じゃあ今日は、福音の火種、生きていますか? ということを対応をもって、メッセージを分かち合いたいと思います。
私たちの教会のビジョンは、回復とリバイバルです。 その回復とリバイバルを実践する、具体的な実践目標は、新しい川袋の教会を作ることです。
ですから、私たちの教会は、教会がいつもやるべき5つの業務がある。 基本的な業務、礼拝、賛美と祈り、また神様に捧げる、また信徒たちの交わり、そして伝道、これはどんな教会でもみんながやっていることです。
そこに加えて、私たちの教会は、新しい川袋の教会作り、これをやっています。 また、私たちは
リバイバルを準備している日本の各教会があります。 いろいろ探したんですけど、今、結成招会がそのところです。
その結成招会と協力して、そして日本全国のリバイバルのために準備している 群れの中に直して、それでいつも毎月集まって祈ったり働いたりしているところであります。
じゃあ、なぜ私たちはこれをやっているのか。 イエス様がお話しされました、マルコ2章22節。
また誰も新しい葡萄酒を古い川袋に入れたりはしない。 そんなことをすれば、葡萄酒は川袋を破り、葡萄酒も川袋もためになる。
新しい葡萄酒は新しい川袋に入れるものだと言われました。 皆さん、これが行けば行くほどこれが大事だなぁと思っているところであります。
ではリバイバルが来るなら、いったいどんなことが私たちの周りに起こるのか。 これが聖書に表れています。
今日は首都行伝2章から4章までそれを分かち合いながら、私たちはどんな覚悟で今リバイバルの準備をしなきゃいけないのか、それを一緒に考えていきたいと思います。
リバイバルが来るなら何が起こるか。 楽しみにしているところでありますけど、それは首都行伝2章から4章で表れています。
2章2節から読んでみますと、エルサレムのリバイバルが来たんですけど、 このリバイバルが誰の働きによって来たのか。
もちろんイエス様とイエス様の従う弟子たちの働きによってリバイバルが来るようになった。 その働きは主に器作りをしっかりした。
このリバイバルが来た時に、このリバイバルの味を誰が味見をしていたのか。 これは大事なんです。
2章から4章までは3つの部類の人が現れます。
一つはまず宗教指導者たちと優れた立法学者、バリサイ人のようなリーダーたちです。
その人たちは誰もリバイバルを味わうことができませんでした。
エルサレムにリバイバルが来たのに、同じエルサレムに住んでいながらも、 宗教指導者たちはリバイバルを全然体験することはできませんでした。
また、宗教指導者たちが礼拝を捧げるエルサレム神殿。 ものすごい華麗で立派で、
そのいつも礼拝されているこのヘルデの神殿、 その中にはリバイバルを味わうことが全くできませんでした。
リバイバルがエルサレムにどこに来たのか。 ある個人の家庭に来ました。
マルコの家のアッパルン、理解の部屋と言いましょうかね。
マルコの家の個人の家の理解の部屋に来ただけで、 周りの人は全然味わうことができなかったんです。
これがイエス様が言われた新しい葡萄酒は、 新しい革袋に入れるものだと言われることです。
反面、両氏とチョウジェイニン出身、 罪人たちのような使徒と弟子たちを通してリバイバルが来ました。
また、使徒たちと弟子たちは、 火で、炎によって与えられた精霊のリバイバルを、
自分の体で、全部これを体験することができました。
3節を見ますと、 そして、炎のような舌がわかれわかれに現れ、 一人一人の上に留まったと言うんです。
皆さん、火が私の上にクーッと留まると言ったら、 ものすごい熱かったと思います。
熱いと言われたと思います。 自分の体全体を通してリバイバルを味見をしました。
もう一つの部類は、謙遜な人たちです。
彼らは両氏とチョウジェイニン、 イスラエルでは当時チョウジェイニンと言ったら、
相手にしてはいけない、いろいろ随便と扱いをした人です。
その出身の人たちのメッセージを聞いて、 悔いを荒めたり、イエス・キリストを受け入れたりした、
この謙遜な人たちがリバイバルを体験しました。
ここで皆さん、リバイバルを体験したということは、 神に出会ったということです。
リバイバルを体験していなかったということは、 神様に出会うことができなかったということです。
私たちは優しく、新しい葡萄酒を 新しい革袋に入れるものだと言っていますけど、
皆さん、リバイバルが来てみてら、 この人がどんな器を持っているのか、
新しい革袋なのか、古い革袋なのか、 明確に現れされると思います。
私たちの教会は、新しい革袋の教会になりたい。
また、私たちの働きによって、東京にリバイバルが来るように、
また、私たちみんなは、リバイバルを弟子たちのように、 炎の力として臨む、
リバイバルを自分の体で、 ぜひ体験したいと思っています。
では、リバイバルが来たとき、どんなことが起こったのか。
聖霊様が一人一人の上に、 炎の力として臨んだときに、何があったのか。
この人たちはみんな、火を受けたと言いましょうか。
炎の力を受けました。 聖霊の火を受けたということです。
これを、イエス様は、一詩八節に、
あなた方の上に聖霊が下ると、 あなた方は力を受けろと言いました。
炎の火として与えられたこれを、 イエス様は、聖霊の力を受けろと言われました。
この聖霊の力をいただいた人が、地の果てにまで、 イエス様の証人になれるのです。
私たちは伝道しましょう、やりましょうと言うのですが、
まず準備しなければいけないことは、聖霊の力です。
聖霊の力をいただいて、証人になるのです。
それはなしで証人になるということは、 自分の力でやろうとするので、
それはなかなか霊的な戦いで、 難しいのではないでしょうか。
だからまず、聖霊の炎の力をいただきましょうと言いました。
また、リバイバルによって二番目に現れたことは、
自分たちが分からない他の国の言葉で、 威厳を語るようになったということです。
当時、ペンテコストの日、五巡祭は、 エルサレムで行ったときには、
地中海の周りの16ヶ国の国から、
ユダヤ人とユダヤ教に回収した人々が、 エルサレムでみんな集まりました。
だから大勢の人が集まっていたのです。
しかし彼らが、カリラへの漁師出身の人なのに、
田舎の人なのに、海外に住んでいる自分の国の言葉で、
神の大きな働きを語られた。
ここでびっくりするのです。
どうしてあなたたちは私たちの言葉を知っているのか?
どうしてそれで私たちが分かりやすく、 海国の言葉で私たちを説明するのか?
みんながびっくりするのです。
この言葉を知っているのか? カリラへの漁師たちが。
誰かこの現状を説明しなきゃいけないところで、 ペトロが立ち上がりました。
そしてこのリバイバル、今行われたこのいろいろな働き、
これとイエス・キリストがどんな関係があるのか説明します。
これが水道教で2章22節からのことです。
エルサレムの人たち、この話を聞いてください。
ナゼルの人、イエスこそ神様からお使いされた方です。
このイエスをあなたたちは立法を知らない者たち、
ローマの人、ローマの人の手を借りて、 十字架につけて殺してしまったのです。
しかし神はこのイエスを死の苦しみから解放して、 復活させられました。
それでイエスが神の右に挙げられ、約束された聖霊を父からいただいて、 あなたたちに送ってくださったことです。
だから今私たちがいただいたこの炎の力、 この不思議な力は聖霊様なので、
その聖霊様を送ってくださった方はイエス様。
イエス様が復活されて、昇天されて、神の右の者ですと言って、 神様から聖霊をいただいて私たちに送ってくださった。
これを説明します。
私たちが聖霊を受けてこんなになったこと、 皆さん見てください。
あなたたちも悔いを改めるなら、イエスキリストを信じるなら、 私たちみたいに聖霊を送ることができますよ、とペテロが言いました。
そうしたら集まった群れたちがみんな悔いを改め始めたのです。
これが1行で2章37節38節。
人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、 ペテロは他の人たちに兄弟たち私たちはどうしたらいいですかと言った。
するとペテロは彼らに言った。
悔いを改めなさい。メイメイ。イエスキリスト何よってバブデスマを受け、 罪を許していただきなさい。
そうすればプレゼントとして聖霊を受けることができますよと言いました。
それでみんな悔いを改めてイエス様信じますと言いました。
その日、聖霊様がどれほど大きく働かれた。
皆さん聖霊様は悔いを改めるところで大きく来られるんです。
悔い改めがすごく大事です。
41節に見てますと、その日3000人が悔い改めてイエス様を信じて、 その弟子たちの仲間に加えられた。
3000人ですよ。
私たちは今左を送ってください。
左に10人でもと言うんですけど、
3000人が一気に与えられたとしたら皆さんどうすればいいでしょうか。
イエルサレムで使徒たちの群れにはそのことがありました。
じゃあ皆さん、これは使徒たちが今日私たちは何か何かやりましょう、計画を立てて、
それを実践して、それで何かを行われたことではありませんでした。
彼らは全然計画を立ててませんでした。
何にもやってませんでした。
ただ、聖霊様が来られたら、
聖霊様自らが使徒たちを利用してこんな働きをされたんです。
だからリバイバルが来るなら私たちは何をすればいいのか心配する位置はありません。
聖霊様が来られたら、お祈りお祈りの上、
聖霊様がこれから何をすればいいのか、
全部教えてくださるだけじゃなくて、
皆さんを導いておられ、
もう道教のあちこちで不思議な技を、
神様の素晴らしい御技を起こしてくださると信じます。
その次の日、聖霊様がどのように働かれるんですか。
午後3時にペテロとヨアネが神殿に祈りにために行きます。
その祈りのために神殿に行ったところで、
神殿にこの美しい門という門があるんですけど、
みなさんどうしたらいいでしょう?
その話を聞いて大祭司、また宗教主導者たちは大騒ぎになりました。
彼らはもう大変だったと思って人たちを捕まえて牢に入れました。
それで人たちを呼んで尋問します。
その時ペテロが大祭司長と人たちの前で
今行ったことがなぜできたのかを説明します。
あなた方もイスラエルの全体を知っていただきたい。
この人がよくなってみんなの前に立っているのは
あなた方が十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられた
あのナゼレ人イエスキリストの名によるものです。
他の誰によっても救いは得られません。
私たちが救われるべき名は天下のこの名のほか
人間に与えられたことはありません。
ペテロ素晴らしいでしょう?
無学者ペテロが宗教主導者たち、立法学者たちの前で
こんな素晴らしいメッセージをするんだ。
そうしたら宗教主導者たちはどうしたらいいか分からなくなっちゃった。
ですからこの人たちを脅しをしながら釈放してあげます。
彼らがこう言います。
あの者たちがどうしようか、あの者たちをどうしたらいいでしょうか。
彼らが行っためざましい示しは、
イエルサルムに棲む全ての人が知れは立って、それを否定することはできません。
しかしこのことがこれ以上民衆の間に広まることはないように、
今後あの名によって誰でも話すことはないように脅しておこう。
そして脅して、この人たちを釈放します。
皆さん、共同体がいつ作られたのか、集められたのか。
宗教主導者たちの脅しの中で信仰共同体が立てられた。
平安の中ではありません、安全なところではありません。
周りがもう怯えている、もう脅して殺してやるわと言っているところで、
信徒たちの共同体が集まったということです。
創世紀2章にも、指導経典2章にも共同体が立てられ、
ちょうど指導経典4章にも集まるんですけれど、4章32節、
信じた人々の群れは心と思いを一つに、
一人として持ち物、自分のものだという人がいなく、
みんなそれを共有しながら愛し合った。
恋愛し賛美し、神様を褒めたたえたので、
おびただしい人々がその仲間に加えられた。
これが神様の伝道です。
神様の伝道は、一人一人教会に来て下さい、このことではありません。
リバイバルが起こったら、ゴリンジャイ伝道ということがあって、
ものすごいパワーが周りに引き渡され、
そして周りに歩いている人が、もうその群れに加えられ、
涙を流して、もうそれでイエス様を信じますと言うように、
これは不思議な力に引っ張られるようなパワーで、
リバイバルが来たら人々が救われるようになる。
初めは、ペンテコステのリバイバルの威厳を語ることを不思議に思って人々が集められた。
この3章には足が使えない人が癒やされる、
癒やしの軌跡によって人々が集められた。
そうしたら問題が起こります。
今まで静かに教会で礼拝ばかり捧げて、
教理・立法を静かに守っていく、これが信仰生活だと思っていたイエルサイレムの信徒たちは、
今私たちが見ていることはどう理解すればいいか。
静かに礼拝し、静かに立法を守ることが信仰生活だと思っている人が、
この大騒ぎのような精霊による軌跡と癒やしといろいろな働きを見て、
一体これはどのように理解すればいいか分からなくなっちゃった。
特にこれがイエス・キリストの皆によって行われたと証するから、
イエス・キリストを実際殺した宗教主導者たち、またイエルサイレムのユダヤ人たち、
この人は加害者ですから、人殺しですから、
自分たちがこれをどのように説明すればいいか分からなくなった。
だから彼らたちは言います。
使徒経典4章18節から、そして二人を呼び戻し、
決してイエスの名によって話したり教えたりしてはいけないと命令した。
しかしペテルとヨアネは答えた。
神に従わないであなた方に従うことが、神の前で正しいことは考えてみろと言う。
私たちは見たこと、聞いたことは伝えることを伝えなければいけませんと言います。
不可抗力と言いましょうか。
どうすることもできないこの使徒たちの働き。
これを抑えることもできない。
これが大祭司たち、宗教主導者たちの働きでした。
この状況をずっと見ていた神教共同体の使徒たちと弟子たちが神様に嘆きの祈りを捧げるんですけど、
これが今日読んでくださった聖書です。
私は29節から読んでみましょう。
主よ、今こそ彼らの脅しを目を止め、
あなたの子供達が思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにして下さり、
どうか御手を伸ばし、聖なるしもべイエスの名によって病気を癒していただき、
しるしや不思議な業を行われるようにして下さいと言います。
そのように祈ったら、その集まったところが揺れを起きながら、もう一度イエルサレムにリバイバルが来た。
これから皆さん、イエルサレムが何回もリバイバルの中でこのリバイバルが来ます。
その時、共同体がますます増えていき、その時パルナバという人も共同体に合流したと。
ここで一行伝の記録パターンがあります。
聖霊のリバイバルが来て、みんなが聖霊十万になれるなら、
自分たちが計画を立てたのではなく、
聖霊様の導きによって、行くところどころ不思議な働きが起こる。
行くところどころ不思議な奇跡が起こる。
聖霊の働きを行ったら、次は必ず函館が来ています。
その時、信徒たちが神様に叫び求めるなら、そこにもう一度リバイバルが来ます。
福音を伝えたら、奇跡が起こります。
それを見て反対者たちは函館します。
それをもって神様に祈るなら、それを乗り越える大きなリバイバルが来る。
それで第二、第三のリバイバルによって、福音がイエルサレム、ユダヤ、サマリア、
そして地の果てにまで、ますます広まっていくんです。
リバイバルが来たらいい面は、信徒たちは力と勇気をいただきます。
大胆さが与えられます。恐れがなくなります。
みなさん、恐れがなくなる。不安、心配がなくなる。
これでもすごいことですよ。
また伝道が行われます。また癒しが伴います。奇跡が伴います。
しかしいい面だけあることではありません。難しいことあるんですけど、必ず敵が攻撃します。
この敵はどなたなのか。同じ信仰を持っている宗教主導者たちでした。
彼らたちも神様信じてと言いました。
彼らたちはどんな人なのか。古いカーブクロの人です。
新しいカーブクロの人たちを攻撃します。
みなさん、今は古いカーブクロ、新しいカーブクロよく見えないんです。
しかしリバイバルが来たら、古いカーブクロが現れて、新しいカーブクロを迫害します。
同じ信仰を持っている人のように見えるんですけど、
神の前では古いカーブクロ、新しいカーブクロは全然違うんです。
この後、聖書をちょっと読んでみますと、
宗教主導者たちの迫害、牢に閉じ込められ、
ステパーノが宗教主導者たちによって殉教され、
エルサレムから追い出され、
エルサレムから追い出された人々はエルサレムにある家、財産をそのまま置いていって逃げるでしょう。
だから全財産を奪われ、死の恐怖の中で苦しむんですけど、
彼たちはこのような迫害、このようなことをどのように乗り越えたのでしょうか?
イエス・キリストの皆によって。
皆さん、イエス・キリストの皆によって何があるのか?
シト・パウルはエペソ1章3節に、
イエス・キリストの皆の中には神様の神霊な祝福が全部あると言います。
今持っている財産いらない。
イエス・キリストの皆によるパワーが、これから私たちを食べさせ、
活かさせ、癒やされ、すべてを満たしてくださるんです。
皆さん、リバイバルを聞いてみれば、イエス・キリストの皆がどれほど素晴らしくか分かります。
イエス・キリストの名前を呼ぶときに、
聖霊様が働いて、すべてを解決してくださります。
だったら、私からは、もう福音の見業が何にも起こらないんじゃないですかと思って、
神様を求めていたら、神様が聖書をください。これが、マタイの中二章二重説です。
イエス様ですけど、彼は傷ついた足を折らず、くすぶる刀身を消さない。
また、異邦人は彼の名を望みをかけると言いました。
ここで見て、皆さん、イエス様は、くすぶる刀身、今、消えていくこの火を消さないお方だ。
ああ、私は消えていくものだったんですけど、イエス様は、私の中にある福音の火種を消さない方だと。
また、異邦人たちに希望を与えるお方だと。異邦人は、私に希望を与えるお方。
イエス様は信じます。私の家に火種をもう一度燃やしてください。
この火種を通して、日本の方々を救うように、神様、私を使ってください。
私はこれを、本当に必死に神様に求めることができました。
皆さん、私は新学校の時に、私の証があります。これを皆さんに申し上げたいと。
福岡の新学校の時に、九州の長崎の少し下の熊本の少し下のところに行ったら、
水俣というところがあります。水俣に、新学業種と新学生が研磨、実践、修行ということでやるように行きました。
水俣病ということが、昔、1950年代ですかね、化学工場から出た汚染物が、魚とか海産物の中に入って、
その海産物を食べた人の体が、いろいろ麻痺がきったり、いろいろな問題が起こることでした。
これで、この住民たちは深刻な被害を受けました。
この被害を受けた水俣病の被害者たちを、面倒を見ている人たちがいるということを知っていますか。
私は新学校の時に向こうに行って分かりました。このボルンティアたちはすごいですよ。
この人たちは、その人と一緒に生活をしながら、その人を助けるんですけど、
政府に対していろいろな抗議をしながら、この人たちのためにいろいろな働きをやっていることです。
その人たちが、私たちが行ったところでこう言いました。
私たちはこの人を面倒を見るために、こんな働きを今までやっている。
しかし、キリスト教は何をしていたのか。
キリスト教は水俣病があって、みんなが被害を受けた時に、キリスト教は一体何をしたのか。
どうして今になってから来て、この人たちになんとか伝導するとか、福音を伝えるとか話をするのか。
それで、この人たちが妨げになって、私たちがその人を直接であったりすることはできなくなったんです。
だから現場に行って、その人たちに出会うこともできない。福音を伝えることもできない。
その悲惨さだけ聞いて、それでその夜、
神学の教授と一緒にいた学生たちが一緒に交わりの場、対話の場を作るんですけど、
そこに驚いたものがありました。
神学教授と神学生たちがお酒、日本酒を持ってきて、それを教授は大好きですね。
それを飲むんです、夜通し、お酒。
私は韓国出身だから、韓国の信者たちもなかなかお酒を飲まないじゃん。
また、お酒を飲んだらクリスタルらしくないと言われるところなんです。
向こうにいたら神学教授がお酒、また神学生たちがお酒を飲ませるようなこの雰囲気。
それを見て私はかっかりしました。
それで夜明けになって、みんな寝ているところで、私一人外に出ました。
もうどうすることができないこの鬱憤ということがあって、外に出て、
そこで私が叫んだことが、今日読んでくださった、使徒行伝4章のところなんです。
29節からもう一度読んでみましょう。
主よ、今こそ彼らの脅しを目を止め、
あなたの子供たちが思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。
どうか御手を伸ばし、聖なる子供へイエスの名によって病気が癒され、
知る人を不思議な業が行われるようにしてください。
私はこの祈りを何回も朝起きて、周りをクーッと回りながら、
それでこの祈りをし、神様に祈って、また祈りをし、もう涙が出る。
こんなね、なんとか殿堂するべきものなんですけど、現場ではキリスト教、昔何を知っていたのか。
今になってキリスト教に来て、福音を伝えるとか何とか言う。
あなた出てけ。
そのところに行って福音を伝えるべき神学者と神学生の集まりは夜通しお酒を飲んでいる。
この現実を見て腹が立ち、神の心で私はもうこの聖書を何回も何回も何回も何回も繰り返ししました。
ああ、その時私には心の中で火種が生きているような気がしました。
ところが今はどうでしょう。
今は少し恥ずかしいところなんですけど、
私は私の中にこのイエス様はくすぶる投資を消さないお方だと信じているから、
私の火種を消さなくて、イエス様はそれを生かしてくださるんじゃないかと。