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「丘の上の三つの十字架」2026年3月29日のメッセージ
2026-03-29 34:43

「丘の上の三つの十字架」2026年3月29日のメッセージ

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東京ぶどうの木教会 2026年3月29日(日)主日礼拝のメッセージです。

牧師:アブラハム黄

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(聖書) ルカ-47  イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。39十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」40すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。41我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」42そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。43するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。44既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。45太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。46イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。47百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。

 

メッセージ題 : 丘の上の三つの十字架 (ルカ23:38-47)

*四旬節の最後、今週は受難週です。2千年前、今週金曜日イエス様は十字架に掛かりなくなりました

*十字架にかかりなくなるのは1-2日かかると言いますが、イエス様は9時から午後3時に。イザヤ53:10主がイエス様を悩ませた?(口語訳)エリ、エリ、レマ、サバクタニ!(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)全人類の罪を負わせたので・お陰で主の御名を呼び求めるなら救われる


1.しかし当時、誰も神様の救いの御業を知ることができませんでした。イエス様の十字架は、神の秘密、神の知恵です。

*世の中の人々は、罪の問題、救いについてどう思いますか?罪?救い?深刻に必要と思いません

相対的な罪意識で。この世の宗教らの罪対策は?代価の支払い、修養で…しかし、聖書は罪の問題を?命(血)で!ローマ6:23、ヘブライ9:22旧約時代は、罪がない動物の血によって、それは十字架のしるし。創世記3章で人間が罪を犯したとき?3:15女の子孫、Ⅰペトロ2:24→私たちの代わりにイエス様が罪を贖う為に十字架で死ぬこと。これが神の道と方法でした。従って、この神の救いの計画を受け入れ、イエス様の十字架の功労を信じるとき、罪の赦しと救いが成就される。これが神様の道と方法

#このような神の救いの計画を世の人々は受け入れません。あざ笑い、非難します。Ⅰコリント1:23-24

では誰が受け入れることができますか?聖霊の照らしを受けた人、神の恵みが臨んだ人、謙遜な人!

#神の救いの御業が成就するのに誰が助けてくれたのかⅠコリント2:7-8神様は敵の仕業を利用して


2.イエス様の十字架は神の救いの計画の核心でした。それによってどんな人が救いを受け入れることができるのか?

*ゴルゴダの丘の三つの十字架?すべての人類はこの三つの中、何か一つの十字架に当て嵌まる

1)救い主、イエス・キリストの贖いの十字架! 

ルカ23:32-47 原罪がない女の子孫として来られた、神の御子イエス様の十字架。十字架の上のイエス様は、ご自身の目的がなかった。ただ主の為!ただ全人類の為!血を流し命を捨てました。神様もイエス様に苦しみを要求されました。それを通して人類救いの御業が始まりました。誰でも悔い改め、福音を信じるなら救われるように。 偽キリストの分別は?

2)右の十字架は、救われた罪人の十字架! 

二人の犯罪者、どれほど大きな罪を犯したでしょう?しかし右の人は、イエス様と一緒に十字架を背負いながら何かを悟りました。恵みによって、聖霊によって?ルカ23:39-43左に掛けられた犯罪者に語る言葉とイエス様に頼まれることを見ますと?23:42

3)左の十字架は、救われない罪人の十字架! 

右の人と同じ犯罪者でありながら、悟り、聖霊の照らしがなかった。終始一貫、悔い改めもなく、ただ非難とあざ笑いだけ。彼の内面は、神に対して、この世に対して不満ばかり、恨みを晴らしながら人生を終えた。最後に心を開き謙遜であったのなら。自由意思

#最後まで機会があったのに!悔い改めイエス様を受け入れるなら救わるのを知らない人、可哀そう

 

3.私たちは、誰と似ていますか?結局、悔い改めが大事です。 罪の怖さ!罪に勝てる悔い改めの力!

*イエス様の十字架の事件以来の私たちは…罪の故に地獄に行くよりは、悔い改めがないから地獄に行きます。ローマ3:23人間はすべて罪人ですが…悔い改めた罪人と悔い改めない罪人がいるだけ

*特に、最後に調べて見たい4つの項目。 

1)楽園と天国は、どのように異なりますか?ルカ16:22-24

2)聖書は救われた私たちを神の愛から切り離すことが出来ないと!ローマ8:37-39but, 罪を犯すと?

3)悔い改めと反省の違いは? 

4)イエス様の贖いの十字架の近くで協力した人々が味わった祝福?

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サマリー

このメッセージは、イエス・キリストの十字架の意味と、それによって救われる人々について説いています。イエス様は全世界の罪を背負い、わずか6時間で十字架上で亡くなられましたが、これは神の秘密であり、人間の理解を超えた知恵でした。世の人々は罪や救いを深刻に捉えませんが、聖書は罪の解決には命(血)が必要だと説き、イエス様の十字架はその究極の解決策です。ゴルゴダの丘には三つの十字架があり、それぞれ救い主イエス・キリストの贖いの十字架、救われた罪人の十字架、そして救われない罪人の十字架を表しています。私たちは皆、このいずれかの十字架に当てはまります。右の十字架の罪人は悔い改めによって救われましたが、左の罪人は最後まで悔い改めませんでした。このメッセージは、悔い改めの重要性を強調し、罪の怖さと、悔い改めの力によって救われる道を示しています。また、楽園と天国、黄泉と地獄の違い、神の愛から私たちを切り離すもの(罪)、悔い改めと反省の違い、そしてイエス様の十字架に協力した人々が受けた祝福についても解説しています。最終的に、イエス様の十字架を愛し、背負い、伝える者は神の大きな祝福を受けると結んでいます。

イエス様の十字架と神の救いの秘密
今日は、「丘の上の三つの十字架」という題を持って メッセージを分かち合いたいと思います。
今週は四旬節の最後の週、中南週です。 2000年前、今週金曜日、
午前9時、イエス様が十字架にかけられて、 午後3時に息を引き取られたと教えてくださいました。
通常、十字架にかけられたらどのくらい息を引き続けるか。 大抵1日、2日くらいは息を引き続けられると言っています。
しかしイエス様は6時間で息を引き取られたんです。 なぜ短く早く亡くなられたのか。
これは神様が全世界の罪を、罪、呪い、 全世界のすべてのこの呪いをイエス様に追わせられたんです。
一人の人が追う罪の対価じゃなくて、 全世界の罪を追われたものですから、
イエス様の苦しみは遥かに怖かったと思います。
ですから、9時に十字架にかけられて、 中2時に全世界が真っ暗になって、午後3時まで続いたということですから、
この中で霊力のものすごい中圧感は、 私たちは考えられないものだと思います。
その時イエス様は、エリエリ、ラマ、サバクタニ、 わが主よ、わが主よ、わが父よ、わが父よ、
なぜ私を見捨てられるんですかと言われながら、 残酷な苦しみの中で10時間の間に亡くなれたんです。
おかげさまでイザヤの53章の予言が成し遂げられ、 人類の救いの道が開かれました。
それで誰でも主の皆を呼び求める人は救われる、 という神様の希望が成し遂げられたんです。
しかし当時の誰もイエス様が十字架で亡くなられることが、 神様の救いの計画であることはわからなかったということです。
イエス様の十字架は神様の秘密であり、 神様の知恵であります。
皆さん、世の中の人々は罪の問題をどう思いますか。 また救いに対してどのように考えていますか。
世の中の人々は罪に対してあまり深刻に 考えていないんじゃないでしょうか。
また世の中の人々の中で救いに対して 関心を持っている人はほとんどいないんじゃないですか。
経済的な問題とか言ったらものすごい厳しく深刻に考えますけど、
罪の問題、救いの問題に対しては あまり厳しく考えていないんじゃないかと思います。
どんな人が罪の問題に厳しく考えるようになるのか。
精霊様が働いた人、精霊様の照らしがある人は、 罪に対して何か苦しみを感じます。
また救いに対してどうすれば救われることができますかと聞くことになるでしょう。
もちろん世の中の宗教も罪の問題を取り上げることは取り上げます。
世の中の宗教は罪の問題をどのように解決しますか。
罪に対してまず反省する。
懺悔ということはこのような意味があるんじゃないですか。
また何か対価を支払う。
だから何か間違い、悪いことをしたとしたら、
あなたはこれから仏像に対して何か拝をする、何回もしなさいとか、
何かどこまで空儀をするとか、修行をするとか、いろいろなことがある。
カソリックもそのような流れがあるんですよ。
昔々マルティン・ルートはペテロセイトのところにいて、
自分の罪を許してもらいたいんだけど、どうすればいいのか。
まず私を何か苦しみを与えるために、ペテロセイトの階段を膝で登り続けたということがあります。
登り続けても何か罪の問題がすっきりできなかった。
許されなかったのか、いろいろ思いながら聖書を読みながら、
あ、信仰によって気にされるんだということをわかってから、すっきり問題が解決できたんですね。
神様の方法は何ですか。
神様は罪は地によって解決する。
命によって解決されると言われました。
ヘブラリー書9章22節。
すべては地によって清められ、地の流しがなければ罪の許しがない。
だから、罪の問題を解決しようとしたら、あなたの地、あなたの命を捨てなければいけない。
これなんですよ。
本当に聖書は罪に対して厳しく言われています。
だからメシアが来られて、
メシアが来られて、ひどいイスラエル人を救われるんですけど、
救われるということは何なのかと言ったら、地の代価、地の命を捨てられる。
これだということですから、世の中の人々はそれが理解できなかった。
世の中の人々は神の救いの計画、神の道と神の方法である忠実化を受け入れません。
嘲笑ったり、非難したりします。
ですから、第一コリント1章23節、24節には、
イエス様の忠実化はユダヤ人に対してはつまづきのものであり、
違法人に対しては愚かなものだ。
しかし、見された私たちには神の力、神の知恵であったということを教えてくださるんです。
世の中の人々はイエス様の忠実化を、その忠実化を通して救われることを認めません。
しかし、精霊に照らされた人、
精霊の恵みをいただいた人は、そのことを信じます。
誰が精霊様の照らしがあれるのか、
謙遜な人だけが精霊様の照らしがあって、
罪の問題を解決できる道を知ることができるし、
それで罪を悔い改めることを通して救われることができるんだということです。
ですから、神様の救いの道は世の中の人々が考える道と全然違うので、
世の中の人々は滅多に神の救いの道をわかって、
それを従って救われるのは世の中の人々はできません。
神様の道、秘密、神秘である忠実化を、
これを理解できる人は精霊様によらなければできないので、
世の中の人々が救われるのは不可能だということをまず考えていきましょう。
イエス様は神様の救いの計画である忠実化を担うためにこの世に来られました。
しかし、イエス様が私がメシアで、私が忠実化で死ななければ、
神の救いの計画が成し遂げられないので、
ピラド様、私を忠実化に賭けてくださいと、
イエス様はこんな話をしたことがありません。
どうすればイエス様がこの世に来られて忠実化を背負って、
そこで亡くなられて、その地によって全ての人を救うことができるか。
これはもう計画を立てて何かやってください、やってください、
いうことでできるものではありません。
この忠実化に賭けられて神の救いの見業が成し遂げるように助けた人がいます。
どなたかな。悪魔が助けました。
ゴルゴダの丘の三つの十字架
悪魔がイスカリヌーダーを利用して、
イエスを裏切るようにいろいろこれをやったんです。
また大最初が、イエス様はネタンで、
ローマの裁判に、このイエス様を裁判にかけるようにしたんです。
またユダヤ人たちが、忠実化に賭けろ、忠実化に賭けろを扇動したんです。
またローマの総督ピラドが忠実化に賭けるように宣告した、メイジターということです。
その結果、イエス様は忠実化に賭かり、
メシアの御業を成し遂げることができたんです。
これはよくよく考えてみますと、
世の中の人々はイエス様を憎しんで殺そうとしたことが、
この神様は彼たちの悪巧みと言いましょうか、
また仕業を利用して、
それで神の救いの見業を成し遂げるようになったので、
これは事実、神の知恵だということです。
ですから第一コリント2章8つ読みますと、
この世の支配者たちは誰一人、この知恵を理解しませんでした。
もし彼たちが理解したとするなら、
栄光の主イエス様を忠実化に賭けることをしてなかったでしょう、と言います。
とにかく世の中の知恵、
世の中の人々は自分のやりたいところでやったことを利用して、
神様はイエス・キリストを忠実化に賭かり、
そしてキリストの見業を成し遂げるようにして、
全人類を救う神の計画を成し遂げられた。
これは本当に神の知恵であり、神の神秘、秘密だったということです。
とにかくイエス様の忠実化は、
神の救いの計画の革新的な部分でした。
しかし、神様はどんな人がイエス様の忠実化によって救われることができるのか、
今日読んでくださった、丘の上の三つの十字架を通して、
私たちにこれを説明してくださいます。
世の中の全ての人は、聖書で見ていますと、
罪人、ある意味から見たら、
今日は犯罪者、高等のような存在だと、聖書は言っています。
聖書はこのような表現をよく使いますね。
目白くの七つの境界が現れます。
七つの境界は、全世界に存在している境界を、
七つの分類で、全世界の境界がどこかに当てはまるようになります。
同じように、全世界の人々は、丘の上の三つの十字架の中で、
何かに当てはまるような存在になっています。
この三つが、全世界の人々を対応する三つの十字架です。
初めの十字架は、救い主イエス様の贖いのための十字架です。
賢罪がない、罪がないイエス様が、女の子孫として来られて、
贖いの食材を成し遂げた十字架です。
十字架上のイエス様は、自分のための目的が全くありませんでした。
神の計画、神様の願いを叶えるため、
また世の中の人々を救うために、イエス様は十字架を背負いました。
イエス様の十字架は、神様が願ったことです。
神様がわざわざイエス様に十字架に書かせ、
十字架の上のイエス様に、全世界の呪いをそこに注い注がれました。
そしてイエス様は苦しみを受けられ、亡くなりましたが、
それを通して、全人類の救いの御業が成し遂げられた、テテレス体。
ですから、これから誰でもイエスキリストの杭を改めて、
イエスキリストの皆を呼び求める人は、救われる。
ですから、初めの十字架は、救い主イエスキリストが、
全世界のための贖いの十字架です。
2番目の十字架は、救われた罪人の十字架です。
右の方に犯罪者、強盗がかけられました。
どのくらい大きな罪を犯したら、十字架にかけられるほどの犯罪者なんでしょう。
しかし彼は、イエス様と共に十字架にかかり、
十字架の苦しみを担う間に、何か彼には悟ることがありました。
右の方の強盗は、何を悟ったのか、
左の方の強盗に言う話を聞けばわかります。
これが、ルカの23章の41節からです。
我々は、自分のやったことの報いとして受けているのだから当然だ。
しかしこの方は、何にも悪いことをしていない。
そしてイエスよ、あなたの御国においでになる時、
私を思い出してくださいと言った。
彼はイエス様の同じように、イエス様の右の十字架にかかりながら、
何かを悟った。
その時、彼の深い内面にある、神様に対する恐れおやまう心が現れたということです。
彼は人を、何をしたかわかりませんけど、
十字架にかけられるほどの犯罪者ということは、ひどい犯罪者です。
しかし、イエス様の十字架を見上げるそのところで、
彼の心の中に隠されていた、何かが現れたんです。
神様に対する恐れおやまう心。
悔い改めの重要性と神の愛
そして彼は悔い改めながら、イエス様にこう言います。
イエスよ、あなたが御国においでになる時、私のことを思い出してください。
その時イエス様は、はっきり言っておくが、
あなたは今日私と一緒に楽園にいると言われた。
最後の最後の瞬間、彼が救いのために何か良い行いをしたんですか?
そうではありません。
彼はその時悟って、イエス様に対して正しい信仰告白をしただけなんです。
それなのに、今日あなたは私と一緒に楽園にいるということです。
この右の方の口頭を見ていますと、
私たちがいくら大きな罪を犯したとしても、
最後の最後までチャンスがあるということがわかります。
このチャンスは悔い改めることです。
最後の最後まで悔い息が残っている間に、悔い改めることさえできれば、
彼は救われるということです。
しかし、左の方の中辞書に書かれている人は、
救われていない罪人の中辞書です。
この人は同じ行動でありながら、犯罪者でありながら、
悟り、精霊の照らしが全くありませんでした。
彼は終始一貫、悔い改めないし、
またイエス様に対して非難、また嘲笑いを一貫しました。
彼は一回だけでも、本当に純粋な心で、心を開いて、
何とか自分の本音、自分の純粋な心で、
何か神様に対する自分の恵まう心を表してくれればよかったんだけど、
彼は最後まで心を開かれませんでした。
彼の内面は、神様に対する反感、
この世の対する反感と不満によって満たされていました。
自暴自棄、死んだら終わりだ、消せらせら、
自分の命、自分の魂を大切に思いませんでした。
どうせ呪われた私の人生、この世の中を罵りながら、
思い存分恨み返しをしながら、
黄泉に落ちてしまいました。
一回でも心を開き、謙遜な姿を見せてくれればよかったんだけど、
彼はこのような心が全くなかった人でした。
彼は自分の自由意志によって心を閉じて、
神を恨みながら、世の中を罵りながら、
彼は最後まで死んでしまいました。
どれほど自分の心の中で悪感情があったでしょうか。
私たちは最後の最後の瞬間まで希望があると思って、
悔い改めてイエス様を受け入れることさえできれば、
天国に行けるようになっているんだけど、
それを知らなかった、救いの道を知らなかった、
この人が世の中で一番かわいそうな人ではないかと思います。
とにかく世の中の全ての人は、
この道の中でどこかの十字架に当てはまるようになっています。
皆さんはどのような十字架に当てはまる人だと思いますか。
今日一番強調したいのは、悔い改めです。
私たちを殺し、地獄に投げ込む、怖い罪、
サタンは罪を利用して、全ての人を地獄に連れて行こうとします。
この罪に対して私たちができるものは、悔い改めです。
悔い改めが天国の道です。
ローマ書3章23世、
人はみんな罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています。
世の中の人は全て罪を犯して、神の栄光を見ることができなくなっていました。
しかし、罪を犯して地獄に行くことではなく、
厳密に言いますと、
イエス様の十字架の後の私たちは、
罪を犯して地獄に行くよりは、悔い改めないから地獄に行くようになるのです。
今日、イエス様が悔い改めた罪人に、
あなたは今日、私と共にパラダイス、楽園にいるであろうと言いました。
天国にいつ入るのか、楽園にいつ入るのか、
今日、死の瞬間に入ります。
明日、あさって、後ほど、後々ではありません。
今日、私たちが死んだら、すぐ私たちはパラダイス、楽園に行くようになります。
ここで私たちは、例的に疑問がいろいろあります。
この4つぐらい、皆さんと一緒に考えていきたいと思います。
楽園と天国、
また、黄泉と地獄、
これは何が違いますか?どのように違いますか?
楽園が天国であり、天国が楽園ではないですか?
黄泉が地獄であり、地獄は黄泉ではないですか?と言いますが、
イエス・キリストの最後の裁きがあります。
皆さん、最後の裁きは誰がやりますか?
これは、全て神様がイエス様にお任せ、任せられます。
最後の裁きはイエス様が行います。
その最後の裁きの前に死んだ人は、
まず楽園に行きます。
まず、黄泉に行きます。
裁きが終わった後、楽園にいる人は天国に行く。
また、黄泉に行った人は地獄に行きます。
だから、楽園と天国、黄泉と地獄は、
裁きの前と後に、私たちが行く場所にすいません。
ですから、そのところをよく考えていかなければいけません。
ルカの16章で、物語であるラザロと金持ちの人のたとえが出てきます。
物語であるラザロは、死んでから楽園に行きました。
でも、金持ちは死んでから黄泉に行きました。
この黄泉というところがどんなところなのか、これが書かれてあります。
ルカの16章の22節から。
この貧しい人ラザロは死んで、天使たちによって、
遠赤にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。
金持ちも死んで葬られた。
そして、金持ちは黄泉で苛まれながら目を上げると、
遠赤でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとかはるか彼方に見えた。
そこで大声に言った。
父アブラハムよ、私を憐れんでください。
ラザロをよこして指先に水をしたし、私の舌を冷やさせてください。
私はこの炎の中でもだやく苦しんでいます。
黄泉というところでも、炎の中で水一滴がない、
恵み全くない世界で、永遠に苦しめられる。
考えてみてください。
永遠に炎の池の中で水一滴与えられないところで、
暑さの中で苦しみながら、永遠に行きます。
これが黄泉です。
これで最後の裁きの後に地獄に行きます。
皆さん、そこには絶対行ってはいけません。
だから神様が最後の裁きの時期を千年の一日のように待っている。
悔い改めることを待っていらっしゃるということですから、
私たちの愛する方たち、家族の中で、また私たちの知り合いの中で
誰一人地獄に行くようになってはいけません。
天国に連れて行く責任が私たちにあります。
まずは信じている私たちにあります。
誰一人地獄に行ってはいけません。
世の中で物語だとしてもいいです。
ラゼロ物語だったんです。悲惨な人でした。
しかし天国に行きました。楽園に行きました。
だからそれでもいいから、
もちろんそんな人は私たちのモデルケースではないんですけど、
天国には行かなきゃいけない。楽園に行かなきゃいけない。
そのことは是非とも是非とも考えていかなきゃいけません。
2番目、私たちが疑問ということは、
救われた私たちを神の愛から切り離すことはできないと聖書は言っています。
ローマ書8章の38節から読んでいます。
私は確信しています。
死も命も天使も支配する者も、現在の者も未来の者も、
力の者も、高いところにある者も、低いところにいる者も、
他のどんな非常物も、私たちの主、キリスト・イエスによって示された、
神の愛から私たちを引き離すことはできませんと言います。
もちろん正しいんです。しかし油断してはいけません。
救われた私たちを神の愛から引き離すものは世の中にはありません。
しかし一つあります。
何ですか?
罪なんです。
罪を犯したら神様と切り離すことになります。
創世紀3章、創世紀1章、2章でアダムとエバが、
神様から出国されたエデンの園に過ごしながら、
神様が禁じられた罪を犯した時、
エデンの園が亡くなってしまい、
彼らは神様から見捨てられるようになりました。
神様からかけ離れるようになりました。
罪です。
私たちを神の愛から切り離すことはできないとローマ書に言っていますけど、
一つあるんです。これが罪なんです。
だから罪は悟られたらすぐ悔いを改めなければなりません。
悪魔は私たちがこの罪、
罪じゃなければ私たちを神の愛から切り離すことはできないから、
いろいろな方法を通して惑わし、誘惑し、
罪を犯すようにさせます。
また悔い改めなくてもいいと言いながらいろいろ促します。
だから私たちが罪を犯して悔い改めなければ、
私たちはどうなるんですか。
だから悔い改めを熱心にしなければ。
悔い改めは誰が私たちをさせてくださるのか、
精霊様が悟らせてくださる。
罪に対して、義に対して、裁きに対して悟らせてくださいながら、
私たちが悔い改めるように導かれる方が精霊様です。
ぜひとも私たちは罪を犯さない人は誰もいません。
毎日罪を犯します。
もうあなたは見ていると、
暴人だったら罪がないかもしれないけど、
見ていると言うからすでに罪があるよと言っています。
聖書は。
見ることで罪が犯します。
だから私たちは早く早く悔い改めることを、
毎日毎日行うようにしていきましょう。
3番目、大事なのは悔い改め。
悔い改めと関係して一つ共通したいのは、
十字架と共に生きる祝福
悔い改めは私たちが行く道をそこから取り戻して、
これを変えてくることです。
行く道の方法を変えることです。
ところが私たちを悔い改めと言いながら、
よく犯す過ちが何かと言いますと、
悔い改めました、また罪を犯します。
例えば、悪い例ですけど、
私がある人と不倫をして、
こんな言葉を使ってはいけません。僕自身が。
ダメ、ダメ。
悔い改めますと言いながら、
彼女とまだ一緒に暮らしています。
これ、悔い改めありますね。
悔い改めとしたら、不倫の相手は、
この関係を切り捨て、
それから私は正しい道に行かなければ。
分かりますね。
悔い改めは、今やっているこの道を捨てて、
180度変えて、神の方法に行くことが悔い改め。
しかし、大抵私たちは、
悔い改めますと言いながら、
反省して、これをやり続けます。
これは皆さん、悔い改めではないということを、
ぜひ覚えてください。
自分は悔い改めと思いながら、
この道を続けて続けてやっていくなら、
皆さんは天国に行かないかもしれません。
地獄に行っているかもしれません。
だから皆さん、ぜひとも、
これを立ち返ることが大事。
ですから私は、第一要は一生求説、
この聖書が大事だと思います。
自分の罪を公に現すなら、
神は信じてて正しい方ですから、
罪を許し、あらゆる不義から私たちを清めてください。
ここで自分の罪を公に現す。
ここに意味があるのではない。
密かに悔い改める。
誰も見ていないところで、密かに。
だからまあ、
ああ、もう曰くに負けましたと言いながら、
また罪を犯しながら何とか、
こんなことをやめて、
公に私は罪を犯しました。
私はもう罪人でした。
悔い改めますと言って、
公に行ったら、皆さんが公に行くと力ができますよ。
明るくなる力が。
だからそこから立ち返る。
この政治活動をしなきゃいけないんじゃないかと思います。
悔い改めなのか、反省なのか、
気をつけなければいけません。
もう一つ考えていきたいのは、
イエス様の贖いの十字架。
この十字架にものすごいパワーがあります。
ものすごい恵みがあります。
ですから、イエス様の十字架を背負っていくところで、
イエス様は半殺しの状態で鞭を打たれて、
行くところから倒れちゃうんですね。
だからローマのクンペイが、
クレネのシモンという人を、
お前来いと言って、
十字架を彼に負わせられました。
イエス様は歩いて行って、
クレネのシモンがこれを持って、
ゴルゴアダの丘まで行きます。
じゃあ、イエス様の十字架に、
何とか役に立つ働きをした、このような人。
この人はどうなったんでしょう。
このクレネのシモンの、
ローマ書16章13節を見ますと、
シトパウルがルーポースという名前を呼びながら、
ルーポースの母は私の母だと言います。
ルーポースが誰かと言いますと、
シモンの息子なんです。
また、パウルが自分の母親だと言っているこの人は、
シメオンの奥さんなんです。
分かりますね。
シメオンはイエス様の十字架を背負って行きながら、
神様のものすごい大きな恵みと祝福が、
シメオンとシメの家庭に豊かに降り注がれました。
だからルーポースと息子が、
主の宮座によく用いられ、
また奥さんがパウルのお母さんと言われるほど、
よく用いられました。
だからイエス様の十字架に何とか協力者、
同僚者になった人たちは、
神様のものすごい大きな祝福をいただいたことを、
聖書は教えてくださいます。
イエス様の十字架を執行する、
そのすべての場の責任者が、
ローマの百人隊長でした。
彼が何と言うのか、
マルコ中古書39節、
この人は本当に神の子だったと告白します。
彼はどうだったと思いますか。
ローマの百人隊長と言いながら、
イエス様の十字架を掛ける人だとしても、
彼は救われたと思います。
なぜなら信仰告白がしっかりできたから。
またイエス様のお墓が、
十字架が亡くなりた後、
このイエス様の体をお墓に収めた、
ありまたいヨセプ、
またニコデモ、
このような人たちもこの後、
神様から大きく持ち入れられたと信じます。
何を申し上げたいかと言いますと、
イエス様の十字架の肌だき、
イエス様の十字架の福音を述べされる肌だきに
持ち入れられるすべての人が、
神様から祝福される。
触れたとしても祝福される。
そこに応援したとしても祝福される。
道路者として働く人はもっともっと祝福される。
十字架と関係があるすべての肌だきには、
神様の大きな報いと祝福があります。
今週私は皆さんにお願いします。
イエス様の十字架を目指してください。
毎週一週間ずっと、
イエス様の十字架、十字架、十字架、十字架、十字架、十字架、
この目指す人に、
神様の大きな恵みと祝福が豊かに臨むこと、
私は信じます。
十字架を愛する、十字架を背負う、
十字架のイエス様を慕う、
すべてが祝福だらけです。
今週一週間十字架と共に過ごす皆さんになって、
来週はイスターの祝福、
イスターの豊かな恵みと神の栄光に預かる、
私たちになりましょう。
お祈りいたします。
主よ、イエス様、
四旬節を通して、
イエス様を深く受け入れることができて感謝します。
また、イエス様の十字架と関わる、
すべての働きには、
神様の大きな大きな祝福と恵みが豊かに流れ、
十字架に関係があった、
このクレネの人、シモンは、
奥さん、息子、すべての家族が、
神様から大きな祝福に預かって、
聖書に名前が記録されるほど、
祝福の人物になったことを今日学びました。
どうか私たちも、
イエス様の十字架を愛し、
十字架を延べ伝え、
そして大勢の人々と共に、
イエス様の十字架を血の果てにまで福音を伝える、
私たちになって、
神様の大きな祝福に預かる、
私たちにならせてください。
一週間、主が豊かに、
私たちの皆さんの上に、
共にいてください。
イエス様の皆を通してお祈り致します。
アメン。アメン。
34:43

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