1. 田中健士郎の働き方ラジオ
  2. #132-1 元プロミュージシャン..
2023-08-06 35:19

#132-1 元プロミュージシャンのアトツギ物語。僕たちが提供しているのはビルのフロアではなく「人と人の繋がり」なのではないか(髙木ビル3代目代表 髙木秀邦さんゲスト回1/3)

前半では、株式会社髙木ビルのルーツから現在までの歴史を伺いました。プロミュージシャンとして「本気で生きること」を追求した経験が、東日本大震災後の経営危機に陥った老舗ビル会社を救います。
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はい、ということで、こちらは働き方ラジオの控室ということで、今日もイタリアからりささん、お疲れ様です。
お疲れ様です。よろしくお願いします。
はい、どうも。今日はですね、ゲスト回という形で、最近ゲスト回もね、すごい増えてきてね、盛り上がっている働き方ラジオで。
あと最近はノートでね、記事化もどんどん進んで盛り上がってますね、りささん。
ですね、なんかこうアクティブに動き回ってますね、働き方ラジオが。
そうなんですよ、はい。で、僕もこういろんなところに登壇させていただいたりとか、出向いたりすることもね、おかげさまで増えている中で、ちょうどこの間、セルフプロデュースっていうテーマで登壇させていただいたときにですね、
そこで出会って、もう僕はその日にすぐにファンになったんですけれども、はい、今日は株式会社高木ビルの代表の高木さんですねに、今日はゲストとしてお呼びしまして、はい、もうめちゃくちゃかっこいい経営者なんで、楽しみにしていただければと思います。
はい。
働き方ラジオ始まります。このラジオは誰もが情熱を持って働く、それを実現するために働くということの解像度を上げていくポッドキャスト番組になります。
今日も働き方エヴァンゼリスト、田中健次郎が皆さんのNumerousをゆったりしたトーンでお話しさせていただきます。
いつもお聞きいただきありがとうございます。はい、ということで今日はですね、ゲスト会という形で株式会社高木ビル代表の高木秀国さんにゲストとしてお越しいただいております。高木さんよろしくお願いします。
はい、よろしくお願いします。
はい、ありがとうございます。高木さんはですね、高木ビルの3代目ということで、老舗のビル会社ですね。
その中でバースという新しいブランドも立ち上げてですね、そこの代表もされているという方で、僕がたまたまこのセミナーで出会って一緒に登壇させていただいたときにですね、すごいそのときにもう話してるだけすごいワクワクするという感覚を覚えまして、当時グルーヴ感があるっていう話をされてたんですけども、高木さんもともとミュージシャンであった、プロミュージシャンだったっていうね、
ご経験もあって、ちょっとセッションをするように話したっていうのをセミナー終わった後に話したんですけども、ぜひ今日もですね、なんかそんなセッションみたいな対話になるといいなと思ってます。よろしくお願いします。
はい、よろしくお願いします。
はい、ありがとうございます。
高木さんのその心地いいスピード感とゆったりとしたラジオの感覚が、最初からなんかいい感じのグルーヴになっている。
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本当ですか。ありがとうございます。ちょっとゆったりめのグルーヴでやってるんで。
ありがとうございます。
はい、そんなところで、早速ですね、高木さんに聞いていきたいなと思うんですけれども、まずはちょっと会社のことですね、いろいろとですね、もう教えていただきたいこと、あったりはするんですけど、例えばなんか木造のビルを作った話とかもね。
結構いろんな取り組みをされていると思うんですけども、まずそもそも高木ビルにどういう経緯で後継ぎとしてですね、入って、で、まあその今ある意味コアになっているバースというブランドが生まれていったのかみたいな、ちょっとそのあたりの背景をお聞きすることできますか。
もちろんです。ありがとうございます。
今日ね、たっぷりお時間をいただいているということなので、結構ロングストーリーになるかもしれません。
ぜひぜひロングストーリーぜひお願いします。
ありがとうございます。
あの、今ご紹介いただきましたように、私は貸し出る会社の3代目ということで、不動産会社としております。
主にはですね、高木ビルというですね、名前のごとくビルを作って、貸して、管理をしてということがメインの事業なんですけども、もともとはですね、じゃあどういうふうにして始まったかというと、私の祖父が創業した会社なんですね。
で、それはもう1961年ということで、もう62年。
その前何やってたの?って話なんですけども、こういうと府中市出身でして、高木家としては。
高木家自身はですね、いわゆる地主というですね、家だったんですね。
地主さん聞きますよね。
はい。土地の主と書いて地主というですね、いかにも悪そうな感じなんですけども。
でも本当にたくさんの土地をですね、高木家としては所有させていただいていて、古くからは作人という形で、畑を探してくださる方にお貸しして、
そこで取れたお米をいただいて、なり割りしてという感じなんですよ。
なので本当に今では考えられないぐらいですね、広い土地を所有させていただいたということだったそうです。
で、大きな大事件が起きるのが、まさにですね、第二次世界大戦、敗戦なんですよ。
そこまで遡っちゃいます。
結構、それが高木ビルがまだできる前の話ですよね、まだその段階では。
地主さんとしてはかなり昔からだったんですね。
昔からなんですよ。お墓の中にいると本当に300年とか経過するんですよ。
はいはいはい。
残念ながら歴史的なものは残っていないんですが、土地を広く処理していたんですね。
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で、私の祖父の代に、要は日本が敗戦するんですよ。
これ、皆さん歴史の勉強をもう一回ね、頭を覚えておくと、
日本は敗戦国になって、マッカーサーさんが日本に来て、
農地解放ってのをやるんですよ。
覚えてます?農地解放。
覚えましたね。ぼんやりと思えてる気がします。
農地が解放されていいことだっていう感じもあるし、
皆さんいい面も良くなった面もいろいろあると思うんですけども、
ちょっとその辺の歴史的な価値とか背景は一旦置いておいて、
我々からしたらどういう感じだったかっていうことなんですけども、
要はですね、持っていた土地を戸作人にあげなさいっていう話なんですね。
農地を解放して、戸作人の所有物にしなさいということなんですよ。
今まで貸していたものをもうあげなきゃいけないっていうことですよね。
そうなんです。それも文道模様に農地解放ということで、
富の配分とか平準化みたいなこともあったと思いますし、
アメリカとしては国力をなるべくプラットにしてるんですよね。
マッカーとかマーカーとか、いろいろな説があると思うんですけども、
いわゆる農地解放ということで、土地を私の祖父的に言えば取られてしまった。
取られた。無理やりみたいな感じですよね。
それも9割以上取られたんですよ。
ああ、なるほど。
100あったときのうちの90%は取られてしまったんですよ。
今まで貸していた人たちのものになってしまったんですよ。
これって欲をかけたらすごいことじゃないですか。
これはもう破産みたいな状況ですよね。
そのときに私の祖父がどうやってそこから立ち上がってたかというと、
残った10%というのが、
例えば駅前で貸し屋にしてたとか、
都心のほうで駐車場にしてた土地が残ったんですよ。
農地じゃないから。
そうですよね。ここはギリギリ大丈夫だった。
農地じゃないので残っておかない。
なのでそこを7年守ってきた高木家として、
どうやったら価値を作れるかとか、
長い資産として運用していくのがいいのかということで、
ビルを作ろうって話になってます。
ああ、なるほど。
でもそれってもう1951年創業なんですけども、
創業までも当然廃線から時間が十分。
そうですね。ありますね。
ありますし、いろいろその間は何とか何とかやりくるをしてたっていう話なんですけども、
創業してから一つ目のビルができるまでも10年ぐらいかかってます。
じゃあ1960年とか入ってからできたみたいな。
そうなんです。
初めてビルが初期は40何年でできてくるという形なんですけども、
09:03
そこまでずつお金を貯めていったりとか、
土地を売ったり買ったりしながらビルの種地っていって、
ビルができるような土地にしていく。
分散してる土地をまとめたりとか。
まとめたり。
立ちの木のパイロンさせていただいたりとか、
いろんなことをやりながらじっくりじっくりやって、
ようやく1本目のビルができるのが創業から10年後。
ちょうどその辺から高度成長期が始まって、
私の亡くなった父がその頃から会社に参画して、
昭和50年代、60年代みたいな時代の高度成長期の中で、
どうやってビルを作ったのか。
そんな感じなんですよ。
ですので、ある種、もともとは土地を持っていた家が
不動産業に転嫁していくというのが、
うちの事業の始まりだったんですね。
なるほど。歴史を感じますね、本当に。
すごい長い期間を経て立ち上がったというところです。
なるほど。
われわれにはその敗戦っていうのは本当に想像できないじゃないですか。
もう本当に教科書の世界になっちゃいますよね。
本当にそのときにどうだったのかっていうのは、
生前の祖父からは分からないというか、
もうどっしり生きてきたっていう感じで、
90歳を超えて元気だったんですけども、
あの世代の方々ってみんな一応そうかもしれませんけども、
すごい激動を生きてきたっていう感じがしますよね。
土地が90%取られても諦めずに、
10年、20年かけてビルを作ったってことですよね、これ。
そういうことなんですよ。
着実に少しずつ少しずつやった。
なるほど。
これって気の遠くなるようなことだと思うんですね。
ですよね。
話し飛んじゃいますけども、今のビジネスの世界って本当に
毎日毎日激動のようにいろんな情報だったりとか
新しい技術だったり生まれたりするじゃないですか。
そうですね。
そういうことからしたら本当に何十年かけて一つのビルって
どういうことって感じがしますよね。
でもそんな中で我々はビルが作られていって
会社が作られていったっていうのは、
私もそういった祖父の言葉だったりとか、
父が見ていた祖父の姿みたいなのがすごく聞かされていたので、
その辺っていうのは非常に思う。
やっぱ残ってるですね、そこが。
それを受け継いでる感覚はあるんですね。
ただ、ただなんですけど、
小さい頃は長男だったので、
もうおじいちゃん、本当に後取りじゃん、後取りじゃん。
で、ある種可愛がられちゃうんですよ。
12:05
もう後継ぎみたいな感じですよね。
その段階でそうなるんだと思うんですけどね。
もう後継ぎですよね。
気軽に夢が持てなかったんですよね、小学校の頃。
自分の夢というか将来決まってるみたいな感覚なんですか。
そうなんですよ。
例えば同級生とかが気軽になれるわけないかもしれないのに、
俺はプロ野球選手になるんじゃ、とか。
みんな言いますよね。
そういう夢が気軽に持てなくて。
小学校の頃に将来の夢って作文があるじゃないですか。
画抜あるやつ。
あれが書けなくて先生に怒られたことがあるんですよ。
先生からは、何でもいいから書けみたいなこと言われて、
何でもよかった夢じゃないじゃん、みたいな感じだったんですけども。
とりあえず、
飛行機のパイロットを書いて。
あんまり成りたくもないもんだから、
できれば国内戦がいいですとか書いてたんです。
現実的な。
そんな子供だったりするんですけど。
そんなところで、あんまり物に熱中できない、
余貧乏な子供さんが減ってます。
で、高校ぐらいに音楽というかロックに出会ってしまって、
ここで出会うんですね。
そこでズムズムにはまっていくという。
そんな人生は私は歩んでます。
そのまま、
高校大学と音楽にズムズムで、
そのままの熱で、
卒業後同時にデビューしてしまうという。
そんな人生がありました。
そこで本当にプロミュージシャンとして活動するっていうのも、
なかなかすごいですけど、
そこからまた戻るっていうわけですよね。
そうですね。
ミュージシャン生活も5年ぐらいやったんですけども、
日中も札幌も行かなくなって、
戻れまして、大事な施設をして、
父親のところに、
家業に戻りたいんだけど、
ということで謝りに行くんですね。
ギターを背負って家出をした口みたいな感じだったんで。
はいはいはいはい。
お子さんになって死んかい!っていう感じでですね、
家を出てしまったと。
出たのに。
出たのにすいませんって言おうとしたら、
さすがこの成長期を、
高校医療部から父親はですね、
ダメだぞ。
お前みたいなやつが来たら会社がつぶれるぞ。
知らんから出てけよということで、
突っ張られてくるんですよ。
ここで僕は本当に目が覚めて、
そりゃそうだよな。
社会人というか会社にもやったことないのに、
会社に入るなんてね、
なんて寝ぼけたこと言ってたんだと思ったんですよね。
15:00
初めて就職活動をして不動産になりました。
そこで不動産の世界に入った。
なるほど。
はい。
そこで不動産の営業とかでしたっけ?
そうですね。中大業者に入りまして、
主には個人の家を買うとか、
マンションを買いたいとかそういう方を育てたりとか、
逆には売却したいという方を育てたりとか、
個人営業とされていましたね。
でもそのときに思ったんですよ。
ミュージシャンのときって、
今の企業家みたいなもんだと思うんですけど、
365日音楽のこと考えて、
そのためだけに生きてるんですよ。
働くとかなんとかっていうことよりも、
なんかもう生きてる感じですよね。
本当に生きてるって感覚だし、
もしかしたらそこら辺の働いてる人よりも
生きている可能性は高いですよね。
お金的にはもしかしたら厳しかったかもしれないですけども。
そうですね。
僕は本気だったんですよ。
そうですよね、本当にね。
メンバーと一緒に元気して、
今じゃ嫌いですけども、
お互い掴み合って、
その後に放棄するだけあると。
いや、暑いですね。
そんな毎日だったんですけども。
暑い、はい。
それが生きるとか働くみたいな感じだったので、
今もバースでいろんな企業の中で話すと、
どういう部分ってシナジーというか、
共感する部分が持てるのかななんとかね。
確かに、企業家さんは割とそういう、
生きるイコール働くみたいな方ばっかりですもんね。
そうですよね。
そんな今だけ不動産の世界に入って、
思ったのが、やっぱりそのままの勢いで働くと、
すごい働けちゃうし、
ちょっと自分で言うのもあれですけども、
数字もすごい売上が良くて、
何度も何度も表彰されるように。
すごい。
そこは何か、なんとね、
すんなりいかなかったから、
営業がうまくいったみたいな感じも、
ちょっとあるかもしれませんね。
要はちゃんと大学卒業して、
就職活動して、
OJTを経て、研修を経て、
ちゃんと営業になった人と一人が、
たぶん違った感覚で、
なんとなくフルスロットルする部分と、
うまくマネージメントする部分とののは、
結構考えられたのかなと思います。
へー、なるほどね。
営業というのもすごく思ってたんですけど、
営業ってお客さんのためにやることじゃないですか。
はい。
ということは、音楽で言えば、
音楽もお客さんが喜んでくれるために、
どういう音を出すかみたいなことですよね。
そうですね。
お客さんの喜びを追求することですもんね。
もちろん自己主張としての音も出すんだけども、
18:00
自分の主張であり、
お客さんにも受け入れてもらうっていう、
両方がないとなかなかなんですよ。
両方をかなり強度高くやる感じですよね、
ミュージシャンとかって。
かなり強度高くないといけないと。
はい、両方ですよね。
さらにビジネス的にうまくいってる人としては、
それがさらにコマーシャルでなきゃいけない、
みたいな気も出てくる。
はいはい。
だからそういうような感覚で営業マンを捉えていると、
僕は自分で表現したかったんですよ。
お客様が入ってこういうことを言っているのか、
どうしてこの物件をお勧めしてるのかってことを、
ちゃんと自分で表現したかったんですよね。
はいはい。
でもそういうことって結構、
研修とかOJPTPは外れた行為だと。
確かにあんまり教わることではないですよね、
そういう自己表現するみたいなことは。
なので意外にそれが不動産営業みたいな、
ある種数字を追う結果、
給料もある程度具合の率が違うということで、
それが成果としてちゃんと返ってくるのが楽しかったですね。
はいはいはい。
だから夢破れて、
最初はぼーっとしてるかなと思ったんですけど、
意外に熱中できたんですよね。
なるほど。
そこはちゃんと結果として、
今までやってきたこともちゃんと繋がったし、
っていうところが出てきたんですね。
そんなことだって数年やっていて、
色んな形式ができても経験が詰めて、
かついろんなことが表彰されたりとかしていただいたので、
それを見て、
私の父親も、
このぐらいできるなら、
そろそろ来るかどうかということで、
今まで限りに入社させていただいて。
入社となったんですね。
そうです。
それが13年前ぐらいですかね、今から。
はいはいはい。
で、その中で高木ビルに入社したという。
なるほど。
でもそのときはね、
高木ビルは古い会社って感じで。
あー、そのときでももう創業、そうですよね。
50年とかそういう感じですかね。
そうなんです。
ですけども、
全くそのDXのDの字のものがないような、
まだ乾熱紙ファックス使ったりとか。
あー、なるほど。
パソコンは会社に1台しかありませんみたいな。
確かに。
そこにポンと入るんですよ。
あー、そうなんですね。
そうなんです。
そこはちょっと大変でした。
でもその入って、
最初はやっぱり経営者として入る。
後継者として入る。
3代目なんだね、この人はってことで。
周りからもやっぱりそういう目で見られてて。
最初はすごくその役割をすることに徹してたんですよ。
あー、その3代目という役割ってことですか。
そうです、そうです。
で、不動産のオーナーって皆さん会わないんですよね、普通ね。
はいはい。
21:00
そうですね、会わないですね。
会わないし、
例えばビルに企業が入居してもオーナーと話すなんてことあんまないじゃないですか。
あー、そっか。
日本はやっぱり不動産仲介業者さんとかですよね、やり取りするのって。
管理会社さん。
はいはいはい、確かに。
オーナーはほぼ接しないですよね、それで言うと。
そうなんです。
個人の賃貸の家ですらオーナーさんってほぼ知らないですもんね。
ですよね。
まあ、契約書の名前がちゃらっと出てくるかな。
なんか出てくるかなみたいな。
そうそうそうそう。そんな感じですよね。
一番上に住んでるらしい。
そうそうそうそう。そんな感じですよね。
そうですよね、はい。
多分働いてねえんだろうなみたいな、そんな感じが。
そうですよね。いいなーみたいな感じですよね。
左に打ち割ってやつなのかなーとか。
確かに全然わかんないですね。
わかんないですよね。
管理会社の人々とか、うちの会社の管理の部門も前に出ない。
後ろに構えてる。
逆にもうそういう哲学というか、
ビル会社たるものはそんな前に出るもんじゃないと。
オーナーは全員近くにいてくれればいい。
我々はお堀で守りますと。
なるほど。
そういう感じなんですよ。
でもそれを役割としてやらなきゃいけないなと思って、
会社はですね、捨ててたんです。
でもね、それがですね、わくわくしないんですよね。
お、来ましたね。わくわくしない。
プロミュージシャンとか営業で成績出した頃は結構あったわけですよね、わくわくが。
やっぱりさっきもお話したように、表現をしながらそれに喜んでもらえる。
確かに。
すごく楽しかったんですよね。
はいはいはい。
それってミュージシャンだからとか、営業があんまり関係なかったなと思って。
確かに。はい。
で、トップ全として役割を決してる自分が何も表現してない気がして。
確かに。その自己表現みたいなものがもう完全になくなっちゃってたというか。
そうなんですよ。だけどこれのために来たんだからこれやんなきゃのマイナスにかかってるんですよね。
やらなきゃいけないという動機でやってたってことですね。
もちろん好きかってやってきた今までの人生を、ただもう1回で家業に戻るんだっていうある種決意を持って戻ってきて、そうあるべきだと思って。
はい。
でもだんだんだんだん、自分から音が出なくなって、仕事もなんか楽しいと思えなくなって。
24:00
はいはいはい。
悶々とするんですが、でも役割に決して。
はい。
その時に、ちょうど1年後なんですけども。
なんと東日本大震災になったんですよ。
あー、そうですよね。
11年。
11年の頭ですね。
ここが大きな変異になった。もちろんそれは別に経営者どもが、アルバイトしてた自分も言うんですけど、
昔ね、ミュージシャンで稼げなくてアルバイトしてましたし、ミュージシャンであった時だったりサラリーマンであった時だったり、
関係なくですね、多分、震災って日本人全員が何のために生きてるんだろうかとか、命って何なんだろうかとか考えたりとか、本当の意味で未来って何なんだろうかって考えたと思うんですけども。
はい。
僕にとって、ビル会社にとっての震災ってのは本当に厳しきところで。
ああ、そうだったんですね。
そうなんです。ビルは揺れちゃうし、電気は止まる。
工事してる現場の人たち、ガソリンがないから工事もできない。
はい。
資材が世界から入ってこなくなっちゃう。
止まっちゃう。
そういう感じで、企業さんもだんだん辛くなっていって、ポツリポツリとビルからテナンスさんがいなくなっていく。
ああ、そうだったんですね。
特に厳しかったのが、大手のビルさんって結構ゴソッと抜けちゃったりすると、やっぱりファウンドが埋めちゃったりするんで、埋めなきゃいけないんですよ。
はい。
埋めなきゃいけないんで、結構引き抜きをすごいするんですよ。
おお、引き抜き。
それは仲介会社さんも含めてなんですけども、大手のビルさんが開いて、でも埋めなきゃいけないからちょっと値段を下げるから、今がチャンスだから埋めましょうよみたいな話ってあるんですよ。
なるほど、なるほど。
それはもうしょうがないんですよね、市場の原理は。
我々の中小ビルってのは大手ビルさんの良し悪しで左右されるんですよね。
じゃあこのチャンスにちょっと大きめの丸の内のビルに移りましょうみたいな。
象徴的なのが、うちが西新宿に12階建てのビルなんで、あそこを100坪ぐらいで運営してるんですけども、やっぱり新宿のタワービルというか、超高層ビルって古いんですごい揺れたんですよ。
ああ、はい。
ニュースでビルとビルがぶつかれそうになったような映像って覚えてます?
ありましたね、はい、ありました。
なので超高層ビルから結構どんなところに向けていくんですよね、もっと耐震性の良い丸の内とか。
なるほど、はい。
そうするとそこを埋めなきゃいけないので、外の辺りから新宿に引っ張ってくるの大変なので、近場の新宿でいろいろさせるだけなんですよ。
なるほど。
そうするとうちのビルさんが格好の狩り場というかですね、引き抜きボムになりましてですね。
27:03
もう周りをウロウロしてるぐらいのなんか。
そうなんですよ。ここいいってなってるからこっち来ないかなって。
なるほど。
多分ある種、よくも悪くも寝らないですね。
はい。
それ自体は仕方のないことですし、フジネスっていう経済の中での競争原理ですから、基本にどうこういうつもりは全くないんですが、
でも相付きテナントさんがワンフロアずっと出てくるんですよ。
ああ。
入るテナントさんも当然ないんですよ。
はい。
また解約です、また解約ですって言うんです。
で、また余震で揺れた、また解約です。
来月はここが停電になりますとか。
はい。
そんな日なんですよ。
テナントさんがどんどん抜けていくときに、引き止める術がないんですよね。
要は建物としてさしてるだけだから、なんかこう、うちに怒ってくださいが言えなかったんです。
引き止める術がないなっていうのがありまして、そこで本当に不動産ってどういうのがいいんだろうか。
このままずっとやっていったら、何が価値なんだろう、不動産って。
建物があって床面積があったら、それが不動産の価値なのかな。
いやどうなんだろうって思って、この時点で考えだしたんですね。
そこで、最初何もできないんですけども、どうして出てかれるんですかどうなんですかって言うと、
いやあっちの高木さんのときよりもいいビルがね、高木さんのところ半額だって言うから行くんだよ。
当たり前だよねって言われたんですよ。
それに対して、出てかまいてくださいって言葉は言えないんですよね。
価値がなんなんだろうか。
いろいろ考えるんですよね。
そこから考えたことを考えて、もう何年間も苦労しながら、
どうしたらお客さんって喜んでもらうんだろう、どうしたらこういうビルを大事に思ってもらえるんだろう、みたいなことを考えて、
まずは、今までだったら審査で音をしてたように、ベンチャー企業さんとかをいろいろ聞くようになって、
こういうふうに頑張ってするなら是非うちに来てくださいよ、みたいな感じで来てもらったりすることがだんだん増えてきたんですよね。
そうすると、あとその時にちょうど色々資金を半額にしてみたりとか、
保険に変えてみたり、出世ビルっていうプロジェクトをやったんですよ。
この間聞きました、出世払いじゃないですけれども、最初はちょっとこう安めに。
そうなんです。
最初の資金を。
そうですよね。
そうすると、ベンチャー企業の方々もすごい喜んでくれて、涙ながらに契約してくれたりとかして、
そうするとね、そこからうちのビルに来て、2ヶ月、3ヶ月と、
事業がうまくいった。
高橋さんやったよ、こんなことうまくいったよとか、こんなようなプロジェクト奪ったよとか、
1年経ってこんだけ売れるようになりましたとかってことですね。
自ら報告してくれるようになったんですよね。
で、その時すっごくワクワクしたんですよ。
30:01
こうやってうちに来てくださった企業さんと一緒になって喜んで楽しく成長できるビルって最高じゃんってそこで気づくんですよね。
いいですね。
で、やっぱりビルってもっとワクワクしたいし、でももしかしたら、
それってビルなんじゃなくて、人と人のつながりなんじゃないかみたいなことに気づいてくるんですよ。
ビルを提供してるんじゃなくて、つながりを作っているみたいな。
もしかしたら今で言えばコミュニティみたいな話だったかもしれません。
僕らはそういう意味で言うと、お客様をただ仮主さんとして捉えるんじゃなくて、
共に成長する仲間だったりとか。
僕らそれを伴奏って呼ぼうっていう話をしたので。
伴奏って音声だけだったのでちょっと字見せないんですけど、
走る伴奏もありますし、音楽で言う伴奏もあります。
伴奏、そうですよね。ピアノとかの。
共に同じ感じを求めて何か作っていくみたいなことが、
ビルとか不動産の中に入っていったら楽しそうだなっていうことを
なんとなく感覚として思うようになったんですよ。
それからもう僕の眠っていたミュージシャン魂というか、
表現の。
そうそう、表現した魂が溢れていって、
今のインキュメーション室のバースだったりとか、
いろいろ飲食業者との共同スタイルを作っていたりとか、
地域創生とか、今大東の取り組みを一緒にやってたりとか。
それも一緒になってコミュニティを作っていく。
そんなふうに今つながっている。
なるほど。
そんな感じで。
歴史を感じました。
でも何かちょっとこう、何て言うんですかね。
ある意味戦後に土地が10%まで減っちゃったときに、
どうやったら価値を作れるんだろうって苦悩したちょっとおじいさんと、
赤城さんのこの大震災後の話が若干リンクしますね。
そうなんですよ、そうなんですよ。
震災のときに僕が思ったことが、
このまま不動産会社を僕が、
あと30年40年続けていくわけですよね。
30年後ってどうなってるんだろうか。
思ったんですよ。
さらに言えば、そのときちょうど新しいビルの建築もしてる。
ビルって100年持つよみたいな話をしたんで、
じゃあ100年持つビル作るんだっていうふうに、
本社の立て替えをしたんですね。
100年後って、僕100%死んでるじゃないですか。
僕の息子だって生きてるかどうかわかんないけど。
もしかしたら僕の孫がやってるかもしれないですよ。
僕の孫が100年後にどういうことをやってるのかな。
33:02
不動産ってどういう価値を持ってるのかな。
会社ってどういう価値を持ってるのかなってことを、
そのときすっごい考えた。
そのときに祖父のことが思い出されたんですよ。
もしかしたら敗戦のときにそんなこと考えてたのかなとか。
そこですよね。
古宅人に貸すっていうことが価値だと思ってたら、
そこがなくなって。
そうなんです。
じゃあ何が価値なんだろうっていう。
結構似てますよね、たぶんそこって。
そうなんですよね。
はいはいはい。
なので、ちょっと僕はそういう意味で、
そういう歴史とか家に生まれたおかげで、
戦災のときもそういうことを考えれたんじゃないかなって。
確かに。
少しそれは運命的なものを感じますね。
そうですね。
で、眠ってた表現者魂とお客さんに喜んでもらうっていう、
そのワクワクが復活してきたわけですね。
それが2010年代って感じですかね。
そうですね。
それこそ出世理由みたいなことを始めたのが2016年。
16年とか。
ヴァースが始まったのが17年。
今ちょうどそういった、ある意味新しい不動産の価値づくり。
やっていかして6年、7年経ったんですね。
なるほど。
暑い暑い話ですね。
皆さん長々とストーリーを、ロングストーリーを話させていただいてますが。
でもこうやってやっぱり歴史から知れるとか、
やっぱりそこに、ちょっと次聞きたいことにもつながるんですけども。
やっぱりその哲学みたいなものとかを歴史からも感じるなっていう、
いかに価値を生み出すのかみたいなことに多分向き合ってきた会社なんだろうなっていうのは、
改めて思うというか、
不動産とかともすれば何もしなくてもお金が生まれるみたいに。
そうなんですよ。
思われがちな業界の中で、
でも本当にそれって価値なんだっけっていうのを問い続けてきた会社なんだなっていうか。
35:19

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