伊勢崎の思い出と指導者としてのきっかけ
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本日は、沢伊勢崎で活躍する指導陣をご紹介していきたいと思います。
今日ご紹介するのは、上武大学駅伝部監督、諏訪利成さんです。よろしくお願いいたします。
よろしくお願いします。
それでは、まず諏訪さん、ご自身についていろいろお聞きしたいなと思っております。
諏訪さん、伊勢崎市ご出身ということで、伊勢崎にまつわる思い出とか、エピソードとかありますか?
そうですね。思い出といっても、子供時代30年近く。
30年。
なってしまう。
なってしまうので、本当に記憶短編的なんですけれども、家の近くに堤沼っていうのがありまして、
堤沼。
そこでよく遊んでいたなっていう思いですね。
30年前っていうと、現在お年は?
今46歳です。
ってことは、16歳くらい、中学時代くらいまで、あれですか、この諏訪伊勢崎にいらっしゃったんですね。
そうですね。
ちなみに、その堤沼でどんな思い出があるんですか?
年に1回だと思うんですけれども、沼の水を抜いて。
沼の水を抜く?
はい。
今、テレビの中にあると思うんですけれども。
清掃するようなやつですね。
そんなんだと思うんですけれども、子供たちは、そこに沼に征服している鯉を採れるんですね。
手掴みで。
子供にとっては大きいんですけれども、それを泥まみれになりながら鯉を採るっていう思い出が。
思い出がありました。
それは友達同士とかで、みんなで集まってやられたっていう。
そうですね。子供会の行事として。
そんなのがあるんですね。
ちなみに、先ほど言っていた思い出の堤沼ですか。現在46歳ということですが、見に行かれましたか?
いや、本当に実家のすぐ近くなんですけれども、近いようで、近すぎるから行ってないですね。
逆に、よくあるよねっていう、見た風景だからこそ、あえて確認をするという感じはしてないっていうことですね。
そうですね。
地元ならではのっていう感じがいたしますね。ありがとうございます。
フルマラソンの経験と思い出深い大会
続いてなんですけれども、改めて、学生時代から現在にかけて走るということに関連し、活動しているかと思うんですが、選手及び指導者としてなろうと思ったきっかけっていうのはあるんでしょうか。
陸上を始めたきっかけっていうのが、テレビで見たフルマラソンですね。
なので、フルマラソンを走りたいと思って、フルマラソンを走るまでは陸上をやめたくなかったので、選手をずっと続けていました。
なるほど。テレビを見てきっかけって、何か思い出のあるんですか?
たまたま部活を始めたときに、テレビでフルマラソンをやっていて、
はい。
そうですね。テレビでやっていて、すごいなと思って。
テレビを見て、自分自身も選手になってみたいなと。じゃあ選手になろうぞっていうふうに思ったってことですね。
そうですね。フルマラソンを走るまではやめないぞっていう。
実際にフルマラソンを走ってみて、いかがでしたか?
一番初めに走ったときには、本当に苦しくてきつくて、それまでも練習ではフルマラソン以上の距離は走っていたんだけれども、
はいはい。
どんだけ走っても全然前に進んでない状態。走っていても筋肉痛になる。頭ははっきりしてるんですけども、足が全くついてこない。そういう状態でしたね。
なるほど。それの状態を自分自身で感じたわけですけど、それでも選手になりたいなって思ったっていうことなんですよね。
そうですね。初めてフルマラソンを走り終わったときには、
うん。
もうやりたくない。あれでもやってみたいっていう、この両方の葛藤が。
ああ。そういうのがやっぱりあって、最終的に走るぞという天秤に行ったってことですね。
そうですね。はい。
思い出深い大会の話と車の約束
分かりました。ありがとうございます。ちなみになんですが、ランナーとして様々な大会で実績に残されていると思うんですが、その中でも思い出深い大会っていうのはございますかね?
特に思い出っていうのが、何回も走ってるんですけど、3レースになりまして。
3レースになってますね。
はい。それがさっき言った、一番初めの初マラソン。
初マラソン。
初マラソンで、さっきのような状態になりながら走った記憶。
はい。ちなみに何マラソン?
長野マラソンっていうマラソン大会でして。
はいはい。こちらでフルマラソン、42.195キロ走られたと。で、そのときに朦朧としながら走ったということなんですね。
はい。
なるほど。
あと2つほどレース、思い出深いものがあるということなんですが、2つ目は何でしょうか?
はい。2つ目が、アテネオリンピックに出たレースですね。
アテネオリンピック、これ2004年に出られたということで、はい。
やはりこれは、近代オリンピック発祥の地、アテネで走れたっていう思い出ですね。
うん。
はい。
ああ、やっぱりなんか、走るときに、こう、なんか自分自身で、気持ち盛り上がったというか、やっぱり。
アテネが走るぞっていうんで。
えっと、そのときは、数あるマラソンの中の1つだったんですけども。
はいはい。
やはり終わってみると、あのレースは特別だったなと思いましたね。
走るまでは、普通にただのマラソンの一緒だよねって思ってたんだけど、走ってみたら、自分自身でも、なんかちょっと違うなっていうふうに思った。
そうですね。もう、最後ゴール、競技場に行ったときには、今までにないぐらい、やっぱりちょっと走りながら高揚感が。
はい。
うん。
出てきまして。
はいはい。
あの、今まで何もなかったんですけども、最後こう、やったっていう思いで、ゴールしましたね。
はあ。
そして、あの、最後3つ目の、あの、思い出深い大会ということなんですが、3つ目は何でしょうか。
最後が、あの、2007年の世界陸上。
はい。
2007年の世界陸上。
はい。
のときですね。
はい。
はい。
これは、あの、オリンピックが終わって、とにかく、まだマラソンの優勝経験がなかったので。
はい。
優勝したいっていう思いで、望んだんですけれども。
どうしても優勝したかったってことですよね。
そうですね。
なんか理由があるんですか。
どうしても優勝したかったのが、そのときに乗りたかった車を、優勝したら乗れるっていう約束をしまして。
そのために優勝しようと思ったわけですけど、なんか乗りたかった車って何なんでしょう。
あの、マスタングですね。
マスタング。
はい。
その車、どうしても乗りたかったのって。
どうしても乗りたかったんですよ。
へー。
なんか、そのマスタング乗りたいっていう、なんか思いがあったんですか。昔から。
そうです。あの、もともとマスタングってちょっとこう、アメリカの車で。
ですね。
こう、いろんなモデルチェンジをしながら。
はい。
一番初期の状態に近い形で、あの、モデルチェンジしたんですね。
はい。
その形と、屋根が開くっていう。
あ。
もう一目惚れですね。
オープンカー?
はい。
世界一になったら、いや、これぐらい乗ってもいいんじゃないかと思いまして。
はいはいはいはい。最終的に結果は。
結果は7位だったんですけども、結果は変えたんですけれども。
あ、変えたんですか。
はい。
よく変えましたね。
ま、あの、優勝するって言ったので。
はい。
購入はして、納車を待っててもらったんですね。
購入して。
購入は先にして、優勝するから。
うんうんうん。
あとは、優勝っていう文字だけ。
はい。
あとは、車を取りに行くだけ。
で、ちょっと約束、妻とした時に。
あ、奥様との約束で、優勝するから、もうこの車買っていいでしょと。
はい。
約束をしてたと。
はい。
なるほど。それを奥様に実は知らせてなくて、もうお金を払ってた状況だったってことですか。
そうですね。はい。
それは奥様にちゃんともうバレてたんですか。それとも、内緒だったんですか。
多分バレてましたね。
内緒だったんですね。
はい。
なるほど。その後、最終的に結果7位ということで、ちょっと残念ではありましたけども。
はい。
奥様はなんて言ってました。
一緒に納車の時に、行く途中で、いくらで売れるだろうねっていう話をされまして、本当に。
はい。待ち望んでたわけですよね。
はい。
ちょっと怖いですね。
はい。まずその時、車さんに言った時に、本当にもうやばいな、どうしようかな。
うんうん。
って言った時に、その当時、日本が団体優勝だったんですね。
はいはい。
個人的には7位だったんですけども。
はい。
団体優勝したということで、私と車屋さんとで、なんとか購入できる裏に住むように話を進めまして。
奥様を説得したということなんですね。
はい。
なるほど。ありがとうございます。なんかいろんなところを聞いちゃって、申し訳ないなとは思うんですけども。さあ、そして続いてなんですけども。
はい。
選手と指導者の違い
2022年から上部大学駅伝部監督に就任となりました。実業団から大学へ、そして社会人と学生へと指導されていますが、違いというのは何か感じますか?
もともと選手で走っていた時には、いかに強くなるか、それだけ考えて走っていたんですけれども、次に実業団のコーチ指導者になった時には、やはりもう、その選手たちはトップを目指していた。
トップを目指しているわけなので、その選手たちを後押しするような指導だったんですけれども、やはり今、大学の指導というところで、もちろんいろんな選手いますので、後押しする選手もいれば引き上げていくという指導もしています。
なるほど。そうすると、やっぱり学生さんによって指導方法を変えていかないといけないなっていうのをすごく感じるってことですか。
そうですね。はい。
はい。
大きくは分けてはいるんですけれども。
大きく分けている。
はい。引き上げる方と後押しする方と。
引き上げる方と後押しする。
はい。
ちなみに引き上げるっていうのは、あれですか、鼓舞するってことですか。
そうですね。はい。
もっとお前ができるんだ、みたいな感じってことですか。
そうですね。はい。まだ高校を卒業したばっかりで、分かってるようで分かってないっていうところもあるので、やはり新しい世界がいろいろある。
っていうところも伝えていますね。
新しい世界がある。
学生への指導方法
はい。
やっぱりじゃあ、その社会人と学生ってやっぱり感覚がもう全然違うなっていうふうにやっぱり思うってことですか。
そうですね。
はい。
やはり自分の生活をかけてやっている実業団と、やはりここから社会に出てやっていく学生との間で、感じ方は違うと思いますし、考え方もみんなそれぞれ違うと思いますし。
うん。
ただやっぱり卒業した後に、今が一番輝いてるっていうのは当たり前なんですけども、
はい。
そこでやりきってほしくないなっていうのがあります。
終わってほしくないなと。
はい。もう陸上だけじゃなくても、今これがあるから、社会に出てもしっかりできているんだ。
うん。
一番輝いていたのは、大学4年間かもしれないけれども、あんなに一つのことに打ち込んだことはもうないかもしれないけれども、
あれがあるから今の人生がある。もう陸上を続けなくても、そういう思いでいてほしいですね。
なるほどね。走ってたからこそ今後も走ればんだよということを、本当によく伝えていきたいということでやってらっしゃるということなんですね。
わかりました。先ほどの引き上げる方と後押しする方っていうことなんですけど、後押しの方はどんな感じでやられてるんですか?
はい。
はい。
実際に出場なさったことはあると思いますが、何か思い出深いこととか何かありますか?
そうですね。思い出といえば、やっぱり群馬に選手のときはほとんど帰ってこなかったので、地元のレースを走れる数少ないレースの一つ。
ですよね。
というのが一つと、あとはやっぱりこの風強いな。
風強いなと。
前半はすごく追い風で後押ししてくれるけれども。
はい。
はい。
後半区間は赤木卸しの風が非常に冷たいなと。
なるほどね。特にやっぱり冷たさとかも自分自身で走ったりすると、影響とかってやっぱりありますか?
はい。特に前半区間の追い風のところは、本当に後押ししてくれるんですけども、最後の6区、7区ですね、特に7区の方は。
本当に、あの、県庁がすぐ見えるんですね。中継所、7区スタートしてすぐ。
はい。もうあとゴール迫ってるぞみたいな感じですよね。
感じなんですけども、もう残り10キロぐらいで県庁が見えてくるんですよ。
うんうんうん。
全然近づいてこないんですよ。
もう見えてるから、もう行けるぞ行けるぞと思うんだけど。
でも全然、風と、あと県庁高いじゃないですか。
高いです。
だからずーっと見えてるんですけども、一向に近くなってこない。
はい。
だから前に進まない。
じゃあもうその最後の10キロの地点は、意外とこう苦しい。
苦しいですね。
っていうのを感じたっていうことなんですね。
なるほどね。
最後に今後の目標とかPRとかなんかありますでしょうか。
はい。今、上空大学駅伝部ですね。
あの、予選会突破を目指してやっているんですけども、
やはりそこだけじゃなく、箱根駅伝走って、さらには実業団に行って、
ニューイヤー駅で走る。
うん。
そういった選手が何人も出てくるようなチームにできればなと思ってます。
はい。他は大丈夫ですか。
はい。あの、上部大学。
はい。
箱根駅伝だけでなく、ニューイヤー駅伝に一番近い大学だと思ってますので。
はい。
よろしくお願いします。
はい。分かりました。
無理やり言わせちゃったような感じがしないでもないんですけども。
はい。
えー、本日は上部大学駅伝部監督の諏訪利成さんに、
はい。
いろんなね、お話をお伺いさせていただきました。
あの、改めて伊勢崎出身ということで、30年前のね、なんかお話なんかも聞かさせていただきまして、
そしてね、あの、数々のいろんな活躍のお話なんかも聞かさせていただいて、
本当に貴重なお話をお伺いさせていただいたと思っております。
あの、今後ともぜひまたラジオご出演いただければありがたいなと思います。
はい。よろしくお願いします。
はい。本日はありがとうございました。
ありがとうございました。