1. 飛鳥山の窓から -TOKYO NORTH MOVEMENT-
  2. #2-1 衆議院議員に至るまで。..
2024-01-11 18:28

#2-1 衆議院議員に至るまで。外務大臣政務官として“世界と触れ合う大切さ”とは|ゲスト:高木けいさん

 

【今月のゲスト】

衆議院議員 高木けいさん


【今週のテーマ】 

・高木さんはなぜ政治家に?

・広島G7サミットでの首脳のお出迎えは「Welcome to ○○」


東京商工会議所北支部会⻑である越野充博が

王子飛鳥山の邸宅の談話室で、北区内外の多彩な起業家、経営者の方々をお招きます。

情熱とアイデアが交錯した素敵なおしゃべり。

グラスを傾けながら、北区の未来を語り合います。


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TOKYO NORTH MOVEMENT 飛鳥山の窓から
東京都北区飛鳥山。暖炉のある小篠光洋さんの部屋には、未来を思う様々な人たちが遊びに来ます。情熱とアイデアが交錯した素敵なおしゃべり。さあ、今夜はどんな話が飛び出すんでしょうか。
TOKYO NORTH MOVEMENT 飛鳥山の窓から
パーソナリティーを務めます小篠光洋です。今、私がいる場所は、大寺飛鳥山にある邸宅の談話室。
こちらに、北区内外の多彩な企業家、経営者をお招きして、グラスを傾けながらじっくり楽しくお話しする。そんな雰囲気でお送りして参ります。
さて、新年お一人目のゲストをご紹介したいと思います。こちらの方です。
衆議院議員高木慶でございます。どうぞよろしくお願いいたします。
はい、この度はご出演いただきまして誠にありがとうございます。
昨年11月の渋沢くんFM開局パーティーでも、高木さんからはお祝いのお言葉をいただいたりということで、大変この局にもご縁をいただいているというわけなんですけれども、
あれちょうど1年ぐらい前でしたですかね。渋谷クロスFMという僕の別のところでやっている番組でも出ていただきまして、
あの時はウクライナにロシアが侵攻する直前だったんですよね。
そうですね。
高木さんからも非常に実際に飛んだお話をあの時も伺ったんですけれども、今日はそういったところも含めてですね、じっくり高木さんにお話を伺ってまいりたいと思います。
どうぞよろしくお願いします。
はい、世界について、そして国内外の女性についてお伺いする前にですね、さっきスタッフともいろいろ話したら、やっぱり衆議院議員高木恵っていうのは何者なんだっていう若い女性のスタッフからいろいろお話も出ましたんで、そんなところもですね、ちょっと伺ってまいりたいと思うんですけれども。
まずお生まれは昭和40年、1965年3月16日生まれということで、今58歳。帰宅率十条大小学校、十条中学、立教高校、立教大学を卒業されたということで、生まれも育ちも帰宅ということなんですね。
どうですか、昭和40年頃に生まれた少年の育った帰宅ってどんな感じだったんですか。
そうですね、やっぱり都電が走っているこの風景はすごく印象深かったし、飛鳥山に展望台があったじゃないですか。
小学生の頃よく展望台登りに来てですね、あの展望台こそ帰宅王子飛鳥山って感じのね。
ああ、そうだったね。あれ実は私の会社で施行させていただいたんですが、昭和45年の工事でしたから、46年ぐらいの多分開業だと思うんですよね。
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だからちょうど小学校1年生ぐらいということですかね。
それでね、あの頃って回るレストランとか回る展望台って流行ってたじゃないですか。
そう、だから回ったんですよね。
だからホテルニューオータニーとか東京交通会館とかね、そういうのと同じように、なんかそれがすごく嬉しかった。
先進的だった。
そういう感じがしましたね。北都ピアができるまではね、一番帰宅でも高い場所かなみたいな感じでね。
いや、眺めも良かったです。
その平成に至るまでの間の少年時代、それから青春時代の話ももう少し伺いたいんですけども、
谷さんはサッカーずっとやられてたということで、これは小学校の時代ぐらいからですかね。
小学校の時は地域の少年野球チームとかに入ってたりとかしてて、あまりにも野球が下手だったのでサッカーに行ったと。
たまたま私の兄がサッカーやってたってこともあって、三菱ダイアモンドサッカーを見ながらですね、
中学に入ったらやっぱりサッカー部だろうということでサッカーを始めたんですが、
当時の中学のサッカー部っていうのはだいたい髪の毛が茶色い方とかですね、そういう方が非常に多くてですね。
なるほど。
なかなかワイルドな風活でしたね。
そうですか。あれメキシコオリンピックが昭和43年、1968年でね。
あの時に日本が同盟だろうってね。そこで一時サッカーブームみたいな感じだったんですけど。
あれピークですか。
そうですね。だから谷さんが中学校ぐらいってのはだいぶ日本リーグもカンコ鳥が鳴いてみたいな。
そうそう全然全然。かまもとの晩年ですよ。
だから今の若い人たちには想像できないぐらいの冬の時代。
そうそう。冬の芝生は茶色かったんですよ。グリーンじゃないんですからね。
そうですよね。そういう時代でしたけど。でも結構活躍されたってことで。立教高校でも。
そうですね。僕は立教高校に入っても中学の時もそうでしたけど、
だいたいの1年生の後半から2年生にはもうイレギュラーでしたから、先輩方と一緒にやってましたね。
そういう意味では今やサッカー、特に最近はものすごい強くて。
どうですか。一言、今のサッカーについてお話をいただけますか。
学生の感がありますし戦術も全然違うし、注目度も違うし。
やっぱり今の日本代表は本当に強いと思うしね。サッカーの思想は確実に広がったし。
ちょうど1991年平成3年のJリーグの発足っていうのは、やっぱり我が国サッカーにとっては画期的なことだったと思いますよね。
その意味ではやっぱり僕はジーコがですね、日本に来たということが、
日本サッカーのやっぱりこれ黎明期から一気にこの世界に踊り出たっていう、その出来事の象徴だったんじゃないかなと思いましたね。
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それとその前の日韓共同開催のワールドカップ、これを日本でやったっていうね、その辺からということだと思うんですけれども、
やっぱり国際的な交流とかっていうものが一段上のステップに進んでいくっていうのは、もしかしたらそれはサッカーだけじゃないということかもしれない。
そうでしょうね。世界を見るっていうことでしょうね。
つまり三菱ダイヤモンドサッカーの時代は、日本人としてはオクデラ選手がね、ドイツのブンデスリーガーで活躍をして。
三菱ダイヤモンドサッカーって言っても多分視聴者の方は知らない人も多いと思うんですけど、
1960年代東京12チャンネル、今のテレビ東京で、日曜日の6時からですよね。
海外のワールドカップだとか、一流どころの試合のビデオというのかフィルムというのか、それを30分間。
30分から40分ぐらいね、紹介するっていう。
しかも前半と後半は1週ずつでしたからね。こういうほのほのとした時代のサッカーチャンネルでした。
オリンピック代表のコーチなんかも勤めだった岡野俊一郎さんがね。
解説は岡野俊一郎さん。
僕もサッカー全然やってませんでしたけど、でもなんか魅力的で時々見てましたよね。
でもあの時のとても日本人のサッカー選手がやらなかったみたいなプレーを、あの時ダイヤモンドサッカーで外国の選手がいっぱいやってたじゃないですか。
それを今の日本人、軽々やってるような感じがするよね。
そうですね。だから本当にすごいことになったと思いますよ。
繰り返しになりますけど、世界と触れ合うっていうことのね、やっぱり大切さというか、そういうのを感じるんですけども。
さて、世界に触れ合うといえば、ここで一気に現在のお仕事のお話になりますけれども、
田井さんは平成3年に帰宅委員会議員に、当時最年少26歳で当選をされて政治の世界に入られたわけですけれども、
そこから約30年を経て衆議院議員として国会議員の立場からさらに政府のお仕事に入られた。
それが外務大臣政務官ということで、2022年の8月から9月までお勤めになられた。
ついこの間までお勤めになられたわけですけれども、これまず全体として、田井さんは国際的なことについても非常に興味を持っていろいろなった中で、
仕事として疲れての最初の印象というか。
私が政治をころざしたというところからちょっと話した方がいいのかもしれませんけれども、
19歳の時にやっぱり政治家になろうと思ったんですよ。
それの理由は何かというと、この我が国は法治国家ですから、法律を変えないと世の中って良くならないと思って、
法律を変えられるところはどこなのかと考えた時に、もう唯一の立法機関で、国権の最高機関である国会でしか法律は作れないと。
ということで、やっぱり法治国家において直接その法律を変えられるのはどこかと思った時に、やっぱり政治だし議会だという純粋というか単純というか、
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そういう気持ちから、やっぱりどうせ関与するんだったら議員になるということを目標にしたのはその時だったんですね。
実はそれよりも遥かに前に、高校受験、中学のね。公立中学から市立高校に行くんですけども、
その時にたまたま父親と一緒に高校受験の面接に一緒に行って、帰りに二人で食事をしながら父親はこう言ったんですね。
お前何になりたいんだと将来と言われたんで、当時は私外交官になりたいと言ったら、やめろって言われたんです。
役人になるんだったら東大を出なきゃ偉くなれないよと。
外交官だって東大卒業じゃなきゃダメだよって言われて。
だってまだ大学生じゃないんだから東大行くかもしれない。
そうなんだけど。
我が父において、我が息子を見た時に無理だと。
しかもその時に立教高校に受験をして入るという前提で面接に行ったというところだったんで、
きっと東大には行かないだろうということで、お前やめろと言われて、そんなもんかなと思って、それは心の中に秘めておいたんですね。
その後政治家になり、そして縁があって国会議員になって外務大臣政務官になるんですけども、
そういうことを考えると一つの目標というか、夢は実現したかなという気持ちはしないではないんですよ。
それは本当に一歩ずつ、後で詳しくいろいろお話も伺いますけど、
やっぱり外務大臣政務官という仕事って、外目から見るよりもずっといろんな知識とか教養とかの必要な仕事ですもんね。
そう言っていただけるとありがたいですけどね。
詳しくそこを比例していただければというふうに思うんですけれども。
お話戻りますが、外務大臣政務官になられて、まず今回はG7、広島サミットという大きなイベントのちょうど巡り合わせになりましたね。
このサミットってどんなものなのかみたいな話を教えていただけますか。
G7というぐらいですから、7カ国の会議なんですね。
それで毎年議長が変わるわけですよ。
7年に一度だけ議長国が回ってくる。
その年に、今年がそうなんですけど、12月31日までそうなんですけど、
その年に政務官になったということが、まず私にとってはラッキーだったというか、非常にやりがいのある仕事だったというのがまず一つ。
さらに政務官になっただけじゃなくて、このサミットを担当するということは総合外交政策局という局があって、ここの担当にならないとダメなんですよ。
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なるほど。
その担当になったんですよ。
そうなんだ。政務官だからあやっていろんなところに出てたわけじゃなくて、その担当だったから出てたわけだ。
総合外交政策局がこのサミットの担当であって、例えば要人のお出迎えとかね。
私は広島空港に2泊3日行ってやりましたけど。
そういうことになったので、私としては政務官になると同時に、そういう局の担当を仰せつかって、
たまたまサミットの議長国であったという、そういうことが重なって自分の仕事になったということなんですね。
それはもう運が良かったとしか言いようがなくて、ましてや7年に1度しか議長国が回ってこないし。
そこでならせていただいたというのは本当にありがたかったなと思います。
でもね、報道されるのって外交の場で海外の人といろいろ議論したり、何か結論を出して発表するとかっていうのは、
総理大臣であったりせいぜい外務大臣であったりっていう感じだから。
なんか外務大臣政務官っていうと、さっきちょっとお話しあったけど、
飛行場行ってなんか出迎えてるだけっていうか、なんかビショビショになって大変だなみたいな。
いやそれはそうなんだよ。
だけど、なんかちょっとね、本当にちゃんと仕事してんの?みたいなことを思ってる人もいらっしゃると思うんだけど、
具体的には、もちろんサミットと広島でやった期間だけじゃなくて、かなり手前のところからいろんなこともされてたと思うんですけど、
ちょっとその辺のお話もしていただけますか。
そうですね。
一つはそのサミットで出迎えの話は、確かに空港で出迎えるだけっちゃ出迎えるだけかもしれないんだけども、
タラップから降りてきてね、最初に出会う人ってやっぱり印象に残るじゃないですか。
そこはちゃんと決めとかなきゃいけない。
そこで、実はあの時に広島のですね、大学生の方が花束贈呈をするっていう場合としない場合とあって、
花束贈呈をする場合にはその人たちが一番最初なんですね。
その時に、僕が最初の時もあったんだけども、なんて最初に言おうかというのは実は決めてたんですよ。
これはウェルカムトゥジャパンじゃないよと。ウェルカムトゥ広島と言おうと。
つまりそれは世界の広島なんだと。広島でやる意味というのをやっぱり意識してもらわなきゃいけないと。
これはやっぱり我々がこの第一印象で印象付けていくべきだということで、実はあの外交の現場ではね、そういう打ち合わせの下で始まった。
それは高木さんの発案?
これウェルカムトゥ広島だよ。世界の広島だよと。
これは一つそういう形でやりました。
事前の要するに誰が来る、それから誰を出迎える、そういうのは全部副大臣と政務官の私と、
それから見送りはどうするのか、出迎えは誰がやって見送りはどうするのか、全部本当にいろんな打ち合わせがあって、
チーフォープロトコールといういわゆる議店長と言われる人が全体の仕切りをしながらやってきたんですよね。
ですからバイデン大統領はアメリカの岩国基地に専用機で降りるから、そこは誰か必ず誰か行かなきゃいけないよねって言うんで、
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それだけのために副大臣が岩国基地で出迎えたりとか。
そうでしたね。
広島空港は私の担当だった。
それから後から突然ウクライナのゼルスキ大統領が来るという話になって、
あそこは木原官房副長官が受けるというようなことを全体としてのマネジメントはものすごく詳細に実はやってた。
そうなんだ。
でもそのウェルカムトゥ広島という話は、僕も初めて実は今日伺いましたけど、それは本当に一言だけだけれども大切ですよね。
それはもう日本である意味、しかも岸田総理の地元、広島の原爆ドームあるいは記念館に行っていただくという意味を込めて言うとすれば、
やっぱり一番最初に広島ということを印象付けないといけないよねというのは大事だなと思ったのでそういうふうにしました。
そういう社会がですね、やっぱり我々政務というのはできる立場にもいるし、やるべきことをきちっと一つずつやっていくというのはやっぱり大事なんじゃないかなと思って僕はやってました。
政務に対して相対する言葉は何なの?
事務とかね。
政務官と事務次官とかっていうそのようなね。
だからお役人は事務的にしっかりカチッと固く一つのプログラムを組んでいくんだけど、そこに対してどういう爪痕というのか、別に高木さん個人の爪痕という意味じゃなくて、
要するに日本国として必要なことをどうくさびを打っていくのかみたいな、そういうことなんですよね。
それはなんかやっぱり外交って最初その中学3年生の時に外交官になったっていう、なりたいっていうふうに思ったっていう時の何かおぼろげに思ってたことを今回実現したみたいなことなんですかね。
そうですね。それは確かにあるかもしれないですね。
いやでも本当外交の現場これからますます本当に経済までね、経済安全保障なんて言われて、いろいろと国際間の繰り抜けていかなきゃいけない、そういうスキームを作っていかなきゃいけないというね、大事な時間帯に入っていくというふうに思います。
そういう中で本当に高木さん必要な政治家と僕は昔から評価してますけど、さらに今回の外務大臣政務官ではたくさんの国を回られた、そんな話をですね、これから先、次の次週はこのお話を伺っていきたいと、こういうふうに思います。またよろしくお願いします。
よろしくお願いします。サミットでの活躍ももう少し聞いてもらいたいですよね。
そうです。わかりました。じゃあそうしましょう。じゃあまた来週。よろしくお願いします。
はい。ありがとうございました。
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