が使わしたっていう言い方をして、
状況が一変した驚きをパウロが語っているんですが、
4章6節で、この同じ衝撃と感動をもって、パウロは続けていっているんですね。
4章6節読めるかと読んでみましょう。
そして、あなた方が子であるので、神はあば父よと叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に使わされました。
神様がイエス様をこの地に使わせたように、今度は神様は、
イエス様を信じる私たちの心の奥に、心の奥の中に、精霊を使わせてくださった。
そうパウロは、その衝撃と感動をここで宣告しているんですね。
どうでしょう、皆さんの心の中に神様は、心の奥深くに、
エイスっていうね、エイスっていう、intoっていう言葉を使われているんですけど、
心の奥深くに、精霊を神は使わせてくださった。
あたかも神がイエスをこの地に使わせたように、
そのような衝撃と驚きを、パウロはここで述べているんですね。
皆さんの心の奥深くに、精霊が授けられている。
心の奥深いところに、精霊が刻まれている。
実はですね、これが、神がアブラハムに約束した祝福なんですね。
たくさん祝福があるんですが、そのうちの大切なものの一つは、
全ての人が心に精霊を持つという、それが約束された祝福なんですね。
今や、この私たちの心の奥深くに、繰り返しになりますね、青い部分ですね。
アブラハムの子孫への約束の相続、その祝福は精霊だって言うんです。
15:01
その精霊、御霊はどんなお方ですか、というと、
あば父と叫ぶ御子の御霊だって言っているんです。
それはどういうことか。
それは私たちとして、神様に対して、
天のお父様、父なる神様と祈りの叫び合いを生み出す精霊なんですね。
この叫びというのをあえて使っている。
そこには喜びの叫びであったり、悲しみの叫びであったり、苦しみの叫びであったり、
心からのこの気持ちを神様に、父なる神様、お父さんとしてぶつける思いが込められています。
このように私たちが、神様を親しく天のお父様と叫び祈ることができる、
それは御子イエス様の御霊が私たちの心の奥深くに注がれているからだって言うんですね。
ちょっとよく考えてみてください。
日本人には全く縁がないと思われるような、この聖書の神様、
4千年以上前のアブラハムが父と呼んだ神様、
2千年前イエス様が父と呼んだ神様を、私たちは今当たり前のように、
天の父なる神様、そうやって祈られている。
それは不思議なことであり奇跡なんですね。
皆さんも知っている方いらっしゃると思いますが、
イエス様自身が天の父なる神様を、アバ父よと先に言いましたね。
アバと言うとですね、私の世代はスウェーデンの4人グループ、思い出しちゃうんですけどね、ダンシングクイーン、
最近また映画になってアバターで活躍して世界中に回るとかいろいろ話題になってますけれども、
アバというのはですね、どういう言葉かというと、
当時のイエス様が地を歩んだ時代のですね、アラム語の方言なんですね。
日本語に直訳すると父ちゃん。
昔私が子供の頃、お母さーん、ハンナマールキーっていう宣伝ありましたけど、
そういう本当に父ちゃんという子供が呼びかける言葉なんです。
当時もその前もですね、神様にそんな呼びかけをして祈るなんてことはありえなかったんですね。
皆さんも普通にですね、神様に父ちゃんって祈るところをイメージしてください。
なんか不思議な感じ、変な感じしますよね。
それぐらい実は特別な言葉なんですね。
それはつまり、イエス様がそれほど父なる神様と親密な関係であったということの証なんですね。
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これはですね、またもうちょっと進学的な難しい話しますけど、
時々私が紹介する第一コリント十二章三節との関連があるんです。
読める方はこの一番上の聖書の言葉を読んでみてください。
聖霊によるのでなければ誰もイエスは主ですということはできません。
私たちがイエス様を救い主だと信じて祈り礼拝できるのは聖霊の御業なんです。
そして今日の御言葉、実は私たちが神様に、父なる神様と心を注ぎ出して祈ることができるのも
このイエス様の聖霊が私たちの心の奥深くに宿っているからなんですね。
図を描いていましたけど、御霊の中にいるクリスチャンの礼拝と祈り、
御霊を宿しているクリスチャンの礼拝と祈りは御霊によって主なるキリストということができます。
ここキュリオスとか主、キュリオスとか主といって呼び求めます。
そして御霊になって私たちは父なる神様、神様をアッバ父よと呼び求めることができるわけですね。
いずれも聖霊の働き、心に聖霊を宿しているからできることなんですね。
皆さんも御存じのようにイエス様は御自分が逮捕される直前、月瀬真似で汗を流して祈りました。
血とも汗とも区別がつかないようなものを流した。
血のように汗が滴ったとある聖書書いてありますけど、その中でこう祈りましたね。
読める方、前のマルコ14章36節一緒に読んでみましょう。イエス様の祈りです。
アッバ父よ、あなたは何でもお出来になります。どうかこの杯を私から取り去ってください。
しかし私が望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。
イエス様は十字架の上で呪われたものとなって、私たちの呪いを、立法の呪いを引き受けてくださいました。
それは簡単なことではなかったんです。イエス様もできればそれはやりたくない。
そしてその心が張り裂けるような思いの中で父なる神様に、
アッバ父よ、父ちゃん、あなたは何でもできる。
そういうこの全幅の信頼をもって助けを求め祈りました。
でも見心がなるようにとも言われたんですね。
私たちは神様を、私たちを見張る奴隷の主人とか官人のように恐れているならば、
21:06
私たちはまだ奴隷のような神様との関係でしかないということ、
あるいは相続に預かれない幼子のような生き方をしていてもったいないんですね。
全財産を相続しているとパワーラは言っているんです。
しかしイエス様がゲームチェンジャーとして使わされ、私たちは贖われたんですよね。
そしてこの世の諸々の霊や諸々の諸元族や立法から私たちを救い出してくださった。
そして神様は、父なる神様は私たちの心の奥深くに聖霊を授けてくださったわけですよね。
だから私たちは恐れることなく、その相続の祝福を十分に味わうことができる、味わっていきたいわけですよね。
心を注ぎ出して恐れることなく神様に叫び求める、喜びの叫び声をあげることができる。
イエス様のように、お父ちゃん助けてくださいと神様に心から助けを求めて祈ることができます。
私たちを祝福として与えられたこの聖霊の働きにより頼むということが非常に素晴らしいことなんですね。
そのことを本当によく味わっていっていただきたい、いきたいと思います。
そして神様を最善の父として信頼してこの地上の生涯を共に歩んでいけるお互いでやりたいと思います。
このイエス様のことをヘブル人の手紙がこのように表現しているんですね。
私たちの祈りの模範かもしれません。
ヘブル5章7節最後に読める方一緒に読んでみましょう。
キリストはから共に読んでみましょう。
キリストは肉体を持って生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、
大きな叫び声と涙を持って祈りと願いを捧げ、その経験のゆえに消えられました。
ヘブル5章7節
私たちがイエス様と共に神様をお父さん、助けてください、感謝しますと叫びまた祈れるその幸いを共に味わっていくお互いであり教会でありたいと思います。
お祈りしましょう。
天の神様、皆を賛美いたします。
あなたはイエス様をこの地に使わせてくださり、私たちを様々な呪いから解放してくださり、あなたのことをしてくださいました。
24:04
そして私たちの心の奥深くに巫女の御霊を使わせてくださり、あなたを親しく呼び求め、あなたに信頼して歩むその祝福を与えてくださっていることを感謝いたします。
それは知り尽くすことができません。知ったとしてもまた新しい立法が私たちを縛ることがあるかもしれません。
どうぞそのような人間的な悪しきしがらみから私たちを解放し続けてくださるイエス様の十字架の上がない御精霊の導きをどうぞ深く味わいながら喜びをもってあなたの身前にこの地を歩んでいくことができるようどうか導いてください。
あなたがくださった祝福をどうぞ存分に知ることができるように、精霊を私たちにさらに豊かに注いでください。
この感謝と願いを私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。
それでは一分ほど神様の恵みにお答えして祈る時間を持ちましょう。
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