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2025-02-23 39:18

「神様を喜ばせる信仰」2025年2月23日のメッセージ

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東京ぶどうの木教会 2025年2月23日(日)主日礼拝のメッセージです。
牧師:アブラハム黄 
▼教会へのお問い合わせ: tokyo.vine.church@gmail.com

▼メッセージの自動文字起こしはこちら https://listen.style/p/tokyovinechurch

(聖書) ヘブライ11:1-7  信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。2. 昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。3. 信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。4. 信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。5. 信仰によって、エノクは死を経験しないように、天に移されました。神が彼を移されたので、見えなくなったのです。移される前に、神に喜ばれていたことが証明されていたからです。6. 信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。7. 信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神のお告げを受けたとき、恐れかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世界を罪に定め、また信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました。

メッセージ題 : 神様を喜ばせる信仰(ヘブライ11:1-7)
*2025年度、私たちは神様を喜ばせる生活をしたいと思います。その為に・・・霊的な分別力が必要です。神様が何を願っておられるのか、何を喜ばれるのかを知らないで?そのすべては?*もう一つ、私たちが神様を喜ばせることが出来ない理由?ヘブライ11:6信仰がないから・・・マルコ5章で。会堂長ヤイロ、死に掛かっている娘の為、しかし死んでしまった。そのとき、恐れることはないただ信じなさい?霊的法則、ローマ恐れるなら悪魔が、信じるなら神様が

1.2025年度の初めに、二つ強調したいこと?霊的な分別力と信仰! その為に・・・ヘブライ11:1-7
*ヘブライ11章の信仰の英雄たち!彼らは理論的信仰ではなく生きている信仰を・・・その特徴
1)信仰と生活が一致する、信じる通り生きた。 
2)見えるものではなく、見えないものを掴む信仰だった。 
3)前を見て前進する信仰だった。消極的な信仰ではなく積極的な信仰だった。 
4)現実の難関の前で挫折、倒れるのではなく、克服進める信仰だった。そして生きている正しい信仰

2.このような信仰の本質が・・・ヘブライ11:1-3節に。
*信仰とは望んでいる事柄の確信である。→信仰は望むことから始まる。その望みって?現実問題の解決?勿論!しかし神様が願われるのは・・・ローマ見えるものではなく、見えない永遠なこと。主の御名、御国、御心・・・Ⅰペトロ1:4、マタイ *望むことを考えるとき、現実の不満足から始まる。その人たちは?マタイ5章の貧しい、悲しむ、義に飢え渇く人たち・・・現在、満足しているなら?信仰は難しい。この世のすべての無価値さ、無意味さを知り、正しく永遠の価値があることを求める人に・・・使徒パウロ?地の果てに福音を伝える切なる望みを持って、使徒。#信仰の為11:3節の大事さ!この世の存在の二つの観点。進化?信仰できない。創造に信仰

3.神様が認められる信仰の先輩たち・・・ 神様はどんな信仰を喜ばれるのか?
1)ヘブライ11:4 アベルの信仰!=真の礼拝を捧げる信仰!創世記4章から現れた礼拝?礼拝の目的とは、罪人が神に出会う方法、神様と正しい関係を結ぶ方法。 カインとアメルの礼拝の比較?カインの礼拝には何が間違えたのか?礼拝成功人生成功、礼拝失敗人生失敗の観点から
2)ヘブライ11:5 エノクの信仰!=神様との親しみ、共に歩む信仰!メトシェラを産んで?名前の意味?彼が死ぬとき裁きが来る?何があったのか!300年間神様と同行、死なないで天国に?
ここで、11:6神様が存在しておられること!ご自身を求める人に報いて下さるお方を信じることを
3)ヘブライ11:7 ノアの信仰!=裁きがあることを知って、準備する信仰!=箱舟、今は新しい革袋の準備!雨もなかったとき洪水で裁かれることを信じる?あり得ない。愚かに見えた。しかし箱舟の扉が閉じられ、お話通り上の水がこぼされる・・・愚かだったと思ったノアが正しかったことを。しかし、遅すぎる!ノアの家族8人だけが救われた。信仰は永遠な命の天国か、永遠な罰地獄か@ルカ今は終わりのとき、私たちは必ず永遠な命の天国を。その為にアベル、エノク、ノア

サマリー

このメッセージでは、神様を喜ばせる信仰の重要性が語られ、信仰が神様の望みに一致することが強調されています。また、イエス様が教えた愛と信仰の関係にも触れ、信じることの大切さが説かれています。このエピソードでは、信仰が神様を喜ばせるためにどのように働くかを探ります。アベルやエノクの信仰を通じて、礼拝の重要性と神との関係が強調され、信仰を持つことの力についても語られています。さらに、ノアの信仰を通じて、神の裁きに備えることの必要性が強調されています。

神様を喜ばせる信仰の探求
今日は、神様を喜ばせる信仰という対応をもって、メッセージを分かち合いたいと思います。
2025年度、私たちは、神様を喜ばせる生活をしていきたいと思います。
ところが、神様は何を喜ばれるのでしょうか。 神様が何を喜ばれるのかわからなくて、
ただ、ただ、熱心に、熱心にやっていくなら、 私たちの熱心が無駄になるかもしれません。
十字架の福音で学んだことでしょう。 イザヤ書1章10節から見てみますと、
イスラエル人たちは、神様に礼拝を捧げ、数多くの生贄を捧げ、 熱心に神様を拝みます。
それを見て、神様が何と言われるのか。 あなたたちの多くの礼拝、あなたたちの捧げる多くの生贄が、
私に何の有益があるのか、何の役に立つのか、 私はそのことを嫌だ、嫌いだ、あいてしまったと言えます。
神様が嫌だと思っていることを熱心にやりながら、 神様から祝福されますか。
また、イエス様が来られたときに、アリサイ人たちは、 宗教的な熱心を本当に、私たちが見るとき、
彼らの熱心を本当に熱心にしました。 それを見て、イエス様はこう言われます。
私が喜ぶのは愛であって、生贄ではないよ、と言います。 あなたたちがやっている生贄、
これをたくさん捧げるなら、神様は喜ぶだろうと思って捧げるんですけど、 私が願っているのはそれじゃなくて、愛だよ。
神を愛する、隣人を愛することだよ、と言います。 一生涯、自分が考えて、神様がこれを捧げたら喜ぶだろうと思っていることを、
心を尽くして頑張ったとして、神様はそのような人生を受け入れることができますか。 一生涯やっていることに対して、神様は祝福されることができますか。
これから見ていますと、旧約聖書と新約聖書の全体的に、 神様を喜ばせた人は本当に少ない。
ほぼなかったと言われるほど、ほとんど過ち、または問題だらけの存在でした。 ここで大事に思っていることは、礼儀的な分別力です。
神様が何を願っておられるのか、神様の喜びは何でしょうか。 それをよくわかって聞いて、そしてそのことを熱心にする。
そしたら神様は喜ばれるでしょう。 では、まず大事なのは、礼儀的な分別力が大事だなということです。
信仰の実践と障害
もう一つ、神様を喜ばない理由があります。 ヘブライ集中1章6節を読みますと、
信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。 私たちが神様を喜ばせることができない理由は、
毎日のこと、私たちは何をやっているのか、いつも心配ばかりやっています。 心配、恐れ、また絶望、挫折。
私たちがやっていることは、ほぼ不信仰的なことをやっています。 しかし神様が願っておられるのは、信仰なんです。
信じろ、ローマ集中6節にまとめますと、 誰に従うのか、従う者の徒霊と言います。
悪魔は臆病の霊、心配させる霊。 悪魔は心配させて、心配するなら、自分は支配に入れます。
だから私たちが心配して、悩んだり恐れたりするなら、私たちはもう悪魔の支配下の中に入っていくことです。
神様は私たちが恐れ、心配すること、そこに反応することはできません。 神様は信仰に反応されるお方です。
例えばマルコ5章で、カイドウ長ヤイロの娘が死にかかっていくんです。
娘が死んでいくから、ヤイロはイエス様のところに行って、私の娘が死にかかっています。 助けて下さい。
イエス様がヤイロの家に行く途中で、いろいろなことがありました。 結局ヤイロの家から人が来て、娘さんが死んでしまいました。
もうイエス様に頼る必要もないでしょう、と言います。 その時ヤイロの心に絶望、挫折、
またイエス様が何とか早く来てくれなかったという恨み、いろいろが出てきたと思います。
その時イエス様は何と言うんですか? 恐れることはない、ただ信じなさい、と言われました。
じゃあここで、恐れるなら神様が働くことはできない。 ただ信じるとき神様の働きができるから、
私たちに何が起こっても、どんなことがあるとしても、神を信じて神様に委ねなさいということです。
イエス様が十字架で亡くなりました。でも構いません。 死んだ人も蘇らせるイエス様、神様です。
私たちの挫折、心配、すべてが終わったと思っている時に、そこで働かれるお方が神様です。
信仰を持っていくなら不可能はありません。 しかし心配、挫折、悩み、
やってしまえば神の働きができないから、結局すべてがダメになってしまいます。
じゃあ私たちはこれからやるべきことは、信じる人、何があっても信じる人になっていきましょう。
信仰の本質と願い
2025年度を始めながら、私たちに一番必要なのは、霊力の分別力と信仰です。
これを2月、3月に続けて皆さんと分かち合いたいと思います。
じゃあ今日は、信仰について、これから信仰について、聖書の中で信仰の章というものがヘブラリー章11章です。
ですから2月、3月、ヘブラリー章11章をすべて公開説教みたいに、すべて解釈して皆さんと分かち合うことができればと思います。
じゃあまずヘブラリー章の始めに、信仰の英雄たちの働きが紹介しています。
じゃあここで、まず神様が喜ばれる、願っておられる、生きている信仰は何なのかが書かれてあります。
じゃあ生きている信仰、神様が喜ばれる信仰、簡単に申しますと4つ。信仰と生活が一致することです。
信仰、信じることと生活することが一致する。これは当たり前なんですけど、私が一番できないのはこの部分です。
私は皆さんにいろいろメッセージをします。そのメッセージ通り私がやっているのか、これは私の息子が一番よく分かっています。
私が教えたのに、私もそのような気持ちでやりますよ。私がこれをまず実践しようと思ってメッセージをします。
しかしすぐ忘れて、私自身がそれを守っていないことが分かります。恥ずかしいんですね。
私のメッセージを私が実践するんだとしたら、多分私はすごいパワーがある牧師になったかもしれません。
メッセージと実践が異なるならパワーができません。力がありません。
むしろ皆さんが聞いたことをそのまま生活するならパワーができると思います。
まず私が反省しながら、私がこれからメッセージしたことと生活が一致するようにこれから頑張ります。
これが正しい信仰、生きている信仰。
2番目は、見えることを信じるのではなくて、見えないことを信じることです。
目に見えることは何ですか。これは天気です。環境の動きです。
環境の動きは皆さん良かったり悪かったり、色々あります。
変わります。すぐすぐ変わります。
目に見えるもの、すぐすぐ変わるものに対して、私たちが泣いたり笑ったりしたら、私たちはどんな存在になってしまうんでしょう。
信仰の先輩たちは目に見えることによって揺れることはありませんでした。
彼らは目に見えないことをずっと見ていたんです。
それを目指して見ていて、それでずっと生活していたから、目の前に動いていることは何にも気にしませんでした。
これは大事です。
目に見えないものは、永遠なもの、価値がある。
目に見える、すぐすぐ変わってしまうものは、価値がないものです。
ですから私たちは、目に見えない、しかし永遠な価値がある、それが何なのか。
それが神様であり、御国であり、神様の報いであり、それが永遠の天国であり、
人たちがそのように願っていた私の故郷、天にいる私の故郷、その部分、神の国。
それを目指してずっと生きたように、私たちも目に見えないが、永遠の価値がある素晴らしいものに目指して生きる。
その信仰が正しい信仰です。
3番目、正しい信仰は、前を向いて前進する信仰です。
みんな信仰を持っているのですが、だんだん年を取っていくなら、
まだだんだん私もそのような傾向がありますが、諸極的になってしまうのです。
積極的ではなく、生きている、前進する、何か活発的な働き、それを伴う信仰ではなくて、
ギリギリ自分の信仰を守ろうとする、このくらいでやっていこうとする信仰。
私は大抵このような傾向で、いつも天道寺さんから指摘される場合が多いのですが、
前を見て前進する、そのような信仰が正しい信仰です。
また、現実の中には色々問題があります。
誘惑もあるし、患難もあるし、苦しみもあるし、
その時、いつも倒れて、挫折して、また悩みながら、泣きながら、どうしようという信仰ではなくて、
それを乗り越える信仰。信仰は十分に乗り越えるパワーが与えられるものですから、
乗り越えて、周りの人から、素晴らしい、私もその人みたいになりたいと思っている、
そのような信仰の所有者になってほしい。
それが神様が見られるのに、生きている信仰だ、正しい信仰だ、
こんな素晴らしい信仰だと言われるものです。
まずそれを考えながら、このような信仰の本質が何なのか、
ヘブラリー書中1章1節に書いてあります。
信仰とは何ですか。信仰とは望んでいる事柄を確信し、
見えない事実を確認することだ、と。
信仰は望むことから始まります。
私たちは何を望みますか。
家族の健康、幸せ、当面の問題解決、
また私たちが求めている何か希望、それが早く成し遂げるように、ということが多いです。
もちろん神様は私たちの願いを全部知っておられます。
私たちが何が必要なのか、私たちにこれがなければいけないことを全部わかっています。
神様はそのことを与えてくださいます。
ですから私たちはそのようなことに、
あだまで何かいろいろ考えたり、そこでできるかできないかによって挫折したりするんじゃなくて、
もっと大きなこと、もっと価値があることを目指して、
それで私たちの信仰を望むことを願っておられます。
ローマ書8章24節を見ていますと、
見えるものに対する希望は希望ではありません。
見えているものを誰が望みますか。
見えない、永遠なもの、価値あるもの、それを私たちが望むのですと言います。
いつも価値ある大事なことを私たちが祈るときに、
イエス様が主の祈りで教えてくださったこの初めの部分。
私たちは何を祈るべきか。
まず神の皆があがめられますように。
御国が来ますように。
御心が天で行われたように、地でも行われますように。
この道です。
神の皆、御国、御心。
それが成し遂げるようにと願う人は本当に素晴らしいです。
そのことをずっと求めることができるなら、本当にいいことでしょう。
第一ペトロ一周四節に、神様が私たちを救われたのは、
私たちのために、天に備えられたことを与えるためですけど、
それは何かと言いますと、
口ず、けがれず、しぼまない財産を受け継ぐものにしてくださったと言います。
神様は私たちに素晴らしいものを備えてくださいました。
私たちを救われた理由は、それを与えるためなんです。
だから世の中であったりなかったり、いろいろ変わりつつあるものを、
そこにそんなに気にしないで、
私たちの目指すのはこの部分です。
それを切に切に祈ることは大事です。
これをマタイ六章三十三節は、
何よりもまず、神の国と神の気を求めなさい。
そうすれば、これらのものは全て加えて与えられると言います。
じゃあ大事なのは、神様の素晴らしいこと、
目には見えないけど、永遠に存在する、永遠な価値を持っているもの、
それを私たちに与えるために、私たちを救われたものですから、
私たちが望むことを、少しレベルを高めにして、それを求めましょう。
そうするなら、今、現実的に必要なすべては、神様はすでにわかっているよ。
そんなことは異様人たちが求めることだ。
あなたたちは、神様が願っていることを求めなさいと言われるものですから、
私たちが望むことを、少しレベルを上げていきましょう。
それが信仰です。
じゃあ、望んでいることがあるということを考えるときに、
信仰は現実の不満足から始まるんだということがわかります。
ですからマタイ五章では、貧しい人、哀れむ人、悲しむ人、
また木に植え乾く人、その人たちを神様が信仰を与えてくださることがわかります。
健在的に食べて生きるのに十分、私はあまり問題ありません、
ような人は信仰を持つのに非常に難しいです。
ですから聖書は、金持ちが神の国に入るよりは、
ラクダが針の穴を通ることがもっと優しいと言われたほど、
信仰の重要性
もう満足しています。世の中で満足しています。
ラザロと金持ちの例えで、金持ちのような人、
そのような人たちは望むことができないから、信仰はできません。
これが問題です。
ですから私たちは、この世の中で、
この世の、よく私たちは考え、年取っていくなら、
この世のことはあっという間に過ぎてしまったなと思いながら、
この世の生活の無意味さ、無価値なこと、これをよくわかります。
本当に求めること、正しいこと、永遠に価値があるものは、
それが何なのか、それを求める私たちになれればと思います。
それを求める霊的な希望、霊的な願いがあるなら、
神様がその人に信仰を与えることができるでしょう。
また、9章27節、28節に、イエス様が道を歩いているときに、
二人の目が見えない亡人が追いかけてきながら叫びます。
ダビデの子よ、私たちを憐れんでくださいと言います。
続けて続けてダビデの子よ、私たちを憐れんでくださいと言う。
イエス様がお家に入られると、家までついてきながらまた叫びます。
そこでイエス様が、私がそれができると信じるのかと言います。
はい、信じますと言います。
あなたの信仰通りになりなさいと言います。
私たちを求めること、望むこと、願うこと、
これを叶えてくださる、素晴らしい、
これは信仰はこんなパワーがあります。
もう目が見えない人は、イエス様を求めることによって、
癒やされ、救われました。
シト・パウルは、イエス様が、
あなたたちは行って全ての人を私の弟子にしなさいというメッセージを
よく受け止められたと思います。
パウルはローマの迫害の中で、
ローマ帝国の中をくるくる回りながら、
第一次選挙旅行、第二次選挙旅行、第三次選挙旅行までやりました。
その選挙旅行ができたのは、神様が喜ばれることを、
私が叶えてあげたい、私はそのことをやってあげたいという、
神様からの使命、
そこに対するものすごい大きな熱望があったからです。
皆さん、普通、第一次選挙、第二次選挙、第三次選挙旅行までやったとしたら、
私がこれを全部やったから、これからは少し休みましょうと言うべきなのに、
その後、彼は何というのか、
シド行伝中級書21節、私はそこにいた後、
ローマも見なければならない、
またはスペインまで行かなきゃいけないと思います。
パウルは絶え間ない望みがありました。
その望みを消すことはできない。
彼の心にいつも主のための望み、神様のための望みがあります。
ここに望みがありますけど、望みがありました。
神のための望みが大きくて大きくて、
それをやり続けてやり続けていく間に、
彼は神様の中で一番大きく用いられる人になりました。
信仰は素晴らしいです。
望むことを成し遂げるパワーがあります。
私たちも神様に対する望みがもっと大きくなれればと思います。
しかしこれも年取っていくなら、望みがだんだん消えていくことにありますね。
アベルの信仰
ここが私は今反省して、
改めてもう一度、主よ、改めて私の心を、
神様の望みを与えてくださいと祈るところであります。
11章3節には、信仰について話をしながら、
天地創造のところを話します。
11章3節。
信仰によって私たちは、この世界が神の言葉によって創造されたことを信じます。
信仰ができるために、一番初めに認めなきゃいけないことがあります。
これは、この世界の存在に対する信仰です。
この世の中のすべてができたところには、
二つの見解があります。
一つは進化論、もう一つは創造論です。
進化論は、すべてが年が長い年月を通して、
変わって変わって変わって変わっていってみたら、
このようなことができたということです。
これは、偶然にできたということでしょう。
偶然に今、世の中のすべてがこのような状態になったということです。
また、人間の存在。
なぜ人間がこの世に存在するようになったのか。
偶然にできたので、人間が存在するべき特別な理由がありません。
ですから、すべての考えが運命的、また虚しいです。
これで、進化論を信じる人は、
神様が願っておれる誠の信仰はできません。
なぜなら、すべて偶然、偶然ということがあるからです。
しかし、創造論があります。
ある絶対的な主見者が、特別な目的のためにこの世の中を創造された。
また、私たちは人間も必然的な目的、特別な目的があったから創造されたと信じることです。
だったら、私の存在に対して、神様では、私はなぜ創造されたんですか。
神様に問いながら、神の見声を聞きながら、自分の存在の意味を分かって、それで信仰を生活していくことです。
ですから、進化論では、神様が願っておれる信仰はできません。
創造論だけで、それができます。
だから、注意書3節には、天地万物が作られたのは、神様の特別な目的によって存在するようになったと、
わざわざ信仰の章ではそれを書いてあります。
神様の絶対的な主見、説理を信じる信仰、これが信仰の出発点です。
また、4節から7節には、神様が認められる信仰の先輩3人を紹介します。
彼らはどんな信仰によって、神様を喜ばせたのか、また神様から認められたのか、
これを今日、皆さんと分かち合いたいと思います。
ヘブライ子をはじめに紹介する3人の人、まずはじめにアベルの信仰です。
注意書4節です。
信仰によって、アベルはカインより優れた生贄を神様に捧げ、その信仰によって正しいものであると証明された。
そして、アベルは死にましたが、信仰によって今もなお語っています、という神科学では書いてあります。
アベルの信仰は、神様に正しい礼拝、誠の礼拝を捧げて、神様から正しい喜ばれる信仰者だと認められました。
じゃあ、アベルの礼拝とカインの礼拝。
創世紀4章では、1章から3章ではなかった特別な儀式が現れるんですけど、それは礼拝です。
礼拝は、罪人が神様に出会う方法です。
罪人は神の前に立つことはできません。
なぜなら、神は清いお方、聖なるお方だから、罪人が神の前に立つなら、そのまま死んでしまいます。
罪人は神の前に立つことはできません。
しかし、礼拝を通して神の前に立つことができます。
また、礼拝を通して神様との正しい関係を取り戻すことができます。
その時、神様からの永遠の命、神様からの全ての祝福が、罪人である人間に与えられる時間が、礼拝の時間です。
ですから、礼拝に成功することは非常に大事です。
礼拝に失敗することはもう終わりです。
ところが、神様はアベルの礼拝を受け入れ、カインの礼拝を受け入れなかったということです。
なぜ受け入れなかったのか、これは立法が与える前だから勝手に考えることはできませんけど、
罪人は神に出会うことはできない。
だから、礼拝の前に必ずあるべきことは悔い改めということです。
多分、これから見てますと、アベルは創世紀3章で、自分の父親母親がチェン役の知識の木の実を食べたことに対して、
神様の前で悔い改めながら、気の毒だと思いながら、礼拝を捧げたと思います。
それをどうして分かるのか、ダビデが説明をしてくれました。
支援の51編の中7節。
アベルは神様の前で、私の父母が神の前で罪を犯しました。
それで、神様を下せた全ての祝福を失うようになりました。
悔しいです。気の毒です。
神様、私は悔い改めます。
神様の恵み、祝福を私たちに再び与えてくださいと、アベルは多分、礼拝したと思います。
それで、神様が正しいと言われて、アベルの礼拝を受け入れられました。
ところが、下院は何が食べたのか。
創世紀4章5節6節を見ますと、
神様、私も礼拝を捧げたのに、なぜアベルの礼拝だけ受け取り、私の礼拝を受け取りませんか。
神様に反抗することを見るときに、
自分の父親、母親が罪を犯したことに対して、神様が痛む心をかえりみることができなく、
ただ、形式的な礼拝を捧げたなと思います。
神様は正しくない礼拝を受け取ることはできません。
じゃあ、アベルは成功し、下院は失敗して、下院は神様から離れてしまいました。
そして下院は、神様のいない世界を作り始めます。
ここで、かわいそうなアベル、下院から殺されて、初めの殉教者になりました。
皆さん、正しい礼拝を捧げる人は、この世の中から迫害を受けるんだということはわかります。
しかし聖書は、アベルは死にましたが、彼はこの信仰が今も生きていて、
信仰によって今も私たちに神様の信仰を教えてくださるんだということを書いてあります。
エノクの信仰
アベルは正しい礼拝を神様に捧げる人でした。
2番目、絵の具です。
注意書5節に、信仰によって絵の具は死を経験しないように、天に映されました。
神が彼を映されたので、見えなくなりました。
映される前に、神に喜ばれていたことを証明されていました。
絵の具といったら、神様と共に歩んだ、神様との親しい関係、共に歩む信仰。
絵の具はどのようにして神様と共に歩むことができたのか、
彼の人生に何かきっかけがあったような気がします。
絵の具は65歳のとき息子を産んで、そのベトシェラーという名前をしたのですが、
ベトシェラーという名前の意味が、彼が死ぬとき裁きが来るという意味です。
実際、絵の具の孫、ノアの時代に神様の裁きが来ました。
絵の具はベトシェラーを産むときに何かを感じたのです。何かを悟ったのです。
ですから息子の名前をベトシェラー、あなたが死ぬときに裁きが来るんだよということを名前を名付けて、
何かを悟ったから、その時から信仰を正しくして、神様と300年間ずっと共に歩む生活をしました。
当時の世界は、会の子孫たちが世界を支配していたので、
神がいない世界、神を無視して不従順の世界、暴力、堕落、その世界でした。
その中で絵の具は神と共に歩む生活をした。素晴らしいんじゃありませんか。
ですから聖書は絵の具の信仰を話しながら、ヘブラー書中1章6節にいきなりこのような話をします。
信仰がなければ神に喜ばれることはできません。
神に近づく者は神が存在しておられること、また神がご自分を求める者たちに報いてくださる方であることを信じなければならない。
絵の具は、まず神が存在しておられることを信じたと言います。
これをコランデオーと言いますね。
絵の具は目に見えないけど、神様の存在を信じました。
信じるということは何というか、神をおられる。
また私が何をするんだとしても、神様を見ておられる。
神様をずっと見ておられるんだということを、自分はいつも考えながら生活した。
だから私が何をするんだとしても、神様を見ておられる。
私が何をするんだとしても、神様が何が問題なのか、何をすればいいのかを全部わかっておられる。
だから神が生きておられる。
それを考えるから、神の前で生きる生活ができました。
だからコランデオーと言うでしょう。
また彼は、神はご自分を求める者たちには報いてくださることをいつも信じました。
神様を報いてくださる。
だから私が祈るなら、祈りの答えをくださる。
私が悲しむなら、神様は慰めてくださる。
私が何をするんだとしても、そこに出して答えをくださる方だと信じているから、
神は生きておられる。私を見ておられる。
私がやっていることを全部答えてくださる方。
だからもう神様と共に歩むしかない。
1日24時間ずっと神様に語り続け、神様の答えを聞き続け、
そのように毎日毎日が神様と共に歩む生活をする。
神様を報いてくださる方。
だから神様はエノクの信仰通り、死なないで天国に行く人になりました。
先週も死なないで天国に行く人、エリアを申し上げましたけど、
ノアの信仰の教訓
皆さんこの世は100年、天国地獄は永遠です。
彼は永遠の天国で死なないで入り、
神様と共にずっと天国まで歩み続ける人になりました。
3番目、ノアの信仰です。
信仰によってノアは、まだ見ていない事柄について、
神のお使いを受けた時、恐れ貸し込みながら、
自分の家を救うために箱舟を作り、
その信仰によって世界を罪に定め、
また信仰に基づく気を受け継ぐ者になりました。
ノアの信仰は、神の裁きを分かって準備する信仰です。
ノアは何を準備したのか、箱舟を作りました。
それを自分の家族8人で120年間、箱舟を作りました。
ノアが箱舟を作ったこと、今の言葉で変えれば、
新しいカワブクロの境界を作ることです。
世の中の人々は、世の終わりに裁きがあるんだと、
考えず生きているような気がします。
当時、水で滅ぼされるということはありえませんでした。
なぜなら雨もなかったんです。
今、最後に火で滅ぼされると言われているんですけど、
世の中の人々は、ありえないと言います。
皆さん、不思議なのは、天地創生の初めに、
地球の上に何があったんですか。
水の層がありました。
水の層の水が全部、地上の上に注がれたことが、
ノアの洪水のことですね。
今、地球の真ん中に何があるんですか。
マグマというものがあります。
今、燃えているところです。
不思議に、そのようなことがあるんだということは、
みんな分かっています。
分かっていながらも、神の裁きは信じません。
ノアの時代は雨もありませんでした。
洪水で裁かれるということは信じませんでしたので、
ノアが転倒した時、誰もこの転倒を受け取りませんでした。
無視しました。
全世界の人が見る時に、
ノアの家族は愚かなものだとみんな見えました。
たぶん彼らがこう言ったかもしれません。
一度しかない人生。
ありえないことを信じて、
こんな馬鹿な人生を過ごすのかとみんな思ったかもしれません。
ところが最後、箱舟の扉が閉められ、
そして天の窓が開かれ、水が注ぎこぼれる時に、
全世界がノアが正しかったことを分かりました。
神様を喜ばせる信仰
しかし、遅すぎました。
救いの扉は閉められたんです。
結局その時代、ノアの家族8人だけが救われました。
皆さん、信仰は永遠の天国の救いなのか、
地獄の刑罰なのかを決められるものです。
大事なのは、神様を喜ばれる信仰に、
永遠の命と天国の祝福が与えられます。
今は最後の時です。
ルカの17章を見ていますと、
ノアの時代にあったようなことが、
人の子が現れる時に起こるだろうと言います。
ノアの時代と同じような、
ソドムの時代と同じようなことが、
世の終わりにそのまま行われるだろうと言います。
じゃあ、世の終わりの時、
私たちに神様の永遠の天国を入る、
その救いを得るために、
私たちに一番必要なのが信仰です。
今日、神様は、
神の、ただ、みんな信仰を信仰と言います。
私たちはみんな信仰を信仰と言います。
しかし、神様は、
神に喜ばれる信仰を願っておられます。
神に喜ばれる信仰、
3つ、今日分かっちゃいました。
1つは何ですか?
エノクの信仰、礼拝。
パコットの礼拝を捧げる信仰。
アベルですね。
エノク、神様と親しく歩む、
共に歩む信仰。
3番目、ノアの信仰。
裁きがあるということを分かって、
準備する信仰です。
皆さん、ただただ信仰、
イエス様信じます、だから私は救われた、
そこにとどまることではなく、
私たちはヘブナイシを通して、
神様に喜ばれる信仰を、
これらの信仰を私たちが持つことを、
神様が願っておられます。
アベルの信仰、エノクの信仰、
ノアの信仰が何だったのか、
よく考えながら、
これを私たちが準備していきましょう。
その時、私たちは喜ばれ、
永遠の天国を与えてくださると信じます。
お祈りいたします。
神様、2025年度、
礼的な分別力と、
信仰をよく準備して、
最後の時、神様を喜ばせ、
そして永遠の天国に入る私たちになりたいと思います。
今日学んだアベルの信仰、
エノクの信仰、ノアの信仰、
それを私たちが本当に、
その意味、今何が必要なのかを、
よくかみしめながら、
準備していく私たちにならせてください。
特に、私たちの子供たち、
一人一人に、
本当に神様が喜ばれる信仰を、
ぜひ持つことができるように、
よく助け、
子供たちのためにいつも祈る、
私たちにならせてください。
イエス様の皆を通してお祈りいたします。
アーメン。
39:18

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