神の国の価値観とこの世の価値観の違い
今日は誰が一番偉い人なのか、またその偉い人はどんな働きをしなきゃいけないのか、その部分を一緒に考えていきたいと思います。
先週、子ども祝福式がありました。 私はもう子ども祝福を毎週やりたいという気持ちがあって、今週も続けて子どもを祝福するその気持ちでメッセージを準備しました。
じゃあお聞きください。 私たちみんなは偉い人になりたい、なりたく思います。
ですから熱心に勉強して、また成功しなさい、出世しなさいということで私たちが励ましをしたりします。
これを見ていますと偉い人イコール成功した人イコール幸せな人というような考えをみんな持っているのではないですか。
ですから親は子どもの時から子どもたちに勉強しなさい、勉強しなさいと言いながら、この世の中の正常競争で勝って、
あなたは他の人よりもっと上、もっともっと立派な偉い人になりなさいと言われるのではないでしょうか。
私たちは先週、子ども祝福式を通して、あなたは陽子は陽になれ、ダーネル陽になれ、サメル陽になれという祝福をしました。
その時皆さんはどんな考えや何を考えられたんでしょうか。
事実、陽子は、ダーネル、サメルは神様がまた聖将が一番偉いと思っておられるお方たちです。
彼らは何を知ってたんですか。これを今日一緒に考えていきたいと思います。
今日は神様が認められる偉い人、この人偉いという神様が認められる偉い人ということは、もう一番祝福される人でしょう。
じゃあどんな人がその偉い人なのか、またその偉い人になるためには何をするべきなのかを一緒に考えていきたいと思います。
じゃあまず一番、誰が一番偉い人でしょうか。
それをイエス様が教えてくださいます。今日読んでくださったルカの22章25節を見ますと、
イエス様は違法人たちの世界、違法人たちの世界ということは信仰を持っていない人たちということです。
この世の中では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者たちが恵みを施す者だと思って、
その方たちにうまくコマセリをしたり、その人たちに何とか尊敬して、その人たちに気に合うように私たちがみんな頑張るんだということです。
しかし、神の国は違う。神の国は使える人が一番偉い人で、またイエス様も使える人としてこの世に来られたと言います。
この世の価値観と神の国の価値観はこんなに大きく違いがあります。
皆さん、この神の口の価値観、この世の価値観の違いについて深く考えたことがありますか?
自己の罪と価値観の変化
事実は私たちが正しいキリスト社になり、神様から報いをいただくためには必ず神の国の価値観を持たなければなりません。
この世の中の価値観を持っていくら熱心に頑張ったとしても、神様からは何の報い、何の賞もいただくことはできません。
これ非常に大事です。私の経験談を申し上げたいと思います。
私は大学3年生の時、韓国は国防の勤務ということがあって、みんな軍人に行かなきゃいけない。
私は3年間、服務をして、それから3年後、大学に副学をしました。
ところが私の家は戦場代々、みんな学者ばかりです。
だから私も学者になりたいと思って、私の夢は博士になって、そして大学教授になることでした。
その時まで私の頭に支配しているこの世の価値観は、勉強をたくさんやって博士になって、
世の中の人々が知ってくれる有名な大学教授になって、一生涯博士、博士、博士、
大学教授、教授と言われながら尊敬されて格好つけて立派に過ごすこと、これが私の人生の一番の目的でした。
だから博士にならなきゃいけなかったから、勉強、勉強、たくさんの勉強をしようと思いました。
ところが大学に副学をした後、偶然に出会ったある教会の博士夫人がいました。
その方が私にご自分の証を知ってくださるんですけど、その方は若い時に今の教会の僕先生と結婚されて、私が出席した教会の先生と結婚されて、
結婚した間もないうちに旦那さんが博士になりたいと思って新学をやろうと思う。
その家庭はキリスト教の家庭で、その父親は長老さんですけど、息子が博士になろうとしたら大反対して、先生はもう博士になりたくて日本に行って新学校に行ってしまった。
だから奥さん一人、旦那さんの家に残されて、散々いじめられ憎しまれ、もう本当に迫害を受けたそうです。
だから若い時彼女はそこで病気になって、あといって死ぬような状況になってしまった。
いくら病院にいても治らなかったから、この奥さんがお父さんに、私を祈堂院に送ってください。
そこで祈りながら、そこで死にたいと思いますという願いをして、それで祈堂院に送ってくださいと。
祈堂院に行って、何か食べたらもう何の意味もない。私は祈堂院の山の上に登って、そこで祈りながら死にたいと思って山の上に行ったそうです。
そこで一生懸命、もう希望が全くなかったから、旦那さんももう日本から戻ってこないから、家に行ったら迫害しかないから、
もう若い奥さんとしてどれほど辛かったでしょうか。
そこで神様に祈っている間に、神様が自分の罪を悟らせてくださった。
自分は罪がないと思ったのに、それは何かと言いますと、マタイ古書22節のことです。
兄弟たちに愚かな者と言われる人は、火の地獄に陥られる。
その家にシュウテムさんといろいろな家族がいるでしょう。その方たちに何とか心から何かいろいろ恨みがあって、
それでその人たちは何か、もうなぜそんなことをやるのか、どうじゃないかと思う気持ちがあったそうです。
神様がそれを指摘してから、自分の罪をずいぶん暴かれるようにしてくださった。
何日か繰り返し、はいそれ、はいそれ、はいそれ、神様が指摘してくださる罪を繰り返し悔い改めしながら、疲れ果てて倒れてしまった。
それである日目が開けたら、病気が癒されていたということです。
その時、罪の許しの体験と不思議な癒しの体験を共にして、それで祈祷院に行って礼拝を捧げるんですけど、
その時神様が天国から聞こえる歌があった。
一番偉い人の姿
世の友我らを捨て去る時も、祈りに応えていたわりたまは。
天国の天使たちの賛美のように自分の心がすっきりになって、それで治って家に戻ってきた。
私はその牧師夫人のこの証を聞きながら、その時まで私が考えているこの世の中の価値観、
勉強して博士になって有名な行事になって、世の中でみんなから尊敬してもらう、そのような私の価値観と、
何か罪が許される?病気が癒される?不思議な不思議な信仰の世界、礼的な世界の話を聞いて、
私は約3ヶ月間ホーッとしていました。
価値観の混沌と言いましょうか。本当にそのぐらいのきっかけになって、私はその方の先生の教会に出席するようになりました。
そのところで私の価値観が変わったのか?いいえ、変わりませんでした。
私たちがこの世の中でもう20何年間、今はもう私より70年間ずっと勉強したこの世の中の価値観は、
1日2日で変わるものではありません。その後、教会は通ったんですけど、私の頭では相変わらず、
この世の価値観が支配して、それで私は有名になり偉くなり上に行く、
そうです、みんなが知ってくれる立派な立派な人になりたいと思いました。
宣教師になって日本に来たのにもかかわらず、私の夢は成功した宣教師、成功した牧師になりたかったです。
だから教会のために熱心に働きながら、他の牧先生と目に見えない競争をいつもやってきました。
もし私がそのままずっと続けて、立派な牧師、立派な成功した宣教師、そのことばかり、大きな教会、
こんなことばかり考えて、いくら熱心に働いた、いくら熱心に頑張ったとしても、
私は神様が見るのには、ゴミだらけの何の意味もない働きばかりして死んでしまったものになったかもしれません。
私の価値観が変わったのは、牧師になって20年が過ぎた正直に今になって変わりました。
牧会の失敗、また失敗を繰り返しながら、
私は人生が何なのか、牧会で一番大事なことが何なのか、一体信仰生活は何なのかを、
私はその失敗の中で考えるようになって、今少し悟ったような気がします。
私が悟った分、私が私の息子に何か要求することも少し変わっています。
以前は他の友達を見ろ、他の友達は今立派な何かをできているし、立派に何かをやっているでしょう。
お前をやれ、人生の中で頑張って成功して出世して何とかやれ、
プレッシャーをかけたんですけど、今になってやっとプレッシャーをかけておりません。
私が願っているのは、息子は神様が自分に与えられた使命が何か、それを見つけて、
そのことをうまくできるように、私はプレッシャーをかけずに、
隣で、そばで、助けていきたい、応援していきたい、その心だけです。
なぜ私はこんなに変わったのか、それが永遠な天国、
永遠な報いを受けることだからです。
皆さん本当に人生に価値あるものは、それしかないということを、
70歳になって今やっと悟っているからです。
本題に戻って、イエス様は三密体の中で第二位の神様です。
世の中で一番偉いお方です。
イエス様が何と言われるんですか?
マルコ9章35瀬。イエスは座り、中二を呼び寄せて言われた。
一番先になりたいものは、全ての人の後になり、全ての人に使えるものにならなきゃいけない。
皆さんこれが一番偉い人なんですよ。
世の中で出世して、金持ちになって立派に成功することが偉い人ではありません。
神様が偉いと思っている人は、一番低くなって、一番人の後になり、
全ての人に使える人が、神様が見られるように一番偉い人なんですよ。
一番祝福される人なんですよ。
マルコ9章45瀬。人の子は使えられるためではなく、
使えるために、また多くの人の身のしろ資金として、自分の命を捨てるために来たと言います。
このイエス様が、私たちの信仰と生活と私益の働きの全ての傍観であるお方です。
このように、この世の中で偉い人と、偉い人は他の人よりもっと成功し、
もっと出世し、もっと上に行って、もっと金も稼ぎをして、人の上に君臨して尊敬されると思っているのですが、
神の前で偉い人は、一番低くなる人、全ての人に使える人だと聖書は言っています。
本当に世の中の価値観と神の価値観は正反対です。
皆さん、これを理解できますか?
皆さん、これを受け入れることはできますか?
神様の助けと使命
人は一度死にます。
この後、裁きがあると、ヘムライ書9章27節は言っています。
裁きの時になって、これを悟ったと言ったら、遅すぎます。
だから、ルカの12章37節に、主人が帰ってきた、イエス様が再臨された時には、
全ての人の後になり、全ての人に使える者、そのような働きをした人がいたら、
この人は幸いであると言っておくが、
主人が帯を締めて、その下辺たちに食事に給受させるのに違いないと言います。
そのような人がいたら、イエス様が、
もう、しぼべのように、その人をうまくもてなしをしてくださると、聖書は言っています。
本当に、最後の裁きの時に、
私たちは、うまく仕えたこと、低くなったことに、神様から褒められる人になりたいと思います。
では、一番偉い人になった人は、何をすればいいでしょう?
イエス様は、一番偉い方として、
この世の全ての人のために、自分の命を捨ててくださいました。
これが、イエス・キリストの十字架です。
イエス・キリストの十字架がなければ、世の中、誰も救われ、永遠な天国に入ることはできないんです。
そのことをやってくださったお方です。
だから、私たちは、使える人にならなきゃいけないんですけど、
使える人で、そのような人になるためには、まず、他の人を尊重しなきゃいけません。
また、その人の必要を満たしてあげる。
その、みんなが弱い人です。私たちみんな弱いんです。
その弱さを分かって、その弱さをうまく助けてあげる。
補ってあげて、その人が一人前のしっかりした人生になるように、助ける役割。
この人、一生涯これをやった人が、神様が一番喜ばれる、一番偉い人であります。
ペテロは、三年間イエス様についていきました。
しかし、神のくじの価値観を分からなかったんです。
彼は世の中の価値観で満たされていました。
だから弟子の中で、自分が一番偉いと思って、それをみんな認めてもらう野望、欲がありました。
野望、欲が、サタンの心なので、ペテロにサタンが働きました。
6月22日、31節、32日、サタンがあなた方をゴムギのようにふるいかけようと、私に願った。
しかし、私はあなた方のために、信仰がなくならないように祈ってあげた。
だから、あなた方は立ち直ってから、兄弟たちをうまく助けて、兄弟たちに力をつけなさいと言っています。
イエス様から使えてもらった人は、他の人に使える責任があることが分かります。
皆さん、私たちが救われたのは、自分が偉いからではありません。
誰かの祈りによって、神の恵みによって、私たちは救われました。
だったら、これからどうすればいいでしょう。
エペソー20節には、良い業のために、神様が私たちに恵みを与えてくださったと言います。
だから、良い業のことは、他の人に使えて、他の人がうまく一人前になって、主に使えてもらい、
他の人も天国に入る人になるように助ける役目を意味します。
シモン・ペトローはそれを分かりませんでした。
また、自分の弱さを分かりませんでした。
ただ、意欲が先立って、大口を叩きました。
主よ、小一生なら、老に入っても、死んだとしても、私は覚悟してますよと言います。
相変わらず、この世的に偉い人になろうとしている、そのペトローは倒れてしまいました。
イエス様は、ペトロー、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度も私を知らないと言うだろう。
そのペトローのために、イエス様は祈ってあげました。
ここで、どうすれば私たちは、弱い人を助ける、使えることができるでしょうか。
これは、お祈りです。
お祈りを通して、使えることです。
私たちは、原罪を持っています。堕落した体を持っています。
それを狙って、サッタンはいつも働きます。
堕落した体があり、サッタンはいつも働き、私たちは弱い。
どうすれば他の人を助けることができるのか、限界があるのではないでしょうか。
他の人を助けることができる唯一の方法は、祈ってあげることです。
ここで、マルコ・キューション35説。
弱さと助ける役割
この世で一番偉い人は、低くなって他の人に使える人だと言いますが、
皆さん、この世の中で一番偉い人はどなたですか。
一番偉い人は神様です。
このマルコ・キューション35説をよくよく考えてみてください。
この世の中で一番偉い方は神様ですが、
神様はどんな方なのか。
一番低くなって全ての人のために使おうと思っている方です。
だからイエス様は私たちのために十字架を背負ってくださったでしょう。
神様は一番低くなられて全ての人のために使える覚悟をしておられるお方です。
その方が私たちを子供たちに使えてくださるのなら、
一番偉い、全てを持っておられる、一番力あるお方が私たちの子供に使えてくださるなら、
誰があえて私たちの子供に害を加えることができるし、
私たちの子供たちの将来の道を妨げることができるでしょうか。
私は皆さんにご利益信仰をやりましょうということではありません。
愛の神様は私たちに使えることを願っておられるんだということを、
それを皆さんに申し上げたいということです。
では、神様が私たち子供たちにうまく使えることができるためには、
私たちがどうすればいいでしょう。
これは子供たちのために祈ってあげる。
私たちを愛する全ての人のために祈ってあげるときに、神様が助ける、
神様が使えてくださる、そのような働きが行われるんです。
私たちが一番恐れることは何ですか。
私たちの一番の大きなアキレス腱、弱いところは子供たちではないでしょうか。
私たちは子供たちを保護したいと思って、かっこまでついていきたいですか。
どこまでついて生きることができますか。
皆さんも子育てのときに経験があると思いますけど、
私は私の息子が2歳か3歳か1歳か分かりませんけど、
少し歩き始めたときに、
スールのある大きな百貨店に子供を背負っていきました。
人たちが大勢いるところで、すごく混み合っている百貨店で、
子供を下に置いておきましたら、いきなりいなくなりました。
人たちが大勢いるのに、子供がいきなりいなくなって、
大騒ぎをしながら、
私の子、私の子、どこにいるのか、私の子、全部探してみない。
そのときありませんでしたか。
迷子になったとき、かっかりしたでしょう。
皆さん、私たちは子供を一番愛しています。
いくら子供たちをうまく守るんだとしても、いきなり迷子になる場合もあります。
しかし、神様は全知全能であり、絶対全能のお方です。
私たちは子供たちを愛するんだけど、うまくケアできないんだけど、神様はうまくケアできるお方です。
だから、私たちは子供たちのために、常に神様が面倒を見てくださるように、祈ってあげなければなりません。
私はこの聖書を大好きです。詩編の121編です。
この121編は少し長いですけど、私が読んでみました。
目を開けて私は山々を仰ぐ 私の助けはどこから来るのか
私の助けは来る 天地を作られた主のもとから
どうか主があなたを助け 足をよろめかないようにし
まどろむことなく見守ってくださるように
見よ、イスラエルを見守る方は まどろむことなく眠ることもない
主はあなたを見守る方 あなたの仰う影
あなたの右にいます方 昼太陽はあなたを打つことなく
夜月はあなたを打つことはない 主がすべての災いを遠ざけて
あなたを守り あなたの魂 あなたの命を見守ってくださる
これ今、新京堂役は見守ってくださるようにと 祈りの姿ですけど
他の役は全部もう見守ってくださると言います
あなたの出立つのも帰るのも 主は見守ってくださる
今もそしてとこしえに
私はここで一番気にしているのは 神様はまどろむことなく眠ることもないお方だと
そうです 私たちを助けてくださる神は 眠ることもないお方です
だから私たちがやるべきことは 神様が私たちの子どもたちを
うまく支えてくださるように祈ることです
また私たちが死んだ後も 子どもたちが自ら神様からの助けを十分にいただくように
子どもたちが祈ることも 祈りの習慣を身につけるように 親が教える助ける役目が必要です
そうするとき神様が続けて 子どもたちをケアしてくださるでしょう
皆さんこの世の中で神様がイエス様が 世の中で一番偉いお方ですけど
この一番偉いお方が 私たちの子どもたちをケアしてくださるなら
私たちはこの世の中でも安心して 天国に行くことができるでしょう
ですから私たちが死の前にやるべき一番大事なことは
神様が子どもたちを助けることができるように 私たちがとりなし祈りを熱心にし
また神様が自分たちを助けてくださるように 祈る子どもをとにかく作って私たちが死ななければなりません
そうするなら私たちはどこに行っても安心するでしょう
私は皆さんLINEのチャッティング部屋にサーメルの祈り その写真を送りました
子どもたちがみんな神様に 自分の声で神様に祈る子どもになれるように
私たちは切な心を持って祈っていきましょう
先週私たちが子どもたちを祝福してあげた
ヨーシュワヨーニナレ ダネエルヨーニナレ サーメルヨーニナレ
しかし皆さんヨーシュワ ダネエル サーメルは祈りの人だったんです
お母さんから学んだのかどこから学んだのか分かりませんけど とにかく祈りの人だった
ヨーシュワはモーセが神の山に登るたびに モーセについて神の山についてきました
モーセが上に行ったんだけど 自分は下でずっと祈りました
またモーセがゴリンザイの幕屋を作って そこで祈るときに雲の柱が来たでしょう
モーセとヨーシュワ
ヨーシュワはそこについてきました モーセはゴリンザイの幕屋を離れてもヨーシュワは離れませんでした
ここでずっと祈りました そのヨーシュワを神様がモーセの後継者として使います
ダニエルはバビロンの世界に行って そこでもう周りで競争ばかり もう周りで劇ばかりの世界で
一日三度 イエルサルミに向かって祈りました
敵たちの落とし穴があるんだということを分かっていながらも 罠があるんだということを分かっていながらも
命がけて一日三度祈る人 神様はダニエルをよくよく使われました
サムエルは幼い時から皆さん祈りの姿 その祈りの姿で神様とずっと
下部はここにいます お話ししてください 下部は聞きます
そのことを幼い時からやった子供でした サムエルがやった有名な言葉がサムエル城の中二章23節です
私はあなたたちのために祈りをやめる罪を 私は決して起こしたくない
祈りをやめること 祈りを休むことは罪だと思って それでイスラエル人たちのためにずっと祈りました
そのサムエルのおかげで カナーンでイスラエル国が建てられたんです
皆さん神様が認められた一番偉い人は 一番低くなって全ての人に使える人です
私たちは大間違いをしているんです 私はあなたよりもっと偉い たくさん勉強したからお金があるから何があるからと言いながら
高ぶりをするのこれがサタンです 神の人は一番低くなる
そして全ての人に使える人になるんです それが神様の姿です
神様が一番偉い方として 神様ご自身が一番低くなられて 全ての人に使える愛の神様です
だから私たちも神様のように一番低くなられて 全ての人のために祈る人にならなければなりません
また神様が私たち子供たちを使える うまく使えることができるように
私たちが祈ってあげることが大事だし 私たちが愛する大勢の方がいらっしゃるのでしょう
その方のために毎日毎日覚えて 祈ってあげる時間を作ること
これが皆さんこれが一番偉い人の生き方 一番偉い人が生きる道なんです
ぜひともぜひとも 私たちはもう弱さばかりでしょう
私は今日朝教会に来る時も 昔の過ち昔犯した罪
昔私は本当に高ぶりの牧師でした 周りの方たちを本当に無視する傾向がありました
それを考える時に私みたいな人間 牧師をやってもいいのかと思いながら
またもう一つの心は 私は最後の最後の瞬間だけでも
これから正しい牧会をしたい 一番低くならない
全ての人のために使える 全ての人のために祈る牧会をして
神様が呼ばれる時に天国に行きたい 最後のチャンスだと思いました
ぜひともぜひとも 今まで全部失敗したとしても
皆さん大事なのは一番低くなって 全ての人のために使える 全ての人のために祈ること
それを通して神様が認められた あなたうまくやったと思われる私たちになりましょう
これが最後に残っているチャンスです
私たちみんなこのような覚悟を持って これから低くなりましょう
また少しずつ他の人のために使える 祈ってあげる人になりましょう
そうすれば神様は私たちを喜んでくださるでしょう
喜んでくださる印がこれからたくさん 教会に現れるように各家庭に現れるように
それによって子どもたちが幸せになり 祝福される教会になるように
私たちが変わっていきましょう
これが今日私が皆さん また私自身に語りたい神様のメッセージでした
お祈りいたします
神様は今日は誰が一番偉い人なのか その人が何をするべきなのか分かっちゃいました
まずは私たちがこの世の価値観を捨てることができますように
神の価値観を受けることができますように
私たちの心 考えを変えてください
また大勢の方々 特に子どもたちのために祈りを持って使え
子どもたちが幸せになり
あと私たちについて天国に来る子どもになるように助けてください
私たちの子どもたちを容赦のように ダニエルのように責めるように
祈りの人にならせてください
イエス様の皆を通してお祈りいたします
アーメン アーメン