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今日は、誰が幸いな人なのかについて メッセージを分かち合いたいと思います。
世の中の人々が一番好きな言葉は祝福です。 みんなが祝福されたいと願っています。
ところが祝福とは何でしょうか。 大勢の人はいい格好に行って、いい職場に就職して、
金を稼いで、いい人と結婚して、 うまく食べて、うまく生きることが祝福ではないかと思います。
本当にそれが祝福なんでしょうか。 そうしながら地獄に行ったらどうしますか。
そうではありません。 ですから、この世の中で豊かに生きることだけが祝福ではないような気がします。
祝福は、創造主神様がくださることです。 神様の創造なさったその計画通り、
人間が生きるときに与えられることです。 そうするなら、この世だけではなく、永遠に祝福を味わうようになります。
聖書は、それが成し遂げるところ、 それを神の国、利国、天国だと言います。
今日、どんな人が 神の国に入るのにふさわしいのか、
それをまたその資格は何なのかを一緒に考えてみたいと思います。 その国は心から成し遂げられる国なので、
心をどのように持つのかが大事なんです。 それを教えてくださる聖書が三条の推訓です。
マタイのマタイ福音書5章から7章までの内容ですけど、 今週から何週間にわたって、この三条の推訓を分かち合いたいと思います。
三条の推訓とは、山の上で教えてくださった教訓という意味です。
旧約時代、エジプトから出たモスエとイスラル民は、 神の山シナイ山で立法を授けてもらいました。
この立法は、神の民としてどのように生きるべきか、 教えてくださる御言葉でした。
新約の時代、イエス様も山の上に登って教えられます。 この教訓は、神の民はどんな人であり、
どのように生きるべきかを教えてくださる御言葉です。 三条の推訓を通して天国を味わい、
神の民らしい生活ができるように、説に祈ります。 では、イエス様が教えてくださった、まことに幸いな人は誰ですか。
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1節から16節を、三条の部分に分けて申し上げたいと思います。 1節から6節、祝福の源であるイエス様に出会う人が幸いな人です、ということ。
また、7節から12節は、イエス様の後輩性に変わった人が幸いな人です、ということです。
また、13節から16節は、イエス様に持ち入られる人が幸いな人です、という内容ですけど、この3つを申し上げたいと思います。
まず1番、幸いな人が誰ですか。 初めに、イエス様に出会う人が幸いな人です。
では、この世の中で誰がイエス様に出会うことができますか。 3数値を見ますと、心貧しい人々がイエス様に出会うことができる、ということです。
心貧しい人はどなたですか。 心貧しい人は、自分の足りなさをよく知っている人。
自分の中で良いことがないことを知っている人です。 神の恵みがなければいけられない。
神様の助けがなければ、何にもできないことを知っている人です。 ですから、切に神様を求め、委ねる人です。
このような人は、イエス様に出会います。 その心に御国が望むようになります。
反面、心が豊かになって、自分が自分を誇りたいという人は、イエス様に出会うことができません。
なぜなら、信仰は心の貧しさから始まるからです。
2番目4節に、悲しむ人がイエス様に出会うと言います。
人々は何のために泣きますか。 なかなか解決できない人生の問題のゆえに泣きます。
また、愛する人が持っている弱さ、またその問題のゆえに泣きます。
皆さんも、小家族のために泣いていらっしゃるのではありませんか。
また、繰り返される自分の過ちの罪のために泣いたりします。
ところが聖書は、このように泣いたり悲しんだりする人が幸いだと言います。
なぜでしょうか。 その人は、この悲しみのゆえにイエス様の前に出てくるようになり、
そうするなら、イエス様が必ず助けてくださるからです。
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マラコ古書に、カイドウチョウ・ヤイロという人がいました。
娘が病気に死にかかっていました。 彼は宗教指導者として、
当時遺嘆しされているイエス様には、もう進み出ることができない人だったのですが、
娘の病気をどこでも治すことができないから、 仕方がなくイエス様の前に出ました。
途中で娘が死んでしまったという話も聞きました。
失望するヤイロに、イエス様は、 恐れることはない。ただ信じなさい。
言われながら、イエス様はヤイロを助けてくださいました。
ヤイロは娘が生き返られるだけではなく、 ヤイロの家は救いをいただきました。
このように、悲しんでイエス様の前に進み出てくる人は、 イエス様が必ず助けてくださいます。
ですから、悲しむ人々は幸いだと聖書は言っています。 助けてもらうし、慰めてもらうからです。
皆さん、たくさん泣きましょう。 私たちの愛する人々のために泣きましょう。
そうするなら、彼らたちは生き返られるだけではなく、 イエス様に出会って助けてもらい、
祝福をもらうのではありませんか。
次に、古説、イエス様は、 友和な人々は幸いであると言われました。
特に、その人たちは、知を受け継ぐと言います。
ところが、友和な人はどんな人ですか。 友和な人は、言葉通り温かく優しい人です。
人々をよく受け入れ、使える人。 相手を非難したり、攻撃する人ではありません。
相手が過ちを犯す時には、かばってあげます。 祈ってあげます。謙遜に助けてあげます。
戦うよりは、譲って、負けてあげるんです。 全てを神の身胸の中で考え、全てを神様に任せます。
皆さん、このような人たちがいるなら、 馬鹿にされるのではないですか。
また、世の中で脱落者になりそうではありませんか。 しかし、イエス様は、その人たちが幸いだと言われました。
創世紀26章の遺作が、そのような人でした。 自分が掘った井戸を、ペリステの羊飼いたちが奪ってしまいました。
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パレスティナ地方には水がないので、 井戸は命と同じようなものです。
彼は相手が奪おうとする時に、譲って他のところに移動します。 また移動して、そこで井戸を掘りました。
そしたらそこで水が出たのです。 そしたら彼たちがまだ追いかけてきて、その井戸も奪いました。
そうしたら遺作は戦わないで、その井戸を譲りました。 人々は遺作を馬鹿だと思ったかもしれません。
そのように生きたら、全てを奪われてダメになるんじゃないかと思われたかもしれません。 しかし遺作は戦わないで、また
またよそのところに行って、井戸を掘ります。 そしてそこでも水を得ることができました。
彼は神を信じる信仰によって譲って移動し回ったのです。 それによって彼はもっと広い土地を得ることができました。
神様はニューアーな遺作に井戸も与えてくださり、広い土地も与えてくださったのです。
これをずっと見ていたペリステイの王アビンメレクは、遺作に訪ねてきて和解しようとしました。
神様はニューアーな人を祝福してくださいます。 このような人々はこの世を得るのです。人も得るのです。
ここでニューアーということは神を知るところから来る神聖です。 このニューアーは信仰の訓練を通して来る
精霊の実り、信仰の実りなんです。 私たちは暖気で
我慢できなく怒ったりします。気に合わなければ大きい声を出して出てしまったりします。
この人々は人からの尊敬と信頼を得ることはできません。
この人々は地を得ることは去っておいて、自分が立つ居場所も得ることが難しくなるでしょう。
しかし信仰によってできたニューアーな人は神様から認められ人々から認められます。
人々はそのような人が好きになります。 ですからその人は結局地を受け取りまた人々を得るようになるでしょう。
次に六説、イエス様は木に植えかわく人々は幸いであると言われました。 この世の中には力がある人たちが不正をし不義を行って
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世の中が難しいんです。 この不義な世界に正義を求める人たちは心が痛いんです。
もともと苦しいのは正義を求めている自分自身の中でも気がないということです。
自分の中で罪の本性のゆえに嘆きをします。 ところがイエス様はこの人々が幸いだと言われます。
なぜならイエス様の中で神の気が成就されることを見ることになるからです。
私の大学生の時代いつもデモばかりしました。 学校の授業ができないほどでした。
その時私はこのような考えをしたりしました。 この世の中で本当に真理というものがあるのか
嘆いたりしました。 それがきっかけになったかもしれませんけどその後私はイエス様を信じるようになって
信仰の中で真実の真理を発見しました。 それから見ますと木に植えかわく人々には神様が来てくださり
その人たちに神の国を知らせてくださることではないかと思われます。 今まで植えで取り扱ったこの4つの祝福に対する教えは
不特定の多数の集まりを対象として与えてくださった見事場でした。 イエス様は彼たちに誰がイエス様に出会うか
誰が天国を味わうことができるかについてお話ししてくださったんですけど 心が貧しい人、悲しむ人、龍はな人、木に植えかわく人々です。
この世の価値観から見るとそのような心を持つんだって 金を儲けることではなく職場で出世することでもないのですから
祝福とは関係ないように見えます しかしそのような理由のゆえにイエス様の前に出ることができるし
イエス様に出会うことができるからそこで祝福があります 誰でもイエス様に出会えば御国をいただくようになるからです
2番目 誰が幸いなのか イエス様に出会って変わった人々が幸いです
七節をご覧ください 憐れみ深い人々は幸いであるその人たちは憐れみを受けると言います
憐れみというのは小さい人 弱い人たちをかわいそうに思って助けることを意味します
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ところが憐れむ心は神様の心と同じです 人類が初めて邪悪の知識の木の実を食べて
そして悔い改めなかった時 神様は彼たちをエデンの園から追い出したんです
追い出しながら動物を寄生にされ 川の衣を作って寄せられたんです
罪を犯して悔い改めない人たちを なぜそんなにまで配慮されるんですか
罪を悔い改めないから罰を受けるんだけど 彼たちを哀れに思ってくださったからです
その次の章 荘石4章に見ますと カインは弟アベルを石で打ち殺します
神様は悔い改めないカインに罰を与えるんですが
彼を誰も害を与えることができないように 印を与えてくださいました
なぜそうされたんでしょうか 弟を殺した悪いカインですよ
しかし神様は彼を憐れんでくださった その身心を持っておられたからです
神は憐れみ豊かなお方であり イエス様の働きの根底には憐れに思われるその身心がありました
数多くの人々がイエス様を訪ねるとき イエス様は彼たちを憐れに思って助けてくださったんです
神様は憐れに思う心を持つ人を喜ばれます
新元19章17節に見ますと
弱者を憐れむ人は主に貸す人 その行いは必ず報いられると言います
また約部2章13節には 人に憐れみを懸けない者には憐れみのない裁きが下される
人を憐れむ思う人には 憐れみを持って神様が返してくださいます
神様は憐れみ豊かな人を願っておられます 私たち憐れみ豊かな人になりましょう
どうすれば憐れみ豊かな人になりますか そうです憐れみ豊かなイエス様に出会って
イエス様と交わりをするときに 私たちは変わっていくことができるのです
次は8節です イエス様は心清い人々は幸いであると言いました
ここで心清いというのは 二股かけないという意味です
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英語で言えば single focus という意味です
心清い人はただ神様だけを迎えます 表と裏が異なることではなくいつも同じです
イエス様に出会った人はこのように心清い人になります なぜならイエス様は心清いお方だからです
イエス様はいつも父なる神様の御胸を成し遂げることを考えられました いつも真心に人々に出会い少しも偽り飾ることがありませんでした
このように心が清い人々の祝福は何ですか その人たちは神を見ると言いました
心清い人だけが神の御顔を見るような親しい交わりをできるし 神様との交わりを味わうことができます
私たちは親しみを願っています どうしたら神様と親しみができるかいつもいつもそれを考えているのですが
ここで私たちが直さなければいけないことがあります 私たちの中では神様と偶像同時に拝む人いないでしょう
またキリスト社なのに不倫をする人もいないでしょう しかし
ここではこの話をするし他のところでは他の話をする 二面性ということがあります
これは清くありませんこれを直しましょう 心を清くならなければいけませんその時神に出会うことができるからです
次にイエス様は9節に 平和を実現する人々は幸いであると言いました
平和を実現する英語ではピースメーカーということです その反対は何ですか
トラブルメーカーです 誰がトラブルメーカーですか
大抵自己主張が強い 他人に対して批判的な人々がトラブルメーカーになります
自己中心で自分の考えで満たされています 行くところどころ戦いと争いを起こします
ですからみんなが嫌います
じゃあその人たちはどうしたら変わりますか その人たちもイエス様に出会えば
十字架を背負って私たちのために死んでくださり 私たちを許しと和解をさせてくださった
そのイエス様の御心が照らされるなら 私たちは変わります
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このように平和を実現する人は人々からまた神様から 神の子と言われる最高の名誉と栄光が与えられます
次にイエス様は10節に 義のために迫害される人々は幸いであると言われました
義のために迫害を受けるということは 具体的に何を意味するんですか
11節に現れています 私のため福音のために罵られ迫害され
身に覚えのないことであらゆる悪行を浴びせられるとき あなたたちは幸いであると言いました
イエス様を信じる人は天国の市民です
天国の市民は天国の原理について生きるようになります
しかしこの世の中の原理は天国の原理とは非常に違います ですから衝突が起こるしかありません
ですからイエス様の天使たちはこの世の中から憎しまれ 非難を受け不利益を受けるようになります
本当におかしいでしょう 謝ったこともないのにイエス様を信じるんだと言えなら嫌がられます
なぜでしょう 礼が違うからです
その時私たちは悔しくて悲しくて涙が出そうになりませんか
その時イエス様はそんな時どうしなさいと言いますか 喜びなさいと言います
大いに喜びなさいと言います なぜなら天国で受ける報いが大きいからです
今まで調べてみましたこの4つの祝福 このことは
主に弟子たちが対象でした 世の中の人々は何かを所有することを祝福だと思います
しかし真っ事の祝福は自分自身が変わること 特に心が変わることです
心が変わった人はイエス様に出会い 天国を味わうことができるからです
最後に3番目です 誰が幸いな人か
イエス様に用いられる人が幸いな人です 13節14節をご覧ください
イエス様はイエス様に従う弟子たちに この世でどんな役割をするべきなのか
2つとして教えてくださるんです その初めが
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あなた方は地の塩であると言います 塩は腐ることを防止する役割をします
このようにイエス様の弟子は この世が罪によって腐敗されることを防止する役割をしなければなりません
しかしこのような役割を担うためには 弟子たちに塩の味 塩気が必要です
弟子たちの塩気ということは何でしょうか それは先ほど申し上げました
イエス様を信じて変わった品性を意味します 哀れに思い心が清くなり
平和を作り出す 気のために迫害を担う そのような姿です
このような姿で生きるときイエス様の弟子たちは 周りに良い影響力を及ぼすようになります
反面弟子たちが塩気を失えばどうなりますか 弟子が弟子らしくなければ存在意義を失ってしまいます
何の役にも立たない存在として転落してしまいます
2番目イエス様はあなたたちは世の光であると言いました 光は闇の中に入って世界を悟らせ
生きる道を照らす役割をします 光は暗い世界の中に入らなければいけません
暗い中で光の姿を見せてくださることによって 人々に神の栄光を与えるようにしなければなりません
ここで光はキリスト社らしい良い行いのことを言います 良い行いを粘り強く実践して生きるとき
人々から認めてもらうようになります 暗いこの世の中で光として生きるということは大きな
いろいろ難しさがあると思いますけど この働きをするために神様は私たちをこの世に使わされたとするなら
生き甲斐があるのではないでしょうか
日本で初めて福音が伝えられたのが1549年ですか 福音が述べ伝えられたとき
キリスト教は日本の社会に大きな影響を及ぼしました 鹿児島から京都まで
大名までも回収者が出るほど 当時50万人から70万人が神徒となったと言っています
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驚くほどの光を照らしたんです その次1868年明治維新の時は
宣教師たちが日本に入ってきて 札幌横浜熊本に拠点をして全国に福音が伝えられました
日本全国に光が照らされたんです その宣教師たち立派な働きを行いました
その後福音はどうなりましたか 今は私たちが福音の光を照らさなければいけない時期になりました
今私たちはどのように福音を伝えようとしていますか 福音はイベントでもありません
キャンペーンでもありません 運動でもありません
福音は生活なんです 塩と光の生活
この世の腐敗を防ぐ また世界に救いの光を照らす生活です
この正しい役割を私たちは回復しなければなりません
今全世界がコロナウイルスによって大きな危機を直面しています この時期こそ
塩と光の役割がもっと必要なところでしょう 結論を申し上げます
真の祝福はイエス様を知ることです イエス様に見習っていくことです
イエス様のように生きることです またイエス様に用いられる人になることです
一人の人生 人間が生まれて これ以上もっと偉大な人生はありません
この世だけではなく永遠に祝福される人生です 皆さんこのメッセージが納得できますか
永遠のことが見える 霊の目が開かれて見ることができるように願います
パウルは昔はパリサイ人として この世の中でたくさんのことを持っていた人でした
またイエスを遺憾だと判断して白外の先頭に立った人でした そのような彼が
タマスコでイエス様に出会って 目から鱗が落ちてみれば
何が真の祝福なのかを見るようになりました その後彼は世の中のことを排泄物とみなして
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ただイエス様だけを知り愛し 使える人にとして生きたのですが
彼は山上の水君でお話しされるその幸いな人 イエス様に出会って代わって持ちられる人になって
信約時代のすべての信徒たちに良い影響力を及ぼし 今天国でどれほど大きな栄光の中で過ごしているのでしょうか
永遠に祝福を味わう人になりました 私たちもパウロのように目が開かれてそのような生活ができる私たち
祝福される私たちになりたいと思います お祈り出します
主要 今日本はコロナウイルスによって
非常事態宣言をするほど世の中が暗いし怖いんです この世の中で私たちはどう生きればいいでしょうか
今日山上の水君で教えてもらった幸いな人になって 心ではいつも
神の国 祈祷 平和と喜びが満ちあうれる私たちになりたいです 各個人と家庭と教会がそのようになること
また日本がそのようになることを切に願って 祈る心でいっぱいです
私たちもこのようになりましょう イエス様の皆を通してお祈り致します
アーメン ありがとうございます