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2021-06-13 22:42

「畏れ敬う心と聖霊様」2021年6月13日(日)メッセージ

東京ぶどうの木教会 2021年6月13日(日)主日礼拝のメッセージです。

牧師:アブラハム黄

00:00
今日は、恐れ敬う心と聖霊様について メッセージを分かち合いたいと思います。
教会は今、聖霊様について 御言葉を分かち合っているところなんですけど
イエス様が、イオワネノ福音書16章7節に
しかし実を言うと、私が去っていくのは あなた方のためになる。
私が去っていかなければ助け主である聖霊様、 ここでは弁護者はあなたところに来ないからである。
私が行けば弁護者はあなたたちのところに送ると言います。 イエス様は、聖霊様が来られることが
イエス様と共にいることよりもっと良いと言われます。 聖霊様はなぜ来られたんですか?
助けるために来られたんです。 聖霊様は助け主として
救われた人のうちにおられながら 保護師、教え、天国まで導いてくださるお方です。
ですから、聖霊様がなければ 信仰生活はできません。
イエス様も聖霊様の助けによって メシアの御業を担いました。
イエス様は神様ですけど、この世に来られた時には 人間と同じ条件でした。
ところがどのようにメシアの御業、 教え、延べて、癒し、
十字架、復活、昇天の働きが可能だったのか、 全て聖霊様がやってくださいました。
イエス様の上に臨まれた聖霊の役割について イザヤの預言者はこのように預言しました。
今日読んでくださった聖書、 イザヤ11章2節です。
イエス様は旅での子孫として来られるのですが、 その上に主の霊がとどまる。
知恵と識別の霊、知慮と勇気の霊、 主を知り恐れ敬う霊。
彼は主を恐れ敬う霊に満たされると言います。
そしてメシアの働き、キリストの働きができました。
これは皆さん、メシアはヘブライ語で、 キリストはキリシア語で同じ言葉です。
そのような御業を担うことができたんです。 私はその中で一番大事な役割、
この役割が、主を知り恐れ敬う霊として表現される 聖霊様の役割ではないかと思います。
なぜなら、聖書は主を恐れることは 知恵の始めと言うからです。
03:01
主を知り恐れ敬う霊によって、 信仰のすべてが可能になるからです。
恐れ敬う心があるかないか、これは 独りの人の人生を左右する大事なことです。
最近私たちの子どもたちを見ますと、 神を恐れる心があるのか疑問です。
今日は恐れ敬う心の大事さを分かち合いながら、 まず私たちがその重要性を知り、
私たちの子ども、周りの方々に恐れ敬うことの大事さを伝え、 祈ってあげることができればと思います。
まず一つ目に、 恐れ敬うこととは何でしょうか。
恐れ敬う心は、 敬いながら恐れることです。
この恐れることは単純な恐怖心ではなく、 神様の存在が私たちは担うことができないほど、
栄光に満ちあふれ、偉大なおごたなので、 心からあふれ出る清い恐れを指して、
恐れ敬う心だと言います。
また、神様の栄光の美しさに圧倒され、 神の前で感激・感嘆することだと言います。
このような神様に対する恐れ敬う心があるとき、 信仰が可能です。
神言の一章七節、 死を恐れることは知恵のはじめ、
無知な者は知恵をも悟しをも侮ると言います。
コエレットの中二章十三節、 全てに耳を傾けて得た結論、
神を恐れ、その忌みを守れ、 これこそ人間の全てだと言います。
なぜ信仰ができませんか? なぜ従順ができませんか?
なぜ真事の礼拝ができませんか? 恐れ敬う心がないからです。
なぜ教会で無闇に行動しますか? なぜ人が傲慢になるんですか?
なぜ自己中心的な信仰、自分の目的のため、 自分の方法で自分の熱心で信仰生活しながら、
自己義、自分の義を誇るんですか? 恐れ敬う心がないからです。
恐れ敬う心なくても、 聖書の知識を持つこともできるし、
礼拝の儀式は守ることができます。 しかし心の中心からの信仰はできません。
06:03
恐れ敬う心が大事です。 二つ目にもっと具体的に、
恐れ敬う心のメリットを考えてみましょう。
また恐れ敬う心がなければどうなるのかも考えてみましょう。
恐れ敬う心のメリットは何ですか? 神様は恐れ敬う人には足りないことがないようにして下さい。
支援の34章の10節に、 主の聖なる人々よ、主を恐れ敬え。
主を恐れる人には何にも欠けることがない。 何にも欠けることがない。
神言の22章の4節、 主を恐れて身を低くすれば、
富も名誉も命も従ってくると言います。
また神言の10章27節に、 主を恐れれば長寿になる、長寿を得る。
主を逆る者の人生は短い。 長寿の祝福があります。
また神言の14章26節27節に、 主が恐れ敬う人の避け所になって下さり、
災難に襲われることがないように、 死の罠に陥ることがないように守って下さると言います。
支援の128篇の1節から4節、 いかに幸いなことか、主を恐れその道に歩む人よ。
あなたの手から老して得たものは、 すべてあなたの食べ物となる。
あなたはいかに幸いなことか、 いかに恵まれていることか。
妻は家の奥にいて豊かな房をつける葡萄の木、 植竹を囲む子らはオリブの若木。
美を、主を恐れる人はこのように祝福されると言います。
支援の128篇を読みますと、 恐れ敬う人の家庭の祝福はわかります。
また、新元の31章の30節には、 神様と人々から賞賛を受けるようにして下さろうと言います。
ですから、主を恐れ恵まう人には、 信仰的にも家庭的にも社会的にも、
すべての面で祝福されるようになっています。
支援の25章の12節と14節、主を恐れる人は誰か、 主はその人に選ぶべき道を示されるであろう。
09:07
14節には、主を恐れる人に、 主は契約の奥義を悟らせて下さろうと言います。
支援の145篇の19節、主を恐れる人々の望みをかなえ、 叫びを聞いて救って下さろうと言います。
私たちの祈りを聞いて下さろうと言います。
また、マラキ3章16節には、 主を恐れる人の名前を命の章に記録して下さろうと言います。
これは、天国に入るようにさせて下さろうという意味でしょう。
また、主を恐れる人は行うすべての業を受け入れて下さり、 報いて下さろうと、
使徒行伝10章35節、牧師録11章18節にお話ししています。
結論的に考えてみますと、 支援の103篇の17節、
主の慈しみは、ようよう常しえに、 主を恐れる人の上にあり、
恵みの御業は、こらのこらにあると言います。
主を恐れる人には、主の慈しみと恵みが、
ようよう限りなく、死し損損ともにいる、 という話を私たちにして下さいます。
しかし、恐れ敬う心がなければどうなるのか、 保護膜がなくなるようなことになります。
ですから、敵たちがいくらでも攻撃し、 苦労を加えることになります。
死の危機を直面しても、 塞いでくれる人がいなくなります。
劣悪義経107章25節には、 彼らはそこで住み始めたところ、
主を恐れ憂う者ではなかったので、 主は彼らの中に死士を送り込まれ、
死士は彼らの難民を殺したと言います。 そうです。保護膜がなくなるところになります。
また、詩編の55編の19節、「勝利の道が閉ざされ、 負ける人生になり、人生がみすぼらしくなるんだ。」 ということもあります。
この見言葉通り、聖書に現れる、 恐れ憂う心がある人とない人の事例を見てみましょう。
カインとアベルです。 アベルは神様から受け入れられたんですけど、
カインは見捨てられました。 死し損損見捨てられました。
恐れ憂う心がなかったからです。 アロンの子供の中でナダフとアビフがいました。
12:04
彼らは祭司長だったんですけど、 主の神殿で無闇に行いながら、祭壇から火が出て、
火で燃やされて殺されました。 なぜ祭司長が無闇に行動したんでしょうか。
恐れ憂う心がなかったからです。 それはエリス祭司長の二人の息子も同じでした。
エリス祭司長は戦争で子供たちみんなが死んでしまいました。 勝利の道が塞がれ、死の危機の中にいても誰も守ってくれなかったんです。
サムエル上の4章に見ますと、エリの嫁は出産のところにその話を聞いて、 主の栄光が離れたイガボトと言いながら死にました。
しかし同じ時期、サムエルは神様が彼と共におられ、 彼の祈りをすべて応えてくださいました。
なぜでしょう。 サムエルには恐れ憂う心があったからです。
サウルとタビデも同じです。 サウルは死に除けられたんですけど、タビデは神様の祝福を一番たくさん受ける人になりました。
なぜでしょう。 恐れ憂う心があったからです。
ペテルとイスカリテユダは同じように見える罪を犯しました。 しかしペテルは救われました。
なぜペテルは救われたんでしょう。 彼は恐れ憂う心があったからです。
100年もいけない短い人生、その後は裁きがありますけど、 この世で祝福を受け、永遠の天国に入る人は誰なのか、
主に対する恐れ憂う心がある人なんです。
3つ目に、ではどうすれば恐れ憂う心を持つことができるのか、 特に私たちの子どもたち、どうすれば神様から祝福される人生になることができましょうか。
今私たちの教会学の子どもたちはよく私はわかりませんけど、 私の二世たちはある時は怖い時があります。
なぜ信仰に対して神様に対してこのように勝手な無闇な話をするのか、 心配する時があります。
私たちの子どもたちが恐れ憂う心がないのではないか。 どうすれば子どもたちが恐れ憂う心を持つことができるのか。
何よりまず見言葉です。 新明紀の31章の12節13節を見ますと、
15:01
男たち、女たち、子どもたち、町の起留者たちを全部集めて、 神の立法を聞かせなさい。
そうして主を恐れ見言葉に従って生きるようにと言います。 皆さん、恐れ憂う心は
見言葉が入らなければいけません。 ですから、詩編の86編の11節に、
主よ、あなたの道を教えください。 私はあなたの真っ事の中を歩みます。
皆を恐れ憂うことができるように一筋の心を私にお与えくださいと言います。 大事なのは見言葉が頭に入ることではなく、
心に入ることになれば、恐れ憂う心を持つようになります。 ですから、私たちは見言葉を教えるときに、
祈りながら見言葉を教えなければなりません。 また一つは、神の栄光、奇跡的な働きを見せてあげることによって、
恐れ憂うことができます。 神様の奇跡を見せてくださる理由を、旧約聖書では何箇所教えてくださるんですけど、
まず、シチュエジプト14章31節です。 イスラエルは主がエジプト人に行われた大いなる見業を見た。
民は主を恐れ、主とその下で孟子を信じたと言います。 大いなる見業を見るようになったら、主を恐れ、信仰ができるからです。
シチュエジプト20章20節にも、孟子は民に応えた。 恐れることはない。神が来られたのは、あなた方を試すためであり、
また、あなたたちの前に神を恐れる恐れを置いて、罪を犯さないようにするためであると言っています。
また、神様はシチュエジプトとアラナの40年間数多くの奇跡を見せてくださった理由を、
ヨウシュワキ4章24節に教えてくださいます。 それは地上のすべての民が主の見ての力強いことを知るためであり、
まず信仰を与えるためですね。 また、あなたたちが常にあなたたちの神、主を敬うためであると言います。
信仰のため、恐れを敬うことのために、私たちは見言葉を、また神様の見業を示さなければなりません。
願わくは、教会の信徒皆さんと私たちの子どもたちに、神様の見言葉が悟られ、神の栄光を見ることができるように祈ります。
18:13
そして、信仰と恵まう心が与えられることを願います。
しかし、ここに問題があります。
パリ西人たちは、見言葉については博士のレベルでした。
そんなに見言葉をよく知っている人が高慢になって、メイシアであるイエス様を十字架で殺しました。
また、サタンは天主教でした。
神の栄光を一番身近で見たものでした。
そのような栄光を見ても、むしろ高慢になって、ためになってしまいました。
どうして、見言葉、奇跡、神の栄光を見たことが高慢になったでしょうか。
恐れ、恵まう心なしで、見言葉、奇跡、栄光を見るようになったら、高慢になってしまうのです。
ですから、大事なのは、聖霊様が望まなければいけないということです。
イエス様には、イザヤの十一章二節、その上に主の霊、主を知り、恐れ、恵まう霊が望まれたので、
彼は、主を恐れる霊に満たされていたと記録しています。
聖霊様が望めば、恐れ、恵まう心が与えられ、恐れ、恵まう心があるとき、人は謙遜になれます。
これがなぜ大事でしょうか。
約部四章六節を見ますと、神は高慢な人を敵とし、謙遜な人に恵みを与えてくださると言います。
なぜ高慢になりますか。
恐れ、恵まう心がない人に見言葉が入っていき、神の栄光を見ることになったら、高慢になります。
しかし、主を恐れる心がある人は、見言葉、栄光を見ても謙遜になるから、神の恵みによって神様に用いられることができるのです。
ですから、大事なのは聖霊様なんです。
イエス様は全ての働きを、神様を恐れ、恵まう心で行いました。
私たちもイエス様のように、神様を恐れ、恵まう心、恐れ、恵まう霊、聖霊様の助けによって、恵みの中で信仰生活することを願います。
聖書で第一の言いましめは、主なるあなたの神様を愛しなさいということです。
また、人間の第一の目的は、主に栄光を与えることだと言っています。
21:08
この二つをやれば、人間としてやるべき一番大事なことをすることになります。
しかし、これがどのように可能になりますか。
聖霊様のご臨在、聖霊様の助けによることです。
主を知り、恐れ、恵まう霊という意味は、これほど大事なことです。
ですから聖書は、神言の1章7節、主を恐れることは知恵のはじめ、無知な者は知恵と悟しを侮ると言います。
主を恐れることによって、謙遜になって恵みの中で主に用いられることができますように。
そして、この世で祝福され、天国で永遠な祝福を受ける私たちになりましょう。
そのために、主を知り、恐れることができるようにしてくださる聖霊様、来てください。
私たちに恐れ、恵まう心をもっともっと注いでください。
アーメン、お祈りいたします。
主を私たちに、聖霊様を送ってくださって感謝します。
私たちを助けるために来てくださった聖霊様、私たちを助けてください。
特に、主を知り、恐れ、恵まう心ができるように、私たちを導いてください。
イエス様の源を通してお祈りいたします。
アーメン、アーメン。
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