今日は、「丘の上の三つの十字架」という題を持って メッセージを分かち合いたいと思います。
今週は四旬節の最後の週、中南週です。 2000年前、今週金曜日、
午前9時、イエス様が十字架にかけられて、 午後3時に息を引き取られたと教えてくださいました。
通常、十字架にかけられたらどのくらい息を引き続けるか。 大抵1日、2日くらいは息を引き続けられると言っています。
しかしイエス様は6時間で息を引き取られたんです。 なぜ短く早く亡くなられたのか。
これは神様が全世界の罪を、罪、呪い、 全世界のすべてのこの呪いをイエス様に追わせられたんです。
一人の人が追う罪の対価じゃなくて、 全世界の罪を追われたものですから、
イエス様の苦しみは遥かに怖かったと思います。
ですから、9時に十字架にかけられて、 中2時に全世界が真っ暗になって、午後3時まで続いたということですから、
この中で霊力のものすごい中圧感は、 私たちは考えられないものだと思います。
その時イエス様は、エリエリ、ラマ、サバクタニ、 わが主よ、わが主よ、わが父よ、わが父よ、
なぜ私を見捨てられるんですかと言われながら、 残酷な苦しみの中で10時間の間に亡くなれたんです。
おかげさまでイザヤの53章の予言が成し遂げられ、 人類の救いの道が開かれました。
それで誰でも主の皆を呼び求める人は救われる、 という神様の希望が成し遂げられたんです。
しかし当時の誰もイエス様が十字架で亡くなられることが、 神様の救いの計画であることはわからなかったということです。
イエス様の十字架は神様の秘密であり、 神様の知恵であります。
皆さん、世の中の人々は罪の問題をどう思いますか。 また救いに対してどのように考えていますか。
世の中の人々は罪に対してあまり深刻に 考えていないんじゃないでしょうか。
また世の中の人々の中で救いに対して 関心を持っている人はほとんどいないんじゃないですか。
経済的な問題とか言ったらものすごい厳しく深刻に考えますけど、
罪の問題、救いの問題に対しては あまり厳しく考えていないんじゃないかと思います。
どんな人が罪の問題に厳しく考えるようになるのか。
精霊様が働いた人、精霊様の照らしがある人は、 罪に対して何か苦しみを感じます。
また救いに対してどうすれば救われることができますかと聞くことになるでしょう。
もちろん世の中の宗教も罪の問題を取り上げることは取り上げます。
世の中の宗教は罪の問題をどのように解決しますか。
罪に対してまず反省する。
懺悔ということはこのような意味があるんじゃないですか。
また何か対価を支払う。
だから何か間違い、悪いことをしたとしたら、
あなたはこれから仏像に対して何か拝をする、何回もしなさいとか、
何かどこまで空儀をするとか、修行をするとか、いろいろなことがある。
カソリックもそのような流れがあるんですよ。
昔々マルティン・ルートはペテロセイトのところにいて、
自分の罪を許してもらいたいんだけど、どうすればいいのか。
まず私を何か苦しみを与えるために、ペテロセイトの階段を膝で登り続けたということがあります。
登り続けても何か罪の問題がすっきりできなかった。
許されなかったのか、いろいろ思いながら聖書を読みながら、
あ、信仰によって気にされるんだということをわかってから、すっきり問題が解決できたんですね。
神様の方法は何ですか。
神様は罪は地によって解決する。
命によって解決されると言われました。
ヘブラリー書9章22節。
すべては地によって清められ、地の流しがなければ罪の許しがない。
だから、罪の問題を解決しようとしたら、あなたの地、あなたの命を捨てなければいけない。
これなんですよ。
本当に聖書は罪に対して厳しく言われています。
だからメシアが来られて、
メシアが来られて、ひどいイスラエル人を救われるんですけど、
救われるということは何なのかと言ったら、地の代価、地の命を捨てられる。
これだということですから、世の中の人々はそれが理解できなかった。
世の中の人々は神の救いの計画、神の道と神の方法である忠実化を受け入れません。
嘲笑ったり、非難したりします。
ですから、第一コリント1章23節、24節には、
イエス様の忠実化はユダヤ人に対してはつまづきのものであり、
違法人に対しては愚かなものだ。
しかし、見された私たちには神の力、神の知恵であったということを教えてくださるんです。
世の中の人々はイエス様の忠実化を、その忠実化を通して救われることを認めません。
しかし、精霊に照らされた人、
精霊の恵みをいただいた人は、そのことを信じます。
誰が精霊様の照らしがあれるのか、
謙遜な人だけが精霊様の照らしがあって、
罪の問題を解決できる道を知ることができるし、
それで罪を悔い改めることを通して救われることができるんだということです。
ですから、神様の救いの道は世の中の人々が考える道と全然違うので、
世の中の人々は滅多に神の救いの道をわかって、
それを従って救われるのは世の中の人々はできません。
神様の道、秘密、神秘である忠実化を、
これを理解できる人は精霊様によらなければできないので、
世の中の人々が救われるのは不可能だということをまず考えていきましょう。
イエス様は神様の救いの計画である忠実化を担うためにこの世に来られました。
しかし、イエス様が私がメシアで、私が忠実化で死ななければ、
神の救いの計画が成し遂げられないので、
ピラド様、私を忠実化に賭けてくださいと、
イエス様はこんな話をしたことがありません。
どうすればイエス様がこの世に来られて忠実化を背負って、
そこで亡くなられて、その地によって全ての人を救うことができるか。
これはもう計画を立てて何かやってください、やってください、
いうことでできるものではありません。
この忠実化に賭けられて神の救いの見業が成し遂げるように助けた人がいます。
どなたかな。悪魔が助けました。
悪魔がイスカリヌーダーを利用して、
イエスを裏切るようにいろいろこれをやったんです。
また大最初が、イエス様はネタンで、
ローマの裁判に、このイエス様を裁判にかけるようにしたんです。
またユダヤ人たちが、忠実化に賭けろ、忠実化に賭けろを扇動したんです。
またローマの総督ピラドが忠実化に賭けるように宣告した、メイジターということです。
その結果、イエス様は忠実化に賭かり、
メシアの御業を成し遂げることができたんです。
これはよくよく考えてみますと、
世の中の人々はイエス様を憎しんで殺そうとしたことが、
この神様は彼たちの悪巧みと言いましょうか、
また仕業を利用して、
それで神の救いの見業を成し遂げるようになったので、
これは事実、神の知恵だということです。
ですから第一コリント2章8つ読みますと、
この世の支配者たちは誰一人、この知恵を理解しませんでした。
もし彼たちが理解したとするなら、
栄光の主イエス様を忠実化に賭けることをしてなかったでしょう、と言います。
とにかく世の中の知恵、
世の中の人々は自分のやりたいところでやったことを利用して、
神様はイエス・キリストを忠実化に賭かり、
そしてキリストの見業を成し遂げるようにして、
全人類を救う神の計画を成し遂げられた。
これは本当に神の知恵であり、神の神秘、秘密だったということです。
とにかくイエス様の忠実化は、
神の救いの計画の革新的な部分でした。
しかし、神様はどんな人がイエス様の忠実化によって救われることができるのか、
今日読んでくださった、丘の上の三つの十字架を通して、
私たちにこれを説明してくださいます。
世の中の全ての人は、聖書で見ていますと、
罪人、ある意味から見たら、
今日は犯罪者、高等のような存在だと、聖書は言っています。
聖書はこのような表現をよく使いますね。
目白くの七つの境界が現れます。
七つの境界は、全世界に存在している境界を、
七つの分類で、全世界の境界がどこかに当てはまるようになります。
同じように、全世界の人々は、丘の上の三つの十字架の中で、
何かに当てはまるような存在になっています。
この三つが、全世界の人々を対応する三つの十字架です。
初めの十字架は、救い主イエス様の贖いのための十字架です。
賢罪がない、罪がないイエス様が、女の子孫として来られて、
贖いの食材を成し遂げた十字架です。
十字架上のイエス様は、自分のための目的が全くありませんでした。
神の計画、神様の願いを叶えるため、
また世の中の人々を救うために、イエス様は十字架を背負いました。
イエス様の十字架は、神様が願ったことです。
神様がわざわざイエス様に十字架に書かせ、
十字架の上のイエス様に、全世界の呪いをそこに注い注がれました。
そしてイエス様は苦しみを受けられ、亡くなりましたが、
それを通して、全人類の救いの御業が成し遂げられた、テテレス体。
ですから、これから誰でもイエスキリストの杭を改めて、
イエスキリストの皆を呼び求める人は、救われる。
ですから、初めの十字架は、救い主イエスキリストが、
全世界のための贖いの十字架です。
2番目の十字架は、救われた罪人の十字架です。
右の方に犯罪者、強盗がかけられました。
どのくらい大きな罪を犯したら、十字架にかけられるほどの犯罪者なんでしょう。
しかし彼は、イエス様と共に十字架にかかり、
十字架の苦しみを担う間に、何か彼には悟ることがありました。
右の方の強盗は、何を悟ったのか、
左の方の強盗に言う話を聞けばわかります。
これが、ルカの23章の41節からです。
我々は、自分のやったことの報いとして受けているのだから当然だ。
しかしこの方は、何にも悪いことをしていない。
そしてイエスよ、あなたの御国においでになる時、
私を思い出してくださいと言った。
彼はイエス様の同じように、イエス様の右の十字架にかかりながら、
何かを悟った。
その時、彼の深い内面にある、神様に対する恐れおやまう心が現れたということです。
彼は人を、何をしたかわかりませんけど、
十字架にかけられるほどの犯罪者ということは、ひどい犯罪者です。
しかし、イエス様の十字架を見上げるそのところで、
彼の心の中に隠されていた、何かが現れたんです。
神様に対する恐れおやまう心。
そして彼は悔い改めながら、イエス様にこう言います。
イエスよ、あなたが御国においでになる時、私のことを思い出してください。
その時イエス様は、はっきり言っておくが、
あなたは今日私と一緒に楽園にいると言われた。
最後の最後の瞬間、彼が救いのために何か良い行いをしたんですか?
そうではありません。
彼はその時悟って、イエス様に対して正しい信仰告白をしただけなんです。
それなのに、今日あなたは私と一緒に楽園にいるということです。
この右の方の口頭を見ていますと、
私たちがいくら大きな罪を犯したとしても、
最後の最後までチャンスがあるということがわかります。
このチャンスは悔い改めることです。
最後の最後まで悔い息が残っている間に、悔い改めることさえできれば、
彼は救われるということです。
しかし、左の方の中辞書に書かれている人は、
救われていない罪人の中辞書です。
この人は同じ行動でありながら、犯罪者でありながら、
悟り、精霊の照らしが全くありませんでした。
彼は終始一貫、悔い改めないし、
またイエス様に対して非難、また嘲笑いを一貫しました。
彼は一回だけでも、本当に純粋な心で、心を開いて、
何とか自分の本音、自分の純粋な心で、
何か神様に対する自分の恵まう心を表してくれればよかったんだけど、
彼は最後まで心を開かれませんでした。
彼の内面は、神様に対する反感、
この世の対する反感と不満によって満たされていました。
自暴自棄、死んだら終わりだ、消せらせら、
自分の命、自分の魂を大切に思いませんでした。
どうせ呪われた私の人生、この世の中を罵りながら、
思い存分恨み返しをしながら、
黄泉に落ちてしまいました。
一回でも心を開き、謙遜な姿を見せてくれればよかったんだけど、
彼はこのような心が全くなかった人でした。
彼は自分の自由意志によって心を閉じて、
神を恨みながら、世の中を罵りながら、
彼は最後まで死んでしまいました。
どれほど自分の心の中で悪感情があったでしょうか。
私たちは最後の最後の瞬間まで希望があると思って、
悔い改めてイエス様を受け入れることさえできれば、
天国に行けるようになっているんだけど、
それを知らなかった、救いの道を知らなかった、
この人が世の中で一番かわいそうな人ではないかと思います。
とにかく世の中の全ての人は、
この道の中でどこかの十字架に当てはまるようになっています。
皆さんはどのような十字架に当てはまる人だと思いますか。
今日一番強調したいのは、悔い改めです。
私たちを殺し、地獄に投げ込む、怖い罪、
サタンは罪を利用して、全ての人を地獄に連れて行こうとします。
この罪に対して私たちができるものは、悔い改めです。
悔い改めが天国の道です。
ローマ書3章23世、
人はみんな罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています。
世の中の人は全て罪を犯して、神の栄光を見ることができなくなっていました。
しかし、罪を犯して地獄に行くことではなく、
厳密に言いますと、
イエス様の十字架の後の私たちは、
罪を犯して地獄に行くよりは、悔い改めないから地獄に行くようになるのです。
今日、イエス様が悔い改めた罪人に、
あなたは今日、私と共にパラダイス、楽園にいるであろうと言いました。
天国にいつ入るのか、楽園にいつ入るのか、
今日、死の瞬間に入ります。
明日、あさって、後ほど、後々ではありません。
今日、私たちが死んだら、すぐ私たちはパラダイス、楽園に行くようになります。
ここで私たちは、例的に疑問がいろいろあります。
この4つぐらい、皆さんと一緒に考えていきたいと思います。
楽園と天国、
また、黄泉と地獄、
これは何が違いますか?どのように違いますか?
楽園が天国であり、天国が楽園ではないですか?
黄泉が地獄であり、地獄は黄泉ではないですか?と言いますが、
イエス・キリストの最後の裁きがあります。
皆さん、最後の裁きは誰がやりますか?
これは、全て神様がイエス様にお任せ、任せられます。
最後の裁きはイエス様が行います。
その最後の裁きの前に死んだ人は、
まず楽園に行きます。
まず、黄泉に行きます。
裁きが終わった後、楽園にいる人は天国に行く。
また、黄泉に行った人は地獄に行きます。
だから、楽園と天国、黄泉と地獄は、
裁きの前と後に、私たちが行く場所にすいません。
ですから、そのところをよく考えていかなければいけません。
ルカの16章で、物語であるラザロと金持ちの人のたとえが出てきます。
物語であるラザロは、死んでから楽園に行きました。
でも、金持ちは死んでから黄泉に行きました。
この黄泉というところがどんなところなのか、これが書かれてあります。
ルカの16章の22節から。
この貧しい人ラザロは死んで、天使たちによって、
遠赤にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。
金持ちも死んで葬られた。
そして、金持ちは黄泉で苛まれながら目を上げると、
遠赤でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとかはるか彼方に見えた。
そこで大声に言った。
父アブラハムよ、私を憐れんでください。
ラザロをよこして指先に水をしたし、私の舌を冷やさせてください。
私はこの炎の中でもだやく苦しんでいます。
黄泉というところでも、炎の中で水一滴がない、
恵み全くない世界で、永遠に苦しめられる。
考えてみてください。
永遠に炎の池の中で水一滴与えられないところで、
暑さの中で苦しみながら、永遠に行きます。
これが黄泉です。
これで最後の裁きの後に地獄に行きます。
皆さん、そこには絶対行ってはいけません。
だから神様が最後の裁きの時期を千年の一日のように待っている。
悔い改めることを待っていらっしゃるということですから、
私たちの愛する方たち、家族の中で、また私たちの知り合いの中で
誰一人地獄に行くようになってはいけません。
天国に連れて行く責任が私たちにあります。
まずは信じている私たちにあります。
誰一人地獄に行ってはいけません。
世の中で物語だとしてもいいです。
ラゼロ物語だったんです。悲惨な人でした。
しかし天国に行きました。楽園に行きました。
だからそれでもいいから、
もちろんそんな人は私たちのモデルケースではないんですけど、
天国には行かなきゃいけない。楽園に行かなきゃいけない。
そのことは是非とも是非とも考えていかなきゃいけません。
2番目、私たちが疑問ということは、
救われた私たちを神の愛から切り離すことはできないと聖書は言っています。
ローマ書8章の38節から読んでいます。
私は確信しています。
死も命も天使も支配する者も、現在の者も未来の者も、
力の者も、高いところにある者も、低いところにいる者も、
他のどんな非常物も、私たちの主、キリスト・イエスによって示された、
神の愛から私たちを引き離すことはできませんと言います。
もちろん正しいんです。しかし油断してはいけません。
救われた私たちを神の愛から引き離すものは世の中にはありません。
しかし一つあります。
何ですか?
罪なんです。
罪を犯したら神様と切り離すことになります。
創世紀3章、創世紀1章、2章でアダムとエバが、
神様から出国されたエデンの園に過ごしながら、
神様が禁じられた罪を犯した時、
エデンの園が亡くなってしまい、
彼らは神様から見捨てられるようになりました。
神様からかけ離れるようになりました。
罪です。
私たちを神の愛から切り離すことはできないとローマ書に言っていますけど、
一つあるんです。これが罪なんです。
だから罪は悟られたらすぐ悔いを改めなければなりません。
悪魔は私たちがこの罪、
罪じゃなければ私たちを神の愛から切り離すことはできないから、
いろいろな方法を通して惑わし、誘惑し、
罪を犯すようにさせます。
また悔い改めなくてもいいと言いながらいろいろ促します。
だから私たちが罪を犯して悔い改めなければ、
私たちはどうなるんですか。
だから悔い改めを熱心にしなければ。
悔い改めは誰が私たちをさせてくださるのか、
精霊様が悟らせてくださる。
罪に対して、義に対して、裁きに対して悟らせてくださいながら、
私たちが悔い改めるように導かれる方が精霊様です。
ぜひとも私たちは罪を犯さない人は誰もいません。
毎日罪を犯します。
もうあなたは見ていると、
暴人だったら罪がないかもしれないけど、
見ていると言うからすでに罪があるよと言っています。
聖書は。
見ることで罪が犯します。
だから私たちは早く早く悔い改めることを、
毎日毎日行うようにしていきましょう。
3番目、大事なのは悔い改め。
悔い改めと関係して一つ共通したいのは、