1. 東京ぶどうの木教会 メッセージ
  2. 「待降節の2番目の意味-再臨..
2025-12-07 41:21

「待降節の2番目の意味-再臨」2025年12月7日のメッセージ

spotify apple_podcasts youtube

東京ぶどうの木教会 2025年12月7日(日)主日礼拝のメッセージです。
牧師:アブラハム黄 
▼教会へのお問い合わせ: tokyo.vine.church@gmail.com

▼メッセージの自動文字起こしはこちら https://listen.style/p/tokyovinechurch

(聖書)Ⅰテサロニケ4:16-17 すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、17 それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。

 

メッセージ題 :

 待降節の2番目の意味―再臨 (Ⅰテサロニケ4:16-17)

*待降節の第2週目です。待降節とは、イエス様の来られることを待ち望む時期ですが…二つの意味が。初めの意味は?人類の救い、十字架の血潮 !2番目に来られる理由?ご自身の新婦を迎える為…

*初代教会の信徒たちは再臨信仰を持てました。なぜなら、使徒1:11→パウロはどこでも証しを!

*イエス様の再臨と死者の復活がないというなら?この世の人々・私たちは再臨と死者の復活を信じて

1.では、どうのように再臨があると確信しますか?

1)イエス様が約束されました。ヨハネ14:1-3あなたたちの為に場所を用意したら戻って来る。黙示録1:7 神様は、ご自身がお話しされたことは必ず成し遂げるお方 !イザヤ55:11

2)全世界の主権者、統治者として…お話しされたことを成就なさる為。ダニエル7:13-14人の子のような者が天の雲に乗ってこられ…王権を受け、王国をとこしえに治める?

3)この世の持ち主として、裁きをなさる為に。裁き主はどなたですか?ヨハネ5:22、そして、マタイ25:31-46裁きの座に着いて悪人、善人を分けられる

#では、なぜ裁きは未だに?Ⅱペトロ3:8神の御姿の人間が悪魔の為に備えた地獄に行くといけないから、悔い改めるように待っておられる !今は恵みの時期 !主の御名を呼ぶ人は誰でも救われる !しかし恵みの時期が終わると?ヘブライ9:27裁きが !そして天国と地獄に !初臨で始まった救いの御業は、再臨で終わるようになる ! ―→再臨の前に、どんなしるしがあるのか?再臨の時期は?

2.イエス様の再臨のとき、地上でどんなことがあるのか?再臨のシナリオ !教団、教派によって解釈は異なる

*Ⅰテサロニケ4:16―17。 先ず、イエス様は空中で再臨なさる !→死んだキリスト者たちが先ず復活し→生きている私たちは、空中に引き上げられる(携挙)→空中で再臨のイエス様に出会う。

*ここで、皆さんが携挙されることではない。地上に残される人がいる?マタイ24:40,41→これから地上には7年の大患難がある。マタイ24:21-22 携挙されなかった人たちは、地上で大患難を通過しなければ。(神学者たちの見解、携挙はキリスト者たちの為に、7年の大患難はユダヤ人たちの為?)

→その後、イエス様が地上で再臨なさる。そして、最後の裁きと、ご羊の婚礼が…黙示録20:12-14

*強調したいことは、大患難の前、必ず携挙されなければならないということ。それを耐える人はいない

#では、誰が大艱難の前、携挙されることができるのか? 1)悔い改めて、イエス・キリストを救い主と受け入れた人。新たに生まれ、聖霊様がおられる人。また、救われた後も十字架の血潮で毎日洗った人

ヨハネ3:5、Ⅰヨハネ1:9、→偽りの信仰には聖霊様がおられない。 2)キリストの新婦、イエス様と親しい愛の関係にいる人。 新婦の霊性?新郎の為、どんな犠牲、献身でも…ヘブライ9:28待ち望む人

#警告?10人の乙女の例え、マタイ25:1-2灯火だけでなく油を準備した人。信仰の本質、イエス様愛

3.待降節は、イエス様の再臨を迎える準備を自らチェックする時期。再臨を待ちながら、私たちは何を?

*マタイ24章では、最後の災い、イエス様の再臨、審判をお話ししながら? マタイ24:45-47を…

主人がその家の使用人たちの上に立てて、時間どおり彼らに食事を与えさせることにした忠実で賢い僕は、いったいだれであろうか。<-命の救い、信者たちの救いを守るように助ける=最高の隣人愛

@イエス様の再臨のときが迫ってます。この世の誘惑、惑わしに注意。貧益貧、富益富?モーセ、パウロ
 

サマリー

待降節のメッセージでは、イエス・キリストの再臨が強調されている。信者たちは再臨を信じ、神の国での希望を抱くことが求められている。初代教会の人々の信仰を参考にしながら、神が約束する未来を信じることが大切である。待降節の重要な意味の一つとして、イエス・キリストの再臨が挙げられている。このエピソードでは、恵みの時期がどのように終わりを告げ、再臨がもたらす影響や、その前に持つべき正しい信仰について語られている。このエピソードでは、「待降節」の重要性と、イエス・キリストの再臨について探求している。信者の心構えや、教会の役割、信仰の本質に触れながら、日常生活の中でイエス様を待つ姿勢について考察されている。このエピソードでは、モーセやパウロを通して神の栄光の重要性が語られ、信仰の秘訣が明らかにされている。

待降節と再臨の意義
今日は、待降節の二番目の意味、イエス様の再臨について、一緒にメッセージを分かち合いたいと思います。
待降節は、クリスマスの前、四週目の前からクリスマス、イエス・キリストが来られることを待ち望む、準備する時期です。
イエス様は、すでに来られました。また、来られます。
イエス様が初めに来られた理由は何か、これを先週分かち合いました。
人類の救いのために、罪をあがなうために、そして、そこで大事なのは、十字架の地使用、イエス・キリストの地、これはものすごいパワーがあるということ、先週分かち合いました。
今日、もう一つです。イエス様は再び来られるんですけど、再び来られる、ですから再臨と言いますけど、イエス・キリストはなぜ再臨されるのか、再臨されるイエス様を迎える準備を、心の準備をどうすればいいのかということです。
イエス様の再臨は、初代教会の人は、もう当たり前だと思いました。
なぜなら、イエス様が天に昇られる、この首都教伝1章9節から11節、そこで11節に天使がこう言います。
彼らへの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか、あなた方から離れて天にあげられたイエスは、天に行かれたのをあなた方が見たのと同じありさまで、まだおいでになると言いました。
天使が天に昇天されるイエス様を見ている人々に対して、今あなた方が見ているその通り、またおいでになると言ったから、それはもうイエス様が昇天なさる、クムに包まれて見えない、その同じように再び来られることを言われたので、初代教会の人々は、みんなイエス様の再臨を信じていました。
それもすぐ来られると思いました。
彼らはいつまで生きるかわからなかったし、イエス様が昇られた通り来られると自分たちは信じていたのです。
その再臨の確信があったから、彼らはこの世には希望をおきませんでした。
この世を愛するよりは、神様、私たちがイエス様のように昇天されて、神の国で、これからイエス様と共に過ごすことを、今、目の前であげられたように来られて、私たちも目の前であげられるんじゃないかと、そのような希望が初代教会にはありました。
ですから彼らは、神様と人々の前で、心正しく、また、首都福音のために殉教する覚悟で、希望を全部天においたから、この世には希望を持っていないから、そして彼らは福音のために熱心に過ごされました。
信者と非信者の違い
では、世の中の人々とキリストシャーの違い、世の中の人々は神の国があるとは分かりません。また、イエス様が再び来られることも分かりません。
自分たちがまた死んだら復活するとは思いません。裁きがあるとは思いません。
世の中の人々は何を考えているのか、この世がすべて、この生きているこの世がすべてだ、死んだら終わりだと思って、この世の中でうまく生きるために、世の中の人々は精一杯頑張ります。
しかし、私たちは神の国で生きることを考えるから、この世の中が私たちの目標でもないし、この世の中のすべてではないから、私たちの希望はいつも天において、神の国、神の国と思います。
世の中の人と私たちの根本的な違いはここにあるんです。
みなさんは今どう思いますか、本当にイエス様の再臨を信じていますか、イエス様が再臨なさったら私たちが死んでも復活することを信じていますか、またこの後裁きがあることを分かっていますか、
だったら私はこれからどう生きるべきか、これをよく考えなければいけない、今私70歳ですよ、もう岡野先生65歳で亡くなられたものです。
私は今5年ぐらい岡野先生よりもっと生きているところです。
だからいつ私はいなくなるか分かりません。
だからいついなくなるか分からないくせに、この世で何とか欲を持って何とかやろうとするのはこれはこれは愚かなことになるでしょう。
私たちの希望は天にあります。
世の中の人々の希望はこの世にあります。
これが信者と未信者の根本的な違いです。
ここが曖昧だったらこれは信仰は本当に難しくなり神様から喜ばれることはできない。
世の中の人々からも何かいろいろ非難されるべき信仰の姿ではないかと思います。
対抗説を今の時期私たちの希望はどこにあるのか、これを確かにする、これができればと思います。
じゃあイエス様は再臨される、本当に信じるのか信じないのか、これが非常に大事なんです。
じゃあ皆さんイエス様再臨、初代教会は全部信じていました。
なぜなら天に昇りながら再び来られると、どっちほど来られると思って生きたから、再臨信仰ということはしっかり持っていました。
しかし今私たちは長く時間が過ぎてしまったので、再臨本当に来られるかな。
私が死んだ後再臨なさる場合もあるし、生きている間に再臨なさる可能性もあるので、
この再臨というポイントをいつ合わせるか難しいんですけど、本当に皆さん再臨あると信じますか。
神の約束と裁き
じゃあイエス様が約束されました。神の約束を皆さんどう思いますか。神様が約束されるなら必ずできます。
私たちが約束するならできない場合もあるでしょう。しかし神様の約束は必ず実現します。
イエス様がどう言われたか。ヨワネ14章1節からです。
心を騒がせるな。神を信じなさい。そして私をも信じなさい。私の父の家には住むところがたくさんある。
もしなければ、あなた方のために場所を用意しに行くと言っただろう。
行ってあなたたちのために場所を用意したら、戻ってきて、あなた方を私のもとに迎える。
こうして私のいるところにあなたたちもいることになろうと言います。
イエス様が昇天された理由は、私たちも連れて行かれて天国で一緒に過ごすために、準備をするために天に登られました。
イエス様の約束は、私は必ず来る。あなたが私と一緒にいるように、私は準備をするために行く。
ですからイエス様の見越えは、私たちはために再臨なさると約束しました。
神様の約束、神の御言葉は、イザヤ55章11節。
私の口から出る私の言葉も、虚しく私に戻ってくることはない。
それは私の望むことを必ず成し遂げられ、私が命じた使命を必ず果たす。
神様が言われた御言葉は、この世の中がなくなっても必ず成し遂げられます。
これほど大事なことはありません。
ですから、神の御言葉を信じて生きる人が、一番確実な人生を過ごすようになるでしょう。
皆さん、ダニエル章でこんな言葉があること知っていますか?
ダニエル7章13節14節。
夜の幻をなお見ていると、見よ。
ダニエルが幻を見たということ。
見よ。人の子のようなものが天の雲に乗り、
年を減った方のもとに進み、
そしてその方から権威、威光、王権を受けた。
そして諸国、諸民族、諸言語を民は皆、彼に使え、彼の支配は常しへに続き、
その統治は滅びることはない。
ダニエルが、人の子のような方が、天から来られることを見た。
そして神様のもとに立って、神様から王の権、全ての力をいただいて、
それで世の中を常しへに統治されることを見た。
旧約聖書で既に人の子が現れる。イエス様が現れるんです。
そして中八説に何と言うのか、しかし意図高き方の聖者たちは、私たちです。
王権を受け、王国を常しへに治めるであろう。
私たちもイエス様と同じように、これから永遠に続くこの国で、
私たちは王権を持って、その国をイエス様と共に治めることになる。
このことをダニエルが幻で見たんです。
聖書で記録したんです。
この見言葉は、神様が私たちに与えてくださることですけど、いつ実現されるか。
これは人の子が雲に乗って来られる。
新約聖書も同じことを記録しているんですけど、旧約聖書、ダニエル書でそれが記録されています。
旧約の時代からイエス様が再臨なさることが約束されている、予言されている。
みんながそれを信じるように、そして永遠に続く神の国が与えられることを、私たちに約束された。
約束されています。
また、再臨なさるべき理由は何か。
ヘブラリー書9章27節、一度死ぬことは、もう私たちに定められている。
死んだ後には裁きがあります。
神様はこの世の中の持ち主です。統治者です。
神様が王様、神様がご主人だということをどのように分かるか、私たちを裁く時期がある。
会社は年に2回、もう前、私の会社は6月、12月、ボーナスとかいろいろなことを与えるために人事豪華ということをやります。
この人が1年間どのような働きをしたのか評価して、
良い人には良いこと、ボーナスを与え、うまくできなかった人はこれから難しくなる場合があります。
世の中の会社も裁きということの概念が毎年あるので、
この世を統治される神様は、この世で生きた全ての人を裁かれないでしょうか。
裁くんです。
この裁きをいつ行われるか、世の終わり。
世の終わり、何があるんですか。イエス様が来られて、世の終わりに裁きがある。
これを私たちは必ず覚えておかなければなりません。
しかしなぜイエス様の裁きが、裁輪、裁きがまだ行われていないのか。
その話をしたのはもう2000年前じゃないか。
今もそれがないんじゃないか。
だから、これは聖書は嘘だ、実現できない見言葉だということもあります。
しかし神様がなぜ、未だに、2000年が経っても、この見言葉が実現されないでしょう。
これは、地獄ということは、私たちが想像できないほど怖いところ。
これは悪魔、悪魔の家来たちを入れるために作ったものですから、
そこに人間が入ったらいけないから、神様は待っておられる。
悔い改めることを待っておられる。
だから、また待っておられ、また待っておられ。
一人も神の見せ方で作られた人間が、地獄に行ったことは絶対にいけないから、
だから、待っておられる。
そして、この世の中のキリスト者に、あなたは転倒してくれ、その人も救ってくれ、人を助けてくれ、
神様は、そのような、なんて言いましょうか、説に求めながら、今、待っておられる。
それが、2000年だと。
神には、1000年が一日のように、1000年を一日のように、待っておられる。
だから、誰も地獄に行かないで、みんなが救われることを待っておられる。
恵みの時期とその終わり
皆さん、今の時期が、恵みの時期と言います。
恵みというのは、何ですか。
いくら、怖い罪を犯したとしても、悔いを改めます。
イエス様を信じますと言ったら、許してあげる。
どんな罪でも、許してあげる。
どんな罪ですよ。世の中で、どんな罪を犯したとしても、許してあげる時期が、恵みの時期です。
しかし、この恵みは、いつまで続くことではありません。
ある時期に、それが終わり。
恵みが終わります。
それが、いつなのか。
イエス様が、再臨なさる時に、恵みは終わり。
これから、裁きです。
だから、いつまでもありません。
恵みの時期が、終わる前に、悔いを改めなければいけない。
ですから、神様は、裁きを行われるために、今、待っておられるということを考えていくわけです。
再臨の段階と引き上げ
ですから、聖輪、イエス様の始めに来られたこと、再び来られること、これは大きな意味があります。
イエス様が、始めに来られたことによって、救いの御業が始まり、再び来られることによって、救いの業は完成。
もう、終わりです。
だから、聖輪と再臨の間が、恵みの時期、救いの時期です。
その間に、必ず、悔いを改めなければいけない。
その中で、いくら怖い罪を犯したとしても、悔いを改めて、イエス・キリストを信じるなら、誰でも救ってくださる。
これが、恵みなんです。
それが、終わる前に。
イエス様が、再臨する時に、この時期が近づいたら、いろいろな、何と言いましょうか、記載があります。
それを、どのように分別するのか、これは、今週の金曜記録会で分かってしまいましょう。
これは、大事なことですから。
今日、私が皆さんに申し上げたいのは、イエス様が再臨するその時、いろいろなことが起こります。
そこを、私たちがよく覚えて、私たちがやるべきことを、やっていきたいと思います。
そのところが、第一テサロニー経四書、十六説、十七説に書かれてあります。
私を読んでみましょう。
すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から下ってきます。
すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず復活し、
それから、私たち生き残っている者も、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられる。
こうして私たちは、いつまでも主と共にいる。
ここ、大事なことです。
これが、イエス様が再臨なさる時に、何が次々と行います。
この再臨の時に、私はどのような解釈をするのか、様々な解釈があるし、いろいろありますけど、
私たちバッテストは、このような見解を主に受け入れています。
まず、イエス・キリストが再臨なさるんですけど、再臨は二段階で来る。
まず、空中で来られます。地上までじゃなくて、空中にイエス様が再臨なさります。
その時、ラッパが響くとか、いろいろなことがあるんですね。
それで、イエス様が空中で再臨なさる時だったら、
地上で死んだ人、私の母もそこにいます。
私の母がまず復活します。
そして、その時、生きている私たちも、死んだ母が復活した夫と、
私たちが一緒に空中に引き上げられます。
ですから、空中で私たちはイエス様に出会います。
これを、韓国ではヒューゴと言うんですけど、これは日本語ではケイキョ、引き上げ、
英語ではレクチャーという言葉を使います。
だから、空中で来られ、その時、私たちは天に引き上げられます。
これは本当に不思議なことです。
ところが、マタイ24章40節41節を見ていますと、
引き上げられるんですけど、キリストシャーだったら、みんな引き上げられることではないということです。
じゃあ、ここで見てみましょう。
その時、裸に、裸に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残されたという。
二人の女がウスを引いていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。
ここに、引き上げられる人もいるし、残される人もいるんだ。
だから、キリストシャーだって、全部引き上げられることではないということです。
これはどう理解すればいいでしょう。
これを十字架の福音で理解すれば、分かりやすいです。
正しい信仰を持っている人は引き上げられる。
正しい信仰を持っていない、偽りの信仰を持っている人は残されるのではないかと思います。
ここが非常に大事なことです。
私は引き上げられるかな、引き上げられないかな、
これはもう死ぬか生きるかじゃなくて、天国地獄と関係があることです。
だから、私たちはこの部分をよく考えるときに、
あなたに本当に今大事なことは何なのか、あなたの信仰は大丈夫なのか、
私自身、これはよく考えていかなければならない。
そして、引き上げられた後に、
世の中には、残された人と未信者の人がいます。
ここに何が来るのか、聖書をよくよく見ていますと、
7年の大困難という時期が来ます。
また、24章21節、その時には、
神様がその時期を縮めてくださらなければ、
誰一人救われる人がいないほど、
怖い苦難がこの世の中であります。
引き上げられた人は上にいます。
空中でイエス様と共に。
地上で残された人には大苦難があって、
その苦難の中で、それをうまくパスできる、
信仰を持ってパスできる人がいないという、
引き上げられなければ、これは本当に本当に難しいことです。
信学者たちは、引き上げる軽挙は、
キリスト者たちのため、
また、地上に残された大苦難を誰が受けるのか、
大抵、ユダヤ人がそれを受けるんじゃないか、
それをパスしなきゃいけないんじゃないか、
という説もあります。
今、ユダヤ人はイエス様を信じていないでしょう。
しかし、彼らは最後に救われると言います。
彼らたちに何が必要なのか、試練が必要なのです。
7年の大苦難の時に、
それを信仰を試されて、それをパスする人たちだけが、
イエス様を出会うことになる。
非常に難しい場面ですけど、
そこに私たちは引き上げなければいけない。
信仰の重要性
残されたら大変になるということです。
信仰が試される時期がここなんです。
7年の大苦難が終わったら、
イエス様が地上に再臨なさります。
空中に再臨なさって、
それで大苦難が終わったら、地上に再臨なさる。
再臨なさったら、この後何があるのか、
最後の裁きがあって、
それから後一時の婚礼に参加することが、
ここであるのではないかと思います。
この裁きは、命の主将に自分の名前がある人だけが、
天国に裁きをうまくできるし、
それから後一時の婚礼まで続けられるでしょう。
私がなぜ今日のメッセージを準備したのかと言いますと、
私たちは必ず傾向、引き上げられる、
このことを私たちがやらなければならない。
大患難、大苦難のところで、
皆さんの信仰を試される、
それをパスする人は誰もいないということです。
その時期を神様が恵みを与えてくださって、
その時期を少し縮めてくださる、
そして何とか救われてくださるという、
聖書の御言葉があるんですけど、
私たちはその大苦難のところで、
信仰を守り抜こうということよりは、
この前に神様から引き上げる、
敬虚の恵みをいただくことが、
私たちの一番大事なことではないかと思います。
では誰が敬虚されるのか、
誰が引き上げられるのか、
まず正しい救い論です。
悔い改めてイエス・キリストを救い主として受け入れた人、
また言葉を変えれば、
新たに生まれた人、
またその中で聖霊様がおられる人です。
これを確かにしなきゃいけません。
ヨワネ三宗講説、イエスはお答えになった、はっきり言っておこう。
誰でも水と霊とによって生まれなければ、
神の国に入ることはできない。
水と霊とによって新たに生まれる、
新たに生まれる、このような過程が必修です。
また信者だとしても罪を犯します。
ですから私たちは毎日毎日何をしなきゃいけないのか、
イエス・キリストの十字架の師匠によって自分を清める人、大事です。
ですから第一ヨワネ一書九説、
自分の罪を公に言い表すなら、
神は信じて正しい方ですから、
罪を許し、あらゆる国から私たちを清めてくださる。
これを皆さん、私たちは毎日罪を犯します。
だから毎日毎日イエス・キリストの師匠によって私たちを清める。
だから皆さん大事なのは、先週勉強した、
このイエス・キリストの十字架の師匠によって自分を清める。
この人たち、その時に私たちの中でいつも聖霊様がおられます。
聖霊様がおられなければこれは偽りの信仰です。
偽りの信仰には聖霊様がおられません。
しかし正しい信仰には聖霊様がおられる。
私に聖霊様がおられるのか、
私は聖霊様の御声に聞き従おうとして、
聖霊様を大切に受け入れ、
そのようにやっていらっしゃるのか、
ぜひぜひ考えておらなければいけません。
2番目、引き上げるためには、
イエス・キリストの花嫁という、
私たちはただ救われた、もう信じます、このことじゃなくて、
あなたはイエス様を愛しているのか、これが大事です。
なぜ愛するのかということは、
私たちはイエス様と婚礼の中で天国に永遠に生きるからです。
婚礼の状態。
愛する方と一緒に天国に生きるものですから、
私たちの信仰で一番大事なのは、
イエス・キリストを愛することです。
世の中を愛する人がたくさんいます。
信者と教会の関係
キリスト者の中で。
しかしイエス様を愛する人いるのか、
教会には通うんですけど、
イエス様と関係がない人がいます。
ある方が私に、
自分の娘が教会に行っていますけど、
イエス様は十字架もわからない。
なぜ教会に行っているのかわからない。
子供たちだからそんなことはありますけど、
私たちがイエス様との関係がないのに、
教会に通っている。
教会になぜ行っているのか。
信仰で一番大事なのはイエス・キリストなのに。
イエス・キリストの知ること、愛すること、
信仰の本質でしょう。
それを私たちはしっかりやっているのか。
なぜなら、
統一神社の婚礼に参加して、
それで永遠に天国で生きるものですから、
イエス様を愛していない人は天国に入れない。
ことを言っているのは過言でもありません。
皆さん、
花嫁の礼制、
神父の礼制知っていますか。
神父は神道を待ち望みます。
結婚式、神道を待ち望みながら、
神道のために自分のすべてを犠牲してもいい。
神道のために何でもやりたい。
これが花嫁の心でしょう。
この花嫁のような心を私たちが持っているのか。
これが大事なのです。
ヘブナイション9章28節、こう言っています。
キリストも多くの人の罪を負うために、
ただ一度身を捧げられた後、
これは大古説の初めの意味。
二番目、
二度目には罪を負うためではなく、
ご自身を逮捕している人たちに、
救いをもたらすために現れてくださる。
これは何かと言いますと、
キリストの花嫁。
キリストを待ち望んでいる。
待ち望んでいる。
その方のために再び来られる。
以前、ワジロ教会、
ダーリン選挙士ですかね。
その奥さんが、ある日、
教会の方と一緒に映画館で映画を観に行ったそうです。
映画を観てから出ながら、
何がふと思い出されたのか。
今、イエス様を再現させたらどうしようか。
映画館で観た映画がどんな内容か分かりませんけど、
映画を楽しんで観ている自分自身が、
選挙士と聞いて、
映画を楽しんで観ている自分自身が、
イエス様の再現を待ち望んでいる、
このような姿勢ではなかったような気がして、
この先生が、もう私たちの前で、
悔い改めるようなお話をすることを聞きました。
ああ、やっぱりその方たちは、
イエス様の再現を待ち望んでいる。
花嫁としての心を持っていたんだなと思います。
皆さん、私たちはイエス・キリストの花嫁として、
いつイエス様の再現をなさっても、
迎えるような準備をしていますか?
心がいつもイエス様にポイントを合わせていますか?
何をするんだとしても、
ああ、今イエス様が来られたらどうする?
イエス様が来られたらどうするという気持ちを持っていますか?
そうじゃなくて、のんびり。
もう、イエス様は全くイエス様を考えないで、
花嫁の心と待望
そして自分の世の中で忙しくて、
楽しいことばかり考えている。
これは花嫁ではありません。
花嫁の心はいつも辛労につながっています。
イエス様はいつ来られても迎え受けるような準備を、
しっかり整えているのが花嫁でしょ。
これは花嫁としての冷静ということを、
ぜひともぜひとも。
その方に出会うためにイエス様は、
再び来られるということです。
これを警告しているのは、
中人の乙女の例えです。
《馬太二十五章》一節二節。
そこで天の国は次のように例えられる。
中人の乙女がそれぞれ灯火を持って、
花向こうを迎えに出て行く。
そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。
何が愚か、何が賢いでしょうか。
結婚式のために、
花向こう、花向こうが来ることを待つために、
花嫁がいるんですけど、
五人は灯火だけ持って行った。
残りの五人は油までちゃんと用意して待っていた。
進路が来られるのが遅くなってしまったので、
だんだん油がなくなってしまった。
だから夜遅く進路が来られるので、
灯火油がない人は、
その時油を買いに行こうとする間に、
花向こうが来られて、
結婚式の家の扉が閉められた。
だから彼らちは入ることができなかった。
ここで大事なのは、
灯火、信仰の姿だけじゃなくて、
信仰の中身を持って行かなきゃいけない。
この油という意味は、
聖霊という意味もあるし、
信仰の本質、
神、イエス様との親しい愛の関係性。
皆さん、愛の関係性は一々できることではありません。
ずっと愛している間に、
愛の関係ができるでしょう。
だから、神道と共に待ち望む花嫁としての姿勢、
これをしっかり持っているのか。
私たちは今、アドベントの時期を過ごしている。
アドベントの時期を考えるべき、
まず一つは、イエス様の父親によって、
私はちょっと清くなっているのか。
もう一つは、イエス様がいつ来られても、
私はイエス様を待ち望む心、
それをポイントにしっかり合わせて、
イエス様、イエス様になっているのか。
対抗説では、楽しむ時期ではありません。
エンジョイではありません。
イエス様を待ち望むこのような姿勢を持っているのか。
私は今、油を準備している。
信仰の本質を準備している。
私は聖霊様との関係性をしっかり持って、
私の家に聖霊様がおられる。
これをいつも確かめる、確かめる。
もしかして、選挙士のように、
映画を見て夢中になってしまって、
イエス様を忘れてしまった。
その時期が一秒でもないように、
選挙士はいつも気をつけていた。
私もそのような姿勢を学ばなければいけない。
信仰の維持と役割
ぜひとも、アドベントの時期はその時期です。
また、祭輪を待ち望みながら、
もう一つが聖書に書いてあるんですけど、
また24章では、最後の時の災い、
イエス様の祭輪、裁きについてお話ししながら、
もう一つが書かれてあります。
また、24章45節からです。
主人がその家の使用人たちの上に立てて、
時間通り彼らに食事を与えてくださった、
忠実な賢い子供は一体誰でしょう。
主人が戻ってきた時、
言われた通りしている人は幸いである。
はっきり言っておく、
主人は彼に全財産を管理させるのに違いがない。
じゃあ、祭輪を待ちながら私たちは何をすればいいですか?
いつもイエス様いつ来ますか?いつ来られますか?
こればっかりやってますか?
いいえ、その間に自分がやるべきことは、
人たちを救うこと、
また、その人たちを信仰のために、
自分の役目を果たすことです。
信仰を持つことは大事で、
しかし信仰を持ち続けるためには、
誰かの助けが必要です。
この救い、いただいた救いを失うことがないように、
これはダメにならないように、
間違いがないように、
いつも教えながら、助けながら、
そして癒しながら、
その人の信仰が正しい信仰を、
いつまでも維持できるように、
助ける役目。
そのような働きを、
神様は救われた私たちに願っておられます。
その働きを忠実にやっているのか?
まず、家族では、子どもたちに信仰をしっかり持たせる。
教会では、教会の家族みなさんに信仰を持たせる。
特に子どもたち、信仰をしっかり持たせるために、
私たちがやるべきことをしっかりやる。
それで一生に、
イエス様が来られるまで、
正しい信仰、
精霊十万の信仰、
見事な十万の信仰、
その信仰をみんなが持っていって、
イエス様を迎えることができるように。
自分だけイエス様を迎える。
他の人は分からない。
こんなことはできません。
みんなが、家族みんなが一生にイエス様を迎えて、
喜んで喜んで天国に入るように。
そのようなことをうまくやる人を、
イエス様は再臨なさって、
全ての財産を任せるのに違いがない。
その人たちが一番大きな報いがあるということを言われています。
さあ、イエス様の来られる時が近づいています。
今、私たちは太古説と守っているのですが、
太古説の本当の意味、
これを2つ、よくよく考えていきましょう。
私たちは、この世の中、最後に、
世の中が忙しいです。
心がすぐ奪われてしまいます。
忙しいんですよ。
だから、忙しいところに全て、
心が奪われないで、
世の中が今、難しくなったら、
みんなが、私の金銭的な経済は大丈夫なのか、
金庫の貯蓄はどのくらいあるのか、
健康はどのくらいできているのか、
皆さん、いつも世の中のことを心配し始めたら、
いろいろなことが出てきます。
また、世の中の何か欲しいものがたくさんあります。
そこに夢中になったら、
イエス様に対する心がいつも奪われてしまいます。
じゃあ、奪われないようにどうすればいいのか。
聖書は、持っている人はたくさん与えられ、
持っていない人は持っていることさえも奪われる、
という法則があります。
例えば、
モーセは、
神の山に登りながら、
神の栄光を見ました。
神様の栄光を見たら、
神の栄光と信仰の秘訣
世の中のものとは比べられないほど素晴らしい、
神の栄光を見てからは、
モーセの祈りはただ一つ。
主の栄光をもっと見せてください。
それをずっと続けるから、
モーセは神の栄光を見て、
神のことで夢中になっている。
だから、持っている人は、
世の中と比べられない神の栄光を、
ますます与えてください。
神の栄光は、
皆さんの病気をちゃんと癒やされます。
皆さんの何か足りない部分を、
ちゃんと満足させてください。
まず、神の国と神の寄附を求めたら、
世の中の足りないことをすべて満たされます。
モーセはその祝福をいただいて、
それを最後まで持ち続けて、
世の中で一番素晴らしい信仰を持ちました。
また、パウル。
パウルはイエス様を出会って、
それからイエス様のこの素晴らしさに夢中になりました。
パウルの願いはただ一つ。
イエス様の後に追いかけていく、ついていく。
イエス様を十字架も知りたい。
復活も知りたい。
イエス様を知りたくて知りたくて、
イエス様を追いかけていくから、
神様がパウルには第三の天、天国を見せてください。
天国を見たパウル。
もう世の中は排泄物のように思って、
神様について、イエス様についてきました。
一番素晴らしい信仰を持ちました。
信仰の秘訣は、神の栄光を見ることです。
神の素晴らしさを知ることです。
だったら、信仰は揺れません。
世の中のことで、世の中、こんなこと。
カルニュー、イスカルニューダー。
神の素晴らしさを見ていない。
ロットの妻。
神の素晴らしさを見ていない。
だから世の中に心を奪われてしまって、
最後にダメになっていく。
私たちは、神様、もっともっと見せてください。
神の栄光を見せてください。
神の素晴らしさを見せてください。
精霊十万を与えてください。
見事な素晴らしさを見せてください。
神様によって満たしてください。
これを祈り続ければ、それにより満たされれば、
この世のものは汚くて汚くて、
それでいつまでも信仰、素晴らしい信仰を持ち続けることができます。
秘訣はこれだけです。
持っている人はたくさん与える。
持っていない人は持っていることさえも奪われる。
だから、行けば行こうと神の素晴らしさをもっと知って、
もっと見て、
そこにポイントを合わせて集中していくなら、
皆さんの信仰は最後の最後まで守れるでしょう。
大公説にこのような秘訣をしっかり持って、
これから続けてやっていきたいと思います。
祈りと感謝
お祈りいたします。
主よ、大公説、イエス様を待ち望むこの素晴らしい時期、感謝します。
これからもっともっとイエス様を知って、
最後の時、みんなが信仰を失ったとしても、
絶対信仰を失わない私たちになりたいと思います。
助けてください。
もっともっと主の素晴らしさを示してください。
イエス様の皆を通してお祈りいたします。
アーメン。
41:21

コメント

スクロール