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2025-04-06 40:54

「子どもたちのための祝福の祈り」2025年4月6日のメッセージ

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東京ぶどうの木教会 2025年4月6日(日)主日礼拝のメッセージです。
牧師:アブラハム黄 
▼教会へのお問い合わせ: tokyo.vine.church@gmail.com

▼メッセージの自動文字起こしはこちら https://listen.style/p/tokyovinechurch

(聖書)マルコ10:13‐16イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。14.しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。15.はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」16.そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。

メッセージ題 :子どもたちのための祝福の祈り (マルコ10:13-16)
*私の父は教育者であり、私も教育を担っている者として・・私が子供を良く育てたのか?疑問が
1)夫婦の間の子供教育に対する方針が嚙み合いませんでした。各々の成長の背景の違いで
2)子供教育をスペックを作ってあげることと思いました。子どもの才能を発見し育てるのではなく
3)外国に出ていたので、予測されなかった問題に上手く対応できなく・・・良くできませんでした
*子供は私たちの将来なのに・では一体、子供教育はどのようにすればいいでしょう?御心通り *マルコ10:14イエス様が憤り叱られたと・・・なぜ?イエス様はそれほど子供たちを愛されました

1.父母も子供たちを愛しています。
*親に対して子供の存在の意味は?―>では、どのように育てればいいでしょう?考えるべきこと?人々が持っている傷の5つの出処を通して・・・子供たちが通う学校での問題?そのような過程で受けた傷を癒すことが無ければ・・・それが子供たちの人生に影響を及ぼして?競走は始まったのですが最後まで走りぬく人は少ない。また神様から与えられた才能、使命に用いられる人は少ない。ですから・・信仰教育が大事です。この世でも教育制度があるが、神様の教育がもっと

2.聖書で神様は神の民に対する祝福の約束と・・・その為の条件をお話しされる。ここに教育の目標が
*申命記28章は「祝福と呪いの章」として・・・祝福の内容とここで教育の内容が・・・*祝福の内容!あらゆる国民にはるかにまさるものと。町にいても祝福、野にいても祝福される。敵を目の前で撃ち破られる。天を開いて恵みを与えられ、多くの国民に貸すようになり貸してもらうことはない。あなたを頭とし、尾とはされない。常に上に立ち、下になることはない。・・・*その条件?主の戒めを守り、その道に聞き従うならば! *ここには、神の誓いが。イザヤ55:11、マタイ5:18
*従ってユダヤ人は子供教育としてモセ5章を暗唱させると。この世の教育も大事が神の教育を

3.私たちの子供たちが、この世に仕えるキリスト者になる為には・・・
*5次元の教育の大事さ!=知力、心力、体力、人間関係、自己管理! 大事なのは、5つの中で一つ足りないことがあるなら・・・その足りないことによって、5つ全体が難しくなり、この世で用いられる存在になるのも難しくなる!では、各々の力をどのように育てればいいのか?21世紀が鬱の時代という意味は?*先週金曜とりなしの祈り会で紹介した決断の牧師?Ⅰコリント10:12
#危険な要素が沢山ある中で、どのように5次元要素を備えた人物を?
1)神様との関係性、真の礼拝者になる教育を。神様は命の源、その命は礼拝を通して流れる。出エジフト33:9,11、34:7イスラエル民は分からなかったモセの命の秘訣。 2)聖書の教育を。Ⅱテモテ3:15-17 3)聖霊の充満をうける教育を。イエス様に神様の7つの霊が?イザヤ11:2
その為に、マルコ10:16按手の祈り。@最後に、子供の為に親が良くやらなければ。詩編37:25。先祖アブラハムの故に、モセの故に、ダビデの故に・・・子孫たちが命と祝福を。親の祝福権を!

サマリー

このエピソードでは、子どもたちの教育と祝福の重要性が議論されています。特に、聖書に基づいて子どもを育てる意義や、親と子ども間の関係の複雑さが強調されています。2025年4月6日のメッセージでは、子どもたちに対する教育の重要性と、神の祝福を受けるための条件について語られています。また、子どもたちを世界のリーダーとして育てるための5次元的な学びの必要性も強調されています。このエピソードでは、子どもたちのための祝福の祈りと、親の信仰生活の重要性についても述べられています。モーセの祈りを通じて、親が神様に認められる存在であることが、子どもたちに祝福をもたらす鍵であると強調されています。

子ども祝福式の重要性
じゃあ今日は子どもの祝福式がありますので、子どもを祝福することの大事さということを一緒に考えていきたいと思います。
子ども祝福式、私はもう子どもが大好きで、本当に子どもをためにいつも祈って祝福の祈りをしているところですね。
今日は祝福の前に、子どもの大事さ、また子ども教育について少し見言葉を分かち合いたいと思います。
私の父は学校先生でした。教育者ということでしょう。 私は牧師だから牧師として教育するものでありますけど、
私が私の子どもたちをうまく育てたのか、これは疑問があります。 これはあまり自信がありません。
よくできたとは思いません。 なぜよくできなかったのか、私は昨日ずっと考えてみました。
まず、子ども教育に対する夫婦の考えがお互いに違った、異なったということです。
結婚する前に、これから私たち子どもたちをこのように育ちましょうということを話をするチャンスがあればよかったんですけど、
私はお見合い結婚なので、妻に出会って2ヶ月で結婚式を行いました。
ですから、そのような話をする余裕が全くなかったんですね。 なぜ妻と私の考えが違うのか、
2人の出世、まだ成長した環境が全く違ったからです。
私の父は厳しい教育者、また父は孔子、孟子のような宗教の教訓をいつも私たちに教えてくださいます。
厳しい家庭教育ということを強調しました。 父の話であるなら口答えが全くできなかったんですね。
父が言うなら無条件的な中尊しかありません。 また、しつけを強調して無知を使いました。
私は父が持っている考え通り生きるように教養されました。
また父が指示するすべてを従わなきゃいけません。 長男ですからもともと厳しかったです。
反面、妻は商売をする両親の下で非常に自由的な、また親格的な雰囲気の中で育ちました。
子どもたちがどんな勉強をやりたいのか、将来何になりたいのかは、各々子どもたちに任せられたような気がしました。
親はただ子どもたちがやりたいことをサポートする役割を熱心にやらされるスタイルでした。
ですから私は私の父がやったことが教育として一番正しいと思っているし、
妻は自分の両親がやったことが一番正しいと思っているから、私が考えることと妻の考えることが本当に違う、全く違うと言われていいでしょう。
ですから子どもの教育の話が出たらいつも戦いました。
お互いに自分の執著が強くて争いがたくさんあったと言いましょうか。
皆さん、妻が正しいですか、私が正しいですか。
ですからその中で争い、夫婦喧嘩、子どもの話が出たらいつも喧嘩につながる、このような難しいことがありました。
もう一つは、私は子ども教育ということを子どもの将来のためにスペックを作ってあげることと考えた。
親の教育方針の違い
子どもがあるある学校出身だという学校のタイトルを強調した。
いい学校に出れば幸せ、また人が良くなるんじゃないかと思いました。
今だったら子どもが何が大事なのか、子どもが持っている才能、賜物を私たちが発見して、
それがうまくできるように何か育ててあげる、またその関係のいろいろな親と共にするいろいろな体験、
またそのような教育があれば良かったなと思いますけど、
私たちはそのように合わせる子どもの内面性じゃなくて、
ただいい学校に出れば、ただ良くなる、出世する、成功するという本当に愚かな考えを持っていました。
そうしながら、大学に出たら子どもたちが立派にしてくれることを期待していました。
また、早めに海国に出てきたんですね。
韓国で子どもを育てることと全く違う環境で、違う文化の中で私たちは行ったものですから、
予測されなかった問題がありました。
そこにどう対応するべきかは私たちは全く分かりませんでした。
結果、子どもは幸せになってなかったんじゃないかと思います。
子どもたちからも非難を受けている立場ですから、申し訳ない気持ちがあります。
そうしながら私は、私たちの教会の子どもたちを祝福する、
また子どもたちのためにメッセージする立場でいること、本当に残念だと思います。
できるということは様々な問題、様々なトラブル、様々な苦難の中でそれを貫いてきたものですから、
そこに何かいい教訓があればと思って今日のメッセージを準備しました。
大事なのは、父の方針通り子どもを教育するか、妻の方針通り子どもを教育するか、それが大事ではなく、
聖書通り、神様の御言葉通り子どもを育てることができればと思います。
今日読んでくださった聖書の中で、丸子十三説、十四説、
イエスに触れていただくために人々が子どもたちを連れてきた。
弟子たちはこの人々を叱った。
なぜイエス様のところに子どもを連れてくるのを周りの方たちは叱ったと言いますか。
イエス様は何か働きをしているのに子どもたちが来たら邪魔になるんじゃないかと、そればっかり考えたんですね。
しかしイエスはこれを見て息通り弟子たちに言われた。
子どもたちは私のところに来させなさい。妨げではならない。
神の国はこのような者たちのものであると言います。
イエス様は謙遜でにゅうわな方だから、怒る方ではありません。
イエス様が聖書の中で怒られたということはなかなかありません。
しかし今日の場面でイエス様が子どもたちがイエス様に来るのを妨げた弟子たちに対してはイエス様が怒られたということです。
それほどイエス様は子どもたちを大切に思われ愛されたということです。
また神の国はこのような者たちのものであると言われるほど、
子どもたちから神の国に入りたいと思っているなら子どもたちから学べというメッセージをイエス様はくださっています。
神の祝福と教育
イエス様は子どもたちを非常に愛しておられます。
同じように親たち、父母も子どもたちを愛します。
父母に対しては子ども以上もっと大事な存在はいません。
父母は子どもがうまくできることをいつも願っています。
父母は自分自身より子どもがうまくなることを願っています。
子どものためだったら父母は何でもどんな苦労でもなさる覚悟ができているような気がします。
皆さん大人たちの対話をよく聞いてみますとほぼほとんど自分の子どもの自慢話をします。
お互いに何となく自分の子どもの話をしながら何となく話をします。
子どもがうまくできていなければ親たちの集まりで子どもがうまくできていない親は何にも話すことがないような状態になってしまいます。
ですから自分の子どもはうまくなること、うまくできることを願っています。
また親は子どもたちに全てを懸けているように見えます。
ところが子どもたちに本当に幸せ祝福になることは何でしょう。
親が子どもたちに何をしてあげればいいでしょう。
子どもたちに何でも何でもしてあげてしまうなら子どもたちが依存心がなって子どもたちがためになる場合もあるし、
また他の子どもに比べておろそかにしてしまうなら子どもたちに傷を与える場合があります。
もううまくやってあげても問題があるしうまくやってあげなくても問題がある。難しいです。
また子どもを育てる成長の過程で難関がたくさんあります。
皆さん、子どもの成長の過程で傷を受ける場面、5つの傷の手どころがあることを知っているんですね。
胎児の時の傷、成長期の傷、父からの傷、性的な傷、家計に流れる呪いによる傷。
このような傷は子どもたちは当たり前として与えてしまうものですから。
親はこの傷が子どもの将来に問題にならないように、このことをうまく面倒を見てくれることは非常に大事です。
この以外でも、子どもたちが格好で受けるいじめ、また格好暴力、これは本当に怖いと思います。
子どもたちが格好で受けるいじめということは、親が役割ができないので、子ども自分自身がそのいじめを耐えていかなきゃいけない。
これは子どもたちに対しては非常に難しいことです。
人生の過程でいろいろな大きな傷があるとか、いじめによって心が一回くじけてしまうなら、
この後子どもはこの傷をもって、痛みをもって成長しなきゃいけないので、
勉強にも進学にも、これからの社会生活にも、人生のすべての場面で影響を及ぼすようになります。
私たちの人生は、生まれてから、作ちゃんのように生まれたばかりから、人生の競争をし始めたと同じです。
始めはみんな意欲を持って始まるんですけど、最後まで完走できる人は、ごく一部の人だけです。
途中でいろいろな理由によって、倒れてしまう場合があるからです。
特に神様が与えてくださった才能、賜物をもって、神様がこの世に送ってくださった、この目的通りに用いられる人は、本当に少ないです。
なぜなら、みんな自分の狙う目標があるし、自分がやりたいことがあるから、
神様をくださった才能、また賜物をたっぷり持って、神様が願っていることに用いられるのではなくて、自分がやりたいことに全部走ってしまうからです。
ですから、大勢の子供たちが、赤ちゃんが生まれるんですけど、最後の時、神様に用いられ、神様が使ってくださる人は、どれほど少ないのか。
これを考える時に、神様の目的を知って、神様によく用いられ、これからの天国に向かって、いろいろな報いを積み上げていく、このような賢い人は本当に少ないかなと思います。
皆さん、私たちも今みんな傷を持っています。どこからいただいたか、いろいろ人生を過ごせば過ごすほど、たくさんの傷を持っている場面です。
その傷をどのように乗り越え、自分に与えた使命を発見し、神様にうまく用いられることができるか。
このために、教育、特に信仰教育ということは大事です。
世の中で立派な教育システムはたくさんありますけど、私たちは神様の教育を担っています。
この聖書、神の御言葉、これを通して神様は私たちに幸せになる道、神様に喜ばせる道、神様に用いられる道をいろいろなことで教えてくださっています。
ですから、聖書を学ぶこと、教えることは非常に大事です。
聖書は神様が神の民に祝福の約束と、またこの祝福をいただくために何をすればいいのか、条件を教えています。
ここで神様の教育の目標は確かです。
神明記28章は神様からの祝福と神様からの呪いが書かれています。
この祝福には必ずどうすれば祝福されるんだということがありますので、私たちは神明記28章だけ読んでも神様はこのような祝福を与えてくださる。
しかし私たちはこの前にこのようなことをしなきゃいけないことは確かにわかるので、聖書を教育するということは明確です。
その部分を少し読んでみたいと思います。
神明記28章1節からです。
もしあなたがあなたの神主の御声によく聞き従い、今日私が命じる今しみをことごとく忠実に守るならば、
これは教育するべき条件です。
あなたの神主はあなたを土地のあらゆる国民に遥かに勝ったものとしてください。
全世界のすべての人に遥かに勝ったものとしてくださると言います。
あなたがあなたの神主の御声に聞き従わならば、これからの祝福はすべてあなたに望み実現するであろう。
あなたは町にいても祝福され、野にいても祝福され、あなたはどこにいても祝福される。
神様はこの全世界に遥かに勝った祝福、どこにいても祝福されることを私たち約束しながら、神の御声に聞き従いなさい、条件をつけてください。
この祝福の内容とどうすれば祝福されるのかがここでもうよくわかりますね。
また続けて28章の7節から9節。
主はあなたに立ち向かう敵。
そうです。私たちが受ける祝福だけじゃなくて、私たちに対する敵が世の中にたくさんいます。
この敵を打ち破らない限り、私たちがいただく祝福はあり得ないでしょう。
ですから主はあなたに立ち向かう敵を目の前で打ち破られる。
敵は一つの道から攻めてくるが、あなたの前で破られて、七つの道に逃げ去る。
一つの道から来て、七つの道からみんな逃げ去ってしまう。
神の祝福と教育の目的
主はあなたのために、あなたのここからに対しても、あなたの手の働きをすべてに対して祝福を定められ、
あなたの神、主が与えられる土地であなたを祝福されると言います。
もしあなたがあなたの神、主のいましみを守り、その道に従って歩めば、この内容はすべてあなたの祝福になると言います。
ここでも私たちが受ける祝福とそのための条件が明確です。
ですからここで私たちは何を教育すればいいかがよくわかります。
新命経28章12節13節
めぐみの蔵である天を開いて
じゃあ皆さん、めぐみの蔵は神様から来ます。
めぐみの蔵である天を開いて、季節ごとにあなたの土地に雨を降らせ、あなたの手の業すべてを祝福される。
あなたはそれゆえ多くの国民に貸すようになるが、貸してもらうものにはならない。
貸すものになる、貸してもらうこと、皆さん、人々から貸してもらう立場になるのは神様が喜ばない。
貸すもの、貸すものになることは神様が願っております。
これも神様の希望は明確です。
私が今日、忠実に守るように命じるあなたの神、主の今しめにあなたが聞き従うならば、
貸す人になるし、貸してもらう人にはならないということです。
また、神様はあなたを頭とし、決して尾とはされない。
あなたは常に上に立ち、決して下になることはない。
神の願いはあなたは頭になること、尾になることではない。
あなたは常に上にあり、下にあるものではない。
神様の計画は明確です。
私、よく分かります。
上にあり、世界のすべての人に勝るものになる。
どこにいても祝福される。
あなたの敵が来たら、あなたから巻かれて、七つの道からシャーッと消えてしまう。
あなたはどこにいても祝福される。
神様の希望、願いはこれなんです。
これ約束されています。
どうすれば?
私の声を聞き従えば、ということです。
もう簡単じゃありませんか?
やりましょう。
また、神様はこの御言葉に対して、自ら誓いを立てます。
イザヤ55章中1節
そのように、私の口から出る私の言葉も、むなしくは私のもとに戻らない。
それは私の望むことを成し遂げ、私が与える使命を必ず果たすと言います。
神様が語られたのにできなかったことは、神様の名誉に関わっている。
神様が語ったことは必ず成し遂げられる。
だから、私が言ったのは必ず実現すると言われる神様のこの誓い。
だから、神様が言われた御言葉よりもっと確かなものはありません。
ですから、ユダヤ人たちは子供の時に、生まれてから子供の時に
もうせ御書を暗唱するほどに読ませる、教育させることです。
この世の中の勉強、良いシステムもたくさんあります。
この世の中の勉強は、この世に生きている時に必要なんですけど、
神様の教育は、この世だけではなく、これからの永遠の世に
私たちを祝福される道ですから、私たちは神の教育をうまく担っていきたいと思います。
私は実は過去で機械工学を勉強しました。
機械工学を4年と大学院で2年、6年を勉強して、何年使ったのか、会社で15年間使いました。
これからは関係ありませんでした。
これから進学の学びを3年にありました。
それから私はこの進学の学びをもって、今20何年間牧師をやっているところであります。
本当に大事なことは何なのか、以前私が学んだ機械工学を今何で使っているのかを見たら、
あまりよく使っていないことを考える時に、本当に本当に私に大事なことは何なのか、もう一度考えるようになります。
神様の教育、神様に対する信仰の教育の大事さ、それをぜひ皆さん覚えていただければと思います。
神様の願いは、世の中のあらゆる国民の上に遥かに勝ったものになることです。
上にあること、下になることではない。頭になること、尾になることではない。
神様の希望はこうです。
ですから私たちが子どもたちに教育させる時には、いつも世界のリーダーになる教育をいつも覚えながら教育させる必要があります。
5次元教育の重要性
じゃあこれからどうすれば子どもたちを世界のリーダー、全ての国民の上に遥かに勝ったものとしてくださる。
あなたは頭になり尾になることではない。
常に上にあり下になるものではないと言われた神様の夢、それに合わせて私たちは子どもたちを教育するためにはどうすればいいのか。
これを教育になっていく教会と私たちみんな親が考えなければなりません。
そのために今日は、いつも申し上げることですけど、私は子どもたちの基本的なこと、それを5次元的な学びを皆さんに紹介しています。
これは何かと言いますと、子どもたちにただ勉強だけ上手くできる子どもを育てるのはあまり良くない。
5次元ということは、知力、もっともっと頭を引いて、心力、心、体力、自己管理、人間関係がうまくできるその能力を持たせることが大事。
そのために子どもたちをよく観察し、子どもたちが何が足りないのか、どっちが今強いし何が弱いのか、
それをよくよく観て、親はそれをうまくできるような助け、役割をしなければなりません。
皆さん、知力はどこで学びますか? もう学校でも塾でもいろいろなところで学ぶことができるでしょう。
心力はどこで学びますか? 心力、心。
これ非常に大事ですけど、心力を強くするために何かやってますか?
また体力、体力大事でしょう。 また自己管理能力、
また人間関係の能力、 すごく大事ですけど、
これはどこから学ぶのではなくて、お前が自ら勉強しなさい。 それを私はこう言ってるんじゃないかと思います。
もし5次元教育の大事さは、この中で5つが全部揃っている人はバランスよくリーダーになります。
しかし、この中で1つが弱ければ、弱い1つによって結局ためになってしまおうということを言っていることです。
知力もいいし、頭もいいです。体力もあります。 しかし、心力がいなければどうなりますか?
皆さん、21世紀は宇宙の時代と言います。 たくさんの人は精神科の薬に頼っている人がたくさんいます。
宇宙になっていくなら、何を言っても自信感がありません。
何がやろうとしても、たきなさそうな気がします。 だから、
知恵があっても、力があっても、 人は自分の能力をうまく発揮できるか、なかなか難しいです。
身体は立派ですけど、何かうまくできない。
心力。
また、他のことは全部いいんですけど、体力がなければ他の部分をうまく生かすことはできないでしょう。
自己管理ができなければ、これはうまくできたとしても、結局ダメになります。
ですから私たちは、ただ勉強だけうまくできる子どもとして育てることは問題があるのではないかと思います。
各部分がうまく成長していく子どもと育てることは大事です。
先週金曜日、私はアメリカのある先生が、イエス様を買うために自分をすべて売り払って、イエス様に買ったと言いました。
そこでシカゴで一番大きい教会の先生になりましたという話までしました。
しかし、最近聞いたニュースでは、その先生が女性のスケンダルがあって、
非常に今は大変困っている状態だと聞いています。
成功した人の最後の時に問題が来ます。落とし穴があります。
この先生の場合は女性の問題ですね。
立派にコアンを作っているんですけど、最後に肺をまいているような、
誰も食べられないような状態。
聖書にあります、立っていると思う者は倒れないように気をつけなさい。
だから、いつどこまで私たちが油断してはいけないのか、
どこまで自分自身をよく管理していかなきゃいけないのか、
終わりまで自分自己管理の能力があるのか。
そうです。人間関係が良くて、世の中で立派な先生でした。
しかし、自己管理能力を少し油断してしまったところで、
結局その先生も、みんなからスケンダル、スケンダルと言いながら、
やれる人になってしまったなと思う。
私はこのような問題を定義しながら、
どうすれば5次元的に準備できた神の人として子どもたちを育てることができるか、
今日簡単に3つだけを皆さんにお願いしたいと思います。
神との関係と御言葉の教え
何より、神様との関係性を、
子どもの時からよく助けていかなければなりません。
言葉を変えれば、まことの礼拝者になるように育てていきましょう。
目標は、親がいなくても、自分が神様を求め、
神様と良い関係性を持ち続ける人にしましょう。
なぜこれが大事なのか。
神は命です。
神の命は全てを生かす命です。
この命はどこを通して流れるのか。
礼拝を通して流れます。
礼拝を通して豊かな神の命が私たちに与えてられます。
皆さん、モーセは神に手を当てて、神の律法をイスラエル人たちに伝えた人です。
神様は神の代わりに、全てのイスラエル人たちをスチュエイジプトからカナンまで導いた人でした。
モーセの素晴らしさは、立派な働きができたことではありません。
モーセと神様との関係性にあります。
イスラエル人は200万人がわからなかった、神様とモーセとの間の関係性がありました。
スチュエイジプト33章ではそれを教えてくださいます。
イスラエル人たちが堕落したとき、モーセがイスラエル陣営から遠く離れているところでテントを張ります。
幕屋と言います。
この幕屋に行くときに、クムの柱が下ってきました。
そのテントの中で、神様はモーセと友と友が出会ってお話しするように、神様がモーセとお話をしてくださったんです。
モーセが幕屋から離れるときは、クムの柱は消えてしまった。
モーセには何があったんですか。
神様との出会いがありました。
それを通して、モーセに神様の豊かな命が煽りました。
イスラエル人は200万人を誰も味わったことがない神の命がモーセにありました。
結局、モーセはどうだったんですか。
モーセの最後の姿を聖書はわざわざ書いてあります。
神明記34章の7節。
モーセは死んだとき120歳であった。
そのときモーセは目はかすまず、活力も失せてはいなかった。
皆さん、今私の状態は何をしたら目眩をするような気がします。
ふらふらします。
倒れたりします。
弱くなります。
記憶もなかなかありません。
今7章なのに、モーセは80から働いたから働いてもしてなかったのに、私はこのような状態です。
私はどうすれば、神の命によってモーセのように目がキラッとして、頭が立派に働くことができるでしょうか。
礼拝です。
神との手拝です。
イスラエル人は誰も味わったことがない神の命をモーセは荒野でじゅうたかに味わっていました。
私たちは子どもたちが、ぜひともこの神様の命を味わう子になってほしい。
ぜひともぜひと。
2番目、神様の御言葉を教えなければなりません。
パウルは手もてにこう言います。
第二手もて三章中五節から。
また、自分が幼い日から聖書を親しんできたことを知っている。
手もては、お母さんとおばあさんがクリスチャンでした。
だから、お母さん、おばあさんのおかげで、手もては幼い時から聖書を親しんでいた。
そうしながら、十六節。
聖書はすべて神の霊の導きのもとで書かれ、人を教え、いましめ、誤りを正し、気に導く訓練をするように有益です。
こうして神に使える人は、どのような良い技をも行うことができるように、十分に整えられます。
神の御言葉が十分に整えてくださいます。
だから、子どもたちに幼い時から御言葉を、聖書を親しくやるように。
祝福の祈りの意義
だったら、御言葉が子どもを神様が使うことができる人として、救ってくれます。御言葉。
もう一つは、聖霊十万の力です。
イエス様の上には、七十の聖霊の働きがあります。
これが、イザヤ十一章二節。
その上に、主の霊がとどまる、知恵と識別の霊、知ると勇気の霊、主を知り、恐れ、敬う霊。
イエス様は、七つの聖霊の十万の力が働いて、イエス様は人間と同じ条件だったんですけど、立派な働きができました。
イエス様の働きは、聖霊の十万の働きです。
ですから、私たちも子どもたちが、聖霊十万できるように助けていかなければなりません。
では、子どもたちはどうすれば、聖霊十万になりますか?
聖霊十万の方法はいろいろありますけど、今日一つ、マルコ十章十六節にあります。
そして、子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福された。
聖霊十万の一つの方法は、哀愁です。哀愁。
霊力の上の人が祈った時に、上の霊力の力が子どもたちに流れていきます。
今日、私たちはそれをやっていきたいと思います。
最後に加えてあげたいことは、子どもたちのために一番大事なことは、親がよくやらなければならない。
支援の三十七の二十五節に、若い時も年老いた今も、私は見たことがない。
主に従う人が見捨てられるか、子孫たちがパンを焼くことを見たことがない。
大事なのは、主によく従っていく人、他の聖書では義人という言葉に書いてあるんですけど、
神様に正しい道を歩む人にはどんな祝福があるのか、自分も良くなるし、子孫たちが良くなる。
子孫たちが救われるだけではなく、子孫たちが繁栄していく道、何でしょう。
親が神様と立派な関係の中で、うまく信仰生活することです。
皆さん、アブラウムの取り成しのりによって、ロッドの家族が救われました。
モーセの取り成しのりによって、イスラエル人たちが救われました。
アブラウムによってイスクが祝福され、アブラウムによってヤクプが祝福され、
ダビデによってソロモンが祝福され、ダビデによってユダ侮辱が祝福されることを見たときに、
私たちが子どもたちのために、よく信仰生活を持っていくことが大事ではないかと思います。
私はたびたびモーセが祈ったことを覚えています。
モーセがイスラエル人たちに対して神様の怒りがもう爆発するところでありました。
そのときモーセが神様にイスラエル人に対してこう言います。
主よ、私を命の主よから名前を消してください。
代わりにイスラエル人たちを生かしてください。
モーセはその祈りを通して神様が、わかった、わかった。
あなたの祈りによってイスラエル人たちを救ってあげると神様が約束しましたけど、
皆さん、この祈りは誰ができる祈りですか。
もし私が、神様、私を命の主よから名前を消してください。
代わりに私の子どもを天国に行かせてください。
もしことを言ったときに神様が、お前も地獄に行くくせに、命の主よからお前名前ないよ。
名前がないくせに、自分の名前を消してください。
こんな資格がないんです。
天国に入る、本当に神様が喜ぶ存在が、私の名前を消してください。
代わりに私の子どもを天国に入れてくださいと言ったら、神様が、わかった、わかったと言われますけど、
自分も地獄に行くくせに、子どもを天国に行かせてください。
祈りはもうこれはダメなんです。
親が神様が認められる、神様を喜ばれる存在になること、それがまず大前提です。
そして子どもたちのために祈るなら、神様が親のゆえに子どもたちに祝福してくださるんだということを考えながら、
私たちは自分からまず、信仰生活をしっかりしていきましょう。
今日はイエス様がそうなさったように、私たちの子どものために祝福の祈りをしていきたいと思います。
神様は教会と親たちには、子どもに対する祝福権を与えてくださいました。
私たちはこの子ども祝福権を今日使っていきましょう。
お祈り出します。
主よ、
今日私たちはイエス様がなさったように、愛する私たちの子どもたちを抱いて、安心の祈りをしていきたいと思います。
私たち子どもたちに聖霊の十万を与えてください。
知恵と識別の霊、修了と勇気の霊、死を知り恐れ敬う霊を豊かに与えてください。
そして子どもたちに知力、心力、体力、自己管理、人間関係に優れた賜物を与えてください。
イエス様の皆を通してお祈り出します。
アーメン、アーメン。
40:54

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