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2021-03-14 25:00

「神様に祝福される敬虔な生活」2021年3月14日(日)メッセージ

東京ぶどうの木教会 2021年3月14日(日)主日礼拝のメッセージです。

牧師:アブラハム黄

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今日は、神様に祝福される経験な生活流体で メッセージを分かち合いたいと思います。
今、私たちは国の非常地帯の真っ先の中にいますけど、
教会は山上の水群を分かち合っています。 なぜ山上の水群なのか、
暗くて怖い今の時代、神の子どもたちは何を目指してどう生きるべきかを 一番よく教えてくださる聖書だからです。
先週、御国を得られる完全な立法という体で メッセージを分かち合いましたけど、
どうすれば御国が成し遂げられるとお話しいたしましたか。 コロナが就職して
お金をたくさん稼ぐようになったら御国が成し遂げられますか。 いいえ、私たちは他人に対して怒るとか他人を軽蔑しないことで、
また異性に対して乱れの思いを抱かないことで、 また口を慎んで
誓いをしない、また守れない約束を無闇にしないことで、 また悪者に対して報復しないで、
敵を愛することで御国を得ることができると皆さんに申し上げました。 ところがどのようにすればこのような働きを私たちはできますか。
イエス様の十字架の御業に委ねて 私たちが完全な生活をすることをそんなに願われるイエス様が私たちの代わりに十字架で死んでくださったその身心を私たちが知るなら、
その身心が恵みとして照らされるなら、 その恵みの力で守ることができると申し上げました。
ご理解いただけたでしょうか。 続きまして今日は神の子供の経験な生活についてお話し分かち合いたいと思います。
経験な生活を他の言葉で、 器用なし遂げる生活だと言えるんですけど、
そのような生活には神様の大きな報いがあります。 コロナによって難しい今の時代、
私たちの信仰生活が神様に祝福される生活になることを願いながら、 今日のメッセージを準備しました。
では第一番です。 信仰生活は神の気を成し遂げる生活なんですけど、
神様が認める気になるために一番大事なのは、 神様は隠されていることを見ておられる方だということです。
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誰もが神様の前で正しい信仰生活をしたいでしょう。 ところが気を行う時、犯しやすい過ちがあるんですけど、
それは真心ではなく、他の人が見てくれることを期待しながら気を行うことです。
皆さんこれを気善と言うでしょう。 私たちはこのような過ちをしやすいんです。
なぜなら人間は本能的に人からの認め、 称賛、評価を願う心があるからです。
みんながそうです。他の人が私を何と言うか、 いつも気にしているんですね。
また悪口を言うならどうするかと言いながら、 家で行う行為と外で行う行為が違う、
気善的な生活をします。 ですから一生涯気善者としているのではないでしょうか。
ところが皆さん、神様と私たち人間の違いは何かご存知ですか。
聖書サムエル条の16章7節に、 しかし主はサムエルに言われた、
用紙や背の高さに目を向けるな。 私は彼らを退ける。
人間が見るようには見ない。 人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。
そうです。人は思ってしかわかりません。
ですから言葉、語彙を見て判断します。 ところが神は心を見ておられます。
心の中心を見ておられます。 私たちがどんな働きをしても、
なぜそんな働きをしたのか、その動機を見ておられるのです。 見るところが違うんです。
今日の聖書マタエの6章1節。 見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。
さもないと、あなた方の天の父のもとで、 報いをいただけないことになると言います。
偽人者ぶりで、いくら熱心に働いても、 神様には何の意味もないということです。
ご褒美や報いもありません。 むしろ、偽人者たちに与える罰があります。
神様が願われる、 経験な生活を義ということなんですけど、
その範囲は、私たちの生活のすべての領域に当てはまります。
何より、神様に対して、また隣人に対して、 また自分自身に対して、正しく行わなければなりません。
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では、2番です。 具体的に神の子供の経験な生活について、
マタエの福音書6章では、3つのことを私たちに教えてくださいます。 まず、第初めに、
救済・施しは神様だけが見るように行なうなさいと言います。
救済、これは隣人に対してです。 貧しい人に自分の所有物を分け与える。
自己中心的なこの世の中で、そんな人がいるなら、最高ですね。 神様はどれほど喜ばれるでしょうか。
前回も申しましたけど、神言中9章中7節。 弱者に施しをする人は、主に貸す人。
その行いは必ず報いられると言います。 救済には2つの意味がありますけど、
生活の救済があります。 生活を助けて自立できるようにしてあげること。
これもいいですけど、礼的な救済もあります。 地獄に行くしかない人々に、イエス・キリストの福音を述べ伝えて、天国に導く。
また、礼的に縛られている人々を助けて、礼的な自由をもたらすこと。 素晴らしいですね。
自分の生活も忙しいのに、他の人を助けるために、こんなに時間と労力を、また心を尽くす、この美しい献身。
本当に本当に素晴らしいです。 しかし、この美しい献身を真心ではなく、偽善で行うなら、皆さんどう思いますか。
イエス様はこう言われます。マタエの6章2節です。 だからあなたは施しをする時には、偽善者たちが広から褒められるように、
街道や街角でするように、自分の前でラッパーを吹き鳴らしてはならない。 はっきりあなた方に言っておく。彼らはすでに報いを受けていると言います。
ラッパーを吹き鳴らす。 どんな意味ですか。
私はこのように人を助ける役割を知っているんだ。 私はこんな人だ。
私を認めてくれ。 献身的な自分自身を誰かが褒めてくれることを願う真理。
だと言いましょうか。 本当に人間は目立たせたいですね。
褒めてもらいたいことを本当に好きなんですね。 イエス様はこう言われます。
マタエの6章3節4節。 施しをする時は、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。
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あなたの施しを人目につかせないようダメである。 そうすれば隠されていることを見ておられる父があなたに報いてくださろう。
皆さん、右の手のすることを左の手がわからないように。 それ可能なんでしょうか。
それほど人目につかせないようにしなさいということです。
ところがなぜ人々は他の人々から賞賛と認めを求めるんでしょう。 神様が報いてくださることを信じないからですか。
神の気を知らない、また自分の気を目立たせるためでしょうか。 そのような献身はいくら熱心にやってもご褒美もなく、
偽善者たちに与える罰だけがあります。 私たちはそのようなことをしないように特に注意していきましょう。
2番目、祈ることも神様だけが見るように祈りなさいと言われます。 祈りは神様との関係で非常に大事です。
祈りは神様との対話、 経験的な生活の革新であり、教会の神との生命力の秘訣なんです。
先週、シト・パウロが殺され教会が異端に容易に攻撃される理由を
祈りの活気を失ったからだと言いました。 それほど祈りが大事です。
教会が祈りがなければ、教会は攻撃を切るんですね。
ところが祈りに一番警戒すべきことがありますけど、それが私の六書講説。
祈る時にはあなた方は偽善者のようであってはならない。 偽善者たちは人に見てもらおうと
街道や大通りの角に立って祈りたがる。 はっきり言っておく、彼らはすでに報いを受けていると言います。
祈る時、警戒すべきことは偽善ということです。 神様に見せるためではなく、人に見せるため。
なぜそうするんですか。 祈りをたくさんする立派な人だという尊敬をもらいたくてそうするのでしょうか。
私も大学時代、教会で熱心に祈りをしました。 蒼天の祈りだけではなく、水曜日の祈祷会、金曜、徹夜祈り
熱心に参加して誰よりも長く長く祈りました。 そのように何年もしたら、信徒たちの間で私に対して
祈りの人だという噂がありました。 気分良かったですね。
12:05
その時から何かがあって、祈祷会に参加できない時は 人々が私に対して失望したらどうするか
ひどみを気にするようになりました。 祈りをたくさんするなら人々はそうする話をするかもしれませんけど
私たちは他人の話に影響を受けてはなりません。 祈りを聞いてくださる神様だけをあがめなければなりません。
ですからイエス様は6章6節に、 だからあなたが祈る時は奥また自分の部屋に入って
祈りは神様との合意の対話です。 ですから祈りをたくさんする人は他の人々が知らない、神様と自分との間の信仰の秘密を持つ人であると言うことです。
ですから祈りをたくさんする人は他の人々が知らない、神様と自分との間の信仰の秘密を持つ人になります。
祈る時特に注意しましょう。 人の前ではなく神様だけが聞いてくださる、それを願う心でどこでもいつでも静かなところでたくさん祈ることができますように。
また犯しやすい過ちがあります。これはくどくど述べることです。 7節に、またあなた方が祈る時は違法人のようにくどくど述べてはならない。
違法人は言葉数が多ければ聞き入れられると思い込んでいる、勘違いしているということです。
同じ言葉を繰り返し繰り返しするなら、その熱心さを見て聞いてくださるんじゃないか。
いいえ、神様はすでにご存知です。 祈りは数ではなく質です、深さです、また祈りの項目も大事です。
ですから9節から14節まで、あなたたちはこの世に祈りなさいと言いながら、 イエス様が教えてくださったことが主の祈りです。
主の祈りで大事なのは、正しい大目で祈ることです。 神様に対して、自分に対して軌道項目が書かれてありますけど、
それは基本的なことです。 私たちはそれ以外、愛する方々、また全ての方々、また日本のために、とりなし祈りをしなければなりません。
私たちが正しい心で祈るなら、神様を喜びながら必ず聞いてくださるでしょう。
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3番目、断食することも神様だけが見るように断食しなければいけません。
救済は隣人のため、祈りは神様との関係のためだとするなら、断食は自分の霊的な目的のためです。
断食はいつも神の気を求めるその霊的な目的があります。
断食は飲食を節制することなんですけど、利点はたくさんあります。
なかなか断ち切れない罪、その問題の解決、またこの世に対する欲を下ろすため。
皆さん、欲があれば絶対純粋な信仰はできません。 断食しながら欲を捨てるんです。
また断食を通して心を謙遜にし清くすることもできるし、また断食しながら祈るなら悪霊を追い出すこともできるんです。
断食の祈りは霊的な力が強いんです。 ですからイスラエルは毎年断食の日を決めて国民みんなが祈りました。
また国会的な災いの時は王様は断食を宣言しみんなが断食をするようにしました。
また個人の目的のために聖書の先輩たちはたくさん断食をされました。 それがイエス様の時代には謝って
立派な信仰の釈度として自分自身を誇る道具に転落しました。 私は立派な信仰者で断食もしているよ。
見せるため、また辛い顔をしながら。 しかしそのような祈りはいくらたくさんやっても意味がないと言われます。
イエス様は彼らたちに6章17節18節に
あなたは断食する時顔に油をつけ 頭に油をつけ顔を洗いなさい
それはあなたの断食が人に気付かされず隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである
そうすれば隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださると言います 結局断食は誰に対してすることでしょうか
神様です 神様が見られます
神様が応えられるんです 私たちの中心を見ておられる神様が受け入れるのに正しい断食をするなら
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神様が受け入れてくださり応えてくださるのです このように祈り救済
祈り断食はユダヤ人が神様に近づくための手段として用いられました
ところがイエス様の時代ではそれが誤って使われる 自分の信仰を誇るものとして用いられたんです
現在の私たちはいかがですか 私たちは断食をあまりしないでしょう
私は断食ができないですね 悔い改めながらこれを取り戻さなければいけないし
誠の救済も活性化しながら誠の祈りもしなければなりません 私たちは神の御化を求める祈りを強調してきたんですけど
隠れたところを見ておられる神様に 個人的にたくさんの時間を用いて祈ることを祝福いたします
では3番です 誠の経験な信仰生活には必ず神様の報い
祝福があります 報いを求める信仰は悪い信仰ですか
いいえ もともと信仰とはヘブライ賞注意書1節に
信仰とは望んでいる事柄を確信し見えない事実を確認することだと言います 望むことがなければ信仰は成り立ちないんです
また注意書6節には信仰がなければ神に喜ばれることはありません 神に近づくものは神が存在しておられること
また神はご自分を求める者たちに報いてくださる方であることを 信じなければなりませんと言います
神様の報いを期待しなさいと言います 皆さん私たちは神様の恵みがなければいけられない存在です
ですからヘブライ賞4章16節 だから憐れみを受け
恵みに預かって慈悲にかなった助けをいただくために 大胆に恵みの座に近づこうではありませんかと言います
私たちは当たり前のこととして神の助けを求めなければなりません 神様の子供は父なる神様からの愛と恵みと
慰めと癒しと祝福をいただいて生きるのです 以上上の救済祈り断じき
それを正しく行うなら必ず神様の報いがあります 6章4節も6章6節6章18節にあなたの父が報いてくださると約束しています
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しかし注意するべきことが心の中心です ダビデはこれをよくわかりました
ですから4編139編の1節から4節で ダビデはこのように告白します
主よあなたは私を極め 私を知っておられる
座るのも立つのも知り 遠くから私の計らいを悟っておられる
歩くのも伏すのも見分け 私の道をごとごとく通じておられる
あと4節にこのように言います 私の舌がまた一言も語らぬ先に主よあなたは全てを知っておられる
私の舌は一言も言ってないのに 主あなたは全てを知っておられると言います
これをコランデオ 神の御前で正しい信仰
コランデオの信仰と言いますけど ダビデは神様の御前で正しいふさわしい信仰をすることができました
皆さん全てを知っておられる神の御前で正しく正しい経験な生活をするなら 神様は必ず報いてくださいます
まず正しい救済を行うなら報いてくださるんですけど 聖書四辺の37章25節にこれらの言葉があるんです
若い時にも年老いた今も私は見ていません 主に従う人が捨てられ
子孫がパンを焼くこと主に従う者が見捨てられる また子孫たちがパンを焼くこと私は見たことがないと言います
救済は自分だけではなくししそんそん祝福されるものなんです
また正しい祈りは神様が親しみをもって報いてくださるし 神様との信仰の秘密をたくさん持つようにしてくださり
神様はその人を使ってくださいます また私たちは祈りを通して聖霊の賢能を授けてもらいます
また正しい断食にはもっと深い霊的な力を与えてくださるし
私たちがどうしようもできない問題も解決してくださるんです 願わくは今のコロナの時期こそ
まごとのキリスト社の経験な生活ができることを切に願います そうするなら今日の約束通り
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神様か神様から報いられる祝福の信仰生活ができます コロナの時代神様からの報いを通して
この地球をうまく乗り越えていく また地の果てにまで福音を伝える私たちになりたいと思います
お祈り出します 神様
キリスト社の経験な生活がなぜ大事なのかを教えてくださってありがとうございます キリスト社らしい信仰生活ができるように恵みを与えてください
また神様の報いを通して コロナの時期を乗り越え他の方々を助ける私たちにならせてください
イエス様の皆を通してお祈り致します アーメン
25:00

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