1. 名谷教会
  2. 2012/06/03:聖日礼拝(旧音源)
2012-06-03 39:32

2012/06/03:聖日礼拝(旧音源)

2012/06/03 聖日礼拝(旧音源)


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聖書朗読をいたします。今日は、聖書朗読の方がお休みですので、司会者がお読みいたします。
マルコの福音書、4章の2節から9節まで。
マルコの福音書、4章の2節から9節まで。ページは、新約の70ページでございます。
イエスはたとえによって多くのことを教えられた。
その教えの中で、こう言われた。
よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。
蒔いている時、種が道端に落ちた。すると鳥が来て食べてしまった。
また別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったのですぐに芽を出した。
しかし日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。
また別の種が茨の中に落ちた。ところが茨が伸びてそれを塞いでしまったので実を結ばなかった。
また別の種が与一に落ちた。すると芽生え育って実を結び、30倍60倍100倍になった。
そしてイエスは言われた。聞く耳のあるものは聞きなさい。
以上です。
聖歌隊に賛美をしていただきます新聖歌370番。
その後、内田牧師より神の言葉は種と題してメッセージをいただきます。
神の言葉は種と題してメッセージをいただきます。
03:01
神の言葉は種と題してメッセージをいただきます。
神の言葉は種と題してメッセージをいただきます。
神の言葉は種と題してメッセージをいただきます。
神の言葉は種と題してメッセージをいただきます。
神の言葉は種と題してメッセージをいただきます。
神の言葉は種と題してメッセージをいただきます。
神の言葉は種と題してメッセージをいただきます。
神の言葉は種と題してメッセージをいただきます。
皆さんおはようございます。
今日の御言葉をいただく前に一言お祈りをします。
あなた方が多くの身を結び、私の弟子となることによって、私の父は栄光をお受けになるのです。
御霊の身は愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、乳和、慈悲です。
このようなものを禁ずる律法はありません。
恵み深い天の父なる神様、こうして六月をここに迎えて第一誠実、
06:08
またいつもと変わらずあなたを賛美礼拝できるこの特権を感謝をいたします。
この礼拝の主であるあなたが私たちと今共にいてくださり、最後までこの礼拝をお導きくださるように、
私たちもその主を覚え、また崇めて、あなたに委ねてこの礼拝を進めさせていただいております。
プログラムにある一つ一つを私たちは心を込めてあなたにお捧げいたしますから、
主をどうぞそれらを清めてお受け取りくださいますように、
そして豊かなる精霊の注ぎと新たなる命を私たちに与えて、それぞれにまたお使わしくださいますようお願いいたします。
今日も御言葉をいただきます。
人はパンのみに生きるにあらず、神の口から出る一つ一つの言葉によると、
私たちは今あなたのお言葉を私たちの糧としていただきますから、
主をどうぞそれによって私たちを養ってください。
今日もここに集えたことをありがとうございます。
幼子からまた高齢に至るまで、私たちがいつどんな時にもあなたをしたい、
そしてあなたを求めてこれからも歩んでいけるように、
どうぞ一人一人をあなたが祝福してくださるようお願いいたします。
今日やむを得ず来れなかった兄弟姉妹方、あるいは弱気を覚えているかもしれません。
主をどうぞあなたが生きめぐって、それぞれをあなたが伴って、
そして必要なものを与えてくださいますように。
来たる時にはこの座に共に座してあなたを賛美礼拝できるように助けてください。
今からの御言葉のひとときをもどうぞあなたが祝福してくださいますように、
語るものをあわれんで最後まで支えてください。
御言葉がお一人お一人の心に留まりますように、
全てを委ねてイエス・キリストの皆によってお祈りをいたします。
アーメン。
この私たちが教会に集って、そしてこの福音というものを日々いただいているわけですが、
キリストの福音、そしてこの福音は素晴らしいものである。
それに伴って私たちが、この信仰生活、特にこの教会生活、
それに関係する日々の生活があるわけですが、
それは本当に単純にいいなと思うことがあります。
それはこの福音、あるいはキリスト教に関係する冠婚葬祭というもの、
それが誰にでもわかるということ、
09:05
普通に日本語のわかる人なら、私たちが教会でなしていること、
あるいはそれに関係する全てのことはわかるということは非常にありがたいことですし、
大事なことだと思うんですね。
時には賛美歌などの中に古い言葉が出てきて、あれはどういう意味だろうか、
特に若い人たちにとってはあれはどういう意味なのかな、
昔そういう言葉を使っていたんだろうな。
でも少なくとも日本語が普通にわかる人は、教会でしていること、
あるいは教会の飾っているもの、置いているもの、
それがどういう意味があって、それが何を表しているのか、
そしてそこで話されていること、語られていることがどういうことなのかということは
理解できる、それは本当にありがたいことですし、いいことだなと、
単純にそのように思います。
それはなぜか、私自身のことになるんですが、私はクリスチャンフォームには生まれておりません。
ですから、家の関係する官婚葬祭、特に葬儀はずっと仏式の葬儀に出ていたわけですね、小さい頃から。
そしてごくごく近くで言いますと、私の父、あるいは母、あるいは兄を弔うときにも、
それは家の長男が判断するわけですから、仏式でありました。
そして子供の頃からそういうところにいて、いつも思っていたことは、何を言っているのかわからない。
お坊さんが何を言っているのかわからない、何を今しているのかわからないということでありました。
いわゆるお経のことだと思うんですね。子供の頃にそこにいて、何を言っているんだろうか、それがわからないということなんですね。
ですから、僕だけがわからないんだ、他にいるこの皆さんはわかっているんだけれども、僕だけが何を言っているのかわからないんだろうな、そのように思っていました。
しかし、青年になり、そして大人になって、そういう場にいてわかったことは、わからないのは私だけじゃないんだ、ほとんどの人もわかっていないということがわかったんですね。
それで聞いてみますと、わからないところがまたありがたいのだという、そんな感じでありました。
もちろんそれは私自身の勉強不足と言われればそれまでなんですが、決してこれは非難するつもりはないんです。
12:01
私たちの愛する者たちが召されて、そしてその弔いの場にいるときに、そこで行われていることが何をしているのか、
そしてその関係する人たちが言っていること、それがお経にしろ何を言っているのか、わからないということは非常に残念だなという気がするんですね。
法事にも行くことがありますけれども、同じことです。
お経を唱えておられる、その間私たちはずっと座って待っているんですけれども、わからないということは未だにそうですね。
願わくは私たちの愛する人を弔うときに、少なくともこれは何がなされているのか、そして一つ一つの置物飾りにどういう意味があって、
そして私たちでいうその司式をする人が何を言っているのか、私たちが愛する人を送るにあたって弔うにあたって言っていること、何を語っているんだろうかということがわかるようにしてほしいなというのが私の個人的な願いであったわけですね。
そういうところは機会があれば、どなたかお坊さんとお話ししてみたいなと思うんです。
ところが私が信仰いただいて、そしてクリスチャンになって教会に交わるようになって、そこからキリスト教僧儀に出席するようになりました。
あるいは自分自身もそういう司式をさせていただくようになりました。
そこでわかったことはすべてがよくわかる。そこになされていることも意味もわかる。あるいは牧師が僧儀でする説教もすべてわかる。
もし参列する来られる人たちの中でちょっとこれは説明がいるなと思うときには説明もさせていただく。
そういうふうにして誰でもがそこで何がなされ何を言っているのかがわかるということ。
これは非常にありがたいことですし大切なことだなとそのように思うわけです。
もしどなたかが来られてあれはどういう意味ですか。これは何を意味しているんですか。
そういうことを気づいてくださったらそれは率直に言っていただいて私たちも反省をしてそれはいけないなこれはこういう意味です。
これはこういうことを言っているんですということを説明させていただかなければいけない。
そういうことを思うんですね。それはどこから来ているのでしょうか。誰にでもわかる。
15:00
それはやはりイエス様がそのようにいつも配慮をしていたということから来るわけですね。
イエス様のおっしゃることは誰にでもわかる。
このイエス様が群衆にお語りになったそのときにももちろん学問のできない人文字の読めない人そういう人もいたわけですし
立法学者、祭司、礼美人そういう人たちだけがわかればいい。そういうことではない。
どんな人にも学校があったのかどうかそれはわかりませんけれども何か字を学んだ人学べなかった人貧しい人貧しいゆえにそういうことができなかった人であったとしても
自分たちの生活している言葉が少なくともわかる人にはイエス様の話はわかる。
そのようにイエス様は話してくださった。それでもわからないとき彼はたとえによって多くのことを教えてくださった。
そこまでご配慮をしてくださっているということ。
そのことを私たちはまずここで覚えたいと思うんですね。
十一節十二節のところにもこのように書いています。
イエス様はあなた方は神の奥義が知らされているが他の人たちには全てがたとえで言われるのです。
それは彼らは確かに見るには見るがわからず聞くには聞くが悟らず杭改めて許されることのないためです。
イエス様の言っていることはわかる。理解できる。
しかし一番大事なことは神の国に入るために知っておかなければならない神の奥義というものがあるわけです。
神の国の奥義。これを本当に心の中で魂でわかっているのかどうかこれは非常に大事なことですね。
イエス様の言っていることは理解できるけれども
魂においてそれがわかっていない。
その場合は神の奥義がわかっていないということ。
それを見るには見るがわからず聞くには聞くが悟らず。
実際目が見えて見ているんですけれども本当の本質が見えていない。
何が大事で何が大事でないのか。何が良くて何が悪いのかというのがちゃんと見えていない。
あるいは聞くことは聞くんですけれども右から聞いたものは左に抜けていく。
あるいは聞いてはいるんですけれどもそれが頭の中だけで心に魂に残っていかないで
18:06
またいつしかそれは消えていってしまう。
そういうことであればせっかくの神の奥義がそこで語られているのに残念な結果に終わってしまう。
それではいけないということをイエス様はおっしゃったわけです。
それが今日のこの4章の2節からずっと20節までのところに書かれてあるわけです。
今日のテーマは種とか土とかそういうものだと言えます。
しかしこれは決して家庭菜園の話ではありません。
イエス様の例え話のうちの一つなんですがこれもそうですね。
農業に携わっている人あるいは家庭菜園をしておられる方なら種の話土の話そういうものはよくおわかりになりますけれども
そうでない人もそういうことに従事していない方でもわかる。
わかるようにイエス様は話してくださりまた例えをもって話してください。
何とイエス様はご配慮の行き届いたお方であろうかとそのように思うわけです。
種と土の話で先日テレビの報道でこういうことが語られていました。
昨年の3月11日に東日本大震災で地震と津波の被害を受けました。
今復興の最中なんですけれども多くの課題があります。
しかしその一つの課題は土地の問題ですね。それこそ土の問題。
それはまた農業の問題でもあります。
その中で一つの取り組みが行われているという報道でありました。
被災地に菜の花を植えようという働きであるということですね。
ご覧になった方もあるかもしれません。
その菜の花をそこに植えてそしてそこから取れる菜種油ですね。
それを食用油としても利用できるだろうし至っては燃料としても利用できるのではないか。
そういうような取り組みなんですね。
ところがここに一つのやはり問題があります。
それはこの土が津波によって海水を浴びている。
要するに土の中に塩分が含まれているということ。
21:00
それでは作物は育たないというそういう課題があるわけですね。
中にはその塩抜きのようなそういう地道な働きをされておられるそうですが
これも大変な時間がかかる忍耐のいることですし
何とかならないだろうか。
そういうことが言われていました。
そういう中で植物の専門家が菜の花といってもいろんな種類があるそういうことがわかって
そしていろいろとこういう品種こういう品種を今の状態の中で植えてみようと。
そうするとその中のある品種が育ったということが言われていました。
そしてたとえよほどきつい塩分なら無理でしょうけれども
多少の塩分があっても育つ品種があるということがわかって
そこに何とか期待を持とうそういう取り組みなんですね。
もしそうなればこの品種を使ってそこに菜の花のようなものを植えて
そしてそこでこの土地をもう一度再利用できるという
そういう期待が持てるということだそうですね。
これは私たちにあるいは地の人たちに大きな希望であり励ましであり
そういう取り組みがなされていくというのは本当にいいことだなと思うんですね。
この取り組みは一つの励ましのメッセージですね。希望のメッセージ。
そういうものがあるということが一つあります。
しかし今日の種と土の話はまた別の角度から見ているということを覚えたいと思うんですね。
同じ種と土の話なんですけれども違う角度で安様が言われたこと
それが今日のお話であります。
いわばこれはお勧めのメッセージあるいは忌ましめのメッセージかもしれません。
安様はわかりやすく例えを用いてこれを語っておられます。
私たちがスーパーマーケットに行って例えば野菜とか果物を買うときに
そこに産地が書かれてあるわけですね。
24:02
ある野菜や果物はその産地によって値段が変わるというようなことも
皆さんはよく私よりもご存知だと思うんですね。
落語の話では三間は目黒に限るんですけれども何とかはどこそこに限るとか
あるそうですね。黒豆は丹波に限るとかあるんでしょうか。
そういうようなことが言われる。それはなぜか。
それはもちろん品種種そのものが良いということもありますけれども
そこにある土がいいんだということを言われます。
それだけやはりその土がいいかどうかによってその作物その実がどういう実ができるか
それがかかっているんだということを私たちは知っているわけです。
ですからイエス様が私たちに神の国に入るために
私たちはその神の国の奥義というものをしっかりと心にとめて
そしてそれが私たちの養いとなって至ってはそこから作物なる
実がなるようにそう願っておられるわけです。
ところがイエス様が言うように
そう簡単にはいかないということもイエス様はおっしゃるわけです。
四つの場面をイエス様は想定してその例えを言われたわけです。
種まきの人が種をまいた。一つのそのまいたところが道端であった。
そうすると鳥が来て食べてしまった。非常に残念なことです。
せっかくまいた種がそこで食べられてしまった。
当然後にはもう何も残らない。
次の種は土の薄い岩地に落ちた。すぐに芽を出したんですけれども
根がないためにすぐに枯れてしまった。これも結果ダメであった。
三番目に別の種が今度は茨の中に落ちた。
ところが茨があるいは雑草がその養分を取ったりして塞いでしまって結局実を結ばなかった。
いずれもせっかくまいた種が無駄になってしまった。実を結ばなかった。
四つ目は良い地に落ちた。すると芽生え育って実を結び三十倍六十倍百倍になった。
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イエス様はこのことを通して何を言わんとしているのかということ。
それをさらにイエス様はこのように言っておられるんです。
十五説。十四説。種まく人は御言葉をまくのです。種はすなわち御言葉なんだ。
そして種を道端にまくということは、種が道端にまかれるということは道端がそういう人の心にまかれたとして
その道端のようなところにまかれた御言葉はすぐにサタンが来て彼らにまかれた御言葉を持ち去ってしまうのです。
薄い岩地に落ちたその種すなわち御言葉は御言葉を聞くとすぐに喜んで受け入れるが根を張らないのでただしばらく続くだけです。
それで御言葉のために困難や迫害が起こるとすぐにつまずいてしまいます。せっかくのまかれた御言葉がこれも無駄になってしまう。
もう一つは茨の中に種がまかれるということは御言葉がその人の耳を通し心に届けようとした。
すると世の心遣いや富の惑わしその他いろいろな欲望が入り込んで御言葉を塞ぐので実を結びません。
いずれもせっかくの神様の御言葉が実を結ばないままに終わってしまうという残念な結果になってしまう。
そのことをイエス様はここでおっしゃったわけです。
ところが良い地に種がまかれたすなわち御言葉が良い地良い魂にまかれるとそれは三十倍六十倍百倍の実を結ぶ豊かな実を結ぶそのことをイエス様はたとえをもってここに書かれた言われたわけです。
私たちは今日ここからもう一度私自身の心の状態魂がどうであるのか。
道端に巻かれているのか土の薄い岩地なのかあるいは茨の中なのかそれとも良い地と言われるようなそういう魂であるのか。
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良い地それはどういう地でしょうか。
願わくはせっかくまく種が良い地であるように誰しもそう思うわけです。すぐ枯れてしまうようなそういうところに種をまく人はいません。
せっかくまくんだからやはり良い地にまくのが当然であります。
あるいはそう願ってまくわけですが私は専門家ではないのでわかりませんが大体こういう土じゃないでしょうか。
石ころのないここでもありますように岩のようなものがない土あったらそれを取り除くそういう土だと思うんですね。
そしてよく耕された土固いそういう土ではなく桑を入れてそしてほぐしてそういう土がいいんじゃないだろうか。
よく肥えた土肥料の行き届いたそういう土がいいんではないか。
時には日当たりの良い土を求める植物がありますから日当たりの良い土
あるいは水分の良く行き渡っている水はけの良いそういう土も当然いいと思うんですね。
砂漠では雨が降りませんから植物が育ちません。育つのはサボテンぐらいかなと思うんですね。
それに類するそういう乾いたところでも育つ植物以外は植物は育ちません。
やはり水の行き届いたそういう土そして雑草のない土あればその雑草を取り除く。
今日もそういうのをしておられるのを見ました。
害虫のいない土。いい虫もあれば悪い虫もある。
悪い虫があればそれは取り除かないといけない。
そういうものでしょうか。もっともっと良い土であるための条件。
こういう土がいい土だというのは私よりも皆さんの方がご存知かもしれないそう思うんですね。
そういうところに巻かれた種はしっかりと根を張り芽を出してそしてどんどん大きくなって花を咲かせそしてやがて実を結ぶ。
これは誰でもわかることです。
ではイエス様は先ほど言った農業や家庭再現の話をしたいんでしょうか。
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そうじゃないんだ。神の国の奥義がわかってそれをしっかりと蓄えてそして一人一人が豊かな実を結ぶように。
その実とは先ほどの聖句にありました。
あなた方は多くの実を結び私の弟子となることによって私は私の父は栄光をお受けになるのです。
天の父なる神様が私たちが実らせる実を喜んでくださるような実。
御霊の実は愛喜び平安寛容親切善意誠実入和慈悲というようなそういう実が実るようにイエス様は願って与一に御言葉が巻かれるように。
せっかくの神様の御言葉が聞いたけれども巻かれたけれども残念な結果に終わって何も実のないままに終わってしまう。
定に取っていかれた。あるいは何かにつまずいてもその御言葉を手放してしまった。
あるいは神様の言葉よりも他の世の心遣い富の惑わしその他いろいろな欲望そちらの方が大事だということで御言葉を手放してしまった。
そういう結果になると決して身を結ばない。
そうならないように私たちは今日祈ってそしてもう一度主により頼みもし今私の血が良い血であるならば良い魂であるならばそれはそれで感謝して
さらに耕していただく肥料を与えていただくそういう魂にさせていただけるようにそう願うものであります。
神様が願う良い土であるというような魂心とはどういう魂でしょうか。
それは聖書を通して言われていることです。聖書を読めば神様の喜ばれる魂とはどういう魂かというのを私たちは知ることができます。
挙げればきりがないと思いますが例えば悔いし砕けし魂これも良い魂でしょう。
素直な魂謙遜な魂あるいは御言葉に従順な魂神を愛する魂隣と愛する魂祈る魂賛美する魂
神との交わりを何よりも大事にする魂そして神様の交わりを楽しむそういう魂いつも神様の御前に立っている魂
36:06
そういうものはすべて聖書を通して私たちに語られていることです。神様が良しとされる魂
それが神様の言いたい良い地に御言葉がまかれたならばその魂は多くの豊かな実を結ぶんだその約束を今日与えられているわけです。
私たちはこのことを通してもう一度自らを振り返ってそして感謝をするとともにもしそうでないとするならばまた今日からイエス様に
そして風通しの良いそして水が十分にあるような満たされたそして雑草や害虫のない
私たちなおせっかくの御言葉をとっていこうとするようなそういう妨げもとっていただくようなそういう土そういう魂であるように
そうしてくださいというその祈りを捧げて聖三式に入りたいと思います。一緒にお祈りをしましょう。
良い地にまかれるとは御言葉を聞いて受け入れ三十倍六十倍百倍の実を結ぶ人たちです。天の父なる神様イエス様の種まきとその土の例え話を通して今自分の魂を点検いたします。
これまで多くの御言葉を聞いてまいりましたが果たしてどれほどの実を実らせたことでしょうか。せっかくいただいた尊い種の御言葉ですからこれからはいとも簡単にサタンに奪われてしまわないようにどうか助けてください。
御言葉に困難やつまづきを覚えてもその時は祈って種を信じて種にまた御言葉に従えるものとしてくださいますように御言葉よりもほかのものを大切にしたいというような誘惑が来ることもありますけれどもその時にどうぞ種と種の言葉を否むことがないようにどうか守ってください。
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私の魂を種が喜ばれるような魂にしてください。御言葉という種がよく育って多くの良い実を結ぶ魂にしてくださいますように祈ります。イエス様の尊い皆によって信じてお祈りいたします。
アーメン
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