1. 飛鳥山の窓から -TOKYO NORTH MOVEMENT-
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2024-03-14 14:59

#4-2ゲスト:溝口遼太さん 求人票で一番上にあった広告会社との運命的な出会い

【今月のゲスト】

溝口遼太さん


【今週のテーマ】 

・求人票で一番上にあった広告会社との運命的な出会い

・25歳で1から中国で事業部を作る

東京商工会議所北支部会⻑である越野充博が

王子飛鳥山の邸宅の談話室で、北区内外の多彩な起業家、経営者の方々をお招きます。

情熱とアイデアが交錯した素敵なおしゃべり。

グラスを傾けながら、北区の未来を語り合います。


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00:06
TOKYO NORTH MOVEMENT 飛鳥山の窓から
東京都北区飛鳥山。暖炉のある小篠光洋さんの部屋には、未来を思う様々な人たちが遊びに来ます。情熱とアイデアが交錯した素敵なおしゃべり。さあ、今夜はどんな話が飛び出すんでしょうか。
こんばんは、小篠光洋です。今週も引き続き、産経プランニング株式会社代表取締役の溝口さんにお話を伺ってまいります。前回は溝口さんの幼少時代、そして学生時代について伺ってきましたが、今回は現在経営されている産経プランニング創業までの道のりについてお伺いしていきたいと思います。今週もよろしくお願いいたします。
どうぞよろしくお願いいたします。
さて、本当に野球に限界まで打ち込んだ学生時代だったんですけれども、就職の頃の夢というのが消防士か警察官というふうに伺いましたけれども。
そうですね。野球はある程度限界を感じていた部分、先週もお話しさせていただいたんですけど、人の役に立つ仕事ということをやりたいなということを当時は思っていまして、その時が消防士警察官でした。
高校卒業されて就職といったときに選ばれた会社がある上場広告系の企業だったというふうに伺うんですが、これはどうしてそうなっちゃったんですか。
高校野球を辞めて就職しようというのは私の中であったんですけれども、周りの機体というもの、漁師も含めてですね、野球を続けてほしいというようなことがあって、その葛藤というかが結構あった時代がありまして、
その中でお断りを色々お誘いがあったところにしていってたんですけど、一つどうしてもセレクションだけを受けてくれと。これをちょっと断るわけにいかないからと。ということでセレクションを受けたらですね、もう現役から離れて3,4ヶ月経ったんで、受からないだろうと思って、これ受からなかったらみんな諦めてくれるかなと。
そうやってしてたら受かってしまって。
まあそうだろうね。それは受かるよね。
ってなってしまって、やはり周りはあそこに行くものだみたいになったんですけど、もうその時に私も完全にもうちょっと野球はもう無理だと思ってたので、勇気を出してですね、行きませんと学校と両親、あと野球の関係の方々に言ったらですね、もうちょっと君の面倒は見れないよと。もう勝手にしてくれよというような話になってですね。
それがちょうど就職の希望だ最終日。希望は今日までに出しなさいみたいな日だった。
だから大慌てで進路指導室に行ってですね、でこう求人票をパッて開いた、一番上のところに応募しようと。
03:00
なのでその先ほどの上場会社はアッがつく会社だったんですけど、もうそこに急いで申し込みをしたっていうような流れで就職が決まった。面接があったりだとかして運よく決まったので、広告系の仕事になったのは運命みたいなものだったのかなと思いますね。
そうなんだ。だからアッのつくところにあったのがメーカーだったらメーカーに就職してたかもしれない。
そういうことです。運送会社だったかもしれないし。
なるほどね。性能不良じゃなくて愛の不良だったら運送会社だったかもしれない。
そういうことですね。
なるほどね。運命って面白いもんですね。
そしてこの会社は岡山に本社がある企業ということで、その後10年間お勤めになられたということですが、これどうですか、新入社員入られて。まず最初のお勤めは岡山。
そうです。岡山に本社があって、私高卒だったので、高卒の採用枠っていうのがいわゆる物流ですね、倉庫ですね。商品管理家というところで配属されて、なので私は当時のライフワークはフォークリフトに乗って商品の入荷をさせたり、どうやってこのフォークリフトを早く運転するかみたいなところに情熱を注いでいたところでした。
ただ本社が岡山にあったので、当然上層部役員たちも岡山にいて、水口お前よく喋るから東京に行って営業やれというお話いただいて、1年半ぐらいで転勤になって東京に出てきた形だった。
そうなんですか。それはよく喋るからもそうだけど、僕も経営しててわかるんだけど、やっぱりそういうフォークリフトどうやったら早くできるかとか、やっぱ工夫が見えるんだろうね。
たぶんそれは一番バッターとしてこのフォークリフトをどうやって攻略するのかとか、何も情報のないところから切り開いていくのが一番バッターじゃないですか。
だからやっぱりそういうことっていうのがちゃんと残ってて、先輩、上司、役員の方が見てたということかもしれませんね。
ということで営業マンということで2006年に東京に来られたということですが、東京での生活はどんな感じでしたか。
最初はやっぱり田舎から出てきたので、ちょっとかっこいい東京らしいところに住みたいと思って、最初は目黒に住み始めたんですけど。
コンビニに行くのもですね、みんな綺麗な格好をしてるような、あの街だったので。
つっかけていけないみたいな。
ちょっと行き苦しいなみたいなところを感じてたんですけど、ほんと1年ぐらい経った時ですかね、お客さんがちょっと飲みに行こうと連れて行ってくれたのが赤羽根で。
そこで本当にこう、なんてこう人情的な、言葉を選ばず言えばどんな格好でもいいなみたいな、いいなと思って。
同時にいろいろ交通の便とか家賃とか調べると、こんな便利なのにそんなに高くないなみたいな。
赤羽根に出てきたのがもうだから2007年とかなんですけど。
そこからもうずっと北国。
そうです。
ようこそいらっしゃいました。
そうですか。
じゃあそこで東京の生活は営業マン生活ということでじゃあバリバリ。
そうですね、本当にお客様にも人にも恵まれてですね、いいお客さんを見つけることができてですね。
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運よく営業成績もぐんぐん上がっていって、もう本当に営業の仕事面白いなと思って東京で過ごしてた形ですね。
なるほど。そして2011年になって今度は中国の方に行かれた。
はい。
これはどういうことだったんですか。
そうですね、それは会社の方針であれだけ人口がいるマーケットがあるところですから当時の中国っていわゆる広告でサービス業、目に見えないものを売っていくところで、これは中国ではまだまだ全然浸透してないんじゃないかと推測を立てまして、
それをあれだけのマーケットで売ってきたらどうなるかということをぜひチャレンジしてくれるというところで選び方も本当に営業マンを縦に成績順に並べて、
当時一番ところにいましたので水口を行ってこいという形でしたね。
だって中国ができるわけじゃないでしょ。
全くです。
どうしたのいきなりって。
なので一番最初は拠点探しからですけど、現金だけパウンド300万だったら500万だったらはじめましたけど、これでとりあえず拠点作るところからやってくれと。
当然空港に向かいもいないというわけですので、身振り手振りで。
上海で日本人が多く集まる町みたいなところだけは調べてたので。
旧空港の。
そうです。
なのでまずそこに行って、まず日本人が集まりそうな日本が書いてる看板の居酒屋に行って、そこから情報収集を始めてみたいな形ですね。
でもそれもやっぱり工夫っていうか、だって会社にノウハウがあるわけじゃないよね。
会社も実に大胆といえば大胆なんだけど、年にするといくつになるんだ?25、6?
そうですね、この時はまだ25でしたね。
だからその若者に、これから会社にとってのフロンティアである中国、そして上海ですか、そこに25歳の若者一人やってこいっていうのもいい会社だね。
そうですね、当時本当にこの会社は面白くてですね、本当に営業の達成報酬金も年間予算のいわゆるあらりの額のオーバー分3%現金でボンってくれたりだとか、夢がある会社でしたね。
なんかプロ野球の道には進まなかったけど、なんかそういう感じはプロ野球に行ったみたいな過剰方だったね。
本当そうです。なのでちょっとそこから業績が悪くなって、なかなかそういうインセンティブな部分とかってなかなかやれなくなってしまったんですけど、当時は本当に夢があって一生懸命頑張ろうっていうふうに思える会社でしたし、
中国に行くのは正直僕、心の中ですごい嫌だったんですけど、イメージ的に。
行ってみたら本当に誰も経験したことがないことですし、やっぱり誰も経験したことないことをやっていくってやっぱサラリーマンの方も評価されやすいところですから、本当にいい気に感じてやってましたね。
中国の中でも上海っていう街ってやっぱりちょっと違ってて、非常に国際都市っていう感覚もあるし、それから肌の色とかそういうのが日本人に似てるからイメージ的に近いみたいなもんだけど、むしろ要するに欧米に近いというか、そういう雰囲気ですよね。
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そうですね。いわゆる北京って東京結構近いなって思うんですけど、上海は本当日本で大阪ともちょっと違って、本当に独特ですよね。言葉に表現しづらい。
実際に中国事業部を株式会社に導くところまでされたということなんですけれども、この成果でそれができたっていうところはあります?
中国の現地法人とちょっと組まないと日本企業だけで会社作れないものですから、まずそこの合弁先を探すところなんですけど、これも本当に運良くいわゆるのみ屋さんで知り合った中国人のオーナーが、日本語をペラペラ喋れるし、日本でもビジネスとされてるということで、
広い分野で言えば同じ反則系の仕事をされてたんで、というので本当に運良くあるよあるよという前に会社になっていって。
引き寄せる力っていうか、そこへの努力っていうものなんだと思いますけれども。そして2014年そこまでの成果を挙げられた上でですね、いよいよ現在の産経プランニングを独立起用されたということですけれども、これはどういうきっかけというかどういうタイミングですか?
そうですね、2014年に中国でもその時も出張機関入れて5年ぐらいいたんですけど、中国に行って思ったのは、これもう中国の経済っていうのはあんまり良くないぞということを。
2014年ぐらいの時点で?
そうですね、これはそんなに長く続かないんじゃないか。特に我々外国人に対しては。ということを感じてたものと、東京オリンピックが決まったっていうのがあって、その時には上海だけじゃなく天津、北京と同じような会社を作ってて、それも軌道に乗って中国人のスタッフだけで持双できるというところでしょうので、私自身はずっと中国でやるつもりもなかったので、
これいいタイミングだなと思って、中国人側のオーナーと話をして、日本に帰国させてもらうと。その時にいつかは自分でやりたいなと思ってましたし、本当に良かったのは中国に行って、もうめちゃくちゃ商売難しいですし、もう全てが難しい中でやってきたので、これは自分でもちょっとやれるんじゃないかなっていうふうに思って、その時はだから日本に帰国するにあたってどっかに属するという考えは一切なかったですね。
そして本当にありがたいことに北区赤羽根に拠点を作って開始をされたということですね。これがもう30歳ぐらい?
もう赤羽根はもうこれは一択。もう帰ってくるな絶対あそこだと思ってましたし、やはりその先ほど申し上げた通の便、家賃との部分考えてもすごくコスパがいいなと思いましたし、もうそれから事務所って規模が大きくなるにつれて、もう4回引っ越しをしてるんですけど、もうそれもずっと赤羽根で、今いいなと思うのはもうこう産経プランニングですよろしくお願いしますって名刺を渡した時に赤羽根って書いてあると、あ、赤羽根ですかいいですね。
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ちょうどだから起用されたタイミングも良くて、あの頃に東京都北区赤羽根っていう瀬野さんのマーカーが出てきたり、テレビ東京でね、山田孝之君のやつが出てきたりとか、ちょうど知名度も上がってきたタイミングですね。
そうですね、なので本当にお客様と商談する時も、我々が当然売る側なので商談に行く側なんですけど、産経さんに行って商談するわっていうことがうちの会社は特に多いような気がしますね。
それも夕方4時ぐらいに来てみたいな。
なるほどね。もう少し起用の時のちょっと難しい方っていうことに聞きたいと思うんですけれども、かえって日本人の社員さんを使っていくっていうことの難しさみたいなのは当初はなかったんですか?
一番最初独立した時は本当に一人でやろうと思ってたんですね。
一人でありがたいことに日本でやってきたネットワークの中で、前の会社からお客さんを取るっていうのは僕の筋は外れてるなと思ったんで、帰る時に何の声もかけてなかったんですけど、帰れるよっていうことを友達連中には当然伝えてる中で、
じゃあちょっと頼みたい仕事があるみたいなことをやるんだったら、一人で仕事があるときは仕事をして、ないときはゴルフでもしながらめちゃくちゃ稼がなくてもいいけど、ちょっと自由に行きたいっていうのが本当は最初の目的だったんですね。
なので最初一人だったんですけど、やってるうちにありがたいことに人が人を呼んで仕事がたくさんたくさん来るようになってしまったので、これは人を入れなきゃいけないなっていうふうになったときに、
もともと東京で仕事をやったときの一番のお客さんがある大手の家電量販店さんだったんですけど、そこで私の窓口をしてくださってた方が退職をされて一人でいらっしゃってたので、
水口君帰ってきたのご飯食べようよっていうようなきっかけから今何してるのっていうお話をしたらちょっと今仕事もやってないから一緒にやらないっていうふうに声をかけて、それが今うちの会社の政務。
それではちょっと今週のお時間も来ましたので、ここから産経プランニングさんの発展と未来に向けた動きをですね、次週伺ってまいりたいというふうに思います。
今週もありがとうございました。
ありがとうございました。
14:59

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