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2024-02-11 21:20

「キリスト者の死について」2024年2月11日(日)のメッセージ

東京ぶどうの木教会 2024年2月11日(日)主日礼拝のメッセージです。

牧師:アブラハム黄 ▼教会へのお問い合わせ:tokyo.vine.church@gmail.com ▼メッセージの自動文字起こしはこちら https://listen.style/p/tokyovinechurch/ (聖書) ヨハネ14:1-3心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。2. わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。3.行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。

メッセージ題 キリスト者の死について (ヨハネ14:1-3)

*昨日、教会の清本さんが天に召されました。長く闘病生活をされたので、非常に疲れていました。キリスト者の死について、私たちはどう思うべきでしょう! *信仰がある人も、ない人も人間は永遠に生きる存在です。なぜなら、人間は神様の御姿で創られたからです。その意味は神様が死なないように、人間も死なないということです。では、この世での死はどんな意味があるのか。

1.人間の死は、何を意味しますか?

*Ⅰテサロニケ5:23人間は体と霊と魂を持つ存在と言います。それは霊魂を持って体の中で生きる存在です。元々は永遠に生きるようになっていますが、創世記3章の罪による呪いで、創世記3:19死を避けることができない存在になりました。 *死というのは、腐らない霊魂と腐るべき体が分離される過程です。では、その後は?ヘブライ9:27裁きがあり、天国と地獄に行きます。

*ところが、人間は自分の力で罪を犯さないことができないので、皆、地獄に行くことを憐れんで?ヨハネ3:16イエス・キリストを送ってくださって、十字架で血を流され贖いの死を担ってくださいました。そしてヨハネ1:12 *大事なのは、私たちが罪を犯すのか犯さないのかが裁きの基準ではなく、イエス・キリストを救い主と受け入れ、その十字架の功労に委ねるのか否かが基準に

#ここで、自分の力で救われる為には、生涯一度も心と考えから、口から行動で罪を犯さないことが必要ですが、誰もできないということ。ただイエス・キリストの恵みに委ねる人だけが救われます!

2.では、キリスト者の死は、どんな意味があるのでしょう?

*キリスト者は死ぬこと自体が祝福です。 なぜなら、

1)この世のすべての苦労を終えたからです。元々人間は神の代理者、この世の管理する者と創造されましたが、創世記3章以来、人間は?ヨブ記5:7人は苦労の為に生まれた?と言われるほど苦難が多いです。創世記3:19。しかしキリスト者の死は、罪によって呪いの中にいるこの世の鎖を脱ぐ過程です。この世には生まれる、病む、年取る、死ぬ、その中で痛みと苦しみがありますが、死ぬキリスト者は、この世の呪い苦しみが終わります。これからは天国で神様の懐で平安と安息を味わうことだけがあります。黙示録21:4、ルカ16:25で説明してくれます。Ⅱコリント12:4パウロはどんな話を聞いたでしょう?天国で神様の慰めと安息に預かるとき、この世で担った苦しみ、痛み、悲しみはすべて忘れ、終えるのです

2)これから無限な安息に預かるようになります。この世でも幸せと平安がありますが、天国の平安とは比べられません。平安の中で深い悩みと心配が?また天国にはサタンと悪霊がいません。誘惑し苦しめる者がないので真の平安があります。

3)これを与える為にイエス様が十字架を背負ってくださいました。ヨハネ14:1-3私たちの為に居場所を準備され再び来られると!再臨の希望が#ここで天国と地獄. 楽園と黄泉?それは同じ意味ですが、イエス様の再臨、裁きの前と後に@永遠な世界を考えながら、キリスト者に、ヨハネ6:27朽ちる食べ物ではなく永遠の命に至る食べもののために働きなさい。

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今日は、「キリスト者の死について」という対応を持って、メッセージを分かち合いたいと思います。
信仰があっても、信仰がなくても、人間は永遠に生きる存在です。
創世紀1章27節に、神様はこう言われました。 私たちに偏り、私たちに似せて人間を作ろう。
人間を壇上で作ろうと言われます。 神の見姿で作られた人間、その意味は何でしょう。
神様は死にません。死なないお方です。 ですから同じように人間も死にません。
ですから大事なのは、人間が死ぬということは、本当に死ぬことなんでしょうか。
そうではないということです。 では人間が死ぬということは何を意味するのか、ということを一緒に考えていきたいと思います。
第1テソロニケ5章23節は、人間は体と霊と根、精神的な部分、それによって作られたものだと言います。
言葉を変えれば、霊根を持って体の中で生きる存在です。
もともと人間は永遠に生きるように設計されていたのですが、
創世紀3章で罪を犯してから、3章19節に、 地理に過ぎないお前は地理に変えるということです。
これは人間は死ぬしかない存在として変わりました。 人間が死ぬようになったということは、罪のゆえです。
ですから、死ぬということは、永遠に生きる霊根と、 罪によって見解を持っている体が分離される過程です。
では死んだ後はどうなるのか。 体は土に戻ります。
地理に過ぎないお前は地理に変えるということ。 ですから体は土、地理に変わります。
しかし霊根はヘブライ書9章27節に、 裁きを受けて、そして天国とか地獄に行くようになります。
しかし人間は自分の力で罪を犯さないこともできなく、 それで結局地獄に行くしかない弱い存在だから、
神様は人間を哀れにしてくださって、 イエス・キリストをこの世に贈ってくださり、
人間の罪と過ちを仇なうために、十字架で苦難を受けられ、 地を流してくださいました。
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そして聖書は、その皆を呼び求める人は救われると言います。
霊根1章12節、しかし言葉は自分を受け入れた人、 その名を信じる人々には神の子となる資格を与えたと言います。
ここから見てますと、私たちが罪を犯すか犯さないかが大事ではなく、 イエス・キリストを自分の救い主として信じて受け入れ、
悔い改めるかによって、 救われるのか救われないのかが決められるようになりました。
まとめてみますと、人間の死ということは、 身体の限界を脱ぎ捨てる過程です。
人間の霊根は永遠に生きるんですけど、 その後、
永遠に地獄で生きるか、天国で生きるか、それは、 ただイエス・キリストを信じて受け入れて、イエス・キリストの内にいるのか、
イエス・キリストに直されているのか、 そこに関わるということです。
イエス様を信じる者は、ローマ書6章5節、 イエス様が復活されたように、その人も
永遠の命の復活として生きるようになります。 ですから、イエス様を受け入れるか、まだ信じない、受け入れない、まだ信じない人は、
自分の力で罪を犯さない、まだ自分の力で救いを 成し遂げなきゃいけないんですけど、それは不可能だから、
結局、地獄の刑罰を受けるしかありません。 ここで皆さん、私たちが自分の良い行いによって救いを得るためには、
私たちの考えと言葉と行動で、一度も罪を犯さない、 犯してはいけないんですけど、それができる人は誰もいません。
またそのように、自分の良い行いによって救いを得ようとする人は、 神の一人子まで犠牲されて、私たちに救いの道を開いてくださったのに、
その恵みを受け入れない、 それがまさに神様に対する傲慢です。
自分の力で救いが得られるという信じる傲慢、 これが問題です。
ですから神様は、傲慢な人を裁かれ、 謙遜な人に恵みを与えてくださいます。
それをもって三乗の推訓では、心貧しい人、 悲しむ人、気に飢え渇く人、その人が天国にふさわしいと言われます。
清本さんは、イエス様を信じました。 また、いつもイエス様を賛美するお方でした。
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ですから教会としては、その方は救われたと 私たちは信じています。
ではキリスト社の死は何を意味するのでしょう。 キリストの中で死ぬ人は、死ぬごと自体が祝福です。
なぜなら、キリストの内で死ぬ方は、 この世の中のすべての苦労、
苦しみをすべて終えたからです。 もともと人間は神の代理者として、
要は管理する者として創造されたのですが、 創世紀三暁の事件、罪を犯してからの人間は、
予布義五章七節で、こう表現します。 これは素晴らしい表現です。
人は苦しみのために生まれた。 予布はこう言うんですね。
そうです。人間は苦難が多くあります。 この罪による苦難、これは創世紀三章十九節、もう一度読んでみましょう。
お前は顔に汗を流してパンを得る。 パンを食べるためには顔に汗を流しなければならない。
これはもうまさに人類は苦労しなければ食べられないということです。
また、塵に過ぎないお前は塵に帰れ。 だから人間は精一杯頑張って食べるために生きて、
それで最後は塵に帰る。死で終わる。 虚しい存在です。
しかし、信じる人の死は違います。
罪による呪いの中にいる、この世の中の苦しみの鎖を脱ぎ捨てる過程です。
この世には生まれること、病気になること、年取ること、死ぬこと、
このすべてが痛みであり苦しみがありますけど、キリストのうちで死ぬ人は、このすべての苦しみを終えました。
これからは神の国で、イエス様の懐で、永遠の安息を味わうことだけがその人に与えられます。
神様は天国に入られた神徒たちに、目白21章4節にこう言います。
彼らの目の涙をことことく拭い取ってくださる。 もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも苦労もない。
そうです。私たちはこの世を去って、それで入る天国は、死もなく、悲しみも嘆きも苦労もない世界が天国です。
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ルカの16章で金持ちとラザロの例えで、それでラザロが死んだ時も同じような証を教えてくださいます。
ルカの16章25節に、アブラハムがこう言います。
声を思い出してみるが良い。 金持ちであるお前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。
今はここで彼は慰められ、お前はもたえ苦しむのだと言います。 神様から慰め、神様からのこの褒められる見言葉によって、
私たちが天国で慰めと安息を味わう時に、この世で苦しめられたすべての痛み、悲しみ、苦労は忘れるようになるでしょう。
私はこの忘れるという言葉で、シト・パウルが第25輪と12章4節で体験したことを紹介したいと思います。
シト・パウルは、楽園まで引き上げられ、人が口にすることを許されない、言い表せない言葉を耳にしましたと言います。
パウルは第3の天、それが天国ではないかと思いますけど、楽園ではないかと思いますけど、その中に入った時、人が口にすることができない、
言い表すことができない、世の中の言葉で表現ができない素晴らしい光景を見てきたんです。
天国に行って、素晴らしい言葉、幸せの言葉、愛の言葉、慰めの言葉を聞いて、それから彼は大変な大きな慰めと力をいただいた。
私は天国で神の見声を聞いたら、私たちのすべての病気は癒され、私たちは生き返ることができると思います。
清本さんは今、シト・パウルが体験したその第3の天、これは楽園、天国に入るようになりました。
この世では、体の痛みによってすごく苦労されたんですけど、そこは痛みもない、涙もない、そこは永遠な安息があるところです。
ユダヤ人が人と人と出会ったらシャロムと言います。シャロムは平安という意味なんですけど、この世では変えられない、
天国の平安、神様が与えてくださる平安を意味します。
そのシャロムをキリスト社たちはこの世で少し味わうことができるんですけど、それは天国に行っては完全に味わうことができます。
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皆さん、この世でお金がたくさんあって幸せだと思っている人も、心の中で不安、焦り、悩みは絶えないです。
しかし神の国、天国ではそんなことはない、この本当の平安を味わいます。
皆さん、私は休むとしても、いつも次の週のメッセージは何をしようかな、家族に対する心配、教会に対する心配がいつもついているので、私が休むのは休むことではありません。
頭はいつも何かを考えています。今週何をしようかな、教会の家族誰が何を今悩んでいらっしゃるかな、いろいろなことで悩むので、
まことの安息ということはないんですけど、天国はそんなことはないところ、完全なシャロム、平安を味わうことができます。
また天国では私たちを苦しめ、誘惑して罪を落とし入れた悪魔サタン、また悪霊がいないところです。
私たちを誘惑して苦しみを落とし入れる奴がいないところだから、そこにたけまことの安息があります。
それはキリストの家で、神の国の中で味わうことができるんですけど、清本さんは今そこに入っておられるところです。
多分言葉で言い表せない、安息と祝福に預かっておられるでしょう。
それを与えるためにイエス様が私たちのために十字架を背負ってくださいました。十字架の前でイエス様弟子たちにこう言われます。
要はね、中四章一節から三節です。心を騒がせるな。神を信じなさい。そして私をも信じなさい。
私の父の家には住むところがたくさんある。もしなければ、あなた方のために場所を用意して行っていたでしょう。
行ってあなた方のために場所を用意したら、戻ってきてあなた方を私のもとに迎える。
こうして私のいるところにあなた共いるであろうと言われます。
皆さん、イエス様は信じる私たちのために天国で居場所を準備するために天に登られ、また再び来られて私たちを連れて行かれると言います。
要するに、イエス様は信じる私たちにはイエス様が準備された天国で家があるということです。
清本さんは、新大久保の古くて臭い賃貸の一席で、そこでずっと過ごされました。
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しかし今は、イエス様が備えられた天国の宝石で作られた素晴らしいお家に入居されました。
そこに入るために、限界を持っている身体を脱ぐ作業、それがすなわち死という過程を担っただけです。
これからは永遠にその家で愛するイエス様と一緒に過ごされるでしょう。
ですからキリスト社の死は、これは一言で祝福と言われるべきです。
清本さんはこの世で非常に痛み、いつも鎮痛剤を飲んでいました。
その苦労すべてを得て、安息と永遠の祝福の中で生きるために、イエス様が備えられた素晴らしい天国、楽園に入られました。
ここで一つ一つ皆さんに共有したいことは、天国と地獄と楽園と黄泉ということは何が違うんでしょうか。
イエス様が再臨なさって、最後の裁きを受ける前に死んだ人が行くところが楽園と黄泉です。
楽園は信じる人、黄泉は信じない人、しかしイエス様が怒られて裁きを受けなさった後、それはそのまま天国と地獄に移されましたが、
聖書は天国と楽園は同じところ、地獄と黄泉は同じところだと言われています。
これから私たちも永遠な天国に入る希望を持って、私たちに与えられた主の御業を熱心になっていきたいと思います。
そのように永遠に生きる人生を考えながら、イエス様は私たちにこう言われました。
ヨハネ6章27節
朽ちる食べ物のためにではなく、いつまでも亡くならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。
これこそ人の子があなた方に与える食べ物であろうと言います。
朽ちる食べ物、この世であってしばらくあって亡くなってしまうそのことのために働くことをやめなさい。
この世で朽ちるもののために働くということは、食べて生きるための生活人としての人生です。
そうではなく、朽ちない、永遠に続けるその食べ物のために働くということは、神の栄光のために生きる、礼拝者、使命人として生きることです。
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ここでメッセージを終わりたいと思います。
清本さんは前々から健康でいろいろなトラブルがありました。
病院に入院、退院を繰り返し、手術を繰り返しながら、すごく痛い中で、主の教会を愛して、私たちにいろいろな長言をしてくださり、
特に賛美の働き、また教会の恩教施設備の管理をなさってくださって、教会のためにたくさんの働きをしてくださいました。
しかし健康が許されなくて、このように天国に行かれるようになりました。
この世から亡くなられたのは悲しいことですが、イエス様のうちで、信仰によって亡くなられたので、それは祝福です。
天国、楽園に先に行かれた清本さんを祝福してあげ、残された後遺族のために祈る私たちになりましょう。
また私たちも天国に行って、再び清本さんに出会って、永遠な祝福の中で生きるために、いつもイエス様のうちに留まる、また信仰をしっかり保つ私たちになりたいと思います。
今日、あいにく教会学校のメッセージは、まさに私たちと同じようなメッセージをされましたので、教会学校の暗証成功、これは素晴らしいです。
要は、中一章二十五節です。
私はよみがえりです。命です。私を信じる者は、死んでも生きるのです。と言われました。
アメン。
イエス様は命です。よみがえりです。
イエス様を信じる者は、死んでも生きる。まさにそのことが今清本さんが体験されたのではないかと思います。
私たちもその御言葉に預かるために信仰を持っていきましょう。
この百年のこの世の中で夢中になって、これが全てだと思ったら大間違いです。
永遠に生きる、本当に賢い私たちになりたいと思います。
お祈り出します。
主よ、清本さんが天に召されることをきっかけで、キリストシャーの死について分かち合いました。
死ぬということは、まごとの祝福に入る道であることを分かりました。
イエス・キリストによって大きな大きな希望を与えてくださってありがとうございます。
この世で終わりではなく、私たちはこの後にもっと大きな希望、それが私たちにあることを感謝します。
私たちもこの世で私たちの役目を果たして天国に行って、そして清本さんに出会い、ゆうこさんに出会い、
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本当に幸せを天国で味わうことができるように、私たちを恵みで守ってください。
イエス様の皆を通してお祈り出します。
アーメン、アーメン。
21:20

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