00:01
皆さん、おはようございます。
今日も御言葉の時が与えられていますから、感謝をいたします。
今日の御言葉を開く前に、一言お祈りをさせていただきます。
誠に彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。
私たちを思った彼は罰せられ、神に討たれ、苦しめられたのだ。
彼は私たちの背向きの罪のために差し通され、私たちの戸賀のために砕かれた。
彼への苦しめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって私たちは癒された。
恵み深い天の父なる神様、こうして2月もここまで守られ、第三聖日の朝、こうしてあなたを崇め、また礼拝する時が与えられ、感謝をいたします。
精霊様のお導きによりここに集うことができたことを感謝をいたします。
集いました一人一人があなたを覚え、また全てをあなたに向けてあなたをあがめる時となりますように、また自らを悔い、そして全てをあなたに委ね捧げて、これからの日々を歩んでいけるように、精霊様がお一人お一人に臨んでくださるように、
また今日ここに来れなかった兄弟姉妹方を覚えますが、私たちが思う以上に主はそれぞれを支え、また癒してくださるお方でありますから、一人一人に行き巡って、その場を主との交わりの時、礼拝の時としてくださるようお願いをいたします。
受難施設を過ごしておりますけれども、日頃は知のお苦しみを忘れがけの私たちでありますから、お許しください。
しかしこうして礼拝の時、主を覚え、また主がどんなに苦しみまたは痛みを負い、そして私たちの復位のために身代わりとなって十字架にかかってくださったことを思うひとときが与えられますように。
そして私たちが日々与えられるもし苦しみ悩み困難がありますならば、その時こそ主様を思う時として過ごすことができるようにどうぞ助けてください。
約束通り主の苦しみが、主が痛んでくださったことが私たちに平安を与えてくださると信じる信仰をその時与えられることができるようにどうぞ一人一人を導いてください。
今病の中にある兄弟姉妹をどうぞ主が助けまた癒してくださるように、また教会から離れている人たちその人たちもどうぞその場にあって主を思い出すことができるようにどうぞ助けてください。
03:06
またこの地域にある一人一人がこの誠の神様を知ることができるようにそして信じて救われるものとなり神の働き人として使えていくことができるように子どもたちの上にもあなたが望んでくださるようにお願いをいたします。
そのためにも御言葉が必要でありますから、まず私たち一人一人を愛しまた癒してくださるこの主とお出会いすることができるように助けてください。御言葉を通して主が私たちに語ってくださるよう、ゆだねて主キリストのお名前によってお祈りいたします。
アーメン。
書き留めるものがなかったので携帯のカメラでバチバチと撮ってそして帰ってきましてインターネットで調べてみましたら吉野博さんという方の詩であって祝懇歌という結構長い詩なんですが
その最初の部分だけがその楽に書いてあったわけですね。
祝懇歌でありますから結婚あるいは夫婦が祝福されるための詩である歌であるということが基本になっていますけれどもそれはそれだけではなく人間関係という大きく捉えてもいいんだと思うんですが
こういう言葉は書いてありました。
二人が睦まじくいるためには愚かでいる方がいい。立派すぎない方がいい。立派すぎることは長持ちしないことだと気づいている方がいい。完璧を目指さない方がいい。完璧なんて不自然なことだと嘘吹いている方がいい。
いかずと続くんですけれどもなかなか味わい深い言葉ですしいろんなことを教えてくれる言葉であろうかと思うんですね。お互いの人間関係の中大変難しいことがありますけれども彼は愚かでいいんだ立派すぎない方がいいんだ完璧を目指さない方がいいんじゃないかそんなことを言うわけですね。
06:19
完璧の方が不自然だ。私たちは誰でもやはりこの弱さであるとかあるいは欠点であるとか増えてであるとかそういうものは誰しも持っている。
そしてお互いに不完全なものであるというそういうものをまず認め合うそういうところから始めていきましょう。もちろん完全でありたい、欠点のないそういう強いものでありたいと願うあるいはそこを目指していくのはいいですけれども。
しかしお互いは今は弱くまた欠点だらけの不得意もたくさんあり不完全なものであるということを認め合いましょう。そういう中で支え合いまた祈り合いそしてやっていきましょう。
そんなことを誰も言いたかったんだろうと思うんですね。それは今日のテーマの中に出てくるこのペテロという人。彼を見ていくときにこの詩のことも重なってまいりますし、
このペテロという人が聖書の中の登場人物の中でも私たちが親しみを覚える。それはやはりこのペテロと私が重なる部分が多くある。そういうことのゆえにペテロを親しく思う。そういう人がたくさんいるのではないかなとそのように思うわけです。
今日の聖書の箇所からまず第一番にこのペテロのそれまでの歩みというのを振り返ってみたいと思うんです。ペテロが今日のテーマということになっていると言いましたが、ペテロが一つの光が明けられていますけれども、御言葉の中心はあくまで周泰様でありますし、
この礼拝の全てはこの主に対する私たちへの、私たちの捧げる思いでもありますから、礼拝の主であるこのイエス・キリストと父なる神、精霊なるお方、これに私たちはいつも思いを向けていく。それは変わりはありません。
09:14
そういう中で、このペテロのここに至るまでのいろんな歩みを振り返ってみたいと思うんです。
まず一つ目ですが、ペテロが最初にイエス様とお会いした時、それは例えばマルコの福音書を中心に見ていきますと、
皆さんもご存知のように1章の16節あたりから、イエス様がガリラヤコのほとりを通っておられると、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。イエスは彼らに言われた。
私についてきなさい。人間を取る漁師にしてあげよう。ここにシモンという名前が出てきます。これをマタイの福音書ではペテロと呼ばれるシモンがイエス様に声をかけられた。
このシモンはペテロであるということがわかります。これが最初の出会いであった。イエス様に声をかけられて、私についてきなさい。人間を取る漁師にしてあげよう。
イエス様とこれから新職を共にし、そしてこのイエス様に直接教えていただき、指導していただける。そういうものにしていただけるということは、このシモン、ペテロにとっては本当に光栄なことであった。に違いない。
こんな自分が魚を取ることには欠けていても、それしかできない。こんなものが人間を取る漁師にしてくださる。これだけでもペテロにとっては本当にこの心躍るような、そういう思いではなかったか。
ですから、すぐに彼らは網を捨てて彼に従った。そのように記してあるわけです。
二つ目はマルコの三章の十六節にありますけれども、こうしてイエスは十二弟子を任命された。そしてシモンにはペテロという名を付け、とあります。
イエス様が十二人の弟子を選ばれた。その中にこのシモン、漁師であるシモンが入っているということですね。
そのシモンにペテロという名を付けた。このペテロという名前はイエス様に付けていただいた名前である。これは岩という意味があるんですけれども、シモンにとってはこのイエス様は自分の名付け親。
12:19
私たちにも名前が与えられていますが、それは親であるとか、いろんな関わりのある人がこの子がこういうふうに育つように。そういういろんな愛と願いを込めて名前を付けるという、そういうことがあるわけですが、イエス様も同じようにこのペテロに対し名前を付けてくださったということです。
三つ目は五章の三十五節に、ここではカイゾオズカサの娘が亡くなったという、そういう知らせが入って、それじゃあイエス様は行こう、その家に行こう、そのようにおっしゃったわけですが、そしてペテロとヤコブとヤコブの兄弟ヨハネのほかは誰も自分と一緒に行くのをお許しにならなかった。
イエス様は一人で行くこともできたんですけれども、弟子の中から三人を選んで一緒に来なさいということをおっしゃったわけです。
その一人として、しかも第一番にペテロとヤコブとヤコブの兄弟ヨハネのほかは誰も自分と一緒に行くのを許しなさらなかった。ペテロを連れて行こう、そういうふうにイエス様は思われたわけです。
四つ目は八章の三十一節。イエス様が弟子たちにある一つの予言をなさったわけですが、それはジュナンの予言です。
それから人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、最主張、立法学者たちに捨てられ、殺され、三日目の後によみがえらなければならないと弟子たちに教え始められた。するとペテロはイエスを脇におつれいして勇め始めた。
この辺りからペテロという人がどういう人物なのかというのが少しずつ現れてくるわけですが、イエス様は何をおっしゃっているんですか。あなたが捨てられ、そして殺され、よみがえる、それは一体何のことを言っているんですか。
そんなことを言うことはしよう、それはなりませんとか、何か言ったんでしょうか。勇め始めた。するとイエス様は振り向いて弟子たちを見ながらペテロを叱って言われた。さがれサタン、あなたは神のことを思わないで人のことを思っている。イエス様はペテロを叱ったと言うんですね。
15:17
叱るということは裏返せば、それは愛情をかけている。このペテロを何とか育てようとする。そういう意味での叱って、もちろんペテロをそのように言わせているサタンに対してのお言葉が続いていますけれども、やはりこのペテロを思うという思いはイエス様の中にあったわけですね。
弟子を育てよう、そして手をかけて、いろんな思いをかけて、このペテロを何とかしよう、一人前にしよう、そういう意味でペテロを叱った。
これは主の愛から出たことであり、またペテロと彼の将来をいつも思っておられた主の思いがここにあふれているわけです。
5番目は14章に行きますけれども、27節からずっと31節あたりに、イエスは弟子たちに言われた。あなた方は皆つまずきます。私が羊飼いを討つ。すると羊は散り散りになりますと書いてありますから。
そのようにまたイエス様は予言をなさいました。するとペテロがイエスに言った。たとい全部のものがつまずいても私はつまずきません。そのように言ったのです。
31節、ペテロは力を込めて言い張った。たといご一緒に死ななければならないとしても、私はあなたを知らないなどとは決して申しません。このようにペテロは告白したのです。
そして同じ14章の中で今度はゲッセマネのそのの場面ですけれども、ペテロもそのそのに連れて行って、そしてあなた方はここで待っていなさいと。そしてイエス様が祈りをなさっておった。
そしてイエス様が戻ってくると彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。諮問、眠っているのか一時間でも一時間でも目を覚ましていることはできなかったのか。ゲッセマネに一緒に行ったペテロはそこでもう体が疲れていたのか眠っておったという記事が書いてあります。
18:21
そのそのの祈りが終わった時にユダが最首長、立法学者たちを連れてきて、そこでイエス様は捕らえられるわけですが、マルコの福音書、その時人々がイエスに手をかけて捕らえた。
するとイエスのそばに立っていた一人が剣を抜いてその大祭司の下辺に打ちかかり、その耳を切り落とした。そのように書いています。
イエス様に手を振れるな。イエス様を捕らえるなんて許さないぞということで、はむかったわけですね。
このイエスのそばに立っていた一人、これをヨハネの福音書の十八章の十節、ここではシモンペテロは剣を持っていたがそれを抜き大祭司の下辺を打ち、右の耳を切り落とした。
ここにはっきりとこれはペテロである。そのことが書かれてありました。
こうして見ていきますとペテロの人となりがなんとなくわかってくる。そんな感じがいたします。
あなたについていきます。どんなことがあってもあなたについていきます。彼は純粋である。
単純といえば単純。あるいは直上傾向と言うんでしょうか。こう思ったらそういうようなところもあります。
潔気盛んというんでしょうか。まっすぐなそういう人。いろんなこのペテロの人となりが浮かび上がってきますけれども。
間違いなく彼はイエス様に従っていこう。私を人形と領主にしてくださる。こんな光栄なことはない。
この方のためなら、たとえ火の中水の中、このお方のためならどんなことでもいたします。
そういう熱い熱い思いを持っていた。そういう人であったということがわかりますし、
イエス様を尊敬して、またイエス様が大好きであった。そういう言い方もできると思うんですよね。
だからイエス様を捉えようとするものは許さない。指一本振りさせないぞというそういう思いで切りかかっていった。
21:10
それがこのペテロであった。
2番目にイエス様の予言とその成就についてもう一度振り返ってみますと、8章の31節。
もし知らけなければ聞いておいてくださったらいいと思いますが、8章の31節でイエス様が予言をなさいました。
人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、最小、立法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならない。
これがイエス様の予言であったわけです。そして9章の31節でも繰り返し、
人の子は人々の手に引き渡され、彼らはこれを殺す。しかし殺されて三日の後に人の子はよみがえるという予言をなさったわけですが、
その後のイエスは捕らえられ苦しめられるというその予言がまず成就したわけです。
その時の弟子たちの様子、それが先ほど読んでいただきました14章の50節。
いよいよイエス様が捕らえられた。するとミナがイエスを見捨てて逃げてしまった。
このミナがイエスを捨てて逃げたという、その中にこのペテロもいたということです。
かつてのイエス様が予言をなさった時に、私はつまずきません。たとえ他の者がみんなつまずいたとしても、私はつまずきません。
たとえミナが逃げ去ったとしても、私はそんなことは致しません。あなたにしっかりとついていきます。あなたをかばいます。
あなたのためならどんなことでも致します。そのように告白したペテロであったわけです。
ところが今やペテロは何くわぬ顔で、54節。
24:00
大太子の庭の中で役人たちと一緒に座って火にあたっているペテロ。ここに現れているわけです。
そして67節。ペテロが火にあたっているのを見かけ、彼をじっと見つめある人が言いました。
あなたもあの流れ人、あのイエスと一緒にいましたね。あなたはあのイエスの弟子なんだろう?と言われた。
するとペテロは68節。ペテロはそれを打ち消していった。一回目の指定。何を言っているのかわからない。私には一向に見当もつかない。
するとまた助級がペテロを見てそばに立っている人たちに、この人はあの仲間です。あのイエスとやらの仲間です。弟子ですと言い出した。70節。しかしペテロは再び打ち消した。
二回目の指定。そしてそばに立っていた人たちがまたペテロに言った。確かにあなたはあの仲間だ。ガリラヤ人なのだから。
70節。しかしペテロは呪いをかけて誓い始めた。
三回目。私はあなた方の話しているその人を知りません。
このようにペテロは言ったわけです。私は知らない。知らない。あんな人とは関係ない。
そう言って彼は全てを否定した。関係ないんだ。私は知らないんだ。
おそらくこの時のペテロはどんな心境であったのか、私たちは目想のうちにそれを思うことが必要であろうかと思うんですが、
ペテロはどうしよう、どうしよう、もうおそらく心臓が張り裂けんばかりの恐怖、そして怯えて、
何とか言い逃れをしなければ、何とかここをしのがなければ、もうその思いで一体、必死の思いで打ち消す。
言い逃れをする。もう頭の中はそれでいっぱいパニック状態。そんな中で鶏が鳴いたというんです。
27:06
その鶏の鳴き声は、このペテロの耳にどんな風に聞こえたんだろうか。
おそらく神からの語りかけのように聞こえたのではないだろうか。
ペテロよ、言い逃れはそれまでにしておきなさい。
さっと我に返った、そのペテロ。そして導かれるように、
イエス様の方を振り向いた。すると、同じようにイエス様もペテロの方に目を向けたということを、
ルカの文書は記しているんです。主も振り向いてペテロを見つめられた。
そしてペテロは、その時初めてイエスのお言葉を思い出した。
あの表現の言葉を思い出した。
私は捕らえられ、そして殺されるでしょう。一日目によみがえるでしょう。
そしてあなたは、鶏が二度鳴く前に私を知らないと三度言います。
という、そのイエスが言われた予言の言葉を、その時に思い出した。
それが十四章の中にずっと記されている。
その記事は、マタイもマルコもルカもそしてヨハネも、それぞれがこのところを記してあるわけです。
三番目に、そのペテロは七十二節の最後、イエスの言葉を思い出し、そして思い当たった時彼は泣き出した。
ルカは、ペテロは外に出て激しく泣いたと記しています。
号泣した。男泣きに泣いた。そういうふうにペテロのことを言っているわけですけれども、
そのペテロの涙の理由、それは何だろうか。
三つ目に、ペテロの涙の理由。
一つは、おそらくこのペテロは、御霊の導きによって自分自身を見たんだと思うんです。
30:06
あるいは自分自身を見せつけられた。そのように考えられるわけです。
自分では自分のことを、自分は正しいものだ。
自分は正義感が強いもので、イエス様に従順なもので、そしてどんなことがあってもイエス様を裏切らないものだ。
そのように信じて疑わなかった。
まだ彼はそのように今までしてきたという自負があったわけですが、
しかし実際にイエス様が捕らえられてみたときに、
自分では思いもかけない構造に出ている、そういう自分に気づかされた、あるいは見せつけられた。
イエス様を裏切ることなんかしない。
そして時には信仰の薄いものよとイエス様に叱られることもありましたけれども、
イエス様と信職を共にし、また自分なりに働いてもきた。
イエス様が捕らえられ、そしてその時にもイエス様をなんとかかばおうともした。
しかし仲間がみんな逃げてしまったときに、
自分もその中にいたということを今初めて我に返って知ったという、このペテロ。
そしてお前もイエスの仲間だろう、あのイエスの弟子だろうと言われたときに、
そうだ、私はイエス様の弟子だ。しかも一番弟子だというつもりが口をついて出てきた言葉。
それが、私はあんな人は知らない。私はあんな人とは何の関係もないんだと言っている自分。
その自分を見せつけられたときに、彼は寂しく泣いた。自分でも気づかなかった。
ああ、自分の中にこんな自分がいたんだ。
それをまたまたと見せつけられたときに、彼は泣き出した。寂しく泣いた。
おそらく不甲斐ない自分、あるいは自分の惨めさ、あるいは悔しさ。
ああ、取り返しのつかないことをしてしまった後悔、あるいは申し訳ないという、そういう複雑な思い。
どんな言葉を尽くしても言い表すことのできない。それをペテロは泣くことによってしか表すことができなかった。
33:13
彼は激しく泣いた。
もう一つの涙の理由は、それはやはりイエス様の眼差しのゆえではなかった。
自分がさっと我に気づいて、イエス様の方を向いたときに、イエス様も同じように自分に眼差しを向けてくださっていた。
そのイエス様の眼差しを通して、すっきりとイエス様の声を彼は聞いたんだと思うんですね。
ペテロよ、私はこれまであなたを受け入れていました。そして今も受け入れています。
あなたを許してきました。そして今も許しています。
そしてあなたは今一番大切なことに気がつきました。
それは、きちなる神が、そしてこの私が最も望んでいることが、悔し、砕けし、魂であるということを、それを今あなたは御霊によって与えられたんですよ。
ですから、今その思いを与えられた、それを生涯持ち続けて、これから生きていきなさい。
そのように、イエス様が語ってくださっているように、ペテロは聞いたわけです。
そしてペテロは、あのイエス様の予言、そしてその前に、こんなことを言ってくださった、祈ってくださったことを思い出したわけです。
ペテロよ、私はあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。
だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてあげなさい。
あのイエス様の言葉を思い出し、彼はさらに激しく泣いたんだと思うんですね。
このイエス様がペテロに注いでくださったこの眼差し、それはイエスの愛と許しのこもった眼差し。
それは今生きている私たち一人一人にも同じように注がれているイエス様の眼差しである。
36:07
そのことを覚えて、これからも歩んでいきたいと、そう願います。
お祈りいたします。
鶏が二度泣いた。そこでペテロは、鶏が二度泣く前にあなたは私を知らないと三度言いますというイエスの言葉を思い出した。
それに思い当たった時、彼は泣き出した。
天の父なる神様、今日はペテロとイエス様を通して、もう一度主の御愛と許しを覚えたことであります。
私たちもペテロに負けず劣らず、主の御心を痛めるものであり、また弱く信仰の恐ろしいものであります。
口ではあなたに従いますと言いながら、なかなか従えない自分が御様によって導かれることもございます。
しかし、そんなものをも主は見捨てず、見放さず、愛を持って支え、許してくださる御方であることを今一度改めて覚えます。
この御方を生涯私の主として御従いし、またこの御方から教えられ、また導かれていくことを願ってあなたに従います。
どうぞ御一人御一人に御霊が臨み、この愛の主なる御方を我が主と信じるその信仰を今もう一度あなたに与えてくださるよう、
御依頼しイエス様の尊い皆によってお祈り致します。
アーメン