00:00
今日は、聖霊の忠漫についてです。
聖霊の忠漫。 私が日本に来てから、日本の教会の信徒たちに一番たくさん聞いた、この質問されたことは、
聖霊忠漫は何ですか?ということでした。 聖霊忠漫に対する求める心が、日本の教会にはあるんだなぁということを、私は感じました。
今日は、この聖霊忠漫について、一緒に考えていきたいと思います。 私たちがキリスト社になってから、
私たちが味わうことができる祝福の中で、一番大きな祝福が、聖霊忠漫ではないかと思います。
聖霊忠漫は、見たもの神様が、私たちのうちに十万人おられることによって、
私たち個人の自我、罪、過ち、弱さが覆われて、
見たもの神様が、私たちの中で100%支配して統治されることです。
この時、神様は、私たちを通して、思い存分働くことができるから、
私たちが聖霊忠漫になることは、神様の大きな願いであり、これは神様の命令です。
今日、エピソード5章18節、酒に酔いしれてはなりません。
むしろ、霊に満たされなさいと言います。これは命令ですね。
イエス様が、この世に人間として来られた時、私たちと同じ条件でした。
しかし、神様として生けられ、また、キリストの御業を完全に担うことができたんですけど、
その秘訣はいつも、聖霊忠漫で行われ、働かれたからです。
ヨワネノ福音書3章34節に、神がお使いになった方は、神の御言葉を話される。
神が霊を限りなくお与えになるからですと言います。
神が霊を限りなくお与えになる。これが、聖霊忠漫の姿ではないかと思います。
聖霊忠漫は、私たち人間が神様のように生きることができる、素晴らしいことです。
私たちが、私たちの力でうまくやってみようと、頑張ることも必要ですけど、
聖霊によって満たされるように、頑張らなければなりません。
そうするなら、聖霊様が、私たちがやるべきことを示してくださり、
その働きに導いてくださり、力を注いでくださり、
03:02
神様が願われる働きを、思い存分成し遂げることができるようにしてくださいます。
ところが、聖書では、2種類の聖霊忠漫があると言われています。
今日は、この2種類の聖霊忠漫について分かち合いたいと思います。
まず1つ目、聖霊忠漫。
聖霊の統治の中に入る聖霊忠漫があります。
カラディア5章16節と25節には、このような表現を使っているんですね。
私が言いたいのは、こういうことです。
霊に、霊の導きに従って歩みなさい。
そうすれば、決して肉の欲望を満たされるようなことはありません。
25節に、私たちは霊の導きに従って生きているなら、
霊の導きに従ってまた前進しましょう、ということです。
霊の導きに従う。
これが、私たちが聖霊の統治の中でいる状態を意味します。
私たちが悔い改めてイエス様を信じるとき、
聖霊様が私たちの中に入ってくださいます。
この時から、私たちは過去とは異なる新しい人になります。
聖霊様が私たちの内におられる人、聖霊様がおられるので、
私たちは聖霊様に敏感に忠順して、
聖霊様と共に歩む生活をしなければなりません。
まるで二人の人が足並みを揃えて歩くように、
私たちは聖霊様と共に歩む、この生活ができるのです。
その時、私たちの信徒たちは、聖霊の中で成熟し、
毎日イエス様の姿で変わっていくことができます。
身を結ぶこともできます。
すなわち、皆さんご存知の、カラディア公書22〜23節、
霊の結ぶ美は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、優和、切世です。
これらを禁じる規定はありません、と言うんですけど、
このような姿の神の子供になりますけど、
神様がどれほど喜んでおられるでしょう。
このような聖霊の中間をよく説明してくださる聖書の箇所は、
今日読んでくださったエペソの古書18節です。
酒に酔いしれてはなりません。
06:02
それは美を持ち崩すもとです。
むしろ霊に満たされなさい、と言います。
聖霊中間を酒に酔いしれるということで表現したことが面白いです。
酒に酔いしれる、これは人がお酒の影響力の中に入って、
お酒の支配を受けるようなことを表現するんですけど、
聖霊中間も同じだということです。
聖霊中間は私たちが聖霊の統治のもとに入ることによって、
聖霊様が私たちを支配し統治されることを意味します。
これは私たちの家におられる聖霊様に敏感に従って、
その見声に聞き従うときに成し遂げるんですけど、
こうするとき、聖霊の九つの実が結ばれるんですけど、
その聖霊の九つの実が結ばれた人の境界の生活について、
このエペソ古書19節からこう言います。
詩編、賛歌、礼儀的な歌によって語り合い、
主に向かって心から褒め歌うことができる。
また、いつもあらゆることについて、
私たちの主イエス・キリストの何より、
父である神に感謝するようになります。
また、キリストに対するおそれをもって、
互いに使い合うことができますと言います。
どれほど美しいキリスト社の姿でしょうか。
どれほど美しい教会になるでしょう。
これは私たちが努力して得られるものではありません。
自己中心的な私たちは、自我のゆえにそのようになりません。
聖霊中満になるとき、自然にできるものだから、
教会はこのような聖霊中満が成し遂げることをしたいもとめ、
いつも聖霊の導きに敏感に従うことが大事です。
この聖霊中満は命令系です。神様からの命令です。
ですから私たちは、聖霊様との交わりを求め、
その方の導きに敏感に従うことを学ばなければなりません。
初代業界の執事を選ぶとき、
聖書はその基準を教えてくださるのですが、
始土行伝六書三節です。
それで兄弟たち、あなた方の中から、
霊と智慧に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。
彼らにその仕事を任せようとします。
そして七人の執事さんを選ぶようになりましたけど、
09:03
これから私たちの教会も、
霊と智慧に満ちた評判の良い人を、
働き人として立たせなければなりません。
二つ目の聖霊中満。
二つ目の聖霊中満は、力で臨む聖霊中満です。
一つ目に調べた聖霊中満は、神様の命令でしたけど、
二つ目に調べる聖霊中満は、
聖書に命令の形で書かれたのではありません。
ここで本当に私たちが理解できない部分があります。
これは聖霊の働きについて、
イエス様を信じるキリスト社のうちに、
聖霊様がおられるんですけど、
また同時に、上から力で臨む聖霊様も、
信じなければならないということです。
私たちのうちにおられる聖霊、
またたびたび上から臨む聖霊。
これは非常に理解し難いことですけど、
聖書に表れている内容なので、
私たちは認めて理解していきたいと思います。
この二つ目の聖霊中満は、
聖霊様が力で臨むことであり、
特別な能力が与えられることがわかります。
一つ目の聖霊中満は、
品性と関係があるなら、
二つの聖霊中満は、
私益と関係があります。
この聖霊中満は、
業界の職務、
また特別な働きのために、
力を与えてくださることです。
例えば、ルカの1章15節から、
先霊者ヨハネの記事がありますけど、
先霊者ヨハネは母体から
聖霊の中満を受けることになると、
聖書は書かれてあります。
なぜ先霊者ヨハネは、
母親の体内から聖霊の中満になりますか?
いせれる民を悔い改めさせ、
イエス・キリストを明かしすることには、
特別な力が必要だからです。
ですから彼は、
母の体内から聖霊中満が与えられたと、
聖書は書いてあります。
また、神徒たちの緊急な問題、
緊急な必要を満たすために、
また神徒たちを通して、
福音の御業を成就するために、
特別に望む聖霊中満です。
この良い地霊は、
使徒行伝中3章6節から、
使徒パウルにあった地霊です。
12:02
パウルが福音を伝えるために、
バポスにいた時に、
魔術師エリマという人が、
パウルが騒毒に福音を伝えることを嫌がって、
騒毒が信じることができないように妨げるんです。
その時、パウルは聖霊に満たされて、
彼を睨みつけて行ったと言いますけど、
主の手があなたの上にあって、
あなたがこれから見ることができないだろうと言ったんです。
そしたら彼の目が見ることができなくなりました。
そしたら、騒毒がびっくりして信じて、
主の教えを受け入れたと言います。
騒毒に福音を述べされることができるようにしてくださった。
その時、聖霊様の力で、
強く望んだことでした。
この聖霊注文は、
パウルはいつも持ち歩き、
使うことができるものではありませんでした。
彼が祈る時、必要な時期に、
聖霊様が力で望んでくださったことでした。
また一つの事例は、使徒ペトロの場合です。
使徒行伝3書では、
生まれる時から足が使えない人がいました。
その人をペトロが祈った時に、
彼が立ち上がって歩くことができるようになりました。
これを見たエルサレムの大勢の人々は、
ペトロとヨアネの元に集まってきたし、
その時彼らに福音を述べたい結果、
その日、イエス様を信じる人が5000人になったと言います。
どのようにそんな働きができたんでしょう?
その時、聖霊様が力で望んでくださったからです。
その聖霊注文の力によって、
ペトロは力あるメッセージを伝えることができたんです。
このような聖霊注文は、繰り返し受け入れることができます。
ペトロは使徒行伝2章で、
ペンテコステの日に聖霊に満たされました。
使徒行伝3章にまた聖霊注文になりました。
そして使徒行伝4章でまた聖霊注文を受けました。
使徒パウロは使徒行伝9章アナニアによって、
祈った時に聖霊注文をいただいた後、
使徒行伝13章でまた聖霊注文を受けるようになりました。
使徒行伝は聖霊注文の使徒たちの働きだということでいいでしょう。
この2つ目の聖霊注文は、私たちがこの世で生きながら、
15:00
いくらでも繰り返し受けることができる聖霊注文です。
みなさん、神様の恵みは限りなく大きく深いです。
喉が渇いている人が、まるで太平洋のような生きる水の海の前で立ったと思いましょう。
彼がいくらその水を汲んで飲んで飲んでまた飲んでも、
太平洋のこの海はそのままだと思います。
そうです。神様の恵みは太平洋の海よりもっともっと大きいです。
ですから、神様は私たちが継続的に聖霊注文を受けて、
この世で勝利の神聖を過ごすことを願っておられます。
このような2つ目の聖霊注文は、祈ることによって受け入れることができます。
使徒行伝4章では、エルサレム教会は当時の宗教使徒たちによって怖い迫害を受けました。
そうしたら、初代教会の使徒たちは神様の前にこのように祈りました。
使徒行伝4章29節からです。
主よ、今こそ彼らの脅しに目を止め、
あなたのしもべたちが思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。
どうか御手を伸ばし、聖なるしもべイエスの名によって病気を癒やされ、
知る人を不思議な業が行われるようにしてください。
このように祈りを終わると、一堂が集まっている場所が揺れ動き、
みんな精霊に満たされて大胆に神の言葉を語りましたと聖書は記録しています。
神様は彼らの祈りに応えられて、精霊の十万を与えてくださったんです。
私たちが精霊の孤倫罪を求め、精霊の油注ぎを求め、精霊の十万を求めるのは、
聖書的であり、神の御胸にふさわしい祈りです。
神様は私たちの祈りに応えられ、精霊十万を与えてくださることを喜んでおられます。
チャルス・ピーニーという人がいます。
彼が書いた本の中で、このある小さな題目の文章があるんですけど、
ソドムと呼ばれた町でという文章があります。
その内容は、福音を伝えるためにある町に行ったと。
昔々ですね、1920世紀の初めぐらいに福音を伝えるとき、アメリカのある町に行ったんですけど、
18:00
そこには教会がなかった。
町の人々を見たらどれほど怖いのか。
彼は怯えてしまったと言います。
しかし神様はチャルス・ピーニーに、
シドギョーデン18章9節10節、パウルに言われたように、
恐れるな、語り続けよう、黙っているな。
私はあなたと共にいる。
だからあなたに襲って危害を加える者はいない。
この町には私の民が大勢いるのだと感動を与えてくださいました。
彼は主日礼拝のメッセージを伝える前に、
礼拝の時間の前に町から近い山に入って、
そこで神様に切に祈りました。
祈っても心が楽にならなかったので、
2度、3度または森に入って祈ったと言います。
3度目祈ったとき、彼の心が平安になったと言います。
ですから、礼拝の時間で集まった町の人に向かってメッセージを伝えるんですけど、
そのメッセージを伝えたら、
固く七当たった彼らの心に、
高いところから力が臨むことを感じたと言います。
そのとき彼らは見事場の前で悔いを改めるようになったと言います。
そしたら、他の町でもチャルス・ピニーに、
来て福音を述べてくださいと頼まれるようになって、
周りにますます福音が述べされるなという記事を読みました。
私たちがどうしてもできないことを、
上から臨む精霊の力によって、
担うことができるようにしてくださるこの精霊の充満。
私たちにもこのような精霊の充満が与えられることを、
祈る心でいっぱいです。
3つ目です。
ところが、精霊の充満を受けることより、
維持することがもっと大事なんですけど、
いつも精霊の充満を維持するためには、
気をつけなきゃいけないところがあります。
聖書は精霊様についてお話しするところで、
エペソー4章3助説には、
神の御霊を悲しませてはいけないと言います。
第1テソロニケ5章中説には、
霊の火を消してはいけないと言います。
教会がこの今まで申し上げた1つ目、
2つ目の精霊の充満を理解して、
受け入れて活用しなければ、
その教会は精霊を消滅する、
深刻な罪を犯すことがある場合があります。
私たちの家で働かれる精霊様と、
時々力で臨む精霊様を、
当時に強調しなければなりません。
21:02
まず、精霊を悲しませてはいけないという話は、
精霊様は人格体です。
精霊様に敏感に働いて、
その方の見声に聞き従う生活、
この生活をすることが大事です。
精霊様が嫌がれることをするなら、
精霊様は悲しまれます。
この精霊様は悲しむことがないようにしなさいと言います。
これが1つ目、私たちの家におられる精霊様と関係があります。
また、霊の火を消してはいけないということは、
力で臨む精霊充満と関係があります。
教会の中で行われる礼拝、賛美、祈り、このようなことには、
精霊様が力で臨んで、私たちを触ってくださり、
癒してくださり、慰めてくださり、助けてくださいます。
ところが、精霊の火を消すなら、
私たちはこの中でどんな精霊の働きも期待することができません。
ですから、教会の中では精霊の働きがうまく成し遂げることができるように、
この2つの精霊の充満を全部理解して受け入れ、
活用しようとする心が必ず定着しなければなりません。
最後に、この2つ目の精霊充満は、
力で臨む精霊充満ですが、これはリバイバルと関係があります。
今、私たちは神様からのリバイバルを切に待ち望んでいます。
神様は、ある地域、ある社会、またある国家に精霊充満を与えてくださって、
教会を回復してくださり、人を救い、またその地域とその国の文化を根本的に変える働きもされます。
キリスト教の歴史から見ますと、信仰が堕落した時代、その時代度に神様はリバイバルを送ってくださって、
教会を新たにし、回復してくださいました。
精霊様は、最後の時、全世界にわたって神のリバイバルが望むことになるとお話しています。
その根拠は、イザヤス書59章の19節と20節です。
西では主の皆を恐れ、東では主の栄光を恐れる、主は激しい流れのように望み、主の霊がその上を吹くと書いてあります。
また20節に、主は贖う者として支恩に懲られる、約分のうちの罪を悔いる者のもとに来ると主は言われろと言います。
24:13
ペンテコステの時、精霊のリバイバルが望んだように、精霊様は使徒行伝4章でもリバイバルに臨め、使徒行伝10章にもコネリウスの家でもリバイバルで臨んでくださいました。
また同じ精霊様がマルティン・ルータの時代にも、ヨアネのウェスレイの時代にも、ジョナサン・エドワードの時代にも、
また今に至るまで数多くの国と地域に臨んでくださいました。
今、私たち日本はコロナによって非常に難しい状態であるし、オリンピックを担わなければならないこの日本に精霊のリバイバルが必要です。
来てください、精霊様。
私たちの教会は、私たちのうちにおられる精霊様、また上から力で臨む精霊様を大切に思い、
いつも臨んでくださるように切に祈る心で、神様を喜ばせ、主の御業をうまく担う教会になりたいと思います。
お祈り出します。
主よ、今日はキリストシャーの一番大きな祝福である、精霊の十万について分かち合いました。
キリストシャーの中には精霊様がおられるのにもかかわらず、それを分からなくて過ごしたことを悔い改め、
これからは私のうちにおられる精霊様、上から力で臨んでくださる精霊様を求めていきたいと思います。
特にコロナの中でオリンピックを開催しなければいけない、この日本、苦しい日本の中で精霊様が来てください。
コロナもオリンピックもうまく成し遂げることができるように助けてください。
イエス様の皆を通してお祈り致します。
アーメン、アーメン、ありがとうございます。