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2025-12-05 33:36

【思考】オンラインの活動の仕方を見直すにあたり自分自身を思考してる回

#思考整理
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サマリー

このエピソードでは、オンライン活動における自己反省と家族との時間を大切にすることが焦点に置かれています。ジェンダー格差や社会的な立場についても考察し、男女の役割や能力の違いに関する見解を述べています。また、オンライン活動の方法や社会の役割の再考が行われており、特に男女に関わる能力や役割の見直し、教育の重要性が強調されています。新しい社会づくりの必要性が語られ、オンライン活動を見直す中で、自身の考えを整理し、家族との重きを置くことの重要性を再認識しつつ、社会との繋がりを維持する意義について考えています。

オンライン活動の見直し
はい、どうもこんにちは、たからんです。
今日は、しばらく何回か、思考を自分の頭の中の思考を取りながら、喋りながら、考えながら、していきたいと思っています。
ちょっと実は、1回収録じゃなくて、音声を録った悩みと言いますか、トラブルと言いますか、悩みがありまして
ちょっとそれは、ダラダラと喋ったのが30分くらいあったんですけども、ちょっとそれはね、あまりにまとまってないというか、まとまってなくてもいいんだけど
ちょっと外に出さなくていいかなと思ったので、そこは外に出さなかったんですが
ちょっとその音声をですね、そのままレコーダーで録ったのをGoogleドキュメントに文字起こししてもらって、スマホに、スマホにというかGoogleに
そして、それをもとに今、ジェミに、AIの方にちょっと壁打ちっていうのかな、ちょっと自分での壁打ちに、ちょっとジェミに使おうかなと思ってやってるんですけども
そこで、自分の中では今後のオンライン活動っていうのを、ちょっとイベントとか企画とか、誰かと一緒に何かやるとかっていうのをちょっと控えて、ちょっと抑えて
で、ちょっと自分の家族との時間をまず大切にするっていうのと、あと自分の思考、思考ってさっきから言ってますけど、頭の考え方の整理をちょっとしたいなということにしたいなというようなことを今考えてるんですけど
ちょっとそれをね、なんか自分の頭で喋って考えると中々まとまらなくて、ただそのまとまらないことをこうやって今喋ってるんですけど
喋ったのをちょっとAIの力借りると、こういうこと考えてるんじゃないけど、予約してくれるんですよね。で、それをちょっと元にちょっとずつ壁打ちしながら、ちょっと自分が何をしたいのかなっていうのを考えたいかなとちょっと思ってます。
で、オンラインそんなにSNSとかそういうのをやめるってわけじゃなくて、対話とか議論とかそういうのは元々したいので、したいんだけどっていう話をね、ちょっと思ってたんですけども
ちょっとAIからの質問というか、どんなトピックで話がしたいのかっていうことを聞かれて、何だろうな、ちょっといろいろと時に渡るんだけどと思いながら、ちょっとそれをちょっと声出して撮ってみようかなと思って今撮ってます。
で、ちょっと撮りながらね、喋りながら、いつも喋ってることと同じようなことを多分言うんですけど、それがね、いつも収束していかないんですよね、自分の中でね、考えが。
なんだけど、これをちょっと機にですね、一人語りするだけじゃなくて、それをちょっとAIに分析してもらって、私って何考えてるんだろうって自分で把握したいなと思って、せっかくなんでこの音声撮って配信できるようになるようにしていこうかなと思ったりしてます。
で、多分いろいろ、小出しにというか、あれだったりこれだったりって話をちょんちょんとしていくんで、一つ一つはまとまらないと思うんですけども、ちょっとそんな、自分の記録とね、そのAIに出すソースとしてちょっと撮っていきたいと思っています。
ジェンダー格差の考察
まずなんだろうな、誰とどんな議論をしたいのって言われたんですけどね、ちょっとずっと考えてるんですよね、今ね。
自分がなんかいろんな人とかいろんなコミュニティとかで関わろうとしてるのって、なんか目的があるはずなんだよなっていうのはちょっとあって。
なんだろうなっていうのはちょっと、これをやってる時はこうしたい、これをやってる時はこうしたいっていうのをちょっとしゃべっていけばもしかしたらまとまっていくのかなと思いながらですけども。
ことの発端はというか、SNSを始めていろいろ見始めたことの発端はあれなんですよね。
ジェンダー格差というか、例えばあれですね、ニュースとか見ていて、公園の公衆トイレとかに一人で、
望まない妊娠になったのかちょっとわかんないけど、そういう妊娠しちゃった女性が誰にも相談できずに一人で梅を落としちゃって、そのまま息というかしてしまったとか、
生まれた新しい命は亡くなってしまったとかっていう時に、そういうので母親逮捕みたいな話を見たときに、
なんで母親この人が悪いものとして逮捕されなきゃいけないんだろうっていうのをすごく思ったんですよね。
何かおかしくないかっていうふうに思って、父親どうしたっていうふうに思って、絶対に父親がいるだろうっていう、
わかってるのかわかってないのかわかんないですけど、そいつも探し出して逮捕しろよっていうふうに思うんですよね。
で、なんだろうな。なんだこれはってすごく思うんですよね。
なんですかねこれ。私は男なんですけど、納得がいかないんですよ。
で、これなんだっていうのがやっぱり思うのとか、
女性の社会的な立場の弱さというか差別というかっていうのに結構怒りがあるんですよね。
たまに言われるんですけど、高野は憑依してるよねみたいな。
女性側のことに対してなんでそんなふうに思うのかって、
ケウだねって言われたことありますね。ケウって言葉も聞いたことないけど、超珍しいってことですよね。
そうかと思いながら、まあでも確かにそこまで言ってる男性の人ってそんなに聞かないっちゃ聞かないんですよね。
いると思いますけどね。いると思うしいるんだけど、この辺の人たちだったらそういうふうに思うかもしれないなと思ったりもするんだけど、
そんなところの男女の社会的な扱いの差っていうのが見えたときにとか見えてきたこととか今もそうなんですけど、
そういうのに異常に反応しますね。一つはね。それだけじゃないんですけど。
なんかいつも自分は子供の時から小学校とかから勉強とか男女は平等というか男女は同じように学ぶ機会も与えられて、
これからは同じような男だから何だよ女だから何だよって言うんじゃないんだよって言われて、
家庭画とかも男子もやるようになったみたいな。ちょうどその頃の時代なんですよね。教育を受けてきたというか。
男女雇用機会均等法っていうのが多分施行されたのが、施行されたか決まったかの辺りが80年代だったのかなと思ってて。
自分が小学校上がるくらいの時にそういうのが出てきたんだと思うんですよね。
多分それもあって世の中的にも男女差別じゃないけどもそういうのに敏感になるような発言もあったんじゃないかなという気がしてます。
子供心の中にこれからは男になってんじゃないんだみたいなちょっと思った記憶があるんですよね。
それがそういうのもあって、もちろん男と女って違うんでいいんですけど、性別としての違いっていうのは確実にあって。
性別からの違いからくる身体的な特徴とかの違いとか性質とか。
男女の役割と能力の違い
脳科学的にも男性の女性のとよく言うけど、実際にホルモンの違いとかっていうので。
ホルモンが脳に関係してるか分かんないけど脳の感じ方っていうのは違うっていうのは実際にもあるらしくて。
そういう違いっていうのは男だから女だからこっちってカッチリ分かれるわけじゃなくてね。
グラデーションはあると思うんですけど、そういう傾向があるというのは生物学的にオスかメスかということで。
X線食体よりかY線食体よりかということで違いは当然あると。
そこはいいんだけど、それによってイコール社会的な立場というか社会的な役割というか。
イコールで分けられるっていうのはどうにも納得がいかないんですよね。
特に分かりやすく言えば仕事の過程って分かれてるっていうのがよく言いますけど。
男が狩りで女が家庭だみたいなことも言うけど、それは狩りに出なきゃいけなかった時代の話で。
狩りという仕事が必要なんであれば体力的、腕力的に力のあるものが出てった方が、
そういう役割としてそういう能力がある人が前に立っていく、その役割を担っていくというのが効率がいい。
効率がいい、成果も上げやすいということで、そういう能力がある人がその役割を担うという意味なんだと思うんですよね。
それがいろいろ考えると、性別というカテゴリーの男性という要素、男性というカテゴリーと属性とかカテゴリーとか、
どういう項目のことを言ってるんですかというと、それが何であるかという要素と言ったらいいかな。
今回はその時は性別というところの男性というところを当てはめるとうまくいくということであるからそうしたというのがある。
人間技術とかが発展していって、知恵とかもついていってなった時に、別に生きてる象とか鹿とかを仕留めてギリギリの線で食えるかどうかみたいな生き方をしなくても良くなっていくわけですよね。
濃厚の手段を得て自分の敷地内で食べ物を作れるようになったりとか、機械を作って大きな力を軽い力で出せるようになったりとか、電気の力をエネルギーを持ってでっかい機械を動かしたりとか、
ネットワークができて遠くの人と瞬時に意思疎通ができるようになっているとか、いろんな技術という魔法を使ってどんどん生物として不可能なことを可能にしてきているんですよね。
そうした時に、生物学的に男である女であるということ自体で、人間社会というのを分けなきゃいけないという制約はどんどんなくなってきている。
デジタル化して情報化してネットワーク化した現代というのは、かなり男性が男性であるがための能力と女性が女性であるがための能力というところが際立って必要かどうかというのがだいぶ薄れてきていると思うんですよね。
だからこそ、一人一人、今までは性別というカクテゴリーで男が女かという要素で、そこに顕著な能力の違いというのがあるから、それぞれの特徴を生かしている社会的な役割を当てようということでやってきたんだけど、
社会的役割の再考
同じように、今社会的な役割として必要な能力というのは何かというふうになって、そこに必要な属性なのか何なのか、どういう人が必要なのという考え方をすると、それは生物で男と女を分けることではないはずなんですよ。
そこで分けないで、こういう役割をする人にはこういう能力が長けている人はいいよねという、言ってしまえば個人個人の能力なのかもしれないし、あとは何とかというカテゴリーの何々属性の人はこういう特徴が強くていいよねという話になるかもしれない。
だけど少なくとも男女だけで分けるというのはおかしいというのが一つあって、だけど狩りをしてくる頃からの名残で、人間はもう一人じゃいけないので、社会という生き物、社会という形を作って生きていくということを選んだ種族だと思うので、
その人間社会を結構オスメスの特徴に合わせるように作っちゃってるんですよね、ずっとね。
なのでそれを必要になくなってきたのであれば徐々に崩して違う形にチェンジしていかなきゃいけないとはずなんだけど、それをしてこなかった。
特にインターネットができた頃っていうのかな、その辺からもうデジタルが当たり前の世界になってきてるはずなんですけど、そこにシフトチェンジしなかったっていうのは結構でかいと思ってて。
今はもう30年前ですね。Windows 95っていうのが95年だから30年前だもんね、2025年。そこのところぐらいから、もっとこの社会のこういうところにはどういう人がいける人が必要か、そういう人がいけるようにする。
そこで活躍できるようにするっていうのはどういう社会づくりと教育としての意識づくりというのが必要かっていうのが考えられてなくて実現できてないっていうふうに思うんですよね。
そこをやらなきゃいけないはずなんだけど、女性が働きやすくするっていうのが、女性が担っていた子供を育てるっていうところを保育園とかどっかに預けて、ベビシッターとかそういうのに預けて、男と同じように働けるようにするっていう、そういうような設計をまた続けるでしょ。
根本的に違うんだと思うんですよ。根本的におかしい。別におかしくないかもしれない。手段として一つの手なんだと思うんだけど、別にいいんだけど、でも多分目指しているのは男と女を分けた社会と同じような基盤の中に乗せようとしているのかなとしか私には見えていなくて。
根本こういうふうになるべきだよねっていうのがないじゃんっていうふうに思うわけですよ。ビジョンというか。だから何か一つ一つが何かおかしいなと思っているんだよな。
じゃあどこにどういう形に向けばいいのっていうのを説明がしたいんだけども、やっぱりそこはちょっとうまく言語ができていないというかまとまっていない感じがする。
そのためにやっぱり社会の働き方も変えなきゃいけないし、こういう社会の形で動ける。そういうところで自分なりの人の能力を発揮できるような考え方ができるようにならないといけないということの教育、保育教育の中での子どもをこれから先の世界に向けてどういうふうに考えていくようにしよう。
という意識づけ。またはそういうふうにならない過去のやり方っていうのは変えていかなきゃいけないとかそういうのがあると思うんだけど。だから保育とか教育とかすごく重要だと思っているわけなんですけど。
男か女かで結構にというカテゴリーの要素。いろんな無限にあるいろんな人を形作るいろんな見方がある視点がある中で、男か女かってことだけでの縛りになっている社会が結構あると思っていて。
そこを一回崩すというか、慣らさないとなんじゃないのっていうふうに思っているんですよね。だから今慣らそうとしているわけですよ私は多分。で、もう男の世界、女の世界みたいなのが結構できちゃってるから。
それは男の世界でも女の世界でもあるんじゃなくて、例えば社会、ビジネスの社会とか教育の世界とか保育の世界、子育ての世界とかいろいろある中で、そこはこういう世界だよねっていうふらっと考える。そこに必要な能力はこうだよね。
そこで、男だから女だから、特に男か女かってのは妊娠・出産とかその能力的な生物学的な能力の違いですよね。そこがあるかないかとかっていうのが大きくあって、そういうのを考慮したり考慮しなかったり考慮しなくていいとか考慮するようになってきているというような世界になっているわけですよ。
そういうの。仕事の場とか社会の場とか子育ての場とか。そこを男女特化型じゃなくてできるようにするっていうのはどういうことなのかっていうことを考えていきたい。
男女の違いってどんなに違うのっていうことを知ることのためにも、そのためにもなのかな。ジェンダーバイアスのことは気になるし、性教育のことはね、性教育のこともそうなんですけど、男女の違いっていうのをやっぱり知ることっていう、体の事情とかっていうのを知るっていうことが大切かなって思うのと、
ただ性教育とはもう一個違いがあって、包括的性教育っていうのは、自分と他人を対象にするっていう意識作りっていうのが根本にあるんですよね。
そこを、性の話っていうのは、本当その中の一部で、性教育の中の。基本自分というアイデンティティというか、自分を対象にするというか、相手をどう思うか相手を対象にする。自分と相手の違いを知るとか、そういうところにつながるので、そこを男女を区別する前にそこだよねっていうのがまずあって、
そこをちゃんと把握して、違いを生かすっていう考え方っていうのができるようになるのも日本人としては必要かなと思うんですよね。
ただ、日本人のいい同調圧力と言いますけど、同調してやっていこうっていうのは結構これ、割と重要な能力だと、民族的な能力だと思っていて、ただ周りと合わせるのはおかしいんだっていうのはちょっと違うと思うんですけど、周りと合わせる意識があるから、避難所とかでも暴動に、事件は起こるんでしょうけども、でも秩序を持って行動できるっていうのは結構日本人の特徴だと言われますけど、
それでもあったりすると思うので、そこをうまく生かしながらの自分と他人をも生かし合えるっていう考え方っていうのが必要だと思っていて、そこの部分が包括積極性教育の話でもあるし、オモンパカルっていう考え方でもあるしなんですよね。
生物にとらわれず、何かにとらわれず、いろんな人たちがそれぞれの能力、持っている力っていうのをそれぞれ出し合えば発揮し合えば、物事が進められる世界に今変わってきたので、そういう考え方のもとに社会づくりができる。
そういう生き方ができる人間社会に向かいたいと思っているのがある。
だから、教育が大事だと思うから教育のコミュニティに入ってもするし、いろんな人がいる中で一緒にやっていくっていう、いろんな属性の違う人たちの中で物事を進められるっていうことが感じられるコミュニティに所属したりっていうこともあるし、
女性が子育てに悩んでいるということに寄り添えたくなるし、パパたちが子育てをしていくっていうようなことを推進したくもなる。
それは平等にしたいというわけでもなく、要は一回フラットにして慣らさないと何が必要なのか、そこに今どのくらい偏った社会になっているのか分からないから、慣らさなきゃでしょって思っているのが一つなんですよね。
そんな感じなのかな。そういうことを話せる人が話したいし、今言ったみたいな教育をただ良くすればいいとか、先生の対応を良くすればいいとかそういう話じゃなくて、それはマイルストームの一つなだけであって、
そういうところを学校教育を良くするとか、保育環境を良くするっていうのは保育園を増やしてお母さんを預けられるようにして働けるようにしようという意味ではなくて、もっと保育の考え方っていう中に人間どういうふうになっていけばいいかっていう根本的なエッセンスが含まれていると思っていて、
そこを重要視して、保育という専門性っていうのをもっと認識して、保育士さんの待遇をもっと良くしてっていうことが必要なんじゃないかと思ったりしますね。
オンライン活動の課題
それが保育園である必要も別になくて、私が保育のことをやりたいのは、お母さんが預けられるようにしようという趣旨は全くなくて、
子どもという人というものを発達とか育ちとかっていうのがこれからの社会に必要になっていくことっていうのを真面目に考えたら保育が結構大事っていう、保育の考え方が大事って、保育の考え方を子育ての現場でも落とされるといいなと思うし、教育の現場でも落とされるといいなと思うしっていうところがあったりもしますよね。
そういうことを考えていきたいんだけど、っていうことを考えたくていろんなところに手を出していると、何もできないというか、何もできない。
いちこちに何もできないので、じゃあ自分はどうしていくかっていうところを考えたい。そんな感じですね。
一応考え事としては、一回これをジェミニさんに渡してみようということで、これは一応残しますけども、長くなってしまってますけども、そういうことをいろいろ考えながらやっていきたいなと思いつつ、
ちょっとただ、ここにきて簡単に理由は話そうかなと思うんですけど、要はまた家庭のほうであんまり良くない感じになっちゃいまして、家のことがちょっと見られてないとかですね、
他人と喋っているのがすごく嫌だというふうに妻から言われまして、ずっとスマホを持ってね、情報収集とかしたりして、スタイフで音聞いたりしているのでイヤホンをしてとか、そんな様子を見てて、
家にいるのに他人とばっかりみたいなところがやっぱり嫌だったらしくて、嫌なんだと言われちゃったという話があって、実際子どもたちも今は高1、中1になってますけども、新しい学校の生活になったのでガラッと生活が変わって、
今年結構子どもとしても親としても生活リズムが変わってすごい大変だったな、ちょっとその負荷が今なって結構爆発してきたなというのがありますし、2年3年になっていくとまた色々すべてが忙しくなってくるので、
できることはもうやっぱりなかなかできないよなというふうに思ってはいたので、ちょっと何か外向きに色々やるっていうこととかじゃなくて、ちょっと自分の今みたいな考えを整理して家族の方に向くウェイトをちょっと高めるというページに入るべきなのかなというのを今考えているところです。
ただ外の人たちとオンラインの人たちと関わらないとなったら私の世界が一気に閉じるので、それは自分にとっての苦痛なんですよね。
その話が妻から言われたときに正直悪かったなと思いつつも、そこ閉じられたら俺は終わるって思ったんですよね。
たぶん、終わりますね。たぶん鬱になりますね。それ聞いただけでちょっと鬱になりかけた。
やっぱりこういうことを考えながら、話せる人ってそんなに人の日常生活の中にはあんまりいなくて、話せば話せば話せる人いるかもしれないけど、そんな話をする機会など訪れるわけはなくて、仕事と家事、育児とかをやっている中では。
だけどやっぱりこう、世の中にはみんないろんなことを考えている人がたくさんいて、一生懸命それぞれのことをやっている人がいて、社会的にも何とかしたいという課題意識を持ってやっている人もたくさんいるんですよね。
そういう人たちのことを知ったりとか、一緒に話したりとかっていうことで、互いの意識が分かりやすくなってきて、
やっぱりそこで一人一人が少しずつ何か行動ができるっていうのかな、考えが進むっていうのかな。
まあ話するだけでいいと思うんですよ、議論が進むっていうか。
そういうのがやっぱりできるって結構この、オンラインというかSNSで話せる人が多いんですよね。
やっぱり人と人とで社会を作っていくので、そういうことをしたいよね。
やっぱりちょっと課題意識を持ってこういうふうにやりたいよねって思っていることがあれば、
それを同じようにやりたいよねって思っている人と協力して何かやりたいじゃないですか。
そういうことをやれれば気持ちがいい、単純に言えば気持ちがいいんですよ。
こんな国で社会のどんなものなんだよ、大変で、国は何もやっていかないとかさ、人とか社会とかの制限ばっかりして。
ぐずぐずぐずぐずいって何十年も過ごして死んでいくなんて嫌じゃないですか。
嫌なんで、だから本当に閉じたら多分そうなってふてくされて嫌になるんですよね。
子供がいなければ、多分子供とか家族がいなければ引きこもるでしょうね。
だからそんな生き方はしたくないから、そうするとその繋がりは立つことはしないんですけども。
ちょっとバランスをもう一回考えるということで、やり方を考えていこうかなと思っています。
言いながら何を落とすかわからないですけども。
というようなことを考えつつやっていこうかなと思っています。
最近そんなことがあって悩んでたというか落ち込んでたというか状態だったので、
ここでジェミニさんともいろいろと話し合いながらやっていきたいかなと思っています。
ということで今日も最後まで長く長々としたのを聞いていただいてありがとうございました。
私の知らない新しい世界を教えてくれるあなたの存在に感謝します。
皆さんにも素敵な気づきのある毎日となりますように。
ダカランでした。それではまた会いましょう。
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