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現在的、現実的な復活振興という体で 言い言葉を分かち合いたいと思います。
4月は、復活に対してメッセージを語ることができて、 本当に嬉しく思っているところでありますけど、
先週、私たちがどんな姿で復活するのか、
朽ちる者も朽ちる者でも朽ちない者に、 癒やしい者でも輝けしい者に、
弱い者でも力強い者に、 イエス様のような完全な知識、
完全な姿で復活するようになるんだと申し上げました。
そのことがいつ起こりますか?
遠くない将来です。楽しみではありませんか?
このようになるのは、イエス様は生かしてくださる霊だから、
イエス様を信じて、イエス様との親し愛の交わりの中にいる、 私たちは可能だということを申し上げました。
しかし、聖書は最後の時だけでなく、 今の復活も教えてくださいます。
ですから今日、復活の4月、最後のメッセージとして、
私たちが信じるべき、現在的、現実的な復活信仰を、
イオワネの8中1章のナザロの復活を通して分かち合いたいと思います。
ナザロの復活を見て、多くのユダヤ人たちが信じました。
私たちにもそのような信仰が注がれることを祈ります。
まず1番です。
主よ、あなたの愛しておられるものが病気なのです。
エルサレムの近く、ベタニアには、
親がいない3人の兄弟だけで生きる家族がいました。
ナザロ、マルタ、マリアです。
親がいない兄弟だけで生きる彼らを、イエス様は愛して、
エルサレムに行かれたらいつもそこに泊まり、
復活の後、商店もそこでベタニアで行われたほど、
本当に聖書の中で意味深いところです。
3人の兄弟が生きようと頑張っている中で、
兄のナザロが死の病にかかりました。
女性は無視されるユダヤ人の社会の中で、
兄の存在ということは、頼れる柱のような役割をしたのに、
大変になります。
ですから彼らは、イエス様に急に助けを求めます。
主よ、あなたの愛しておられるものが病気なのです。
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ところがイエス様は、その話を聞いても、
4節に、この病気は死で終わるものではない。
神の栄光のためである。
神の子がそれによって栄光を受けるのである。
理解ができない話をしながら、行かないんです。
その間にナザロは死んでしまいました。
兄がいないで、姉妹二人でこれからどう生きようと、
ナザロは死ぬようにほったらかされたでしょうか。
マルタ、マリアは絶望感に陥って、
泣くしかありませんでした。
皆さん、本当にイエス様は、
彼らを愛しておられたのでしょうか。
理解ができません。
しかし神様は、愛する人に、人々に、
すぐに答えてくれない時があります。
これは本当に深い身むねがあるんですけど、
彼たちの使命のため、
特に信仰を教えるために、そうする場合があります。
アブラウムに遺作を与えるまで、25年かかりました。
赤ちゃん一人を与えるのに、
神様がなぜそんなに長くかかれたのでしょうか。
その間にアブラウムは信仰を学んで、
信仰の祖となりました。
遺作が約分得るのに、20年かかりました。
その間に彼らは、祈りを学びました。
目的がありますね。
ヨセフは奴隷としておられて、
13年間、罪もないのに苦しみを受けました。
その多くの試練を通して、
彼は神の計画を知り、中東地域を救い、
彼らの民族の礎を備えることができました。
モーゼは40年間、アラノで羊を飼う訓練を受けました。
それによって、自分の民をエジプトから脱出させ、
導くニューアルな使徒として用いられました。
ダビデは殺そうとするサウルを避けて、長い間苦労しました。
たくさん祈りました。
それによって彼は、神様と一番親しい礼拝者になりました。
このように、私たちが助けてくださいと切に願っているのに、
神様が答えを送らせる場合があります。
ここには、神様の深いお考えがあるのです。
いよいよ、イエス様はナーザロが死んだ後、ユダヤに行こうと言います。
そしたら弟子たちが、前回、安息日に猛人の目を癒してくださったということで、
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ユダヤ人たちが石で殺そうとしたのに、再び殺そうとしたらどうされるかと恐れます。
さて、マルタはマリアの問題が悲しみだと言うなら、
弟子たちの問題は恐れです。
皆さん、その根底には何があるかわかりますか?
死の力です。
死の力が彼らを脅かしたり、悲しませたりしたのです。
そのような彼らに、イエス様は復活の信仰を植えて、
大胆な信仰の人として育てようと思われたのです。
彼らに何と言うんですか?
旧説と中説です。
昼間に歩けば、つまずくことはない。
なぜですか?
昼間には光があるからです。
彼らの問題は、心の中で、世の光であるイエス様を信じる信仰がなかったからです。
信仰があるなら、死の恐れを乗り越えることができるでしょう。
私たちが4月のシリーズを通して、復活信仰を学んでいる理由は、
このような死の力に勝ち抜こうとすることです。
復活信仰を持つとき、私たちは死に対して大胆になります。
死んだら天国でしょう?
そんなに良い天国に行くのに、なぜ恐れますか?
中一説、中五説でイエス様は、
私たちの友ラザルが眠っている。
しかし、私は彼を起こしに行く。
私がその場に居合わせなかったことは、あなた方のとって良かった。
あなた方が信じるようになるためであると言います。
ご覧ください。
イエス様の目的は、信仰を植えるためだったんです。
キリスト社にある全ての試練、苦難は目的があります。
それを通して、信仰を植えるためなんです。
ですから、わざわざ死んで、四日になって行かれます。
なぜ四日なのか、皆さん知ってますか?
ユダヤ人の思想の中で、人が死んで、
三日間は霊魂は地上に留まっていって、
ですから、再び目を覚ますことができるんだということがあります。
しかし、四日が経てば、これ以上目を覚ます可能性がないと言うんですけど、
イエス様は、人間が信じる全ての可能性を乗り越える、
信仰を植えようとされたんです。
2番です。
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もし信じるなら、神の栄光が見られる。
イエス様は、葬儀が行っているナザロの家をお付きになった時、
マルタが迎えに出ます。
そうしながら、不平が混じられた言葉でこのように言います。
21節からです。
主よ、もしここに行ってくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。
しかし、あなたが神にお願いになることは、何でも神は叶えてくださると、
私は今でも承知しています。
素晴らしい信仰ですね。
信仰の話をします。
ですから、23節にイエス様が、あなたの兄弟は復活すると言います。
そしたら、マルタは24節に、
終わりの日の復活の時に復活することは、存じておりますと言いました。
マルタのこの素晴らしい信仰告白。
しかし、いまだに彼女の信仰は、人間的な限界を乗り越えることができないんですね。
すなわち、死者の復活を信じる者の、
それを最後の日に復活することを信じますということです。
これに対してイエス様は25節に、
私は復活であり命である、私を信じる者は死んでも生きる、このことを信じるか。
この意味は、いいえ、今はもう生き返ることができるよ。
現在的、現実的な復活も信じなさいということです。
気の毒なのは、マルタはイエス様の話を聞いても、
現在的、現実的な復活は信じなかったんです。
私はこれが、今私たちの信仰の姿ではないかと思います。
27節にマルタは言います。
はい主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであることを私は信じております。
このように立派な信仰をしながらも、
現在的、現実的な復活は信じない私たちではありませんか。
気の毒だと思われるイエス様、
私があなたを愛するのに、なぜ4日に経ってきたのか、分かるのか。
私は復活だよ、命だよ。
今も生き返ることができるんだということを知らせるために、わざわざ遅く来たんだよ。
この後マリアに出会ったんですが、マリアは泣き話です。
イエス様も彼たちを見て、35節にイエス様は涙を流されたと聖書は書いてあります。
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イエス様はなぜ涙を流されますか。
イエス様が泣かれたのは、死の力、悪魔に徹底的に支配されている彼たちに対する悔しい涙であり、
人間的な考えに邪魔されて、どうしても信じてくれない人々に対する不信心に対する気の毒だと思って泣かれたのです。
お墓の前に立ったイエス様は、お墓を塞いでいるその意志を取り除けなさいと言います。
そうしながら、あなたが信じるなら、神の栄光を見ることができる信仰に力を加えてくださいます。
それにもマルタは39節に、主よ、4日も経っていますからもう匂いますよ。
どんな意味ですか。
イエス様、このことは絶対不可能です。
死者がどのように今、生き返ることができますか。
信じないですね。
ですからイエス様は叱ります。
皆さん、私たちが現在的、現実的な復活を体験するために、私たちがやるべきことは信じることです。
あなたが信じるなら、神の栄光、神の奇跡を見るであろう。
神様は絶対全、全知、全能であることを信じなさいと言います。
人間の考えで不信仰を話すことは、実績されるべきことです。
また、39節に、意志を取り除けることです。
お墓から生き返ることを妨げる、私たちが塞いだ大きな意志があります。
世界的な考えの意志、できないと思う不信心の意志、神の愛と全知全能さを知らない無知の意志、
言うからもう想像されることを知らない頑固な理性知性の意志、
また神様に対する恨み、不平、絶望、諦める、このような不信心の意志です。
本当に強大な、強大な、このような不信心の意志を取り除けなさい。
そして信じなさいと言います。
そうすれば、主は働くことができるのです。
3番です。
意志を取り除けさせたイエス様は、まず41節、42節に神様に祈ります。
全ての人に、主の栄光を見せてくださって、信じるようにしてください。
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そして43節に、ナザロよ出てこいと命令されます。
そしたら44節を見ますと、手と足を布で巻かれたまま、ナザロが出てきたのです。
顔は覆いで包まれてままでした。
イエス様は人々に、ほどいてやって行かせなさいと言われました。
本当に死んだナザロが、生き返られて歩いて出てきました。
今はこんなこと絶対ありえないと考えた、そのことが奇跡のように行われたのです。
このことによってイエス様は、再臨なさって、最後の日に人々を復活させるだけではなく、
今も復活であり命である神様であることを見せてくださったのです。
結果的に45節を見ますと、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じたと言います。
また、マルダ、マリア、ナザロ、そして弟子たちも、今までの信仰より高いレベルの信仰を持つことができました。
みなさん、なぜイエス様が4日に経って、完全に死んだことを確認してから来られたのか、理解ができますか?
イエス様の救いは、ただ病を癒すだけのレベルではなく、死者も生き返すことができるイエス様です。
それも、世の最後の日だけではなく、今この瞬間でもその働きを行うことができることを信じることを願っておられるのです。
みなさん、信仰の限界はありません。どこまで信じることができますか?
はい、そこまでやってくださることができるお方です。
このように、神様のすべての働きは、私たちの信仰をより高いレベルまでアップグレードしてくださろうとすることです。
松井伝道師はいつも引用する予部の試練、予部記四十二章五節、
罪がない予部に苦難を与えてくださる理由も、耳で聞く信仰ではなく、目で見る信仰を与えてくださるため、
より実際的、親密的な信仰を作ってくださるためにそうされたのです。
みなさん、信仰よりもっと貴重なことはありません。
私たちが信じてあげるとき、神様は働くことができるのです。
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ですから、私たちができる最高の働きは、信じてあげることです。
ヨハネ六章二十八節、二十九節に弟子たちが聞きます。
私たちが何をもって神の御業に用いられることができますかと言ったとき、
イエス様は、神がおつかしになったものを信じること、それが神の御業であると言われているのではありませんか。
この妖的な限界の状況の中で、私たちの観点から信じることではなく、
神様の観点から信じることです。
なぜでしょう。私たちが信じるとき、神様は働くことができるからです。
また、信仰には報いがあります。
ですから、信仰の章、ヘブナイショ十一章六節に、
信仰がなければ神に喜ばれることはできません。
神に近づく者は、神が存在しておられること、
また、神はご自分を求める者たちに報いてくださる方であることを信じなければならないと言います。
最後に、ヨワネ十一章四十節、
イエスは、もし信じるなら、神の栄光が見られると言われました。
ここで言う、神の栄光というのは、神の奇跡を意味します。
あなたがもし信じるなら、この信仰は、現在的、現実的な復活信仰です。
この信仰は悪魔に勝ちます。死の力にも勝ち抜くことができます。
このことは、復活であり命である神様の家に留まるとき持つことができる信仰です。
イエス様は、私たちが地獄のようなお墓の中で閉じ込まれて、
いつも絶望、諦め、恐れ、不信、また、恨んで生きることを願っておりません。
そのお墓から出て来なさいと言われます。
ナゼロの復活が、今日、私たちの復活にできることを祈ります。
この復活信仰のために、私たちの人生を塞いでいる意志は何ですか?
イエス様の復活信仰が働くことができないように塞いでいることは何ですか?
すべて取り除けてしまいましょう。そして、信仰によって宣言しましょう。
ナゼロ、出て来なさい。
同じように、皆さん、自分の名前を入れて叫んでみていきましょう。
ナキョヤ、イエスの皆によって出て来なさい。今、出て来なさい。
アメン、お祈り出します。
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神様、キリスト教の一番確信である自由実家と復活、
この復活を、4月をどうして教えてくださってありがとうございます。
いつも復活をなさって生きておられるイエス様を信じることによって、
また、私たちも復活することを信じる信仰によって、
現在的、現実的な、この今の生活の中で勝利する私たちにならせてください。
イエス様の皆を通してお祈り致します。アーメン。