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2020-04-05 26:29

2020/04/05:罪人のためのキリストの受難

2020/04/05 聖日礼拝

尹善鎬牧師

イザヤ書 53:5-6


00:01
皆さんおはようございます。今日もこのように、共に集まって、礼拝できますことを感謝いたします。
すみませんが、窓側の方、窓をちょっと開けて下さい。開けて下さい。関節をよくして下さい。お願いします。
今日は、イエス様がカルバリー丘の十字架にかかれるために、エルサレムに入られた。
その時、多くの人々が、シュロの葉っぱを持ってイエス様を歓迎したということから、今日この聖日をシュロのシス、ファームサンデーと言われるところであります。
また、明日から、今日から受難室が始まるわけですけれども、明日から例年のように、1日3回の受難室開会を行う予定でしたけれども、
今のこの事態のこともあります。拡大を避けたために、当店のみ立ちていかれることになっています。
今日、皆さんの守護牧師に、受難室の牧草集をお配りしました。それをもって当店を守りますので、皆さんもぜひ、来れない方々もお家で、朝でも昼でも夜でも、
共に祈っていきたいと思います。今年は特にこのコロナの事態のための課題も毎日かかわれていますので、課題をもって心を合わせて祈りつつ、このような時こそ信仰が強められて、
さらに死を見上げて、また死の前に人間がいかにむろいもので弱いものなのか、無力なものなのかを悟り、偏存であって進んでいきたいなというふうに願っております。
今日は、イエス・キリストの受難、その本質的な意味を主に考えていきたいと思います。
まず、なぜイエス様は十字架で死ななければならなかったのでしょうか。他には人々を救う方法はなかったのでしょうか。
そういう疑問があるかもしれません。特に救助の方々にはね。
その根本的な原因は、神の前に私たちはみな罪人であると聞かれる前に、私たちはみな許されられない罪人です。
03:19
その罪は、神様を信じなかった罪、信じようとしなかった罪、清くなかった罪、唯一の神を神として信じていなかった罪等々あると思います。
もちろん、神様を信じても信じなくても良心的で親切で、本当にいろんな人々のために良いことをする人々もたくさんいると思います。
ところが、聖なる神の前に罪人でない者は一人もいないということを私たちは忘れてはいけない。
ローマ祖という聖書を見ると、そこには救われる前の人は全て神の敵である、罪人であると語られています。
だから、決して聖なる神様と一緒にいることができない人々だったんです。
神の前には誇ることが何もない罪人です。
救われる資格も誇りも栄光もない者たちです。
また、聖書記載の手紙二章を見ると、罪ととがのゆえに死んでいた者だと言われます。
だから、救われる前の人の状態は、まことの希望もまことの将来もまことの命もない者であるということであります。
キリストの従来、その十字架、信仰、救いはここから出発するものなんです。
イエス様の十字架が立てられたカルバリのあの丘に登っていくためには、
イエス様が追われた十字架を、自分の十字架を追ってキリストについていくためには、
この自分の罪を、自分の偽善、堕落、傲慢、穢れを得視して、それに向き合って悔い改める。
06:11
その時、カルバリのあの丘の十字架を見上げることができる小さな恵みが与えられることではないでしょうか。
神様の憐れみ、許し、恵みを放す前に、まず、罪のゆえに堕落して死んでいた私たちのこの悲惨な状態を直視するところから、救いが始まる。
そうする時に、イエス様の十字架、その十字架のうち、それから復活する栄光が圧倒的な恵みとして私たちに迫って、
今年のこのジュナイス、このような世界が大変な日であるゆえに、もっと謙遜に、もっと悔い改めて、唯一の志望であるイエス様の十字架のみを仰ぎ見ていく。
そこで、このジュナイスを特に、私の罪、私の穢れ、私の偽善、私の堕落、私の愛の無さ、私の栄ぶりなどを徹底的に悔い改める一丸を私で作る。
そして、その悔い改めにふさわしい意を結ぶ私たちであると。
では、このように徹底的に堕落していた私たち、敵だった私たち、罪人だった私たち、神を指定していた私たちであったにも変わらず、神様は私たちを生かすことを願っておられた。
神の子供とすることを願っておられた。
御国の民とすることを願っておられたという不思議さが、その理由は何でしょうか。
なぜ神様は私たちを神のことを知ってくださるのでしょうか。
09:06
あるいは、これから知ってくださるのでしょうか。
なぜ私たちを救ってくださるのでしょうか。
なぜこれから救おうとしておられるのでしょうか。
その理由は何でしょうか。
神の愛と憐れみというしかない。
なぜこんなに罪深くて汚れて堕落して自然的で愛のない私を愛してくださったのか。
偽りも生きどおりも、ソネミ、ネタミ、チューショ、トウハシ、さまざまな罪で汚れていたこの私をなぜ愛して救って、なぜ私を愛されたのでしょうか。
なぜ私を救われたのでしょうか。なぜ私を憐れんでくださったのでしょうか。
その理由を全て計り知ることができる。
ただ、一方的に私を愛してくださった。
死ぬべき罪人だったのに、神様が一方的に許してくださった。
それしかわからないんですよね。
これが、イエス様のゴルコザのあの丘の10日話。
罪人であった私。堕落していた私。敵だった私。その罪を、その罪を許すために。
罪の報酬は、死である。
だから、私のすべての罪をイエス様が身代わりに、背負ってくださった。
あの10日の上で、私が支払うべき死の報酬、罪の報酬、その死をイエス様が代わりに支払ってくださった。
あがなってくださった。
私たちが受けるべき物知りも恥も、捨てられることも、すべてイエス様が代わりに受けてくださった。
ということなんですね。
12:03
イエス様は、あの10日、そして10日にやられるあの丘のイエス様は、神にも人にも捨てられたということであります。
イエス様は弟子たちにも捨てられました。
あるいは金曜日に十字架に測られたとしたら、いつか6日前に、あの城の枝を持ってイエス様、幼いと歓迎していたあの群衆たちにも十字架に捨てろ捨てろと群衆たちから、
あるいはイエス様のことを一番、最もよく知って、よく信じるべきだった妻子たち、宗教指導者たちにも、最後には神様の沈黙と言われる神様にも。
だからイエス様の丘は捨てられた、この時代なんですね。
でも皆さん、誰が捨てられるべきだったのでしょうか。
私の一羽、私の五羽、私が神様に捨てられて、私がイエス様に捨てられて、私が精霊様に捨てられるべきだったんですけれども、
それがイエス様が捨てられて、なぜこんなことが私に起きるのか。
神なるイエス様が私の五羽に捨てられるほど、それほど私たちは道徳的良い者なんでしょうか。
決してそうではない。何の値もないものである。
それを分かって、直視して、そして十字架を見上げる時に、本当のキリスの樹なんだ。
この人は神なるイエス様です。
15:00
泥われ、罵られ、恥ずかしめられ、捨てられ、そして水かけ、殺陣されて、死なれ。
そう、死なければならないほどの罪人だった。
そして、この次の問題は、自分にも他の誰かにも解決してもらえない、解決することができないものだったんです。
この理術を知る者は、だからいつも謙遜であります。
だから清く愛します。憐れみます。忍耐強いです。
慈しみの豊かな人に、神の正当に変えられていく。
行けば行くほど、イエス様のように、にゅうわな人に、愛の多い人に、憐れみ豊かな人に、キリスの神聖のものに変えられていくはずです。
また、毎回毎回、悔い改めばかりするのではなく、悔い改めたならば、成長して、変えられて、前に進んでいこうではないでしょうか。
悔い改めの実は成果であり、そのゴールは栄華であります。
キリストが棚を与えて下さい。聖霊様が慰めて助けて下さい。
まずは悔い改めます。そして悔い改めたならば、主が許してくださったことを信じて、前に前に前に進まなくてはならないのです。
そうしないとですね、教会は、クリチャーは、もう悔い改めばかりしていて、その後の変化が、成長が、成果がないならば、それはね、それもおかしい。
健全な進歩ではない。健全な進歩は、まずは悔い改めること。徹底的に悔い改める。
18:02
そして悔い改めたならば、主が許してくださったその憐れみ、恵みにより頼んで、そして前進をすることなんです。
積極的に愛を施すこと、積極的に強く生きること、積極的に主に見る者へと変えられていくこと、すべての思いをはっきりと前に進むことなんです。
それを主が願っておられるんです。
コロサエビテの手紙、一通二字説にこういう言葉があります。
その十字架の支によって平和を作り、御子によって万物を御子のために和解させてくださったからです。
支にあるものも、天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださった。
皆さん、悔い改め、そしてイエス様の十字架は、なぜそこに意味があって価値があるのでしょうか。
それは、敵であった私たち、民と一緒にいることのできない住み人であった私たちと、神様とこの敵対関係をね、
聖なる神様と住み人のこの我々の関係をイエス様が十字架の支によって平和を作り、和解させてくださった。
和解させられた、和解していただいたものは、その神様と親しく歩んでいけばいいのです。
神様を怖がるのではなくて、遠慮するのではなくて、積極的に手を合わせて、
主に行かせまれて、主の御言葉を実践して、身を結ばしていくこと、種をまいていくこと、そのためにイエス様が死んでくださった。
民事の関係もですね、トラブルが起きた、喧嘩をした。
それで仲直りを分かったならば、夫婦の感覚をしましょう。
そしたら、その後はどうしたらいいですか、仲直りを分かちたら。
以前よりもっと開いていけばいいのです。
それが、静粛して天然な生き方、神様との関係も同じ。
このようにイエス様は、私がかかるべき十字架に、
私の代わりに、私が支えられるべき罪の報酬である、死を、呪いを、恥を、桃汁を、イエス様が全部保存して、
21:17
イエス様の十字架の宝をさせてあげてね、仕込みをしてね。
イエス様の十字架の水が、私が他人に命を捨てられた。
これらを通して行く時に、キリストの誠の愛を捨てる。
ごろこが上の十字架のイエス様に行くためには、自分の罪、堕落といった罪を通り抜けなければならない。
ライツ・ヨハネの正神3書16節にこういう言葉があります。
キリストは私たちのために、ご自分の命を捨てになりました。
それによって、私たちに愛がわかったのです。
それによって、私たちに愛がわかったのです。
ですから、私たちは、兄弟のために命を捨てるべき。
どういう意味でしょうか。
キリストの柔軟がわかる。
自分の罪を即つして悔やらざめたと。
そして悔やらざめた者は、その罪が十字架の死によって抗われて許されたことがわかった人。
ああ、イエス様が私のために、ご自分の命を捨てになった。
それを信じてわかった人には、キリストの愛が、神の愛がわかってくるんです。
そして、そのキリストの十字架の愛が、どれくらい大きな犠牲の愛なのか、わかったから。
そして、兄弟のために命を捨てる。
妻のために、子供のために、兄弟妻のために。
これが、キリスト柔軟の本当の意味なんです。
ああ、許された。人に許された。ああ、万歳。
それで終わりじゃないんです。
24:05
私に愛がわかったのです、という言葉。大事なんです。
キリストの愛がわかった。神の愛がわかった。
これがどんなに大きな大きな愛なのか。
わかったならば、強く生きる。
今日のメッセージ、真っ先からのメッセージ、もっと密告をするつもりにしておりますが、最後になります。
過去との愛は、まず自分自身が死ななければならない。
自我に死ななければならない。
自分自身が捨てられなければならない。
自我に死んで、キリストが生きること。
これがジュナスのゴールなんです。
自我に死んでください。
自分自身を打ち砕いて、キリストに救済をさせてください。
私の堕落、私の偽善、私の妬み、私の中傷、私の偽り、私の怒り、私の憎しみ。
その罪を徹底的に待つ。
悔やかめのある者には、キリストの十字架の恵みが、その人のものになる。
しかし、悔やかめなしには、十字架の恵みは、すべて悔やかめて、悔やかめならば、それにふさわしい。
これが運命です。
自我に死んで、キリストが生きる。
その道を歩んで行こうではないでしょうか。
そのような、この日を祈る、ジュナスを祈る。
自我に死んで、キリストが生きて、歩んで行こうではないでしょうか。
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