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2022-08-21 25:28

「死ぬことが 終わりではありません」2022年8月21日(日)メッセージ

東京ぶどうの木教会 2022年8月21日(日)主日礼拝のメッセージです。 牧師:アブラハム黄

ルカ-29 「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。20.この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、21.その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。22.やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。23.そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。24.そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』25.しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。26.そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』27.金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。28.わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』29.しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』

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今日は死のことが終わりではないという対応をもって メッセージを分かっちゃいたいと思います。
世の中の人々は死んだら終わりだと言います。 皆さんもそう思いますか?
戦争はそう言っておりません。 神様はイエス様が私たちを使わされた理由、私たちを救うために十字架で死んで、
私たちは罪の代価を全部支払って復活されたんですけど、 その意味をローマ書6書8節にこう言っています。
私たちはキリストと共に死んだのなら、キリスト共に生きることになると信じます。
キリスト共に生きて神の国で、天国で永遠に生きるようになるんだと言われています。
ここにキリストシャーの期待、希望があります。
第1コリッド13章ではキリストシャーに3つのことが必ず必要だと言います。 信仰、希望、愛。
ここで信仰と希望は再び生きること、また神の国で永遠に四国の中で生きることに対する希望です。
ですから、使徒たちはこの世の中を旅人だと言いました。 カリスマイだと言いました。
彼らはいつも戻っていく故郷を考えながら、 この世の中では巡礼者の生活をしました。
彼らはその信仰通り再び復活して、今、神の国、天国で生きています。
モーセの素晴らしい信仰がヘブライショー11章24節からあります。
信仰によってモーセは成人した時、 ファラオの王女の子と呼ばれることを拒んで、
儚い罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待される方を選び、
キリストのゆえに受けるあざけりをエジプトの細母より勝る富と考えました。
与えられる報いに目を向けていたからです。
モーセはファラオの宮殿で、王子として一生が楽しみながら過ごそうと思って生きたんです。
しかし彼は王子の生活を捨てて、自分の民と共に虐待される奴隷として生きる道を選びました。
考えてみてください。再び生きること、永遠に生きることがなければモーセはなぜこんな選択をしたのでしょうか。
今まで私は死んだ後、復活の生活、復活の人生があることを皆さんに申し上げたんですけど、
よくよく考えてみれば、それが理論に過ぎませんでした。
信仰がないスタイル、虚しいメッセージでした。
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しかし今度母の死と葬儀を行いながら、死のことが終わりではないということは実際的に確信するようになりました。
ですから今日は先週に引き続き、もう一度死のことで終わりではないというメッセージを伝えたいと思います。
このメッセージによって皆さん信仰が与えられ、本当に死んだ後の世界のために準備する私たちになれればと思います。
まずは始めです。なぜ死ぬことが終わりではないでしょうか。
もともと人間は、創世紀1章27節、神はご自分にかたどって人間を人を作られた、神にかたどって創造されたと言います。
人間は神様の見姿で作られました。神の見姿の特徴の中で一つは霊的な存在として作られた。
霊である神様は死にません。同じように人間も死にません。
しかしこの人間が創世紀3章でチェン役の知識の木の実を見て食べて罪を犯しました。
それによって創世紀2章と創世紀3章の間には大きな変化が生じました。
罪によって神様との関係がためになるから、神の命が離れてしまった。
その時神の子供であった人間が悪魔の奴隷として変わりました。
大地妖音3章8節です。また永遠の存在が死ぬしかない。創世紀3章19節。
土に過ぎないお前は土に帰れ。罪の罰として人間は死ぬしかない存在として変わりました。
これによって超自然的な存在が聖言を持っている存在として変わったんです。
皆さん、罪はこんなに怖いものです。神の命が離れるならこのようになってしまうのです。
すべての人類は罪によって死ぬようになり、死んだ後には地獄で罰を受けるような存在になりました。
ですから人類は生きても苦しみ、死んだらもっともっと怖い苦しみが受けるようになりました。
神様はこのような人類を愛して、大地妖音3章16節。神はその一人子を与えるほどに要愛された。
一人子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためであろうと言います。
私たちは神様の恵みによってイエス・キリストを信じ、永遠の命を持つ人になりました。
これはなんと素晴らしい恵み。どうやってどんな素晴らしい感謝でしょうか。
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じゃあここでイエス様を信じて救われて永遠の命を持っている私たちに死ぬということはどんな意味でしょうか。
それは罪と呪いの中で生きた聖言的な体を脱ぐことです。
そして本来の神霊な姿を背負うこの過程です。
これは理論ではなく実際です。
ですからキリスト社にはこの世で死ぬことが悪いことではありません。むしろ祝福です。
では信じない人はどうなるのか。もちろん信じない人も永遠に生きます。
ただ弱音故障29説といいますと命の復活ではなく裁きの復活として永遠な罰を受けるために信じない人は復活するんです。
ここでもう一度先週申し上げたんですけどもう一度人生の100年の意味を申し上げたいと思います。
この世で住んでいる皆さんはみんな同じようなチャンスが与えられています。
この世で100年です。この100年の意味は何でしょうか。
みんな来る時空っぽで来ます。そして死ぬ時は空っぽで帰ります。
だったらなぜ生まれたんでしょう。ある人はこう言います。自分の名前を残すために来られた。
しかし小枝と伝道の章、禮章6説といいますとその名前を誰が覚えてくれるのか。何の意味もない。
名前を残そうとする。これは虚しいことだと言います。
では神様がくださったこの世の100年の意味は何でしょうか。
自由意志を持っている人間にチャンスを与えることです。
ヘブナイショキューション27説。人は一度死ぬことと次に裁きがある。
この裁きによって天国か地獄かによって決められるんですけど
皆さん人間は裁きを耐えることはできません。自分の努力自分の自己気によって神の裁きで
これを合格することができないからです。罪を犯さない人がいますか。
自分の努力で救われる人がいますか。いません。
ですから神様がこの世を愛して一人っ子を与えてくださり
一人っ子イエス様は十字架で私たちの罪の問題解決してくださったから
誰でも悔い改めてイエス・キリストを受け入れるのか。
これが私たちに与えられたチャンスなんです。
自分の力で救われる人は誰もいません。イエス・キリストに出会わなければなりません。
ですから人生の中で様々な苦難苦しみの中で
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イエス・キリストを出会うことさえできるならその苦難苦しみがむしろこれがチャンスであり祝福であります。
では人間の救いと永遠に生きることをもっと詳しく考えていきましょう。
聖書は第一テサロニケ5章23節に
人間は霊と魂と身体を持つ存在だと言います。
霊と魂と身体によって人間はできています。ケネス・エイギン先生はこう言います。
人間は霊によって霊の世界に接し
魂によって精神的な生活に接し
肉体身体によって物質的な世界に接して生きる
人間は霊魂を持って身体の中で住む存在だと
大事なのは身体が自分自身ではなく霊魂が自分自身だと
身体は霊魂を受ける器でありしばらく泊まる家と同じです。
身体はこの世で住むためにしばらく与えられることであり
しかし身体は古くなり年をいってまた病んでいきます。
身体は衰えていくんですけど霊魂はいつまでも同じです。永遠に生きます。
人間は神様の見姿
神様が永遠に生きるように人間も永遠に生きます。
しかし罪によって第一和音3章8節
罪の罰、呪い、死、地獄が来たのではありませんか
だから罪の問題を解決できなければ人間は
あくまとともに地獄で永遠な罰を受けるようになります。
この問題をどのように解決しますか
神様から与えられた恵みイエス・キリストの忠実家以外は
罪の問題を解決道はありません。
これは私たちの努力を行いではなくイエス・キリストを信じるのか受けられるのか受けられないのか
これが大事です。このチャンスが人生100年の意味です。
ですから人生100年過ごしながらこれを悟ってイエス・キリストに出会わなければなりません。
私は最近何年の間に2018年度父を亡くしました。
2022年度には母を亡くしました。 その父母を亡くしながら私が感じたことがあります。
父母を精神的な状態、心の状態、体の状態を身近でずっと私は見守りながら
霊魂は、精神は変わりがない。 ただ体が弱くなっていく。衰えていくんですね。
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理性、知性はそのままなんだけど体が問題だったんです。病気になるから体が部分部分自分の役割ができなく
特に足が弱くなっているから問題になるのは大正面です。
理性、知性はそのままなんだけど 体が弱くなって勝手に動かない。こんな問題どうすればいいのか
姉が 母の大正面のためになぜお餅をしてないのかと言いながら腹を立てているところで
母がこう言いました。言ったと私今度聞きました 私があなたを産んであなたをすべてを助けてあげたんじゃない
あなたは今度私を助けてくれ と言われたそうです
皆さん考えてみてください 体が動かない
もう思いはずっとあるんだけど体が動かなくて恥ずかしい気持ちになるこのこと
生々しい精神を持ちながら 自分は人々に恥を受けるこのようなことをどう考えればいいでしょうか
私は霊魂と体の関係を考えながら ケネセイギン先生の死後の証
このことをもう一度考えるようになりました 子供の時病気によってシューツを受ける間亡くなった死んだと言います
その時彼は 霊魂と体が分離され
シューツ台の上の天井から シューツ台に横たわっている自分自身を見たと言います
皆さん私たちが死んだということは霊魂と体の分離を意味します そしてこの霊魂は不可抗力的な力に引っ張られて
血の中に引っ張られていった 遠く地獄の炎が見えた
その時 誰かの祈りの力によって自分の霊魂は引き換えられ取り戻されて体に戻ってきたと言います
その祈りは母の祈りだったと言います 皆さんご覧ください
私たちの祈りはこんなに力があるんです 彼は死んだこと
生き返ったことこのすべてを証として本を書き そして牧師になりました
人間の嫉妬は霊魂と体の分離です 体は土に戻りますけど霊魂は天国と地獄どちらかに行って永遠に行きます
これは人間の自分の自由意志の選択によって決められます イエスキリストの至上の力を受け入れるのか
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そうじゃなければ自分の偉そうな努力で救われようとするのか それによって永遠の命なのか
永遠の罰なのかが決められるんです イエス様が例えられた今日のルカの16章
今日読んでくださった金持ちとナジャロの例え 金持ちは地獄の炎の中で何と言いますか
この世の生々しい記憶を持って彼は地獄で苦しみを受けます 皆さん死ぬことが終わりではありません
地獄で続けられます 彼が何と言うんですか
私には兄弟5人がいます あの者たちまでこんな苦しい場所に来ることがないようによく言い聞かせてください
ナジャロを使わせてください その時何と言うんですか
世の中には牧師伝道師がいるんじゃないか 彼らから聞かなければ死んだ人が生き返られたとしても聞かないでしょう
受け入れないでしょうと言います じゃあここで大勢の方がまた後悔をします後悔をします
ナジャロはイエス様信じてないんじゃないか しかし皆さん大事なのは神様は彼の名前を知っていた
金持ちの名前は何ですか 金持ちの名前は聖書で書いておりません
ナジャロの名前だけ書いておるんです 名前が聖書に書かれてあるということはすごく大事です
神様は孟子にこう言います 私があなたを名前よって知る
孟子の名前よって知る これは親しみを意味するし愛の関係も意味するし信仰も意味します
孟子は神を愛する人だから 天国に行きました
私たちのこの100年の僕的 うまく食べてうまく生きるために来たのではない
イエス様に出会って罪から救われるチャンスとして与えられた時間です また救われた人は神の子供の祝福の特権を持って
世の中の信じない人々を救うために与えられた時間です ですからイエス様信じて私が救われ
そして周りの方々を救うこの働きが世の中で一番大事な働きであり この働きは永遠に生きます
私たちがイエス様を信じて天国で永遠に生きることを信じるなら 死ぬことが終わりでないということを分かったなら
この世の中でこれから生きる理由目的が変わらなければなりません まず自分自身が天国に行かなきゃいけないし
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また 周りの方々を天国に導くこの働きをしなければなりません
死ぬことが終わりではないならこれから私たちはどう生きればいいのか まず一番大事なのはイエスキリストの関係性です
イエスキリストの関係性が命より大事だということを考えなければなりません イエス様との親しい愛の関係
キリストの神父になることです 皆さん自分のために死んでくださった方を愛できない人がいますか
その方の恵みによって天国に入り神の子供になり すべて神様の祝福をいただくようになったんですけど
私たちは他のことができなくても私たちの心 精神を尽くしてイエス様を愛することだけは
うまくやらなければなりません このためには見事ばと精霊の助けが必要でしょう
天国は信じる人が入りますもちろんそうです しかし心にかけておきましょう
イエス様は愛する人が入ります イエス様はご自分の愛する神父を連れに入りなさいます
そして後一時の婚礼式に私たちを招かれます ラザロのように
自分の名前を神様が知っているその人になりましょう 皆さん私たちの名前はイエス様知っているでしょうか
イエス様はハンガキョという名前を知っているでしょうか 知らなければ私も
私もどうなるか分かりません これからイエス様との親しい交わりの中で私の名前をイエス様はよくよく覚えておられる
その方になってください 二番目
戻っていくべき故郷 上のことをいつも求めていかなければなりません
なぜ上のことを求めるのが大事なのか この世の誘惑は
本当に怖いです 現在のもとにある私たちはこの世に弱いです
お金の誘惑 または世の中の心配
いろいろなことによって霊力に鈍化になり 心を奪われてしまうなら悪魔にやられてしまいます
イエス様の中仁使徒の一人 イスカリとユダもお金を愛しながら
彼の心が鈍化になった時 悪魔の奴隷になってしまいました
ですから私たちは油断しないで美言葉10万 精霊10万持っていつもこの誘惑
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世の中の誘惑に勝ち抜かなければなりません 三番目
使命を担うことです 私たちはこの世に来た理由目的は
うまく食べてうまく生きるために来たのではありません 天国に行ったら世の中で何よりもっともっと私たちは幸せに過ごせます
またこの世には幸せに過ごすために来たのではありません 命の救いのために来ました
まず自分自身がイエス様とやって命が救われ また愛する周りの方々をイエス様とやって救われる目的です
それだけではありません命を預かって保護しながら育てる 境界が大事なんです
ですから命と境界のために神様が私たちを招かれたんです イエス様はペトロを呼ばれる時初めに何と言うんですか
あなたは人を取る良子になると言いました 最後は何と言うんですか
私の羊を飼いなさい 私の羊のシェアをしなさい
初めから最後まで神様は大切にする命を預かる働きをお願いしました
私はお皆さんに申し上げています みんなが牧師になったり伝道師になる必要はありません
しかし永遠に生きることを考える時 私は皆さんみんなが牧師伝道師だと思って
信仰生活してくださればと思います 主を愛し主の御業に熱心を持つこのような生き方になってほしいです
なぜなら私たちがやったすべてのことに対しては 永遠に報いをいただくようになるからです
無駄なことをやめて これから永遠の報いを得ること
永遠に生きる私たち こればかり考えていただきたいと思います
最後にコエレット7章2節に 弔いの家に行くのが主縁の家に行くのに勝る
そこには非とみんなの終わりがある 命ある者よ心せよ
弔いの家に行くことが主縁の家に行くことより勝ると言いました
私は今度この見言葉通り 母の葬儀に行って私が学んだことが今日のメッセージです
葬式の場で私は死ぬことで終わりはない 終わりではないということを学びました
ですから私は初印礼拝でこのように申し上げました
お母さん天国に先に行ってください 私が後ついてくるから天国で会いましょうと言いました
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まだ兄弟たちに私たち天国で母にお会いしましょうと言いました 皆さん死ぬことが終わりではないならそれを信じるなら
世の中の人々のように過ごしてはいけません これから残りの人生よく用いて
永遠の生きることを準備しましょう 私たちの努力はすべて神様から報いがあります
もし今まで人生を無駄遣いをして過ごしたとするなら 悪い人生の生き方をしたとするなら
これからでも 時間をよく用いて永遠の世界永遠に生きることを準備していきましょう
神様が一番よくやったと褒められる私たちになれればと思います お祈り致します
主よ母の死を通して100年の人生 永遠に生きる人間について分かっちゃいました
すべてこのすべてがイエスキリストの十字架の愛と恵みのおかげです 私たちの残りの人生を
イエス様の愛をよく伝えて 永遠に生きることをよくよく準備していく私たちにならせてください
イエス様の皆を通してお祈り致します アーメンアーメン
25:28

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