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2025-04-13 36:37

「ゲッセマネの祈りと自分の十字架」2025年4月13日のメッセージ

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東京ぶどうの木教会 2025年4月13日(日)主日礼拝のメッセージです。
牧師:アブラハム黄 
▼教会へのお問い合わせ: tokyo.vine.church@gmail.com

▼メッセージの自動文字起こしはこちら https://listen.style/p/tokyovinechurch

(聖書)マルコ14:27-37イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』/と書いてあるからだ。28.しかし、わたしは复活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」29.するとペトロが、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言った。30.イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」31.ペトロは力を込めて言い張った。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」皆の者も同じように言った。32.一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。33.そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、34.彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」35.少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、36.こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」37.それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。

メッセージ題 :ゲッセマネの祈りと自分の十字架 (マルコ14:27-37)
*今週は2025年の受難週です。今週木曜と金曜日、イエス様は苦難を受けられ十字架で亡くなられました。なぜ十字架?なぜ血を流さなければ?ヘブライ9:22その働きが2千年前、今週・・・
*十字架の刑罰、どれほど怖い刑罰ですか?私たちと同じ条件であられたイエス様も怖かったです。どのように克服されたのか?お祈り。イエス様はどう祈られたか。マルコ14章を読みながら

1.先ず、私たちが知るべきこと?私たちは弱い存在です。
*マルコ14:27これから行われることについて、14:27皆が散される?寂しい!イエス様は人間的ではなく、御言葉の成就として見られた。―>反発するペトロに対してイエス様は?31節を!*躓く弟子たちにイエス様のメッセージ?私は諦めない、必ず回復させる。終わりの時の試練に

2.弱い私たちを強めてくださるのは?お祈りです!
*3人の弟子をつれてゲッセマネの園に・そこでイエス様は御自身の本音を、33-34節、イエス様のこのような姿を見たことがありますか?これで私たちは、ヘブライ4:15,16を信じる。*このときイエス様は?35節、地面にひれ伏し祈られた。もし祈らないで否定的考えに飲み込まれると
#では、どう祈るべきなのか?イエス様の正しい祈りの方法を!
1)先ず、自分の正直な姿で・・・悩みを訴えなければ。子供のような真実さが大事。この杯を私から取りのけて下さい!
2)しかし、祈りは自分を捨て神の御旨に従うこと。イエス様は御自身の願いを訴えながら、それを超える神様の御旨を見られた。なぜこの世に来たのか、人類の救いの為ではなかったか。ここで偉大な自己否認の祈りが。私の願うことではなく、御心が行われますように。神の偉大な計画を知ったときは
3)ですから祈りは戦い。自分を下ろすこと、決断が難しいから祈りが難しい。イエス様は3度の祈り、身もだえを通して、ついに御心を受け入れ決断された。自分の願いだけ訴えて終わるなら?
*私たちは最後まで祈らなければいけないのに、祈りの最後はどのように判断できるのか?ピリッポ4:6,7平安が来るまで・・・ #イエス様が祈られるとき、弟子たちは?眠っていました。ストレス?根拠もない自身感?→ついに予言された危機の瞬間が。イスカリオテユダは、弟子たちは、しかしイエス様は?普段は祈るか祈らないか違いはない、しかし試練と危機の時になると?

3.ところが感謝したいのは・・・私たちより遥かに大きいのが神の恵みです。
*ゲッセマネ園で逮捕されたイエス様、大祭司長の家に、遠く離れてついて行ったペトロ。女中の尋問に3度もイエス様を知らないと否定するペトロ。鶏の鳴き声に、崩れ落ちたペトロの心!
*この記事が大事な理由?マルコ福音書の記録時期のキリスト者の状態、ローマの迫害の中で、指導者ペトロも3度も否定したのに、イエス様が訪ねて来られ回復させ指導者と使ってくださるなら私も?失敗したキリスト者たちに大きな慰めと希望を与えて下さったはず。@イエス様と弟子たちの対照的な姿の理由?祈りです。祈りを通して神様が働かれるから。私たちもゲッセマネ祈りを。

サマリー

このエピソードでは、ゲッセマネの祈りを通してイエス・キリストが感じた苦悩や、自分の十字架を背負う勇気に焦点を当てている。聖金曜日を迎える前のこの時期に、イエスの心の痛みや弟子たちの弱さを振り返り、神の恵みを求める重要性が語られている。また、祈りの重要性や自己を捨てる決断の難しさについても考察されている。弟子たちがイエスの不安を理解できずに眠っていた状況や、祈りによる心の準備の必要性についても触れられている。さらに、信仰の危機における弟子たちの葛藤や希望が話されており、ペテロの裏切りを例に挙げながら許しと回復のメッセージが強調されている。

イエスの苦悩と十字架
今日は、ゲッセマネの祈りと自分の十字架という対応をもって、メッセージを分かち合いたいと思います。
今週は2025年度の受難週です。 特に今週金曜日は、聖金曜日と言われます。
2000年前の今週、イエス様は苦難を受けられ、十字架にかけられて亡くなりました。
じゃあ、なぜイエス様が十字架にかけられて亡くなられたんですか?
イエス様の贖いの父親によって、全人類を救うためでした。
では、なぜ血を流さなきゃいけませんか?
神様の立法でヘブライ書9章22節、
血を流すことなしには罪の許しはありえないと書いてあるからです。
それは決まっているからです。
ですから、イエス様は全人類を救うために十字架を背負って、
2000年前の今週、その働きをなさったのですが、
皆さん、十字架にかけられることは、どれほど怖い刑罰でしょうか?
イエス様は私たちと全く同じ人間の姿で来られたので、イエス様も怖かったのです。
その恐れをどのように乗り越えて、十字架を背負うことができたのか、
それがお祈りということです。
イエス様も祈られ、弟子たちにも祈ってくれと頼まれました。
それにもかかわらず、祈らなかった弟子たちはどうなったのか、
特に今日イエス様はゲッセマネの祈り、有名な祈りをされたのですが、
その祈りから私たちが学ぶべきことは何なのか、
それを一緒に考えていきたいと思います。
弟子たちの弱さ
今週皆さんにお願いしたいのは、マルコ14章と中古章をずっと読んでいただきたい。
それを通してイエス様を考えていただきたいと思います。
今日のメッセージは、マルコ14章を一緒に読みながら、
当時の事件を振り返ってみたいと思います。
ここで私たちがまず考えるべきことは、私たちは弱い存在だということです。
マルコ14章27節に、イエス様がこれから行われることについて弟子たちに予言をします。
衝撃的な予言をされます。
あなた方はみんな私につまずくと言いました。
そしてみんな私を捨てて逃げ去ると言います。
皆さん3年間イエス様と共にした弟子たち。
本当に家族以上に親しかったイエス様と弟子たち。
しかし弟子たちがイエス様を捨てて逃げてしまう。
これを考えると本当に辛いですね。
しかしイエス様はこの弟子たちの働き、逃げてしまう。
これが人間的に悪い。
こんなことができるのは人間的に考えませんでした。
イエス様はいつも聖書を持って考えました。
聖書に記録されている通り、弟子たちはこの時期に離れるんだということをイエス様は考えたことを皆さん考えてください。
いつも私たちは人間的に考えれば人間が嫌になってしまいます。
しかし聖書から聖書的に考えたら人が嫌になるんじゃなくて、
神様、神の見守りは何ですか?
神様に聞くようになるでしょう。
これが大事です。
しかし何にもわかっていないペトロ、イエス様に反発します。
29節に、たとえみんながつまずいても私はつまずきません。
自信満々なペトロに対してイエス様はこう言われます。
30節です。
はっきり言っておくが、あなたは今日、今夜、鶏が二度鳴く前に三度私のことを知らないと言うだろうと言いました。
その話を聞いてペトロは、私を認めてくれないんですかと言いながら、自分の主張を言い張りながらこう言います。
たとえご一生で死なねばならないと言っても、あなたのことを知らないとなど決して申しませんと言います。
本当に素晴らしいですね。
みなさん、このような、これはペトロだけじゃなくて、他の人もみんな同じ話を口にそろってこの話をしたと言います。
みなさん、このような弟子たちの決断、これが嘘だと言いますか。
そうではありません。
彼らは真心にこう言ったんです。
ペトロは本当にイエス様を愛していたんです。
しかし問題は、自分たちがどれほど弱い存在かということを知らなかったということです。
後ほど彼らはみんなイエス様を捨てて逃げ去るんですけど、イエス様は知っているんだけど弟子たちは絶対そんなことがない。
自分自身がどれほど弱い存在で、後ほど何があって自分たちがみんな逃げてしまうことを自分自身は知らなかったということです。
しかしイエス様がこう言われるのは、あなたたちはつまずいて散らさっていくでしょう。
しかし私はあなたをあきらめない。
どんなことがあってもあなたたちを見つけて全部回復していくだ。
私はそうするからということをイエス様が言われたと考えていただければと思います。
みなさん、最後の時、迫害があると言っています。
祈りの重要性
また最後の時は大自然にもう想像できない異変が起こると言っています。
この時に大異変が起こるし、キリスト者たちに何とかわからない怖い迫害が来るとしたら、
私たちが担うことができるんでしょうか。それを耐えることができるんでしょうか。
ここで私たちが自分の弱さを認めるくらい、私たちは主に祈るでしょう。
主の恵みを求めるでしょう。これが大事です。これから世の中は怖くなります。
もう韓国、私は北朝鮮に食われるんじゃないかと、中国に食われるんじゃないかと思われるほど危ないんです。
多分そうなる可能性もあります。
たとえば韓国、キリスト教、教会、大丈夫でしょうか。
ああ難しいですね。自分の弱さを認めるなら神に求めるでしょう。そうするなら恵みが守ってくださるでしょう。
認めなければ自分が何とかできると思って、そこで頑張るなら多分もうひどい目に遭うでしょう。
だから最後になればなるほど私自身の弱さ、私たちはどれほど弱い存在なのか認めていきましょう。
そして求めましょう。それで主の恵みだけが私たちの力、主が私の全てだということを認めていきましょう。
それしかこれからの道がないということをぜひ覚えておきましょう。
弱い私たちを強くしてくださることがお祈りなんです。
皆さんお祈り。イエス様はペトロ、ヤコブ、ヨアネ3人だけを連れてゲッセマネの園に行かれました。
そこで12年の中で9人は残しておいて隣に残しておいて3人を連れて行かれるんですけど
この3人にイエス様はご自分の本音を示してくださいました。33節34節です。
イエスはひどく恐れてもだえ始め彼らに言われた。私は死ぬばかりに悲しい。
皆さんこれはイエス様から出た言葉です。私は死ぬばかりに悲しい。死ぬほど怖い。
ですからここを離れず目を覚ましていなさい。私のために祈ってくださいと言います。
皆さん今までイエス様のこのような姿を見たことありますか?ありません。
イエス様こんな今結成マネの園でこれから行われる十字架の経緯
これを考えると死ぬほど苦しい。死ぬほど悲しい。このイエス様の気持ち。
これを見ていますと私たちはヘブナイ書4章15節これを認めるしかありません。
この大祭司は私たちの弱さを同情できない方ではなく罪を犯さなかったがあらゆる点において私たちと同様に試練にあわれた。
そうですイエス様は私たちと同じような試練にあわれた。それを考える時イエス様は私たちの弱さをわかっておられる。
今私たちがどこがどのように痛いしそれを通してイエス様はどんな状況になるかイエス様は全て担ってみたんです。
わかっておられます。だから私たちはイエス様の身の前に恵みの者に
慈悲にかなって助けてくださるイエス様の恵みを求めて この恵みの者に進み出るべきではないですかとヘブナイ書は言っています。
じゃあここでイエス様が死ぬほど苦しい その時にイエス様は何をされたのか
35節見ますと少し進んでいって地面にひれ伏して祈られた じゃあ皆さんこの場面で
私たちは大抵私は何もできない私は問題が多い いろいろな危機に直面するなら
私たちは何をやりやすいかと言いますと自己憐憫に陥りやすい まあだから私は何もできないのも悲しい悲しい
悲しみのゆえに自分自身が自己憐憫に陥ってしまったら 皆さん否定的な考え絶望的な考えをやったら
サタンに飲み込まれてしまいます サタンに飲み込まれてしまいます
ですから私たちは自分の弱さを見るんじゃなくて 主を見る
祈りを進んでいかなければならない 自分の弱さを見て私は何もできない人間だからと言ってしまえば
その道はどこですか だったら私は何をすればいいのか
死ぬしか何もないんじゃないかと 絶望的になってサタンに食われてしまいます
絶対自分を見て弱さを 弱ったやつは元々弱いもんだから自分も考えずに私の救い主イエスキリスト
私の助け主聖霊様がおられるから 私が一番愛される父なる神様がおられるから
三位一体の神様を信じて弱さに陥らないで そこで主を見て勝つ道に行く
これが初めの霊的な方法 弱さを見て涙を流して落ち込んでしまえばサタンに食われてしまう
絶対そうしたらいけません 負けてはもう終わりです
負けてサタンに食われてしまったら どうすればいいんでしょう
そこで負けないように そのために私たちは祈りに進み出ていかなきゃ
ではどのように祈るべきですか イエス様は正しい祈りの方を教えてください
じゃあ三つです 皆さんぜひ覚えてください
祈りの初めは私たちの素直で主の見舞いに出ること
ありのままの姿 私たちのありのままの姿
ではイエス様は初めに何と祈るんですか アッパ父よ
あなたは何でもお出来になります この杯を私から取り除けてください
イエス様がアッパ父よと言いました イエス様は天に増します我らの父よとか
なんとかいろいろな格式をつける こんなことをやりませんでした
皆さん赤ちゃんが今何か必要な時にもうただ泣くでしょう 叫ぶでしょう
そうです祈りは泣くことであり叫ぶことであります イエス様はそうなさいました
アッパ父よ そして
自分の素直な心で私は十字架が怖いです この十字架を私から取り除けてください
あなたは何でもできるんじゃないませんか 私を助けてください
と言われました 祈る時に一番初めにやるべきことは
正直な心になることです 真実の真心で主の前に出ることです
祈る姿だけ見せる何か形式的に何とか祈るふりにする
全く神様を認めません まず大事なのは真面目な心で主の前に出る
自分の正直な心を主に打ち明ける これです
これが祈りの初めの段階で一番大事なこと 飾りいりません形容詞で何とかしゃべるのはいりません
ただただ正直な心で アッパ父よ
2番目 しかし祈りは
自分の願いではなく 神の御心に従うこと
36節下の文 しかし私が願うことではなく 御心にかなうことが行われますように
イエス様はご自分の願いを主に打ち明ける この段階に留まるんじゃなくて
この次のステップに行きました 次のステップは私の願いもあるけど
神様がなぜこのような場面を作られたのか 許してくださったのか
絶対悪いことをくださらないはずの神様が なぜこんな場面を私に与えてくださったのか
あなたの身をね これを見てたんです
イエス様が何のためにこの世に来られたんですか
天国で神様の者を下ろしておいて なぜこの世に来られたんですか
イエスの祈りと自己放棄
私たち人類を罪からサタンンから地獄から 救うためではありませんでしたか
その神様の御心を考えた
その時イエス様はこの自分を捨てる 自分を下ろしておく
その偉大なお祈りができたんです
しかし私の願うことではなく 御心の叶うことができますように
この祈りを持ちながらイエス様は
神様がこれから導かれる 苦難の十字架を心から受け入れたんです
皆さん 私たちの祈りはどうですか
大抵私たちの祈りは 神様は私の願いを聞いてください
私の願いを叶えてください
これで終わる場面が多いでしょう
それでもいいです
しかし大事なのは そこに留まってはいけません
もう一ステップ進んで 私の願うことだけではなく
主が私を通して今何をされようとするのか
主のお願いを見ることができればと
また主の願いが見えたら 自分を下ろして
大胆に主に従っていく このような決断が大事なんです
ですから祈りは戦い 戦い
自分を下ろしておく戦い
また決断する戦い
自分を下ろす 自我を下ろすことは 世の中で一番難しい
私がいくら頑張ってもできないのが 私の自我ということです
また決断が難しいから 祈りが難しいんです
この下ろすことを決断するために
イエス様は同じ祈りを 39節から41節見ていますと
2度3度行われたことがわかります
イエス様も見下ろしながら
イエス様も自分を下ろし 主に従う
そのまた決断するために
3度も3度も祈られた
ついにイエス様は自分を下ろして
神様の御胸を受け入れ
決断します 従いますとなさいました
皆さん 自分の願いだけ主に申し上げて
祈りが終わるとしたら 祈りは難しいことではありません
祈りが難しいのは 自分の願いだけじゃなくて
主の御心を知るときに 自分の願いを下ろして
主の御心に従います という決断をすることだから
難しいんです だからここに
祈りの戦い
祈りは戦いだよ 祈りは争いだよ ということがあります
ですからここで祈りながら
途中で辞める人がたくさん現れます
だから神様からの応答もわからないし
祈りの深い正解もわからないし
神様の答えを見ることができなくなります
ぜひ私たちは 自分の願いを祈ることはいいですよ
しかし主の願いは何ですかと聞いて
そこに自分の心を合わせる 従う 決断する
そこまで出ていかなきゃいけない そのために戦い 争い
だからヤコブがヤポッコ川で
神様の手を見つかると 争いをする場面があるんですね
その場面を覚えながら 主よ 主よ 私の願いではなく
あなたの願い通りになりますように
切に切に祈って
それでイエス様はそこに勝利されました
私たちは最後まで祈らなきゃいけないんですけど
最後まで祈るってどんな意味ですか
答えが来るまで 違いますよ
答えが来るまでじゃなくて
祈りながら心に平安が来る時があります
そこまで祈ることです
フィリップ4章6節なら
どんなことでも思い患いはやめなさい
何事につけ感謝を込めて 祈りと願いと捧げ
求めているものを神に打ち明けなさい
そうすればあらゆる人事を超える 神の平和が
あなた方の心と考えと キリストをイエスによって守るでしょう
神の平和 神様の平安
これが来るまで祈るべきです
そのようにしてイエス様は 祈りに勝利されました
イエス様はこのように祈る間 弟子たちは何をしていたんですか
眠っていました
実は弟子たちはイエス様の話を聞いて ストレスを受けて
イエス様が死ぬほど怖い
イエス様は今までと全然違うんじゃないか
イエス様はこのような不安に 怯えていることを見たことがない
だからそのことを見たら 自分たちも怖くなったでしょう
ストレスをたっぷりいただきました
しかし自分たちは 私は絶対につまずかない
私は絶対にイエス様を否定はしない
私はイエス様はなぜそんなことをするんだろうと言いながら
自分たちは祈りなさいと言った時に 自分たちは眠ってしまいました
イエス様さえも 自分の弱さを認めて祈っているのに
弟子たちは何を信じて眠っていたんでしょう
イエス様が予言された通り
弟子たちに危機が迫ってきました
イエス様と弟子たちが話をしている間に
最初たちが送った兵士たちが イスカリティユーダーを前に立たせてきました
ここでイスカリティユーダーが何と言うんですか
44節
私が切分するのがその人だ
捕まえて逃がさないように連れて行け
こんな話をイスカリティユーダーがこう言います
逃がさないように連れて行けよと言います
そして親しみの表現である口づけを通してイエスを裏切ります
本当に憎らしい卑劣な奴ですね
他の弟子たちはどうしたんですか
他の弟子は慌てて感情的に剣を持って
それで人を殺そうとしました
いざイエス様が逮捕された時には弟子たちはみんな逃げてしまった
マルコは裸の状態で逃げてしまった
しかしイエス様はどうされたんですか
イエス様は時が来たと思われ逮捕に応じられました
その後イエス様は心でためらうとか
もういろいろつまずくということは一切ありません
悩みもありませんでした
なぜ同じ状況の中でイエス様と弟子たちの反応がこんなに違うのでしょうか
理由は簡単です
イエス様は祈られたんですけど弟子たちは祈らなかった
イエス様はコルゴーダに行く前に
決戦真似ですでに祈りを通して勝ってました
しかし弟子たちは眠ってしまいました
私たちは今祈るのか祈らないのか
普段は何にも差がありません
皆さんの祈りの時間を決めて
神様とずっと祈る人と全く祈らない人と普段は同じでしょう
全く同じで問題ありません
しかし思いをかけない試練と苦難が襲ってくると
天と地のような差が現れます
祈らなかった人は慌てます
そして自分勝手に何か過ちも起こります
なぜ心で準備ができていないからです
どうしようか分からなくて本能的にやってしまいます
しかし祈った人は衝突的な反応を見せません
落ち着いて正しく行動します
なぜなら準備ができているからです
このようなことが来ると分かっていたからです
来る者が来た私はこうするぞということで
落ち着いて静かに働きます
ペテロの裏切り
皆さんいつ何が襲ってくるか分からない
人生の危機の時を備えるために
私たちがやるべきことは
武器 実力ではありません
お祈りなんです
結局これからはお祈りによって
迫ってくる危機を準備していた人なのか
準備していない人なのかが分けられるようになるでしょう
もう分かります
危機が来れば慌ててどうしようかという人と
来ることは分かっているよと
来た時には静かに落ち着いて
それでやるべきことを
ちゃっちゃっとやる人と別れる
私たちはよく準備ができればと思います
しかしここで感謝したいことがあります
先週私は教会学校のメッセージで
いろいろ学んだことがあります
最後のメッセージの最後が大事だということですね
感謝したいのは
私たちの弱さよりはるかに大きいのが
神様の恵みです
結成前にソロで対応されたイエス様は
大祭司の家まで連れて行かれました
宗教使徒たちに尋問されました
彼らはもう結果は決めておいた
イエスを殺そう 死刑にさせようと決めていたんです
そこに合わせるために
一割の証言をいろいろやったんですけど
そのようなことが何にも根拠がありませんでした
そこでイエス様はご自分を弁護すればいいのに
弁護されないで沈黙されました
しかしあなたがキリストなのかと言った時には
そうだ私がそうだ
みなさん有名な話です
エゴ・エイミズ
I am 私はそうだ
それからイエス様は
これから行われるべき真実を言われます
62節
あなたたちは人の子が全能の神の右に座り
天の雲に囲まれてくるのを見るであろう
あなたたちはイエス様のサイリンのことを見るであろう
またイエス様が神の右の座に座っていることを見るであろう
何ですか
裁かれる人として
裁き主として来られる
怖いです
自分はイエス様を死刑とするために裁こうとするんですけど
実際裁き主はイエス様なんだ
だからこのような罰を彼らは受けるでしょう
この時ペテロはイエス様を遠くからついていきました
最初の家の庭にまで入りました
夜が深くなると
寒さのゆえに人々は叫びをしていました
ペテロもそのそばで火に当たっていました
その時ある女中女下婢が
ペテロをずっと見ていながら
あなたもラゼレのイエスと一緒だって
その時ペテロは
そうじゃない
これは見当もつかないものだよ
その後この女中がもう一度言いました
あの人もこの人の仲間だと
ペテロはもっと強く否定しました
この後他の人が
確かにお前はその連中の仲間だ
彼らのものだから
そしてペテロはもう誓いながら
私は違おうと言います
その時鶏が鳴きました
ペテロは鶏が二度鳴く前に
あなたは三度私を知らないであいうだろうと
イエス様の御声が聞こえました
そして外に出て激しく泣いたと言います
その夜はペテロに対しては
裏切りの夜
絶望の夜
全てが崩れ落ちる夜でした
このマルコの福音書が記録されたのは
AD60年頃だと言っています
今イエス様がAD30年くらいに亡くなり
これから30年後
ペテロは何になっているのか
ローマで教会のリーダーとして働いていました
しかし信徒たちはみんなマルコの福音書を通して
このリーダーであるペテロが
イエス様を三度も否定したと記録が残っています
皆さんこれを見てますと
教会の指導者として恥ずかしいことでしょう
それにも関わらず聖書はそれを詳しく記録しています
これは意味があるんです
当時諸大教会はローマ帝国から厳しい迫害を受けました
迫害があったとき
自分の命を守るために
イエスを認めるか
もう十字架経由で死ぬか
二つしか道がありません
だから死ぬことは怖くて怖くて
イエス様を否定する人がたくさん現れた
信仰の危機と回復
私たちは否定と言いますけど
当時の人が見たら裏切る者がたくさん出た
じゃあ皆さんイエス様を裏切った後は
自分たちは気持ちはどうなんでしょう
信仰を諦めて絶望感の中で
私はもう地獄だという人がたくさんいたでしょう
その中でペテロもイエス様を裏切ったことがあるという記事は
信徒たちに大きな勇気希望が与えたと思います
ペテロもある時は自信満々
私は絶対つまずかないし
イエス様は絶対否定はしませんと言った人が
三度も否定したことを見ていますと
それでペテロが今どうなんですか
ローマの教会の指導者になっていることを見ていますと
私がイエス様を裏切ったのに
でもイエス様は私たちを裏切りを許してくださり
私をもう一度使ってくださるんじゃないかと
慰めと希望が与えられた
皆さん私も今まで
最近昔のことをたくさん色々思い出されて
その時そんなことをやるんじゃなかったとか
その時私はこうすればよかったのにという
後悔がたくさんあります
本当にいろいろ非難されることもあるでしょう
だからそのことを思い出されるたびに私は
私は牧師の資格もないんだ
私はもう教会いくらやっても
私は意味がないんじゃないか
私はもう神様に見捨てられちゃうんじゃないかと
本当に自分自身を責める
自分自身を責めて私たちはもう
自己憐憫に陥る場合がたくさんありました
ところが今日のメッセージを準備しながら
神様はそのようなイエス様を裏切ったような
私たちも許され新しく回復され
使命を与えてくださり
またそれを通してもっと深い
ただ上手くやるから
上手く使ってくださるんじゃなくて
失敗してイエス様を三度も裏切った者でも許され
でもチャンスを与え
もう一度使ってくださるんだという話を聞く時に
私も使ってくださるかな
私も許してくださるかな
私みたいなこんな過ちだらけで問題だらけで
私を非難する人がたくさんいるけど
そうです周り見てみたら
もう全部私を非難する人ばっかりです
正直にも逃げたい
ネズミのあなたに身を隠したいという気持ちでいっぱいです
しかし主は私を許してください
チャンスを与えてくださり
もう一度使ってくださるんじゃないか
ペテルも使ってくださったから
そのような希望勇気
それが慰めのように与えられました
祈りの重要性
結論を申し上げます
今日のメッセージを通して
イエス様の弟子たちが対照的な姿を見せていました
弟子たちは危機の時にもう倒れてしまったんですけど
イエス様は同じ危機の瞬間でもそれを乗り越えて
十字架を背負うために
大胆に進め出ていきました
一体何がそのような違い
そのような差を作ったんですか
それはお祈りなんです
お祈りで準備されたイエス様は
そのようなことを全て受け入れる準備ができたんですけど
祈りがなかった弟子たちは
準備ができなかったから慌て慌てながら
やること全部失敗のことばっかりでした
お祈りは神様が働かれるようにする
私たちの一番大事な道具です
祈りを通して神様は働かれます
祈るとき私たちを許してくださり
新しい力を与えてくださり
これからどんなことでも
全てになることができるように助けてくださります
私たちみんな自分の忠実家というものがあります
自分の忠実家は何ですか
家族 市民 また教会
もうこれが全部私の忠実家です
これをどう担えばいいでしょう
私たち力がないんだから
しかし祈ることはできるから
私たちは祈りを通して与えてくださる
神様の力によって私たちは全てができる
ですから結成までの祈りは大事です
本当に皆さん諦めないで
もうつまずかないで
これから祈りを通して
自分自身の今までの過ち
ダメになったこと全て
回復してもらう私たちになりますように
また繰り返し行う過ち 罪にも関わらず
恵みによって私たちを再び使ってくださる
チャンスを与えてくださる
新しく私たちを生かしてくださる
神様に思い一本も感謝の心を込めて
今週 死に祈っていきたいと思います
お祈りいたします
主を今週は避難しです
いつも結成までの祈りを学びますけど
イエス様のような祈りを捧げることはできませんでした
今年はどうか私の願いではなく
主の御胸通り行われますようにと祈られた
イエス様を学びたいと思います
そんな祈りができる私たちに恵みを与えてください
皆を力を与えてください
イエス様の皆を通してお祈りいたします
アーメン アーメン
ありがとうございます
36:37

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