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今日は、なぜ正しい信仰を共通するのか、それは勝利の教会のためだということを皆さんと申し上げたいと思います。
教会は新年の初めからずっと私たちのビジョントリップを行っているんですけど、そのビジョントリップが目指していることは正しい信仰です。
正しい信仰、それを理解するのに、十字架の福音は非常に私たちに大きな知恵を与えてくださいます。
私たちがなぜ正しい信仰をしなければいけないんですか。 正しい信仰に神様が来られます。
そうするとき、そこに命があり、そこに精霊の働きがあるからです。
偽りの信仰をいくら熱心に行うんだとしても、何にもありません。 熱心に信仰生活をするように見えるんですけど、
神様に出会うこともできなく、ご臨在もありません。命もありません。 その信仰は、ただ熱心にやっている自己満足、
また宗教的な熱心を周りから褒めてくれる、それを認めてもらいたい、そのような信仰でしょうか。
なぜそんな信仰をするんですか。 ですから、大勢の人が教会に来て、
また教会から離れている傾向であります。 そうしながら、教会に行ってみた、
神様を信じてみた、何もなかったという人も大勢います。 本当でしょうか。
そのような私たちの信仰、その姿を神様がどれほど気の毒だと思っておられるでしょう。
正しい信仰は何でしょうか。 正しい信仰は、まず信仰の器がしっかりできていかなきゃいけない。
ただ恵み、ただ精霊、ただ十字架、ただ信仰、ただ見言葉、これを今私たちが詳しく一つ一つ学んでいるところであります。
その器を作って、その器の中で中身が信仰の本質です。 神を知り、神を愛することを求める。
そして信仰の方法としては、神様との親しい交わりの中で、神の御声を聞き従おうとする、そのような信仰生活です。
そのような信仰生活するとき、神のご臨在、命、また精霊が働いて、信仰の本当の味をわかるようになるのです。
さて、イエス様は十字架を背負う前、弟子たちをどのようにされたのかが、ヨワネ13章1節に書かれてあります。
イエスはこの世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、その上なく愛し抜かれたと書かれてあります。
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イエス様はご自分が招かれ、3年半ずっと一緒に生活した弟子たちを、本当にこの上なく愛し抜かれたと言われるほど、弟子たちを愛されたのです。
その弟子たちを残して、これから十字架、復活、聖典のキリストの御業を完成するために、
イエス様はこの残された弟子たちのためにお祈りする場面が、今日少し読んでくださったのですが、
ヨワネ17章の内容です。この祈りをイエス様の大最初としての祈りだと言います。
このように残されていく弟子たち、この弟子たちをどれほど愛されたのか、その弟子たちによって、神様立派な教会を建ててくださいという祈りを、
神様に頼むとりなし祈りをされるのです。
その教会が、今日一緒に分かってしまう教会ですが、その教会は強い力の教会を祈りました。
なぜイエス様がこの弟子たちを通して、強い力の教会を建ててくださいと祈っているのか、
この世の中の信仰生活は霊的な戦いだからです。悪魔は惑わします。誘惑します。
アダムとエーヴァもこの誘惑に負けて、全悪の知識の木の実を食べたのではありませんか。
私たちは毎日毎日この誘惑に憐れています。
だから、この誘惑から第2、第3の全悪の知識の木の実を食べることなく、
最後の時、神様の使命をうまく担う教会、悪魔に対して力強い教会を願われたのです。
今日はイエス様の最後のとりなしの祈りを通して、なぜ正しい祈りが、信仰生活が大事なのか、
イエス様が求めておられた教会は何なのか、その教会が最後の時、どんな使命を担うことになるのか、
それを一緒に考えていきたいと思います。
まず、なぜ私たちが正しい信仰を持たなければいけないのですか。それは、まず自分自身が救われるためです。
いつも十字架の副音を学ぶとき、何個もチェックすることがあるでしょう。
なぜ何十年間信仰生活しているのに、人が変わらないのか。
皆さん、信仰生活で一番大事なのは、自分自身が昔の人が変わっていく。
これが一番大事なんで、なぜ変わらないんですか。何か間違いがあるのではありませんか。
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なぜ聖書は驚くほどの十字架の力を私たちは教えているのに、なぜ信徒たちはその力を体験できないのでしょうか。
なぜ神様の教会、主の教会なのに、主の御臨在がありませんか。
なぜ神の聖なる聖徒と言われる人たちが、罪に弱いですか。
なぜたくさん祈っているように見えるんだけど、神様との交わりができなく、祈っているのに答えがないんですか。
なぜですかと言ったとき、答えは簡単です。
偽った信仰、間違えた信仰をやっているからです。
私たちが間違えている信仰をやりながら、救われることを願うことはできないでしょう。
皆さん、間違えた信仰には聖霊の働きはありません。
信仰生活をするんですけど、聖霊の働きがないから目が真っ暗です。
真っ暗の中で何が正しいのかがわからなくて信仰生活をします。
イエス様に出会うことができない、見言葉を悟ることもできない、ただ教会に通うだけです。
それを聖書は教会の庭だけを踏み荒らすものよ、と言っています。
そうしながら、メッセージを聞きながら、偽りの救い論、また安っぽい恵みに惚れてしまって、
曖昧な確信を持って、私は死んだら天国に行くでしょう、という曖昧な信仰を持っている場合が多いんです。
しかし、正しい信仰には聖霊様が働きます。
聖霊の働きがあるとき、聖霊の光が照らされるとき、心が開かれ、よく見ることができます。
見言葉を悟ることもできるし、見言葉通り悔いを改めることができ、正しい道を導いてくださって、変化が伴います。
祈祷されるだけではなく、聖歌、栄歌によって正しい救いが与えられます。
また、栄光に満ちあわれる神の国に対する希望があります。
皆さん、このような信仰をやらなければなりません。
この信仰を持っていれば持つほど、救いの確信がますます強くなります。
それで、やっと私たちが、私は救われた、私は死んだら天国に行くんだ、ということです。
皆さん、パウロが終わりのときに、こう言います、告白します。第二手もて四書八説です。
今や、貴の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれを私に授けて下さいます。
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しかし、私だけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、誰にでも授けて下さいます。
皆さん、このパウロが言ったこと、これが救いの確信なんです。
これは、正しい信仰、最後まで貫かれた人に与えられる告白です。
私たちも、こうならなければなりません。だから、正しい正しい信仰と言うんです。
じゃあ、また、なぜ正しい信仰と言うのか。これは、最後の時、神様に用いられるためです。
正しい信仰には、神様が来て下さいます。精霊様が働きます。
精霊様が働いたら、私一人一人だけじゃなくて、教会全体に対して、照らして下さることがあります。
この5つ、私たちがいつも学んでいることですけど、まず精霊様は、私たちに神様を知らせて下さい。
イエス様を取り戻し祈りの中で、最後の時、前例がないほど、神を知る知識を弟子たちに与えて下さいと祈っているんですけど、
私たちは、神を知る時、信仰ができます。
これを知ることは、精霊様がなさって下さいます。
第一コリント2章12節に、こう言っています。
私たちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。
霊はいろいろありますけど、この世の霊もあるし、神からの霊もあります。
この神からの霊、精霊を受けました。その理由は、精霊様が神様を教えて下さい。
また、神から恵みとして与えられたことを、これが神の恵みだということを、私たちに教えて下さるからです。
精霊様は、神様がどれほど素晴らしいお方なのかを教えて下さい。
このパウルガーが、こう告白します。
これが第一テモテ6章15節、16節ですけど、
神は祝福に満ちた唯一の主見者、王の王、主の主、唯一な不死の存在、地下より固い光の中に住まわれるお方。
誰一人見たこともなく、見ることもできないお方です。
この神に誉れと永遠の支配がありますように、アメンと言います。
誰一人見たこともない、見ることもできないお方、その方を私たちがどのように知ることがなりましたか?
精霊様です。精霊様が見ることもできない、知ることもできない、近寄ることもできない。
糸高き所におられる神様を私たちに知らせて下さい。
精霊によらなければ神を知ることができない。
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またパウルはキリストを知ることがどれほど素晴らしいのか、このように言っています。
ピリポ3章5節からです。
私は人生を熱心に過ごして、この世の中のたくさんのことを持ちました。
しかし私にとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失とみなすようになったのです。
そればかりか、私の主キリストイエスを知ることのあまりの素晴らしさに、今では他の一切を損失とみなしています。
キリストのゆえに私はすべて失いましたが、それらを知り飽きたと認しています。
なぜなら、キリストを得るため、またキリストと共にいるために、それが私には役に立てなかった。
皆さん、私たちが得たいといういろいろな世の中のこと、
富、名誉、この世の中の力、
そのことはイエス様を知るの知識に比べたら、これは散り飽きた、廃節物のようなものだ。
なぜこんな汚いことを私が望むべきかと言っています。
この霊力のことを誰が教えてくださったのですか?
聖霊様です。
聖霊様は神様の素晴らしさ、イエスキリストのどれほど素晴らしさを私たちが教えてくださるので、
それを私たちがいただいたり味わうことができれば、世の中のことは廃節物のように思われるということです。
ぜひとも私たちも素晴らしい神様、素晴らしいイエス様をもっともっと知って、
そしてこの世の中が与えることができない素晴らしい価値をいつも持って、
それを味わっていく私たちになれればと思います。
これは宗を知ることによってできることです。
また、宗を知るようになったら、宗を愛するしかありません。
皆さん、神様がどれほど素晴らしい方ですか?
また、神様が私たちを一番愛しておられます。
神様は私たちを愛しておられる。
だから私たちのために、ご自分の一番大切な一人っ子まで犠牲してくださいました。
また、神様はあなたの私のものだと言っています。
あなたは私のものだと言っています。
皆さん、このような神様を知るなら、私を一番愛してくださる、一番素晴らしいお方、
皆さん、私たちも神様を愛するしかないでしょう。
神を知るなら、神を愛するしかありません。
いつも申し上げるインドの聖者、ソンドシン、
その人はインドの人だから、違法の宗教、キリスト教を信じることは、
これはインドをダメにしていることだと思って、
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聖書を燃やすことを自分の使命だと思っている。
キリスト社を迫害し、聖書を燃やしていく。
そのイエス様に反抗したら、皆さん、どれほど自分自身、礼と婚を精神的に辛いのか、
彼は死にたいと思う時がたくさんあったそうです。
その瞬間、その時、ある日、イエス様に出会いました。
イエス様をご自分のところに来てくださいました。
そのイエス様に出会って、イエス様がどれほど美しいのか、
イエス様の肯品性に惚れてしまって、
それからはイエス様のために自分の全てを惜しみなく捧げ、
イエス様のために自分の命を捧げたいと思う人と変わりました。
そのイエス様を伝えるために、彼は毎年、
遺書を書いておいて、ティベット地方に行って伝道したと言います。
そうです。
死ぬなら愛するしかない。
愛する方のためには自分の全てを捧げ、
惜しみなく捧げて、死のために生きる人と変わるんです。
じゃあ、死を死ぬなら、死を愛するようになり、
愛するなら清くなりたいという心でたまらなくなります。
皆さん、神様とイエス様は、
糸高きところに光と栄光の中におられるお方です。
神様は私たちにこう言われます。
あなた方は聖なる者となれ、私は聖なる者だからであろうと言います。
聖なる者だけが神に近寄ることができるし、
神に出会うことができます。
神に出会って、神の栄光を経験した人は、
世の中の何によっても満足できない状況になります。
ですから、孟子はいつも祈っていることは、
主の栄光をもっと示してください、主の栄光をもっと示してください、祈りました。
また、主の近くに、栄光に近くに、近くに行くためには、
もっともっと清くならなきゃいけないので、
もっともっと清くなりたいという切磋なる熱望を持つようになります。
主を近くに行けば、主の素晴らしさを見ることができる。
それは世の中から得られるものではない。
だから、神様を出会って、その神の栄光を見た人は、
自分の人生の目標はこれしかないんです。
この主の栄光に預かりたいという願い、
切磋なる願い、世の中に何もいらないという人になります。
皆さん、なぜ断食をしますか?
神に近づくためには、力の欲というもの、これがざまになるからです。
力の欲、罪の中でいるこの欲の中で、神に出会うことはできません。
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だから、この欲を捨てるため、退けるために断食をするんです。
シュチュエジプト34章で、神の山に登って、神の栄光の中で40日間留まったモーセ。
神の山から下りてくる時に、人々はこの顔に輝く、
神の栄光の輝かしい姿を見たんです。
それは怖くて怖くて、モーセよ、あなたを見ることができない。
だから、彼はタオルで自分の顔を隠したということではありませんか?
私は、ぜひとも、皆さん、神徒ということは、聖徒ということは、聖なる群れなんです。
聖なる神様と預かって、神の姿をいつも見る、この聖徒の姿、ありませんか?
私が願っているのは、世の中の人々が私たちの顔から出るこの光に、
うわー、怖くて怖くて、この人は私たちと思う、次元が違う人だと思われる、
そのようなレベルの人になってほしいです。
4番目、私たちが主を知り、主を愛し、清くなれれば、
神様は私たちを一つにしてください。
皆さん、私たちが一つにならない理由は何ですか?
各々自分の欲があるからです。
また、各々自分が別の考え、違う考えを持っているからです。
しかし、イエス様がついていく人は、自分を捨てて、自分の十字架を背負って、私に従いなさいと言われるでしょう。
じゃあ、自分を捨てた人、自分をすべて下ろした人は、
お互いに愛し合いなさいと言ったら問題がありません。愛し合うようになります。
愛し合えない理由は何ですか?
自分は違うと思っているから、欲があるから、一つにならない、愛し合えない。
結局、一つにならない理由は、愛がないからです。
愛ということは、一つにさせてくださる力なんです。
男性と女性が愛するなら、自分自身が亡くなります。
彼女と共に生きたい、彼女を愛するから、だから一生に暮らすことができて、
彼女のために自分自身をすべて捧げることができるでしょう。
愛が一つにさせてくださる力なんです。
神は愛であり、神は愛ということは、神様の働きは共同体の働きだと言います。
皆さん、三位一体の神様の愛と一致していますか?
父なる神様はイエス様、聖霊様のためにどれほど愛しておられるでしょう。
イエス様は父なる神様と聖霊様をどれほど愛しておられますか。
また、聖霊様は父なる神様とイエス様をどれほど愛し、
その前で謙遜になり、謙心し、お互いに尊重していくのか。
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三位一体の神様は、完全な一致、一体感ができています。
世の中の何によっても破ることができます。
何によっても壊すことができない。
この三位一体の一体感、だから世の中で一番強いお方なんです。
夫婦は一心同体だと言います。
夫婦の愛によって一体になります。
この夫婦が世の中何によっても壊されることがない。
夫婦の愛ができれば、その家庭はどれほど安全でしょう。
教会教導体も同じです。
イエス・キリストを頭として、私たちは一つの体です。
一つの体の主体がお互いに愛し合うなら、一体になります。
教会が一体になるなら、教会ほど力があるところはありません。
しかし、お互いに愛することができなくて、
記憶になることができなくて、一致ができなければ、
夫婦の間、家庭がどれほど弱いでしょう。
教会がどれほど弱いでしょう。
教会の中では一人偉い人はいらないんです。
教会をお互いに愛し合って、聖なるものとして一致する。
それが教会の力であり、教会が一致できれば、それほど力ある教会はありません。
世の中を生かすことができるでしょう。
私たちは神を知ることによって、神を愛することによって、または記憶することによって一致になって、
世の中を何によっても潰すことができない、壊すことができない、
力強い共同体になりたいと思います。
このような教会がイエス様が祈られた力強い教会です。
この教会をつくるために、精霊様が教会の神と一人一人を頭であるイエス様とつながってください。
また、お互いに連結をしてください。
神とお互いを連結して、記憶一致になった強い力の教会をつくってください。
ここで、神と一人一人が自己中心になれれば、また傲慢になったら欲が入れば、教会はためになってしまいます。
ですから、神様を中心として喧騒になるなら、神様が私たちを一つにさせてください。
神と一人一人がバラバラになれば、砂の城のようになります。
優しく壊れてしまいます。
しかし、神様とイエス様を知って愛する心で記憶なり一つになれれば、
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悪魔がどんな誘惑をして、どんな迫害をして攻撃しても、決して潰すことができない力強い教会になります。
このことは、正しい信仰、神中心的な信仰を持っている一人一人に精霊が働いて成し遂げることができる教会ですけど、
イエス様はそのような教会が建てられるように神様に祈っています。
マルコン2章22節、新しい武道士は新しい革袋に入れるべきだと言われた。
この新しい革袋の教会は一体どんな教会なのか。
このように一つになって力ある教会をイエス様が祈っておられたんです。
このようにして神様が究極的になさろうとしているこの御業は、
勝利の教会を通して最後の時神様の御業が行われます。
イエス様が初めに来られて、問題だらけの弟子たちを呼ばれました。
中二弟子、これと思う中二弟子を呼ばれたんですけど、一人一人見たら問題だらけ。
いろいろ問題がある弟子たちを呼ばれました。
その中二弟子を最後まで愛し合いながらその方たちを使いました。
弟子たちは初めはお互いに喧嘩しました。
自分の考えが違うし、欲があるから自分が偉いになりたい。
一番この平等体の中で偉く認めてもらいたいと思って、
傲慢になった場合もありました。
しかしイエス様はその人たちをよくよく使えてきました。
最後に正しい信仰の器ができた時、
聖霊のリバイバルが来たら強い力の教会になりました。
彼らを通してイエスを十字架にかけたエルサレム、そのエルサレムが変わりました。
宗教使徒社室の中でも信仰に入る人が大勢現れました。
エルサレムが変わってユダヤ、サマリア、そしてイオン人の地域まで福音が述べされました。
皆さん考えてみてください。
それは弟子たちが自分たちが計画を立ててやったことですか?
ありません。
弟子たちがそんな計画を立てるはずがありません。
なぜなら彼らは開国の言葉ができません。
シモンだけが少しキリシア語ができたと言うんですけど、
他の人は開国はできません。
お金もありません。
だから自分たちが計画を立ててそんなことをやったはずがありません。
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どうしてそれができたのか。
使徒行伝一書八説、あなたたちの上に聖霊が下るとそれができます。
結局弟子たちの財産、能力、知識によることではなく、
聖霊様が来られてすべてを成し遂げてくださった。
ところが破壊書二章九説を見ますと、
最後の時のリバイバルは、
初めのペンテコステのリバイバルよりはるかに強いと言っています。
このリバイバルが来るなら、これからどんな働きが行われるでしょう。
イエス様は当時のイスラエル、ユダヤ教の中で、
十二使徒、百二十人の弟子たちということは、本当に微々たる存在でした。
彼らはローマ帝国の中でどんな影響力を及ぼすか、想像もできませんでした。
しかし使徒行伝を見ていますと、いろいろ神の御業が行われたのではありませんか。
すべて聖霊様が働いたのです。
しかし彼らたちはよく従いました。
今私たちを考えてみてください。
日本の一億三千万人の中で、私たち十二人、何ができると思いますか。
日本のインテリの方々に比べて、日本語もうまくできません。
お金もありません。
日本の何か社会的な身分、背景もありません。
この私たちが日本でどんな影響力を及ぼすことができますか。
全く考えられないでしょう。
しかし、新しい葡萄酒、最後のリバイバルが注がれるなら、
聖霊様が私たちを通してどのくらいまで働きができるのか、私たちは分かりません。
ですから最後の時、大収穫に用いられる教会になるために、
私たちは必ず正しい信仰を持たなければなりません。
ですから私たちがこれからやるべきことは、
一割の信仰、立法主義、人本主義、合理学的、
自己中心的な目的、自分のやり方、自分の熱心で何とかやろうとしてやることを全部下ろしておいて、
ただ恵み、ただ聖霊、ただ十字架、ただ見言葉、ただ信仰、
ただ信仰によって生きるということは何なのか、
今までずっとメッセージをやったことをもう一度聞いてくださって、
神様を愛する、神様を知り愛する信仰の本質、また清くなり一つになる、
そして新しい葡萄酒であるリバイバルを受け入れる、この器をしっかり作っていくなら、
神様は私たちを善礼がないほど強い力の教会をさせてくださいます。
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私は今私たち教会のこの人数、皆さん、もう教会が何年やっても増えることなく今の人数でいつまでやるか、
皆さん思いません?情けないと思いませんか?
私はちょうどいいと思います。
皆さん、十二人が、イエス様も十二人の弟子から始まったでしょ?
十二人が一つになるのが一番やりやすいです。
人数が多ければ一つになるのは無理です。できません。
みんな自分の考えが、自分の欲が違うし、自分の何かいる実行中心的にいろいろな話をし始めたら、
教会一つになりません。一つにならない教会は砂の城と同じです。すぐ壊れてしまいます。
まず私たちが一つになって、この一つになった群れに一人、また一人の人が加えられ、また一人に一つになれれば、
聖霊様は私たちを通してどこまでできるか分かりません。
私は今ちょうどいい教会の姿、感謝しています。
まず私たちがこの今日のメッセージ通り、聖霊によって一つになる教会にぜひやってもらいたいです。
皆さん、初代教会の前例があります。また私たちに与えられたビーズンが考えながら、
新しい川袋の教会、器をよく作ればリバイバルが来られて、これら前例がないほど強い力の教会を作ってくださるはずなんですけど、
その教会を通して最後の時、神様がなさることを楽しみにしていく私たちになりたいと思います。
2023年度、これから私たちがやるべきこと、皆さんご理解できたんでしょうか。
正しい信仰をまず持って、私たちが心一つにして、聖霊様によく従っていく教会。
そうするなら、これからは聖霊様がすべてを成し遂げてくださると信じます。
このような教会形成を、これから2023年、熱心にやっていきましょう。
お祈りいたします。
主よ、新年の初めからビジョントリップを通して、十字架の福音と私たち教会のビジョンを新たに確かめてくださって感謝します。
前例がないほど、主を知り愛する、また清くなって一つになる教会を成し遂げていけるように、
聖霊様、恵みを与えてください。
私たちの教会を主の道具として使ってください。
イエス様の皆を通してお祈りいたします。
アーメン アーメン