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2025-03-23 40:35

「イエス様を見つめましょう/主よ、最後まで走る恵みを!」2025年3月23日のメッセージ

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東京ぶどうの木教会 2025年3月23日(日)主日礼拝のメッセージです。
牧師:アブラハム黄 
▼教会へのお問い合わせ: tokyo.vine.church@gmail.com

▼メッセージの自動文字起こしはこちら https://listen.style/p/tokyovinechurch

(聖書)ヘブライ12:1-3  こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、2.信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。3.あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。

メッセージ題 :イエス様を見つめましょう/主よ、最後まで走る恵みを! (ヘブライ12:1-3)
*今までヘブライ11章を通して、歴史的に偉大な信仰の先輩たちを紹介した著者は、私たちと繋がるものとして、信仰の競走をすることであると。先輩たちは立派に完走されたので、私たちも競走を立派に全うする為に・・・どのような姿勢で走るべきなのかを!大事な姿勢3つ学びましょう

1.今の私たちは、信仰の先輩たちが走りぬかれた信仰の競走を、私たちも担っています。
*競走は難しいです。ヨブ記5:7人は苦難の為に生まれた?なぜ人生に苦難があるのか?罪の故に。創世記-19 事実キリスト者は、世の中の人々が担う苦難に加えて、信仰による苦難もあるので、信仰生活は難しい。ですから、キリスト者は苦難を、どのように理解し担うのかが大事。
*1節下、「自分に定められている競走」を?人々は各々自分の意思とは無関係で競走をしている。何を目指して走るのかも知らないで?結局、死で競争は終わるが・・・キリスト者は命の主、イエス様を受け入れてからは永遠な死の道から逃れて、天国に向かって走る信仰の競走を!この道は難しい!細い道、十字架を背負って? しかしこの道は先輩たちが担って勝利した道。どうすれば?

2.ヘブライ書の著者は、信仰の競走を上手く全うする為に、どんな姿勢を勧めていますか?
1)信仰の競走の為に、12:1すべての重荷や、絡みつく罪を、かなぐり捨てるように!
*すべての重荷とは?マラソン選手はよく走る為にどうするのか。 *絡みつく罪?信仰の競走に一番邪魔は罪。罪を犯すなら、私たちの考えと生活を絡みつけられ何にもできないようになる。アダムとエバの場合?罪が教会に入って来るなら?自己中心性が罪であること・イザヤ53:6律法主義によって。人生に落とし穴がどれほど多いでしょう。かなぐり捨てて?積極的に悔い改めを…

2)信仰の競走の為に、忍耐強く走り抜くように!
*信仰生活は短距離競走ではなく、マラソン長距離競走です。マラソンで危機が、10km、35kmのとき、それを乗り越えるなら足が自然に走るように・・忍耐を通して信仰の秘密を悟り、霊的成長が
*忍耐の為には、聖書学びと祈りの生活を通して内的力を。イエス様は、ルカ救いと関係を

3)イエス様を見つめなければ!
信仰の競走の目標はイエス様!ピリッポ3:7,8 パウロの完走秘訣
*しかしイエス様ではなく、この世、他人、自分自身を見つめると不信仰が。イエス様は力を賜る

3.では、「イエス様を見つめる」とは・・・ どうすることなのか?
*どんなときも、イエス様を中心として考えること!詩編123:2、十字架の福音では?WWJD?
*私たちが見つめるべきイエス様はどんなお方?12:2アルファ&オメガ、聖書は牧者と羊の例
#苦難を受けるときも、イエス様は私たちの模範。どのように十字架を担われたのか?12:2復活を。四旬節の期間、神様の切なるお願いと、イエス様の犠牲、復活の希望を深く考えながら、12:3節
*イエス様が、十字架が難しいと信仰の競走をやめられたら?しかし完走され、救いの御業を…@私たちに与えられている競走、最後まで貫けるように主の恵みを求めます。主よ、完走したい
 

サマリー

このメッセージでは、イエス様を見つめることの重要性や、信仰を持って人生の競争を最後まで走り抜く必要性が語られています。霊的な分別力や信仰の重要性が強調され、苦難を乗り越えるためには忍耐を持つことが教えられています。イエス様を見つめ、忍耐強く信仰生活を貫くことが重要であると述べられます。困難や試練を乗り越えるためには、共同体の力や神への従順が必要です。信仰の目標はイエス様であり、彼に目を向けることで苦難を超えることが示されています。このエピソードでは、イエス様が孤独と苦しみの中で示した忠実さが強調されています。人々は彼のように信仰を最後まで貫き、神様の恵みを求める重要性を学びます。

霊的分別力と信仰の重要性
今日はイエス様を見つめましょうという対応をもって、メッセージを分かち合いたいと思います。
今、今年に入ってから、 教会は2つのテーマをメッセージで取り扱っています。
1つは霊的な分別力。 またもう1つは信仰ということです。
霊的な分別力がなければ、私たちの働きは全て無駄です。
また、信仰がなければ、神を喜ばせることはできません。 ですから霊的な分別力と信仰をもって、
2025年度、勝利する人生に、信仰生活をやりましょうということで、
信仰、ヘブナイ書中一章、信仰の章を私たちは紹介しています。
今までは、中一章を通して、歴史的に神様に大きな働きをされた先輩たちの足跡、
いろいろ残したことを調べながら、私たちは学びを考えました。
アベル、ノア、アブラム、モーセ、またダビデ、
いろいろなことを調べて、いろいろ勉強しました。
彼らは主である神様に一番上手く用いられた下辺でした。
ですから神様から大きな祝福と恵みをいただきました。
また先週私たちは、その先輩たちが、私たちが走るこの競争の道を先輩たちもずっと走って、
人生の競争と苦難
それで最後最後まで勝利した、その先輩たちが私たちを応援して励ましているんだ。
その励ましをいただいて、私たちもこれからの私たちの競争を頑張りましょうと申し上げました。
今日はこの話をもっと詳しく申し上げたいと思います。
先輩たちも私たちが担っている人生を、この世の人生を走りました。
先輩たちはうまくできました。
ヘブライ賞は、この先輩たちがどのようにしてから、この競争がうまくできたのか、
これを私たちに教えてくださっています。
でも皆さん、競争ということは優しいものではありません。
予告5章7節には、人は苦難のために生まれたと言います。
人は苦難を受けるために生まれた。
これは難しい話ですね。
なぜ人生には苦難があるのでしょうか。
これはアダム・テ・エヴァの神様に対する罪、原罪のゆえです。
この原罪のゆえに、人間が受けるべき罪の罰、これが創世紀3章16節に、
神は女に向かって言われた。
お前の腹身の苦しみを大きなものにする。
もともと神様の計画は、腹身の苦しみがそんなに大きくなかったような気がします。
しかし、罪を犯してからは、腹身の苦しみを大きなものにすると言われたんです。
お前は男を求め、また彼はお前を支配する。
これが女性に与えられた罪の罰と考えられますね。
また男性には、お前は顔に汗を流してパンを得る。
土に帰る時まで、お前がそこから取られた土に、地理に過ぎないお前は地理に帰る。
これが人間が最後に死で終わるということを、神様が私たちに示してくださいました。
ですから、女性は女性なりに、男性は男性なりに、
この世の中で苦しみがあるんだということは、この罪の罰として私たちが考えられます。
私たちが信じるものは、世の中の人々が全てになっているこの苦しみと、もう一つあります。
信仰の道を私たちが歩むために、ここにまたある苦しみがあります。
世の中の人々の苦しみ、プラス信仰による苦しみがあるので、信仰生活は決して優しいものではありません。
しかし、この信仰の道以外に、天国に行く道があるんですか?
永遠の命を得る道がありますか?ありません。
ですから、私たちはこの道を最後まで貫くべきであります。
ですから、私たちは苦難という言葉、苦難というものに、私たちはもう慣れていかなきゃいけない部分もあります。
信仰の競争を貫くために
ですから、この苦難をどのように理解して、どのようにこれを乗り越えていく、それを私たちが担っていくべきなのか、これをヘブライ賞では教えてくださっています。
じゃあ、もう一度ヘブライ賞、衆認賞一節、私が言いましょう。
こういうわけで、私たちはまた、このようにおびただしい聖人の群れに囲まれている以上、
すべての重みや絡みつく罪を、金繰り捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走りに行こうというべきではありませんか?
ここで、自分に定められている競争、私たち各々自分が走るべき競争が定められているということはわかります。
そうです。人間は生まれたばかりで、自分が願うか願わないか関係なく、みんな競争をするようになっています。
みんな走っています。生まれた作ちゃんも自分の定められた競争が作ちゃんにあります。
だから作ちゃんはその道をしっかり走らなきゃいけないことがあります。
大抵人々は自分が定められた競争が何なのかよくわからなくて、とにかく人生に熱心に走っています。
そのたどり着くところがどこなのかわからないまま、何か頑張っています。結局死にます。その後どうなりますか?
しかしクリスチャンはイエス様を救い主たちで受け入れたその瞬間から、私たちは永遠の罰じゃなくて、永遠の命をいただいている、またはその天国に向かって走っていく信仰の競争をするようになります。
世の中の人々は自分なりに走るんですけど、私たちはもう定められています。天国に向かって私たちは走っています。
その道が優しければいいんですけど、その道は決して優しい道ではありません。
なぜなら、この世の中の人々、みんなが行く世の中の価値観によって生きるんじゃなくて、私たちは神様が与えてくださる道を通して走らなきゃいけない。
世の中で様々な苦難と難しさがあっても、それを乗り越えてその道に走らなきゃいけない。信仰によって走らなきゃいけない道です。
世の中の人々の道は信仰がなくても自分勝手に、自分が好きなまま走ることができるんですけど、私たちはそうしてはいけません。
神様が定められた神の道に従って行かなければなりません。
この道は難しいんですけど、私たちだけが行くことではありません。今まで信仰の先輩たちがその道に走り、その道を最後まで立派に貫いたんです。勝利されたんです。
その先輩たちが私たちを応援しています。頑張れ、頑張れ、励ましています。
先週も申しましたけど、この道をうまくたどり着くために先輩たちが励ましているんですけど、
その先輩たちはどのような覚悟で、どのような姿勢で、その難しい道を走り抜いたのか、
ヘブライショ調査は私たちに教えてください。
皆さん、競争というものは最後の合輪の時点までずっと走らなきゃいけません。
乾燥しなきゃいけません。道中で止めれば何にもありません。
道中で止めれば何にもありません。
ですから私たちはこの進行の道を最後まで貫く、最後まで乾燥しなければなりません。
そうするためにヘブライショ調査は私たちに教えることがあります。この3つです。
はじめに中二症一節に、全ての重みや絡みつく罪を金繰り捨てなければならない。
難しい言葉は、もともと全ての重い荷物を背負ったまま競争に走る人は誰もいません。
マラソンの走る選手たちを見ますと、100mを走る選手たちを見ますと、自分の体を軽くしようと思います。
とにかく抵抗がない、それで軽く走れるように頑張ります。
コートを着てたり走る人もいません。全てを脱いで、このランニングとパンツだけで、また軽いランニングシューズを着て、履いて、それで走ります。
また自分の体をできるだけ脂肪がないように、軽く軽く軽くして、そして力を出す良いように頑張ります。
私たちも信仰の競争、一番難しいのは、世の中のたくさんの荷物を抱えて、そして信仰の競争するのは無理です。
ですから私たちの体を軽くしなければなりません。
その中で一番私たちに重荷になるのは罪なんです。
聴者は罪を絡みつく罪だと言います。
罪は私たちの考えと生活を縛りつけるんです。
ですから私たちは何にもできないように、全て縛りつけてしまいます。
アダムとエーヴァは神様に対して罪を犯さなかった時には、エデンの園で幸せにまた全世界を管理するその働きをされたでしょう。
ところが、チェンアクの知識の木の実を食べて、罪を犯してからは、神様がエデンの園に来られることを聞いて逃げてしまいます。
自分の体を避けてしまいます。
そこから人生が複雑になります。
絡みつくようになりました。
罪によって罪の罰、呪いに縛りつけられる。
罪は愛する人との関係を全部破壊します。
アダムとエーヴァがお互いに恨みをつけて、あなたのせいだ、あなたのせいだということを私は聞きました。
もし罪が境界に入ってきたらどうなりますか?
境界は境界の役割ができません。
境界はみんな一丸になって走る信仰の競争ができなくなります。
お互いに責める、お互いに制御する、このような問題があったら、境界はもうこの分裂の中で信仰の競争ができなくなります。
特に問題は、条約的な罪が発生するなら、罪意識と周知心によって信仰の競争から逃れることができなくなりました。
私たちが中治家の福音で学んだこと、自己中心的な生活が罪だということを皆さんご存知ですか?
イザヤ53章6節
私たちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの放課後に向かって行った。その私たちの罪をすべて主は彼に負わせられた。
それぞれ自分が好きなところを自分勝手にやること、これが神様が見られるのはすべて罪だった。
この罪を背負ってイエス様が中治家にかけられたということです。
皆さん、自分の目的のために、自分のやり方で、自分の熱心で、自分の観点で、すべてやること、
立法主義、陳本主義、ご利益信仰、これは罪なんです。
皆さん、立法主義の特徴は何か?
チッコキーです。私はうまくやっている。
また、礼的な優越感です。また、礼的な劣等感も同じようなことです。
礼的な優越感を持っていたら、信仰の競争は非常に難しくなります。
どんな人がうまくできるか?
ただ恵み、ただ信仰、ただ中治家、ただ見言葉、ただ聖霊、このようなただイエス様、
このような信仰を持っている人は、神様を下さる恵みのゆえに、その信仰の競争がうまく走ることができるし、
その人は揺れることなく、最後までつらぬくことができます。
人生は落とし穴がたくさんあります。
皆さん、いろいろな中毒があります。
アルコール中毒、走ることができません。
麻薬中毒、だめです。
もう、因乱中毒、この人はもう走ることができないでしょう。
また、怠けなもの、不規則な生活、その生活習慣も正しくしなければ競争はできません。
また、この世の中を愛し、世の中に対する欲があるなら、
これはもう、はじめに信仰の競争に参加することさえもできません。
ですから、自分を持っているこの世の中の重荷、
皆さん、重荷が何か考えてみてください。
自分が必要じゃないものをたくさん稼いで、たくさん買って、
たくさん、何かたくさん持つことを大好きな人は、難しくなります。
また、欲、このような人は、罪、このような人は、信仰の競争を走ることはできません。
だから、私は救われたと言いながら、天国に向かって走るべきなのに、
その道を走ることができなければ、途中で脱落者になってしまいます。
私は、この日本語、金振り捨てて、金振り捨てて、この、私は日本人じゃないから、
皆さん、日本の方は金振り捨ててって言ったら、よく理解できると思いますけど、
私は理解ができなくて、死死を披露みて、何なのかと言ってました。
金振り捨ててってことは、ただ捨てるんじゃなくて、
これを全部、積極的に、徹底的に捨てることを意味しました。
皆さん、悔い改めは、このようにしなければならないと。
イセラリ人たちは、エジプトから、集中エジプトに出ました。
これを、私たちは救いだと思う人は、たくさんいます。
しかし、彼らは奴隷の根性ということを捨てませんでした。
だから、アラノに出てから、何かあったら、神様とモーセを恨みます。
不平不満します。
結局、彼らは40年、あれの中で、全部死んでしまいました。
カナンに入ることはできませんでした。
悔い改めができてなかった。
奴隷の根性を捨てること、これが悔い改めなのに。
また、皆さん、ダビデ。
ダビデがすべてうまくやったんですけど、
一つ、神様の前で、ウリアワの妻、パッセバを犯した、この事件がありました。
彼は、その事件を犯してからは、骨が朽ち果てるほど、
つらいつらつらさの中で、叫びました。
だから、信仰の競争ができなくなりました。
その時、ナタン預言者によって、叱られて、それで、涙を流しながら、悔い改めます。
軽くなった身体を持って、彼は信仰の競争を続けることができました。
私たちも、罪を犯したら、私たちも、この悪い習慣の中で、
私たちの世の中のことを愛して、欲があったとしたら、
私たちも信仰の競争ができなくなります。
ですから、この世のすべてを、イエス様の中実家の前で、
イエス様に委ねて、悔い改めることが大事です。
私は、この三美歌が好きです。
罪より救われて、喜び満ちあふる。
みざにまっすしゅイエスを、とわにしたう。
そうです。
罪をすべて、イエス様に委ねて、すべて軽くして、信仰の競争が、クーッと走る。
これは、私たちがやるべきこと。
ぜひとも、悔やられた目を通して、これができればと思います。
また二番目、信仰の競争をうまくするためには、忍耐が必要です。
一番弱いのは、忍耐ができなくすぐやめる、すぐ問題を起こすということです。
信仰生活の長距離競争
信仰生活は、短距離の競争ではありません。
一生走らなきゃいけない、長距離競争です。
マラソンを走る人は、42キロくらいですね。
その中で、心臓が爆発するほどの危険、危機があるそうです。
10キロくらい、また35キロくらいのところを走る時に、
心臓が爆発するほどだから、もうこれ以上走れないと思う時があるそうです。
その危機、それを私たちが忍耐して乗り越えなきゃいけない。
乗り越えるなら、足が自然に動くそうです。
そうしたら、もうマラソン最後まで行くでしょう。
私たちの信仰の競争も同じです。
いろいろな危機があります。
私が一番我慢できないことは、何か実りが見えない時。
頑張ったんだけど、その結果が何もなかったといった時に、
いやー、これはどうしたら、続ける力がないんじゃありませんか。
でも、その危機を私たちは乗り越えなきゃいけない。
そこで諦めたら何にもありません。
競争で途中で止まったら、もう何にもありません。
最後まで走ることが一番大事なんですけど、
そうするためには、信仰生活で様々な妨げ、様々な苦難、様々な非難、
迫害、難しさを乗り越えるパワーが必要です。
信仰と共同体の重要性
忍耐ということは、逆行耐える内的な力ということです。
どうすれば忍耐をできるか。
聖書勉強会とかお祈りを通して、自分を打ち叩いて、
神様にこの服従する、その訓練、それを繰り返し繰り返しするときに、
何があっても諦めないで、それを乗り越える、忍耐し、
それをもって最後まで貫くことができます。
皆さん、イエス様がこの忍耐について、
ルカの21章中9節、これは大抵終わりの時期に対して言われるんですけど、
忍耐によって、あなた方は命を勝ち取りなさい。
忍耐をもって命を勝ち取る、どんな意味ですか。
終わりの時に様々な難しさ、苦難がある。
忍耐を通して命を勝ち取るということは、
これは救いと関係があるんじゃありませんか。
ですから私たちは、最後まで忍耐ができる、
このような訓練を受けることも大事だし、
共同体でお互いに励ます、励ます、力を与える、祈ってあげる。
皆さん、共同体がなければ、一人の力で最後まで行くのは難しいんですよ。
だから神様は私たちに、信仰共同体の家族として、
呼び集めてくださったんじゃないかと思います。
時々私たちは、つまづく場合がありますけど、
どんな時つまづくのか、
イエス様を見上げることができなく、私たち信仰の目標はイエス様です。
シト・パウルの目標は、イエスを得るために、キリストを得るために、
自分は後ろのことを全部忘れて、前を見て、
その目標であるイエス様を得るために、ひたすら走ったということです。
パウルが成就したのは、目標が正しかった。
その目標を得るために、何でも捨てて、
過去を上手くやった、私が上手くやったよ、
その過去のことを自分は誇りながら、そこで満足するんじゃなくて、
過去のことを捨てて、前を見て、イエス・キリストを得るために、ひたすら走った。
パウルのように、私たちはイエス様を見つめるべきなんですけど、
私たちの失敗はどこからくるのか、
イエスを見るんじゃなくて、他のことを見るんですよ。
大抵の人は何を見るんだろう、不信仰の3要素を知ってますか、
この世、他人、自分の弱さ、これを見たら必ず不信仰が入ってきます。
世の中を見るとき、どう思いますか、怖くなります。
険しいこの世の中で、私たちはどう生きればいいのか、
信仰、信仰じゃなくて、
もう、私たちは何か世の中の人々と競争できるような、何かしなきゃいけないんじゃないか。
世の中を見たら、心配が入ってきます。恐れが入ってきます。
だから、心配、恐れのゆえに、
信仰じゃなくて、世の中でもっと頑張らなきゃ、ということになります。
それで信仰はためになります。
また、他の人を見たら、
ああ、他の人の自信満々な、素晴らしい、私は何なのか、
と思いながら弱くなります。
自信感がなくなります。
だから、私は競争で負けたらどうするの、
思いながら自分自身が弱くなります。
また、他の人を見たら腹が立つ時もあるでしょう。
立ったらそこで、柔和な心を失ってしまって、
また自分自身がためになる。
また、自分の弱さは、自分が一番よく分かっています。
だから、自分は自分を見たら情けなくて、情けなくて、
また、私みたいな人間は何ができるのかと思いながら、
自信感がなくなります。
皆さん、これは当たり前のことです。
世の中、他人、自分を見たら不信仰に入ります。
立ったら信仰を競争できません。
私たちができることは、イエスさんを見つめること。
イエス様だけを見上げることです。
皆さん、自分の弱さは分かっています。
当たり前のことでしょう。
私たちは、その時もイエス様を見る。
何が何でも、イエス様を見上げること。
そうする時に、自分が自分ではない、
イエス様の力が私たちに与えられて、
信仰の競争を最後まで貫くことができるんです。
今日、教会学校、本当にいい勉強になりました。
なぜ、サウル王はタビデを殺そうとしたのでしょうか。
何回も何回も、タビデを殺そうとしたのか。
サウル王は、神様を見たのではなくて、
世の中を見たのです。
人を見たのです。
自分自身を見たのです。
だから、周りの人を何と言うんですか。
サウルは千を打ち、タビデは万を打った。
イエス様を見つめること
比較意識がパーッと入ってきたら、
いや、もしかしてタビデが王になるんじゃないか。
それでタビデを殺そうとした。
不信心が入ってきたら、誰でもサウル王になります。
ネタミン、競争心。
彼のゆえに私がダメだと。
彼のゆえに私ができなければどうするかと思いながら、
競争心によって、何かネタミンによって殺そうとする。
不信心が入ってきたら、私たちは何をどうするか自分自身もわかりません。
結局、サウルは悪霊に取り憑かれて、
それで最後は悲惨な状況になりました。
私たちがやるべきことは、どんな状況であれ、イエス様を見つめるべき。
自分自身を見るのは当たり前だとしても、自分自身を見てはいけません。
世の中の人を見てはいけません。
私たちはイエス様だけを見つめること。
これが大事なんだ。
イエス様だけを見つめる、どうすることですか。
イエス様に自分の焦点、その目線をイエス様に固定する。
すべてをイエス様中心として考えることです。
喜ぶ時もイエス様を考える。
悲しむ時もイエス様を考える。
至福の時もイエス様を考える。
苦難の時もイエス様を考える。
成功した時もイエス様を考える。
失敗した時もイエス様を考えることです。
私は詩編の123編の2節、面白い聖書です。
ご覧ください。
下辺が主人の手に目を注ぎ、
端下が女主人の手に目を注ぐように、
私たちは神に、私たちの主に目を注ぎ、
憐れみを待ちます。
端下が女主人の手に、
よ、こっち来い。
この話を聞かなきゃ無知を打たれるでしょう。
だから端下は女主人の手、こればっかり見ている。
自分を呼ぶのか呼ばないのか。
主人の手にいつも関心があるように、
私たちは神様にいつも注目していかなきゃいけない。
この下辺の姿勢を教えてください。
十字架の福音では、私たちはイエス様を見上げて、
イエス様についていく方法、
イエス様と親しみの中で見越えを聞き従いなさいということ。
また教会学校でWWJD、
イエス様だったらどうされたかということ。
そうです。
もしイエス様と親しみの中で見越えを聞き従うことがうまくできなければ、
WWJD、
What would Jesus do?
イエス様だったらどうされるかなと、
考えながらその時パッと与えられることを行うことです。
もし皆さん解決できない問題があります。
イエス様だったらどうされるんですか?
イエス様だったら神様に祈るでしょう。
だからイエス様求めなさい、そうすれば与えられる。
探しなさい、そうすれば見つかる。
門を叩きなさい、そうすれば開かれる。
イエス様だったら解決できない問題があったら、
神様に祈ります。
だったら私たちも祈ればいいでしょう。
イエス様が何をなさったのかをいつも考えて、
だから聖書をよく知っていることが大事に役に立ちます。
そして思い出されるところで、イエス様のようになさるなら、
私たちがだんだんイエス様のように変わっていくでしょう。
では私たちが見上げるべきイエス様はどんな方なのか。
ヘブラリー書12章2節こう言います。
信仰の消止者であり、感性者であるイエス様を見つめながら。
イエス様はアルファとオメガ。
イエス様は始めであり終わりであります。
すべてがイエス様から始まって、イエス様によって進められ、
最後にイエス様によって終わります。
私たちがイエス様に離れては、もう信仰、何にも存在することができない。
これはどのように理解するかと。
聖書はイエス様は私たちの牧者だと言います。
私たちはイエス様の羊だと言います。
羊は牧者がどこか行くなら、イエス様は牧者について行きます。
すべて牧者が導いてくださるところについて行って、そこで指示するとおりやります。
それを一番うまくやった人がダビデです。
ダビデがこう言います。
主は羊かい、私には何も欠けるものがない。
乏しいことがないと言いました。
私たちが苦難を受ける時も、イエス様がどうされたのか模範を見る必要があります。
なぜなら、私たちに苦難がたくさんあるからです。
中二症二節にこう言います。
中二症二節の新共同薬と、他の抗合薬、新開薬の薬が少し違いました。
新共同薬の薬をされた人は何を考えたのでしょうか。
少し違いました。
抗合薬にはこう書いてあります。
彼は自分の前に置かれている喜びのゆえに恥をも厭わないで中二症をしのった。
イエス様は中二症を担われたのは、神様の御心。
すべての人類を救いたいと言われる神様の御心がわかったから、
イエス様が中二症の犠牲になって、すべての人を導くために、救われるために中二症を背負われた。
しかし、この聖書には何と言われるのか。
イエス様が中二症を担われたのは、この後にある喜びを見た。
私たちが中二症を担う、苦難を担う時に、苦難ばかり見るんじゃなくて、
苦難の後にある喜びを見ながら、この苦難を通り抜けなければいけません。
皆さん、このローマ書8章中8節、
現在の苦しみは、将来私たちに表されるはずの栄光に比べると、
トルに足りないと私たちは思います。
今、苦難があります。
苦難を担うのにつらいです。
しかし、苦難を私たちがうまく担っていったなら、
この後に与えられる神様の報いが遥かに大きいから、
その遥かに大きい神様の報い、喜びを考える時に、
今の苦難を私たちがうまく担っていきましょうということです。
イエス様を中二症は、この後にある何がありますか。
復活。
この復活の命、復活の力。
また、復活によって神様が与えてくださる、
番王の王、番主の主としての、神様の右の者に誓わせる、
素晴らしい御業を見ていたから、
イエス様を中二症になることができた。
ですから、私たちはイエス様の傍観を見る時に、
苦難を乗り越えたイエス様のこの知恵、
イエス様がどうされたのかを、私たちが学ぶ必要があるということです。
ぜひとも、今の苦難は終わりではありません。
苦難は永遠に続くものではありません。
苦難はしばらく。
この後に来る喜びは、永遠ですから、
私たちにあるこの苦難を担っていきましょう。
まあ、お母さんたちは、子供たちのために何でもやる覚悟はできているでしょう。
もちろん、お母さんたちに与える報いは、ものすごい大きいと私は確信しています。
私たちは、四巡説の時期に、イエス様と復活と、
忠実家と復活を、私たちはいつも黙想するべきですけど、
この中で覚えるべきこと、
イエス様は苦しみをどうして、どのように担っていかれたのか、
それをよくよく考えながら、忠実家と復活のことを、
私たちは今度解決していければと思います。
三説にはこう言います。
あなた方は、気力を失い、疲れ果ててしまわないように、
ご自分に対して、罪人たちは、このような犯行を認体されたかったのことを、
よく考えなさい。
私たちの信仰生活で、何の実りもない、
イエス様の忠実さ
何にも成し遂げられることもなければ、疲れてしまいますね。
こんな信仰生活、いつまで続くべきなのか、疲れてしまうんです。
この時、イエス様の認体のことを考えなさい。
イエス様は、はじめは人々を大勢についていきました。
しかし、最後に行って、忠実家の前には、
大勢の人々、全部逃げていきました。
弟子たちさえも、全部、イエス様を捨てて逃げていきました。
イエス様は、すごく寂しかったでしょう。
孤独だったでしょう。
しかし、イエス様は、全ての人が、
イエス様を捨てて逃げていった時にも、
我慢されて、忍耐されて、忠実家を背負われて、
一人で、この孤独な忠実家を、最後まで貫いていかれた。
イエス様の、この忠実家。
イエス様は、この忠実家が疲れ、この忠実家が難しい、
このひどい苦しみを、私はどうしようかと思って、
もし、イエス様は、それを避けてしまったらどうだった?
それを諦めてしまったら、キリスト教はどうだったんでしょう?
たぶん、イエス様は、たくさんの弟子たちを作られました。
いい先生になったかもしれないけど、
キリストとしての人類救いの御業、
復活の命と、復活の力を、私たちに与えることはできなかったでしょう。
だったら、キリスト教も、他の宗教も同じ、全て同じです。
キリスト教は、違いがありません。
しかし、イエス様が最後の忠実家を担われたから、
復活の命、復活の力が与えられ、
サタンを滅ぼし、全ての人を救う見合わせができたんです。
私たちも、イエス様のように、最後まで貫く信仰生活、
信仰を貫くことの重要性
私たちのこの教祖を、うまく走ればと思います。
私は、いろいろ、最後まで私たちの信仰を貫くのに、
いろいろな妨げがあります。
もう、皆さん、ピージャーがなければ、
日本に、私たちは続けて留まることはできません。
ピージャーが切れそうになった時に、私たちの心に葛藤があります。
神様、ピージャー延長できるようにしてくださいと言うんですけど、
してくださらなければ、私は諦めます。
全て辞めます。
神様、腹を立ちながら祈る時がたびたびあるでしょう。
諦めたら、何にもありません。
私たちの教祖、最後まで行かなきゃいけない。
最後に合輪しなければ、
トロフィーもない、優勝もない、栄光の冠もない、何にもない。
途中で諦めたら、何にもありません。
悔しいです。
ですから、私たちは祈りたいと。
神様、私たちは、なぜ韓国に来ているのでしょう。
日本で何か神様の見合わせがあるから、私たちは呼ばれたのではありませんか。
それを全うされてないのに、成し遂げてもないのに、
特に私たちの教会は、回復とリバイバル、教会回復とリバイバル、
日本で大収穫の働き、1億3千人の中で大勢の人々が救われる見合わせが、
今、後ほどあるのに、それを見ることもできなく、ここで終わってしまえば、
悔しくて、悔しくて、たまらないんじゃないですか。
だから、私たちはこの時期に、神様に切に祈りたいと思います。
主よ、私は最後まで貫きたい。
この競争、最後までやっていきたい。
監修したい。
神様、恵みを与えてください。
今のままで終わってしまえば、悔しくて、悔しくて、私はどこにも行けません。
主よ、最後まで貫くことができるように、全ての環境を整えてください。
神の恵みを与えてください。
最後まで貫きたいです。
このような、何とか心からの叫びで神様に祈る、祈りを、私たちは思春節の期間、
イエス様が最後まで行かなかったら、中時間復活まで行かなかったら、キリスト教はありませんよ。
途中で諦めてしまえば、中時間が怖くて辞めてしまえば、何にもありませんから。
イエス様が最後まで貫かれたように、
私たちも最後まで走り続けるような、主よ、特別な恵みを与えてください。
妨げを全部解決してください。
このような祈りを、私たちがお互いのために、
お互いのために、切に神様に捧げる思春節の時期になりますように。
お祈り出します。
主よ、永遠な天国に向かって走る、私たちの信仰生活、信仰の教祖を担うことが非常に難しいです。
妨げがたくさんあります。
最後まで走りたいんだけど、途中で諦めるべき色々な事件が起こったら、
主よ、悔しくて悔しくてたまりません。
私たちが最後まで完走できるような、特別な恵みを与えてください。
全ての関係を整えてください。
それを通して、みんなが最後の勝利として、神様を褒めたたえ、
神様に喜び、神様に祝福されるその瞬間まで、
みんな手で、私たちが力一家になって、最後まで貫く私たちにならせてください。
私たちの外国人が来ているこの教会、
本当に日本の信仰者、韓国の信仰者、中国の信仰者、力を合わせて、
神様に本当に本当に、最後まで貫く私たちの教会にならせてください。
祈る私たちの教会、主よ、憐れんでくださり、特別な恵みを与えてください。
イエス様の皆を通してお祈り致します。
アーメン
40:35

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