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#123 更地になった畑から...「大熊のキウイで世界を驚かす」|ゲスト:阿部翔太郎さん
2026-04-09 15:40

#123 更地になった畑から...「大熊のキウイで世界を驚かす」|ゲスト:阿部翔太郎さん

4月9日(木) 

【今月のゲスト】 

株式会社ReFruits取締役 阿部翔太郎さん 

【今回のトークテーマ】 

・そこに「文化」や「人の営み」があったことを伝えていきたい 

・更地になった畑から...「大熊のキウイで世界を驚かす」 


東京商工会議所北支部会⻑である越野充博が

王子飛鳥山の邸宅の談話室で、北区内外の多彩な起業家、経営者の方々をお招きます。

情熱とアイデアが交錯した素敵なおしゃべり。

グラスを傾けながら、北区の未来を語り合います。


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サマリー

横浜出身の阿部翔太郎さんは、福島県大熊町に移住し、東日本大震災で壊滅的な被害を受けた土地でキウイフルーツ栽培の再生に取り組んでいます。震災前の特産品であったキウイの復活を通じて、原発事故のイメージだけでなく、そこに根差した文化や人々の営みを世界に伝えたいという情熱を語ります。

00:05
飛鳥山の窓から、東京ノースムーブメント。 東京都北区飛鳥山。
暖炉のある小篠光洋さんの部屋には、未来を思う様々な人たちが遊びに来ます。 情熱とアイデアが交絡した素敵なおしゃべり。
さあ、今夜はどんな話が飛び出すんでしょうか。
大熊町への移住とコロナ禍の影響
今晩は、小篠光洋です。今週も引き続き、株式会社リフルーツ取締役、阿部翔太郎さんをお迎えして、お話を伺ってまいります。よろしくお願いいたします。
はい、お願いします。
第2話ということになりますけれども、横浜出身の阿部さんが、福島県大熊町に移住を決めるって、そんなに簡単なことじゃなかったように思うんだけど、どうですか、周囲の反応とか。
そうですね、やっぱり周りの人にはすごい、なんでとか、そこで本当に暮らして生きるのってすごい言われたんですけど、自分としてはむしろ横浜よりもそっちの方が生活環境が今も良いと思ってますし、合理的に考えて、横浜とか東京の人が多いところに住む理由がないと思ってるんで、
まん延電車で揺られてとか、僕はもう二度と嫌だなみたいな。
でも、その時もそういうものが描けてたってことだね。
そうですね、あとやっぱりコロナが大きかったかなと思っていて、大学1,2年生の大熊に通い始めた時期が割とコロナで、東京の方でも大学あんまり行かないでオンラインで良かったり、人でも少ないっていうのを見ていたのに、
でも東京とか横浜はまたその人がいっぱい集まって、まん延電車に乗ってっていう世界に逆戻りしようとしてるのが、自分はあんまり理解ができなくて。
やっぱりそれは本当に若い、みずみずしい歓声だな。僕らはさ、戻ってきて良かったみたいな。
原口さんも共同経営者の原口さんも、実はコロナの時期に和歌山の方でみかん農家をして農業に目覚めた。
だからやっぱりこれ本当に10年ぐらい経った時に、このコロナっていうものが、10年後に世の中を背負ってる皆さんのような人たちにどう影響を与えて、それが日本社会、日本経済にどう言われたったっていうのは、多分論文書く人が出そうなすごい点ですね。
実際に住んでみて、大熊町の魅力ってどこに感じてるんですか。
そうですね。第1話でも話した通り、自分がやったことが確実にその街の風景になるとか、何か景色が変わる。
自分の影響範囲がちょっと大きくなったように思えることがやっぱり一番居心地としてもいいし、モチベーションや意外、生き甲斐になってるなっていう感覚がありますね。
私も街の真ん中に立ってこう見て、空が広いなっていうね。ちょっと高台もあったりしてね、起伏に飛んでたりして。
本当にこれから復興というよりも新しい街ができていくのは楽しみだなっていうふうに思いましたけど。
大熊町でのキウイ栽培の歴史
さて、安倍さん実は卒論のテーマで、なぜ大熊町でキウイ栽培が始まったのかっていうのが書かれたってことですが、この卒論を書いていく中での発見っていうのはありました。
そうですね。この卒論にそもそも何でしたかって言うと、やっぱり自分がすごい気になったからなんですけど。
ざっくり大熊でキウイをやってたんだよっていうのは聞いてきたが、何でそれ始まったんだろうっていうのを深掘りたいと思っていったら、結構やっぱり面白い歴史があってですね。
ざっくり言うとキウイが栽培始まったのが1981年頃。
昭和56年くらいかな。
そうですね、はい。になってるんですけど、この時期って原発の立地からだいたい10年後なんですよ。運転開始してから。
一応自分政治学科だったんで、政策として何でこの街はキウイをやり始めたのかっていう観点で見てたんですけど、他の原発がある街ってやっぱ原発ができると、やっぱ原発があればいいやになっちゃって。
その後に新しい作物を作ろうとしたり特産品を作ろうとしたりっていう事例は全国的にもあんまりなくてっていう中で、でもこの大熊町は当時の町長さんとか副議長さんが原発だけでもダメだよねとか、新しい特産品をちゃんと作ろうっていうので、キウイだって目をつけてやり始めたっていう経緯があって。
その時言ったら、たぶん小篠さんも当時ある程度ご存知かもしれないですけど、キウイなんてその時期まだ誰も知らないみたいな、日本に入ってきてないみたいな状況で反対、何でキウイなんてよくわかんないものをやるなんて言われた時に町長が、私はキウイが好きです、上手いって。
発言してる議会の議事録が残ってたりとかして、そういうのを見てると、結局はそういう一人の人の情熱とかファッションとか、でもすごい先を見据えて町のことを思ってやったっていう熱意とかにすごい自分は感銘を受けててすごいなと、昔の人すごいなみたいな。
いやいやいや、そりゃもういつでもすごい人はいるし、すごくない人もいるんだよ。でもそういう素晴らしい町長さんでしたね。今聞いてあれだったんですけど、その2,3年後ぐらいにね、僕たちキウイパパイヤマンゴーダネっていう曲が実は流行ったんですよ。さっき打ち合わせでもちょっと話してて、知らないって言われちゃったんだけど。
いやでもね、本当にあの当時、僕も最初キウイ見たときになんだこの毛の生えてるのはね、キウイっていう鳥に本当によく似ててみたいな。だけど一方でもって、まさにキウイパパイヤマンゴーダネって、パパイヤもマンゴーもそうだし、南の国への憧れとか海外の知らないフルーツに固くしてるんだけど、
外への憧れっていうものが中に入ってきてくれたっていうね、なんかそういうことが湧き立ち始めた時代。そこからバブルに入っていって、日本経済グーッといって社会も変わっていったんだけど。なんかそれの多分町長さんはいくつぐらいの方だったのかわからないけど、なんかそれを先取りしながらね、奥間町の未来を見たのかなっていう気が、振り返るとしますね僕なんかね。
そうですね。
震災前の農業とキウイ再生への決意
そうですか。はい。で、震災前もそういうことですごく農業盛んになっていた。特にキウイ栽培もですね、盛んになっていたって聞くんですけども、中心になってやってられた方がいらっしゃるっていうふうに聞きましたけど。
そうですね。震災前の奥間町はフルーツの香るロマンの里っていうキャッチコピーを掲げていて、キウイは今申し上げた1981年頃からなんですけど、梨っていう、和梨が、日本梨がもともとはもっと100年ぐらい前から続いてる特産品でっていう時期からずっとやってた農家さんが何件かいて、そのうちの1件が今うちの会社の役員にも入ってもらっている関本さんというご家族の農家さん。
農園がありまして、そこのうちなんかほんと100年間ずっとその町でもう農家のリーダーとしてというか代表格としておいしいフルーツを作ってきて。そういう方々が震災前は結構いらして切磋琢磨してやってらっしゃったようですね。
なるほどね。それが一旦原発ということで、町の人たちも避難になったし、もちろんそこにいわゆる放射能の影響が出てるということで、すべて伐採になってしまったと。大変不幸な事故だったわけですけれども。
どうですか、その中でそういうところにあなた方が降り立って、その中でキウイというものに目をつけたというのは、なぜキウイを復活させようとしたのか、その理由とか決め手は何だったんですか。
ありがとうございます。そうですね、まず自分の考えとしては取材をもともとさせてもらっている中で、やっぱり皆さんフルーツおいしかったって言うんですよね。結構それがすごい印象的で、逆にそれ以外のことはみんな言うことが結構違ったんですよ。
原発どう思いますとか、やっぱりセンシティブな話は結構皆さんいろんな経験をされているからこそおっしゃることがやっぱりみんな違うなと、今町に求めていることもみんな違うなと話を聞いて思ったんですけど、フルーツの話だけはみんな口を揃えておいしかったって言うんですね。
やっぱりこれがこの町の人にとって一番大事なことなんだなとか誇りだったんだなと思ったときに、でもそれが今話には聞くけど自分の目の前には更地になった畑しかないっていう、そのギャップもすごい何なんだろうって思ったし、それは話だけを聞いててもそのものがないとどうしてもこれから先10年20年経つ中で忘れられてしまうんじゃないのかなと、
さっきの町長の話とか思いを持ってやってきた方の営みみたいなものが忘れられてしまうのはやっぱりすごいもったいないなと思って、作ろうと思いましたね、作ったほうがいいなと。
すごいね、ジャーナリスティックな感覚を持ちながら、それで傍観者っていうか第三者に留まることなく自分がそこに入り込んでいくっていうのがすごいね、素晴らしいね。
大熊キウイ再生クラブと起業
大隈キウイ再生クラブっていうのがあると聞いたんだけど、これは元々あなた方が活動する前からあったの?
そうなんですよね、私たちが入る前、2年前ぐらいから町民とか役場の方の有志でちっちゃくキウイ再生しようっていうのをやってて、これも一つ僕らが始めたきっかけでもちろんなっていて、小さい規模でやってたんですけどやっぱり皆さん本業がお仕事がある中でやってるので、
なかなか始めたはいいけど畑の管理ができなかったりみたいなこともある中で、当時学生で暇だった自分と今の郷土代表の原口がこの活動の中心をやらせていただくようにだんだんなってきて、そういうちょっとした現場もありつつというか、
でもマスで見ると全体を見るとまだまだ空いてる農地ばかりで、さらちになってしまったとこばかりでみたいな中で、やっぱりこれ自分たちがちょっとでももう少しもう一歩頑張れば、よりそのキウイの再生とか町のフルーツの再生とか、自分たちが動けばできるんじゃないかなっていう感覚を持って始めましたね。
それでもういよいよ会社を起業しちゃうってこういうことになったわけですけども、そこで掲げられてる言葉、これは大熊のキウイで世界を驚かす、こういうのがあるというふうに伺ったんですけど、この言葉にかけた思い、これを伺いますでしょうか。
はい、ありがとうございます。実はこの言葉は私たちがすごい尊敬してる農業経営の先輩方の会社がいらっしゃって、その会社が日本の農業で世界を驚かすっていうのを掲げてるのがめちゃくちゃかっこいいなと思って、それはちょっと文字出していただいてるんですけども、でもそうですね、本当その言葉の通りで大熊町とか福島っていう言葉は原発事故によって日本中世界中にわりと知られるようになっているけれども、
その町は原発の町って言われるだけにはあまりにももったいないぐらい、キウイとか梨とかフルーツとか、やっぱり人の営みがそこにちゃんとあったんだよってことを自分としては伝えていきたいし、被災地とか原発じゃなくて、本当にそこに大事にされてきた文化とか人の姿っていうのを見つめてもらえるようにしたいっていう、
それはやっぱり自分がもともとジャーナリズム的なことに関心があったから、やっぱりそういうところが今モチベーションになってますし、それをしっかりキウイっていう文脈で事業として達成するためにこういう言葉を掲げているという形になってますね。
僕、原口さんにお会いしたときにちょっと質問したのは、農業共同組合ってあるじゃない。農業共同組合って素晴らしい活動もされてるし、農家のバックボードもなってる一方でもって、それが当然規制の力を持ってるから、思ったことができないとかっていう部分にもなってる。
いろいろいいとこ悪いとこあるんだけど、その点についてご質問をしたら、本当に何もなくなっちゃってるんで、ある意味非常に自由にやっていく。さっきのまさに先週伺ったルールを作っていくところからやれるっていう話があったんです。その辺は安倍さんどう思いますか。
そうですね、そういうところ多分にあると思います。我々のキウイ畑一応今東北で一番大きい面積でやらせていただいてるんですけど、やっぱりまとまった農地を我々みたいな若い新山者がお借りするっていうこと自体が結構他の地域だとまだまだ難しくて、どうしてもお前らどこの誰なんだって言われたりとか、若くてできるのかっていうのが多い中で、やっぱりこの地域はもう一度その震災によって農業がやる人がだいぶいなくなってしまったっていうのが、
あるからこそ僕らみたいな若い世代がやりたいですって言った時にやっぱり地域の方皆さんで後押しをしてくれてそれだけの農地を預けていただくっていうことができるのはまさにこうある種のしがらみみたいなものが一度取り払われたからこそやらせていただいていることなのかなと思いますし、むしろ自分たちとしては震災によって生じてしまったそういう状況を事業としての強みにしていきたいと思っていますし、
そういうふうにして震災を僕らが乗り越えるとか解釈し直していくことで、その地域としての持続性、持続可能な形に貢献できるんじゃないかなと思っていますね。
一旦道がなくなってしまったところを皆さんが歩み始めることによってまた道ができていくみたいなさ、すごくロマンも感じるけど責任も重いね。
そうですね。責任は本当に重いと思います。
でも本当にこのことがいろんな新しい日本を作っていくモデルになってくれると本当に未来が開けるなって気がしますね。
震災を乗り越え、持続可能な地域へ
それでは次回は事業として給油を始めたところからお伺いをしていきたいと思います。では来週もよろしくお願いいたします。
15:40

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