00:02
改めまして、みなさん、おはようございます。
復活祭、おめでとうございます。
本当にありがとうございます。
コロナでしばらく聖火体賛美ということは、おそらくできなかっただろうと思いますが、
改めてこうやって、礼拝の中で聖火体の方が歌ってくださる賛美を聞くと、
私自身も心が高く挙げられるような気がして、とても感謝をしております。
本当に一緒にイースターのことを、復活の詩を覚えながら、
その恵みにこれからも生かされてまいりたいと思います。
御言葉のために一言お祈りをさせていただきます。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。
愛する天の父なる神様、尊い皆を心から感謝賛美をいたします。
今朝は、主が死から三日目に甦えられたイースターを、
復活祭を御一緒に祝っております。
改めて、私たちの罪のために、主があの十字架へと自らを捧げてくださり、
その死によって私たちの罪をあがない、あなたの父様によって私たちの罪が許され、
それだけではなく、三日目に父なる神の道からによって、
このある神イース様がよみがえらされました。
それによって、私たち一人一人にも復活の命を与えてくださり、
永遠の命を与えてくださり、永遠なる主と共に生きる命を今私たちに与え、
神と共に歩むその恵みの世界を開いてくださったことを心からありがとうございます。
神様、本当に祈られたように、主が死からよみがえられたという事実は本当に大きすぎるもので、
私たち自身もそれを本当に受け止めているかと問わされるところではありますが、
精霊様がお一人一人を助けてくださり、本当に主の復活の鮮やかな御業を
私たちのうちに確信を与えてくださいますようにお願いをいたします。
そして主よ、本当によみがえられて今も生きておられる主と共に生きるその人生が
どれほど力強く幸いなものであるか、その恵みをまた深く知ることができるよう
この一時を祝福し、帰りみてください。お願いをいたします。
神様、全世界で持たれている礼拝を帰りみてください。
特にこの光の朝であるイースターを戦地で送っておられる方々もいらっしゃると思います。
どうかその地で復活を祝っている一人一人の兄弟姉妹をあなたが帰りみてください。
この世界に平和を主がまた築いてくださいますようにお願いをいたします。
生きておられる主とどうか礼拝に集う一人一人が出会うことができますように
03:05
御言葉を通しお一人一人に聖霊様が語りかけてください。お願いをいたします。
語る者の唇をどうか清めてくださり、あなたの御用のために用いてくださいますようにお願いをいたします。
これからの一時を御手に与え種を打ちて、イエス様の御名前によってお祈りをいたします。アーメン。
復活された主イエス様とイエス様を死から甦らせた父なる神様と
復活の御業を、本当に不思議な御業を私たちに示してくださった
父なる神様の御業を崇めたいと思います。
教会歴では実はこの復活祭の前の40日間というのが
レントと呼ばれます。死殉節と呼ばれる季節でして
その期間は大体イエス様の死の苦しみと言いますかね
イエス様の苦しみを思い浮かべながら
そのために悔い改めの季節を過ごす、それが教会の伝統としてあります。
そしてその受難週というのはまさにその闇が最も深くなる時と言えるでしょう。
残念ながら今年は天候のため受難日礼拝を抽象させていただきました。
ただ受難日礼拝をもしもできたとするなら
皆さんと一緒にしたかったのは何かと言いますと
十字架を見つめるということをじっくりしたかったんです。十字架を見つめる。
その中にイエス様が歩まれたその苦難の歩みの中に
ああ私の苦難もそこにあるんだなということを何か気づく
本当に豊かな時になればと思っておりました。
次年度をぜひお楽しみにしていただければと思っています。
そして十字架の死から三日目の朝
私たちは主が死からよみがえられたこの復活をお祝いしているわけです。
このことを今朝私たちは共にイースターとして祝っています。
ですから何と言ったらいいでしょうかね
簡単に言いますとこの時というのはまさに
長い闇が終わって光が訪れたということなんです。
長い闇が終わって光が訪れた。復活の光が訪れた。
そのような時を今私たちはご一緒に迎えているわけです。
ではこの復活祭の光とは何なんでしょうか。
イースターの光とは一体どのようなものなのでしょうか。
そのことを教えてくれるのがある種今朝の箇所だと思うのです。
06:03
墓の前で涙にくれるマリアに現れた復活されたイエス様が
マリアにかけられた言葉がありますけれども
そのことからわかることがあると思う。
イエス様がマリアにかけられた言葉は
今日の十五節になりますが
なぜ泣いているのかということです。
なぜ泣いているのか。なぜ泣いているのですか。
今朝はこの御言葉から
主の復活が私たちにもたらしてくださった光とはどのようなものなのか
二つのことをご一緒にまた確認をさせていただきたいと願っております。
二つのことを先に言ってしまいますと
一つはこのなぜというのは
死への絶望に対するなぜです。
死への絶望に対するなぜです。
そしてもう一つこのなぜというのは
涙のもとを探るなぜということです。
涙のもとを探るなぜということです。
さて今朝読んでいただいた聖書箇所に少し目を止めて参りたいと思います。
イエス様は墓に葬られて
三日目によみがえられるわけですけれども
今朝の箇所はその墓に葬った後の三日後のことですね。
その墓で泣き崩れるマリアの姿がここにあるわけです。
イエス様が十字架で死なれてから三日目の朝
マリアはイエス様のその御遺体に塗るための紅葉を携えてきっと墓に来たわけです。
一節に書いてますけれども
週の始めの日の朝早くまだ暗いうちにとありますから
きっと彼女はこの安息日が明けた後ですね
本当に待ちきれないような気持ちを持って
最早くイエス様のところにたどり着きたいという思いを持って
紅葉を持ってイエス様のもとへ行ったわけです。
しかし到着した彼女が目にしていたのは
転がされた墓石であり
空になった墓であったわけです。
イエス様の御遺体が亡くなっていました。
この十一節のところには
マリアは墓の外にただずんで泣いていた
そして泣きながら体をかがめて墓の中を覗き込んだとありますから
泣いていた、泣きながらと二回言葉が続くということは
それに満たされているということです。
この光景はマリアの涙に満たされている
彼女がずっと泣いていたというそのことを言っているわけです。
09:03
これはマリアにとってイエス様が亡くなられたこと
そしてイエス様の御遺体が亡くなったことは
一体どれほど深い悲しみであったかなと思うんですね。
少しこのマリアの悲しみをもうちょっとだけ想像するために
ちょっとこのマリアという人物のこれまでにも
少し目を止めてみたいと思います。
このマリアという女性はですね
聖書の中ではマグダラノマリアと呼ばれるそのマリアさんです。
かつてこのマグダラノマリアという女性は
ルカの福音書の8章に記されているのですが
マグダラノマリアは7つの悪霊に取り憑かれていた女性だと記されているのです。
7つの悪霊に取り憑かれている女性であった
ルカの8章の2節にそういうことが書いてあります。
7つというのは聖書の中では簡単に言うとたくさんということです。
たくさんの悪霊に彼女は取り憑かれている女性マリア
そういう人であった。
きっと彼女は悪霊に憑かれた人というとね
聖書の中で有名なレギオンに憑かれた男性じゃないでしょうかね
墓に縛られてしまったという人がいましたけれども
そのような状態になっていたのかもしれません。
人々から気持ち悪がられ
人々の仲間うちからのけものにされて
誰も助けられないほどに傷んでいた女性
それがマリアという女性だったと言えるのだと思います。
しかしながらマリアはイエス様に出会ったわけですね。
そしておそらくイエス様とのお出会いが
彼女を鮮やかに癒したわけです。
彼女を救ったわけです。
これはきっとマリアに限ったことではないんですね。
イエス様の弟子たちそれぞれがきっと
そういうふうにイエス様と出会っていったんです。
自分の人生のさまざまな重荷がある
自分では取り扱いきれない問題がある
でも人生のどこかでイエス様とお出会いをした。
そのことを通して
彼らは鮮やかにその重荷が取り除かれて
ああイエス様は本当なんだ素晴らしいんだ
そのことを思って
彼らはイエス様についていったわけですよね。
弟子たちもマリアも含め
彼らはイエス様を信じ続けていました。
主は力あるお方なのだ。
しかしながら彼らが
その弟子たちがマリアが
揃って信じることのできなかった
唯一のイエス様の見業があります。
12:00
それは何かといいますと復活です。
イエス様が3日目によみがえられる
ということでした。
ルカの福音書では
イエス様は2回弟子たちに言っているんです。
私はエルサレムで多くの苦しみを受けた末に
殺されるのだけれども
3日目に私はよみがえるんですよということを
イエス様は2度ほど弟子たちに語ります。
しかし弟子たちは信じることができませんでした。
特に十字架でイエス様が死なれたということを
聞いたその弟子たち
また特にいうのであれば
このフヨハネの福音書の19章の25節26節にありますけれども
まさに十字架のそばで
目の前でズタズタにされて
その体がひき裂かれて死なれた
イエス様の死という現実を
間近に見たこの女性の弟子たち
マリアにとっては
イエス様がここからよみがえる
そんなことってあるんですか?
それは耳には聞いていません。
耳には聞いているのだけれども
とてもではないけれども
信じられなかった
そういうことが記されているわけです。
マリアの悲しみ
マリアの涙の原因は何なんでしょうか?
それはこういうのかもしれません。
死への絶望です。
イエスは力があるお方である
あの問題もこの問題も取り除いてくれた
この問題にも主は力をもたらしてくださった
嵐を沈めてくださった
そのような力あるお方
でも死には打ち勝つことができないだろう
だってイエスキリストは確かに十字架で死なれたのだからということです。
私たちもちょっと思うところがあるかもしれません。
死というのは絶対です。
私たちの中で死を免れる者はいません。
死というのはそして
突きつけられるのは死とは終わりである
そのことを私たちは突きつけられます。
少し私ごとで恐縮ですけれども
実は今年の2月になりますが
私たち夫婦にはとても悲しい別れがありました。
夫婦ともに親しくさせていただいていた方が
二人続けざまに天に召されたんですね。
お二人とも若い方でした。
一人は私たちと同年代でした。
本当に思いました。
死をなぜなのですかと。
この人はまだまだすべきことがあるのに
15:00
いやまだまだ生きなければならないのに
死をなぜ今なのですかと。
そのような問いかけが私の頭の中にこびりつきました。
こびりついて離れませんでした。
今もちょっと離れていないです。
なぜですか。なぜですか。
私と妻は一緒に葬儀に行かせていただいて
一つは叱咤をさせていただきましたが
そのご遺体を前にしたときに
死というものが持っている現実の
ある種闇の深さというんですかね
そのことをすごく感じさせられた思いがしました。
見ながら突きつけられるのです。
死は終わりである。
悲しかったあの人の存在はもう終わった。
もうどこにもいないのだ。
あとは墓に埋葬されるのみで
もう二度と会うこともできない。
会いたくなったらあなたは墓に向かうしかない。
でもそこにあの人がいるかはわからない。
今朝の歌唱を見るときにマリアが11節で
彼女は泣きながら体をかがめて
墓の中をのぞき込んだという言葉がございます。
私はこの歌唱を見ながらすごくわかるなと思うんです。
気持ちがとてもわかる。
イエス様は死んで墓に葬られた。
墓というのは私たちの人生で
もしかしたら終着点を意味するのかもしれません。
人間のその人が残した最後が置かれている場所
と言えるのかもしれません。
だから墓の中を探すしかないんです。
墓の中を探すしかない。
マリアは13節でも言います。
誰かが私の死をとっていきました。
とても愛情深い言葉なんです。
私の死をとっていった。
しかし愛するものを墓の中に探す。
いやそうするしかないというのは
なんと言いますかね、なんとつらいことかなと思うのです。
墓を見続けていても
そこに何かを見出そうとしても
そこにはおそらく闇しかない。
しかしながら私は
二人の方の葬儀に参列をさせていただいて
ある種本当に死というのは
闇が深いなと思わされるわけですが
もう一つ私自身が思ったことは何かと言いますと
私はキリスト教を信じていてよかったなということです。
ああ自分はイエス様を信じていてよかったなということです。
18:00
死という現実、闇の深さを見ながら
私自身2月は何度も泣きました。
しかし泣きながらも
私のうちにフツフツと実感として湧いてきたことは何かと言いますと
そしてなおも語らなければならないと思わされたことは何かと言いますと
死は終わりではないということです。
決して終わりではないということです。
今朝の歌詞をもう少し注目をさせていただきましょう。
泣き崩れるマリアの前に
まさに蘇られたイエス様が登場されます。
この歌詞で注目したいのはどこかと言いますと
イエス様が立たれている場所なんですね。
マリアはこの歌詞を見ていきますと
14節、16節にこう書かれています。
彼女はこう言ってから後ろを振り向いた。
そしてイエスが立っておられるのを見たが
それがイエスであることをわからなかった。
16節もお読みいたします。
イエスは彼女に言われた。
マリア、彼女は振り向いてヘブル語でラボに
すなわち先生とイエスに行ったと。
位置関係を少し想像していただくとわかるのですが
マリアは墓の中を覗き込んでいるわけです。
墓に目をとめているわけです。
そこからはもう目が離せなくなっているわけです。
しかしながらマリアを呼びかけたイエス様を見るために
彼女は振り向かなければならなかったというのは
何を言っているのかと言いますと
イエスキリストが立たれておられたのは
墓という場所と対極の位置に立っているというのです。
ここの場面では。そうなんです。
墓を覗き込んでいるマリア。
しかし復活された主はマリアの背後から
言い換えれば墓の反対の場所に立って
マリアに呼びかけられたということです。
ある先生がこの箇所をこういうふうに説明されていました。
マリアの視線は墓穴。
言い換えれば死の支配領域にあった。
しかし180度振り向いて
正反対の方角からイエスは現れたのである。
死と対極の方角から
つまり永遠の命の世界から
イエスは自らを現されるのである。
イエス様は墓の中にはいませんでした。
いいえイエス様がおられたのは
死とは対極、復活の命、永遠の命
その場所に立ち
イエス様はマリアに言われたわけです。
なぜ泣いているのですか?
21:02
誰を探しているのですか?
イエス様がマリアに
なぜ泣いているのですか?と言われた
その言葉にはきっとこういう響きがあるのではないかなと思うのです。
なぜ泣いているのですか?
なぜまるで死が人のすべての終わりであるかのように
なぜ死が最後の別れであるかのように
あなたは泣いているのですか?
なぜ死がその存在を消し去るかのように
あなたは悲しんでいるのですか?
今ここに立っている私を見なさい。
神にあるものは決して死では終わらない。
この存在は消えてはいない。
このように死の先で私はあなたに会っているのだ。
いつまであなたは墓を見つめているのか?
よみがえりの命である私を見なさいと
主は語っておられるのではないでしょうか。
なぜ泣いているのですか?
その言葉は言い換えるならばこう言えると思うのです。
もう泣く必要はないんだよということです。
もう泣く必要はないんだよ。
コリントビートへの第一の手紙というところに
このような言葉がございます。
有名な言葉ですから聞いていただければと思いますが
しかし今やキリストは眠った者の初歩として
死者の中からよみがえられました。
第一コリントの15章の20節というところに書かれてあります。
今やキリストは眠った者の初歩として
死者の中からよみがえられました。
イエス様の復活というのは
ただ歴史上にイエス・キリストがよみがえったということだけではありません。
イエス様がよみがえられたように
イエス様を信じている一人一人もまた
同じように復活をするのだ。
そのようなことを聖書は語ります。
主はよみがえられた。
それはまさに今復活祭を祝っている私たち一人一人が
また私たちが愛する主にある一人一人の兄弟姉妹が
復活を約束されている。
死の御前に立つものとされているという約束なのです。
昔これは本当に勉強になるなと思わされたのは
私は一時期川原崎明先生
神戸中央教会に昨年まで御報奨されておられました。
その先生が教えてくださったのは
まさに死を間近にしている人のところを
それを聞くと牧師は駆けつけるわけです。
当然ですけど駆けつけるわけです。
そこでイエス様を信じていない人には
24:00
イエス様はねということをお語りするわけですけれども
すでにイエス様を信じている一人一人に対しては
先生どうされるんですかということを聞いたときに
先生はこう答えられました。
一人一人死が怖くない人なんかいない。
死は恐ろしい。
でも私はその人の病床の片側に立って手を握りながら
大丈夫ですよ。あなたは永遠の命を与えられているんです。
それは確かなんですよということを
はっきりと宣言するんだということをおっしゃっていました。
私それもとても大事だなと思わされるんです。
あなたは永遠の命を持っている。
永遠の命というのは聖書の中でよく出てきますけれども
これ何度も私この後これからも言うと思いますけれども
永遠の命というのは私たちが死を迎えた後に
永遠に生き続ける命というニュアンスとはちょっとだけ違うんです。
永遠の命というのは信じた私たちが
永遠なる神様に結びつけられた命を与えられたということです。
今私たちは永遠の命を持っている。
永遠なる神と結びつけられている。
そして聖書は語るんです。
それは死では切り離されない。
キリストイエスにある神の愛から私たちを引き離すものはない。
ドマみたいな手紙に書いてあるんです。
だから私たちはそこで言うんですよ。
私たちは神に結ばれている。
そしてそれは死を持っても決して切り離されない。
私たちはきっとこれまで多くの方々の死を見てきたかもしれません。
そして私もきっとこれから多くの方々の死を見るのかもしれません。
自分自身もきっといつかは死を迎えるのだと思います。
それまできっと多くの涙を流すのだと思います。
復活を知っていても人が亡くなることはとてつもなく悲しいです。
涙は止まらなくなります。
だから泣いていいわけです。
たくさん泣いていいわけです。
でもたくさんの涙の後に思い起こしていただきたいことがある。
復活の命に立たれる主が言われるんです。
私たちに対して、なぜあなたは泣いているのですか。
それはあなたはいつまでも墓を見続けるのですかという問いかけかもしれません。
死の悲しみ、死の暗闇というものは深いものなのです。
なぜという問いは私の中でもまだ尽きていません。
けれども死に対して既に光が昇っているということを
私たちは忘れてはいけないのだと思います。
なぜ泣いているのですか。
それは死に勝利された方が
あなたは泣いてもいいけど泣き続ける必要はもうないんだよ
27:04
そう言われる言葉を聞くことです。
私たちは主にそのように呼びかけられて
時間がかかるんですけどね、時間がかかるんですけど
なぜ泣いているのですかと主が語るときに
私たちは死という墓場から振り向いて
復活の死を仰ぐお互いで表していただきたいのです。
さてもう一つのことを見て今日は説教をさせていただきますが
もう一つは涙のもとを探るなぜということであります。
なぜ泣いているのですかとイエス様が言われました。
それは涙のもとを探るなぜである。
ここで確認をしたいのは何かと言いますと
復活ということを聞きますときに私たちは
まさに先ほど初歩として蘇るということを言いましたが
私たちの命が尽きた後のことだけを指している
というふうに思うことが多いんですね。
でもおそらくそれだけではないわけです。
復活の恵みというものは
今を生きている私たちにとっても希望を持つ力であるということです。
そのことを確認して終えたいと思いますが
ちょっと余談して
私は一年間北海道の羊川教会というところでお世話になったんです。
そのところでとても興味深かったのは
多分今もやっていると思うんですけど
羊川教会はクリスマスよりもイースターを祝うんですよ。
イースターの礼拝の中で聖火体の賛美もありますし
それだけではなくて
受難から復活に至るまでの劇を
教会の礼拝の中でやるんです。
結構本格的なやつをやるんです。
そのように小杉剛先生がだいぶ意識をされているんですけれども
クリスマスよりもイースターなんだということを
よく言われるんです。
私は先生に
なんでそういうことをされるんですか?
ということを聞いたときに
先生から言われたことはこういうことでした。
だって復活された主の力というのは
今を生きている私たちに対して
とても大事なことじゃないか。
私たちは今生きている私たちにとって
復活の主の力や
復活されて今も共に生きておられる主というお方
それは大事ではないかということを
先生がおっしゃられたんですね。
復活といいますと
私たちは死を迎えた後のことだけを考えますが
そうではないんですね。
殺され人への手紙の2章の12節というところ
ちょっといろいろ回って申し訳ないんですが
こういう言葉がございます。
ちょっとお読みしますけれども
30:03
バクテスマにおいて
あなた方はキリストとともに葬られ
またキリストとともに蘇らされたのです。
キリストを死者の中から蘇らせた
神の力を信じたからですという言葉がございます。
キリストを死者の中から蘇らせた神の力
ここに何か目が止まります。
私たちは今なお主が力を持って
私たちを支えてくださるということを
信じますよね。
神様の力なんだということを言いますよね。
でもその神の力というのは
どういうものなのかと言いますと
それはキリストを死者の中から蘇らせることのできる
神の力なんです。
言い換えるならば
私たちにとっては
あれもこれも主は力があるけれども
死には勝てないでしょうと思っていた
その弟子たちと同じように
私たちにもそう思うところがあるかもしれませんが
そのような力を超えて
主は力あるお方なのだ
言い換えてしまうならば
主が私たちが出会う患難において
力を果たせない場所なんかないんです。
そのようなある主が復活され
今も生きておられる主が
実は今朝の箇所のように
復活された主が
なぜ泣いているのですかと私たちに
今なお通ってくださることに
とても大事な意味があるんだなと
思わされるんですね。
私の好きな賛美歌の一つに
慈しみ深きというものがあります。
皆さんご存知かもしれませんが
神聖歌209番が慈しみ深きですよね。
その隣にもう一つ歌詞があるの
皆さんご存知でしょうか。
210番にも実は同じメロディで
同じ歌詞が載っているんですね。
そちらの方がおそらく
元の人の役に近いかな
ということが言われております。
私はこの神聖歌210番の方の歌詞の
2番の歌詞がね
私とても好きなんですよ。
ちょっとだけお読みしますけれども
こういう歌詞なんですね。
試みの明日 泣き明かす夜
気落ちせず全て打ち明け祭
我らの弱気を知れる君のみ
我らの涙の元を読み保うという歌詞です。
ちょっとだけ説明をしますと
この詩を書いた人
33:00
ジョセフ・スクライベンという方なんです。
アイルランドの方です。
この人はアイルランドの
名家の家に生まれて
大学も卒業して
順風満帆な生活を送っていたんです。
その中でとある人と婚約をするんですね。
でも婚約をしたそのすぐ後といいますかね
そんな間もなく
この婚約者の女性が
湖で溺死してしまうんですよ。
婚約者が亡くなってしまうんです。
彼はそのような深い悲しみを受けて
でもその悲しみを糧に
彼は今度はカナダに渡って
自分と同じような悲しみを負っている人たちを
助けようとして
彼は自分の生涯も全財産も捧げて
カナダの方に弱っている人たちを
助けるために行くんです。
そこで彼はまた
素敵な女性と出会うんですね。
素敵な女性と出会って
彼は人生で2度目の婚約をするんです。
でもこの2度目の婚約した相手も
欠格で亡くなってしまうんです。
彼は2度婚約者を病で
病だけじゃない、でも
2度婚約者を失うということを経験
まさに闇ですよね。
出口がない闇のような中に
彼は突き落とされてしまいます。
孤独に苛まれながら
その中で彼自身は
実は孤独の中に下って来られた
主母自身と出会うという経験をいたします。
そしてその経験を通して
アイルランドにいる
病弱になっているお母さんを
慰めるために
公表する予定はなかったんですよ。
彼が密かに書いていた
その歌の歌詞が
慈しみ深きなんですね。
そのような背景を知りながら
私は2番を歌うと
すごく胸が癒されるんですよ。
我らの弱気を知れる君のみ
我らの涙のもとを読み保うと
いい歌詞だなと思います。
今朝私たちは復活され
今なお生きておられるイエス様が
言われる言葉を聞いています。
なぜ泣いているのですか。
ここから分かることは
私たちの主というお方は
マリアの悲しみに関心があるのです。
引いて言えば
私たちの主は
私たち一人一人の悲しみに
関心があるお方なのです。
あなたはなぜ泣いているのか。
何があなたを悲しませているのか。
あなたの涙のもとは一体どこにあるのか。
36:06
私たちはこの二つが両方大事だなと思うんです。
力あるお方が
私たちにそのように問うてくださる。
私たちは生きていく中で
様々な痛みというものを経験いたします。
それがある種傷となり
私たちの胸を突き刺す時があります。
誰かから何か自分の胸を刺されるようなことを
傷口にしようなられる思いがして
それに痛みに反射的に手を振り払って
それで周りを傷つけてしまうということが
私たちにはありますよね。
傷つけたくないんですよ、誰も。
でも、したくないけどやってしまうということが
私たちにはある。
しかし、その時に私たちが
ある種そのように手を振り回して
自分はこういうふうに生きたくないのに
こういうふうなことをしたくないのに
なぜ私の心はこんなに痛んでしまうのだろうか。
その時に復活された種が私たちに聞いておられるのです。
なぜ、あなたは泣いているのか。
死に打ちからたれたお方は
力あるお方なのです。
それは言い換えるならば
私たちのどんな傷であろうとも
そのもとを知り
慰めることのできる神であるということです。
種が求められる捧げ物というのは
教会で献金とかお金を取るんでしょうと言われますけれども
それだけじゃないですよ。
種が求められる捧げ物というのは
奉仕であったり祈りであったり献金だけじゃないですよ。
種が求められる捧げ物というのは
私たちの嘆きなんです。
私たちの嘆きを種は求められる。
あなたはなぜ泣いているのか。
今私が抱える闇に
光を灯すことができるのは
死に打ちかたれた
種ご自身でしかありません。
そのお方が私たちに問われるのです。
なぜ泣いているのですか。
私たちがそれに答えることができるとするならば
種よ、私の嘆きとはこれなのです。
私はここに嘆いているのです。
いや、嘆きが何なのかわからないけれども
種よ、どうか言葉にもならない私の嘆きを受け止めてください。
そのように答え始める中に
実は灯される光が
種は復活され、今も生きておられ
私たちとともにあり続けてくださるお方だからです。
長くなりましたが
39:00
一言お祈りをして
今日のメッセージを終えさせていただきます。