もう一つ、神様を喜ばない理由があります。 ヘブライ集中1章6節を読みますと、
信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。 私たちが神様を喜ばせることができない理由は、
毎日のこと、私たちは何をやっているのか、いつも心配ばかりやっています。 心配、恐れ、また絶望、挫折。
私たちがやっていることは、ほぼ不信仰的なことをやっています。 しかし神様が願っておられるのは、信仰なんです。
信じろ、ローマ集中6節にまとめますと、 誰に従うのか、従う者の徒霊と言います。
悪魔は臆病の霊、心配させる霊。 悪魔は心配させて、心配するなら、自分は支配に入れます。
だから私たちが心配して、悩んだり恐れたりするなら、私たちはもう悪魔の支配下の中に入っていくことです。
神様は私たちが恐れ、心配すること、そこに反応することはできません。 神様は信仰に反応されるお方です。
例えばマルコ5章で、カイドウ長ヤイロの娘が死にかかっていくんです。
娘が死んでいくから、ヤイロはイエス様のところに行って、私の娘が死にかかっています。 助けて下さい。
イエス様がヤイロの家に行く途中で、いろいろなことがありました。 結局ヤイロの家から人が来て、娘さんが死んでしまいました。
もうイエス様に頼る必要もないでしょう、と言います。 その時ヤイロの心に絶望、挫折、
またイエス様が何とか早く来てくれなかったという恨み、いろいろが出てきたと思います。
その時イエス様は何と言うんですか? 恐れることはない、ただ信じなさい、と言われました。
じゃあここで、恐れるなら神様が働くことはできない。 ただ信じるとき神様の働きができるから、
私たちに何が起こっても、どんなことがあるとしても、神を信じて神様に委ねなさいということです。
イエス様が十字架で亡くなりました。でも構いません。 死んだ人も蘇らせるイエス様、神様です。
私たちの挫折、心配、すべてが終わったと思っている時に、そこで働かれるお方が神様です。
信仰を持っていくなら不可能はありません。 しかし心配、挫折、悩み、
やってしまえば神の働きができないから、結局すべてがダメになってしまいます。
じゃあ私たちはこれからやるべきことは、信じる人、何があっても信じる人になっていきましょう。
2025年度を始めながら、私たちに一番必要なのは、霊力の分別力と信仰です。
これを2月、3月に続けて皆さんと分かち合いたいと思います。
じゃあ今日は、信仰について、これから信仰について、聖書の中で信仰の章というものがヘブラリー章11章です。
ですから2月、3月、ヘブラリー章11章をすべて公開説教みたいに、すべて解釈して皆さんと分かち合うことができればと思います。
じゃあまずヘブラリー章の始めに、信仰の英雄たちの働きが紹介しています。
じゃあここで、まず神様が喜ばれる、願っておられる、生きている信仰は何なのかが書かれてあります。
じゃあ生きている信仰、神様が喜ばれる信仰、簡単に申しますと4つ。信仰と生活が一致することです。
信仰、信じることと生活することが一致する。これは当たり前なんですけど、私が一番できないのはこの部分です。
私は皆さんにいろいろメッセージをします。そのメッセージ通り私がやっているのか、これは私の息子が一番よく分かっています。
私が教えたのに、私もそのような気持ちでやりますよ。私がこれをまず実践しようと思ってメッセージをします。
しかしすぐ忘れて、私自身がそれを守っていないことが分かります。恥ずかしいんですね。
私のメッセージを私が実践するんだとしたら、多分私はすごいパワーがある牧師になったかもしれません。
メッセージと実践が異なるならパワーができません。力がありません。
むしろ皆さんが聞いたことをそのまま生活するならパワーができると思います。
まず私が反省しながら、私がこれからメッセージしたことと生活が一致するようにこれから頑張ります。
これが正しい信仰、生きている信仰。
2番目は、見えることを信じるのではなくて、見えないことを信じることです。
目に見えることは何ですか。これは天気です。環境の動きです。
環境の動きは皆さん良かったり悪かったり、色々あります。
変わります。すぐすぐ変わります。
目に見えるもの、すぐすぐ変わるものに対して、私たちが泣いたり笑ったりしたら、私たちはどんな存在になってしまうんでしょう。
信仰の先輩たちは目に見えることによって揺れることはありませんでした。
彼らは目に見えないことをずっと見ていたんです。
それを目指して見ていて、それでずっと生活していたから、目の前に動いていることは何にも気にしませんでした。
これは大事です。
目に見えないものは、永遠なもの、価値がある。
目に見える、すぐすぐ変わってしまうものは、価値がないものです。
ですから私たちは、目に見えない、しかし永遠な価値がある、それが何なのか。
それが神様であり、御国であり、神様の報いであり、それが永遠の天国であり、
人たちがそのように願っていた私の故郷、天にいる私の故郷、その部分、神の国。
それを目指してずっと生きたように、私たちも目に見えないが、永遠の価値がある素晴らしいものに目指して生きる。
その信仰が正しい信仰です。
3番目、正しい信仰は、前を向いて前進する信仰です。
みんな信仰を持っているのですが、だんだん年を取っていくなら、
まだだんだん私もそのような傾向がありますが、諸極的になってしまうのです。
積極的ではなく、生きている、前進する、何か活発的な働き、それを伴う信仰ではなくて、
ギリギリ自分の信仰を守ろうとする、このくらいでやっていこうとする信仰。
私は大抵このような傾向で、いつも天道寺さんから指摘される場合が多いのですが、
前を見て前進する、そのような信仰が正しい信仰です。
また、現実の中には色々問題があります。
誘惑もあるし、患難もあるし、苦しみもあるし、
その時、いつも倒れて、挫折して、また悩みながら、泣きながら、どうしようという信仰ではなくて、
それを乗り越える信仰。信仰は十分に乗り越えるパワーが与えられるものですから、
乗り越えて、周りの人から、素晴らしい、私もその人みたいになりたいと思っている、
そのような信仰の所有者になってほしい。
それが神様が見られるのに、生きている信仰だ、正しい信仰だ、
こんな素晴らしい信仰だと言われるものです。
まずそれを考えながら、このような信仰の本質が何なのか、
ヘブラリー書中1章1節に書いてあります。
信仰とは何ですか。信仰とは望んでいる事柄を確信し、
見えない事実を確認することだ、と。
信仰は望むことから始まります。
私たちは何を望みますか。
家族の健康、幸せ、当面の問題解決、
また私たちが求めている何か希望、それが早く成し遂げるように、ということが多いです。
もちろん神様は私たちの願いを全部知っておられます。
私たちが何が必要なのか、私たちにこれがなければいけないことを全部わかっています。
神様はそのことを与えてくださいます。
ですから私たちはそのようなことに、
あだまで何かいろいろ考えたり、そこでできるかできないかによって挫折したりするんじゃなくて、
もっと大きなこと、もっと価値があることを目指して、
それで私たちの信仰を望むことを願っておられます。
ローマ書8章24節を見ていますと、
見えるものに対する希望は希望ではありません。
見えているものを誰が望みますか。
見えない、永遠なもの、価値あるもの、それを私たちが望むのですと言います。
いつも価値ある大事なことを私たちが祈るときに、
イエス様が主の祈りで教えてくださったこの初めの部分。
私たちは何を祈るべきか。
まず神の皆があがめられますように。
御国が来ますように。
御心が天で行われたように、地でも行われますように。
この道です。
神の皆、御国、御心。
それが成し遂げるようにと願う人は本当に素晴らしいです。
そのことをずっと求めることができるなら、本当にいいことでしょう。
第一ペトロ一周四節に、神様が私たちを救われたのは、
私たちのために、天に備えられたことを与えるためですけど、
それは何かと言いますと、
口ず、けがれず、しぼまない財産を受け継ぐものにしてくださったと言います。
神様は私たちに素晴らしいものを備えてくださいました。
私たちを救われた理由は、それを与えるためなんです。
だから世の中であったりなかったり、いろいろ変わりつつあるものを、
そこにそんなに気にしないで、
私たちの目指すのはこの部分です。
それを切に切に祈ることは大事です。
これをマタイ六章三十三節は、
何よりもまず、神の国と神の気を求めなさい。
そうすれば、これらのものは全て加えて与えられると言います。
じゃあ大事なのは、神様の素晴らしいこと、
目には見えないけど、永遠に存在する、永遠な価値を持っているもの、
それを私たちに与えるために、私たちを救われたものですから、
私たちが望むことを、少しレベルを高めにして、それを求めましょう。
そうするなら、今、現実的に必要なすべては、神様はすでにわかっているよ。
そんなことは異様人たちが求めることだ。
あなたたちは、神様が願っていることを求めなさいと言われるものですから、
私たちが望むことを、少しレベルを上げていきましょう。
それが信仰です。
じゃあ、望んでいることがあるということを考えるときに、
信仰は現実の不満足から始まるんだということがわかります。
ですからマタイ五章では、貧しい人、哀れむ人、悲しむ人、
また木に植え乾く人、その人たちを神様が信仰を与えてくださることがわかります。
健在的に食べて生きるのに十分、私はあまり問題ありません、
ような人は信仰を持つのに非常に難しいです。
ですから聖書は、金持ちが神の国に入るよりは、
ラクダが針の穴を通ることがもっと優しいと言われたほど、
もう満足しています。世の中で満足しています。
ラザロと金持ちの例えで、金持ちのような人、
そのような人たちは望むことができないから、信仰はできません。
これが問題です。
ですから私たちは、この世の中で、
この世の、よく私たちは考え、年取っていくなら、
この世のことはあっという間に過ぎてしまったなと思いながら、
この世の生活の無意味さ、無価値なこと、これをよくわかります。
本当に求めること、正しいこと、永遠に価値があるものは、
それが何なのか、それを求める私たちになれればと思います。
それを求める霊的な希望、霊的な願いがあるなら、
神様がその人に信仰を与えることができるでしょう。
また、9章27節、28節に、イエス様が道を歩いているときに、
二人の目が見えない亡人が追いかけてきながら叫びます。
ダビデの子よ、私たちを憐れんでくださいと言います。
続けて続けてダビデの子よ、私たちを憐れんでくださいと言う。
イエス様がお家に入られると、家までついてきながらまた叫びます。
そこでイエス様が、私がそれができると信じるのかと言います。
はい、信じますと言います。
あなたの信仰通りになりなさいと言います。
私たちを求めること、望むこと、願うこと、
これを叶えてくださる、素晴らしい、
これは信仰はこんなパワーがあります。
もう目が見えない人は、イエス様を求めることによって、
癒やされ、救われました。
シト・パウルは、イエス様が、
あなたたちは行って全ての人を私の弟子にしなさいというメッセージを
よく受け止められたと思います。
パウルはローマの迫害の中で、
ローマ帝国の中をくるくる回りながら、
第一次選挙旅行、第二次選挙旅行、第三次選挙旅行までやりました。
その選挙旅行ができたのは、神様が喜ばれることを、
私が叶えてあげたい、私はそのことをやってあげたいという、
神様からの使命、
そこに対するものすごい大きな熱望があったからです。
皆さん、普通、第一次選挙、第二次選挙、第三次選挙旅行までやったとしたら、
私がこれを全部やったから、これからは少し休みましょうと言うべきなのに、
その後、彼は何というのか、
シド行伝中級書21節、私はそこにいた後、
ローマも見なければならない、
またはスペインまで行かなきゃいけないと思います。
パウルは絶え間ない望みがありました。
その望みを消すことはできない。
彼の心にいつも主のための望み、神様のための望みがあります。
ここに望みがありますけど、望みがありました。
神のための望みが大きくて大きくて、
それをやり続けてやり続けていく間に、
彼は神様の中で一番大きく用いられる人になりました。
信仰は素晴らしいです。
望むことを成し遂げるパワーがあります。
私たちも神様に対する望みがもっと大きくなれればと思います。
しかしこれも年取っていくなら、望みがだんだん消えていくことにありますね。
ここが私は今反省して、
改めてもう一度、主よ、改めて私の心を、
神様の望みを与えてくださいと祈るところであります。
11章3節には、信仰について話をしながら、
天地創造のところを話します。
11章3節。
信仰によって私たちは、この世界が神の言葉によって創造されたことを信じます。
信仰ができるために、一番初めに認めなきゃいけないことがあります。
これは、この世界の存在に対する信仰です。
この世の中のすべてができたところには、
二つの見解があります。
一つは進化論、もう一つは創造論です。
進化論は、すべてが年が長い年月を通して、
変わって変わって変わって変わっていってみたら、
このようなことができたということです。
これは、偶然にできたということでしょう。
偶然に今、世の中のすべてがこのような状態になったということです。
また、人間の存在。
なぜ人間がこの世に存在するようになったのか。
偶然にできたので、人間が存在するべき特別な理由がありません。
ですから、すべての考えが運命的、また虚しいです。
これで、進化論を信じる人は、
神様が願っておれる誠の信仰はできません。
なぜなら、すべて偶然、偶然ということがあるからです。
しかし、創造論があります。
ある絶対的な主見者が、特別な目的のためにこの世の中を創造された。
また、私たちは人間も必然的な目的、特別な目的があったから創造されたと信じることです。
だったら、私の存在に対して、神様では、私はなぜ創造されたんですか。
神様に問いながら、神の見声を聞きながら、自分の存在の意味を分かって、それで信仰を生活していくことです。
ですから、進化論では、神様が願っておれる信仰はできません。
創造論だけで、それができます。
だから、注意書3節には、天地万物が作られたのは、神様の特別な目的によって存在するようになったと、
わざわざ信仰の章ではそれを書いてあります。
神様の絶対的な主見、説理を信じる信仰、これが信仰の出発点です。
また、4節から7節には、神様が認められる信仰の先輩3人を紹介します。
彼らはどんな信仰によって、神様を喜ばせたのか、また神様から認められたのか、
これを今日、皆さんと分かち合いたいと思います。
ヘブライ子をはじめに紹介する3人の人、まずはじめにアベルの信仰です。
注意書4節です。
信仰によって、アベルはカインより優れた生贄を神様に捧げ、その信仰によって正しいものであると証明された。
そして、アベルは死にましたが、信仰によって今もなお語っています、という神科学では書いてあります。
アベルの信仰は、神様に正しい礼拝、誠の礼拝を捧げて、神様から正しい喜ばれる信仰者だと認められました。
じゃあ、アベルの礼拝とカインの礼拝。
創世紀4章では、1章から3章ではなかった特別な儀式が現れるんですけど、それは礼拝です。
礼拝は、罪人が神様に出会う方法です。
罪人は神の前に立つことはできません。
なぜなら、神は清いお方、聖なるお方だから、罪人が神の前に立つなら、そのまま死んでしまいます。
罪人は神の前に立つことはできません。
しかし、礼拝を通して神の前に立つことができます。
また、礼拝を通して神様との正しい関係を取り戻すことができます。
その時、神様からの永遠の命、神様からの全ての祝福が、罪人である人間に与えられる時間が、礼拝の時間です。
ですから、礼拝に成功することは非常に大事です。
礼拝に失敗することはもう終わりです。
ところが、神様はアベルの礼拝を受け入れ、カインの礼拝を受け入れなかったということです。
なぜ受け入れなかったのか、これは立法が与える前だから勝手に考えることはできませんけど、
罪人は神に出会うことはできない。
だから、礼拝の前に必ずあるべきことは悔い改めということです。
多分、これから見てますと、アベルは創世紀3章で、自分の父親母親がチェン役の知識の木の実を食べたことに対して、
神様の前で悔い改めながら、気の毒だと思いながら、礼拝を捧げたと思います。
それをどうして分かるのか、ダビデが説明をしてくれました。
支援の51編の中7節。
アベルは神様の前で、私の父母が神の前で罪を犯しました。
それで、神様を下せた全ての祝福を失うようになりました。
悔しいです。気の毒です。
神様、私は悔い改めます。
神様の恵み、祝福を私たちに再び与えてくださいと、アベルは多分、礼拝したと思います。
それで、神様が正しいと言われて、アベルの礼拝を受け入れられました。
ところが、下院は何が食べたのか。
創世紀4章5節6節を見ますと、
神様、私も礼拝を捧げたのに、なぜアベルの礼拝だけ受け取り、私の礼拝を受け取りませんか。
神様に反抗することを見るときに、
自分の父親、母親が罪を犯したことに対して、神様が痛む心をかえりみることができなく、
ただ、形式的な礼拝を捧げたなと思います。
神様は正しくない礼拝を受け取ることはできません。
じゃあ、アベルは成功し、下院は失敗して、下院は神様から離れてしまいました。
そして下院は、神様のいない世界を作り始めます。
ここで、かわいそうなアベル、下院から殺されて、初めの殉教者になりました。
皆さん、正しい礼拝を捧げる人は、この世の中から迫害を受けるんだということはわかります。
しかし聖書は、アベルは死にましたが、彼はこの信仰が今も生きていて、
信仰によって今も私たちに神様の信仰を教えてくださるんだということを書いてあります。
アベルは正しい礼拝を神様に捧げる人でした。
2番目、絵の具です。
注意書5節に、信仰によって絵の具は死を経験しないように、天に映されました。
神が彼を映されたので、見えなくなりました。
映される前に、神に喜ばれていたことを証明されていました。
絵の具といったら、神様と共に歩んだ、神様との親しい関係、共に歩む信仰。
絵の具はどのようにして神様と共に歩むことができたのか、
彼の人生に何かきっかけがあったような気がします。
絵の具は65歳のとき息子を産んで、そのベトシェラーという名前をしたのですが、
ベトシェラーという名前の意味が、彼が死ぬとき裁きが来るという意味です。
実際、絵の具の孫、ノアの時代に神様の裁きが来ました。
絵の具はベトシェラーを産むときに何かを感じたのです。何かを悟ったのです。
ですから息子の名前をベトシェラー、あなたが死ぬときに裁きが来るんだよということを名前を名付けて、
何かを悟ったから、その時から信仰を正しくして、神様と300年間ずっと共に歩む生活をしました。
当時の世界は、会の子孫たちが世界を支配していたので、
神がいない世界、神を無視して不従順の世界、暴力、堕落、その世界でした。
その中で絵の具は神と共に歩む生活をした。素晴らしいんじゃありませんか。
ですから聖書は絵の具の信仰を話しながら、ヘブラー書中1章6節にいきなりこのような話をします。
信仰がなければ神に喜ばれることはできません。
神に近づく者は神が存在しておられること、また神がご自分を求める者たちに報いてくださる方であることを信じなければならない。
絵の具は、まず神が存在しておられることを信じたと言います。
これをコランデオーと言いますね。
絵の具は目に見えないけど、神様の存在を信じました。
信じるということは何というか、神をおられる。
また私が何をするんだとしても、神様を見ておられる。
神様をずっと見ておられるんだということを、自分はいつも考えながら生活した。
だから私が何をするんだとしても、神様を見ておられる。
私が何をするんだとしても、神様が何が問題なのか、何をすればいいのかを全部わかっておられる。
だから神が生きておられる。
それを考えるから、神の前で生きる生活ができました。
だからコランデオーと言うでしょう。
また彼は、神はご自分を求める者たちには報いてくださることをいつも信じました。
神様を報いてくださる。
だから私が祈るなら、祈りの答えをくださる。
私が悲しむなら、神様は慰めてくださる。
私が何をするんだとしても、そこに出して答えをくださる方だと信じているから、
神は生きておられる。私を見ておられる。
私がやっていることを全部答えてくださる方。
だからもう神様と共に歩むしかない。
1日24時間ずっと神様に語り続け、神様の答えを聞き続け、
そのように毎日毎日が神様と共に歩む生活をする。
神様を報いてくださる方。
だから神様はエノクの信仰通り、死なないで天国に行く人になりました。
先週も死なないで天国に行く人、エリアを申し上げましたけど、