設立に向けての動き
すみません、間が空いちゃいまして。
こちらこそですね。
じゃあ、ちょっと前回と 被るところもあるかとは思うんですけど、
設立、2011年の終わりから2012年春にかけて、 設立に向けての動きというのをちょっとそこも具体的にもう一度伺って、
それで設立から最初の仕事みたいな感じでというのを、
ちょっと一つ事前に確認させていただきたいのが、
その時点で個人で仕事を受けるっていう状況にあったのは、
サダムさんと宇佐美さんで、
いはらさんは東京から九州に戻ってこようっていうタイミングで、
岩谷さんはゲーム会社で制作をしていて、
その時に個人で受けるっていうことはまだしていなかったという認識で問題ないですか?
はい、大丈夫です。
この前も少しお話ししましたが、
歌謡会っていうのがラボに先立ってありまして、
歌謡会に途中から仕事が入ってきたりするようになって、
歌謡会にすでに岩谷君とかは仕事の後に来てもらって、
いろいろ一緒にプレゼンテーションを見たりとかなんだりっていうのは一緒にしてたんですけど、
歌謡会に舞い込んでくる仕事っていうのに対して動いてたのは、
僕と宇佐美君っていう形です。
その歌謡会に舞い込んでくる仕事っていうのも、
僕が中心に回してたわけではなくて、
中島愛ちゃんっていう女の子と、
今店頭に入っている後藤萌えちゃんっていう女の子、
そのあたりを経由して仕事が入ってくることが多くて、
どちらかというとマネージャー的に動いてたのは彼女たちで、
僕らはその仕事が入ってきた時に、
自分が担当しそうな部分があればスポット的に協力してたっていう感じです。
アノラボ設立、2012年4月に設立されるわけですけど、
その時には歌謡会の仕事を引き継ぐみたいな形っていうのも、
一つの仕事の仕事としてありましたか?
引き継ぐ感じでは実はなくても、
歌謡会に関しては霧のいい感じで、
多分そこには全部仕事は終わってたような記憶がありますね。
宇佐美君そうだよね、多分ね。
そんな記憶があります、うっすら。
歌謡会と展示会の発展
この前も少しお話ししましたが、歌謡会で一番大きかったのが、
九大アラム内って言って、九州大学の、
原稿大じゃなくて九州大学の本ちゃんの方の同窓会があって、
その時に鎌田さんっていう大井ちゃんが僕らに声をかけてくれて、
原稿大を紹介するような展示してくれないって言ってくれて、
それで高青年科学館のリバイバルだみたいな感じで盛り上がって、
その時にいたメンバーを中心にわーって展示を作って、
九州大学の箱崎キャンパスの一角で、
確か少し新しめのカフェとかが入ってた施設の展示会場っぽいところで、
原稿大を紹介する展示をしたっていう感じですかね。
それが歌謡会の最後に。
そうですね。それに先立って、もうちょっとそこら辺グレーで、
高青年科学館の会合の時にやってたのか、それとも歌謡会に入ってやってたのか、
ちょっと覚えてないんですけど、後藤萌恵ちゃんを中心に、
割と後藤萌恵ちゃんが清澄先生っていう先生の元で研究室にいて、
清澄先生が割とそういう社会とのつながり的な仕事みたいなのを、
ロゴを作ってくれたとか、あるいは一周プラスデザインっていう、
博報堂が主催しているコンペティションがあるんですけど、
デザインコンペティションがあるんですけど、
それにアイデアを出さないかみたいな話があって、
それでみんなでブレスとして話し合って、
一つアイデアを出したみたいなのもあった覚えがありますね。
あれは高青年の時だっけ?
歌謡会になってないっけ?
高青年の時ですね。
高青年の時か。
なんかちょっとあれだもんね。
佐藤健の方でブレスしたような。
高青年メンバーです。
その辺からちょいちょい、
高青年のメンバーに少し清澄先生だとか、
そういったメンバーから、
その後の歌謡会になると、
僕が下校大で働いてたところの松熊先生っていう先生とかからも、
ちょいちょいこういうのやらないみたいな話があったりして、
その辺りを足掛かりに少しずつ仕事をしていったような覚えがあります。
それで実際に会社を立ち上げるっていう際の実務的な作業を、
バックグミ作りみたいなのも日原さんが中心に。
そうですね。
歌謡会から作ってたあのラボっていう個人事業主は、
僕が下校大で働いてたんで、
大使になることができなくて、
この前も言ったような覚えもありますが、
後藤萌恵ちゃんが代表になって、
それでやってて、
3月の時点の青色申告の時は後藤さんにお願いして、
そこの税の処理とかをお願いしました。
レシートとかを僕が渡してですね。
そこのと平行して、
日原君が調べてくれてたんじゃないかと思うんですが、
どうでしょう?
どのレイヤーというか、
どのレベルでというか。
会社の立ち上げと実務作業
実際会社準備、立ち上げまで、
日原さん、例えば事務所の物件。
そうですね。
そうですね。
そういうところとか、
法務局とかは、
そうですね。
いろいろ調べて動いて、
その時は司法書士さん、
ちょっと最初だけ入ってもらって、
その人に警官とかをよろしくもらって、
手順とかを教えてもらいながらやってました。
資本金持って、
みんなで銀行振り込み行ったりとか、
手順してみんなでしたりしたりとか、
そんな最初だとやってました。
事務所のスペースとしてはどういう感じの場所か、
お互いのコミュニケーションだったり、
作業の。
もう全然選ぶというよりは、
僕の妻のところが、
法屋さんをしていたところで、
たまたま空いている物件があったので、
そこを安く貸してもらえるということで、
あんまり選択をしたというよりは、
すごくいいところがあったので、
そこにとりあえず入ったというぐらいです。
そうですね。
僕とかは完全に会社を作るのに、
司法書士さんみたいな人がいるみたいなのを全く知らなくて、
うさみ君もそんな感じだと思うんだけど、
どうやったら会社ができるのか、
全く知らない状態だったので、
わりとそのあたり、
伊原君がこれが必要ですよ、あれが必要ですよ、
というのを言ってくれて、
それにリアクションする形で、
じゃあ必要ならやろうという感じで、
みんなで当たっていた気がしますね。
すごく覚えているのが、
定刊を作るときに、
とにかくやることを決めるのではなくて、
いろいろ何でもやりたいことはやるというようにしたいから、
定刊に載っていないことってやれないみたいな話をされたので、
とにかく思いつく限り全て書こうと言って、
めちゃくちゃいろんな輸入業だとか、
翻訳業とか、
あらゆる思いつくことを全部、
定刊に書き込んだ覚えがありますね。
具体的に、これはもう外せないだろうというところから、
ここまで広げなきゃみたいな、
何か具体的に覚えているのか。
たぶん、いはるくんも持っているんじゃない?
定刊のあれ。
また書類でもお送りしますが、
一番最初の方には確かデジタルコンテンツの
ソフトウェアの制作だとか、
エンジンの運営だとか、
ちょっとこっち側方面の、
あ、全然映ってない。
網が全然映ってない。
全部隠れてる。
背景までしないとダメですね、これはね。
やはらさん以外は全部消えるっていう。
また後でスキャンしておりますが、
これだけ大量に。
それは全部事業内容?
事業内容ですが、
考えうる事業内容全て書きまくったっていう。
興味を持ったら何でもやりうるだろうなっていうのがあったんで。
一つのビジネスを想定して、
これでいきますっていうように作った会社ではなくて、
後世年科学館の時からそうですけど、
それぞれにやりたいことっていう、
自分の展示っていうのは存在しながら、
みんなでコラボレーションする形で、
一つの大きなプロジェクトみたいなのを動かすっていうのは、
なんとなく最初からイメージがあったような気がするんですよね。
それがあって、
これでいくっていう、
これでビジネスをするんだっていうのは全くなく、
とにかく思いついたものは何でもできるように、
できないことがないようにしたいっていう。
そういう発想だったような思いがしますね。
じゃあそれで、
サダム・サンプン・サミさんに入ってくる個人の仕事から、
じゃあそれがあのラボの仕事へとシフトしていくみたいな、
どういうふうにやり方を変えて、
変わってなく、
もともと共同でコラボレーションしてた部分っていうのは、
多分あると思うんですけど、
その会社、
4月の前後でどういうふうに変化があったか。
一つは、
僕が家交代の時に働いてた松熊先生と、
そこのプロジェクトでやってたシリアスゲームプロジェクトっていうプロジェクトがあって、
それは長尾病院っていうリハビリ病院の方と一緒に、
リハビリ用のゲームっていうのを、
リハビリテーションのための規律訓練っていう訓練にフォーカスした、
キネクトを使って立って座ってを検討して、
それで立ったタイミングで、
気がどんどん伸びていってくれるっていうようなゲームを作ってたんですね。
それはちょうど、
僕たちがプログラミングを作って、
病院で検証みたいなのをしてたんですけど、
大阪の会社だったかなが声をかけてくれて、
きちんと商品としてリリースしたいっていう話が来てたんですよ。
そのタイミングでもあったんで、
先生が制作のディレクションにあたる部分かな、
プログラミングをする会社は大阪の方にあって、
グラフィックの部分とディレクションの部分をお願いしようって言ってくれて、
1年目は一応それがベースにはありつつ、
ただそこは本当に仕事のごく一部ではあったんですけど、
仕事が全くないっていう状況ではない形で一応スタートは切れたっていう覚えがありますね。
びっくりするほど、最初本当に何も仕事がないっていう状態でスタートしたんで、
前もちょろっとお話ししたような気がしますけど、
うさみ君と一緒にすぐ近くのセトレボンっていうパン屋さんにお昼に行って、
こんな時間からカフェを楽しんでまったり仕事をせずに暮らせるなんて最高に、
俺たちは自由だみたいな感じをした覚えがあります。
そのくらい本当に何もすることなかったんで、
一番最初はまたラボが何もなかったっていうか、
健康器具とかがまだ置いてあったりとか、
ガンバイ浴だったんですけど、ベッド型のミニガンバイ浴みたいなのを置いてあったりして、
めちゃめちゃ息抜きのそのまんまの状態だったんで、
カオスな情報の時代
お掃除したり、引き抜いたり、そういうのでラボを作るっていうので十分楽しんでたような覚えがあります。
平行してそのシフィアスケアプロジェクトの続きの和作業をしててみたいな。
あれは本当になんか自分たちベースでやりたいことっていうよりは、
先生にいただいたので頑張っていいかっていう感じのプロジェクトだったんで、
この部分出していいのかどうかわからないですけど、
もう本当にその週の定例会議、ギリギリになって宿題をこなすように必死にわーっと1日で頑張って、
徹夜作業で頑張って、何とか出して、また自分たちの興味あることに戻ってわーっとわちゃわちゃやってたら、
また締め切りギリギリになってみたいなのを繰り返した思いがありますけどね。
それはいつ頃までそういう状態だったんですか?
たぶん四季安原プロジェクトは1年目がちょうど年度で終わりぐらいの感じであったのかなって覚えがありますけど、
ただそのスタートしてみると意外ともう株式会社っていう枠があるってすごいんだなって思ったんですけど、
想像以上にいろんな人がじゃあこれお願い、じゃあこれお願いって形で、
いろんなことを、仕事を振ってくれてた気がするんですよね。
それでどのくらい振ってくれてたか、最初の方のプロジェクトって覚えてる?
一番最初はダイトさんに会社作りましたよって報告したときに、
ダイトさんがパフュームのグローバルサイトプロジェクトっていう、
パフュームが海外展開するときのプロジェクトっていうのをやってたんで、
君たちもちょっとそれ手伝ってよって言ってくれて、
それに関するプロジェクトを2つぐらいアニメーションを作るっていうのと、
コマ撮りのアニメーションを作るっていうのと、
岩谷くんが作ったソフトウェアで僕たちが踊るっていうプロジェクトをやりましたね。
あれは仕事をやったっていうよりは、楽しいから作ったみたいな感じではありますね。
時系列のあれがいりますね。
プロジェクトのどこで何をやったかの時系ですね。
フォルダ見てるんですけど、全然整理してる。順番がわかんなくて。
そうなんだよね。1年目、2年目、3年目とかそのあたりは本当に整理されてないんで、
ようやく2017ぐらいからかなりちゃんとしたスプレッドシートで管理をし始めてるんですけど、
2012から2015、6あたりまでは本当にカオスなんですよね。
研究書の記録とかないんだっけ?
あれよね。
研究書でわかるのか。
様々な楽しいプロジェクト
それを見ればわかるのかね。
そうですね。時系列の全部が正確に前後がわかる必要がある。
確かに市販機に分けたらあれはこうだった。
みたいなのがなんとなく見える。
そうですね。
限界キャピタとか。
うわ、なんだっけそれ。
ウェブサイト作りました。
ウェブサイト作ったね。
CO2パックパックとか。
CO2パックパックね。
それは旧大の先生からのお話で、
科学イベントみたいなもののために作った。
科学イベント系か。
何個かありますね。
CO2とゴミを処理するっていうのを遊びながら体験できるコンテンツ。
また映像も教えておくりますが、そういうの作りましたね。
1個の形としてはイベントだったりプロジェクトとして、
ゲームとか映像とか組み合わせて依頼されるみたいなのが、
始まりからだんだんできてきた。
そうですね。
この前もちょっと話したような気もするんですが、
とりあえず始めるときに4人で決めたのが、
とりあえず1年目、2年目とかある程度大きくなるまでは、
一切仕事を断らないようにしようっていうのを全部やって、
その仕事は何であってもそれを楽しんでできるように工夫して楽しもうっていう、
共通の目標と各自の担当
そういう形でスタートしたので、
本当にウェブサイトを作ってくれっていうお話から、
なんかスマホゲームの企画を作ってくれみたいな話とか、
それは確か保証って一切お金にはなんなかったんですけど、
そういういろんな話がポンポンポンポン来てて、
それは本当にジャンル問わずいろいろあった覚えがありますね。
ちょっとじゃあ、今その1年目はとりあえず来たものは断らないで楽しめるようにしようっていうのであったり、
あとは定間を作るときにできないことをなくすために、
あらゆる業種をカバーできるようにみたいなものだったり、
立ち上げにあたってみんなで共有したことっていうのを、
今回の原稿の軸にできたらいいなと思うんですよね。
たぶん僕が思うにそこともう一つ、
要は来たものを断らずにやるっていうところと、
来た仕事をそのまま実装するために作るっていうんじゃなくて、
自分たちが楽しめる形で作るっていうましてですね。
その部分ともう一つはたぶん全員が全く同じ給料でいこうっていう。
そこの2つですかね。
スタートに関してその4人が全く同じ金額で、
僕は役員なんでボーナスとかができなかったりするんですけど、
その部分は翌年の僕の給料に前回のちょっと差分とかを反映させつつ、
基本的には4人がフラットな給料でいこうっていう、
その2つくらいがもう1個会社がなくなってもいいというのが
共通認識になってあるというのを僕はそう思った。
それは確かにあった。
僕もかなり1年で潰れてもまあいいかなっていうぐらいの、
後でそれを話したらうさみ君とかにおいおいおいって言われたけど、
そんなの見たんですかみたいなの言われたけど、
なんかそれぞれがやっぱり独立して自分のスキルで生きていける人間だって思ってたんで、
集まってサークル的に集まって一緒にやるんだけど、
ここがうまくいかなくてもそれぞれ生きてはいけるよねっていう感覚は
共有してたかなって気がします。
意識と意図としては会社を存続させるというのを目的に何かをやる、
っていうのはあんまり嬉しくないっていう。
ひとついいですか。
岩谷さんが今会社を存続させるために何か無理をしてやらないっていうのを
ひとつ共通認識として持っていらっしゃったんですけど、
何でもやれることをやろう楽しもうっていう前向きな部分と、
これはこの線引きはこれ以上はやらないとか、
これはアウトだねっていうのを4人の中で、
それは価値観って言うんですかね。
共通して持っていた部分ってありますか他に。
どうでしょうね。
もう多分言葉になってない部分なのかなと思うんですけど、
全部断らないということと、
会社を続けることだけを目的に何かをやらなければならないということって
別に強豪しない、ぶつからないと思うんですよね。
来た奴がつまらない奴だったとしても、断らないっていうことがとりあえずルールなので、
どうやって楽しもうかっていうことを上に乗っけて考えていく
というような意識ですかね。
そうですね。
そこは確かにすごく大切にしてたような気がします。
営業っていうこともされましたか。
いや、してないんですよね。
特に前半はほとんどしてなくて、
僕一応下校大で働いてたときに前田先生っていう、
知財。
知財とか三学連携とかそのあたりの専門の先生がいらっしゃって、
その先生にしっかり自分の事業についてプレゼン作って話せって言っていただいて、
それで訓練のために簡単な、今も使っているプレゼンテーションの原型なんですけど、
こういうことをやりたいんだよっていう感じのプレゼンテーションっていうのを作って、
そこを一応多分いろんな自分たちを紹介しなきゃいけない場では一応それを紹介するようにしてたんですけど、
ただ売りに行くっていうか、営業活動をするっていうのはもうほぼしてないですね。
あとさっき岩谷君も言ったんだけど、やっぱり言語化してないっていうのはめちゃくちゃ、
多分ここのグループを象徴している現象だと思って、
本当に良くも悪くも全然そこが言葉になってないんだけど、空気感で、
ここからはやらないよねとか、ここまではやるよねとか、
そういうのが特に最初の方はめちゃくちゃ多かったんじゃないかなって気はしますね。
全然そこに祖母が生まれないんですか、相談し合う?
あのね、喧嘩はいっぱいしてた気がしますよ。
今と比べ物にならないくらいギャーギャーギャーギャー毎回喧嘩しながら作ってた覚えはありますよ。
なんとなくね、そんな覚えあるよね。
分担についてはどのくらい明快でしたか?それぞれ持っている技術が違うからっていうところもあると思うんですけど。
共同でやる部分と分担する部分と。
入って手を挙げる感じですか?これは自分がやりますみたいな。
いや、たぶんそんなに宣言的に分けてはいなくて、
なんとなく自分はここがやりたい、やれそうっていうのをみんなが取っていって、
それでこぼれたのも全部伊原くんが拾ってくれてた感じですかね。
やっぱりこぼれるところすごく多いんですよ。
ただ、伊原くんがプロデューサーとかマネジメントにあたる部分っていうのをガッと拾ってやってくれてた部分はありつつ、
それぞれも自分にストライクなところが来ることもあれば、全然ストライクじゃないところが来ることも多いんですよね。
けど、4人しかいないし、自分もやるって決めてるんで、やらざるを得ないっていう状況の中で、
なら自分はどこをできるんだろうっていうのをちょっと自分を広げて拾っていくっていうのは、
各自かなり意識してやってたんじゃないかなって気はしますね。
それこそ言語化せずに共有してたものっていう。
全然多分言語化してないですよね。
そういうちょっとやったことないことをやってみようっていうのが楽しいと自分は思っているし、
多分周りのみんなもそう思っているだろうから、
多少専門から外れたことでも相談してみるとかいうのが、
ポジティブな押し付け合いがそこにはあったような気がします。
あと、今さっきちょっと喧嘩しながらギャーギャー言ってやってたって言いましたけど、
そういう運用系のことに関して喧嘩したことは僕が覚えてる限りなかった気がしますね。
喧嘩してる内容って全部、何かのプロジェクトに関してコンセプトはこうだとか、ああだとか、
こういうふうにやりたいとか、ああいうふうにやりたいみたいなのを、
意見を戦わせる喧嘩みたいなのがあったので、
運用でこれはお前だとか僕だとか、そういう喧嘩は一切なかったような気がします。
それはもう空気感だけでキャッチフォルしてたようなね。
受けたプロジェクトの全体の方向性のちょっと意見の相違とかはあるけど、
それをどう調整するかっていうところでの喧嘩みたいなのがあったので、
ちょっと時系列的にどのタイミングかわからなくてもいいんですけど、
これ最初にアノラボがアノラボとしてやった最初の作品じゃないですけど、
僕たちのポートフォリオの1ページ目に出てくるプロジェクトみたいな。
やっぱり僕は時空間の尻尾をない気がします。
2014年、2年目なんですよね。
プロジェクトのメンバーと時空間の尻尾
それぞれバラバラにやりつつ、プロジェクトが来たら、
じゃあこれこれ、僕と岩谷君でやろうとか、僕と佐藤さんでやろうとか、
僕と宇佐美君はそんなになかったような気もしますけど、
宇佐美君と日原君でやろうとか、宇佐美君と岩谷君でやろうとか、
あれこれやってたんですけど、多分、時空間の尻尾が初めて4人全員でやったんじゃないかなって思いが何となくあります。
パクパクもそうだったかもしれないけどね。
リハビリもそうじゃないですか?
パクパクもそうだったかもしれないけどね リハビリウムもそうじゃないですか?
リハビリウムはまあね
リハビリウム僕入ってないんですよ 入ってないのか
そうなの? パクパクは入ってたっけ リハラハートは僕入ってないですよ
パクパクは入ってる パクパクも入ってるでしょ チェアリーディング
確かに そうね 名前だけが入ってる
みんなで力合わせて作ったぞっていう感じって すごい
一番アイディアを出し合ってた気がしますね あの頃一番みんなでアイディア出したのは
しっぽかなぁ
ケンケンガクガク
あれは?発行サミットは? 発行サミットも一応ね だけど発行サミットもうちょい後じゃない?
発行サミットが13年 本当? そうですね2013年 あそうなんだ結構前なんだ
あれさなばさんなんかしましたっけ発行って 発行はねほとんど
発行は来て寝てただけっすね そうそうそう 割と僕ノータッチに近い
楽しんでた人っていう感じ お酒が美味しかったっていう覚えがあった
じゃあ違うね
なんかちょっとね 伊原くんがどう動いてたんだろうって思ったけど
割と発行サミットとかね いろいろやっぱりあったね
ちなみにファブラボの仙台も14年 14年ああそうか
そうだねそんくらいよね ちょうどたぶん2014ぐらいでうわっとこうそういう感じのが
そうね 広がったようなイメージが
14年でだいぶ広がってますね 科学館は3年目ですか?
4年目とか?
2016年 多分あの東京デザインウィークあれの最中とかに原くんが出航するみたいな話をしてた覚えがあるからもうちょい後の気がする
ネズミさんいれます?
だからやっぱり初期の中で代表作っていうか 4人でやったぞっていう感じのっていうのは時空間のしっぽかなっていう気がしますね
福岡アジア美術館っていう美術館があるんですけど
そこがあの僕らが後生年科学館を2年目にあった時に僕らこの企画ギャラリーのところを
確か1週間で50万ぐらいだったかな借りてそれでそこのそこであの2年目の動画にしているやつはそうなんですけど
実施したんですけどその時に割とそのアジビの学芸員の人とかと仲良くなって
その後にメール最近ちらっと見返したんですけどそこの松浦さん
松浦さんっていう方があのラボが第5回福岡アジア美術トリエンナーレの招待作家に選ばれましたって言って
宇佐美くんにメールを出してきて宇佐美くんからなんか選ばれたらしいよっていうのをみんなにメールが届き
でそれでじゃあなんか作ろうっていう話をわちゃわちゃしてて
でそのことと並行してその当時は確か朝会って言って毎日朝に一人一人
昨日はこういうことをやりました今日はこういうことをやりますみたいなのを簡単に言い合うっていう
まあそれぞれがかなりバラバラに動いてたんでそこだけ
昨日こういうことやって今日こういうことやるよっていうのを共有しないと全く誰が何をやってるかっていうのはわかんない状況だったんで
毎朝そこだけはやろうっていうのを言ってそれでやってたんですよね
でその朝会からわっと盛り上がったりしてたまにブレストとかワーってやってたんですけど
その中でなんかこう僕がなんか当時なんかKinectを使ったあのいろんな面白コンテンツみたいなのを作ってる人たちが結構いて
こういう面白いもの見たよっていうのを紹介してそれがなんかあの
椅子とかなんかバランスボールとかそういうのが置かれてる映像なんだけど
その置かれてる映像がKinectで一回撮影された映像で実は存在しないんだけど映像の中には映ってる
それでバランスボールの中からバーって出てくるみたいなそんな感じのことをやって遊んでる映像をなんか僕が見つけて
それで朝会で紹介した覚えがあるんですよねほとんど誰も持ってないと思って
それを見てそれをベースにブレストしてて
そのブレストの中で過去の映像と現在の映像を重ねてなんかやったら面白いかもねって話になって
そこのブレスト会はそのまんまバーっと流れたんですけど
その後に岩谷くんがもうあのブレストのやつ作りましたよって言ってバーっと1週間ぐらいでプロトタイプ作って出してきて
それでワーっと盛り上がってるっていうのがその招待作家に選ばれる前直前ぐらいかなに盛り上がってたんですよね
時空間の尻尾の制作プロセス
それでそういうコンテンツはまたお送りしますけど
宇佐美くんがそれで遊んでる映像は残ってるんですけど
そういうネタみたいなのは存在してたんで
あの作品中心になんかアート作品に仕上げてそれに持っていこうよって話になって
ちょうど多分窓かき屋のアニメーションかな
コマ撮りアニメーションの仕事みたいなのをしてるのと同じ時期だった気がしますけど
作品名は何にするってブレストしたりだとか
ちゃんと見せるためにはどういうプロジェクションをしたらいいんだろうとか
どういうアートとして仕上げるにはどうしたらいいんだろうみたいな
ギャーギャーみんなで話し合って
確か時空間のしっぽっていう名前はいい原くんが考えたんだったと思いますが
いろいろとみんなでスクリーン作る部分とかうさぎくんがやったし
なんかいろんなみんなが自分のできることもあれこれ持ち寄って作ったっていう覚えがありますね
じゃあその最初のキネクトでこういうの作ったら面白い
こういうのが見たら面白いから
実際に時空間のしっぽ発表まで期間としてはどれくらいだったんですか
えっとですね
マドカピアは冬だったよね
多分トリエンナーでは年の10月とかなんじゃないかな
割と期間があったよね
だから半年から1年まではいかないかなぐらいの期間はあったような気がします
でもその間途中でトリエンナーレの招待作家に選ばれましたよっていう
そのキネクト使ったやつもこれ面白いよね展示にしたいよねって話はありつつも
展示で出す機会は恵まれなかったですよね
そういうのもあってじゃあこの機会にそれをアート作品として仕上げようみたいな方向に
話が向かったんじゃなかったかなとなんとなく覚えてます
伊原さんはそのタイトル思いついた時のことって覚えてますか
全く覚えておりません
僕がって言われても何にも
いや時空間のみたいなとこまでは多分みんなから出てたけど
時間がつながってて人が動くとその人がこの奇跡が残っていくっていうのが
このやっぱ尻尾なんじゃないかなみたいなことを伊原くんは言ってた
尻尾っぽいよねみたいなことを言い出した
覚えてますか
ちゃんと覚えてますね
なるほどってなって僕相当感心した覚えがあるんだけど
一応ですね僕はいろんな紹介の時によく使うのが残ってるんですが
こういうミンコフスキーっていう物理学者が
アインシュタインの先生ですかね
時空間っていう概念を考えだしたんですけど
その人が時空間っていう概念を説明するために
こういう光源水ライトコーンっていう図を作り出してるんですよね
これはXY軸というかこの2軸が空間を表してて
地球の表面が空間と考えると
この2軸で動く空間の移動と考えると
時間軸っていうのを縦に持ったら
人は移動しながらこう
未来に向かっていくよっていうのを表してる図なんですよね
なんで光源水っていうかっていうと
この境界部分が光の速度を表してて
なので現在ここにいる人は
必ず過去には光の速度を超えないこの光源水の中に存在してるし
この人の未来も必ずこの人から
この人の位置から走るこの光の速度で広がる
光源水の中に存在してるはずだっていうのを概念を
図示したのがこの光源水っていうものなんですけど
この軌跡をたどった時にこの軌跡が
尻尾みたいだよねっていう話を
伊原くんはしてたんですよね
全く覚えてないかもしれないけど
これこの時なかったよ会議の時は
伊原くんは確か
そこ図を見ずに
世界線って尻尾っぽいですよねって話をしてたんだよね
僕世界線って何なのか知らなかった
伊原くんが知ってたんだ
それ調べたら世界線ってこういうものなんだ
過去から現在未来を繋いだ線のことを世界線って言うんですけど
世界線ってこういうものなんだって僕は気づいて
それでこのギフトを使って説明するようにしてるんですけど
伊原くんは多分これはもうそもそも
この図を知ってたのか世界線っていうのが
軌跡をたどっていることなんだっていうのを知ってたのかは分かんないんだけど
伊原くんの発言としては世界線って尻尾っぽいですよねっていうのを
話してたっていうのは覚えてる
いやー世界線って言ってなかった気がするけど
言ってた言ってた
僕知らなかったからそれで調べたの翌日に
それ覚えてる
伊原くんが言ってたんだ
言ってた言ってた
僕が言ってたのを覚えなせない
全く覚えてない
全く覚えてない
僕だから結構あの周りの記憶すごくあって
岩谷くんも覚えてなかったけど
その最初のブレストのきっかけであったりとか
いろいろ覚えてて
世界線って翌日に調べて
おーすげーこんなものなんだって
余分なことまでいっぱい調べた覚えがあるね
時空間の尻尾っていうなんかちょっとこう
科学的なモチーフを使ってるのに
なんか柔らかいというか
ちょっと手触り感がある名前だったんで
それはすごいみんながいい感じじゃないっていうので
覚えがあります
その時空間の尻尾を作品として仕上げるので
実際撮った
10秒とかのズレでしたっけ
そうですね
その
5秒か
時間のズレを映像と
カメラ越しの今の状況と結びつけてっていう
それはやっぱり結構プロセス
いろいろな試作をしながらその形まで持っていった
その最初に岩谷さんがどういう映像を作ったのか
データがあるならお見せした方が早い気がする
youtube チャンネルにあげてるんじゃなかったっけ
いやあの僕も持ってはいいが
実験のところとね
そのうさぎさんなんだけど
バランスボールで遊んでる
はいはいはいはい
youtube 見たけどない
facebook のみかなあれ
youtube にあったような気がするんだけど
見てもなくて
どこにあげてたのかもしれない
facebook にはあげてたよね
うさぎくんが遊んでるやつ
うんあるある
これは
うさぎくんの時空間の実験
えっとねこれだ
リデオプリに
一番最初に作ったのはこれですよね
これ共有できてます?
今見えなくなった
斜線が入ってた
今見れた
後回った
これはね
過去のうさぎくんと現在のうさぎくんが共演しつつ
波行で遊んでるっていうものなんですけど
どっちが
やべえみたいな
分かんなくなりますね
うさぎくんが割とこういう
自分たちで作ったもので遊ぶっていうのは
割と最強な
最強キャラで
遊びをして
面白い
わけ分からん
時空間のしっぽのベストビデオはこれだと思う
そうだよね
時空間のしっぽより面白いもんねこれ
実際
時空間のしっぽをパフォーマンス作品に展開
その後時空間のしっぽを
パフォーマンス作品にしようっていうように展開していくんですけど
それはやっぱりうさぎくんがパフォーマーとして優れてたんで
これ展示だけでやるよりも
パフォーマーがいた方が絶対に楽しいっていう
そういう発想になってきた経緯はありますか
そうなんですけど
未だにこれ超えられるのないですか
ないない
うさぎさんは
この先にモニターを見てるんですか
モニター見ながらやってます
これは5秒ずつですか
5秒ぐらいですかね
時間があった
あったね
リンクを
タイムシフトっていう
名前だった
まだ時空間のしっぽっていうあれでは
なかったね
めちゃくちゃ面白い
また岩谷くんに送ってもらった
ビデオがある
タイムリープカメラ
懐かしい
バランスボールの中だけ
時間が過去になるみたいな
赤のところだけ
赤の色だよ
赤い服着てる
赤の中だけ
時間が変わる
面白いね
これ面白くないですか
面白いですね
こっちのほうがいいじゃないですか
展示にするときに
何か物体があって
物体をきっかけにして
遊べるみたいにしたいよねって
話をしてた思いがあるんですけど
こういう実験を
最終的には
デプス版っていうのをベースにして
体験をするときに
みんながうさみくんみたいに
パフォーマンスできればいいんですけど
パフォーマンスで
作品と
コンタクトを取るきっかけみたいなのに
モニメントを作って
そのモニフィットに触れると
そこからスタートするっていう形にしようっていうのを
これは多分みんなの会議で決めたんだけど
誰が最終的にそこの
モニメントの制作と展示
モニメント案を出したのかは
覚えてないですね
アートだから象徴的なモニメントってのは
頭よりはあったんじゃないかな
うさみくんかいはらくんか
そのあたりが
物作り体力が結構ね
そのあたりあったんじゃないかなって
気がしますね
いはらくんがモニメント作るのに
こだわって作ってた気がする
実際はいはらくん作りましたね
盛んして
失敗しながら
尻尾も曲げて自分で
最初コンクリート作ってました
コンクリートめっちゃ重い
重いやつ
失敗しましたね
展示があったときも
うさみくんが一番最初に遊びに行って
それで
拝見するみたいな
フェイスブックでめちゃくちゃバズったんですよね
ほうかべさんの撮影してくれましたね
真ん中にあるのが
うさみくんの
この服の
デザインみたいなのが
うさみくんの
うさみくんの
これからは
スナ時計の
公演水かつスナ時計
の商品が
いはらくんやっぱり公演水意識してるんだよ
この頃には確かあったんじゃないかな
たんじゃないかなぁ 海鮮ながらは
これ間違いながらん でデザインあれ作ったのかなぁ
がそうかもしれないはっきりサーブさみくん かもしれない割とさみくんねあげるの好きだ
これくるくるっていう形書いてた気がする もっとゴールスパイラルして欲しかったん
ブーブー言っ アルフィンチンで展示した時や高がね
スパイラルしてくれた スパイラルし
このえっとモニュメントの部分をやはり海外で 展示とかしようとすると
を輸送することができないんでそれでその 先方のフェスティバルの人に言ってこの
部分だけ作ってくれないかって言って 現地で
こう調整が大変な微調整をしながら演じ するみたいなのをやってたんですよ
これは確かまあこのビデオがバズったっていう のもありますけど
ブラジルのファイルっていうフェスティバル とあとアルゼンチンの方法フェスティバルと
東京デザインミッカー うーん
あたりで多分展示してた 応援がありますね
まあこのフェイスブックのでバズってそれに きっかけでどんどん反響が広がって
お声掛けがあった えっとですねまぁあの
日 b 今日がきっかけで声がかかったみたいな
のは実はあんまなかったんですけどその 僕が学生の時から割とそのえっと自分の
作品でえっと 実際に応募して
それでえっと 受かったら海外に行くみたいなことをかなり
積極的にやってたんでそれでそのその当時 か先輩とかからも受け継いだあの
フェスティバルとかコンペリストみたいなの 僕は個人的に持っててこういうフェスティバル
が何月には締め切りであるからあの 提出するといいよみたいなのがなんかリスト
であったような覚えがあるんですよね それはそれに
マジあのファイルフェスティバルは自分がもう ちょっと前に個人的にその弾いてた
っていうのもあってブラジルのですね まあ
今年はこれを応募しようって言って 応募の部分は完全に僕が個人で動いては
デジタルアートのフェスティバルですか えっとですねそうですねその
メディア芸術祭というかメディアアート とかその周りの
ビッグ大ですね4フォーフェスティバルは 元々はなんかちょっとクラブパーティー
県ちょっとスタート 作品が展示されているみたいなイベント
だったんですけど 割と僕は彼らにとっては僕は一番最初の
メディアアーティストだって言ってくれて たんですけど
いやそのあたりからだんだんメディア アートを展示する
展示会になっていった感じの時期だった ような気がしますね
じゃあちょっとその 先ほどのあのラブを設立からの話に
も入れますけど こういった作品を発表するものとして
作るっていうのとその 委託されて例えばこういうグラフィックを
作ってほしいとか映像を作ってほしいとか あとは複合的にサイトでこういうものとか
っていう その受け仕事はいわゆるアート制作とはちょっと違うじゃないですか
デザインとしての納品するのか そういったものはどう
設立当時からどのぐらいそのアートとして何かを作るっていう そのモチベーションがありましたか
なんかモチベーションはあったけど モチベーションあったかもわかんないけど
実際にやれてたのは多分1割ほど満たない気がします
今までお話してた要素って 多分ここの2014年までで
多分純粋にアート的アプローチでできたのって パフュームとこれぐらいの一緒に多分
要素は入ってはくると思うけど やっぱりどっちかというとデザインのルール
お客さんがいてその目的を達成するためにどう
ただやっぱりね なんかあんまり明確にそこを分けてたわけではないような覚えはあって
明確には全然分けてはなかった
なんかそのパクパクにせよ
うん なんかあの
マドカピアであったコマ撮りのアニメーションにせよ
基本的にやっぱりスタンスとして受けた仕事でも そのまんま相手の言いなりになってポンと出すんじゃなくて
自分たちが楽しめる庭っていうので 1回企画をゼロベースに戻して考えて
で自分たちが楽しいっていうものを生み出したらこっちの方が楽しいでしょっていう のでこう相手を説得していくっていうような作り方を
としてたんでまああんまりそうその アウトプットとしてまぁ確かに相手の言った内容が今回は濃かったよねとか今回は
薄かったよねっていうのはあったにせよ うん
そんなにこれはアートこれはデザインっていう形でこうプロジェクトを切り分けて はいなかったような思いがありますね
明確にアート作品も何個かありますねでも 上条和楽とか花衣とか
が初期ではねあるね ある
さあそれもやっぱりしたしたあのカラーですね そっちターン県によってそこが向こうの意思が強めなプロジェクトもあれば
いやなんか場所があるからなんかやってとか実行の時に何回やってくれないみたいな 自由なプロジェクトもあったりしたんでそれによってこう
そこの濃い薄いが決まってただけで自分の意思として ここの部分
をアートだった後のあれだっていう形で推進してたかっていうとそういうわけでもな させる覚えが
フミカかなぁと フミカもそうやね
ん フミカはあんまりあの明確な箱があったわけでもないんで
どういう アートではない
あれはもう カオリーナさんってあの
えっと田中カオリさんっていうあの 芸工大出身の建築家の ob の方がいらっしゃってねえっとまぁ僕たちって割とその
周りにそういう 面白いねって言ってくれる大人がすごいを囲まれてたっていうありがたい
でその中の一人がカオリーナさんだったんですよね ずっと僕たちの何かをしたいって言ってくれる
で建築家の方なんですけどそれでなんか一緒に何かやりたいっていうのでとりあえず まあ一番最初はお花見したりとかなんだりしてたんですけど
あのとりあえずなんかブレストしようって言ってブレストした中から生まれたのが クミカっていう
プロジェクトでしたね
このあたりはすごいあのうさみくんが中心になってそこのあたりのデザイン マーチャーとに入れます
アーサーするの なんかあの俺は会場はで来るんかな
やって遊び場ってイベントで オリジナルのその組み木のおもちゃを
メインにしたまあイベント子供 イベントですね
こういうのすごい大きいんでなんかそれが しかも壊していいよみたいな価値でも無茶していい遊んでいいよみたいな
ボール紙とかです これはあの mdf っていうまあチップの木のチップを固めたようなものですね
石材というか 紙の
裁判みたいな感じ こういう1㎝から30㎝ぐらいの
みたいなのを組み合わせて その中で
父みたいに 自分の
確かに建築家のプロジェクトっていうすごい若い
で名付けると 可愛くなると思うじゃないかとか
なんかそれを 作品名を
いないなぁ
大人の方に夢中になっていっ 裸足で
いなきゃプルプルな子はありません たぶん純粋なアーティストっていうのがいなくて
割とデザイン感性をみんな持ってて クライアントワークでも別にそのきちっとクライアントの要望に100パー答えるっていうよりは
アドラボの活動とマーケティング
なんかやりたい部分を アート的要素を何割かは絶対入れるみたいなのをみんな持ってるんで
なんかそのさっきも言ったグラデーション的な感じで これも別にアート作品の自分の
全てだみたいな感じではみんなないんですよね なんだこういうルールの中で
どれだけなんか楽しいものを作れるか 自分が楽しめるかっていうのを
その都度考えてる だから条件が与えられたらそれに対して
100%楽しむみたいなのをずっと続けてる気がします
拡大解釈とかがやっぱり得意なのかなって気がする
あ、そうそうそう
この今の久美香の森の時はどういうふうに
ケンチカーリーナさんという方と 案を出し合って枠組みが出来上がっていったんですか
定例会議みたいなのをやってた覚えがありますね その定例の中でじゃあ何か何やろうかねって話になって
で なんかあれこれ出す中で
まあ大きなレゴみたいな感じのっていうのになった覚えがありますが
割と うさみ君がかなりグッと入り込んでて僕は
割と 見学しながらああ面白いね協力できる部分は協力するよっていう感じで
関わってた気がするんで
うんまあいやまあそれも最初はこの 青梨奈さんが
組木のあの形は青梨奈さんかな 最初に
なるほどなるほど小さいのを作って ですね
ああ そうだったねなんかそんな感じです
で僕は勝手に動物組みを作って ここから入っていったような感じがあるんで
そうそうそう そうだった覚えは子供向けっていうのはもうだいぶ早い段階で
いやー 決めてなかったと思いますねそれ
全然決めてなかった気がするなぁ 結果子供向けになっちゃってたって感じ
でも子供が集まるイベントにこれを出そうという判断を多分僕らがしているので
そういう意識はあったんかもしれないですね
製品ができた、プロダクターができた後に
アドラボのクリエイティブな取り組み
こんな気がするよね
でレーザーカットする環境がたまたま仙台があったからとかだったっけ
そうそうちょうどちょうど仙台のやつが動いてたところだったんで
それでじゃあレーザーカッター向こうにあるなら大量に作る部分ちょっとお願いして向こうで作ってもらおうって感じになって
それで動いた感じだった気がしますね
なんかさっきも言いましたけどそういうその周りに大人で
一番最初の方に言った鎌田さんっていう十代のアラブないやんないって言ってくれた人もそうですし
インビジっていう会社のCMの音楽を作ったりしてる会社の社長さんの松剣さんっていう人とかもすごく
学生の時から僕ら面白いって言ってくれてて
初期の仕事でも結構一緒にやろうって言ってあれこれ仕事を回してくれたりしてましたね
いった大人に恵まれたみたいなところもすごくあるのかなっていう気はします
それは科学館やってたのがやっぱり大きかったんですか
そうですね多分高生年間の時にスポンサー周りすごいやってたんですよね
あれ50万場所買いがかかるんでお金かき集めなきゃいけなくて
それでスーツ着て僕もスーツ着て何箇所か回りましたけど
スポンサー周りをしてそれで宮古台に近い会社は巡って
スポンサーになってくれませんかってお願いをしてっていうのをやってたんで
その周りで多分こういうことをやろうとしている若い衆がいるんだなぁみたいなのを知ってもらえたっていうのはあるのかなって気はします
それで一緒にじゃあこうやってみたいみたいなのを提案されたら
じゃあ具体案をどんどん整形していくみたいな
僕は結構今設立から時空間の尻尾っていうのまでの
こういうふうにあのラボのアイデンティティが出来上がっていったんだなっていうのをちょっと結構イメージできました
本当に多分そこの部分全然言語化せずに
僕たちは聞けたんで今でも多分話しててようやく言語化してる部分が多くて
全然お互いにあんまりそういう部分を話し合う時間もなく
来たものにとりあえず1000本ノックラーみたいな感じの来たやつにこうもうとにかく打ち返していく
打ち返していくのも普通に打ち返すんじゃ全然面白くないんで
やっぱり自分たちがいい形で関わるにはみたいなのをあれこれ考えながら打ち返す
アドラボのルールと朝会
多分そのさっき言ったようにアーティスト性みたいなのをそこに出していこうみたいなこう戦略があったわけでは全然なくて
多分そうじゃなきゃ楽しくないからやってたっていうだけな気がするんですよね
こうやるのが自分たちが楽しいっていうのだけを大切にして
そこだけが崩さないようにしてたポイントなのかなって気はします
そうするとそれがあのラボではこういうことやってますよって見せられるそのプレゼンテーションの資料にもなっていくみたいな
そうですね完全に後付けでそこのあたりはどんどん固められていったのかなって気はします
なんか今日の話でふみこが聞きたいこととか
いやなんかそうですふわっとしてるところが
けどでも そうですねそういうふわっとしてるところ言語化しにくい
ところがあのラボさんの良さなんだなとも改めて思って言葉にバシッて当てはめない方がいい気もしてる
だけど難しいですね
もっと難しいですよねそこが
ずっと思ってます
多分こういうのにもう少しだけでも見える化できればなと思ってこういう
単純に言語化ができないっていうだけで
でも単純に平感がいっぱいあるっていうのがすごい面白いすごいわかりやすいっていうか楽しもうとしてるっていうのが伝わりますね
端的に言わなくても何個もアイデアを思いつこうとしてる
楽しめるものを逃したくない
そうそういうところは一言では表せないけど
お話を聞いてるうちに
実感としては何とかうまくお伝えしたいなと思ってます
言語化で傷つけないといけないので
言語化のためには
ちなみにそのアートのアート作品になっていくさっきの時空間のしっぽみたいな
定観のお仕事の種類の中で挙げてるものの中で表すとすると何が当てはまりそうだなとかって
それはその時々
コンピュータープログラムパワードウェアおよびソフトウェア並びにデジタルコンテンツのスタッフの制作販売
展示会展覧会等の諸行事業並びに映画演劇等の諸行為
デジタル文化の交流発展および美術工芸品の紹介製作展示売買および救出入場
デジタル文化の交流発展および美術工芸品の紹介製作展示売買およびデジタル文化の交流発展
そうですね
多分そこのハート的な部分っていうのは
多分に僕がもともとやりたいって思ってた活動
学生の時から海外に作品をバンバン送りながら活動してたんで
アドラボでやる時にそこの楽しさみたいなのを失いたくないっていう部分も
影響はあったのかもしれないですけど
そういうのっていうのは各自にみんなが持ってるような気がしてて
多分各自が自分のやりたいなと思ってたことを
自分の守備範囲内で表現することによって
全体アドラボらしさみたいなものが形成されてたのかなって気はします
会社化されて新しく加わった習慣って朝会以外にもありますか?
それちょっと言いたかったんですけど
朝会だけはやろうだったんですけど
その朝会にすらさだまさん来なくなって
毎回遅刻するっていうのがあって
どうやったらさだまさん来たらいいんだろうみたいなのをずっと考えるとか
その頃なっちとかが結構
シビアにそれ受け止めてたんだけど
途中から諦めだして
システムの方が悪いんじゃないかってみんながシフトしたんですよ
ある時期に
それが僕的にはすごい
なんていうかな
そんなことあるんだって驚きがあって
ルールを守るみたいなすごい
当たり前だなと思ってたのが
ルールがまずいとかあるんだとか
それ衝撃でしたね
しかもみんなで決めたルール
それがでもやっぱあの時期があったからこそ
ラボのルールを疑うみたいな姿勢が
すごくいいなと思って
なんなら朝会僕が言いたしっぺだからね
あれがなかったらそこの言い合いがなかったら
多分クライアントワークもきっちりやってる仕事になってると思う
そこを疑うっていうのはすごい
僕的にはすごかったですね
それはすごいね
どのくらいの時期でしたか?
もう多分1年
2年目とかよね
ちょうど多分3年目ぐらいまでは頑張ってたと思うんですけど
言い合いしながら
言い合いつか
大賞が来た時ぐらいにはもう完全に僕も朝会毎回遅刻ぐらいの感じだったよね
気がするもんね
朝会の内容がつまらないから来ないのかなとか
そういう色々模索してたんですよ
どんなイベント入れたら来るかなとか
松間先生のところで僕が働いてた時に
朝会があって
それが一応一日ちゃんと
よし始めようという気分になるんで
いいじゃんって僕は思って
朝会だけはやろうよって提案してたんですけど
僕がいま先に脱落するんだよね
どっかで週報になりますよね
週報になったね
週1になった
毎朝だったのが
週報になった
でもその時空間の尻尾の
種みたいなものは朝会時代に
科学館ぐらいの頃から
もう週報じゃないと
週報になってきた覚えが僕はありますね
福岡市科学館
福岡市科学館が2015年ぐらいにあるんですけど
めぐみさんが入ってきたぐらいの頃に
同じ頃に
また次回の話になると思いますけど
いはらくんが出航して1年間いなくなるんで
そのタイミングとかで
朝会長になったのかなっていう気が
ちなみに僕その前
中大の学術研究員してました
そうだそれあったね
だからいはらくんは割と出航してるんですよ
出航って感じではなかったですけどね
案件ベースでやってました
あれはガブリンス研究員の時っていつだっけ
あれはたぶん2014後あたりですよ
ファブラボとかそこら辺関係で
デジタルファブリケーションとか工房の立ち上げとか
そういうことを中大でやってましたね
そういう意味ではやっぱり2014が一気に
わっと広がる
14年に足掛かりが多かった気がしますね
きっかけごとが5、6個ぐらい
バラバラっとあってそれぞれが全部
芽吹いていった感じですね
逆にそこでいろんなものが芽吹いてしまったが
すごく科学的に対応しないといけなくなって
それがいまだに続いて
専門業というよりは組み合わせて
その時にアウトペットを探していくみたいな
そんな感じになっちゃってるっていうのもあります
4人プラス誰かが案件ごとに加わったりとか
っていうのもそのぐらいかなってはじめて
そうですね
案件ごとに必要な職種が変わったり
組み合わせがすごくバラバラになってた気がします
映像しか仕事が来なかったとかだったら
多分そっちのほうに専門的になってたんだと思うんですけど
2013、14年ぐらいでいろんな方向からいろんな方面に
時空間のラボの形成
さった日にここを描いていただくことが
それを何とか4人でできることをやり続けた結果って感じです
なるほど
ちょっとじゃあ今回のもまた
今回ので1本なのかそれか
ちょっとバランスを分けて短い1本始まり
でそこから時空間のねじれまでで
あのラボが整形されていくみたいな
形成されていくっていうような形で
ちょっと何か考えてまた確認いただけたらと思うので
わかりました
楽しみにしておきます
楽しかったです
ありがとうございます
次回の予定
ありがとうございます
また次回多分
10月が相当こくらい忙しいので
また11月になるだろうと思いますが
なのでまず10月中にその原稿をご覧いただけるように
ありがとうございます
思いますので
よろしくお願いいたします
よろしくお願いします
ありがとうございました
失礼します