じゃあ今日は、アラノの訓練というタイをもって、メッセージを分かち合いたいと思います。
あ、ごめんなさい。 中国ちゃんね。
あ、おはようございます。 中国姉妹がここに入ってきました。ありがとうございます。
じゃあ、アラノの訓練というタイをもって、メッセージを分かち合いたいと思います。
シチュエジプト紀は、私たちの信仰生活、特に救いと関連して、非常に大事なことを教えてくださいます。
じゃあ皆さん、シチュエジプト紀初めに、イスラエル人たちが、エジプトの王、ファラオの支配下にいました。
それは何を意味するんですか? 昔、私たちは
悪魔の支配下にいた。 ファラオは悪魔の存在を表す。
また、そこからシチュエジプトをしました。 シチュエジプトを知ったということは、ファラオの支配、この奥から解放された。
救われたということを意味します。 また、豪快を渡ったということ。
第一コリントの中小二世に見ますと、イスラエル人たちは、水の中でバブテスマを受けた。
ですから、シチュエとして豪快を渡るということは、そこでバブテスマを受けたという意味です。
それから、アラノの生活に入りますね。 アラノの生活は、今の私たちの教会生活を意味します。
それで、最後にヨルダン川を渡ります。 これは死ぬということを意味します。
それで、カナーンということは、父と三つが流れる天国。 その意味で、ファラオの支配からカナーンに入る。
その一人の、また国の救いという関係。 そのすべてが、シチュエジプトに表されている、この霊的な意味があります。
神様は、アブラウムを選ばれました。 そのアブラウムを通して、一つの民族を建てられます。
その民族は、当時信仰がない世界の中で、信仰によって生きる民族を作って、その民族を通して、全世界に対する祝福の源。
また、そのイスラエル人たちが、全世界に対して、祭祀の国になって、全世界を救いたかった。
これが神様の求め、願いだったんです。 しかし、イスラエル人たちは、その救いの身業に用いられることはできなかった。
今も同じでしょう。皆さん、ユダヤ人たちが、今、イエス・キリストを述べていますか? してません。
だから、旧約聖書から今に至るまで、イスラエル人に対する神の計画は、徹底的にできなかった。
それで、イエス様を私たちに送ってくださって、この新約の時代、イエス様の心によって、救われた私たちを通して、神様は、旧約聖書でイスラエル人たちができなかった、
祝福の源、また祭祀の王国として、私たちを使いたいと思っています。 それは神の計画です。
ですから、神様は旧約聖書でイスラエル人たちを訓練されたように、 今、私たちも信仰を持って救われた時から、私たちを訓練されます。
訓練の内容は何なのか? それが、難しいことではありません。 簡単な2つを訓練されます。
それが、今日のシチュエジプの15章、16章にありますので、それを今日一緒に分かち合いながら、その2つの訓練の大事さ、
その訓練をどんな心で、私たちが受け入れるべきなのか。 そうするなら、神様は、私たちは神の本当に道具として、
全世界に対して使ってくださるでしょう。 皆さん、人間がこの世に生まれて、神様に用いられること、
神様に使われること、これ以上の祝福はありません。 この以上の祝福はありません。
ですから、最高の祝福はここにあるということを考えて、 今日のメッセージを聞いていただければと思います。
これ、ちょっと待ってください。タチュアー紙なんて。 ああ、そうです。ごめんなさい。
まず、神様は、イスラエル人たちはシチュエジプとしたばかりで、 まず始めになさることがあります。
それが、イスラエル人たちが奴隷として、いろいろ心の中で傷がありました。 それをまず、それを癒すことでした。
シチュエジプと14章、イスラエル人たちが信仰によって後悔を渡りました。
じゃあ、エジプトから解放された。 また、ファローの天使たちは全部滅ぼした。勝利の喜び。
それで、14章をちょっと読んでみますと、このモーセイ、またミリアム、 イスラエル人たちが神の前で賛美を歌いながら、踊りながら、喜ぶ場面がちゃんと出てきます。
ところが、後ほど彼らは賛美をしたその口から、 恨みと不平不満が出てきます。
なぜなら、アラノに入って3日になったんです。 だったら、エジプトから持ってきたその水、飲む水が全部なくなりました。
アラノに飲む水があるのか、どこにあるのか、 探しているところ、マラというところに水はあったんですけど、
これは苦くて、飲むことができなかった。 だったらすぐ、すぐ、不平不満を出しました。
皆さん、救いの喜びが3日続きました。 もう3日続けられない。
彼はモーセイに対して、恨みを通して発散しました。 水はあるんだけど、飲むことができない。
これからどうするんだと言いました。 皆さん、これは当たり前のように見えるんですけど、
信仰がある人だったら、モーセイにどうするんだと言う前に、 神様に祈るべきでしょう。
それで彼たちはよく見ていますと、全然訓練ができていないことがわかります。
そしてモーセイにどうするつもりかと言ったときに、 モーセイは神様に叫びます。
そうしたら、神様が彼に一本の木を示されたと言います。 その木を水に投げ込むと、水が甘くなった。
この木が何でしょう。 この神様が示された一本の木ということは、
今、私たちはイエス・キリストの十字架を意味します。 皆さん、世の中には、もう罪によってみんな苦いです。
渋い、みんな辛い思いがあります。
みんな苦くて、辛くて、痛みを持っているから、 その口から出る、その心から出るものが全部不満、憎しみ、不平、もう辛さ、これしかないんです。
これは罪によってできたものだから、 私たちがどうすればいいのかということでできるものではありません。
シュチエジプトから3日目にもう恨みが出てきたと言ったら、 シュチエジプトの喜びも救いの喜びも3日続けられないということではありませんか。
私たちも同じですよ。神様から恵みがあった。 感謝、感謝、喜び、喜びと言うかもしれないけど、
3日続けられなくて、また恨み、不満、不平が出てしまうことが私たちの特徴です。
なぜなのか、心の中が辛いんで、自分の心が自分が辛いんです。 だから我慢して笑うんですけど、我慢して良いこと言うんですけど、
本当に言う、本当が出てきたら、これは辛い、もう憎しみ、 恨み、もう嘆きしかない。
これをどのように解決しますか。 罪による問題だからイエス・キリストの十字架しかありません。
私たちは罪によるいろいろな事もあるんですけど、人々、人間関係の中で、またある事件にあった時に、そこから受ける辛さがいろいろあります。
じゃあその辛さをどのように解決できるか。イエス・キリストの十字架です。 イエス・キリストの十字架を象徴する、この木の枝を水に投げると、
辛いものが甘くなった。 ただ皆さんそうです。心の中痛いでしょう。辛いでしょう。
またいろいろな難しさがいっぱいあります。 だからそれをどう解決するか。
解決方法はありません。イエス・キリストの十字架です。 その時、膝を交えてイエス・キリストの十字架を見上げるしかない。
私の心はこんなに辛いです。 こんなにこんなに難しいです。
何とか私に恵みを与えてください。神イエス様を切に求める時、イエス様からの慰め、また癒し、
またイエス様の愛が示されて、やっと私たちの心が楽になるでしょう。 この道しかないということをぜひ覚えていてください。
また神様は苦い水を甘い水に変えてくださっただけじゃなくて、
イスラエル人たちがこれから永遠に祝福の中で生きる道を私は教えてくださるんですけど、これが二十六舌です。
もしあなたがあなたの神主の声に従い、彼の目にかなう正しいことを行い、
彼の命令に耳を傾け、すべての掟を守るならば、私がエジプトの人にくだした病気をあなたたちにはくださない。
ジュコムクの災いがあった時、エジプトの地全体がもうめちゃくちゃになりました。 なぜ?神様からの災い、病気、いろいろな災害がエジプトの人々にたくと注がれたからです。
しかし神様の御声に聞き従う人になれば、エジプトにくだした災いを一つもあなたたちには及ぼうとはない。
じゃあ私たちは健康で、またもう幸せな人生を過ごす道、ここにあります。
何ですか?簡単でしょう。主の御声に聞き従う。何か難しいことがあった、いろいろな事件があった時にそこから自分の気持ちを発散するんじゃなくて、
そうです。罪の中にいる私たちは心で苦いことしかばかり、辛いことしかないから、出てくることは全部難しいことばかりです。
それを発信するんじゃなくて、イエス・キリスト、主に、主の恵みによって私たちに癒やされ、それから出てくることは全部、
神様の恵み、神様の力、神様の慰め、神様の癒し、それが出てくるんだということです。
ですから、まず奴隷の状態から救われた人々の心を癒してくださる神様。
それで、今日16章を読んでくださいました。それを通して、神様はイスラエル人たちを、
最始の王国、また祖国の源になるように訓練されることがここで表しています。
じゃあ、16章1節を読みますと、彼たちが主治医として、3ヶ月になりました。2ヶ月半になりました。
2ヶ月半になったら、今度は何がなくなったんでしょう。食料がなくなりました。
たくさん持ってきたんですけど、2ヶ月半食べたら、もう持ってきた食料が全部なくなりました。
食べるものがない。飲む水がないものも大変だけど、
食べるものがない。これは大変なことでしょう。
じゃあ、この時、何をすればよかったんですか。神様に祈ればよかったんです。
しかし、訓練ができていない人は、祈りが出てくるんじゃなくて、不平不満が出てきます。
だから、仮に言われば、もうせに不平不満をします。我々エジプトの国で、主の手にかかって、その時死んでしまった方がよかった。
まず、こんなひどい話をするんですね。死んでしまう方がよかった。
なぜ私をエジプトから導き出して、こんなつらい目にさせるのか。
エジプトで死ねばよかったのに、アラノで死なせるのかと思いながら、彼らは何と言うんですか。
我々は、あの時、その主人のタイ所で、肉が入ったもの、まだパンがいっぱいあったもの、それで腹いっぱい食べたところがよかった。
まだ盗んで食べたのか分かりませんけど、その時何か食べるものがあったから、その時食べたらよかった。
あなたたちは、そこから導き出して、私たちをこんなひどい目に合わせるのかと言います。
皆さん、全てが良い時は自分の本音が出てきません。美しいことばかり見えます。
しかし、つらいことがあって、何が足りないことがいっぱいあって、人生がうまくいかない時には、何が出てきますか。
つらい内面性が全部出てきます。
彼らは、神様の大きな御業によって奴隷が自由になりました。
昔は、監督たちによって鞭を打たれて、駐路路を駆けさせられて、大変な思いがあったんです。
その時、彼らはもう自由がない、人生の喜びと、人生の本当に将来性がない奴隷の状態でした。
しかし、当時一つ良かったということは、何か食べ物だけはエジプトでいっぱい食べさせてもらったということです。
ですから、彼らはたくさん食べさせてあげたということを思い出しながら、昔を懐かしく思っているところです。
ですから、孟子を恨み、神様を恨みます。
これから見ていますと、身体は集中してエジプトに行ったんですけど、心は相変わらずエジプトに残っているということがわかります。
神様は不平不満を言い出す。このイスラエル人たちはどうしたんですか。
神様がお前たちはダメだと裁かれたんですか。そうではありません。そうではありません。
四節を見ていますと、「見よ、私はあなたたちのために天からパンを振らせる。民は出て行って毎日必要な分だけ集めろ。」と言っています。
神様が不平不満をする彼らを憐れんに思ってくださって、恵みを施してくださるんです。
じゃあどうされるのか。朝にはパンを与えてくださり、夕方はうずらを送ってくださって、お肉を与えてくださいます。
本当に彼らが不満不平をして食べ物がない、どうするかと言ったときに、神様は私たちに必要なことは当たり前だとわかっておられるから、
叱られないで恵みを与えてくださって、これからパンとお肉を思い存分食べさせられる。
皆さん、今イスラエル人たちは200万人の人です。アラノは何にもないところです。
アラノで200万人にパンを与えようとするなら、どうすればいいんでしょう。
また200万人の人々にお肉を食べさせようとするなら、自分たちが持っていた動物、また鳥でいいでしょうか。
それはとんでもないと思います。しかし神様がなさったら、これはあっという間です。
神様は朝、梅雨が降りるときに、梅雨と当時にマンナを送ってくださいました。
また神様が風を飛ばして、うずらをイスラエル地への中で送ってくださいました。
イスラエル地への遠く離れたところまで、高さがある程度たくさん、うずらをたくさん落としてくださったんです。
不思議でしょう。神様が私たちを食べさせようとしたら、あっという間に簡単に与えてくださることがわかります。
それをいつまでくださったのか、16章35節を見てみますと、
アラン、カナーンに入るまで40年間も与えてくださいました。
神様はイスラエル人たちを不平不満、これを聞いてくださって、彼たちが本当に必要な日常の糧、
本当に必要なものを、神様が思い存分与えてくださいました。
そのアランの時を思い出しながら、三蔵の水君でこう言います。
空の鳥をよく見なさい。種をまかず、借りれもせず、蔵に収めることもない。
だが、あなた方の天の父は鳥を休なってくださる。
あなた方は鳥よりも価値あるものではないか。
今日は生えていって、明日は塔に投げ込まれる。
野の草さえ、神はこのようによそってくださる。
まして、あなた方は遥かに勝るものではないか。
だから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと思って思い悩むな。
それは皆、異邦人たちが節に求めているものだ。
あなた方の天の父は、これらのものが皆、あなた方に必要なことをご存知なのだ、と言います。
じゃあ、皆さん、私たちが神様に対する信仰、一番大事な信仰は何か。
私たちの必要を満たしてくださる神様。
私たちの必要をいくらでも満たしてくれる神様だということを信じなければなりません。
これが信仰ができなければ、これが信仰がなければ、現実問題が全部問題になります。
今、食べるものがない。飲むものがない。今、ただ経済的な何か余裕がない。
それを神様がいろいろな方法で満たしてくださることを信じれば、神様はくださるのですけれど、
それが信仰がなければ、どうするのですか。
思い、患い、不安、心配、悩み、それで礼儀的なことが暗くなります。
不信仰に陥れます。だから、不信仰の道に走るしかないのです。
私たちは、食べるもの、飲むもの、生活の基本的な現実問題に対して、
まず、神を信じる。満たしてくださる神を信じること。
信仰通りになりますようにと言われた通り、私たちはそれを信じていきましょう。
これに対する信仰がなければ、私たちの信仰は初めから全部崩れてしまいます。
だったら、不信仰のまま、神の前でいつも心配、悩み、思い、患いの中で過ごすようになります。
これは信仰ではありません。神を喜ばせることはできません。
だから、私たちはこの信仰を確かにやっていきましょう。
ところが、神様は彼らに食べ物を与えてくださるのですが、そこに原則がありました。
これは大事です。
神様は1ヶ月分、1年分、それを一遍にパンと与えることはありませんでした。
神の助けは、毎日、毎日、決めた分をずっと与えること、続けて規則的に与えることでした。
私たちが願っていることは何ですか?
神様、この一遍にパンと与えてくださって、2度も心配しないようにしてくださいと言います。
これは問題は何ですか?
食べ物、またはお金がたくさんあれば、これからは神を信じるよりは持っていることを信じます。
だんだんだんだん信仰から離れる。
これは神様はよく知っておられます。
ですから、パンと与えるんじゃなくて、毎日、毎日与えてください。
これを信じていきましょう。
これを毎日与えることを、私たちがちゃんと与えることだということを信じて、
それで、横払わないで神様との関係の中で過ごしていけば、正しい信仰に用いられます。
ここで大事なことは、たくさん集めたものも残りがない。
少なく集めたものも足りることがない。
これなんです。
皆さん、たいてい給料はいくらですか?
わかりませんけど、たくさん給料をもらうんだって、少しの豊かさはあるでしょう。
しかし、生活人ということは、いつも次の、まだ次々の給料がなければ心配になることが生活人。
だから、私たちがいくら給料をもらうんだって、たくさんもらうんだって、
それによって私たちが安心して、これをのんびりすることはできません。
日常の糧の原則はこれなんです。
一遍に全部くださらない。
しかし、たくさん持ってきても残りがない。
少なく持ってきても、何か余るものはない。足りるものはない。
だから、神様は私たちに、いつも正しいもので満足させてくださることです。
これを信じることが大事なんです。
今、私たちも同じです。
欲張って、何かもっともっともっといくらもっともっとやってみてください。
1日3食食べるのは全部同じです。
何ヶ月給料をもらわなければ心配するのは、これはサラリーマンの一般の常識です。
だから、生活人に尽きない私たち、あんまり日常の勝手に対して心配しないで、
満たしてくださる神を信じましょう。
ぜひとも信じましょう。
もう一つは何かと言いますと、6日目に神様が2日分をくださった。
そして7日目に休ませた。
それを通して安息日を準備するようになった。
ある人は、明日もし降らないかも、たくさん持ってきます。
明日まだ残っているのか、腐ってしまいました。
また虫が出てしまった。
だから、たくさん欲張らってもしょうがないな、
1日分、自分が食べる分だけ持ってくればいいということは、
だんだん神様が訓練させていきます。
これが大事なんです。
今私たちも同じです。
たくさん持ってくるんだとしても、
私が一番やってくれば、冗談ですけど、
前の会社の会長、息子さんも今やっていますけど、
財産がたくさんあると言います。
前の会長が亡くなったとき、この財産を全部どうしたんでしょう。
天国もどこにいたのか分かりませんけど、持っていかなかった。
それを世の中に残しておいて行っちゃった。
私たちがこの世で必要な経済的な、これがどれくらいでしょう。
欲張っても、それを全部持っていけない。
あまり能力がなくて、少なく稼いだとしても、足りないことはない。
そのように神様がしてくださるということを、ぜひ思っていきましょう。
また、6日目には必ず2倍をくださるんだ。
だから7日目に頑張らなきゃいけないことはない。
7日目はちゃんと安息しながら、神を礼拝する。
そのことを私たちがしっかり持っていくことは大事です。
6日目に2倍くださるんだということを信じれば、あまり心配がないでしょう。
だからこれを通して、マンナを通して、神様が日常の勝手の訓練、
また、安息日の訓練までしっかりしてくださりました。
ところが、そのマンナを訓練するときに、民たちの心からいろいろな問題が出てきました。
ある人は、明日もしマンナを振らなければどうするか、またたくさん思ってきます。
そうでしょう。皆さん、明日もしマンナをくださらなければどうするかという不信心、神様に対する信頼がない。
だったらたくさん思ってきます。
そしたら明日まで食べられるか、いいえ、虫がついて、臭いが出て、臭くなって、全部捨てなきゃいけない。
もう一つは、安息日もまた何か収めるように出てみた。
安息日は、梅雨は降りたんですけど、マンナはなかった。
それをどうして神様が日常の勝手と安息日の訓練をしっかりやっていかれたか。
それを40年間続けて続けてなさる神様の身分は何でしょう。
これは16歳、4歳。私は彼らが私に指示をどうにするのか知らないか。
神様のいつもの考えは何かと言いますと、私が言った通りやるのかやらないのか。
私の見言葉に従うのか従わないのか。神様はいつもそれを見ておられます。
それをもっと新明家八書には詳しく教えてください。
あなたの神主が導かれたこの40年の荒野の旅を思い起こしなさい。
こうして主はあなた方を苦しめためし、あなたの心にあるもの、すなわちご自分に忌ましめを守るかどうかしろうとされた。
ご自分の忌ましめを守るか守らないかしろうとされた。
皆さん神様の焦点はここにあります。神の見言葉に守るかどうか。
また、主はあなた方を苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことがないまんなを食べさせられた。
人はパンだけ生きるのではなく、主の口から出るすべての言葉によって生きる。
動物はパンだけで生きます。しかし人間は霊的な存在です。霊的な存在は神の見言葉によって生きる。
見言葉に従えば神様はすべてを満たしてくださるんだということを信じて生きることが一番大事です。
以上で神様はまんなを与えることによって二つの訓練をされました。日曜の家庭の訓練。
今日曜の家庭の訓練は何ですか?毎日聖書を読むことです。
毎日一日三章でも一日一章でも聖書を読むことです。
聖書を読む日と読んでいない日は全然違うと思います。経験にやってみてください。
牧師も同じです。牧師も聖書を読まなければ力は全くありません。
祈ることも大事ですけど、まず聖書を読む。もう一つは安息日を守るかどうか。
安息日を守るのはもともと大きな祝福があります。それはいつかまた教えましょう。
この二つの訓練を通してイスラエピトたちが過去エジプトの奴隷から、今は神の民としての内面性。
奴隷の内面性と神の民の内面性が違いますよ。それを変えておとされる。
皆さん奴隷としての内面性はこの人を使うことはできません。結局彼らたち無知を訴えながら無理やりやらせるしかありません。
神の御業は無理やりやらせることではなく、神様の御心に従う恵みを知っている人たちが感謝を込めて、その働きに専念することによって成し遂げられます。
やり方が全然違います。
奴隷の特徴は自分の感情と欲張り。
それが節制できなくて、彼らちは真実がありません。自分の思い通り過ごすことです。
奴隷を見て希望を持つ人は誰もいない。将来の希望を持つ人はいないでしょう。
しかし神様はイスラエピトたち、エジプトの奴隷だった彼たちを通して、神は希望を持てた。
私たちならイスラエピトたちを見て希望を持つことはできないけど、神様は希望を持たれて、彼は必ず最始の王国、全世界の祝福の源としようと思ったんです。
ですから神様はイスラエピトたちに対して訓練をさせ、また彼たちが最始の王国、祝福の源になることを希望を持つ、もっともっと持っておられた。
希望を持つことができない者たちに、なぜ希望を持っていってこの世にさせるのか、それは神様の特徴です。
皆さん、私たちはもともと希望を持つことができない罪人ばかりです。しかし神様は私たちを救われ、神の人として、天国の市民として私たちを使ってくださいます。
これが神様の特徴です。希望を持つことができないところに希望を置け、その人たちをその世にさせておく。素晴らしい神様。
だから神様は訓練をさせるんです。神様は訓練を熱心にさせるんです。40年間続けて続けてやりました。
じゃあ、訓練を考えたら難しいことをいろいろやるでしょう。弟子訓練をしなければいけないんじゃないかと、何か特別集会とか何とかいろいろ考えるんです。
神様がなさる訓練は2つです。日曜の糧を毎日食べなさい。安息日を守りなさい。
この2つの訓練を通してイスラエル人たちを祭祀の王国、祝福の源にさせようとされた神様の計画を私たちがぜひ覚えておきましょう。
ここで大事なのは日曜の糧の訓練です。 みなさん日曜の糧を今食べていらっしゃいますか。日曜の糧は毎日
規則的に食べることです。 前、飯塚先生といつかどこか集会に行きました。
それでホテルに泊まったんですけど、ホテルで入ってそれで着替えてまた集会に行くんですけど、
短い1時間ぐらいの時間がありました。 みなさん何をしてたのか。私はもう暑かったからお風呂に入って、それで洗ってから出ました。
それで飯塚先生に1時間何をされたんですかと言って、朝日曜の糧の聖書を読まなかったんで、自分はそれをやったと。
やっぱり立派な牧師は違うんだなと思いました。 私はもうシャーを浴びたんですけど、先生は日曜の糧をしっかり食べられた。
素晴らしい素晴らしい。やっぱり偉い先生は違いますね。 これ私たちもこれやっていきましょう。
ぜひとも毎日寄宿的に食べる。 また2番目、朝早く食べる。
マンナは梅雨と一緒に一遍に降りることなんで、 朝太陽が照りつけるとそれマンナが溶けてしまいます。
なくなってしまいます。だからなくなる前にそれを収めておかなきゃいけない。
それを感謝する思いで、私たちは二つ、毎日日曜の糧を食べましょう。
日曜日の暗息日を訓練、それをしっかり覚えておきましょう。 特に子供たち、
あゆみちゃんはもう完璧。
あゆみちゃんはね、日曜日をしっかり守る。これはもうしっかり守っていく。
もう一つは日曜の糧、聖書を読むこと。 これをずっと訓練していけば、
いつか神様が用いられる立派な神の人として、私たちが立つことができるんです。
今日は神様が集中してされたイスラエルの民を訓練されたことを教えてください。 神様の訓練は何を通してやったんですか?
毎日のいつものものを通して、 基本的な生活を通して、
特に食べるものを通して、 それで日曜の家庭の訓練、また暗息日の訓練をされました。
今私たちの信仰生活、これが荒野の生活です。 もし皆さんの中である時、ものが足りなくて難しいことがあるのか、
また水、飲むもの、また食べ物が足りなくてつらいのか、 神様はいくらでも持っています。
いくらでも与えてくださるはずなのに、与えてくださらないまま、 それを訓練される理由は何でしょう。
それを通して私たちが昔の内面性を捨て、 神の民としてふさわしい内面性を背負うことです。
それを変えていく、私たちになりましょう。 神の訓練をしっかり受け取ることによって、神様が認められる人になれれば、
これから神様は私たちを祝福の源として使ってくださるでしょう。
今日は日曜の家庭の訓練、安息日の訓練を学びました。
日曜、私は安息日の訓練、 日曜日に教会に集まって祈る、この礼拝すること、
これが毎週毎週訓練です。 これを続けて続けてやっている間に、私たちは神の人として成長するでしょう。
またお家で朝起きて聖書を読む、 そして聖書を持って祈ること、それを通して神様は私たちを変えていきます。
立派な一つで作っていきます。 それで準備できたら、神様これからもう皆さんが驚くほどの働きに用いられるでしょう。
その人がすぐ来ると思います。 ぜひ祝福の源として用いられる私たちになりましょう。
お祈りいたします。 主よ、今日は荒野の訓練について学びました。
主が持ちられた人の中で訓練なしでできた人は誰もいません。 訓練させる神様の熱心、誠実な神様の愛に感謝します。
私たちが生活の中で毎日毎日全て訓練だと思って、それを乗り越えてまた大忍ぶ私たちになりますように。
立派に訓練されて、それから神様に大きく用いられる私たちになりますように。
特に日常の過程、安息病を守る訓練を私たちはうまくやっていきたいと思います。
皆を力を与えてください。 イエス様の源を通してお祈りいたします。
アーメン アーメン