1. 東京ぶどうの木教会 メッセージ
  2. 「御国が得られる完全な律法」..
2021-03-07 29:27

「御国が得られる完全な律法」2021年3月7日(日)メッセージ

東京ぶどうの木教会 2021年3月7日(日)主日礼拝のメッセージです。

牧師:アブラハム黄

00:00
今日は、御国が得られる完全な立法という題で メッセージを分かち合いたいと思います。
木戒諸観という手も出第一の手紙3章では、 教会の監督とか執事の職務を行おうとする人に
非常に厳しい基準をお話しします。 個人的にも家庭的にも社会的にも問題がない人を要求します。
厳しいです。 なぜこのように厳しいレベルを要求するのでしょうか。
教会の大きな役割を担う人には、 その人が間違えたら大変なことが起こるからです。
私たちは神の子供です。 天国の市民権を持っているという偉い身分を持ちました。
神の子供が過ちをするなら、 父なる神様が人々から避難を受けるようになるでしょう。
そうではいけません。 神の子供という特権が大きいほど、
そこにふさわしい高いレベルの道徳的倫理的な生活を 私たちが行わなければなりません。
ですからイエス様は三条の推訓で、 神様の子供たちが担うべき
完全な立法を教えてくださいました。 牧会召喚でパウルが教えてくださったこの厳しい基準が
厳しきできというなら、イエス様は本質的なことを お話ししてくださいました。
では、完全な立法は何でしょう。 また、完全な立法は昔の立法とは何が違うんでしょうか。
また、私たちがこれをどのように担うことができるのか、 それを一緒に分かち合いたいと思います。
まず一番です。 イエス様は立法を完成するために来られたと言います。
マタイの後章17節に、 私が来たのは立法や預言者を廃止するためだと思ってはならない。
廃止するためではなく、完成するためであると言われます。 当時の人の中では
イエス様は立法を廃止するために来られたのではないかと思った人もいました。
なぜなら、イエス様は安息日に病人を癒されたからです。
安息日に病人を癒されたということは、 安息という立法を廃止するのではないかと思う価値なんですけど、そうではありません。
03:04
形式的にはそのように見えるかもしれませんけど、 イエス様は安息日に本当に私たちがやるべき、本質的なことを教えるためだったんです。
私たちもそのように思いませんか? 現在私たちは新約時代に過ごしているものですから、
旧約の立法は守る必要はないんじゃないかと思います。 しかしこれは後悔です。
イエス様は立法を廃止するために来られたんじゃなくて、 完全にするために来られました。
では、イエス様が来られる前の立法は、 完全ではなかったということですか?
どんな点で立法は完全ではなかったでしょうか? 皆さん、旧約時代の初めに立法を授けてもらった人々は、
エジプトから長い間奴隷の生活をしながら、 出地エジプトして間もない人々でした。
後悔を与えたのがバブテス儲けだと考えるなら、 彼らたちは初心者だったんです。
もし神様が彼らたちに、初めから完全な立法を与えてくださったとするなら、
たぶん彼らたちは立法を確かに理解できなかったかもしれません。
そうじゃなければ、レベルが高すぎて立法を守ることを諦めたかもしれません。
ですから神様は彼らたちのレベルに合わせて、 基本的なレベルの立法を与えてくださいました。
あなた方が神の民であるなら、最小限このぐらいは守らなければいけないよ、 という意味でくださったことなんです。
もちろん、その立法さえも彼らたちには非常に高く感じられたんですけど、
ところが今は立法の完成者であるイエス様が来られました。 イエス様が来られたことと合わせて、
この地上に神の国が臨み始めたんです。 マルコ1章15節にはこう言っています。
時は満ち、神の国は近づいた。 悔い改めて福音を信じなさいと言われたと言います。
イエス様はこの神の国に入る新しい民を集め始めたんです。
そこでその神の国の民にふさわしい新しい生活規範が必要だったんですけど、
イエス様はその規範を完全な立法と言われました。 そしてその立法に従って生きる人の気を、
06:05
二十節には立法学者やバリサイ派の人の気より勝る気だと言われました。
皆さん当時立法学者やバリサイ人の立法的な気はすごかったんです。
立法を守るための彼らたちはどれほど厳しくやってたのかご存知でしょう。
ところがイエス様は弟子たちの気が彼らたちより勝るものにならなきゃいけないと言われたものですから、
どれほど高いレベルの基準だったんでしょうか。 では2番です。
では具体的にイエス様がお話しされた代表的な完全な立法とは何でしょう。
マタイの五章中7節から48節までは5つのことを言っています。 完全な立法のはじめは
怒るな 他人を軽蔑するなでした。
皆さんある一人の人の人格から一番初めに見えることは何でしょう。
この人は気が短いね 優しく怒るんだなぁということでしょう。
皆さん優しく怒る人 その人を成熟的な人格の人だと言えるでしょうか。
孟子の十回の中で第6の忌ましめ には殺すなという忌ましめがあります。
殺すな 非道を殺した者は裁きを受けると言います。
ここで殺すということは怒りから発展したことなんです。
怒り起こることは聞く相手も起こさせるからこれは怖いんです。
ところがイエス様はこの忌ましめをどのように完全にされましたか。
完全な立法は22節です。 しかし私は言っておく
弟子に兄弟に腹を立てる者は誰でも裁きを受ける。
兄弟にバカというものは最後裁判所に引き渡され 愚か者というものは非の地獄に投げ込まれると言います。
イエス様は殺人行為だけではなく
怒り悪口無視軽蔑することまで厳しく禁じられたんです。
皆さん最近の人 怖いでしょう
我慢する力がないのではないかと思います。
09:02
また最近私たちの子どもたちに声をかけるのが親は難しく怖くなるんじゃないですか。
インターネットの記事に対して人々はどれほど怖い話を無闇にコメントつけるんでしょうか。
また私たちは教会の兄弟姉妹の間にまた夫婦の間に無闇の無闇に話をして
配偶者に大きな傷を与える場合もあります。
それでも大した問題じゃないと思って謝ったりまた和解を求めない場合が多いんです。
これに対してイエス様は23節に他のどんなことよりまず謝ったり和解したりしなさいと言いました。
その上兄弟と和解することを神様に礼拝を捧げることより真っ先に行いなさいと言われました。
皆さん怒ることが人を殺すことだとそれで禁じられるイエス様の完全な立法通り生きるなら
この世の中で戦うことも傷を受けることも全部なくなるでしょう。
そうするなら私たちみんな神の見姿を持っている尊い存在として尊重される世界になると思います。
そのどころが天国ではないでしょうか。
完全な立法はそれを要求するんです。
2番目、みだらな欲を抱くなということです。
10回の中で第7の忌ましめ、勧誘するなという忌ましめがあります。
人間の基本的な欲求の中で誠意欲ということがあります。
ところがイエス様はこの忌ましめをどのように完全にされるんですか。
28節です。
しかしあなたに言っておく、みだらな思いで他人の妻を見る者は誰でも
すでに心の中でその女を犯したのであると言います。
イエス様は下人の好意だけではなく、みだらな思いを抱いて配偶者ではない異性を見る
そのことまで問題視されたんです。
みなさん、結婚と家庭は神様が作られた神聖なものです。
夫と妻は結婚するとき一生お互いに忠実であることを誓いますと約束した関係です。
12:03
仮に下人という行いにいだらなかったとしても配偶者ではない他の人に関心を持っているなら
すでに約束を破ったことになります。
またそのような人と一緒に暮らしたくて現在の妻と離婚するなら
結果的には下人したことと違いがないでしょう。
今日私たちの社会は不倫と浮気によってダメになった家庭が多くあります。
同事者はもちろん子どもたちにも大きな傷を残します。
もっと問題になるのはキリストシャーの兄弟姉妹たちがこの世の風潮に影響を受けて
純潔を守ることを軽く考えることです。
これが問題です。
もし皆さんこの話をしている私が古臭い人だと考えているのではありませんか?
しかしイエス様はこの問題をどれほど深刻に取り扱うのか
20節30節このような言葉を下さいます。
目がつまずかせるならえぐり出して捨ててしまいなさい。
手がつまずかせるなら切り取って捨ててしまいなさいと言われます。
非常に厳しいでしょう。
イエス様は行いで犯す罪だけではなく
心から犯す罪も深刻に叱っておられるんです。
皆さん私たちみんながイエス様の完全な立法通りそのように生きるなら
この世の中には性暴力、売春、不倫、浮気すべて消えてしまうでしょう。
純潔な若者たちがお互いに出会って夫婦になり
その夫婦が一生配偶者だけを愛するなら美しい家庭美しい世界になります。
そこが天国ではないでしょうか。
完全な立法はそれを願っているんです。
3番目、誓いを立てるなと言いました。
独りの人を軽く見るのか重く見るのか
一番重要な要因はその人が語る言葉のゆえです。
また約束のゆえです。
自分自ら行った約束を自分が守らないで容易に壊す
破る人を考えてみてください。
神の子供は言葉を慎重にしなければなりません。
言葉を選んで語るという言葉があるでしょう。
15:03
立法には33節に偽りの誓いを立てるな
特に主に対して誓ったことは必ず果たせと言っています。
ところがレイス様はこの今しみをどのように完全にされますか。
34節に私は言っておく一切誓いを立ててはならない。
天にかけて誓ってもではならないと言っています。
イエス様は慎重に語りなさいというレベルを超えて
初めから誓いを立てるなと言われています。
人たちは約束をだけするのではなく
なぜそこに誓いを加えるのでしょうか。
他の人たちに自分の話を信じさせるためです。
確かに信じさせるためにはもっと大きなことを書けるべきでしょう。
書けることの中で一番大きなことは神様の名前なんです。
では神様の名前でかけて誓いを立てるなら守りますか。
守れません。私たちの人間は弱くて守ることができません。
結局信頼は破られます。
それによって神様の尊い皆が冒涜を受けるようになります。
ですからイエス様は37節に
叱り叱り、否否と言いなさい。
はいははい、いいえはいいえと言いなさい。
それ以上のことは悪いものから出てくる。
悪いものから出てくる霊力の問題になるということです。
神の子供は心にもない言葉
守ることもできない話を優しくやってはいけません。
むやみに約束してもいけません。
いつも真実だけ話をし、一度語った言葉は最後まで責任を取らなければなりません。
このように皆がイエス様が言われた通り生きるなら
この世の中はお互い、互いが互いを信頼することができる社会になるでしょう。
保障とか暖房とかいらなくなります。
ただ真実と信頼だけあり
一切の偽り、無責任な言葉がない世界
ここが天国ではないでしょうか。
完全な立法はこれを願っているんです。
4番目、悪人に手向かってはならないと言います。
38節に立法は悪者に対して目には目を、歯には歯を報復しなさいと言いました。
18:10
すなわち受けたのと同じくらい返してあげなさいという意味です。
私たちはこのようなことを本当に好きでしょう。
テレビドラマ「患者はナオキの媒介師だ!」と言った時、気持ちがすっきりなりましたね。
ところがイエス様はこの今しめをどのように完全になさいますか。
39節に悪人に手向かってはならない。
イエス様は適切に報復しなさいではなく、初めから報復などしてはいけないと言います。
そうしながら誰かがあなたの右の方を打つなら左の方も受けなさい。
下着を取ろうとする者には浮気も取らせなさい。
1ミリオンいくように強いられたら強いるなら一緒に2ミリオン行きなさいと言われています。
もし私たちがこのようにするならどうなりますか。
相手は私たちが反撃してくるんじゃないかと緊張していながらも反撃してこないから大きく戸惑うでしょう。
もし良心がある人ならこのような真面目な人に私がどんなことをやっていたのかと反省しながら悔い改めるかもしれません。
仮にそうはならないかもしれませんが少なくとも報復がまた他の報復を生み出すこのような悪循環の鎖は断ち切れるのではありませんか。
ですからローマ書中二章20節21節にあなたの敵が浮いているなら食べさせ乾いているなら飲ませよう。
そうすれば燃える炭火を彼の頭に乗せることになると言います。
また悪に負けることなく善をもって悪に勝ちなさいと言っています。
そうするなら善がまた他の善を生み出し恵みがまた他の恵みを生み出す善循環が始まります。
この善循環の流れが満ちあおれている世界そこが天国ではないでしょうか。
完全な立法はこれを願っているのです。
最後に5番目敵を愛しなさいと言います。
43節44節です。
昔の今清は隣人を愛し敵を憎めと言いました。
なぜこのような今清が与えられたと思いますか。
21:02
敵は去っておいて隣人まで愛することができなく憎しんでいるから
最小限隣人だけは愛しなさいとくださった見言葉でした。
ところがイエス様はこの今清をどのように完全にされますか。
しかし私は言っておく敵を愛し自分を迫害する者のために祈りなさいと言います。
イエス様は隣人の愛は基本でもっと進んで敵まで愛しなさいと言われました。
私たちは選択的です。私にうまくやってくれる人には私もうまくやってあげます。
反対に私に悪口を言う人、私と関係性が良くない人はもう近づくことも嫌なんです。
ところが神様はどうされますか。
神様は悪人にも善人にもみんなに太陽の光を与えてくださり雨を降らせてくださいます。
神様は誰も差別をなさらないで全ての人を愛して恵みを施してくださいます。
ですから48節だからあなた方の天の父が完全であられるようにあなた方も完全なものになりなさいと言っています。
特にここでイエス様はあなたたちの天の父と言いながら弟子たちを神の子供たちと子供だと言います。
子供の特徴は何ですか。父に似ているということです。
私たちが神の子供であるなら神様に似るべきではありませんか。
神様が霊位ですからこの霊位の姿は似ることはできませんが、私たちは神の個品性は似るべきです。
神様の個品性の中でただ一つだけ選びなさいと言うならそれは愛です。
不完全で限界的な愛ではなく、完全で無限大の愛です。
ですから神の子供は父なる神様のように愛の人にならなければいけません。
このように父の完全な愛を受け入れ味わいながら父に見習って完全な愛を成し遂げたいという人たちが集まった世界
それが天国ではないでしょうか。 完全な立法はこれを願っているのです。
天国はこのような心を持っている人たちの集まりなんです。
では3番です。
ところでこのような完全な立法を私たちがどのように守ることができますか。
24:04
今まで私たちはイエス様がお話しされた完全な立法、天国を成し遂げられるこの新しい立法について聞きながら皆さん何を感じたんですか。
いや非常にいい話だ。しかしそのように生きる人はいるでしょうか。私は無理だな。
もしこのような思いになったのではありませんか。そうでもあるでしょう。
ところが考えてみてください。イエス様が守ることもできない立法、新しい立法だとして私たちにくださったと思いますか。
皆さんイエス様は私たちを一番よく知っておられるお方です。
私たちを一番よく知っておられるイエス様がこのように高いレベルの新しい忌みをくださいながらそれを共に守る力もくださらないと思いますか。
じゃあその守る力はどこから出てくるのでしょうか。それはイエス様が完成された十字架から出てきます。
十字架を挙げてみてください。十字架を挙げてみるなら私たち一人一人に対するイエス様が死んでくださるほど私たち一人一人を大切にしておられることがわかります。
その十字架は何のためだったんですか。イエス様が私たちの罪と過ちを代わりに背負って罪の代価を支払ってくださったことではないでしょうか。
私たちのために自分自身が死んでくださるほど完全な生活を願っておられるイエス様の御心が私たちに照らされるなら
その十字架を見上げる度に純潔な生活をしたいという力が出てくるでしょう。
十字架が知れば知るほど真実の人として生きたいという熱望が出てきます。
十字架から悪を善で返す力が出てくるし十字架から敵を愛する力が出てくるのです。
その力で我慢して忍耐を持って愛して使えるのです。
私たちが相変わらず完全な立法天国を成し遂げる忌ましみに対する従順さが足りないのは
十字架の福音を知らないか、また知っているとしても確かにつかんでいないからかもしれません。
私たちがこの福音をもっと深く知って確かにつかむことができるように祈りましょう。
27:05
また、まごとの神の民らしい生活ができるように祈りましょう。
結論を申し上げます。神の国は私たちの心の中で成し遂げられるものです。
ですから私たちが必ず味わわなきゃいけない国です。
イエス様はこの世に来られた時、いつもこの神の国を味わいました。
私たちがこの完全な立法、形式的ではなく心から、
まず家庭で、また教会で実践していきましょう。
怒ることではなく、心から乱な思いを抱くことではなく、
無闇に約束することではなく、悪人に手向かうことではなく、
出来も愛しながら進んでいきましょう。
もしそれがうまくできないなら、十字架をつかんで悔い改め、
また担う力をくださいと祈りながら実践していきましょう。
完全な立法は私たちの家庭、また教会が天国になるように与えてくださったことです。
このために私たちの主イエスキリストが十字架で死んでくださったことも考えて、
心を尽くして実践していきましょう。アメン。
じゃあお祈りいたします。
神様、天国を成し遂げることができる完全な立法、
私たちに与えてくださったことを感謝します。
またその立法と共に十字架を通して守る命の力と、
また助け主聖霊様まで送ってくださったことも感謝します。
私たちがこの世で神の子供として、
まず神様が与えてくださったこの御国を味わいながら御国を成し遂げるこの素晴らしい新しい完全な今宵を延べ伝える私たちにならせてください。
イエス様の皆を通してお祈りいたします。アーメン。
29:27

コメント

スクロール