1. 堀井祐介さんとの対話241219
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2025-01-09 41:01

ホーリーとの対話241219

ホーリーとの対話241219

サマリー

このエピソードでは、ピラティスの起源や進化、効果、実践方法について深く掘り下げています。特に、ジョゼフ・ヒューベルトス・ピラティスの人生や、ピラティスがアメリカでどのように広まったか、現在の形に至った経緯について考察しています。ホーリーとの対話241219では、身体感覚の伝承やコミュニケーションの難しさについて議論されています。また、身体的感覚の民主化や新たな教育方法への期待が語られ、特に今の世代のアプローチについての考察が行われています。このエピソードは、クリエイターたちが自己主張と内部の癖を調整する過程を通じて、互いの理解を深める重要性について触れています。また、ストレスや肉体的な負担からの解放を目指し、日常生活の中で小さなルーティンの積み重ねが自己メンテナンスにどのように役立つかについても取り上げられています。

ピラティスの基本概念
この時もずっとテンションを考え続けるから、これもちょっと中導体っぽいと思っていて、常にフィードバックが続けていて、反応し続けている。
だから、力づくで動いたおしまいじゃなくて、力づくで動いたらグラグラしちゃうんです。
外のアウターマッスルだと、こういうふうに持ってますよっていう時でも、これだけ。
グラグラグラグラグラってする人が結構多くて、インナーマッスルで安定すればいいんだけど、アウターマッスルで力が入るとグラグラしてしまって、全体が動いてインナーマッスルできない。
それだったら、動いても体の軸を。
今は意識としては内側のアウターマッスル?
そうです。こうして力が抜けちゃうと腰が反っちゃう。
腰が反らないようにしようとすると肩に力が入っちゃうけど、お腹に力が入ると肩の力が抜けて首が回って、体の軸はグラグラさせなくても動けます。
そういうのはすごく充実した力がある。
バネっていう性質がそれをよりやりやすくさせてくれる。
重りを使うにしても、あんまり重たいものを使わない。
重たいものを使うと肩の力、大きな筋肉の対応になっちゃうから、それを弱い筋肉で中からコントロールさせていくっていうのを練習するのがピラティックマッスルの始まり方かな。
ジョゼフ・ヒューベルトス・ピラティスの背景
すごいね。
ピラティックマッスル自身もちょっと東洋のヨガだったり、そういう思想も取り入れたり、あとはデンマーク体操とか。
デンマーク体操だな。
そういう代用筋とかをしっかり意識して使うということだと思います。
いろんなものからエッセンスを取り入れているとは聞いています。
ピラティックマッスルはアメリカ発祥になる?
ジョゼフ・ヒューベルトス・ピラティスさん、ドイツ人。
ドイツ人なのか。
第2次世界大戦中にイギリス領で捕虜になって、マントウという島で看護兵をやっていて、看護師として捕虜の人たちを助けたり。
看護師さんなんだ。
その中で、ベッドに身体が弱っていく人がいて、どう身体を強くさせるかという中で、こういうところに枠がついているベッドのところにバネをつけて、これを引っ張ったらイギリスのマントウが鍛えられるからと言って、これをやれと言って。
最初は図書抵抗で身体を強くさせると教えていたらしいんだけど、みんなは見ていられないから、このバネでやれと言って。
ベッドのバネを使ったんです。
ペットマンもあるんだけど、本当かどうかわからない。
ベッドのコイルを抜いてやったとか。
というエピソードが発祥。
元々そうなんだよね。
元々身体が弱い人だったから、苦病だったのかな。
原性がビタミンDが補足する病なので、身体の原性が苦病になる難病の一つで。
だから、結構裸の写真が多いんだけど、パンツ履いてるけど、パンツ履いたら裸みたいなの見せたかったのかなと思ってたら、
でも多分ビタミンDを合成するためにより太陽の光が美容室にあるかもしれないなとか。
ちょっとその辺の真実はわからないけど、抜きたかっただけかもしれない。
そういうのを調べていくと、お父さんは機械体操の選手で、お母さんは自然療法家、ナチュラルファッションの先生だったから、
いろいろと自分の身体を自分で治すみたいな思想が結構強くて。
そんなところから、1923年とか1926年くらいにアメリカに亡命して、
それでニューヨークで最終的にはスタジオを開いて広まったから。
ピラティスの普及と文化的影響
ピラティスさんがいろいろやってきたのは始まりなんだけど、スタジオとして根付いて広まり始めたのはやっぱりアメリカの1930年、40年、50年くらいの時かな。
そこでマーサ・グラン・アンパンとか、ジョー・グレアンとか有名な人たちに指示されて、
ダンスに怪我をしたら、ピラティスのスタジオでリハビリというか、トレーニングをしてまた戻ってくるみたいな流れができたらしいです。
僕はお芝居をやってた時に、3回からバレエとか新舞台だったりすると、体の作りとか使い方から見ても違うから。
大人になってから頑張ってどう思うとは違うんじゃないかなと思って、ちょっとコンプレックスがあったんだけど、
同じ柔軟性とか頭の上まで足が上がるってならなくても、ピラティスをやってすごいコンプレックスの解消になったのは、
たとえそこまで柔らかくならなくても、正しい体の使い方を学べる、体の中心から動けるとか、そのペースに対してはこっちの方が学べて、
ダンスの人は理由がわからなくてもずっとやってて、ヘがいっぱい出ているから、そこでコンプレックスがなくなったというのが、ピラティスが素晴らしいなと思った点です。
面白い。
最初の出会いは何年くらいになるんですか?
ピラティスを教えるようになってからは、今は19年くらい。18年、19年くらい。
ピラティスを初めてやったのは、2、3年前だから、20年ちょっと。
そうなんですね。
ピラティスが何をやり始めたの?
入ってすぐですね。
そんな後なんだね、日本に入ってきて。
ピラティス裁判というのがあって、ピラティスという名前は誰のものだ、みたいな。
このスタジオの個別の商標なのか、一般名刺なのか。
裁判で争われていた時期があって、それが終わって、ピラティスはみんなが使ったという名前になったのが2000年。
その前ももちろん、アメリカとかヨーロッパとかでも使われていたんだけど、
ピラティスはピラティスさん自身がコントロロジーという名前をつけていた。
その後、ピラティスの弟子の一人が、ピラティスは私を特別にしてたの、みたいな主張をして、
他のところでピラティスってやめてちょうだい、みたいな。
裁判が95年から2000年にあって、2000年に決着して、そこから使っても訴えられないぞ、みたいな。
ヨーロッパ文化と世界に広がりやすくなった。
名前変だよね、よくよく考えると。
そうか、確かに。
ピラティスは自分でピラティスだって言ってたじゃないですか。
シバナンダヨガとかも、シバナンダさんが自分で言ったんじゃないか。
弟子の人が、ここで橋本先生に教えてもらったんだ、って言ってつけてるんだと思う。
そこにもあんまり自分の名前つけない。
つけないですよね、元からだよね。
そうか、ヨガはシバナンダヨガ?
ヨガは元々は、いわゆるヒットネス系のヨガを一番最初に学んだ後で、
その後、もうちょっと別の学びがあるかなと思って、
ヨガニケタンで、町田日本部があるんですけど、日本ヨガ両方学会っていうのがあって、
そこでヨガセラピーの勉強をして、
あとは自分でもちょこちょこ、自主騎士に行って勉強してみたり。
この前初めて。
そうなんですよね。
自主騎士行って。
向こうにもヨガニケタンとか、あといくつかそれぞれの村でヨガが受けられるっていうのとか。
面白い。
ご自身の中でそういう身体的探求の中で、フィラティストヨガを両輪というか、実践しながら。
なるほど。
元々はお芝居やってたときに、この間も多分対話の中で出てきてるんですけど、
お芝居やってるときに、本番とか人前とかって練習でできたことができないし、
自分の心と身体が自分のものなのに思いにはならないとか、いろんな悩みがあったり、
他の人の素晴らしい変化とかを見てたりすると、心と身体がどう関連しているのかが、
すごく自分にとっては共有深くて、
後ろ向いて呼びかけてもちゃんと呼ばれた人が振り返るとか、
何人も並んでてね、誰に呼びかけてるっていうのが、
意識と意図で、ちゃんとその人が自分が言われてる反応が、その人の背中が揺れ始めたりとか、
これエネルギーってちゃんとあるんだなっていうのが、目で見える形になって、
すごい面白いなっていうのが、
要は違う、お芝居自体がメディアとして面白かったのもあるけど、
その中でも人の心と身体がどう繋がってるかってことに関心が深くなってて、
一旦お芝居離れたときに、また心と身体のことがやりたくて、
ヨガとペラディスのことに入ってたっていうのが、18年、19年前。
なるほど。
ね、すごい面白いですね。
いやー、これはちょっとまたブルームーンで飲まなきゃ。
飲まなきゃ。
夏まで待ちほしいから。
夏まで待つ、出るかもしれない。
ちょっと露面展の方のブルームーンで。
やりましょう。
エングレスになっちゃうね、本当に。
面白いですよね。
ブルームーンって前に野口先生隊の反対側っていうかね、京都の方に行ってて。
今ね、ホームの方に行ってて、
結構、野口春近さんの息子さんが今やってて、その方に教えてもらってて。
本当に面白くて、もう学ぶことしかないですけど。
個人的な思いとしては、自分が分かり始めるところまで行ったんだけど、
まだやっぱり一般化しない良いんですよね。
生態協会自体と生態の世界そのものが、本当に伝えづらい世界なので。
なんだけど、やるとこれを正しく伝えるっていうことのある種の難しさみたいなものは、
多分、施術をされてる人もよくわかると思うんですけど、
切っていうものでくくられるものの中にも、ものすごく微細な、
一般言語と違う身体言語があるじゃないですか。
それが身体的感覚におけるボールだということを分かり合うっていう、
感じ合うって書いてあるから伝わるんだけど、
感じ合うっていうものがない場合は、何のことを言ってるのか全くわからないみたいな。
その人の経験に過去同じようなことを、何か別のものであっても経験していれば、
例えとしてその経験の話を使えたりするかもしれない。
糸口としてはそうですね。
さらにそれが内観の世界みたいになってくると、環境設定をものすごいすぎつまっていくような世界があって、
そうなると自分自身が探求する面白さがあっても、全く人に伝わらなくなっちゃう。
それはもう完全に自分の課題なんですけど、
でもこんなに素晴らしい世界をどう伝えたらいいんだろうみたいなのをいつも思うときに、
身体表現に長けて、言語化に長けてたり、技術的に伝えるっていうことに長けてる人たちが、
衣装さんとかは座ることの世界をより分かりやすく伝えるために、ものすごく滝に渡って、
裾野を広げてると思うんですけど、
ほっとくと閉じちゃうじゃないですか、ある難易度の世界って。
ところが閉じないような努力を内側の人がし続けるってことは、すごい大事なアプローチだと思って、
特に生徒の人たちが閉じてるわけじゃ全くないんだけど、
いかにそれを伝えるかってことに対しては、知らば知ろうと課題を感じてて、みんな感じてるんですよね。
僕は個人的に興味があって、
焦ってもないし時間もかかるだろうから、
僕はそのことにおける責任ある立場じゃないんで、
まだできるだけ正しく学ぼうと思ってるだけなんですけど、
ただ実感が立てば立つほど若い人たちは全くそこから離れていくし、
そこにどうしたらいいんだろうみたいなのがあるわけですよ。
エビデンスの世界になってちゃってね。
そうそうそう。
数字と周りとパートの世界が悩むんだけど、
もうちょっとこういう主観的な世界っていうものを、
生徒は結構科学的な世界って言った気ですよ。
かなり激しく。
今の科学はまだ未熟だって。
なんかちょっと離れると似てること扱ってるのかなって思うことがいくつかあって、
それを整理すると何か嘘口がありそうな、
ギブソン博士の何とか的視覚論っていうのがあるんですか、
アフォーダンスみたいな話で、
神経としては脳まで行って戻ってくるには
反応の時間が足りないように早くパイロットが正しく相手を発見するとか、
打ち抜けるとか、
そういう人間の神経速度じゃない反応が起きているのが何でかとか、
あの辺の目で見て反応するんじゃなくて、
その視覚自体が何か動きを引き起こしているみたいな。
先にあれなんですよね。
だから自分の意志で脳は、体は動いていないっていう、
科学的な実証があるんですよね。
確かに。
と、野口さんの意識と気の関係性みたいな、
気が先に動いて意識がそこに集まるみたいな話とかも似てる部分があったのかなと思ったり、
そうですね。
あとさっき言ってた、そこから自傷が起こるんですよね。
コントロールとは別の自傷が起こるっていうことを、
徹底的に委ねるから、何かを直すとか、
意思で何かをしようとは全くできない説理に活かされているっていうところに、
徹底的に経験させられるっていうのはすごい。
さっきの話とかそういうところも面白いなと思った。
身体感覚の伝承と課題
生体協会の本部とかとの連絡関係あんまり取ってない人なんだと思うけど、
結構巧妙な人に教わってた人が四ツ谷にいて、
その人のところに僕は時々施術してもらいに行ってた。
そうなんですね。
ちょっと忙しくて行かない時があるんだけど、
でもやってもらうと勝手に動き始めて、発言運動で、
体がこっちにねじれていきますとか話しながら、
僕今日こっちにねじれますとか話をしてたり、
いろんな体のパフォーマンスとか。
好きなんですよ、体の。
楽しいよね。
面白い。
そうね。
言語家長沼さんがもう。
スペシャリティーなんで。
遠くで見えにはいかないですね。
長沼さん優しいから、
よくわからないけど興味ある人に対して根気強く、
伝える筆力がありますよね。
僕とかはわかんないならいいやみたいな。
なりがちなんだけど、結構粘り強い。
すごい親切だなと思って。
春とかは長沼さんの文章を読むと、
すごい親切な方なんだなって。
親切な方か。
そこは大事ですけどね。
語り手としては、文章で伝える人としては、
伝えたいっていうのが原動力ですもんね。
限界は承知でね。
そもそもそのものが描かないっていうのは前提として。
でも伝える媒介やな。
言葉ってどうしても切り取るからイコールの形じゃないですよね。
原理的に無理なんだけど、
無理っていうのはそこはちゃんと持ってないとおかしくなる気がしますよね。
でも分かってるって感覚がお互いに少しでもあるんだったら、
その寄り所にはなる。
それが多分言語が発達した時ですね。
人類としてもね。
その先に文字がある。
そう、という。
進展は延長だと思う。
物語だったらね、
そのものを描写できなくても、
それを伝えたいことを託した物語だったら伝わる。
聖書もそんな感じなんだろうと思うし。
そう、だから感覚を受け取る次第ってとこもあるけど、
でもやっぱり直接会ってない、キリストに会ってない人にも伝えるんだっていうところで、
まあまあ意味だったんですよね。
どうしてもそういう気持ちになるじゃないですか。
やっぱり自分のところに留めておきたくないって絶対あるからね。
感覚も継承していかないとね、同時に形骸化しちゃうから。
そこですよね。本当にそうなんだけど、
それこそ日本は、言い換わりが一旦起きますけど、
職人的に身体的感覚を伝承する文化って豊かだったんですけど、
今、だからその生態も壁に立たされているのは、
身体的感覚を伝承することってものすごい、
同じ釜の上に飯を食い、新食を共にする中で、
そこは割とタイトな世界だよね。
だけど今ってそういうことはほぼほぼ、
本人のよほどの自発がない限りは、
でもその時に感覚世界の共有っていうのを、
すごい生態は、住み込みで働いていたお弟子さんたちが
師匠の技を身につけるために猛烈な密度で、
確かに、セックスだよね。
それは超ストイックな世界だけど、
そうじゃないやり方でイコールの伝承が、
果たして可能なのかどうかが、
あるのかもしれないですよ。
もしかしたらこの新しい時代、
何かしらそういう経路とは違うチャンネルで
身体感覚みたいなものが伝承される可能性があるのかもしれない。
あるのかもしれないけど、
僕もそこはすごい興味あって。
コミュニケーションの新たなアプローチ
そうですね。難しいとこですよね。
伝わり方が難しく、つまり、
もっと厳しくなくても伝わるんじゃないかって考え方をしている人は増えている。
昔はそういう空間は厳しさと同居して、
ストイックさとか、あとある程度猛獣というか、
従わないといけないような固定的な関係とかが、
そこの堅苦しさもあるもんね。
英語をなくすためのプロセスとか、
手段としてそれが選ばれたけど、
英語をなくすのは別の方法もあるだろう、
ということなんじゃないかなと思いますよね。
そうですね。
だからよく10年20年かけて、
実習入りして学べなきゃいけないんだけど、
もうちょっと違うアプローチにすると、
分かるという意味ではその瞬間に分かるということもあるから、
そこは隠さないでオープンソースにして、
昔は秘伝みたいにあまりそういうのをつまびらかにしない、
段階を追って小出しに見せるみたいなこともあったのを、
最初から見てたよとか、
でも掴めていくには時間がずっと結局かかるから、
急に追いつかれるわけでもないしね。
だからちょっと表現は変わっていってて、
そこはまだいろいろな人がいろんな形で、
いろいろな方法で、
そこはまだいろいろな人がいろんな形で、
似た感じのことをやってる気がする。
この間、きょんきょんも石尾さんのところで、
僕は何回か、
この人の通常というか、
スライドして、
中心機能というか、
スライドのセンター、セファリングと似てるコンセプトだから、
僕はチェックリングとか思わなかった。
中心機能的な体の使い方。
あれも、だいぶ白石先生は、
この先生の平井先生からのことを、
分かってる人がちょっとしかいなかった。
要は伝承が難しくて、
一番でしか二番でしか伝わらなくて、
三番でしか分かってるっていう話があって、
でも白石先生はだいぶそれを言語化したり、
再現性が出てきてるような教え方ができてきてる気がする。
ピラディスも何十人も同じ先生がいるところで
勉強してたけど、
ダンサーとか超身体感覚の鋭い人が何人か、
この言葉じゃない、この感覚が伝わってるなっていう。
僕もお芝居の中で、
暗闇を目閉じて歩けみたいなトレーニングがあって、
そういう語感をめちゃくちゃ解き詰まさなきゃいけないような
心を通った後で、
多分そのピラディスの何が起きてるんだろうっていう、
言葉で表現できないのを見る力の土台になったんだと思っていて、
その辺の伝達はプロの十分の一ぐらいみたいな感じは。
さっきの魔女トレの西尾さんと一緒にやってる笹井君って
金沢に拠点にしてる武術家。
そうですよね。
僕なんか彼、まだ若くて、美大卒業してるのと、
小武術から身体に入った人なんですけど、
すごい感動したのは、水を口に含むっていう、
映像でそういう身体感覚を伝達するときに、
彼は水を口に含んで、
身体の中の水の感覚をなじませる。
なじませたときに起こる身体的変化が、
さっきの足の小指とかと一緒で、
いわゆる生態的な言語で言う身体集中化を果たせるわけです。
それは稽古とは全く別で、
物理的に誰に、ある種民主化されてて、
知ってようと知ってまいと、水というものを含んだときに、
その水というものを感覚してくださいって、
ナビゲートしたときに、身体が変容していると。
その変容している状態を確認していくわけです。
そうすると、全然水に含んでいなかったときと、
持っていったときの違いを、結構ドラマチックに実感させるんですね。
それってすごい鮮やかで、
長い稽古とはまた別で、
ペットボトル一本で、かなり近い効果を実感させることができる。
それは、ものすごく民主化というか、
身体感覚の民主化みたいなものの最初の意図です。
すげえスマートだなと思って。
さっきの西園さんも類すると聞いてて、
彼女が伝えていることっていうのも、
ものすごい深いんだけど、入り口がすごい広い。
できるだけ多くの方にちゃんとわかるように伝えられている。
そういう世代の人たちが出てきてて、
そういうのを日々勉強になってて、
すげえみたいなものを感動しています。
感動の心のみずみずしさが素晴らしいですね。
内側の宇宙と他者との関係
確かに。
感動できるっていうことが、これも一つの漢字性の生命線というか、
漢字で動くって書くからね、そのまんまだもんね。
だんだん漢字性が面白いし、それを知ってたとしても、
それに対しての興味が失われていく人たちがいっぱいいる中で、
めちゃくちゃ心を動いているんですが、
他の人の心を動かすのもすごく合いそうだなと。
そこはレースにあるよね。
どんどんまた新たな身体世界が、
伝え方も含めて生まれていきそうですよね。
そういう意味では、さっきの過去とのやり方とは、
違うけど、新しい芽吹きというか、可能性も同時にあるから、
そこは今すごく注目している世界ですよね。
この間話していただいたこともね、一応まとめる。
今度はまた読んでもらう。
それで対話にもなるから、そこでズレの調整をしていく感じになって、
これならいいって感じで一応出すことになるから、
それがまた第三者に少しでも伝わるっていうことがやれたらいいかなっていう。
一応そのまま話したことではあるから、
だけどやっぱり感じ合わないとさ、
そのまま依頼としたからって微妙にズレる感じがあるような気がしてて、
多少直したところとかそういうところもさ、
この辺までならホーリー大丈夫だなと思って信頼をして直したところがズレてると、
やっぱりちょっと信頼がズレる場合もあるから、
そういうところでね。
それが僕のやり方としては今のところ、
知らない人にも届く可能性はあるかなっていう。
その表現の裏に本当に言いたいことというか、
コンセプトがちゃんと共通していればOK?
多分ね。
そう、そこを多分大丈夫だなっていうのをこの辺に置きながらね、
それで探りたずにやると、
ここまで大丈夫かみたいなことはずっとやってるところがありますね。
そう。
みんな見たことがあるから、
そう、みんな微細なんでね、
本当の感じてる世界そのものはね、
そんなにそのものを描けませんけどっていう。
いやいやでもすごい、
ハヤマというフィールドの中で、
環境的な外側の宇宙を探究する人とそういう内側の宇宙を。
そうそうそう。
だけど一番すげえ大事なのが、
さっきの姿勢の話と一緒で内側の宇宙がズレてる場合って、
ああ確かに。
ズレたものが鏡だから、
でも実は自分は気づきづらいんですよね。
そういうニュートラルな軌軸があった時に、
自分が基準からどうズレてるかっていうことを、
基本人って見えた外側の世界にあるとしてるんだけど、
自分の内側の姿勢とか重心とか、
確かに。
肩みたいなものをひとまず置いちゃってるんですよね。
そうね、確かにね。
ひとまず置いた世界の中で起こる現象を客観的だと思ってるんだけど、
実はそこにアクションもリアクションも、
自分の内側の歪みや癖やズレが投影されてたりもするっていうことを、
忘れがちで見てるっていう面白さなんですよ。
それは何か良い悪いとか善悪では全くなくて、
そういうことがドラマを生み出してもいるし、
ただそこに、
例えば自分が少し自覚的であることによって、
他者に対しても前提条件で自覚的になれるわけですよ。
そこを無視したぶつかり合いじゃなくて、
自分も他者、複合的な世界に対して、
その一歩の余白が超大事っていう。
確かにね。
本当に身体の癖みたいなのと同じようなことがあるなと思います。
自分も難しいけど、
やっぱり身体が何かしら調整できてないと、
アウトプットにも癖として現れる。
それが編集者の個性だと言ってしまうと、
ちょっと本来ではない。
もちろんそれは個性でもあり、力や魅力でもあるんですよね。
そこを駆動させることで。
ただ、それ以外の可能性も同時にはらんでいる。
癖は言っていいんだけど、
癖のもうちょっと根底にあるところの改善性みたいな、
おおよそこうだろうっていうのが見えてないと、
ただの主張になってしまうので、そこの微妙なね、
クリエイターの自己理解
この人は主張したい方に寄り過ぎているんだなとか、
改善性の方を大事にしているのかなっていうのは、
なんとなく経験していくとあるから、
そこの癖を調整することを多分、
施術でされたりのと似たような感じは、
及ばずながら編集とかそういう制作にもある感じがしてて、
その感じを持っている人たちと一緒にやるとすごくやりやすかったり。
面白いですね。
それはもうクリエイターだったらみんなね、
でも自己主張をやっぱりしたいエネルギーもある中で、
でもやっぱりそれは癖だから、
本来のものではないっていう気づきとかも、
だんだん出てくるときに、
だんだんこの人の中にあるものが、
実の発見が入ってくるからか。
それを前提に、
物を発信できる集団というか、
それを個人じゃなくて、
大前提にそういうものだということで関わり合えることっていうのは、
ある種の大人の一歩の、
すごいことだと思いますよね。
本来の教養だからね。
それは人という種を、
非常に理解を深める一歩であり、
自分も相手も、
そこに行きたいね。
そういうことができるように成熟していくことができたら、
互いにね。
その対話を通じて、
Wisdomを共有できるのを対話にしたいわけね。
そうですよね。
早まではそれがやれるっていうのと、
何かを生み出すクリエイティブなチームとして、
そういう集団、
そこは別に本とかだけじゃなくて、
ホーリーとかも含めて、
みんな表現している人のチームだからね。
その土台として30人って意味合いがある。
早まはやっぱりそういう人が多いですよね。
地域特性で結構あるから、
早まらしさって言ったらその辺かなって気がしてきていて、
仮説でね。
だいたい会うと、
振りたいという感じ?
そうですね。
みんな一人一人そうですね。
ちゃんとそういう方たちは多いですよね。
しっかり自分の足で立って、
ちゃんと見ている人たち。
そう。歪まない何かを感じながら、
ストレスの解放とメンテナンス
お互いの知恵が出るような
対話的な場が作れたらいいかなっていうところに、
今立っているような気がしていてね。
それをやるには、
自らも表現していかないと
我慢できないからと思っているところですかね。
振り返って言っているだけだけどね。
最初からそんな風にやるぞって思っていないけど、
日々やりながらね。
すごいですよね。
みんな本当に言葉の密度がすごい高いから、
あらゆる角度からのフィードバックが
すごく身に染みますよね。
身体のこともそうだし、森のこともそうだし、
食のこともそうだし、
すごいみんなそこにこうなっている。
当たり前だけですけど、
当たり前なんていうか、
葉山でもあった人は
みんな本当に人生をしっかりかけているじゃないですか。
自分の人生の時間を
自分の選んだトピックに対して
すごいちゃんとかみしめながら
生きている人たちが多いから、
だからそれは何かの
テーマのジャンルよりも
もうちょっと普遍的なところに
全員届いているんですよ。
確かに。
だからそういう人たちの目を通して
もう一回その葉山や自分や
環境とかを見つめ直すきっかけになる。
そうやっていきたいね。
それはやっぱりすごいいい時間ですよね。
いい時間。
ちょっとそういうきっかけで。
きっかけで。
それでご縁もあり。
全部流れますね。
ちょっと調子悪くなったら
相談するんで。
一緒に行きますよ。
腰痛いじゃん。
最近腰痛くなっちゃう。
これも体の声だなと思うけど。
新しい将棋ゲームを作るぐらいの
重労動みたいな。
ストレスかかるとめっちゃ腰にくるもんね。
腰手前になるよね。
重いもの知らなくてね。
心理的な重さが腰にくるみたいな。
今結構いじめられてる。
そうなの?
表面意識では大丈夫と思ってても
体はもっとセンス的に感じてて
それが症状として現れてくる感じ?
そこは分かる。
重なる。
ちょっとそこで
少しそういう重荷を
一時的に取るような感覚を
作ろうとしていて
肉体労働とはまた違う
圧ってあるじゃない?
普通にストレスってことなんだけど
そこをどうしたら
もうちょっと
変にしょいすぎない?
っていうのかな?
離れる時間なのか場所なのか
ここはバスケが
さっきも言ったけど
この集中から離れて
これで自分のケアを
みんなはしてくれるんだけど
自分はここから離れて
離れることも必要で
それが自分にとっての
リリースになったりする時もあるし
ホコリンはずっと集中してるもんね
そういう意味では。
でもさ、今さ、朝神社に
森山神社に
タンポカテラで手汗を塗ってるんだけど
距離がないときでも一人で行くとさ
そういう気づきがすごくあるから
ちょっと最近こっち寄ってて
こっちだけど
そういう踏み方でルーティンできるとね
結構いいですよね
そういうヒントがあれば
バスケはやらないけど
バスケじゃなくて
違う何かにね
お風呂に入ってる時に
面倒疲れをとるみたいな
ちっちゃいルーティンの積み重ねで
自分のメンテナンスが
ちゃんとできるってことが
大事な気がする
ふっとね、ヒントが
人の言葉から
いただいたりするから
そういうことをやりながら
いつも表面を
していきたいと
すいません
なんて表面
いやいやいや
流れる
期待もあります
期待もあるけど
自分を大事にしてもらいながら
今回が
今年の最後の撮影が
今日の目標
最後だ
お疲れ様
もう振り返るような感じ
ちょうど最後ホリデー
そうですよ
今年の総感覚
内的対応を
できた感じ
なんかね
一目であれかなと思ったけど
コーヒーが入ってて
頑張ってもらったらよかったなと思って
持って帰る
何か入れてもいいですか
すいません
41:01

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