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じゃあ今日は、あなた方は私を何者と言うのか、
今日は信仰告白の大事さ、またティリストの弟子として、私たちはどんな人生を過ごさなきゃいけないのか、その部分を一緒に考えていきたいと思います。
信仰生活で一番大事なのは何ですか? これは知ることです。
信仰生活で知ることの大事さを、ヨワネ17章3節にはこう言っています。
永遠の命とは、唯一のまごとの神であられるあなたと、あなたのおつかわしになったイエス・キリストを知ることです。と言います。
神様とイエス・キリストを知ることに、永遠の命があるということです。 知ることが力です。
知るなら信じることができます。また、知るなら愛することができます。 皆さん、献身はただ出てくることではありません。愛するとき献身ができます。
また、知るとき天国を味わうことができます。 知らなければいけません。知らなければいけません。
また、信仰生活は霊的な戦いです。 相手は悪魔です。悪魔との霊的な戦いですが、
悪魔は何をもって私たちを戦うのか? 悪魔は卑怯な奴です。
騙すんです。まどわしを通して私たちと戦います。 だから、力があるかないかと全く関係がありません。
騙されたら負けです。 だから私たちは騙されないように、真理をしっかりわかって、そして真理で戦わなければなりません。
騙したらいけません。 騙されたらいけません。
ですから、イエス様はご自身の働きの半ばぐらい、 弟子たちに大事な質問をされます。
世の中の人々は私を何者だと言っているのか? また、あなた方は私を何者だと言っているのか?
要するに、私に対してどのようにしているかということです。
私、キリスト社たちも同じです。 教会に通うことが目的ではなく、イエス・キリストを知ることが目的です。
それが本質です。 ですから、皆さんはイエス・キリストをどのように知っていますか? どんなお方だと知っていますか?
そのような質問をしたことです。 ここで、ペテロは優れた答えをしました。
あなたは神からのメシアです。 また、他の訳では神のキリストですという言葉を言います。
そうしたら、イエス様は大喜びをされながら ペテロを褒めるのですが、なぜなら、神の子供になり天国を得る
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霊的な力を得る全ての秘訣が イエス・キリストをどんなお方だと知っているのか、そこにあるからです。
まず、ペテロが告白した、あなたは神からのメシア。 他の訳では、神のキリストですという意味はどんな意味でしょうか?
メシアとキリストの違いが皆さんご存知ですか? メシアはヘブライ語です。
キリストはキリシア語です。同じ言葉です。 その意味は油注がれた意味です。
油注がれた人という意味です。 旧約聖書では、王、最首長、預言者たちを任命する時に油を注いで任命します。
油を注いで任命するということは、神様が神様の特別な目的のために この人を立たせたということです。
神様から委任された神の力をいただいて、 それをもって神様の御業を成し遂げる人だということです。
ですから、その方に逆らったら、神様を逆らうものになります。 神の敵対者になるんです。
ここで最首長の役割は何かと言いますと、 最首長は神様と人間の間に立って、
人間の立場から神様に罪の許しを求める、 そして神様に礼拝を捧げる役割をする人が最首長です。
預言者は神様と人間の間に立って、 神様の立場から神の身分と救いの道を民に教える立場におられることです。
その目的は最首長でも預言者でも目的は同じです。 民を救いたい、神様が民を救いたいと思っているその働きをこの間で成し遂げるものです。
ところが民は悪魔の支配下、サタンの支配下にあるので、 このサタンを破らなければいけないので、
番王の王の力を神様がその方に授けてくださったのです。 ですから預言者、最首長、王の力を持って働く方と言う意味ですけど、
世の中でたくさんの王様、最首長、預言者たちがいます。 その方たちはイエスキリストの影、イエスキリストの働きを一部、しばらく行っただけです。
その本物はイエス様です。本物はイエス様で、世の中のすべての王、最首長、預言者はイエス様の影に過ぎない一部の役割を一時期行うことです。
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イエス様は賛美大の神様として、神様のために、民のためにこの働きを行うために来られたお方です。
ところが、イエス様が質問されるときに、ペテロは、それをどこから聞いたんでしょう。どのように分かったんでしょう。
分からないけど、ペテロは、あなたは神のキリストです。神からのメッシャーです。答えを知ったんです。
どうしてペテロはこれを分かったんでしょう。 同じ記録をしている、マタイの福音書、中六書、中七節には、それは神様があなたに教えてくださったと言います。
皆さん、神様が教えてくださった、神様のすべての秘密は、神の霊、聖霊様が分かっておられる。
だから、聖霊様がペテロに教えてくださって、ペテロがそれを自分も分からないうちに、その告白をしたようになったんです。
こんな大事なことがありました。 しかし、21節を見ますと、このことは誰にでも話してはいけないと、イエス様が言われます。
なぜなら、十字架を背負う、そしてキリストの御業を完成する前に、いろいろな邪魔がある可能性があるから、それを禁止されたということもありますけど、
当時イスラル人たちが、メッシャーに対して大きな誤解をしていた。錯覚をしていたから、イエス様が、今こんなことを誰にも言わないでくださいと言われたんです。
当時のイスラル人たちは何を考えたのか、メッシャーを待ち望んでいました。
彼たちが待ち望んだメッシャーは誰なのか、自分たちをローマから解放してくださり、神の栄光を見せてくださり、
そして自分自身を世の中からうまく生きるようにやらせてくださるメッシャーを望んだんです。
しかし、イエス様が本当にこの世に来られた目的は、罪と死とサタンから私たちを救われ、地獄に行く人を天国に導き、
神の子供としての神様との正しい関係を取り戻し、また人間がもともと与えられた使命を私たちに回復してくださるために来られたのに、
彼たちはローマからの自由、自分たちを幸せにしてくださるこの世的なメッシャーを待ち望んでいたんです。
ですから、来られたメッシャー、イエス様の働きと自分たちが待ち望むメッシャーのこの考え方が、価値観が異なったということです。
これは皆さん今も同じではないですか。2022年度日本に過ごしている人たちに聞いてみてください。
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あなたはなぜ苦しんでいますか。あなたは何が問題ですかと言ったら、
罪、サタン、地獄、
だから救われられなければいけないと思いますということには誰も考えていません。
自分たちが今世の中で苦しんでいる理由、今うまくできなくて難しく過ごしている理由は、
それは罪とサタンと、それから
裁きについてこの問題があったとは誰も思いません。ただ経済的にうまくできなかった、
何かうまく社会的な問題が解決できなかった、そのことをいつも考えるんです。
だから名刺屋を求めるなら、どんな名刺屋を求めるのか、今世の中の人々は経済的な名刺屋、
社会的な名刺屋、また自分の問題を解決、病気を治してくださる名刺屋を待ち望むかもしれません。
イエス様がこの世に来られた目的と、私たちが待ち望んでいる名刺屋の概念がこんなに異なることはあります。
ですから今の時代、誰が罪の問題、裁き、地獄を心配する人がいますか。
誰もそんなことに関心を持っていません。福音をいただいて救われなければいけないんだと考える人が誰がいますか。
だからそのことと全く関係、他のものを考えながら、多分助け主、名刺屋を待ち望んでいるかもしれません。
だから正しい名刺屋か、今あなたが何によって問題になっているのかを正しく教え、
その意味でイエス・キリストを受けるように導いてくださった方が神様です。
本当に今の時代、問題の根本的な本質を知って、そのことを解決してくださるために、
この世に来られた救い主イエス・キリストを正しく受け入れるこの方がいるなら、この方はどれほど素晴らしい方でしょう。
それは私たちの知恵では、これは分かりません。だから神様のこの示し、神様が教えてくださらなければ、自分はイエス・キリストを正しく受け入れることはできなかったので、
それを告白したペテロは、本当にイエス様が素晴らしい素晴らしいということなんです。
そのようなイエス・キリストを受け入れることになった皆さんは本当に幸いな方です。神様は喜んでおられます。
このように信仰告白する弟子たちに、イエス様はこれからキリストがどんな働きをするべきなのか、
ルカの9章22節に言われます。
人の子は必ず大きな苦しみを受け、長老、最初の立法者たちから排斥され、殺され、3日目に復活するようになっている。
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大事なのは苦しみを受け、殺され、そして復活するようになっていると言います。
それは何のためですか?
罪から、サタンから、地獄の裁けから私たちを救うために、イエス様はすべて見代わりとして、私たちのために苦しみを受けてくださることを意味します。
それが確かだということを示すために復活する。また私たちもイエス様と同じように復活することを私たちに教えてくださるんです。
これは私たちの理性、知性、自分が勉強してそれができるものではありません。
この信仰告白ができるということは、自分がやったことではありません。
聖霊様によって自分の霊がそれを受け止めて、それを信仰をもって告白をしたことなんです。
ところが、この告白に一人の個人の救いと裁きと天国をすべてがかかってあります。
だから救われたということは、私たちの偉そうなことによってできるものではないので、神の恵みによってできるので、
救いに対しては私たちがいつも謙遜で、恐れを敬う心で感謝することが大事です。
これから大事なのは、恵みを受けた、そして救われた後、この後の、救われた後の生活が大事です。
皆さん、救われたのは私もそうなんですけど、私がどのように救われたのか、神を信じるようになったのかわかりません。
事実、誰かが私のために取りなしの祈りをしてくださったからです。
誰かの祈りによって恵みをいただいて私が救われました。
だから救いは自分からのものではありません。神様の恵みです。
ところが大事なのは、救われた後の生活、神の子供として、神の栄光を見て神様から与えられる特権を味わうことができるし、
私たちのもともとの素晴らしい、尊いな神様の使命を成し遂げることができる、この働きは、
自分が学んで成長して、そして弟子の生活をするところで全てが与えられるものなので、これからの生活が大事です。
救われるということは、自分もわからぬうちに救われました。
ところが、救われた後の生活、これが非常に大事です。
子供、赤ちゃんも同じでしょう。生まれるとき赤ちゃんは、自分自身がなぜ生まれたのかわかりません。
ところが、生まれた後、成長していくことによって、この世の中で本当に大事な存在として、我々は成長していくのです。
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ここで大事なのは弟子としての生活、これは弟子とと言いますかね、弟子とが大事です。
イエス様いつも、イエス様ご自身は牧者、私たちを羊としてお話をされました。
じゃあ、羊がやるべきことは何ですか。
羊がやるべきことは、牧者であるイエス様をうまくついていくことです。毎日毎日ついていくことです。
そうするなら、牧者であるイエス様が、羊を休ませ、豊かにさせ、何か一番全てを満たしてくださることは牧者がなさいます。
羊である私たちがやるべきことは、イエス様をうまくついていくことです。
ついていく、毎日ついていくことさえできれば、牧者が全てを与えてくださいます。
ところがイエス様は、ルカの9章23節にイエス様はこう言われます。
私についていきたいというものは、自分を捨てて、日々自分の十字架を背負って私に従いなさいと言います。
これができなければ、ついていくことができないので、牧者であるイエス様からの全てが受け入れることができなくなります。
だから私たちは、イエス様によって全てを受け入れるものになるためには、うまくついていかなきゃいけないんですけど、
ついていくところには3つのことが大事です。
はじめは、自分を捨てなさいということです。
羊である私たちが、自分勝手に過ごしながらイエス様についていくことができますか?
できません。イエス様についていくためには、羊が自分のわがままで過ごした生活をやめなければなります。
これは聖書で言葉としては、自分が主人であった人生をやめて、
イエス様が主人であった人生として自分自身を変えることなんです。
今まで皆さんが目指して、目標として一生懸命頑張った、これは自分の目標です。
自分の目標を下ろして、神様が願っておられる目標をいただいて、そこを目指していくことが大事です。
だからそのためには、自分の目的、自分の考え、自分の道、自分のやり方を全て下ろさなければなりません。
これが自分を捨てという言葉にあります。これからはイエス様は主人として、イエス様は私をどこに導かれるのか、
そこに関心を持ってついていくことが大事なので、そのためには自分を捨てなければなりません。
自分を捨てることができなければ、イエス様はついていくことはできません。
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これが一番大事です。
2番目、毎日自分の十字架を背負ってついてきなさいと言います。
イザヤ五途三書六説には、以前の私が勝手に私の道に過ごしていたこれを、神様は罪だと言いました。
罪から私たちを救ってくださったんです。そうするなら、これからは私の道をやめて、イエス様についていくことが大事なんですけど、
しかし私たちは今まで慣れてきた、自分のすべてが慣れてきたんですね。
だから何と言ってもイエス様が何と言われる前に自分が決めて自分が歩いてしまう。
どうすればいいんでしょう。そのために自分を殺さなければなりません。
じゃあ以前イエス様がおられる時期には、十字架刑を宣告された人は、
自分が懸けて死ぬべき十字架を、罪人であるその人がそれを背負って死刑所まで行きました。
だから街で十字架を背負って歩く人を見たら、彼は死ぬんだ、彼はこれから死刑を受ける人だということをわかったように、
私たちも日々自分の十字架を背負って歩むことによって、私は死んだものだ、
私はイエス様が主人だ、イエス様がついていくものだということを、自分自身と周りの人が全部わかるように自分の十字架を背負って歩みなさいということです。
これをうまくやった人がパウルでした。パウルがカナディア2章20節でこのような告白をします。
私はキリストと共に十字架につけられています。生きているのはもはや私ではありません。キリストが私のうちに生きておられます。
パウルご自身はいつも十字架にかけられて死んでいるということを言います。
そして自分のうちに生きている方はイエス様だと言います。 そうです。パウルはこのような生活をうまくやったから、自分のうちに生きておられるイエス様が
パウルの人生を主人になって導いてくださって パウルは新約聖書の13冊
聖書を記録する素晴らしい働きができたんです。 皆さん私たちは自分の十字架が強すぎて
自分は全部やってしまいます。 自分がやってしまうなら私たちは自由意思があるので
神様さえも私たちはなんとかできません。 神様は私の中で働くことが全くできません。
私が死ななければ 私のうちにおられるイエス様が働くことができないので
私たちが死んで イエス様を主人として私の人生を導いてくださるように
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私たちがこれから自分の十字架を毎日日々 背負っていかなければなりません
先週金曜日の鳥梨の祈り会で皆さん覚えておられるんですが 非常に大事なことを分かっちゃいました
私たちが自分の声を聞きながら神の声を聞いていると錯覚しているこの可能性
そのことを申し上げました 自分の中で何かあったら自分の声を聞きながら神様の声だと思って働くようになる
これがはじめ何ですか 疑いがあったら神様の声を自分の声を聞きながら神様の声だと言う
むさぼりがあったら野望と妬みがあったら 自分の声を聞いてこれが神の声だと錯覚して働くんだ
だから自分の中心化を背負って必ず疑い むさぼり 野望
妬み これらのことを徹底的に中心化にかけて殺さなければいけません
そして私たちはイエスキリストについていくことです いつも私は申し上げているんですけど
私たちの信仰は神様と親しい交わりの中で 神様の御声を聞いて従うことだと言います
じゃあ一番大事なのは親しみと御声を聞くことですけど その中で結論はついていくことです
ついていくこと 教会がいつもこれを申し上げるんですけどそれがうまくできない理由は
相変わらず自己中心 相変わらず自分が死んでいない
自分が主人としての役割をするからです ですから私たちは自分を捨てて自分の中心化を背負って
積極的にイエス様の御声を聞いて従う その生活をしていかなければなりません
聖書を見てますとイエス様はいつも私の前に歩いていかれる だから私は前に立って歩いていかれるイエス様を見てついていく
これをいつも強調しています ですから私が主導権を持つのではなくて主導権はイエス様が持っておられます
私はどこにイエス様がおられるのかを探してイエス様をついていくことなんですけど これを一番うまくやっている人がいます
これが赤ちゃんたちです 赤ちゃんは何にも考えません
お母さんが見えなければ泣きます お母さんが見つけたら笑います そしてお母さんお母さんというのがついていきます
赤ちゃんの生き方を私たちが学ばなければいけません 私たちは周りにお母さんがいなくてももう気にしません
自分が勝手にやってしまいます しかし赤ちゃんはお母さんがいなくなったら泣きます
お母さんが見えたら世の中の心配が全てなくなります そしてお母さんについていけばいいんです
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私たちもこのような生き方を学ばなきゃいけないんですけど 皆さんイエス様はどこに行ったら見つけることができますか
イエス様はこう言います マタイの7章13節14節
狭い門から入りなさい 滅びに通じる門は広く その道は広々として そこから入る者多い
しかし命に通じる門がなんと狭く その道は細いことか それを見出す人は少ない
イエス様は広い道にはおられません 狭い道
細い門から入って狭い道にあります イエス様はもう使えてもらうところにはいません
使える人のところにいます イエス様は癒し救済を行い
嘆く人 低い人たちの集まりにイエス様はおられます だから私たちはそこをいつも考えながらイエス様はどこにおられるかなと思う時に
聖書を通してそれを発見してそこに行けばイエス様を見つけるのはやりやすいでしょう そこでおられたらイエス様の見こえを聞きながら
そこで私たちの働きができれば イエス様の道路者としての素晴らしい働きができると信じます
では 私がこのように皆さんに言われたら
ある人がこう言うかもしれません 私はイエス様を信じるのは
幸せになりたくてなりたくて豊かになりたくて教会に行っているのに 牧師のメッセージを聞いたら
私たちはこれからダメだな 面白いことも全くない
だったら私たちは貧しくなりなさいということですよか 以前私が会社辞めて新学校に行って
初めに牧会に出て牧師館の前に行ったら私の息子が
パパが牧師になって私たちはダメになったという話をしましたけど そうですか皆さん
そうするなら信仰やめますか このところでイエス様はこう言われます
ルッカーの9章24節 自分の命を救いたいと思うものはそれを失うが
私のため命を失うものはそれを救うのであろうと言います 私たちはイエス様を信じて
いやだったらもう私は楽しいことも全くない これからの人生貧しくなって
これは面白くない人生になるのか いいえ
イエス様のため福井のために死ぬことが永遠に生きる道であり 神様の祝福をいただく道でありそれが人間が一番生きがいがあって幸せになる道なんです
皆さん考えてみてください なぜ皆さんが苦しんでいつも疲れる人生を過ごしていますか
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なぜ苦しんで疲れる人生を過ごしているのか お金がないからですか
何か物が足りないからですか いいえそうではありません
自分自身が強すぎて 自分の思いのまま自分の考え通り
社会が動いてくれればいいんだけど動いてくれない 職場で自分の思い通りやればやりたいんだけど職場でしょできない
教会でもそれができない家庭でもそれができない だから腹が立って葛藤しながら疲れながら
また周りの方と戦っているんじゃありませんか だから人間関係も悪くなるしもっともっと人生が苦しくなっているでしょう
家庭でも旦那さんとうまく幸せで過ごすよりは お互いに見解が違う自己主張が強い
子供をこう育てるべきだいいや私はこんな思いません 私はこう育てるべきだと思うよ
だからその中で夫婦の間の葛藤が強くなって だから夫婦の間の幸せがだんだんなくなっていることではないでしょうか
皆さん自分の主張が一番正しいですか 神様の知恵より神様の子供養育の働きより私がもっとうまくできると思いますか
これは一つの事例にすぎませんけど 子供も主人である神様に神様が育てる方法を従って生きることを決めて
いつも神様の身分を伺い神の恵みによって子供を育てることを考えながら イエス神様にいつも聞きながら子供を助けていく子供を導いていく生活
それで子育てをしていくなら 神様が子供を育ててくださる成長させてくださるはずなのに
親が自分の親の権利を持って子供を無理やり自分が考える道で導くをするから
子供がうまくついてくれない旦那様文句がある周りにうまくそれができない だから腹が立って腹が立って
私の人生何なのかと考えることではないでしょうか 考えてみてください問題は自分自身なんです
強い自分の自我なんです だから
イエス様は自分を捨てて自分を十字架を背負ってイエス様をついていくなら イエス様が私たちの家庭私たちの子供たち
うまく育ててくださるはずなのに 何故私たちは神様に任せることができないんでしょうか
また任せて神の御声を聞きながら子育てをする方法を私たちは今すごく下手なんです
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ルカー9章24世でこう言います 自分の命を救いたいと思うのはそれを失うが私のために命を失うものはそれを
救うのである 結局自分の命を救いたいということは自分の主張通りやりたいということです
そうするならすべての人が死ぬようになります しかし私が死ぬようにするならこの意味は主の身群通りを行おうとするならということです
だったらみんなが生かされます 全知全能絶対全である神様が
私たちに救いと豊かさと安息と満足幸せ 永遠な命天国の祝福をくださることそれが神の希望なんですけど
それは私が死んで神様の身群通りを行うこと ここにすべての答えがあります
それにもかかわらずルカー9章26節にこう言います 私と私の言葉を恥じる者は人の子も自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いてくるとき
その人も恥じると言います 私と私の言葉を恥じるってどんな意味ですか
以前私はこう思いました イエス様と福音に対して周りの人々が福音人々に伝えることなく私がそれを恥ずかしく思うから
福音を伝えることじゃないことを言うのではないかと思いました しかしそうではありません
私と私の言葉を恥じるということは イエス様が言われたところに通りに過ごさないということを意味します
自分を捨てて自分の十字架を背負ってついていくことをしない 神の御祈り通り生きることをしない
いつまでも自分の道自分の方自分の目標自分の宗教通り生きる それが自分は死なないということです
そうするならイエス様が最後に祭りなさるときに その人を恥じるということは
その人を知らないと言うということです 皆さん
最後の時イエス様は祭りなさって 私はこの人を知らない
この人を知らないということはどんな意味ですか 天国に入れてくれない
あなたはキリスト社だと言うんだけど 私はあなたをキリスト社だと思わないということです
その人の最後の最後の姿はどんな姿になるでしょう これほど怖いことではないでしょうか
今私たちの時代は物質万能の時代 科学理性考慮的な思考が試合しています
目に見えない礼的な世界は否定します みんなが自分のビジョン夢その実現のために頑張っています
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そして成功名誉それを得る人が世の中から尊敬されます それでみんな健康幸せを求めています
みんながそのように過ごしているから これをうまくやる人が人生を一番素晴らしく過ごしているように見えます
ところが聖書が教えてくださる人生はこの世の中100年だけではありません 人間は永遠に生きる存在です
世の中の100年以後のこの後の永遠な天国地獄を考えながら私たちの人生を過ごさなければなりません
私の証になりますけど私は今私の兄弟にはある程度説明ができているんだけど私の親戚
ふるさとにいたら親戚がいるでしょう その親戚に対しては私は宗教に気が狂っておかしくなったやつとして取り扱っています
私は親戚の家 ファンというファミリーの伝統また先祖に対する儀式全くやってないからです
宗教に気が狂って日本に行って 宣教師とかなんとかしながら変な人生を過ごす
だから私のふるさとで私は宗教のゆえにダメになった人間として情けない人間として取り扱われています
もちろん親戚の中ではこの世の中で成功して金持ちになって立派に過ごしている人がいます
ところが私たちはどうですか この世の中この世的には何も持ってないけど
毎日毎日見言葉に従って生きるとして 毎週毎週主に礼拝しそして私たち与えたビジョン
使命を成し遂げようと頑張っています 世の中で人々が価値観目標にしていることと
キリスト社である私たちが持っている価値観目標は全く違います だから皆さんキリスト社は人生を誤っていますか
間違った人生を過ごしていることでしょうか 今日の聖書はこう言います ルカの9章26節
私と私の言葉を恥じる者は人の子も自分と父と 聖なる天使たちとの栄光に輝いてくるときその者を恥じる
皆さん この世100年だけが全てではありません
私たちがこの世を去るとき今まで考えもなかった 目に見えなかった
この驚くほどの世界がこれから開かれるようになります
その時ああ間違えたと思ったら遅すぎます ですからイエス様がいつも気の毒だと思って言われた言葉が
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要はね3章の11節から13節から 天から来られたイエス様が
天で見たことを私たち教えてくださるのに世の中で天から来られたイエス様の見こえを聞こうとする人がいないということです
自分は世の中のことしかわからないけど永遠な世界をわからない 私たちしかしこの世が全てだと思ってこの世だけで人生の目標を持って
生きる人がどれほど愚かなってことをイエス様は教えてくださることです 皆さんはどう思いますかイエス様信じて美言葉通り生きるならダメになると思いますか
そうじゃなければ美言葉通り生きたら私たちは救われ 天国で神の栄光の中で永遠な命祝福
幸せを持つようになると ここに対して私たちは確かな信仰感
確かな価値観を持たなければなりません 1回しか行けられない私たちの人生
100年のこの世の人生 私はイエス様を教えてくださった通り自分を捨てて自分の十字架を背負ってイエス様に
ついていくこの弟子の弟子としての生活 これが一番
人生をうまく生きることだと私は信じています この決断が信仰告白です
これを表現することがその儀式が洗礼式です 私たちの信仰告白通り神様が信仰を与えてくださり
罪と悪魔とまた裁きから私を救ってくださり 永遠の命と天国で豊かな報いを与えてくださると信じます
今日洗礼式を行うように決断された中島兄弟を祝福します そのことを教えてくださった方 世の中の人はわかりません
このことを 神様から示されて
イエス様信じます洗礼を受けます その決断を祝福します
この決断がこれからの素晴らしい人生を導いてくださるでしょう お祈り出します
神様 目には見えないけど
罪とサタン 救いと神の国
天国と地獄があることを信じます 罪人である私たちは一生涯罪によってサタンによって苦しむしかありませんが
イエスキリストの忠実化と復活によって成し遂げられた救いの恵みによって これからは罪とサタンに勝ち抜き
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神の子供として天国を期待しながら 希望を持って生きるようにしてくださったことを感謝します
100年の短い人生の中で一番大事な個人の救い これをすべての人が知って味わうことができるように導いてください
今日 先礼式を受ける中島兄弟を祝福します これからイエスキリストの弟子としての生活をうまく生きるように導いてください
イエス様の皆を通してお祈り致します アーメン アーメン