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2023-09-03 34:59

「死ななければ、生きられません」2023年8月27日(日)のメッセージ

東京ぶどうの木教会 2023年8月27日(日)主日礼拝のメッセージです。
牧師:アブラハム黄
▼教会へのお問い合わせ:tokyo.vine.church@gmail.com
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https://listen.style/p/tokyovinechurch/

IIテモテ‐12次の言葉は真実です。 「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、 キリストと共に生き るようになる。12耐え忍ぶなら、 キリストと共に支配するようになる。 キリストを否むなら、 キリストもわたしたちを否 まれる。

サマリー

キリスト教では、一番よく使われる言葉は「忠字化」と「復活」です。聖書によれば、イエス・キリストは忠字化にかかり、死んでから復活しました。キリスト社は、昔の自分を捨てて新しい人になり、それによって生きていくべきだと説明しています。私たちはイエス・キリストを中心に生きることを求められており、自己を捨ててイエス様の身分と従順さを持つことが求められます。また、神の言葉を学び、神との親しい交わりの中で導かれ、忠実に役割を果たすことも重要です。ヘブライ賞によっても、自分自身を捨てて新しい人生を受け入れることが教えられます。2019年8月27日(日)の「死ななければ、生きられません」というエピソードでは、ノアとロッドの家族を例に取りながら、中途半端な信仰や二股をかける信仰がどのような結果をもたらすのかが話されています。

キリスト教の核心
今日のテーマは第2テムテ2章11節のように
死んだのなら、共に生きるようになるという対応をもって メッセージを分かち合いたいと思います。
キリスト教で一番たくさん使う言葉は何か知ってますか?
愛、恵み、感謝、祝福
しかし、この言葉は他の宗教でも同じように使う言葉です。
キリスト教だけ、ただキリスト教だけが使う言葉があるんですけど、それは
忠字化と復活という言葉です。 なぜ忠字化でしょう?
忠字化というのは、死刑をする時に使う道具を意味するんですけど、 忠字化は死を意味します。
じゃあ、誰が死にましたか? 聖書は神様の一人子、イエス・キリストが忠字化にかかり死んだと言っています。
なぜ死んだんでしょう? 誰のために死んだんでしょう?
それが他ならぬ、私のため。 私が犯した罪のゆえに、イエス様が代わりに忠字化にかけられて死んで
復活されました。 私たちがこのイエス・キリストの忠字化の功労を背負って
信仰によって救われて、そして私たちは死んでも復活して天国に行くようになったと聖書は言っています。
みなさん、これは物々しいことです。
キリスト社はこれだけ考えると、 いつも幸せ、喜びを持つようになるでしょう。
私たちが死んだら復活して天国に入ります。 天国で永遠に生きるようになります。
これはどれほど素晴らしいことでしょう。 この世は100年、
この後、天国、地獄は永遠ですけど、 私たちはイエス様のおかげで天国に行くようになりました。
また天国で永遠に幸せに過ごすようになりました。
死んで新しい人
では、この世の100年間、信仰のゆえに、主に仕えるために、
神様の御言葉に従って生きるのに苦労して迫害するんだとして、
ただこれは100年だけでしょう。 まだ100年、今私はもう70ですから、あとわずかでしょう。
この後の永遠な天国、永遠な祝福を考えるなら、
私たちはこの世の100年間のこの苦労と迫害と難しいこと、 楽になることではありませんか。
皆さん、この世の人々と信じる私たちの違いは、 永遠な天国を目標して生きるのか、
ただ、100年だけ
生きないこの世の中が全部だと思って生きるのか、 この違いではないかと思います。
これは、見ることができるのか、見ることができないのかの違いであり、
これは、昔の自我が死んで新しい人になったのか、 相変わらず昔のままなのか、その違いです。
ですから、第二手元2章11節12節には、次の言葉は真実です。
私たちはキリストと共に死んだのなら、 キリスト共に生きるようになる。
耐えしのぶなら、キリストと共に支配するようになる。 キリストを否むなら、キリストも私たちを否まれると言います。
私たちが死んだなら、キリストと共に支配する。 これは、王として生きるということですけど、
なぜ私たちが耐えしのぶことができませんか。 また私たちが、私たちを救ってくださったイエス様を否めますか。
ここで大事なのは、私たちの昔の人が死ななければいけないということです。
昔の人、昔の考え方、昔の人の観点、それが死んだ。
それで、神様の観点で見るとき、神の身むねがわかり、 また神様に従って生きる神の子供になると言います。
聖書は続けて続けて私たちに、死ななきゃいけないよと言っています。
キリスト教は何から始まるのか。 私たちの昔の人がイエス様と共に死ぬところから始まります。
なぜなら、過去の私たちは罪を犯して、 悪魔の奴隷、罪の奴隷、そして地獄に行くべきものでした。
そのような私たちがイエス・キリストを信じることによって、 イエス様と共に十字架にかけられ死んだことによって、
新しい人として新たに生まれました。
ですから、第2コリント5章17節には、 だからキリストと結ばれた人は誰でも新しく創造されたものなのです。
古いものは過ぎ去り、新しいものと生じたと言います。
それによって、悪魔の奴隷だった私たちが神の子供になり、 地獄に行くべき者が天国の市民権を持っている、
呪いの子が祝福の源として生きるようになり、 臆病の霊に取り憑かれた私たちが、
喜怒・平和と喜びの中で過ごすようになりました。
私たちがそれを確かめるために、バブテスマまで受けました。
せん霊、水で敵霊をするのですが、 元々は水の中に入るバブテスマ、沈むバブテスマでしょう。
水の中に入るということは死んだ。 水から出てくるということは、新しく生きるようになったということです。
それを元々、バブテスマを受けたら、 これが体に水からジューッと死ぬことが体験的に感じられるから、
元々効果的ではないかと思いますけど。
じゃあ、水から上がるときに、 皆さん、この教会がよく使う聖歌、絵を見ていますと、
水からイエス様が上がられるときに、 天から鳩のように望むことがわかるでしょう。
それが、鳩のような聖霊様が、この新しく生まれた人に望んで、 その中に入って一緒に暮らすようになるということです。
それを教会が強調するのは、過去の人が過ぎ去ったよ、 新しく生まれたよ、新しい人になったよということを強調するからです。
キリスト教の始まりは、ここから始まります。
私が福音を理解するのに一番役に立ったのは、 救われる前の私たちの状態と、
救われた後の私たちの状態が、 一目瞭然、それが明らかになったからです。
過去、信じる前の私が、6つの状態でした。
悪魔の子供として、空城拝み、精神的、体の問題で煩い、 死んだら地獄の裁きを受ける。
それだけではありません。 親譲りをして、自分の子供に親と同じような呪いを親譲りすること。
だけど、子供まで呪いを受けるべき存在を作っていく。 これが過去の私の姿でした。
しかし、イエス・キリストを信じた後の状態は、6つの状態で、 神の子供の特権が与えられたんですけど、
それが、救いの確信、 祈ったら応えてくださる確信、
導きの確信、 また、続けて罪を犯すんですけど、罪の許しの確信、
また、イエス・キリストを皆によって悪霊を追い出すパワー、 また、この世に対して、
祝福の源として生きるようになったという、このすぐことです。
救われる前と、救われた後の状態を比較してみたら、 どれほどわかりやすいのか、私は確信を持つのに役に立ちました。
ところが、これが理論に過ぎませんでした。
今考えてみたら、これは実際、それがうまくできませんでした。
なぜ、私たちが学んだすべてが理論に過ぎない、 実際、それがうまくできなかったのか、
これは、過去の私たちが、 新しい人として変わらなかったからです。
昔の人が死なない、 今、私たちは、昔の人が新しい人に変わる途中で、
中途半端な姿で生きているから、 私たちがそれを確かに感じることができなかったということです。
私たちがまだ死んでいないことは、 礼儀的なことだから、悪魔がよく知っています。
だから、悪魔が相変わらず、お前は昔のまま、 昔の悪魔の奴隷のままだと思って、
悪魔は相変わらず私たちを支配し、 私たちは悪魔に従っていき、
神の御言葉より、この世の習わし、この世の教え、 この世を愛しながら過ごしています。
そうしながら、自分は天国に行くよ、 神の子供だよ、と言っています。
皆さん、これは矛盾です。 なぜ矛盾の中で過ごしているのか、
私たちはまだ死んでいないからです。
そうしてみたら、昔、バリサイビットのように、 表には神の子供だと言いながら、
裏には悪魔の徒弟として、欲に従って、 相変わらず同じように生きていく寄仙者であった。
バリサイビットたちが寄仙者であったように、 キリスト社も寄仙者になって過ごしているのではないでしょうか。
これは一つの事例が、 マタイの16章のペテロのことです。
マタイ16章の15節にイエス様が、「あなたたちは私を 何者だと言っているのか?」と言った時、
ペテロが16節に、「主はキリスト、 生きている神の子です。」と言います。
立派に信仰を告白します。
しかし、次の瞬間、16章23節に、 イエス様がキリストの宮座のために、
ご自分が十字架を背負うことをお話しするから、 ペテロは、「ダメです。絶対阻止ではいけません。」と言います。
その時、イエス様がペテロに振り向いて、 こう言われます。
「サタン、引き下がれ。あなたは私を邪魔する者。 神のことを思わず人間のことを思っている。」としてペテロは叱ります。
先ほど、あなたは立派な信仰を受けた神様が あなたに幸せでくださったよと褒めた後、
すぐのち、「サタン、引き下がれ。」
一体これはどう説明すればいいでしょう。
それを皆さん、先週、金曜、鳥梨祈り会で学んだでしょう。
ペテロの考えと価値観が、 聖遺書的な価値観として変わるべきなのに、相変わらず変わらなかった。
だから、ペテロの考え、また価値観を通して、 悪魔は昔のまま働いていったということです。
私はペテロが信仰告白その現場で、弟子たちが共に行ったので、
それを考えるときに、他の弟子たちも信仰告白に参加したと思います。
ところが、考えと価値観が変わらないまま、昔のままだから、 イスカリとユダのような存在が現れたんです。
じゃあ問題は、過去の私が生きているからです。
過去、私たちは悪魔の奴隷だったのに、変わらないで、死なないで、同じような状態だから、相変わらず、
悪魔は私たちを奴隷として、悪魔がさせるとおり、 私たちが従わなければいけなかったということです。
どうしたらいいでしょう。
このすべての答えは、過去の私が早く死ぬことです。
では、今日の本番に入りましょう。
どうすれば、過去の私が死んで、新しい人として生まれ変わることができるのか。
みなさん、これがキリスト社の一番大事な質問なんです。
第一に手もて二章中一節をもう一度読みましょう。
その御言葉は、パウルの終わりの時、信じるキリストたちに語った御言葉です。
信じるキリスト社たちに語った御言葉です。
次の言葉は信じるです。
私たちがキリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。
耐えしのぶなら、キリスト共に王として支配するようになる。
キリストを否むなら、キリストも私たちを否まれる。
ここで、十字架で死ぬなら、私たちが生きるだけではなく、
キリストと共に、神科学で見てますと、王として支配するようになろうと言います。
しかし、私たちが死なないから、耐えしのぶこともできない。
そして、キリストを否む、キリストを否定するようになるということです。
イエス様に従い、自分を捨てる
ここで死ぬということは、昔の私たちの、実行中心的な昔の私たちが反応しないことです。
生きるということは、私たちがイエス・キリストの人格、イエス・キリストの属性として生きることを意味します。
ここで私たちがどうすれば死ぬことができるのか、今日3つのことをぜひ覚えてください。
まずイエス様が教えてくださりました、マッタイの16章24節です。
それから弟子たちに言われた、私についてきたいものは、自分を捨て、自分の十字架を背負って私に従いなさい。
私についてきたいなら、まずあなたが死ね。死んだ後、私についてきなさいということです。
ここで自分を捨てるという意味は、自分の考えを捨てなさい。自分の観点、自分の価値観を捨てなさいということです。
また私たちの中にある欲、貪り、野望、またこの世に対する価値観、この世を愛するこの心を捨てることです。
また私たちの中に絶えず欲を持たせる、私たちの本性である現在、それと戦うことです。
そして私たちがイエスキリストの心を持ち、イエスキリストの身分と価値観を私のものにすること、これが自分を捨てるということです。
これがどうしてできますか?見言葉です。神の見言葉を学ばなきゃいけない。
また神様との親しい交わりの中で見こえを聞き、神様の身分を私たちが分別し、それに従うことを努力しなければなりません。
また自分の忠実感ということは神様が私たちにくださったビジョン、使命を自分のものとして受け入れること。
また私たちの忠実感の中で大事なのは私たちに与えてくださった各々家庭があります。家族がいます。家族を養うことも私たちの使命です。
また神様が私たちにくださった教会、教会のために自分の役目をしっかり果たすことです。
忠実感という理由はこの働きには寄生と献身が必要だということを意味します。
私たちがこの神様が私たちにくださったこの使命、私たちにくださったこのビジョン、また家庭、教会、それを使えるのに自分を寄生すればするほどそこに神の不可侵の命、不可侵の力を味わうことができるので
忠実感という言葉を使っているのです。
私たちの模範であるイエス様はご自分の考えがありませんでした。
イエス様にイエス様はどう思いますかと言ったらイエス様はご自分の考えで答えるのではなくて
神様の身分を聞いて神様のお考えで答えられました。
神様のお考えがご自分の考えであり、神様の身分が自分の身分でした。
ですからイエス様はいつも神様と私は一つだ、神様と私は同じだという言葉をいつも申し上げました。
またイエス様の十字架は何ですか、キリストとしての自分の使命を担うことでした。
それがどれほど苦しいのか、十字架を背負う前に結成真似で
集中祈りを通して十字架を背負う力をいただいてそれを担ってくださったのです。
十字架は難しいことです。
私たちが自分の十字架を背負うためには自分の力で楽にできません。
結成真似の祈りを通して上からの力を背負って十字架を担うことです。
だから家庭、教会、使命すべては自分の力でできないから
上からの力をいただくために私たちも結成真似の祈りが必要なんです。
それを通して私たちが自分の捨て手、自分の十字架を背負って生きるなら
私たちの中でイエス・キリストが生きておられ復活の力が働くんです。
ここで自分が死ぬということは自分の十字架、自分の捨てる、これを担うことです。
もう一つはヘブライ賞が私たちに教えてくださることです。
皆さんヘブライ賞は初代業界がローマの迫害をすごくひどく迫害されるとき
信仰を捨てる人、信仰生活を諦める人がたくさん現れたんです。
だから信仰を捨ててはいけないよ。迫害のゆえに信仰を捨ててはいけないよ。
だから人たちが信仰を捨てないでそれを乗り越えるパワーを与えるために
昔のあなたが死んで新しい人になって
精霊様がくださる神様の驚くほどの力、神の栄光、不思議な神様のこの不思議な力で生きる方法を教えることによって
ローマの迫害を乗り越えるパワーを身につけるために
昔の人が死んで新しい人に生かされることを教えてくださった。
その御言葉が何かと言いますとヘブライ書4章中2節中3節です。
というのは神の御言葉は生きており力を発揮しどんな諸刃の剣よりも鋭く
精神と霊、関節と骨髓とを切り離すほどに差し通して心の思いや考えを見分けることができます。
神の御言葉は霊と精神と私たちの体を貫く素晴らしい神様の御業。
それで神の御言葉を照らされるときには霊の不純物、心の不純物、体の中の全ての罪が明らかにされるということ。
そしてさらに神の御前には隠された秘装物も一つもなく全てのものが神の目には裸でありさらげ出されているのです。
この神に対して私たちは自分のことを申し述べなければなりません。
神の御言葉が照らされるときにはものすごい神様の勢いをもって霊と心と体を全てを明らかにする。
全てが吐き出されるので神の前で黒くなっているもの、罪があるもの、
全て悪魔に利用されているものを自分の口で全てを告白してそれを神様の前に打ち明けることによってそれが清くなるときに
そこに霊が臨んで霊の不思議な力によって昔の人が死んで新しい人になるだけじゃなくて
聖霊の賜物、聖霊の油注ぎ、聖霊十万、聖霊のこの栄光に輝く姿が与えられるときに
あなたたちは神の栄光によって及ぶため、その神の栄光の力で
世の中の全ての迫害、苦難、難しさを乗り越えることができるよ。
だから信仰を諦めるんじゃない。
見事ばの前で悔い改めて上からの力を背負いなさい。
皆さんこれがヘブライ賞を書かれた人たちの切磋なる心だったんです。
じゃあ皆さんこれ大事なのはこれなんです。
新たに生まれた人々の力強い生き方
これが実際、ユルサレムでこれが明らかになりました。
聖霊に満たされているペトロがユルサレムでシド行で2章36節から38節を言います。
だからイスラエルの善下ははっきり知らなくてはなりません。
あなた方は十字架につけられて殺したイエスを神が主としまた名者としてされた。
これを聞いてユルサレムの人々は大いに心を打たれ
ペトロに他の人たちに兄弟たち私たちはどうしたらいいですかと。
するとペトロは悔い改めなさい。
イエスキルと何をってバブデスマを受け罪を許していただけなさい。
そうすれば他者として聖霊をいただくのになりますよ。
そうした彼たちは悔い改めてそして自分の罪を告白して聖霊をいただいたんですけど
聖霊様が来られた時に恐れが全部しっかり消えてしまい
この人たちはみんな聖霊に満たされる賢悟の人力に満たされる人に変わった。
みなさんこれがイエスキリストの十字架の事件の後だからユルサレムはすごく怖かったんです。
恐怖の年でした。
その中でイエスキリストの福音を伝えることはどれほど怖いことですか。
十字架でかけるイエス様と同じように十字架にかけられて
殺される覚悟をしなければ見言葉を語ることはできませんでした。
しかし新たに生まれた聖霊に満たされる人たちは恐れがなくなりました。
大胆に見言葉を語りました。
これがユルサレムで集まった新たに生まれた人たちのこの姿でした。
この人々が福音を述べされたら
ユルサレムが変わり迫害したローマが結局ギリスト教国として生まれ変わるんです。
これが神の子供たちの天聖力なんです。
じゃあみなさん考えてみましょう。
死んだら生きるという意味はどのような意味ですか。
死ぬということは昔の自分自身。
昔の自分自身が悪魔に奴隷として働くこの昔の自分自身に反応しない。
どうすればこれができるのか。
自分を捨てて自分の政治家を背負ってまた見言葉をいただき悔いを改めることによって自分の死ぬことができます。
生きるということは何ですか。
自分のところに聖霊に満たされて自分の中でイエス・キリストが生きて働くことです。
そして私たちは神様との親しみの中でPLを聖いを聞いて従うことによって生きていくことができるんです。
この生きていくキリスト社に妨げるものは世の中にはありません。
じゃあこの時このように自分が死ぬ時復活されたイエス・キリストがこの人たちのうちに生きておられる。
この人が聖霊に満たされて迫害したローマをひっくり返るパワーになったんです。
こうする時にキリストとしての本当の味、キリスト社はこんな人ですよということを味わうことができたんです。
だからこの時の人々は世の中がどうすることもできない。
力ある人としてローマがもうひっくり返る素晴らしい働きができたでしょう。
じゃあこのような力ある神徒になるためにどうすればこれができるのか。
アメリカの人々は自分が死んで神が自分のうちに生きておられる。
これがどうすればできるのか工夫しながら素晴らしいことを作りました。
これがWWJD
What Would Jesus Do?
イエス様だったらどうされるかなという言葉を皆さんこの弁道を作っている人が大勢いらっしゃるでしょう。
じゃあ私たちが何かする前に何か行動を起こす前に何か少し待って考えてみよう。
シューだったらイエス様だったらどうされるかな。
What Would Jesus Do?
イエス様だったらどうされるかな。
私が勝手に語るんじゃなくて私が勝手に行動するんじゃなくて
イエス様だったらどうされるかなと思ってそこにパッと思い出されることを思って語る。
そして行動する。
そのことによって私が働くんじゃなくて
私は死んで私のうちにおられるキリストが生きて働くそのようになるということです。
これをずっと訓練しながらそれを自分のものにするなら
自分が死んで自分のうちにキリストが生きておられる生活を実践することができる。
だから世の中の人々がキリスト者たちがみんな自分が死んでキリストが生きておられる働く
この正しい信仰を追い求めるようになるんです。
それが私たちに教えてくださることです。
話は少し変わりますけど私はいつもこれを考えます。
今は終わりの時です。
イエス様の再臨が近づいているので
皆さん今イエス様の再臨がどれほど近づいているのか
本当に今ニュースに出ていることいろいろ僕先生のメッセージを通して皆さん感じていることでしょう。
ノアとロッドの家族
終わりの時はイエス様の再臨の時はノアの時代ロッドの時代と同じだと言います。
ところでノアの家族はノアの夫婦と3人の子供の夫婦8人です。
その8人の中で1人も離脱する人がいなかったんです。
みんな救われました。
ところがロッドの家族は夫婦と2人の娘と2人の息子がいました。
彼らはアブラムの取りなしの祈りによって神様から滅亡の中で救われるようになっていました。
ソドムとコモラが滅亡する時ロッドの家族だけは天使を送ってくださって
ソドムと滅亡するべきソドムから救われるようになりました。
ところがロッドの妻は塩の柱になりロッドの息子たちはソドムと人と同じように滅亡され
ロッドの娘2人は父との近親相談によって恥ずかしい歴史を残りました。
私は父の信仰の状態、家庭の教育の問題ではないかと思います。
ロッドの家族はなぜためになりましたか?
ロッドの家族は世の中と信仰の二股かける信仰をやりました。
この世も愛し神様も愛し両方愛する信仰を生活します。
結局その家族はロッドだけは悲惨に救われ
ロッドの2人の娘は父との関係の中でモアブとアンモンの侮辱を残し
ロッドの妻は塩の柱になり息子たちは全部ソドムと同じように滅亡されました。
なぜなのか?二股かける信仰です。
二股かける信仰は必ず悲惨になります。ダメになります。
ですから私たちはこの世に対して死んで
自分自身に対して死んで
神に対して生きる信仰によっていかなければなりません。
中途半端な信仰とは
この世を愛する信仰をやめて
徹底的に神様だけを愛する信仰として訓練し武装しなければなりません。
私そのためにはギリスト教の最大の課題は
昔の私が死ぬことです。
死ぬということは昔の私は反応しない。
だったら私はどうすればいいですか?
私の家に来られ生きておられる
イエス・キリストが生きて私の体を通して働くようにすることです。
そうするなら私は死んで私の家におられるキリストが働くから
キリストの力で生きることができるし
キリストが私を完全な道に導いてくださるでしょう。
これが皆さん最後の時
ソドムとコマラのように滅ぼされるこの世の中から
救われる唯一の道です。
ここで中途半端な信仰はダメです。
だからパウルはこのように
自分の人生の勝利の秘訣を教えてくださるんですけど
これはガラディア書2章20節
私はキリストと共に十字架につけられています。
私はキリストと共に死んでいます。
生きているのはもはや私ではありません。
キリストが私の家に生きておられるんです。
私は今、陸において生きているのは
私を愛し、私のために身を捧げられた
神の子に対する信仰によることです。
と言います。
皆さん、これが私たちの信仰になりますように
ぜひともぜひとも最後になればなるほど
ロットのような中途半端な信仰
二股かける信仰はダメです。
結局自分もダメになるし
自分の一番愛する家族が皆さん地獄に来るのを
私たちは見るかもしれない。
私はしっかり信仰を持って
アブラームのように
またはパウロのような信仰を
しっかり持ち続けなければなりません。
ぜひとも私たちはこのような信仰を貫いていきましょう。
お祈りいたします。
主よ、キリストの
キリストを支配としのる人生は
罪によって悪魔の奴隷になって
貪りについて
滅ぼされるべき昔の人を脱ぎ捨てて
キリストに見習った新しい人になり
それが始まることなんですけど
イスカレーデユーダー
またロットの妻のように
相変わらずこの世に対する未練が多い
私たちを憐れんでください。
自分の捨て手や自分の十字架を背負う
また見事な聖霊によって
新しい人を身につける
その働きができることを
神様、力を与えてください。
聖霊様、助けてください。
終わりの時に一人も滅ぼされないで
みんな救われ
天国に入り
イエス様と共に永遠に生きる
私たちにならせてください。
神様の皆を通してお祈りいたします。
アーメン
34:59

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