2022-10-30 25:13

#130 底辺から頂点へ 22/10/30

ピリピ2:9-11からの礼拝説教。(聖書朗読は2:5-11) 2022年10月30日録音。十字架は罪人への愛と神への従順の究極の極みです。しかしそれは、天の頂きから底辺へと下る行為でした。けれども、そこから逆転するように、神様はイエス様に最高位を授けられたというのです。今日はそのことを述べた2:9-11からイエス様の偉大さを取り上げます。その上で今を生きる私たちに希望と活力が与えられることを願いつつ、1.汚名から名誉へ、2.あざけりから恐れと敬意へ、3.キリストから父なる神様への3つの点から学びましょう。


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それでは、お読みします。
フィリピ人への手紙、2章5節から11節をお読みします。
キリストイエスの内にあるこの思いを、あなた方の間でも抱きなさい。
キリストは神の見姿であられるのに、神としての在り方を捨てられないとは考えず、ご自分を虚しくして、下辺の姿をとり、人間と同じようになられました。
人としての姿をもって現れ、自ら低くして死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
それゆえ、神はこの肩を高く挙げて、すべての名に勝る名を与えられました。
それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての下がイエス・キリストは主ですと告白して、父なる神に栄光を期するためです。
以上です。今日はこのところから、底辺から頂点へと題して、見言葉を取り継ぎます。
皆様、おはようございます。
早いもので、10月も最後の日曜日になりました。
先週は、あと10週間で今年が終わるという、大晦日と言うんですけども、あと9週間でですね、大晦日を迎えてしまうわけですから。
その7話ですけども、ピリピの2章の、今日はですね、長く読みましたが、後半の9節から11節を元に学びます。
先週もお話ししましたが、これはイエス様のことを歌った賛美歌ではないかと言って、今読んだところが一つのまとまりとして挙げられています。
一番最初の方に見ていれば大丈夫よ。
そう、そこから。
そうです、そうです。
あとそれ、持って帰ってお家で読んでも大丈夫ですし、お話聞いてこれ見ていれば大体わかりますのでね。
この先週見た5節から8節において、パウロは、ピリピや今の教会に集う人々の態度や心構えの模範、
あなた方は減り下って、互いに人を自分よりも優れたもの、他の人の必要を大事にしなさいという、その心構えの模範としてイエス様を紹介しました。
神なのに地に下られたお方、そしてしもべになって、それだけではなくて十字架にかかられた、それは神様の愛の究極のお姿であった。
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そのイエス様は神が人となって地に下られて身分を低くした。
そしてもっと低くしてしもべ、奴隷の態度で使えられた。
しかも、あとでも言いますが不名誉な十字架で死なれた。
この従順の極みである十字架、それはまた罪人である私たちへの愛の大きな証でもあったんですね。
このようにイエス様はまさに天の頂から底辺へと下られたという、そういう様子が先週の歌唱では見て取れたわけです。
しかしですね、今日の主点は逆転するように神様はイエス様を最高の地位に置かれた。
そのことが今日のテーマです。
そしてそこから私たちはイエス様の偉大さをもう一度改めて知って、
私たちがこの世を生きる希望になったり、神を礼拝する動機になる。
そんなことをですね、3つのことを通して学んでいきましょう。
一番最初、お名から名誉へ。十字架から皇居という流れです。
この9節を読める方は読んでみましょう。
それゆえ神はこの方を高くあげて、すべての名に勝る名を与えられました。
それゆえというのはイエス様の十字架までを受けてですが、
この方イエス様を高くあげてというのは、イエス様の復活と昇天、天に昇られたそのことを指しています。
そして復活のイエス様は天の座につけられたと今言われておられますけれども、
これを難しい言葉ですが、皇居、高くあげられる。
そういうキリスト教の専門用語で言うんです。
だからキリストの皇居という言葉をぜひ覚えてください。
イエス様が天にあげられて、御座に座しておられる様子を皇居と言います。
そしてイエス様はこの神様に従い尽くした結果、十字架につかれました。
その十字架というのは、御自分を虚しくして、そして降り下られた、最終的に行き着いた場所がこの十字架だったわけです。
先ほども言いましたが、この十字架は確かに私たちへの愛の証ですね。
けれどもこの十字架は最も不名誉な死に様だったんですね。
先週証した通りです。
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この十字架のように晒される不名誉。
日本の事態劇でも、処刑された人が晒されるという見せしめになる。
多くの人が囲んで噂したりですね、誤解が配られたりという、まさに犯罪人として不名誉を被るわけです。
それは十字架でもあったわけです。
しかし、この御言葉が教えているのは、神様がイエス様の名誉を回復してくださったということなんですね。
この全ての何勝る名を与えたというのが、イエス様がですね、高く挙げられて、全ての何勝る名を与えられたというのが、この名誉の回復を表しているわけです。
皆さん、このね、名誉、お名、そして名誉挽回。
いずれの言葉にも名前という漢字が使われていますよね。
名は体を表すと言われていますけれども、ある辞書では名という言葉を調べたら、こういうふうに定義されているんです。
名前とはですね、名とはですね、そのものの特徴などをそのまま表すものとして付けられるもの、そして何かの理由で世間に知られているものを名という言葉で指すんです。
だからイエス様は犯罪人という名を不名誉なこの理由で世間に十字架の上で知らされてしまったというわけですね。
しかし、すべての成り勝る名を与えられたというのはですね、イエス様は神様によって最高の名誉を授けられた。
最高位に挙げられたということなのわけです。
そのことをもう少し詳しく見ていきます。2番目。
あざけりから恐れと敬意へ。すべてのものが膝をかがめる。
2章10節読めるかと読んでみましょう。
それはイエスの名によって天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめるため。
この膝をかがめるとは、相手の敬意を認めてひざまずく行為ですね。
しかしですね、皆さんイエス様のジョナを覚えていますか?
イエス様を処刑した兵士たちはイエス様をあざけて、イエス様に対してユダヤ人の王様ばんざーいと言ってですね、からかって足の棒でイエス様の頭を叩いたり、
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そしてユダヤ人の王様ばんざーいと言ってふざけてイエス様の前にひざまずいたわけです。
そうやって苦しむイエス様を一層恥かしめたわけですよね。
そしてイエス様は十字架のように力を引き取られました。
けれども神様によってイエス様はよみがえらされて、そして天にあげられて、膝につかれたということが今日書かれているわけです。
そしてさらにここで言っていることはですね、やがて時が来ればすべてのものがイエス様の絶対的権威の前にひざまずかざるを得ない日が来るんだということをここで言っているわけです。
ここのですね、十節の後半の天、地、地の下という言葉に関して説明しますけれども、天にあるものというのは神様の見つかいや悪魔を含むすべての霊的な存在を指すそうです。
地の上にあるものというのはイエス様が再臨した時でしょうか、その時が来た時に文字通り地の上に生きているすべての人たち。
そしてこのパウロの言葉にはですね、こういう含みもあるんです。
パウロやフィリピンの人たちを含めクリスチャンを迫害している権威者たち、その人たちも地の上のものとしてイエス様に膝まずかざるを得ない時が来る。
そして地の下にあるものとはイエス様が再臨される時でしょうか、その時に死んで地の下に下った存在でさえもイエス様の前に膝まずかざるを得ないということを指すわけです。
繰り返しになりますがその時はまだ訪れていません。
でもその時にはイエス様をあざけていた人々、あるいはですね、イエス様を神と認めなかった人々でさえも膝まずかざるを得ないほどはっきりとイエス様が神であられること、そのイエス様の権威が表されるということです。
その時のことを預言者イザヤはこのように旧約聖書で述べているんですね。前にもあります。
地の果てのすべての者よ、私を仰ぎみて救われよ。私が神だ。他にはいない。すべての膝は私に向かってかがめられ。すべての舌は近い。私について、ただ主にだけ正義と力があるという。
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最後だけ読みましょう。主に向かって行き立つ者は皆、主のもとに来て恥を見る。
後でも出てきますが、この主というのはヤハウェという、誠の神様だけに使われる特別な主という言葉ですが、実はパウルはそのことを今日の御言葉にも重ね合わせて、やがてイエス様の前にすべての人が誠の神だということを認めて膝まずき、またある者は恥を見ると伝えているわけなんです。
最後、そのような大逆転が起こるんですね。あざけて膝をかがめていた人たちが、本当の恐れと敬意を持って膝をかがめる日が来るんだ。最後、キリストから父なる神様へ、父なる神に栄光を。
そしてその終わりの日、2章11節でこう予告されています。読んでみましょう。3、すべての人がイエス・キリストは主ですと告白して、父なる神に栄光を期するためです。
ここではですね、ちょっと後でも出てきますが、難しく微妙なことが示唆されている、言われているわけです。ここで言っていることはですね、イエス様は先ほども言いましたね、この主にだけと言われている、この誠の主、創造の主に与えられるこの賞賛がイエス様に与えられると2章11節で書かれているわけですが、
そのようにイエス様は主なる神としての権威を公挙して授かった。でもですね、ここで微妙なのは、しかしたとえイエス様が主なる神であると告白されても、すべての栄光は父なる神様に捧げられるということ。
イエス様も神ご自身を通して父なる神に栄光を捧げているということが述べられているんです。だって、冷静に読んでみてください。すべての人が、すべての人が、まあこれちょっと余談ですけど、これはこの時はこれは誠の神を信じているクリシャンだろうと言われているんですけど、すべての人がイエスキリストは主です、誠の神ですと告白したら、
普通の流れだったら、イエスキリストに栄光は帰されるって言うのでしょう。なのに、すべての人がイエスキリストは主ですと告白して、父なる神に栄光を帰すると書いてあるんです。こういう細かいところ、やっぱり聖書を区別しているのを読んだ方がいいと言われているんですけど、どういうことか、ちょっと三密体について少しだけ触れておきます。
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よく私たちが教会で信じているのは、父なる神様も神の御子イエス様も誠の神であると信じていますよね。
イエス様ももちろん主なる神様であられますが、父なる神様とイエス様を区別して信じることをパウロは何の違和感もなく受け入れているんです。その証拠に第一コリント8章6節にこういうふうにパウロは言っているんですよ。ちょっと長いですけど、ゆっくり読んでみましょうか。
私たちには父なる唯一の神がおられるだけで、この神からすべてのものは発し、この神に私たちは至るからです。
また、唯一の主なるイエスキリストがおられるだけで、この主によってすべてのものは存在し、この主によって私たちも存在するからです。
こうやって父なる神と子なる神であるイエス様を区別してパウロは言っています。唯一の神、父なる神、その神様はすべてのものの根源であり、すべてのものがそこに向かって作られていると言っています。
一方、イエス様は唯一の主なる神だ。だけどそのイエスキリストが唯一の神でおられるだけだと言っています。この主イエス様は何かというと、やはりイエス様によってすべてのものが存在し、この主によって私たちも存在するからですと言っています。
あえて言うと、こういうところをカルトは指摘して、三民一体なんてないでしょと言うんです。
でもパウロはこれを何の矛盾なく唯一信教、唯一信仰のパウロです。ユダヤ教からクリスチャン、これをさらっと告白しているんです。
じゃあ私たちどうするかというと、実は私たちもそのような信仰に習うべきなんです。どういうことかというと、その父と御子がどう区別されるのか、一人の神でありながら、父なる神と子なる神が存在するのはどういうことなのか、実はそれを突き詰めるのは限界のある私たちには不可能なんです。
ですからその限界を受け入れるんです。これは私たち知り得ない深淵な真理なんだ、パウロもそれを矛盾なく受け入れて、そしてそれをさらっと告白しているんだということを受け入れていく。
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その上で私たちはパウロの信仰に習って、父なる神様、子なる神様に信頼していくと言うんですね。
もう少し詳しく知りたい方は質問していただければ、もう少し詳しくお話しますけれども、とりあえずそのように捉えていただければと思います。
その上でパウロが言っているイエス・キリストを父と告白して、父なる神に栄光を期すということを見ていきますけれども、
実はイエス様自身も地上の生涯を生んだ時に、自分を通して父なる神様に栄光をお捧げするんだということをはっきりと告白している箇所があるんですね。
例えば、ヨハネ8章54節を読んでみましょう。
3.私がもし自分自身に栄光を期するなら、私の栄光は虚しい。私に栄光を与える方は私の父です。
もちろんイエス様にも栄光が与えられますけれども、イエス様自身は自分に栄光を期すことはしないと言っているんです。
どういうことか。ヨハネ17章4節でイエス様がこれを言っています。
3.私が行うようにとあなたが与えてくださった技を成し遂げて、私は地上であなたの栄光を表しました。
ちょっと4枚説明すればよかったんですが、これはイエス様が地上で父なる神様にお祈りしている中での言葉です。
イエス様のこの地上の生涯での一つの使命というか目指したことは、この地上で他でもない父なる神様の栄光を表すことだったと言います。
このようにイエス様の地上の生涯は父なる神様の栄光を表すためだったとイエス様自身がこう教えているわけです。
ですからそのようなイエス様自身が語られた言葉を基にしても、このパウロが言う、
すべての下がイエスキリストは主ですと告白して、父なる神に栄光を期するということが起こり得るということなんですね。
ではさらにどう考えていけばよいのでしょうか。
私たちはイエス様がおられるからこそ、罪が許され神様を知ることができるようになりました。
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この身に見えない神様、人間が知ることができない、触れることができない神様を私たちに表して、
その愛を示すために神が人となって、このイエスとなったイエス様がこの地に下って十字架で死んでくださった。
そのイエス様を私たちが神様と信じるときに、
実は他でもない私たちはそのイエス様が栄光を捧げるべく、父なる神様に栄光を捧げることになるんですね。
そして私たちがこの礼拝において、祈りにおいてこのイエス様を覚えるときに、
実は私たちはそのイエス様を通して、目に見えない父なる神様にこの栄光をお捧げしている。
そのように私たちは信じることができるわけです。
目に見えない神様を私たちがはっきりと知ることができない、それをでも知るためにイエス様が人となって、私たちと神様との間を取りなしてくださった。
じゃあイエス様は神ではないのか?そうではなくて、イエス様はご自身も父なる神であられた。
そしてそれを父なる神様がそのように認めたというか、そういうお方としてここでパウロは紹介しているわけなんですね。
このようなイエス様を通して父なる神様に栄光を捧げるということを私たちも信じながら、
私たちも精霊の助けによって神様に仕え、人に仕えて、この神様に仕えて、
イエス様のように神の栄光をあらわす者としてこの地上の生涯で成長させていただく。
それが目指すめき道だとパウロも聖書も教えているわけです。
それでは最後にフィリピンの2章9011節をお読みして終わりにしましょう。
それゆえ神はこの方を高くあげて全ての名に勝る名を与えられました。
それはイエスの名によって天にある者、地にある者、地の下にある者の全てが膝をかがめ、
全ての下がイエス・キリストは主ですと告白して、父なる神に栄光を期するためです。
お祈りしましょう。
天の神様、皆を賛美いたします。
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十字架でご自分を捧げられたイエス様、そのイエス様の生き様を私たちは
自分の生き様として、またそのようなイエス様のしもべとしての心遣いを私自身の心遣いとしてこの地を歩んでいくことができるように導いてください。
どうぞ弱い私たちをご精霊様が命を与え、そのイエス様の道に歩めるよう導いてください。
また、イエス様があなたに栄光を表したように、私たち自身も自分の虚しい栄光を誇るのではなく、私たちを通してイエス様があがめられ、
父なる神様に栄光が捧げられますよう、どうか私たちを持ち養ってください。導いてください。
この願いと感謝を私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン
それではしばらく神様に応えて祈る時間を持ちましょう。
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