パワーリフティングの挑戦
飛鳥山の窓から、TOKYO NORTH MOVEMENT。
東京都北区飛鳥山。暖炉のある小篠光洋さんの部屋には、未来を思う様々な人たちが遊びに来ます。
情熱とアイデアが交錯した素敵なおしゃべり。さあ、今夜はどんな話が飛び出すんでしょうか。
飛鳥山の窓から、TOKYO NORTH MOVEMENT。パーソナリティを務める小篠光洋です。
今、私がいる場所は、大寺飛鳥山にある邸宅の談話室。
こちらに、北区内外の多彩な企業家、経営者の方をお迎えして、グラスを傾けながらじっくり楽しくお話しする。そんな雰囲気でお送りしたいと思います。
今月は、北区を代表する企業の一つである、格安からゲストをお迎えしております。
株式会社、格安グループ会長の佐藤純一さんでございます。よろしくお願いいたします。
よろしくお願いいたします。
佐藤さんとは、ずっと僕はお世話になっているんですけど、だいぶ初めて会ったのは、昔になりましたね。
そうですね。お互いとしておりましたね。
いやいや、もう多分四半世紀ぐらいですよね。
今でも覚えてるんですけど、当時、お題に会社としてはかなり大きな倉庫建てになるということで、いろいろご提案を出したりしていただいたりとか、そんなところがご縁だったんですけれども。
さて、佐藤さんはもうお生まれ、もう帰宅かなと思うと、違うんですか?
いや、帰宅です。
お生まれは帰宅ですよね。
帰宅です。
学校が文教区の聖書学校。
そうです。
いわゆる公立なんですけど。
新学校ですね。
新学校だし、本当に伝統を重んじるというか。
そうですね。
どうでした?当時はもう都電ないですよね。
いや、ありましたよ。
まだあった?
6年生でパスになりました。
そうですか。じゃあ、こっから都電で通われて。
そうか。そんな時代か。
じゃあ、それこそあれですよ。私の父が育文館があった戦前。
生き返りの都電、都電というか当時は市電ですけど、乗ると20銭とかそのぐらいあったのかな。
それを浮かすとアンパンが買える。
会長はいつも電車で行かれてた。
定期で行ってましたね。
なるほど。
あの頃、メモでスタッフ分かって書いてるのか分かりませんけど、酒蓋でパチンってやってひっくり返してっていう遊びが流行りました。
流行りましたね。めちゃめちゃ流行りましたね。ものすごいアドバンテージ持ってましたね。
そうですよね。
酒屋ですからね。
しかも数だけじゃなくて、僕らの学校というか僕らの仲間では珍しい酒蓋は付加価値があって、1枚と3枚とに取り替えられるとかそんなのあったんですけど。
結局こうやってパチンってひっくり返しますから、ひっくり返らないのが一応強いんですよね。
ですからそういうのはやっぱりこの交換はひっくり返りにくいとかっていうのはやっぱりありましたよ。
そうですか。僕らは勝負であれするのじゃなくて、要するにコレクションみたいなのになったっていうのが多分すごい豊富で。
豊富でしたね。だからもうお酒の空き部屋は去ってましたからね。
あと全然話はお酒から離れますけど、牛乳の蓋でっていうのもありませんでした?
牛乳の蓋はどうだったかな。
牛乳の蓋を手で持ってパンってやってひっくり返してやるっていう。
それはやってないですね。
そうですか。それもあってね、実は牛乳の蓋っていうのもやっぱり珍しい。
あの頃小学生ですから、行ける範囲限られるんですけど、あそこに滅多にない蓋があると。
牛乳屋があると。行くとね、そこ行ってね。酒蓋も同じようにやりましたよね。
今から思うと妙な遊びだね。
妙だし貧しい遊びというか。
お金がかかんないからね。
本当そうですね。やっぱり実は佐藤会長とは、僕同学年でね、さっきも話しましたけど、
アラ缶っていうのがあるけど、アラコキになっちゃいましたけど。
さて、そういう新学校にも進みになられて、大学受験のときもね、いろいろ選択肢が終わりになったと思うんですけども、
会長は筑波大学。
はい。
あの頃、筑波大学、東京教育大学から変わって。
ちょうど移ったばっかりで。
そうですよね。
私が入って4年生まで埋まったっていう感じですね。
ですから厳密に言うと、3年4年は教育大のほうにいたので、2期生ってことになるんですよね。
そう。
最初から筑波に入った中では2期生っていう話になるんです。
そうなんですか。
あの当時、本当に周りに何にもなくて。
何にもないです。
研究所としての設備は素晴らしいんだけども、近所にそれこそいっぱい飲むところもないし、商店もないしっていうんで、
変な話ですけど、ノエロ的になる人も結構出てたね。
そうですね。
町との繋がりがないっていうのが、あそこの一番大きな欠点だったですね。
大学中に実はパワーリフティング、重量を上げって言っていいんですかね。
を始められたっていうことなんですけども、これのきっかけは何だったんですか。
これはですね、周りに何にもないですから、やることといったら友達の部屋に集まって麻雀するぐらいしかないんですよ。
でもそれだとさすがに持て余すので、何かやっぱり運動をしようということは思ってたんですね。
ただやっぱりちょっと背が低かったので、何やっても不利だなっていうのはずっと思っていて。
そうですね。バスケットだったらやっぱり1メーター80、1メーター97みたいな。
それでよくよく考えると、重たいものを持ち上げるスポーツだと、背が低いと160センチだったら160センチのところまで上げれば成功ですよね。
とか180センチの人はさらにその20センチ上まで上げなきゃいけないわけですよ。
そうするとこれは絶対有利だなと思って、ウェイトリフティングはつく前になかったんですね。
ただパワーリフティングがあったので、パワーリフティングのクラブに入ったんですけど。
中学高校時代、スポーツに親しまれたっていう。
大会での成功
何にもやってないですね。
じゃあ本当に今は。
ゼロからのスタート。
本格的に。例えばどういうトレーニングかな。
入ったクラブはウェイトトレーニングのサークルだったんですよ。
健康のために体を鍛えようという、ただそれだけのことだったんですけど。
大学2年の秋だったかな。
ちょうど全日本パワーリフティング協会の理事の方が、津川大学に教授で赴任してこられて。
その方が何を思ったか、我々のクラブに顧問で入っちゃったんですね。
お前らやるからにはちゃんとやれよみたいな話になって。
当時30何人いた部員も12、3人まで減っちゃって。
体育会に行って、競技会も出るぞみたいな。
どうしようみたいな。
パワーリフティングっていうのは体重別にやっぱり。
体重別です。
当時はベンチプレスとスクワットの合計記録でやってたんですよ。
私が卒業してからデッドリフトも入ったんですけど。
大学生活と家業の選択
でも我々のときはその2種類で。
私が出てたのはバンタム級と言って54キロ未満のところだったんですけど。
大体6階級ぐらいに分かれていて、それぞれの階級で上を狙っていくということではあったんですけど。
ちなみに数字で言うと、会長は最高どのぐらいまで上げられたんですか。
ベンチはちょっと弱くて92.5キロだったんですね。
スクワットが強くて162.5キロだったんですね。
まず自分の体重が上がるかどうかっていうのがベンチプレスの一つの目標で。
最終的には体重の倍を狙いましょうと。
ですから54キロだから本当は100キロぐらい上がればよかったんですけど。
さすがにそれは上がらなかった。
スクワットの場合3倍なんですね。
これは162.5キロですがちょうど3倍上げてるんですよ。
ですので足のほうがちょっと強かったかなという感じはしますね。
夏休みとかに帰ってこられて、おじっかのお酒屋さんのお手伝いとかそういうのをされたりして、生きたとかそういう話じゃないですか。
そもそも筑波を選んだ理由っていうのが、中学の頃からずっとお前は酒屋をやるんだやるんだって言われ続けていて。
さすがに高校の頃になると鬱陶しくなってくるんですよ。
でも酒屋は絶対やりたくないなと思ってたんですけど。
特に高校2年の時に自分の会社でアルバイトしたんですね。
この飲食店に対するお酒の販売のこの仕事を生業にするのはちょっとさすがに嫌だなって。
結構当時はお店で売るっていうことよりも飲食店の卸しが。
飲食店卸し専門だったんですよ。
そんなのもあって、親父との仲も今一つ。
口聞かないみたいな感じだったんですよ。
大学どこにしようかと思った時に、中高って立教だったんで。
家から通えないっていうのが最大限の条件だったんですね。
ちょうどその時筑波大学ができたばっかりで新設校で、推薦入学があったんですよ。
そうでしたかね。
受験してないんですね。
そのまんまスポンと入っちゃって。
大学4年間ずっと親の干渉もなく、ゆっくり暮らしてあったわけですよ。
そこで距離が置けたっていうのが、酒屋をやろうとした一番大きなポイントだったかもしれないですね。
大学の就職とかそういうのを考える時期きますよね。
僕らの頃は今みたいに早くなかったから、4年になるか7年かぐらいからだと思いますけども。
その中で会長はご自身の家業を次になるっていうことも選択肢の中に入ってきてた?
大会優勝と決意
ずっと決めずにいたんですよね。
オシアノパワーリスティングの関東学生選手権で、4年の秋に優勝してるんですね。
でも4年の秋は4年生出てないんですよ。
みんな就職活動やってるから。
そこで出るっていうことを決断するイコール、もう自分の家やるんだなっていうのは大体腹の中では決まってましたよね。
そうなんだ。
実は僕は大学生の時に自分の母校の野球部の監督をやってたんですけども。
これもまた普通は大学4年の夏ぐらいまでやって、そこの夏の大会監督して終わるわけですよ。
この負け方がものすごく悔しくてですね。
それで実はその時に自分の中で決心してというのは甘えなんですけど。
親父に言って家業に就くから、その代わり来年の夏まで監督やらせてくれて。
だからちょっと順序が逆というか。
それだからますます会長に親近感が上げた気がしますけど。
なるほど、じゃあそこで覚悟を決めて家業を継ごうと。
私が栄えをやると言ったのは実は2月の末だったんですよ。
なるほど。
ですから普通栄えに入るときは大体皆さんサントリーさんとかキリンサントに修行に行くんですよ。
そうですね。
3年4年ぐらいですかね。
つか私はそんなことができなかったですね。
そこからねじ込むことも全然できないので、卒業式の翌日からトラック乗って配達行ってましたね。
なるほど。
じゃあ次回はですね、そのお父様からの事業承継の家庭なんかについても詳しく伺っていこうと思います。
ではまた来週よろしくお願いいたします。
よろしくお願いいたします。