00:01
それでは一言、お祈りをさせていただきます。お祈りをいたします。
愛する天皇父なる神様、今日も私たちを主の御前へと招いてくださってありがとうございます。
神様、本当に私たちは日々の中で様々な失敗をしますし、
謝りやすいものですけれども、しかしそのような私たちを主があの十字架において許し受け入れてくださったこと、
その流された血潮によって罪を許し、復活の命を与え、永遠なる死と共に生きる新たな命を拾えてくださったことを心から感謝いたします。
神様どうか、私たちはなおも迷いやすいものです。しかし同時に、祈られたように、このような私たちを主が愛し導いてくださいますから、
私たちの日々はなおも喜びの日々、幸縁の日々です。どうか憐れんでください。
あなたを仰ぐことができますように、私たちの心の目を開き、あなたの御言葉に耳を閉ざすことのないよう、私たちを顧みてください。
語るものの、どうか唇を清めてくださり、あなた御自身の御言葉を語ることができるように導いてください。お願いいたします。
これからの時を見てにうだねして、イエス様のお名前によってお祈りを致します。
以前ちょっとお話ししたかもしれませんが、私はこの兵庫県の妙谷協会に来る前が、大阪の羽引野というところでご奉仕させていただいて、
その前は東北の北方、福島県の藍津地方にある北方というラーメンがおいしい町で、3年間ご奉仕させていただきました。
案の定ラーメンでお腹がちょっと大きくなったんですけれども、でも本当に初めて一人で使わされた初日だったんです。
それだけに思い出深い場所でして、ただ当時独身でしたから、なかなか寂しいわけです。
その中で、私の本当に大きな支えになったのが、藍津キリスト教連絡会という聴教派の牧師先生の交わりがあったんです。
いろんな団体が集まっていたんですね。カトリックから聖皇会、日本キリスト教団もいればアセンブリオブゴッドの教団もいて、
東北ミッションという団体もいて、そこに日本イエスキリスト教団の私も加えていただきました。
本当にいろんな教派の幅が広かったんですけれども、でも同じイエス様を信じる者同士、違いはあっても協力し合えるんだなということをとても体感させていただいた時でした。
その中で一つ印象的だった先生がいらっしゃいました。
03:01
この藍津キリスト教連絡会の補足人になられた日本キリスト教団の引退教師の高橋千佳良先生という先生がいらっしゃるんです。
若松境町教会という教会の長年勃開されて引退された先生なんですけれども、
その先生は藍津の地で救助の会だとか、そういう平和に関する活動を積極的にされていて、
高校でも平和学習のときに先生呼ばれるんですよ。
高校で先生平和について話してくださいと言われるときに、先生が高校生に平和についてお話をされるときに、
実はお開きになる聖者の言葉が今朝読んでいただいた主の祈りの言葉なんです。
私たちの日ごとの糧を今日もお与えください。
私たちの日ごとの糧を今日もお与えください。
先生はここから高校生に平和について語るとおっしゃったんです。
高橋先生自身は実は満州でお生まれになられた方で、小学生時代は向こうの大陸で過ごされた。
そのときには実は道端で、戦争ですからね、死体が転がっているわけですよ。
でもそれを見て全く心が動かなかったと言っていました。
自分が日本に帰ってきて当時のことを振り返ると、
ああ、なんて恐ろしい環境にいたんだということに身の毛がよだつということをおっしゃっていました。
先生はこういうふうにおっしゃるんですね。
イエス様は私たちに日ごとの糧を与えてくださいと教えられた。
でも日々お腹を空かせてご飯がおいしいと言えるのは、平和があるからだと。
日ごとの糧を与えてくれる神に私たちはそれを求める。
ご飯をください。平和をください。
ただそれだけじゃない。
日ごとの糧を心配なく得られるような世界を私たちが今度は築いていかなきゃならないんだということを
先生はそのように教えられるそうです。
私はそこから平和学習を、私たちの日ごとの糧を今日もお与えくださいというところから
先生がお話しなさると聞いたときに、
この祈りが意味するところはやっぱり深いんだなということを思わされたことがありました。
日々の糧を求める。
私からするならば毎日毎日のご飯が神様が与えてくれるようにというイメージを
持つわけですけれども、それだけじゃないですね。
日々の糧を求める。
言うならば私たちが毎日、これは私の一つの健康のパロメーターなんですけれども、
それはご飯をおいしいと感じることができるということですよね。
06:03
ご飯がおいしく食べれるというのは健康の証拠ですよ。
そのご飯が毎日おいしく食べれるためには一体どれほどのものを
私たちは必要としているだろうかとふと考えさせられます。
どれほどのものを求める必要があるんだろうか。
日々食べるものが必要です。
でもその食べるものを得るために働く場所があるのだろうか。
安心して住む家はあるんだろうか。
体は健康だろうか。心は健康だろうか。
孤独ではないだろうか。
共にご飯を食べてくれる人はいるのだろうか。
そのすべてを支える平和が私たちの周りにはあるのだろうか。
きっとどれ一つかけても、私たちは日ごとの糧というのは不十分だなぁと覚えるのだと思います。
それだけに今の時代、私たちは手を挙げて祈らざるを得ないと思うのです。
私たちの日ごとの糧を今日も与えてください。
ただ、このお祈りはおそらく2つの方向性を持っているのです。
それは、このお祈りというのは、祈っている通り、
神様によって私の日ごとの糧が満たされますように、
神様そのようなご飯であったり、平和であったり、心の健康であったり、
そういうものが与えられますようにと願って祈る祈りですけれども、
しかし同時に、さっきの高橋先生の話にもつながるのですが、
この祈りはもう一つ私たちを押し出す場所があります。
それは、神様によって私が日ごとの糧を満たすものとなりますようにということです。
この2つの方向性があると思います。
今朝はこの2点を覚えたいのです。
日ごとの糧をお与えください。
それは、私たちに神様が満たしてくれるのでも、それだけではなくて、
私たちがそれを満たすものと使わされることができるように。
1つ目のことをまず見ていきたいと思うのですけれども、
日ごとの糧をまず私たちは求めるわけですね。何にもまして。
神様、日ごとの糧をお与えくださいと祈ります。
この祈りに注目するときに、まず目に留まる言葉があります。
それは、イエス様はここで弟子たちに、日ごとの糧を求めなさいと言われるわけですね。
日ごとの糧を求めなさいと言われる。
このお祈りをおそらく一番最初に聞いた弟子たちの一人は、
このように思った人がいるかもしれません。
それは、イエス様、日ごとですかと。日ごとを求めなければならないのですか。
09:05
イエス様、毎日毎日私は求めるよりも、永遠の糧が欲しいです。
一日一日求めるよりも、毎日何事にも心配せず、安定安心の生活。
それが欲しいのですけれども、それを求めちゃいけないのでしょうか。
ということを思った人がいるかもしれません。
このイエス様のお祈りの真意を探るためには、やはりこの元になった聖書の言葉に耳を傾けなければならないと思います。
一箇所読みたいのですけれども、出エジプト記の16章というところを一緒にお読みできるでしょうか。
出エジプト記の16章の1節から12節というところです。
出エジプト記の16章の1節から12節。
ゆっくりお読みしますので、追っていただければと思います。
出エジプト記の16章の1節から。
イスラエルの前回宗は、エリムから旅立ち、
エジプトの地を出て、第二の月の十五日に、
エリムとシナイとの間にある真のアラノに入った。
その時、イスラエルの前回宗は、このアラノで、モーセとアロンに向かって不平を言った。
イスラエルの子らは彼らに言った。
エジプトの地で肉鍋のそばに座り、パンを満ち足りるまで食べていた時に、
我々は主の手にかかって死んでいたらよかったのだ。
事実あなた方は、我々をこのアラノに導き出し、
この集団全体を飢え死にさせようとしている。
主はモーセに言われた。
みよ私はあなた方のために天からパンを振らせる。
民は外に出て行って、毎日その日の分を集めなければならない。
これは彼らが私の教えに従って歩むかどうかを試みるためである。
六日目に彼らが持ち帰って整えるものは、日ごとに集める分の二倍である。
それでモーセとアロンは全てのイスラエルの子らに言った。
あなた方は夕方にはエジプトの地からあなた方を導き出したのが主であったことを知り、
朝には主の栄光を見る。主に対するあなた方の不平を主が聞かれたからだ。
私たちが何だというので私たちに不平を言うのか。
モーセはまた言った。
主は夕方にはあなた方に食べる肉を与え、朝には満ち足りるほどパンを与えてくださる。
12:04
それはあなた方が主に対してこぼした不平を主が聞かれたからだ。
一体私たちが何だというのか。
あなた方の不平はこの私たちに対してではなく主に対してなのだ。
モーセはアロンに言った。
イスラエルの前回収に言いなさい。主の前に近づきなさい。主があなた方の不平を聞かれたからと。
アロンがイスラエルの前回収に告げたとき、彼らがアランの方を振り向くと、見よ、主の栄光が雲の中に現れた。
主はモーセに告げられた。
私はイスラエルのコランの不平を聞いた。
彼らに告げよ。あなた方は夕暮れには肉を食べ、朝にはパンで満ち足りる。
こうしたあなた方は私があなた方の神、主であることを知る。
ちょっと長く読ませていただきました。
この主とエジプト紀の16章というのは、ご存知の通り、イスラエルの民がエジプトから脱出した場面、
そしてその特に食べ物がないと不平をこぼした場面です。
神様がそのために、まさにマナーをイスラエルのために与え、夕方に渦を与えたということが書かれています。
このマナーは朝まで残してはいけないんですね。
翌日まで取っておいてはならないわけです。
つまり神様が翌日までマナーを振らせてくれるかわからないからといって、
予備を取ってはならないということが言われているわけです。
するとどうなるでしょうか。
実はこのマナーに頼るということは、イスラエルの民にとってはこういうことを意味するわけです。
それは、毎日の生活を完全に神様に依存するということです。
毎日の生活を完全に神様に依存する状態に彼らは追いやられたということです。
これはおそらくイスラエルの民からすれば不安だったのではないかなと思うんです。
とてもリスキーなことだったと思うんですね。
きっとこう思ったかもしれません。
明日も神様はちゃんとマナーを振らせてくださるだろうか。
渦を運んできてくれるだろうか。
もしも神様の気が変わってマナーを振らせてくれなかったらどうしよう。
そういうふうに思ったかもしれません。
そこにはある意味、この時神様は昼は雲の柱、夜は火の柱として民を導いてくれていましたから、
神様の姿は見えているわけですよ。見えている。
15:01
見えているのだけれども、この神に私の生活のすべてを依存してよいのか。
そのような不安がイスラエルの民にはあったということを思うわけです。
けれども、この日々の生活を完全に神様に依存するという状況にある種置かれることこそ必要だったとも言えるわけです。
なぜなら4節に書かれてありますね。
今日の16章の4節をもう一度お読みしますと、
身を私はあなた方のために天からパンを振らせる。
民は外に出て行って毎日その日の分を集めなければならない。
これは彼らが私の教えに従って歩むかどうかを試みるためであると。
試みるためであると言われているわけです。
試みるというのは簡単に言い換えるならば、これはテストするということです。
テストするということです。
この神様のテストというのは、よく神様はテストされるのですけれども、
アブラハムがイサスを捧げに行くかどうかもあれは試みでした。
そのようなテストがあるのですけれども、
このテストは不信仰な人間を炙り出すためのリトマツ試験師みたいな、
そういうものではありません。
そういうものではない。
神様がイスラエルの民を試みるのは、
その試みを通して、ある種テストを通して、
イスラエルの民が神様とは本当はどのようなお方であるかを知り、
その神様を信頼するというのはどういうことなのかということを
学ぶための試みなわけです。
どういうことなんでしょうか。
ちょっとだけ少しこの箇所について考えたいと思うのですけれども、
このマナの箇所を見ますと、
このちょっと先に進む16節を見ますと、
このモモセが民に集めなさいと言われたものは、
イスラエルの民に一人イチオメルずつ集めなさいと書いてあります。
イチオメルって結構な量なんですね。
これ2.3リットルなんですよ。
何かの麦を2.3リットルが一人分あるということは、
ちょっと想像すると、たぶん十分すぎるくらいの量なんですよね。
十分すぎるくらい食べる。
これは翌日までは残せないわけです。
民は十分に食べて、一日の食事を感謝して、
明日も神様がマナを贈らせてくださいと信じて、
夜眠るようにと、そのように神様には勧められているわけです。
しかし、そのように勧められていても、
翌日の分までマナを残そうとする人がいますし、
18:03
またこの22節以降に書いてあるのは、
この6日目に2日分集めなさいと言われているのですが、
7日目には神様の休みの日だから、
聖日だから休みなさいと言われているにもかかわらず、
7日目にこのマナを集めに行く人たちがやっぱり出てきます。
その人たちの心境はおそらく想像するにこういうことだと思うんですよ。
いや、明日、結局神はマナを贈らせてくれるかどうかがわからない。
もしかしたら神は気まぐれなお方であるかもしれないからということです。
ちょっと考えてみていただきたいのですけれども、
皆さんにとって神様は気まぐれなお方でしょうか。
聖書はそうではないということをはっきり書いています。
ここでイスラエルの民が導き出されたのはアラノなんですよ。
水がない、食べ物がないという場所ですよね。
おそらく神様がマナを土台化したら、
このイスラエルの群衆というのは数日で命が絶えるわけです。
しかし、16章の35節を見ていただきますと、
こういうことが書いてあるわけです。
35節。
イスラエルの子らは人が住んでいる土地に来るまで40年の間マナを食べた。
彼らはカナンの地の境に来るまでマナを食べたと言われています。
アレノの40年です。
その40年アレノを回るようになったのも結局民の不信仰が原因でしたね。
それもまたどこかで見たいと思いますが。
民は全然神様に従順ではあり続けなかったわけです。
しかしそのような民にある種、
ヨルソウガごとくアレノを40年間一緒に旅をした神様がいる。
そしてその神様は40年間一度たりともマナを途切れさせることがなかったと書いてあるわけです。
民は日ごとに降ってくるマナの奇跡を通じて神様を知る必要があったわけです。
それは神様は気まぐれなお方なのでしょうか。
いいえ、むしろ神というお方は私たちの日ごとの糧を決して忘れない神であるということです。
決して忘れない。
それはそうなんですね。
なぜなら神様は、イスラエルの民はエジプトから恵みをもって導き出した神様。
そしてご自身のことをアブラハムイサクヤコブとの契約に忠実な神だとご自身で言っておられるからです。
21:08
神様は気まぐれな神ではない。
そのような神様をイスラエルの民は日ごとを求めることを通じて知る必要があったわけです。
今日与えられるんだろうか、今日与えられるんだろうか。
でもその日イスラエルがマナーを求めるときに確実に応えてくれる神がそこにおられる。
そして神というお方は気まぐれなお方ではないんだということをそこで知るように彼らは導かれていたわけです。
実はこれは主の祈りを祈る私たちもまた同じなんですね。
私たち自身も実は神様の恵みにおそらくお互いに依存して生きているものであると言えるわけです。
それはある種主の祈りの構造からもわかるんですけれども、
ちょっとだけ6章に、マタイの6章に戻りますけれども、
先週私たちは主の祈りが御国が来ますようにというお祈りを一緒に聞かせていただきました。
実は主の祈りの一つの構造の特徴としてあるのは、御国が来ますようにと祈った後に続いて祈られることというのは、
全部実は神様の御支配、神様の御国に関わることばかりなんです。
そう言えると思うんですね。
例えば神様の御支配、神様が私たちを御支配なさっているということ、
それは私たちの日ごとの糧に関わることなんです。
神様が御支配をなさっているということ、それは、
共に生きるお互いが罪許され、許し合うということに関係しているわけです。
神様の御支配がある、それは神様が試みや悪から守るということに関係しているわけです。
そうなってきますと、おそらくお気づきになられる方もいるかもしれません。
イエス様の教えられた主の祈りを祈るときに、私たちの目に浮かぶ神様の姿というのは、
あのイスラエルの民をアレノで導いた神様の姿なんです。
まさに日々、マナとウズラを与え、神様が民と隣人と共に生きるために、民に立法を与え、
そしてアマレックとかの諸国の敵、悪と試みに先んじて戦われる神様がいる。
昼は雲の柱が、夜は火の柱が民の前から離れることはなかった、
出演時の13章に書いてありますが、
そう言われた神様が、実は主の祈りを祈る私たちの神であり、今も変わらないんですね。
24:11
そして日ごとの糧を主に祈るということは、
私たち自身の生活も、あのイスラエルの民のように神様に依存している、
そういうものなのだということを言うことができるのです。
それはある種、実をによってはやっぱりリスキーなんですね。
私たちも思うかもしれません。
目には見えない神様に私の生活が担われている。
そう考えると、大体は不安になるんだと思います。
不安になり、だから私なりの保険をかけなければと思い、
神様が気まぐれであったとしても大丈夫なように、
日ごとの糧が崩れても、私は私なりの備えをしておこう。
そのようにもしかしたらなるかもしれません。
7日目にマナを集めに行くということが、私たちにもあるのかもしれない。
でも、今朝共に覚えたいことは何かと言いますと、
神様は気まぐれなお方ではないということです。
私たちの日ごとの糧を決して忘れない神である。
私たちは命も生活のあらゆる面も、
全てに働く神様の恵みの配慮の中にあるんだということ。
私たちはそれに依存しているんだということ。
それは不安なことに思われるでしょうか。
いや、逆なんです。
いいえ、だからこそ安心をしなさいということなんですね。
イスラエルの子らは40年の間マナを食べたと言われているわけです。
どんなときでもマナを振らせることをやめない神様。
私たち自身が覚えるのは、
昨日までのことはもうおそらく過ぎたことなんですよ。
明日のことは正直わからないわけです。
しかし確かに言えることは、
今日神様はあなたのことを忘れてはいないということです。
これは確かなことなんです。
だから共に祈り続けたいわけです。
私たちの日ごとの糧を今日もお与えください。
先ほど祈っていただきました。
私たちが失われないために、
御子を申しまず与えられる神様が、
私たちの日々にもご配慮してくださらないことがあろうかということです。
そのような恵みを覚えていく中で、
27:01
私たち自身も神様の恵み深さを知っていくものにされていきたいと思います。
もう一つ目を向けてまいりたいのは、
ただもう一つご一緒に覚えたいのは、
それは、
もしも私たちが日ごとの糧を十二分に得ているならば、
言い方を変えるならば、
私たちが日々毎日おいしくご飯が食べれているのであれば、
私たちがもう一つ覚えたいのは、
神によって私が日ごとの糧を満たすものになるという使命を負っているということです。
なぜなら、今日教えられている主の祈りの言葉、十一節。
私たちの日ごとの糧を今日もお与えくださいと、
ここではイエス様が教えておられるからです。
私たちの日ごとの糧をお与えくださいと。
実はそのことに関係しているのが、
今日もう一ヶ所読んでいただいた神明記の言葉なんですね。
神明記の今日は15章というところを読んでいただきました。
もう改めて読むことはしませんが、
神明記のこの15章の7節から11節というところには、
同胞が貧しくなっているのであれば、
あなた方はそれに対して手を閉じていてはならないということが書いてあります。
十節は特に如実な表現ですね。
あなたと彼に与えなさい。また与えるとき物惜しみをしてはならない。
このことのゆえに、あなたの神主はあなたの全ての働きと手の技を祝福してくださるからであると書かれています。
この箇所だけを見て考えていってもいいんですけれども、
でもこの箇所はおそらくもうちょっと前にある旧約聖書の思想が根拠になっていると思うんですね。
ここに書いてあるのが、第7年の免除の年が近づいたということが書いてあるわけです。
この旧節の第7年の免除の年というのは一体何のことを言っているのだろうかと言いますと、
おそらくもうちょっと遡ってレビキの25章に書かれている
安息年と呼べるの年という年のことです。
これは旧約聖書の中ではとても大事な箇所なので、
少しだけちゃんとお話をしたいと思いますけれども、
レビキの25章というところはとても大事な箇所です。
ここに書いてあるのは呼べるの年と呼ばれるものです。
この呼べるの年というのは、神様がイスラエルの民に呼ばれた一つの経済システムというものです。
30:00
どういうことかと言いますと、25章も全部読みませんが、
さらっとどういうことが書いてあるかと言いますと、
イスラエルの民は神様が導かれる場所で土地を耕していくわけですけれども、
6年間土地を耕したら、その次の1年は休みなさいとまず言われるんです。
6年耕したら1年休みなさい。
この6年耕して1年休む年を安息年、安息の年とか言われます。
これが7年スパンですね。
この7年スパンが7回繰り返される。
8節にありますけれども、
安息の年を7回すなわち、7年の7倍数える安息の年が7回で、77、79、49年である。
この年に角笛を鳴らして、そして10節にありますけれども、
あなた方は50年目を成別して祝わなければならない。
ヨベルの年であると言われるわけです。
7年のスパンのときには何が起きるかと言いますと、
7年耕して1年土地を休めなさいだけなのですけれども、
この7が7回繰り返されて77、79の翌年の50年のヨベルの年には何が起きるかというと、
まず土地は休むわけです。
土地は休むんですけれども、
それだけではなく、
なんとこの50年間で人から買い取った土地は無償でその人のもとに返さなければなりません。
それだけではありません。
その50年の間に誰かに雇われた奴隷というのは無償で解放されなければなりません。
いわば50年間の経済生活の中で、
かたやとんでいた人がいて、かたやとむ人の比例して貧しくなった人たちがいるわけです。
でも50年経ったらそれを全部返済しなさいと言うんです。
さらにしなさい。
それは神様が定められているから、
有無を言わさずそうするしかないんですね。
俺のだ、俺のだと言っても、
それは返さなければならない。
なんで返さなければならないかと言いますと、
レビキの25章の23節に書いてあります。
23節、土地は買い戻しの権利を放棄して売ってはならない。
土地は私のものである。
あなた方は私のもとに在住している貴隆者だからである。
彼らがいくら自分の力で富を得たとしたとしても、
神様はその前提を言われない。
土地は私のものだ。
だから人々に返すときには、
押しまずに返さなければならない。
レビキの25章にも繰り返し言われていることは、
33:00
あなたの神を恐れよ。
私はあなた方の主だからであると、
言葉が繰り返されます。
神様は誰かだけが富んでいて、
誰かだけが貧しいという状況を嫌われます。
だから旧約聖書では50年に一度リセットするのです。
このヨベルの土地というのは、
レビキにこういうものがあるんだな、
特殊だなと思われるかもしれませんが、
実はこれは新約聖書に続いていくのです。
ヨベルの土地というのは、
異なる表現で言うならば、
それは恵みの土地というのです。
恵みの土地と聞きますと、
ピンと頭にくるのは、
イザヤ書の61章です。
ちょっとパラパラしているので申し訳ないのですが、
ちょっと開いていきます。
イザヤ書の61章の1節から3節というところを
ちょっとお読みしますと、
こういうことが書いてあります。
イザヤ書の61章の1節から3節。
神である主の霊が私の上にある。
貧しい人に良い知らせを伝えるため、
心の傷ついた者を癒すため、
主は私に油を注ぎ、
私を使わされた。
囚われ人には解放を、
囚人には釈放を告げ、
主の恵みの土地、
我らの神の復讐の日を告げ、
全ての嘆き悲しむ者を慰めるために。
資音の嘆き悲しむ者たちに、
灰の代わりに頭の飾りを、
嘆きの代わりに喜びの油を、
憂いの心の代わりに賛美の該当を付けさせるために。
彼らは義の果実の木、
栄光を表す主の植木と呼ばれる。
ちょっと長く読みましたね。
このお言葉を読んだときに、
私たちにはふと、
あ、あれ新約聖書のあの箇所だなと浮かぶ箇所があるかもしれません。
それはもういろいろ飛んで申し訳ないんですが、
ルカの4章なんです。
ルカの4章の16節から21節。
パラパラ開いて申し訳ないんですが、
これも読んでしまいたいと思います。
ルカの4章の16節から21節を読みます。
読みます。
それからイエスは、
ご自分が育った名ざれに行き、
いつもしている通り安息日に街道に入り、
朗読しようとして立たれた。
すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、
その巻物を開いて、
こう書いてある箇所に目を止められた。
主の霊が私の上にある、
貧しい人に良い知らせを伝えるため、
主は私に油を注ぎ、私を使わされた。
囚われ人には開放、
36:00
目の見えない人には目の開かれることを告げ、
虐げられている人を自由の身とし、
主の恵みの年を告げるために。
イエスは巻物を巻き、
係りの者に渡して座られた。
街道にいた皆の目はイエスに注がれていた。
イエスは人々に向かって話し始められた。
あなた方が耳にしたとおり、
今日この聖書の言葉が実現しました。
何を言っているのかと言いますと、
イエス様はこの曰べるの年をもたらしに来たと言っている。
私が来たことによって、
それが実現しているということを言うんです。
それはまさにイエス様の歩みを見ていったらよくわかります。
楽しい人々の食卓をパンと逆なて満たされました。
病人を慰め癒されました。
そして当時飛んでいたパリサイ派の人、
まさにそのあなた方のうちには
暴力と邪悪が満ちていると指摘しましたけれども、
イエス様はその人々に対して、
あなた方のうちにあるものを施しなさいと訴えました。
神様は誰かだけが飛んで、
誰かだけがいつも足りないという状況を
見過ごされるお方ではない。
そしてイエス様ご自身も
そのように歩んでおられるということです。
クシクモマリアがマグニフィカートで、
イエス様の自分の生まれる子供について
予言しましたが、
飢えたものを良いもので満たらせ、
富むものを何も持たせずに追い返す。
ルーカの訓書の1章の53節にあります。
そのような働きにイエス様はお使いなさった。
そして私たちが知るのは、
その後に気づかれた、
まさに一元公録の教会は、
このイエス様の技に全く習っているということです。
ちょっとパラパラ開いても、
開ける方だけで申し訳ないです。
使徒の働きの2章の44節から50節というところには、
こういうことが書いてありますね。
有名ですけれども。
使徒の働きの2章の44節から45節にお読みしますと、
信者となった人々は皆一つになって、
一切のものを共有し、
財産や所有物を売っては、
それぞれの必要に応じて皆に分配をしていた。
教会は自分の持てるものを持って互いに使い合った。
でもこれは一個一個の件じゃないんです。
全部線なんです。
遡れば呼べるのとしなんです。
遡って何が言えるかというと、
全ては神のものなんです。
だから私たちは押しまずに支え合おうということが、
ここで言われるわけ。
私たちが持っているのは、
私が使用しているけれども、
所有しているものではない。
39:02
これは教会を生きている私たちも同じなんです。
私たちが賜っているものは、
私が使用しているのだけれども、
私が所有しているものではない。
それは究極的には神のものである。
そしてそれ上に、
神様は誰かだけが富んで、
誰かだけがいつも足りないという状況を
いつまでも見過ごされないだけに、
私たちに対しても言われるわけです。
あなたが満たされているものがあるのであれば、
その必要を持って欠けているところを満たしにいきなさいと。
この話をしながら思い出すのは、
実は私が新学生のときにとてもお世話になった、
校長先生をしてくださっていた中澤龍一先生のことです。
ちょっとだけ先生のことをお話ししますと、
先生は2015年に、
もう8年前になりますが、
天に召されました。
私にとっては、
新学校3年間の中、2年間、
中澤先生が校長先生をしてくださっていて、
とても私にとっては、
今でも大切な恩師の一人ですけれども、
先生の赤詩集の中で、
ただ詩を求めてある田舎牧師の奮闘記、
私何度も読み直したのですけれども、
こういう本があります。
その中で先生ご自身も口を通して話していたのですが、
一つこういうお話がありました。
中澤先生は、
この若き日に滋賀県で開かれていたWEG、
世界福音伝道団の天幕伝道で救われるわけです。
その翌年に同じように天幕伝道、
今度は天幕正会が開かれたそうです。
そこに天幕伝道で救われた人たちは、
やって来なさいと言って招かれていくわけです。
そのときに、
その宣教師の先生が目白からメッセージをしてくださって、
その説教の後に、
司会者の方がこういうふうにお勧めになったそうです。
その言葉をそのまま読みますと、
私たちは二つの意味で神の所有です。
まず私たちは神に創作されたものですから、
作り主である神のものなのです。
そして、
罪を犯した人間は神から離れましたが、
神はキリストという値を払って、
私たちを買い戻してくださいましたから、
私たちは神に買い戻された神のものです。
そして、
そう信じている私たちは、
自分の体を神に喜ばれる、
生きた備え物として神に捧げるべきです。
そうするときに、
三つ目の意味で神の所有となります。
今日、所有権移転の手続きをしませんか。
所有権移転の手続きの祈りをいたしましょう。
42:03
前の人から順番に短く、
自分が神の所有であることを告白する祈りをしてくださいと、
そのように勧められたと。
中沢青年は戸惑いつつも、
押し出されるままに出ていって、
このように祈ったそうです。
私は今まで自分は自分のものと思っていましたが、
神に作られた神のものであり、
キリストに買い取られた神のものであることを告白します。
神に喜ばれる備え物として、
自分を捧げ、神のものとなります。
私の所有権は神様にあります。
所有権移転の祈りをします。
そのように祈られたそうです。
とても面白いのは、先生はその後家に帰って、
自分の机に座るわけですよね。
座った後に机の周りにあるものを見ていると、
やけに気になったそうです。
それはなぜかと言いますと、
先生のお父さんがとても貴重面な方で、
買ったものに自分で、
何月何日購入、中沢亀次郎所有、
全部のものに書いていたそうです。
それを先生も真似して、
自分自身も何月何日購入、中沢隆一所有、
全部のものに書いていたそうです。
でも先生はふとこう思ったそうです。
自分が神様の所有となったのに、
私は私のものを所有していてよいのだろうか。
先生は所有という文字を消して、
使用という文字に書き換えたそうです。
中沢隆一使用、中沢隆一使用。
所有権は神にあるけれども、
使用権は私にある。
証はこう閉じられています。
これが私自身が主のものとする、
私自身を主のものとすることを確信する意識改革。
まさに心の一新のタイミングでしたと、
先生はそのように書いております。
少し考えてみたいのです。
ともすれば、私たちは自分の命も人生も、
自分のものと思いがちなのだと思うのです。
そして自分の持っているものも、
あたかもそれが自分だけのものであるかのように、
私たちは振る舞ってしまうのです。
しかし、そのような心で、
私たちの日ごとの糧を今日もお与えくださいと
祈るようにはやはり招かれていない、
そういうことができると思うのです。
神様は私たちの命をご配慮くださいます。
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しかしそれと同じように、
神様は私たちの隣にいる貧しい人の命も
配慮されているわけです。
私だけが満たされて、
隣にいる人が貧しいことに無関心であれば、
私たちの日ごとの糧を今日もお与えくださいと
私たちは祈ってはいないのです。
誤解がないように言いますが、
神様は私たち一人一人の命が大切なわけです。
ですから、自分の命を削るほどまでに
誰かを助けなければならないということではないのです。
自分の命をまず大事にしてください。
自分の命が本当に不安なときに
誰かに何かを与えようと考える必要はないのです。
ただ、もしも幸いなことに、
私たちが毎日ご飯をおいしく食べることが
できているのであれば、
平和で何ら明日の食事も心配せずに
いることができているのであれば、
心が満たされているのであれば、
私たちは自分の周囲に目を向けるようにと
招かれているのです。
傷んでいる世界に目を向けるようにと
招かれるわけです。
戦争ってそういうことですよね。
神様から与えられるものによって満たされて、
だからそれによって誰かに与えなさいということを
ある種、神様を知らない世界が
自分で自分の平和と
自分で自分の何かを守るために
人から奪うことを始めてしまう。
そのような世界に対して何ができるかなと
やはり考え始めなければならないのだとも思います。
今、不条理な世界にある種災害が襲っています。
トルコの震災はどうなったんでしょうね。
本当に心配です。
今、人々を苦しめ日ごとの糧が危ぶまれている
人々がいるわけです。
私たちはある種、そのような世界を見つめ祈り
まさに神様のものとされた
そのような存在としてどう生きるべきか
そのことがこの日ごとの糧をお与えくださいという
祈りの中から問われるわけです。
ある種、問われつつ、祈りつつ、問われつつ、祈りつつ
私たちはこの祈りを祈っていきたい。
私たちの日ごとの糧を今日もお与えください。
一言お祈りをしてメッセージを終わります。