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はい、どうもこんにちは、たからんです。
ちょっともう日が回ったような時間に収録してるんですけども、
今日ちょっと1日、結構考えてたことがあって、
ちょっと頭を整理しながら話したいかなと思うことがあって収録ボタンを押してます。
何の話かっていうと、性教育の話ですね。
インスタのリールの方でですね、包括的な性教育のことを発信されている
あややさんって方のリールが流れてきてみたんですけれども、
その内容がですね、あややさんがプライベートパーツ、プライベートゾーンのことの話を説明した回があったらしくて、
それに対するいわゆるアンチコメントみたいなものが来てたということに対してですね、
そのあややさんの娘さんが、小学校6年生っぽいんですけれども、
娘さんがそれに対してこういう意味なんですよっていうことを丁寧に解説をしてくれているという、そういうものでした。
これ見て、まず一つは、本当にその娘さんがですね、しっかり理解されていて素晴らしいなと思ったということと、
それに対してですね、それに対してというか、元の投稿に対してのアンチコメントという言い方もちょっと、
アンチコメントと言ってしまいますけど、そのコメントがね、
プライベートパーツ、プライベートゾーンって、体の大事なところ、口とか胸とか、脊の部分とか、
そういうところっていうのは人に見せちゃいけないし、人に触らせてもいけないしということというふうに、
簡単に言うとそういう意味になるんですけれども、私もちょっとその意味で言ったことがあると思うんですけれども、
それを聞くとですね、コメントを通して、そんなことを言ったら子供ができなくなるじゃないかというような意見が来ていたらしいですね。
文章の中でも画面に出ていましたけれども、人間はそこを触ったりしてきたから人口が増えたんだろうとかですね、
子供が作れないじゃないかとか、セックスするときに見る人に触るじゃないかとか、
あとはそのことを日本人が全員守ると少子高齢化が明かしますねとかですね、
まあ何というか、要は揚げ足取りにしっかりというのは私の方からも見えないコメントをしているのがあるんですよね。
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で、このことに対して娘さんもですね、丁寧に解説というか反論といいますか、
プライベートパーツ、請求を含めたそういうところを全く見せない、全く触らないということだと捉えているんじゃないかと、
勘違いしているんじゃないかということ。
実際そういうふうに見えますよね、コメントからは。
そうではなくてその前提として同意ということがあって、
触らせるのも見せるのもしちゃいけないというよりはするかしないかをちゃんと自分で考えて決めることだということ。
そしてその自分で決めるということと、それをただ自分の意思だけで決めるんじゃなくて、
相手と互いに触る、見せる、見る、見せる、触る、触らせるということを、
互いの同意があって互いにそうする、そうしたい、そうしようということが取れる程度だったらやる。
それを決めるのはお互いに自分で決めることだということなんだよという話ですよ。
だから絶対に見せない、触らせないというのとはちょっと違う。
ただそれを子どもの発達の段階でまずは体の部分が大事なんだよということから伝えて、
それはむやみに人に晒したりとか、見せたりとか、触らせたりとかということを許していいことじゃないんだよ、
自分でしっかり守るべきことを守ることなんだよということを伝えて、
その先ですよね、さらにコミュニケーションとして肌と肌と触れ合うというコミュニケーションをするにあたっては、
同意をちゃんと確認しにあって信頼関係を持って段階に進みましょうという話なんですよね。
またその辺のことを理解してもらうのってなんかすごく難しいというか、
なんかすごく難しいなって思ったということをずっとずっと考えているんですね。
本当にこのお娘さんしっかりしていて、そういうことなんだよなというのをちゃんとご理解されていると思っています。
若い世代、これからの子どもたちというのは少なからず私たちが親の世代といいますか、
今までよりも包括的な性教育というところに触れていくことっていうのが増えてくるんじゃないかなと思っていて、
むしろ子どもたちの方は理解が進むんじゃないかなとはちょっと思っています。
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なんですけど、今今社会を作っている私たち大人の方が本当に教育を受けてきていないので、
その中で子どもたちがもし学んできたとしても、それが浸透されていない社会があって、それじゃ全く意味がないんですよね。
そのアンチコメントなんかも私一瞬見たときに瞬間的には、
こいつらは何考えているのかというか、何も考えていない。
勉強も別にまともにしたわけじゃないのに、パッと見で単独的な反論で掲げ足を取りたいだけじゃないかというふうに思ったんですけれども、
でもある意味でも本当にそういう意識、同意を取るとかですね、
自分には境界、バウンダリーというのがあって、それを許すかどこまで許すかというのは自分で決めるんだという、
自分の考えを自分で決めるんだ、相手も自分の考えを自分で決めているんだ、
そういうのが前提の世界だということ。
それをお互いに分からない境界というのを同意を取って、確認し合いながらコミュニケーションを取っていくという、
この考え方って本当に全く日本で教えられていないと思うんですよ。
教えられた覚えがないですね。
境界とかバウンダリーとか同意って言葉を聞いたことがなかったです、私は。
包括的性教育とかね、そういう性教育的な、お家性教育とかそういうプライベートゾーンとかって話も、
こう数年のうちにいろんな本とかいろんなところで見るようになってきたから、
目にするようになって、自分でも勉強して、やっぱりそういうことだったのかっていうふうにやっと自分で気づけたってことなんですけど、
それに触れてない人には本当に気づけない、まだ気づけてないことだし、
日本の中では性教育っていうのは本当に生殖、子供を作る、子孫を残す、生死と乱死が出会うっていう話と、
あとは性行為、主にも否認とか性犯罪とかっていうのを防ぐみたいな、そういう話にしか行ってなくて、
性というのは本当に性行為とセックスに関わることだと思われちゃってるんですよね。
それが本当に根付いちゃってて、もっと根本的な自分をちゃんと持つことだっていうところ。
性っていうのは自分の性別だけでもなく、概念を教えられてないから言葉がないんですよね。
教会、自分のことを自分で決める、それが互いにある、そこを尊重し合う。
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大事な部分は出すか出さないかっていうのは自分で決める、相手も決める。
そういう中で決め合って、それでも互いに吊り寄る、もっと近づいていこうという気持ちを持って信頼関係が高まるから、
その先の性的な行動ということもとても大事なものになる。
そういう順番、そういう考え方、すごく大切だしすごく素敵なことだと思うんですよね。
それが抜けてるんだけど、自分で気がついて理解ができると、なるほどそういうことだ、とても大事だって思うんだけど、
そうじゃない人にとってはどうすればわかるんだろうなって思いますよね。
特に思うのは、男性には何も通じないんじゃないかなという気がしてならないです。
私は男性なんですけど、なんで私がこういうことに興味を持っているとか、女性側の立場をすごく考えているような感じになるのかっていうのは自分でもよくわからないんですけども、
自分でもよくわからないけど、自分の中では当たり前なんですけども、そういう考えない人の方が多いんだろうな、多いっぽいぞということがわかってきていて、
男性のせいであれば女性のことはなかなかわからない。
しかも女性は女の子は学校でも少し二次成長生理のこととかで習ったりとか、話があったりとか、自分の体の変化に対して意識したりとかっていうことがあるから、
教育はちゃんとなってないけど、それなりに自分の意識での中で、何か情報の形がどうかわからないとしても、
考えることとかね、妊娠・出産のこととか考えることは機会としては男より多いと思うんですよね。
男の方は本当にちゃんと考えなければ、何も考えずに大人になれちゃうんですよね。
それがすごく危険って言い方は変だけど、すごいすっぽを抜けているというふうに思っています。
男性に理解されづらいよなってどうしても思うんですよね。
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例えば、自分の体のことは自分で決めていいんだよとか、自分でどこまで許していいかしないかということは自分で決めていいんだよという言い方をされるんですけども、
これ、男性には何も響かないんじゃないかなというふうにちょっと思いました。
女性の立場からすると、大人の女性の立場からすると、今までの経験の中で性的な弱い立場として、
大小ありますけども、性的な被害というのを感じる部分があってもですね、
嫌な思いとか自分がそう思ってなくてもやらなきゃいけなかったみたいな。
でも男性って、意識・無意識含めて加害になることが多くて、
しかもあんまり悪いことだと思っていないことの方が多いですよね、多分。
今はあんまりやるか分からないけど、スカート目作りするかとか、胸の大きさの話をするかとか、
あとはもう本当に性行為をするんだけど、やり抜けじゃないけど、
子供ができるとかっていう話の時に、自分責任を持たないで逃げちゃうとか、みたいなことって。
逃げちゃうとかって、本当に人としてどうかと思うんですけど、
でもそれをやっちゃいますよね。
何だろうな、ちょっと言い方きつくなりますけど、
殺人ってそん簡単にするっていう感じに近いかな。
人の命を買う人の命を買う、ちょっと今違う言い方しそうになりましたけど、
それってダメだって普通に思うじゃないですか。
でもそれと似たようなこと、同じとまでは言わないけど、
でも同じと言ってもいいぐらいのことなんじゃないかなって思うんですよね。
人の尊厳、命に関わること、命が生まれるということに関わることというか、
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あとは妊娠・出産になれば社会的なことも大きく変化するわけだし、
それを女性の体だけに生むという機能を持った女性、
絶対に逃れられない人と、そうでない自分というのがいたときに、
その相手のことを平気でほっぽったける感覚、
はっきり言ってやべえと思うんですよね。
でもそれを感覚として教えられていないってことだと思うんだよな。
それって男性にとっても知識としての被害なんじゃないかなって思うんですよね。
男の人って一番その性の知識というところから、
ちゃんとした正しい考え方というのを避けられてきていて、
触れることがなくて、で誤った性的コンテンツだけしかない。
娯楽のための話なんですよね。
別にバトルロワイヤルで人をバンバン撃つような映画があったとして、
それでもただのエンタメフィクションであって、
それを楽しむものがあるから、実際にやっていいって言ったらそうじゃ全然なくて。
そういう人の命を奪うってことと私は比較したくなるんですけど、
生理の話っていうのも、アダルトコンテンツで見るものっていうのは、
単なる刺激的なエンタメ要素のある、ただのフィクションであって、
現実じゃちゃんとどうすればいいのっていうのを教えてないんですよ。
本当に人を誤めちゃだめだよ。
動物も簡単に誤めちゃだめだよ。
命は大切なんだよっていうのと同じぐらいのことを何で言わないのか。
それがすごく遅れてるというか抜けてる、欠けてると思うんですよね。
そう言ってどうすればいいんだろう。
そういうことは大事だよねっていう話をこうやって発信してくれてる人がいて、
自分でもそういうこと言ってますけども、
全然あさっての方向からコメントが返ってくるんですよね。
話が噛み合わないんですよね。
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生徒がそこがすごく難しいのかな、何で難しいのかなっていうのをすごく思いますね。
やっぱり私としては、世の中の男性にちゃんとわかってほしいなっていうのがある。
いや、そう簡単に、女性もちゃんと教育を受けてないから、
無知であることには男性女性関係なくあるんですけれども、
でも現実的に負荷がかかるのは、産むという機能を持っている女性の方が大きくて、
その女性に対する人権なんですよね。
人権問題であって、そういう体を持って子供とか人間を産むということをしてくれる人へのリスペクトというか、
いろんなリスクとかそういうものを抱えている人への支えというか、という考えを持たないとどうなの。
あえてジェンダー的、男らしさ女らしさみたいなことってあまり言わないようにみたいな話はありますけど、
でもあえて男らしさとして言うなら、それって男らしいのかよってすごく思うんですよね。
それをすごく伝えたいんだけど、伝えたい、共有したいんだけど、あまりあったことがないんだよな。
そういう概念的な大切な意識っていうのを男性と話したことがないですね。
個別の性に関する性行為のいろんな考え方とか、大切だよねとかっていう話をすることは人はいると思うんですよ。
男性でも女性でも多いかなと思っていて。
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それって結構格論で大きな性教育っていう中で、包括的な性教育っていう考えの中で、性行為っていうのはすごく一部の部分の話であって、
そこでどうするかっていうような話も大事なんだけど、
それ以前に男性であっても女性であっても、対男性単体女性であっても、対自分であっても、
性っていう単語で言うのかわかんないですけど、性を含めた人としての大切さっていうのを考えることが、
良好なパートナーシップの話になるよねっていう意味なんだけど、それじゃピンとこないじゃないですか。
そこはなんて言ったらいいのかな。
それ大事だろっていう話をしたいんだけど、なかなかそういう話ができる人がいない気がしていて、
できるだけ人が話がいないっていうか、何て言うんだろうな。
はっきり言ってしたことがないんですよ。できそうな人はたまにいるんですけど、でもやっぱりちょっと違うんだよな。できないんですよね。
やっぱり性教育とか包括的性教育っていう話をしている男性自身が少ないかなって思うし、
検索とかすれば女性が多いです。男性もいるんですけども、なかなか難しいなって思ってて、
ということをちょっとすごくずっと思ってました。
前から思ってたことではあるんですけど、
情けないくないですかって思ったんですよね。
お母さんが一生懸命こうやって発信していて、自分も娘さんの立場でね、小学生ですよ。
立場で聞いていて、でも飛んでくるコメントが、
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セックスの時見るし触るじゃんみたいな。結局エロネタ人しか聞こえないとか。
一言で言えば小学生以下じゃんって思うわけですよ。いいのそれ。
この娘さん、他のリールでコメント欄のどこかで言ってましたけど、
大人がね、この人が母親からそういうふうに教わって、大人もそういうふうに考えてるんだろうなと思ったら、
全然そんなことはなくて、逆に驚いてるというか、っていう話なんですよ。
もうすでにこの子供から見たら、今の大人なんてのは何も考えてなくて、
やべえなこいつらっていうふうにしか思えないと思うんですよね。
本当にやばいと思うんですよね。
でもおめえらやべえよだければ済まないと思ってて、
本当に概念からして、常識感からしてないんですもん。
それを国として、やっぱり社会としてやってこなかったってことなんで、
これはこれからやっていくしかないよね。
これから学んでいくしかないよね。
知っていくしかないよね。
考えていくしかないよね。
そういう感覚になってみるしかないよね。
ということだと思いますね。
生とかプライベートパーツとかっていう言葉はいろいろあるんですけど、
私の中では一番大事なのはバウンダリーです。
教会。そして同意です。
自分の中には自分に沿ってのいろんな教会がある。
私が同意って何?っていう絵本を読んだときに、
丁寧に書いてあった話なんですけど、
握手しようよっていうね。
握手するって言うのは、いいよ。
握手しようよっていう。
握手する、手を合わせるってことはお互いの教会の範囲内だ。
しようよって言っていいよって同意ができていいよって。
キスしようよみたいな話とか、
ハグしようよみたいな話とか。
ハグなんかだったら、例えば外国人だったら普通にするじゃないですか。
でも日本人にとっては恥ずかしいじゃないですか。
それから文化的なものもあるかもしれないけど、
触るっていうことに対して抵抗感があってするじゃないですか。
そういうのを一般的な文化としてOKっていう前提の下で
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ハグするっていうこともあるかもしれないけど、外国ではね。
でもそういうのも確認し合わないと、
フレンドリーにやるつもりが嫌な気分になるってことは想像できますよね。
一緒に遊ぼうって絵本に書いてあったのは、
触るとかそういうことだけじゃなくて、
一緒に遊ぼうって言って休みに行こうって言うのと、
あのおじさんの家も面白さだから遊びに行くよって、
知らない人の家に行くのが嫌だよっていうようなところ。
それぞれどこまでだったらいい、どこまで行ったら嫌だっていうのって、
それぞれ違うよねっていうのがバウンダリーっていうものなんですよね。
いろんな自分の中に、体のことだけじゃなくて、
いろんなものの判断をする。
その中に自分はここまでは許容できる、ここまでは許せる、
こっから次はできないっていうのがあって、
それを自分でちゃんとしっかりした辺をどこにあるんだって決めて、
変化するかもしれないですよ、いろんな経験の中で。
その時々自分で決めて、こっから次は私は違うんだっていうふうに
ちゃんと言う。
違うんだっていうものが相手にもあるっていうことをちゃんと把握して、
君はここまでなんだねっていうのをちゃんと確認する。
じゃあそこまでにしてこう、そこまでにできることを2人でしようっていう。
そういう関係性を保つっていうのがお互いの知らない関係であって、
パートナーシップである。
この考え方がすごく少ないですよね、日本って。
さっきちょっと投稿のほうで、スレッドのほうで見たんですけど、
保育士さんのお話が一つあったのが、
これ貸してっていうやつですね。
貸してじゃなかったかなって言ったかな。
私は貸してと同じだなと思ったって書いたんですけど、
ごめんなさいが、ごめんなさいって言われたらいいよっていうふうに。
そういうごめんなさいって言われたらいいよって言いなさいみたいな感じしてませんかって話。
私これおもちゃ貸してっていいよみたいな感じでなんかしなさいっていうような、
似てるなと思ったんですけど。
自分の意思、相手のほうに優先してあげるっていう気持ちもあるし、
相手のほうに優先してあげるっていう気持ちもあるし、
自分の意思、相手のほうに優先してあげるっていう気持ちも大事なんですけど、
日本人はそれを強調しすぎだと自然なとこがあるなと思っていて、
自分の意見、自分のバウンダリー、
自分はここまででいいけどここまでは嫌なんだっていうところって、
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ごめんって言われたってこれは許せないんだっていうところとか、
そういうのって親とか大人が決めるとか周りが決めるとかじゃなくて、
自分で決めることなんですよね。
その大事さっていうのをちゃんと伝えないと、
自分は自分の考えがちゃんとあるんだからここまでは自分で決めることだよっていうのって、
ちゃんと決める習慣っていうのがないから周りに合わせて、
自分勝手なこと言ってるっていうような言い方になっちゃうんですよね。
自分で自分で決めるっていうのは実は自分勝手ではなくて、
相手だってそれがあるよねっていうことにちゃんと意識が行くってことに繋がるから、
相手のことも考えることに繋がるんですよ。
それから人に合わせましょう、人に合わせようって言ったら、
人がこうやってるんだから、周りがこうやってるんだから、
こういう考える人がいるんだからお前のやり方が間違ってるだろ。
なんか変なことがやってませんか。
人にちゃんと合わせて人を大切にしようねって言ってる話が、
実はそれ人に合わせてない自分のわがままなんだから、
お前が何とかしろよっていう自分の価値観の押し付けをしているっていう、
全然人のためになっていない社会になりつつはありませんかっていうのをすごく思っていて、
なんかおかしいぞって思ってたことが、
自分の境界と自分の相手との同意っていうので
コミュニケーションを取っていけばそんなことにはならないっていうのが
私は今感じているので、
この2つだけで割と物事がうまくいくはずだというふうに思っているんですよね。
でもそれが、その感覚を伝えるというのはすごく難しい。
これがフォーカス的性教育というものの考え方に含まれているので、
そのことを言いたいんだけど、これが性教育という名前がついているのが、
日本人にとってはイメージがエッチな方にいっちゃって、
もうどうしようもないなと思うんですけど、
そこをなんとか、要は自分のことを大事にするってことだよねっていうのは
どこでも言っているはずのことじゃないですか、自分の好きなことじゃないけど。
それと同じなんだけどなっていうのが伝わってほしいことなんですけどね。
性という言葉に過剰反応が必要になるんですよね。
もっと広く、根本的に大事な感じ方、考え方というところを感じてほしいなと思っています。
ということをちょっと考えていたんですけども、
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自分で今考えているのをただしゃべっているだけですね。難しいなと思いました。
でもなんかこの女の子が、この綾瀬の娘さんが、
ちゃんとこの短い時間で説明しようとしているという姿を見て、
やっぱり自分も何かちゃんとやらないといけないのかなという気になりました。難しいけど。
こうやって考察的なことならダラダラとしゃべるのもいいけど、
それじゃ多分伝わらないし聞かれないんで。
難しいですよね。でもね、あんまり短く話して伝わるかって言ってもそうでもないと私は思うんですよね。
でも長い話聞ける人が少なくなっているからなというところも、なかなか悩ましいところだと思っています。
ということで、今回はただただ、
すごいしゃべっちゃった。何これ、30分か。
自分の悩みというかをちょっと語って一人語りをしてみました。
なんかいい形で話していけたらなというふうに思ったりしています。
はい、このところまで最後まで聞いていただいた方ありがとうございました。
私の知らない新しい世界を教えてくれるあなたの存在に感謝します。
皆さんにも素敵な気づきのある毎日になりますように。
タカランでした。それではまた会いましょう。