葉山での生活と仕事
堀井祐介さんとの対話24125、です。
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あ
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半分オンラインで僕は、座学とかをオンラインでやりますと言って
座学もあるんだ、そうだよね
そう、そういうのを担当しているところ
じゃあ今もたまには韓国ってこと?
うんうん
だけど、ちょっとその4年くらい前、コロナが来る直前くらいまでが
だいぶハードワークだったから
そこから緊急事態宣言とかで学校もストップしたけど
でもこの辺は結構、葉山の中でも人口密度がちょっと
家と家の距離がね、他のエリアは2、3軒この間に去ってるよねっていう
確かに、その方がキュッてなってる
その方が都会的というか
都会的、すごい狭い
それだけ建物があるってことは
その何軒かに1軒は行きたいお店とかが含まれてるから
行きたいお店がすぐ近くにあるっていうのがきっとね
いいところだったりすると思うんだけど
コロナの時なんかはこの辺で子供たちがわーって遊んでるっていう
横浜の方とかも結構公園に行くのも
みんな芋洗い状態で子供たちがいて
他の子がパッて使った後のブランコに乗るか乗らないか
乗せないとかって親もいたって言うから
なんだか切ないなと思って
それに比べるとこの辺は
みんながマスクっていうのもだいぶ遅かったし
だいぶ遅かったというか、なかったかもしれない
外でマスクはあんまりなかった
その頃に自分でも特にお寮に
そう、そうなんです
月2日休みはやっぱり
それまでが
あんまりプレッシャーが
家族を養わねばとか
いろいろプレッシャーが強かったから
けどお客さんに対してもそうだし
自分にとっても
これいつもお客さんには言ってたけど
自分がヘルシーじゃないと人のためになれないよ
みたいな話は分かってるけど
はい、そういうことです
でも現代人というか自営業者というか
どうしてもあるあるなことだと思う
そうだよね
外の寮になって変わってきました
変わってきました
それまでが葉山に住んでるけど
葉山にいない人になって
よく言われる
確かに
葉山富ってよくたまに聞く
そういうのがいいね、葉山富って
いっぱいいると思う葉山富
図書駅始発の魅力に惹かれて
葉山に住んでいる都内で働く人
そういうことか、葉山富
めちゃめちゃいるよ
その頃出会った人とも
心の健康を探求する
葉山富になったんだけど
今はだいぶ時間ができてなくて
みんなそうかもしれない
僕もそうだったかもとか言いながらやってて
体を整えるのもそうだし
場にいるとか全部含めてで少し変わって
そうです
テーマに寄せるつもりはないんだけれども
テーマに寄せて言うわけじゃないんだけど
この場とか時間とか
スペースの広さってやっぱり
ぼーっとしている時に
周りの環境がどうかっていうのが
すごく関係あるかなと思っていて
もうちょっとしたら日の入り方が
こっちから入るようになってきて
その日によるけど
光が入ってたり風で
それが木漏れ日が散らばるように
バラバラバラバラって見える時とか
今ちょうど落ち葉にちゃんと色が付き始めたから
月和紙みたいな感じで
色がちゃんと見える
静かにぼーっとそれを見ているような時間って
今までそれまで持ててなかったから
それが持てるようになって
ヨガとピラティスは
探求したらいろんなことができるし
見えてくるんだけど
仕事として関わっていると
本を書くのももしかしたらそうかもしれないけど
本を読みたいと思って
ずっと楽しく読める時もあれば
ちょっと一回違うものに触れたいと思う時も
きっとあると思うんだけど
多分僕もそういう時期があって
でバスケットボールがそこにできた
自分のためなのか
子供がバスケ始めた小6の
中3の息子が小6の時にバスケやるとか言うから
バスケいいねって
僕もバスケしてたから
中学高校バスケ部だったから
それでまたやりたいなと思いながら
心のブレーキとして
自分のための時間ってそんなに取っていいのかって
変な罪悪感がずっとあって
それがようやく取っていいんだって思うようになってきて
誕生日ごとに
4年前のコロナの始まった誕生日に
バイオリンを始めて
バイオリンを買って始めて
すごーい
それまでやったことないのに
やったことなかったんだけど
ピラディスの生徒さんに
小学生で全日本のコンクールとかに
本選に出ちゃうような子がいて
自分でもやってもっと感じておきたいなと思って
その子が習っている先生に
相談してみて
いいですよ来てくださいみたいになって
今も続けていっている
すごい楽しい
バイオリンとバスケ
バイオリンバスケバイオリンバスケ
で自分の
もともとはお芝居をやらせてもらってたから
お芝居の感覚
体を動かす中で
もしくは心と体のつながり
みたいなことをテーマに
ヨガとピラディスを僕は仕事として
流れてきているというか
行き着いているだけれども
それの代わりというか
五感と感覚と体の体勢感覚と
目覚めさせて
昨日よりもそうなんだけど
横浜市って
毎日一週間のどこか
どの曜日かは
横浜市内のどこかで
集まった人でバスケをやるっていう
ピックアップっていう会があって
横浜市それぞれの区でそれぞれの体育館があるから
今日は中区のスポーツセンターで
バスケのピックアップをやっているとかがみんなあって
横浜市内でやっているんだ
それで水曜日の夜は僕
横浜の大和の方で仕事を回収しているから
それが終わった後
それに行って
時間を持つようになって
仕事一職だったところ
仕事と家
家族のこと以外の隙間が
ほぼなかったのが
ちょっとそれを持てるようになってきて
だから人もちろん
お手伝いさせてもらいたいと思って
仕事だけど
あんまり自分のことはできなかったから
それがこの4,5年ぐらいで
だいぶシフトチェーンにして
そうシフトチェーンにして
そういうのを
体にそれってどういう感じで変化が現れるんですか
競争と支援の重要性
プライベートのことも含め
自分でトレーニングをやって
どんな変化があるんですか
ごめんなさい
まずは
40代
なんだろうな
うちの子に
男将の子がいるって
次男にね
障がいの人とかに
寄り添うっていうか
福祉施設でもレッスンさせてもらったり
僕のところに来てくれるお客さんも
肺がんで糖尿中の人とか
ステージ4ですっていう方だったり
膝の人工関節手術してる人とか
左右の体の差のある足腕症の人とか
結構QOLが下がってしまうようなことの中で
自分の体とどう向き合うかってことを
まあまあデリケートにお手伝いさせてもらう
関係性の人がたくさんいて
それがすごいやりがいがあって
けどこうなんだろうな
僕の中では福祉と関係の人とか
息子のこととかも
ちょっと心にあるのかなと思っているんだけど
提供したりサポートすることが
自分の志向の中心になっていて
競争
人と比べること
競うこと
争うことっていうのは
ヨガとかピラティス
ピラティスはケースバイケースかもしれない
ヨガとかによって
でもヨガの中では
そういうところからどう離れられるかって
すごく大事だと思うんだけど
ほっといても元気だった
20代30代から40代に入った時に
燃え尽きがすごい感じた
それはオレ自身?
僕が
燃え尽き感
燃え尽き感がすごくあって
バスケで結局よかったのは
バスケで練習しているのはマインドフルネスに
ヨガピラティスが
仕事じゃない人は
とても良いマインドフルネスになり
仕事として接する時間が長いと
別の切り替えが欲しいと思うようになったので
バスケしていると
それがマインドフルネスになるっていう
ところを一人でやっているときはあって
それがリセットにすごく良いんだけど
今度燃え尽きとか
ちょっと心のエネルギーが少ないなって
今すごく
やっと回復してきたっていうのが
充電されてきて
自分の時間が持てるっていう充電と
これは40代になってからの本当に
大事な気づきだったなと思うんだけど
競争
適切な競争って
時々すごく良い活力になる
確かにね
でも自分自身の体力とか
気力も元気だったときは
そういうものは
ありのままのその人を受け入れずに
傷つけるというか
優劣で優れてる人の方が
力が強い
上手い
かっこいい
収入が高い
いろんな競争的なところで
より高いものを持っている人の方が
認められるし
評価が高いし
優れているという評価になりやすいけど
うちの子の障害を持っていると
もともと競い合う前に
ちょっと何か
別の幸せを見つけなきゃいけないという課題を
僕はもらったと思っていて
そのときに
競い合って勝ったから幸せっていうのじゃない
そのままで幸せっていうのを
探す旅っていうのがやっぱり
この10年ぐらいあって
それはすごく
僕の心にもいい影響があったし
もともとヨガだからそうだったんだけど
障害のある子供が生まれたことで
よりそれを見るようになった
がしかし
自分のエネルギーも落ちてしまう
競争を避けすぎると
自分のエネルギーがなくなるっていう経験が
面白いな
頑張りすぎてる人にとっては
それをオフにしていくっていうプロセスは必要だけど
オフになりすぎちゃうと
今度は逆に活力もなくなる
自分も支援っていう言葉
福祉でよく使われる言葉で
自分も元気じゃないと
人の支援ができなかったり
支援の場で
支援される人が主役だけど
支援する人が主役になろうとするのもまた違うし
っていうことは
支援する側の人はちゃんと
メンテナンスができてなきゃいけないんだと思っていて
支援される側の人と
支援する側の人と
一緒に通じてるところもたくさんありながら
でも差別と区別の違いみたいに
区別として存在していいこと
もしくはむしろそれを考えなきゃいけないことって
たくさんあるなって思っていて
バスケをしに行っても
いっぱい話が散らかるけど
バスケの区分の中にも
競争と楽しみのバランス
三難、息子がやってる剣道とかの
道って付くものの中にも
いろんな区分があるなと思って
気づくようになって
プロアスリートの人とかの
指導してる友達も仲間もいるんだけど
そういう人たちはガチの世界で
勝たないと収入にならず生きていけないっていう
競争の中の競争っていう
極限みたいなところに来ていて
でも80代になっても
剣道を続けてる人たちとかは
道の世界に来ていて
道ですごくいいなと僕は思っている
そのガチとちょっと軸が違うところに
道があって
そのちょっと外れたところに
エンジョイ、楽しむっていうところに来ていて
楽しむっていうところ
趣味とかあるんですよね
エンジョイの枠があって
そこは自分を中心にしてもいいんだけど
勝たないとダメとかいうことでもない
でも一人でやってると
エンジョイに偶然性が入ってこないというか
他の人と一緒にやるっていうことを
僕はあんまり人とたくさん群れたい方ではないんだけれども
完全に一人になると少し足りない
ってことを自分で分かるようになって
いろんなスポーツセンターとかでやってる情報を見つけて
混ざって
はじめは一生懸命やってみたけど
ガチの意識でやってもまた違うんだな
っていうのを感じたり
かといってエンジョイで
全然頑張らないわけでも
エンジョイとも
友愛、ガチ、道、エンジョイ
友愛の重要性
友愛は友達の愛
エンジョイとは違う
エンジョイは自分中心じゃなくて
でもみんなと楽しむ
みんなと楽しむけど
仕事とかそういうのとまた違うというか
で、UIの場合は
自分中心じゃないものも含むというか
福祉の現場で
障害者スポーツとかで
みんなが本当に楽しむように考える
っていうような場面もUIだし
でもその場がその人にとっての
ガチになる人ももちろんいるし
道、エンジョイになる人もいるんだけど
支援側で考えると
そこは友愛のスタンスっていうのがあって
自分にとってのガチ、道、エンジョイ、友愛と
他の人にとっての定義はまた
それぞれに違ってくると思うけど
それが分かりやすいっていうか
それの中で
エンジョイとちょっと道が入るぐらいのところで
バスケを毎日練習するとかって
それを仕事にするためにというわけではもちろんないけれども
自分がちょっと道として毎日続ける中で
昨日と今日のテーマみたいなことで
設定してみたり
肺活量とか運動能力について
40代以降どう元気で活力ある生活でいられるか
みたいなことを混ぜていったり
それがまた一部の仕事にも反映されてきたり
でもその中に一部だけど
競争でガチの気持ちで競争するのと
道の一部としてちょっと競争に触れながら
でもそれは他の人を
こき下ろすためにやるわけではなくて
自分の課題を見つけるために他の人が必要っていう
武道とか一応世界はそれに違いがないですよね
競技ではない
だから本当に剣道やってる人とか
武道やってる人の全てがそうではないかもしれないけれど
素晴らしい人がその道を持っている
というのはすごく感じて
確かに
少し積極的な動きがないと
やっぱり自分のエネルギーが
落ちちゃうみたいなところで
バスケやったりとか
そこがプラスになっているみたいな
すごくプラスになっています
もうちょっとただ
なんだろう
これはいいんですか?
大丈夫です
録音とかで
いいよいいよ
アグメント撮れる
はーい
しょうがないというか
一個にしておいたほうがいい
なるほど
面白いね
図がいっぱい作れそう
そうだね
なんだっけ
エンジョイと友愛を分けるって面白いね
でもすごくよく分かるよね
確かに
うちの弟シンがサーキューとかやった
あれはエンジョイと友愛と両方かな
道って感じじゃない
そうだね
あいつもそういう感じかもね
みゆさんも同じこと言ってたけどね
何や
今みんなエンジョイと友愛で道がないみたいな
まあね
アセン流が道なんだよ
え?
アセン流が道なんだよ
そういうの比較して
もうちょっと
でもアギが出てきた
もうちょっと高くなったらいいのにな
そうね
私ここにいるから大丈夫だけど
どうしますか
あそこの場所一番寒いんじゃない?
大丈夫
あの日は当たってる
そっか
なんかさ
私ちょっと喋んないと
なんかさ
前ホーリーと喋ったときさ
なんだっけ
ポジティブな
中道体
中道体って話をさ
やっぱそのキーワードすごい大きくてさ
でも基本それが近い感じかな
すごい楽しかったなって思ったよね
そう
なんかそのビーチ早山でも
その中道体のこととプラーナのことをテーマに
あのまあ少し
ヨガがもともとそういったものだと思っているから
だけど
あのまあ
場所によってはちょっと
映えることとか
うん
そのなんだろうな
なんか見栄えとあとは競争的な意識が入り込むヨガも
ネット上ではね
ネット上ではどうしてもそうなる
確かに確かに
目に触れるもの
ヨガをやってる人はそのやってる場所で見ているけど
それ以外の場所にいる人はネット上とか
そういうメディアのものとして
映えるものを見ているから
そっちに意識が向いたり
なんかついつい頑張っちゃったりする
まああとはビーチはそのアクティブな人
あとスポーツをやってる
競技スポーツも含めやってる人が結構多いから
その中でやりすぎて体を怪我する人が結構多くて
っていうのを見たときに
まあ向こうもそれを求めてくるから
先生側も
じゃあもっとやってあげようってなりやすいんだと思うけど
僕はこの
約18年19年前か
19年くらい前にこの仕事を始めたときから
怪我をした人とか
スポーツクラブで他の先生はアクティブすぎて
っていう人が僕のところに当たってくるっていう
でもそうな感じするよね
だから他の先生が怖いとか言いながら
僕のところにいろいろ
スポーツクラブはもともと怪我してる人は入れない機嫌が多いんだけど
病気とか怪我の人は最初に何もないですって
サインしなきゃいけないから
でも実はとか
所属してる間にそうなった人もいっぱいいて
全体の2、3割くらいそういう人がいるんだと思う
そういう人が僕のところに
面白い
分かる気がする
でもそういう人の人数が案外多いから
たくさん来てくれててっていう流れがずっとあったから
それと今もビーチでやってるときも
自分が知らず知らず
Make it happen
無理やりそれをコントロールして
そうなろう
それにたどり着こうとするっていうスタンスで
物事に取り組む人が多いようにも思っていて
それをどう?
Let it happen
それに向かっていくけど
自然とそれが起きるっていう状況
受け入れながら
環境からいつも情報を受け入れている
影響を受けているのに
受けているけど
それを無視して
私はこっちに行くっていう風に
Make it happenするのか
状況を受け入れて
そのフィードバックを
自分も影響を受けていることを認めて
微調整してまたそっちの方向に向かう
そのやり取りの繰り返しで
常に怪我をしたりするほどの
中道体の探求
破綻とか無理を起こさずに
でも向かいたい方向を持ち続ける
それってさっきの区分で言うと
ガチなことをやってる人たちに
でもそれって仕事とかでも
そうなってるモードの人がいるってこと
頑張るのはいいことかもしれないけど
今おっしゃったみたいに
行き過ぎちゃって
体の不調が出てきてるとか
それはやっぱり受けると
やっぱりそこが整うっていうことでいい
そうですね
今いる人たちは長く
10年以上中に15年以上の
お付き合いの人も結構多くて
ずっとどんどん出ては入って
出ては入ってっていう入れ替わりは一部で
それより長く一緒に
お付き合いしてる人が多いから
こうなってくると
この人だからっていうね
信頼関係とかになってくるけど
初めの頃は
自分ってこんな風に
力が入りやすかったんだとか
気づいてもらう機会があって
こういう価値観
こういう哲学や感性で
ヨガピラティスを
アプローチとして
手段として
自分は人生をどう向上させるのか
改善させるのかっていうのは
先生ごとに違っていいし
それを受ける人も
どんな目的を持って
これを使いたいですかってことが
あっていいと思うんだけど
それで徐々にフィットしてきた人が
ずっと一緒に
やっているっていう
それはもう道みたいな感じ
だんだん道になっていくし
生活の一部になって
自分の
戻ってくる場所
確認して
それが日常にフィードバックされて
おそらくそういう
やり方とかも変わっていく
ことが大事
だからもう15年以上
普通にやらせてもらっている人の中には
その間にリタイアしたというか
もう退職した人もいるから
今はちょっと仕事の忙しさと
違うライフスタイルを
送っている人だけど
前は娘さんも来てくれていて
そのお母さんが
娘さんがね
行ってくれたり
そちらを見てて分かる部分もあるんだけど
お母さんはピラティスのレッスン受けに来た後
すっごい穏やかになって帰ってくる
でもそうだろうね
それはすぐ分かるのではないかというか
きっとそういう感じはする
ちょっと待って
ポジティブな中道隊に関しては
かなり近いところで話されていると思うんだけど
中道隊っていうのはどういう風に
受けとられているんですか
僕の中では
英文法でいうところの
能動隊と受動隊があって
古代ギリシャ語の文法には
中道隊があったと
どんなケースで使い分けていたかといったら
能動隊は
神の
神の視点というか
自分に神がなしたことの影響を
神が受けない
自分に影響を受けないことについて
使われる言葉
中道隊の場合は
自分がやったことの影響を
自分も受ける
そういう中に
とられているという認識を持っています
自分がやったことが
自分に影響を受けて
それでちゃんと
自己認識と身体の使い方
因果関係が循環しているような感じ
フィールドの中にいる
監督権選手みたいな人が
やれって言ったら
自分もその中に巻き込まれていくけど
外からの監督は
やれって言っても
こうなったか
日本の今のここの状況に
置き換えた時に
能動隊で生きている人とか
受動隊で生きている人がいるみたいな感じ
それを中道隊の方に整えていくみたいな
そこは
セッション
一般の人が
いろんな生き方をしていて
ピラティスとか
ポジティブな
中道隊の感覚を
掴んでいくような
マンツーマンの
セッションの場合は
よりその人が
どういう
自分の体を動かす時に
どういうオーダー
体に命令を出しているかということを
自覚していない要素も
いろいろあると思うんだけど
でもそれを
僕はなんでかというと
この仕事を何千時間
何万時間やっているうちに
そうなった部分もあれば
お芝居を学ぶ中で
言葉以外の情報が人と人の間で
やり取りされているということを
すごくインストールしてもらってきたという
そうすると
相手は
対話上の
ジャッジに判断にならないように
決めつけにならないように
配慮を注意するということは
自覚を持って
接していると思うんだけど
相手が
自分の体に命令を
出している命令が
体の中心とつながって動いているか
それとも一部分に命令を
出しているか
一部分に命令を出していても
本人はその自覚はなく
腕を上げるってこういうことでしょう
って上げていくけど
その上げ方は何千回何万回繰り返すと
肩に緊張感が積み重なって
痛くなっていくよね
これは具体的な体の動き方の
ポイントだけど
それをもう少し
重心がもう少し
右の腰にも乗って
左右の骨盤の体重が同じぐらいに乗ったところに
来ると
その体を支えるために
コアが働き始めた体で
手を上げようと思うと
腕を上げるためにお腹の力も
使うようになったね
本人が意識化できていない
体の使い方とかコンディションを
外から見ているから
僕の特徴特性として
相手のコンディションを
自分の体で知覚したりすることが
得意なんです
それを
意識化する
相手も自分で自分を意識化する
お手伝いをしていく
そうすると自分の心と体が
どう離れていたか
言い換えることもできているかな
と思うんだけど
自分の体の中で起きている
自分の扱い方を
認識し
それをどう調整することで
自分の体の情報を
聞きながら動けるようになっていくか
これが
知覚とか認識上の
自分と対話ができるようになる
お手伝いをしていくという認識で
最近は40代になってからは
物理的な
筋力だったり
肺活量とか
酸素の摂取量とか
物理的なエネルギーの流れが
そこを支え
してくれるものも多々ある
そこにももちろん
アプローチを
前は外の世界は
そればっかりだった
火を燃やせば暑くなるみたいな
そっちばっかりやってる
世界だなと思っていたけど
もっと自分の体の声を
聞くことで
そんなに摩擦を起こさなくても
自分の体の中心とつながっている
気持ちよさとかがある
コンディションというのはあるはずなのに
それを聞かないで
ただいっぱい動くことで満足
ってなりがちな世界に違和感が
僕はその頃は
今は両立すべきだと思って
エネルギーがないと
それだけで
何かをやろうという
活力自体が出てこなくて
自走し続けるための
エネルギーっていうのは
やっぱり必要で
自分で走り続けられる
体力エネルギーモチベーション
そういうのはやっぱり
僕たちの生活には必要で
この数年で僕自身も
それを回復させられた
そういうのもつながってきます
内面に気づくとかね
瞑想もそうだけど
それすごく大事で
外にしか向いていなかった
抜くきっかけになるじゃないですか
他のところでもこういう話
よく聞くんだけど
気づくようになったからだって
そこで
気づき続ければ本当にいいのか
今おっしゃったように
動きにつながらないと
日常も変化しないし
自分の生き方も変わらない
そこがすごく抜けてるなって感じ
まさに今そこを
具体的に
実践として説明というか
お話をさせていただいている
すごい大事なところだなと
めちゃめちゃ大事だと思うよね
落ち着いていくだけだと
中心に寄っていって
中心にたどり着いたら
そこで静止してしまうというか
そこで静止してしまって
調和したって思うけど
そこからどこにも行かない
ということがきっと
あるように感じていて
でも時間は流れるし
飛んでるし共通しているか
わからないけど
エントロピーというか
太陽から
銀河系というか
太陽からエネルギーが
外にずっと流れ続けているわけで
地球も閉鎖系で
その中でくるくる回ってるだけじゃなくて
外から来たものを
また外に出していく
流れもあるって考えた時に
人生も時間があって
始まりから終わりに向かって
流れていくし
ずっと
完成したって言って
それが永久に続くわけではなくて
変化が必ず
続き続けるから
と思った時に
興味関心があることとか
これをやってると幸せだな
ということに向かって
自分を使っていく
その瞬間瞬間を
味わって
何かものとか
残していく人もいるかもしれないけど
飛ぶけど
進撃の巨人
キャッチボールしてるだけで良かったんだ
みたいなシーンがある
重要な登場人物の一人は
昔おじさんとキャッチボールしてたことが
それだけで良かったんだけど
それ以外の
戦争だったり
自己死んだったり
そういうものに巻き込まれていって
そういうことは別に興味なかったんだけどな
っていう
コンサマトリーな生き方を
それだけで良かったんだけど
もっとインスルメンタルな
すごく筋力とか
いろんなものに絡め取られていく
生き方に
来てしまったなみたいな
シーンがあるんだけど
コンサマトリー
もそれで
今幸せだなバスケやってて
フルな時間をもてて幸せだなっていうのも
終わりの時に
楽しかったなって言える要素の一つだと思うし
最近は
人と関わりあって偶然性の中で
新しい気づきとか発見とかがあって
バイオリンやってても
ただその瞬間が楽しいな
音響きを聞いてて
嬉しいなと思うところ
プラスもちろん
新しくできることが増えていく
心と体の調和
道のプロセスのように
やっぱり道に近い
考え方なのかな
じっとそこにいるわけじゃなくて
道を歩き続ける
人生によっては
体力として落ちていく部分もあるかもしれないけど
その制限された状況の中で
よりよく自分を
使っていくことは
成長していける可能性があると思うから
外から見てこう
山がだんだん下り坂があるかもしれないけど
自分の
持ってる資本が減っていっても
より効率よい
洗練された生き方はありえる
その生き方の
視点においては
持ってるって言えると思ってる
乗れば乗るほど燃費がよくなる車みたいな
心の面だったらありえる
日本人が道を
卓球してきたのはそういう側面が
結構大きい
年齢重ねるほど
そこの精度が上がる
共有されてた感じ
そこに立ち返るみたいな
はい
うん
だからね
ドッキリさんとか
葉山やずし周辺で
いろんなね
言葉に対しても
日本の精神に対しても
すごく造形が深い人たちが
いっぱいいるから
そういう人たちのレベルではとても話せないんだけれども
けど
なんだろう
道っていうものを見たときに
ピカティスも
道としてピカティスを使うことも
できるし
ヨガももちろんそうだし
何々としてこれを扱うってことが
すごく大事
じゃないかなって思ってます
何々として
それ自体は手段ですか
えーと
もちろんメソッドが生まれた背景とか
文化とか歴史に対しては
リスペクト権威がものすごく
大事だと思っているけれども
それ
伝統を守ることだけではなくて
今を生きている自分たちが
許されている部分っていうのもきっとすごくある
と思っていて
よりだって
同時代を切るってことの価値ってすごくあると思っているんです
すごくねこの話
他の対話とかでもよく出てくるね
とても興味深いんですけど
みんなほら
早々に来るような人たちは
頑張りすぎているモードから
やっぱり
自分を一回離れるというか
新しい生き方を
見つけるために来ているのもあるじゃないですか
そこでピラティスとか呼ばれている
人もいると思うんですけど
今度そこで
今までの話に重ねる感じになるんだけど
整った自分を
何に使っていくかみたいなところが
何らかできている人もいれば
そこは何をやっていいか
わかんないと迷っている人もいるし
そこの迷っている人も含めて
次の
今までとは違う
頑張り方みたいなものを
見つけていくのが
今時代的にも必要だったりとか
そこに全部重なってくるようなことを
ポーリーは実践というか
でもやっているから
人生がそのもので
個人としてもやっていて
人にもその考え方を
何らか伝えているという
両面があるから
みんなそこを
何か見つけたいとか
形にしたいと思っている人が
多い気がするから
新しい生き方の探求
行きたいと思ってもいないかもしれないけど
そういうのがあるというのは
あまり知らない気がする
確かに
そこまで気づいていない人もいる
満足しているだけ
中学生まで行かない人もいるけど
まず癒しだけでも
十分満たされて
また元の仕事に帰るくらいでも
十分な人もいるし
次のステップに行きたい人もいる
僕はこの辺りは
偶然とか縁みたいなものに
半分ぐらい任せていいと思っていて
偶然と運の悪さ
世界を大きく変えるポジションに
着く人ももちろんいるかもしれないけど
当然その辺りは
自分で
自分ももちろん
中学生でも
まだ自由感があるのかもしれないけれど
例えば
相手の手が
自転車の車には
知れないかもしれないけど
当然全員がそうなる訳じゃないし
っていう時に
いろんなことに関心を持つかもしれないけど
手が届くとか
偶然出会った人とか
こうだったら、世界が平和だし、幸せだし、自分も充実するな、ということが
だんだん広がっていけばいいのかな、という気持ちはあって
うちにはたまたま男性の子供が生まれてきてくれたことで
見えなかったものが見えるというか、気づけなかったことが気づけるようになる側面もたくさんもらったし
40代になって自分の体が変わってきたことで
意図的に自分のコンディショニングをする軸というかディメンションが一つ増えて
ちゃんとエネルギッシュであることと調和していることの両立がないと
行きたい方向にゆるゆると進み続けることができないという
そうすると余分なものは手放していかなきゃいけないなということも起きてきたり
時間の使い方だったり、いろんなものは選択が起きてくるときもあるんだけど
でもなるべく興味関心を止めてしまう、殺してしまうという形ではない
解決法が見つかったらいいなと最近はよく思っていて
続ける志向という本があるんですけど
井上新八さんという20年くらいコピーライターで
本の訂装のデザイナー、ブックデザイナーの人の本を早間図書館で
新刊って言ってポンと置いてあって
なんか借りてくれと言って借りて読んだら
その人が40代をどう過ごして今50歳になったかというのに
結構深く入り込んだ話が書いてあって
週間化ということが
要は僕たちの5時間寝てどれだけ回復するかの回復量も減るかもしれないとなると
じゃあちゃんと7時間8時間寝ようかなとなっていったりすると
自由な時間も減っていったりとかいろんなことが減るかもしれないんだけど
週間の力とかをうまく使って
すごい心を奮い立たせる
これを頑張るんだってことに心を奮い立たせる
って行きたい方向に行くので
結構その火をつけるのにガソリンとか土油がいるけど
週間を使うとそのエネルギーのロスがすごく少なく
コンスタントに続けていける
っていうエッセンスもちょっと入っていて
40代以降に
10代とか5歳10歳の子供が
何か習い事をして身につける吸収力と
当然違うかもしれないけど
大人だからできるその週間化だったり
そういうことをうまく使うことと
大人だからそういうスタンスを持ち得ると思う
道だったり自分で自分を満足していくっていうスタンスを持っていると
ガチのここまで到達しないと価値がない
競争して自分が他の人より優劣の上で優れてるに入らないと
すごいって言ってもらえないっていう感性を一旦脇に置いて
自分がこれをやっていることによる喜びだったり
続けること自体を喜びにするっていう
内容の進歩以上に続けられてるってことの喜びを
また多分そこプラス
それによって発見できることは何ですかっていうことを
喜びにするっていう視点が入ってたから
たまたまカジュアルに読んだ本だったんだけど
タイミングとか40代の話とか
その中で自分がやりたいことをそこまで損なわずに
諦めすぎずにというか
かといって片肘張って他の人よりすごくなるんだみたいなのも持たないで
幸せに生きる方法の一端が書かれてるなみたいに思って
それもちょうどいいタイミングでそれを見れたなと思って
たまたまとか偶然とかタイミングとか
いろいろすごく重なることが出てきて
なんかそれを何だろう
受け止め方によってあれですよね
全然方向変わっちゃうから悪く受け止める場合もあるし
なんかそこの態度によってあれですよね
習慣化に向くかもしれないし
道の方に向かってくるのか
そんなような話をされているのかな
これは書かない方がいいというか
書かないでほしいくらいの話なんだけど
この一ヶ月くらい
偶然運が悪いことがすごくたくさん
まずインフルエンザにかかって
家族全員にかかって
何か書いてあった
ちょっと風邪でごめんなさい
その後治ったと思ったら
誕生日前日に車をぶつけて
治したら30万とか
じゃあ自分で治そうって
ポンネット叩いて形を作って
パテ塗って擦って色塗って
色いまいちだなと思ってもうちょっと色塗って
バレないとは言えないが
乗ってはいられるみたいなのにして
何も起こりませんようにって誕生日が過ぎて
そしたら奥さんが
これ絶対書かないで
奥さんが亡くなったおばあちゃん家から
これかわいい色だって言ってもらってきた
カセットガスコンロがすごく古くて
タイヨネーズ10年くらいなんだって
いつかお鍋で食べてるときに
こっから火が出るだけじゃなくて
こっから火が出始めて
なんとかこれを家の外まで僕が運ばねばと思って
ガバーって思ったら熱っ!ってなって
その時に火がブワーって出て
僕の髪の毛と眉毛とまつ毛がブワーって
すごいね3個か4個くらい
すごいこと重なってね
タンパク質が耳にもよるとこんな匂いがするとか
変な匂いして
けどそれで火事にはならずに
積んで調べると
カセットガスコンロは10年までって書いてある
今からの季節ね
使うかもって
途中の幸いとかあるけど
いろいろ経験したんだけど
偶然が起きたときにそれをどう捉えるか
40代の変化
前向くか後ろ向くかっていう話はその人次第で
その瞬間はこれ運悪いと思う
お祓いにしても何にしても
自分の思い込みを切り替えるきっかけのタイミングなんだろうな
なんとなく思っていて
お客さんとかにゲラゲラ笑いながら
髪の毛燃えてーとか
だんだん楽しくなってきて
自分で金槌で
ボンネット直したとか
楽しくなってきて
自分が悪いっていう
変なところに入ってしまったみたいな
嫌な気持ちはなくなりました
何か事故に遭うかもしれないし
火傷も怪我もするかもしれないけど
無理矢理じゃないけど時間が必要な部分もあると思うけど
向き合い方次第で
笑いにもなるし
そのへんの運とか
凹んだときにどうするか
どっちを向くかっていうのは
時間がかかってもいいけど
良い方にだんだん向いていけた方が
ハッピーだなって思う
もう一杯入れてもいい?
大丈夫です。持ってます。
マコリンは今追加で入れたので
言ってください
無理矢理
良い方に解釈するって話とは違いますもんね
そうですね
自分の心が痛いことは痛いから
それを無視しないっていうのはあるのかな
それは受け止めるというか
身体で感じているか
燃えたと思って
髪の毛のチリチリってなったところを撮ってるときに
背面台が黒くて
この辺はね
ビジュアルと身体勢として
まつ毛って割るとこんな風になるんだって
切なさが身体を持って思うから
インフルエンザで寝てるときも
なかなか治らないなとか言ってて
3日目ぐらいに病院行ったらインフルエンザですって
これまでの3日間ちょっときつかったなみたいな
体で感じるとどうしても心が動くものだなと思うんだけど
今ふわっと思い出したのは
宮台真嗣さんが
記憶の話をしているときに
傷っていうキーワードを出していて
心に傷を負ったり
身を持って体験したことを忘れなかったりする
っていうことに近いニュアンスだと思うんだけど
傷ついたり心に傷として痕跡が残ったものが
ちゃんと記憶として刻まれていくみたいな
ニュアンスの話をされていて
身を持って燃えたものは
忘れないし
心にも影響あるんだけど
それをちょっとずつ
今笑ってもらえるのも
僕にとっては浄化プロセスみたいなものだしね
むしろ楽しい
心の成長と受け止め方
日々良いことも悪いことも
っていう言い方をするとありますよね
回復会とか
そこに常にとらわれるっていうよりは
進んでいくっていう
動いていくみたいな
そういう意味で
生きている間に動き続けます
常に起こるじゃないですか
回復会との関わりの中で
ちょっと引いた感じでいいのか
分からないけど
身体の話と出来事の話が重なっているように
感じたから
さっきマコリンが
マコリンさんが
さっきマコリンが
癒されて回復して
また元の仕事に戻っていくようなスタンスでも
十分あり得るしっていう話をした時に
大きなサイクルの一部に
出たり入ったりする
仕事の扱っているもの自体が
一人で成り立つものではなかったりするとそうだと思うんだけど
僕の場合はよくも悪くないとは思っているけど
小さなサイクルの中で
自営業で自分のスタジオで
しかも家賃イコールスタジオ代だから
駅前に大きなビルの部屋を借りて
ランニングコストに
あんまりエネルギーが割れないスタイルを選んでいるのも
仲間は結構駅前でやっている
アクセスのいいところでやっているんだけど
でも絶対にランニングコストのために
一生懸命やらなきゃいけないことが
出てくることは
20代の頃勤めていた白金代のスタジオだよ
それはすごいわ
それだけで
ランニングコストを取ってから
そこから先に始めて生活のプラスアルファになっていくから
という意味で
少なくともこの何年かは
コンパクトに
自分の場所でやってきて
エネルギーがセーブされている部分もあるし
あとはさっきマコリが
聞いてみる
キーワードを出せたときに
どれくらい外との接点を持つかを
自分で調整しているんだと思います
そうか
でも大きな仕事だと
それの量は調整できなかったり
一般に言うとチャンスということで
大きな仕事に関わるときの距離が
また影響を受けるじゃないですか
すると心循環にプラスアルファがつくも加わって
また体の反応も変わってくるし
選択が必要ですよね
ある程度大きなものと
向き合ってそれを回していくことも
喜びとやりがいがあるから素晴らしいと思うけど
そのためにはそれを回し続けても
心身のコンディショニングの重要性
心身を崩さないだけのコンディショニングが同時に
こっちのサイズとこっちの余力だったり
コンディショニングで
エコシステムが
破綻しないような準備ができているか
合わせて多分大事だと思うから
もともと
昭和とかは
もともとこの容量が大きい人が
たまたま成功していくっていう感じがあって
今の時代も3時間睡眠でも行ける
動き続けられる
マグロのように動き続けられる
トランプさんとかマスクさんみたいな
イメージあるけど
圧倒的にそうじゃない人の方が多い中で
どういう
世界と関わり働きかける
自分も充実したこと
コンディションでいるということと
自分自身が維持継続
もしくは成長していける
自分の中の癒しと回復と
トレーニングかもしれない
両立していけるか
持っていたほうがいい
なぜなら高齢化していくし
持っている体力資源は変わっていくかもしれないけど
心が豊かになり続ける可能性も多々あると考えると
さっき言った道のスタンスを持っていれば
対応していけることもあるのかな
今ちょっとこうもともとの
バリキみたいな意味で
こじんまりしている人がいる
それ自体は
バリキのある生き方という意味ではなくて
もっと大きくすることも整えていけば
エネルギーになるんですか
要領というか
いろいろとやっていただくことで
そうですね
要領を増やすということと
質を変えるということと
その両方を同時進行でやるようになった
昔15年くらい前に
大手のオペラティススタジオに勤めて
やっていたときは
スタンスを変えられたものを提供していくし
大抵の人にはそれでエネルギッシュになるというか
もちろん整っていく部分もありながら
エネルギッシュになるという要素を
メインにしていた
そういうスタンス、そういう方向性だった
今はそれに反発して
そんな摩擦を持ちながら
エネルギッシュになっていくだけじゃなくて
スタンスを変えていったら
持っているものですごく満足したり
幸せになっていく方向性もある
でも保存しているだけだと
エネルギーはだんだん小さくなっていく
質の向上と創造性の追求
ということも現実としてあるから
エネルギーをこの辺は多分
サイエンスの部分として
いつ食事してどれくらい寝てとか
それもちゃんと取り入れながら
温存しつつだんだん増やしていく
無理に火を大きくしようとすると
燃え尽きたり壊れたり
丁寧に大人になったら
心も体も丁寧に扱っていく
無茶な生活の30代より
丁寧に生きる40代の方が全然元気なことがあるな
と今は思えているから
最初の話に繋がってきた
意味が分かってきたという感じ
自分なりにやりがいのある仕事を持っていて
それにはそれなりのエネルギーが必要という時に
馬車馬のようにやるよりは質を上げて
よりクリエイティブに
その仕事に関われるようになりたいという人がいるし
そうやって社会に貢献したり
プラスになることをしているわけじゃないですか
そういう人になっていけるお手伝いも
今実際にされているし
そこを探求されている面もある
そうですね
質が上がっていくというのが
すごくいい表現というか
キーワードなのかなと思って
もともとは心と体がどう繋がっているか
俳優時代というか
お芝居をやった時に
そこの存在をより感じるようになったので
ヨガやピラティスというのは
実はそこを扱っている仕事で
お芝居を何としてやるか
お芝居はお芝居なんだけど
でも心と体の繋がりに
僕はその中のエッセンスの一つとしての
それを体現できるものは
お芝居というメディアだけではなくて
ヨガとピラティスの仕事も
ものすごくそれと重なる部分があったので
これだけ続けられているということがあるんですけど
という時に
心と体
今の方が一時
心サイドや意識や心神経というところに
筋肉から意識や神経とか
哲学価値観みたいなところに
一時シフトしていたところから
今物理的な体がそれをどうサポートするのか
そういう目的を持って
もっと物理的な体を大事にしていこう
そして強さも求めていこうと思えるようになったから
体の強さを求めることに対する
罪悪感が減ってきた
罪悪感があった
ルッキズムに対しての
敬語感みたいなのがすごく
映えるとか
ルッキズムとか
心と体のバランス
そういう風潮の流れに対してだったり
フィットネスとか筋トレみたいなのって
アウターマッスルみたいなの
それが鍛えることだみたいな
インナーマッスルみたいなのを買うと
結構最初否定的になりますよね
アンチみたいに
アウターマッスルはすごい大事だけど
でもやっぱりアウターマッスルも必要だし
その調和が生まれるみたいな
思いもあったので
回帰したいと
一周回って全体性が
適切な鍛え方とか
運動とか
暮らしになることに
影響を受けたり
そうですね
それでバランス
最終的にバランスを
まずは自分にとっての
良いバランスってどれくらいなんだろう
ということを見つけたいなと思っているし
インジョイでバスケを求めるんだったら
もちろん道の要素も入れたいなと思っている
インジョイだけれども
ガチで戦い勝つために
それをすごい探求し始めると
心がある意味
一番最初に剣をしたところに
引き寄せられやすくなる
体を大事にするということが
いつの間にか競争で勝つことの
手段になりがち
そのつもりが始めなかった人も
そうなりがちだと思うし
自分の元気を回復
決して否定はしないんだけど
ダイエットに成功したから
自分に自信が持てたりとかはあると思うし
それで素晴らしいこともあるんだけど
上がってきたその先に
その後が結構大事かなと思っていて
その後の心がちゃんと
良かっただからこんな自分を大事にして
次どんなライフスタイルを続けていくのか
それが本当は大事なんだと思って
自分も多分そのバランスはどれくらいが
自分にとって幸せなんだろう
ということを探りながら進みたいなと思って
ある程度調和している感じ
それぞれの要素が
どこかに偏りすぎない
エンジョイだけだと
動きを感じ取るとか
そういう探求する喜びはあまりないじゃないですか
みんなでわーっと
親睦を深めるみたいな
エンジョイとUIか
日の探求はあまり関係ないです
成長していく喜びみたいなものが
なかなか見つけにくいのかなと思う
気分転換とかね
バイバイするっていう良さもあるけど
それだと割とセンスがない
道ばっかりやりすぎていると
繋がりも忘れちゃう
高校の人みたいになりやすい
とかみたいにしていくと
バランスが見えてくる
体がおかしくなっちゃうし
心もやられちゃうし
道とかエンジョイのほうに
行ったほうがいい人もいる
自分でチェックされたらいいかもしれない
ガチをやるために生まれてきた人たちは
ものすごいなと思うんですよね
選手というか選ばれた人ではあると思うんですけど
ガチの人はあまり消耗しない感じに
体があれですよね
キャリアを重ねながら
使えるようになってきたら
もっと素晴らしいリーダーになれる
そういう人もホーリーのところで
いろいろと受けられたらいいんじゃないかな
そうですね
関西のサッカー日本代表とかの
アスレチックコーチとか
運動能力を上げるような目的の
トレーナーやってる方が
シリアにいるんですけど
そういう人はもう
僕なんかは心の充実を求めて
この人たちがセカンドキャリアをどうするか
みたいなことも含めて考える
でもガチの世界に生きてる人は
セカンドキャリアはちょっぴりみじめなもの
今頑張らなかったらこれしかないから
コブさせていくっていう
要素も使ってるんだな
僕はそこまで燃やし続ける
燃え続けるみたいなものを
残念ながら
自分の中で
燃やし続ける燃え続けるみたいなものを
残念ながら持ってないんだろうな
とは思ったけれども
そういうクライアントばっかりを
見ることは多分
僕がエネルギーで起こす可能性はあるなと
それで感じた部分はあるけれど
一部大事にしたい
共感する部分を持っているっていう人には
お手伝いをさせてもらったことはあるし
マラソンか何かのキプチョゲさん?
キプチョゲだったと思うんだけど
エチオピアカナン
エチオピアアフリカのランダーの人で
走る哲学者っていう
あだ名がついてる
あれは道なんだろうなっていう
ちょっとそういう競技やりながら
ためさやさんとかね
イチローみたいな
ちょっと道っぽい様子がかなりありますよね
そうか
時々
時々新城さんみたいな面白い人がいるな
エンジョイみたいなの入ってるな
エンジョイみたいなの入ってるのに
元々もらってるものが素晴らしいから
でもそれは見てて
考えすぎなくてもいいかっていう気持ちにもさせてくれて
そういうメッセンジャー
素晴らしいメッセンジャーですよね
あんな勝ちの勝負の世界がいなくて
あんな長い人バンドつけるんだみたいな
そこでバランス取れるメンタリティの人もいるし
自分の特性がわかる
無理してそういうとこにいようとすると
辛いというか合わない
そもそも出てこない
半分は自分の適性とか
何をして自分は幸せなのか
自分を知るってこと
そのためにもある程度環境に揉まれたり
何かにぶつかったりして
こっちはまだ伸びしろあるとか
身体の形を輪郭をぶつかりながら探ってる
10代20代めちゃくちゃありました
生き方と身体の使い方がリンクするような感じ
確かに
ここはどう身体が動くのか
身体を動かすことで
自分の命令がどう言ってて
自己表現の探求
でも違和感があるからこうしたら
人生でどんな選択でどんな行動で
どんな時間の使い方をしたら
これ睡眠足りないなとか
ここまで来るのは楽しいより疲れるだなとか
いろんなことを試してみて
ぶつかって
不要なぶつかりは減ってきたつもりがまたぶつかって
気づきになってより悩みが深まる
気づきが深まる
気づきになって年を重ねてくるのがいい
そういうサポートをされていますか
ほんのちょっと
また自己破壊の
痛み、怪我の方ではないですけど
パターンを一部壊して
また何かしたいと思っているところは
最近エネルギーが溜まってきたからなんだと思うけど
具体的には
サポート、本当にサポートの仕事だ
自覚が強くあるんですけど
自分が元々お芝居をやっていた中で
自分も何かを表現していきたい
体なのか
映像なのか
分からないけど
そういう欲求をまた思い出してきた
今日この頃
全部をガラッと変えるのは難しいんだけど
どこか新しい何かに向かっていくような
見えつつある
習慣
ある程度この習慣、この生活を続けられる
こういう習慣を持っていれば
生活自走サステナブルではある
プラスこれぐらい朝に時間が作れるか
夜早く寝れるかとか
いろんなことを大人なりに
探っていくと
この時間に発信のための映像を編集してみたり
音楽をせっかくバイオリン弾いてたり
BGMを自分でちょっとだけ
やってみたりとか
そういうことをやったら楽しいかなとか
表現ということを自分から発信するものとして
何かやっていけたらいいなという
欲求が
自分から気持ちがまたちょっと出てきている
というのを感じています
自分の表現欲求を見たら
自然に出てきますよね
自分が循環が始まると
これは僕の癖なんだと思うんだけど
いいのかどうなのか
ちょっと外から自分を見てるんですよね
それが自意識だし
自分を見ている意識だし
時々俯瞰としてそれをやれるときは
バランスがよく働くと思うけど
ちょっとエゴが強くて
こんな自分ってイケてるイケてないみたいな
そんな気持ちが入り込むと
余計だな邪魔だなって思うときもあるんだけど
なんか途切れたな
自分を見ている
自意識で
カフェインが足りないのか
表現するということと俯瞰してみるということは
関係しているのか
20代は事務所とかに入って
一生懸命オーディションを受けたりとかして
すごい擦り切れてしまった
擦り切れてしまったんだけど
今は表現したいし
人に届いてリアクションがあった方がもちろん楽しいし
嬉しいんだけれども
今度またその大きなサイクルに
巻き込まれすぎて自分の生活とか
平和調和がかき乱される可能性も
十分に感じていて
自分が大事にしたい表現をできることと
でもそれが道なのか
自己満足に偏りすぎず
人とのコミュニケーションを保ちつつ
バランスを探っている
でもそこはもうね
勇気を持つということも
表現とコミュニケーション
自分がチャレンジしなきゃいけないことのような気はしています
それって具体的に発信する時代に
入り口は多分
SNSとかの中で
リールとかショート動画みたいなものの中で
自分が日常生活の中で
大事にしたいなと思う価値観とか
出会う美しい瞬間っていっぱいあるんですよね
それを少しずつ
映像とかに残していって
編集していって
そういう価値観や
その場にいる人とか
それを直接話せる人としか
共有できていないから
会ってない人にも届いたら
シナジーが起こる可能性もあるかもしれないし
メディアに携わっているお二人からしたら
それの喜びがきっとあるんだと思うから
筋トレ的なそういう
メディアも割とガシガシやる
ああいう世界は僕らも経験して
それでやっぱり
それをずっとやるかといったら
そうすると今度エネルギーが落ちるわけですよね
社会的なエネルギーが
発信力とかマーケティングみたいなことを
本が売れるみたいな世界から離れると
ポジティブな中道体って言葉が
キーワードじゃないけど
すごくたまに思い出してた
嬉しい
体の中の話だけに終わらないっていうか
全般に言える
勇気を出すみたいなポジティブな
無理やり変な自分を
キャラクターになるわけでもないし
それで本当に上手くいくのかみたいな
もう反論というか
怖さがあるし
もっとエグくやらないと
アウターマッスル鍛えて見栄え良くしないと
注目されないみたいな
マインドもあるじゃないですか
強く言っちゃった
そこにアンチ持ってても
チャレンジしたい思いがある
ポジティブな中道体で
上手くやれることを
示したいというか
伝えたい感じがしてて
それと同じような思いを持ってるのかな
嬉しい
綺麗事じゃなくてね
着地させたいじゃないですか
自分がいいと思ってる世界とか
分かる人に分かればいいとか
ちょっと前まで思ってたけど
でも
こういう言葉や話って
サイエンスとまたちょっと違って
数値化することがとっても難しい領域なんだけど
確かにある
少なくとも関わってる人にとってはあると思っていて
関わってるが当事者とか
現場にいた人だけじゃなく
かといって
デフォルメしすぎたものでもなく
確かにそういう思いを
時代なのか地域なのか分からないけど
その空気感を多くの人が求めたり
新しい表現の可能性
共有しようとしたような
共有した大きな流れになったら素晴らしいけど
もしそうならなくても
それが何か風に乗って誰かに届いて
別のものがそこでまたあったら
美しいなって
本当にね
今日かなりいい話を聞けた
でも30人でやるっていう
壮大なプロジェクトだっておっしゃってたんだけど
壮大か分かんないんだけど
そこがすごくね
表面化してないだけで
見えないとこではメディア
共有してる思いとしては潜在している
今回ちょっとでも表に出ると
今までとまた違うもので
外に広がっていくエネルギーが生まれるような気がしてて
ちょっと喋ると抽象的になりやすいんだけど
でも確実にある
今日話したところが
本当は一番伝えたいことなのに
伝える場所が十分ない
切り捨てられてしまう
テレビで取り上げるみたいになったら
なかなかそこまで表現する状況って作りづらい
アンチで言ってるんじゃなくて
現実的にそうだから
テレビで表現されてるものが
みんなの本当のニーズになってるかって言うとそうでもない
だからそこで多分
新しい伝え方とか広まり方を
ほぼみんな持ってる
表現は全然違うし
いろいろ思いはあるんだけど
結局みんな同じこと言ってる
今日はすごいポーリー視点の
深い対話になったような
すごいそこが面白いなと
みんなつながれるんじゃないかな
今本当にこうやって話していて
こういうことが叶ったらいいのになって
それぞれ生きてる生活だったりポジションだったり
そこの自分からの
違いはきっとあるかもしれないけど
共通するものを
共有できた瞬間の喜びみたいなのが
今この場所と時間にあって
それがすごく
生きててよかった
個別にやってて似たような感じがある
またそこがつながりがきてくる
もうちょっと広がるっていうのは
日本とか世界でも
あちこちで起きてるかもしれないなとか
そういう想像が働くわけです
自分がやってるんだったら似た人がいるから
それがだんだんあちこちで発火してくると
もしかしたら全体にも変化が
夢としてはすごくあって
ママコリンが頭の中で
内在するものが見える形になるプロセス
それを自分が担ってるっていう
感じなのかなって
僕も仕事上はレッスンとかで
自分とつながれたなって思って
これで自分は大丈夫
これでよしっていう感覚になって
帰ってもらえるようにしたいと思ってるけど
その時の自分の役割と
役割であるし
マコリンが自分はこんな役割を持って
そしてそれが誇らしくて
それを行うことが自分の喜びでもあって
それぞれに持てている人は
幸せだなと思ってるんですけど
とりあえず個人的には幸せだったり
自分のサイクルの中で循環はあるんだけど
多分そこに収まらないようなものは
みんなが共有してるから
それって普通に願いじゃん
みんなが共有してる願いじゃん
そんなにずれないっていうか
誰も反対してないんだったら
それがちゃんと形になればいい
そこにいろいろバイアスが
商業的にやろうとするとか
一旦そっちに入っちゃうと
一旦外して
成り立つものとして一回出せば
そこからちゃんと広まる手段とかを
見つかったりして
最初にニーズがあると
そもそもやれないよねって話になっちゃって
表面化しないじゃないですか
生産性を求めすぎると
なかなか経済合理性の分岐点は
その駅分岐点用意したら
もう見ないみたいになっちゃったり
でも分かんないからね
そこはすごい大事だと思ってて
ちゃんとすることで成り立たないと
ポッと出ただけで終わっちゃうから
一旦外さないと
そもそも浮上しないから
ないのと一緒じゃないですか
そういうのをやったら
自分が思っている以上変化が起こるんじゃないかな
っていう期待があります
めちゃくちゃ楽しみ
いろいろとご縁があって
なかなか繋がれなかったんで
ニーはしてたんですよ
会話で色々引き取り込んだりも
一時期してたり
そのタイミングで
ご描きさせていただいたとか
独断と偏見で30人選ばせていただいた
なんか言えてもらえるなんて
ありがとうございます
最初はあき子さんの紹介で
ずっとやってたんだけど
あき子さんが知ってる
人との繋がりと願い
それがそろそろ尽きてじゃないけど
彼女が40年生きてきて
すごく財産
人的なね
人の繋がりという財産を持っている
次の世代に引き継ぎたいという
ような願いだった
引き受けして
今までずっとやってきて
あき子ワールドは大体
僕らが出会ったワールドもあるから
30人が
全てじゃないんだけど
もっと素敵な人がいっぱいいると思うので
完成形じゃないんだけど
一旦出さないとね
こういう体のこととか
色んな分野の人がいるから
そこからアプローチしたら面白いかな
嬉しい
2人が今日来てくれるときに
結構
なんだろうな
派手じゃないけど大丈夫かな
自分の発信力とか
逆に生活者代表かな
と思いながら
目立つからという視点はほぼなくて
中には藤田勲さんみたいな人が入るんだけど
別に視点が違う
2人で話して
この人いいよねって感じで決めてる
なんとも言えない
嬉しいです
ありがとうございます
今日の集合
それなりに長いので
全部はもちろん使えないんですけど
こんなんなるんだっていうのを
来年になると思って
ゆっくり体を大事に
やるって大変か
意外と楽しいですね
フォーマットというか
スタイルでちょっとだけ参加いただいて
あの頃は結構混沌としてたんだけど
あそこから対話した内容を
活字にして読み物にするスタイルが見えてきて
それを今回当てはめて
やってるんですね
普通のインタビューよりちょっと長めなんだけど
でも
読める中の
みんなこんな話していいんですかとか
全然大丈夫で
きっちりしたインタビューよりも
自分の声が出やすいんじゃないかって思って
こっちが質問用意して入って答えるやつよりは
想定外の声が
対話だと出やすいじゃないですか
総発でそれを活かした方が
結果的にその人らしさというか
コアっぽいものが見えるかなって思って
それ30人集めたら一応
はやまもなるか
集合意識的なもの
折り重なりとかそういうのが見えてね
なんか一つのモデルっていうか
たぶんはやまモデルと呼ばれるものがあるとしたら
他の地域の中でも
ちょっとまたカラーは違うけど
全然違うのがあると思う
あるけど定流ではやっぱり人なんで
願いとか思いは多分重なるだろうとか
それがなんか持続可能であれだけでも
一回でもプロトタイプ作んないと
何を思ってるかも分かってもらえないから
100周年なんで
アッカーさんが100周年100周年って
2年くらい前からずっと言って
きっかけなんですけどね
そのご縁で
いろいろ機会を作ってプラチンをしたいし
この人全く動かないの
この人一切動かないの
生きてるから動いてるの
しないから
ちょっとこれ話長くなっちゃうからあれなんだけど
身体感覚と