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どうもこんにちは、たからんです。
えー、この前ですね、ご近所さんに、あのー、じゃがいもを頂きまして、
ま、そのー、家族でね、どっか掘りだって言ってましたね。掘ったらしいんですよ、自分でね。
で、いっぱい多分取れて、それをお皿分け頂いたんですけども、
ま、そのじゃがいもがちょっとうまくてですね、ただ、あのレンジでチンしただけ?なんですけど、もうこう、ホクホクというか、
バターつけてないのにじゃがバターみたいな感じで、これはやっぱり取り立てていいね、みたいな感じになって、
でー、ちょっとうちでも育てようよって私言ったんですよ。
で、あのー、そしたらね、ちょっと、妻がね、じゃ、芋となると土地が必要だよ、みたいな感じになって、
うちのあのー、ちょっとね、ピーマンとか植えてるところ?あそこで取り付けできないかね?って言ったんだけど、
できたところで1年、1年育てて、じゃがいも3個とかできてもしょうがなくない?みたいな話になって、
あ、そっか、って思ったんですよね。あのー、じゃがいもって、そうか、根っこだから、紺菜ってそんなにいっぱいできないんだなと。
家庭菜園でですね、ピーマンとかオクラとか、こう、青じそとかね、そういうのをよく育てるんですけど、夏は。
青じそとか葉っぱがバンバン出てきて、食べきれないほどできたりとか、ピーマンもできたらちょっと取るとまた花が咲いてね、またピーマンができてみたいな。
結構、夏1シーズンに何個も取れてて、そんなイメージでいたんだけど、芋とかね、たぶん人参とかもそうかもしれないけど、
根菜類ってどんどん生えてくるわけじゃないですもんね。って思ったら、なんか芋ってすごい高級な食材なんじゃないかって思うようになりました。
めちゃくちゃね、確かに北海道とか土地がダーってないといっぱいでは取れないんだから、
自分の家でそんなに食べられたりしないものなんだ、みたいな思ったら、なんかこう、芋の重要性を感じる、ちょっと貴重だなと思って大事に食べようと思いました。
はい、そんな雑談から入るんですけども、今日の本題はですね、子育ての話です。
子育てのゴールって何だろうっていうことをですね、ちょっと自分が参加しているパパのコミュニティみたいなとこがありまして、
そこでのね、対話会みたいなのがあって、そんな話題があったので、そこで自分が感じた、言ったことっていうのをちょっとシェアしていこうかなと思っています。
で、ちょっと最近話題によって色が変わるんですけども、子育てだからはいつものように黄色になってますので、黄色子育てパパだからですね、の話題でいきたいと思います。
子育てのね、ゴールっていう言い方が、まあいいか悪いかというか、しっくりくるかまたあるんですけども、
私その時言ったのが、今子供がね、12と小5になるんですけども、私もうちょっと前は、子育てのゴールというか親としての役目というか、
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子供が自立して生活していけるような、自立というのはもちろん自分で働いて稼げるということもそうだし、自分の考えをね、自分でちゃんと自分で決めて進むというようなことができるということをサポートしていくというか、
導いていくという風にしていくということが親との役目かなみたいな風に思ってて、子育てのゴールって子供が自立していってくれたらそれが一つの区切りかなみたいな、という風に思ってたところがあったんですね。
あまりゴールというのがあると思ってなくても、なんとなくでもそういう方向かなって、本当に昨日のその対話会をするまでちょっと思ってたんですけども、
なんかこの対話のテーマでね、そういう風に言われて改めて考えたときに、ゴールってなんだろうというか、子供を自立させるっていうのも確かにそうなんですけども、なんかちょっと違和感が感じたんですよね。
何かっていうと、子供が大きくなってきたのもあってですね、もう自立はしてるんですよね。
で、子供にとってのできることとか裁量というか決定権というかですね、どうしても大人と一緒に、親と一緒に住んでるとか大人と一緒の社会の中で生きてると、子供だけで回帰が決められるとかね、
ということはもう限りはあってもする中で、親とか大人の言うこととか力とかが強いことはあるんですけれども、もうなんとか自分で考えて自分で決めてるということはもう既にやってるよなと思って。
で、そう思ったときに、なんか親が子育てって言って子供を育てるってこうするべきこうすることだみたいなのを考えようとしたときに、なんか無理があるなってちょっと思いました。
親がやっぱりなんかできるとかしなきゃいけないとかってあんまないんじゃないかなっていう感じっていうんですかね。
生まれたばっかりのね、ときに赤ちゃんに対してね、ほっとくわけにはいかないんで、ちょっとその世話して生きるためのいろんなことをしていくっていうのは当然やるんですけれども。
やっぱりなんかこう、よく親の責任とか子供の態度は親の責任とか、子供の人生は親の責任でやっていくとかっていう話、言い回しがよくあるんだけども。
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なんかそれも、子供をやっぱり自立させて、一人の一人前の、一人前って言い方なのかわからないけど、何が一人前かわからないけど、育てて成長するようにしていくっていうのって、親の仕事というよりは社会の仕事だと思ってるんですね。
親も一番近くでいろいろやるんだけども、やっぱり社会が、地域がっていうかな、大人誰でも、ある意味子供でも、子供同士というか、ちょっと年長の子供が下の子見るとかいろいろあると思うんで。
そういう中で、子供たちっていうのが、だんだんいろんな経験をしていく、いろんな環境に触れていく、自分で考えるようなチャンスを何回も得て考えていく、自立していくっていうのって、その環境を用意するっていうのは、親の仕事でもあるし、社会の仕事なんじゃないのって思うところがあります。
なので、自分の中で子育て、ゴール、子育てに対して親としてこうやることっていうのが、あんまり意識しすぎない方がいいのかなっていうふうに最近ちょっと思ってきました。
もう子供も一対一、自分という人間と子供、子供というか、なんとか、なんとかっていうね、その子の一人があってっていう感覚でいると、自分は子供がいる生活を楽しむだけっていうのかな。
もちろん子供がいなければ子供がいない人生というのがあるわけで、子供がいるから子供がいる人生になっているというだけで、いなかったら子供がいることでいろんな経験というのは得られないし、子供がいれば子供がいない状態でできたことというのはもちろんないし、というのは単純に違う道に起きたというだけであって。
だから子供がいるんだから子育てしているというよりは子供と一緒に生きていくというか、子供一生かどうかもどっちでも良くて、大きくなってね、どうか一人立ちしていくという中でも、でもそれでも自分の子供がどこかにいるみたいなことはずっと続いていくんで、子供がいる人生というのを楽しむっていうことかなと思います。楽しむっていうのかな。
最近部活とかに行くんですよ。部活が始まったりして毎週のように大会に行ったりとか、練習院に送ったり、グループ会したりとかっていうのをやると、自分は運動部じゃなかったんで、こういう感じなんだというのが分かるわけですよ。
部活ってこんな感じなんだ、運動してるってこういう感じなんだ、てかこんなにスポーツする人間いっぱい休みの日にやってるんだみたいなのが結構知らない世界が見えてきたりして、そうすると自分の人生になかったものがね、自分の趣味とかそういう中ではたぶんたどり着かなかったことに触れてるんですよね。
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そういうところがわりと面白いと思ってて、子供がいるから嫌わなくやることになったときに初めて知ることができるっていう機会っていうのは、これはやっぱりたまたま得られた運命的なものであって。
そういうのがあるから、いろいろ大変なんですけど、大変は大変なんですけど、それを楽しむ、いいね、そういうのがあるんだねっていう感じで知っていくっていうところが自分の子育て。
子育て。子育てって言葉がなんか怪しくなってきたんだよな。子育てってなんだ。子供がいる人生なんですよね。自分の子供と共にある人生っていうふうに感じるように最近すごいなりました。
子育てのゴール。子育て。子育て。子育て。子育て。あ、そう、だからごめんなさい。子育てって言葉が微妙になってきたっていう話にちょっと最終的には落ち着きます。落ち着いてないんですけど。
なので、子育て配信とか、今日は子育ての話で黄色ですとか言いましたけど、子育ての話じゃないな。たぶん子供がいる人生、家族、親子の話ですとかそんな感じですね。そんな感じでいこうかな。
そんな感じでいこうと思います。あえて子育てっていう言葉をあまり使わない。使ってもいいんだけど。そういう感じで子供といる人生っていうのを捉えていってみようかなっていうのをこれからやっていこうかな。
なんかちょっと今日は考えながらのお話になっちゃいましたけども。自分が子供と一緒に子育てしながらどういうふうにやっていきたいな、子供がどういうふうになってほしいなって思うのもあればそれでいいと思うので。
皆さんいろんな子育て、子育て言っちゃってますけど、子供がいるといろんなことがあると思いますけど、それも一つの自分の人生だと思うといいんじゃないかなと思ったりしてます。
あまりまとまらないですか。今日はこんなところで終わりにしたいと思います。
今日も最後まで聞いていただきありがとうございました。
私の知らない新しい世界を教えてくれるあなたの存在に感謝します。皆さんにも素敵な記憶のある毎日となりますように。
ダカランでした。それではまた会いましょう。