うおのめについて
しゅうとひょうも、みちのりへのみちのり。
この番組は、文字通り、しゅうとひょうもの気が向いた時に、
適当に好きなことを話しながら、まだ知らないことはないことわり、
つまり、つまり、みちのりを探していくみちのりを描く番組です。
下手をしたら、下手をしたら、二人の持ちっぷりを探すだけの気のままな旅。
ゆるーくお付き合いいただけたら、うれしいです。
前回からの続き。
うおのめ
そうですね、たぶん、俗にいううおのめっていうほどのものは経験したことないかもです。
富士さんどうですかね。
いや、なったことないんじゃないですか。
ああ、ないですね。僕、結構ひどいのに一回なったことがあって、
もう、なんか、一回そのうおのめができて、本当に固定化されると、
もう、足の裏、僕の場合足の裏に、まあだいたい足の裏にできるやつうおのめっていうのかな。
できて、歩くたんびに痛いんですよ。
で、スピール甲っていう、こう貼って、なんかバンドエイドみたいな、丸いやつなんですけどね。
ヒップエレキバみたいなやつって言ったほうがわかりやすいかな。
そこにこう薬が貼られてあるんですよね。
それでこう皮膚をなんかこう柔らかくして、
溶かすまでいかないけどほぐせるような感じに、真っ白くなってそこの皮膚が、
お風呂とかでふやけた後にそれをポロポロ取れるような状態になりやすくなるみたいな、
そんな薬的なやつを貼って直していくんですけど、
なんかこう、皮膚があるところで、なんか傷ができたとか異物が入ったとかそういうきっかけで、
なんて言うんでしょうね。これもまたうまく表現できないな。
こう、ある表紙にどんどんどんどん細胞が再生されていく、
そのボタンが一個掛け違うみたいな、そんな状態になるらしいんですよ。
その状態でどんどんどんどん真ん中のボコッとなった部分を中心に、
木の枝が生えるみたいに、木の枝を切り落とした状態みたいな形になっていくんですよね。
これちょっと表現だいぶ僕の感覚的な言い方してるから、
聞く人が聞いたらめちゃくちゃ怒られるような感じかもしれないんですけど。
ボタンが掛け違った状態について
まあでも要は僕が解釈したのはそういう感じで捉えていて、
ちょっとした最初は一箇所の異物か何かのきっかけで、ボタンが一個掛け違ったせいで、
そのサイクルでどんどん細胞が作られていくと、
本来足の裏っていうその皮膚の表面が真っ平になる、その形で落ち着くはずが、
どんどん木の幹みたいなのが生えるみたいな形で、どんどんどんどん皮膚が再生されていくみたいな形になっていくんですよね。
それが魚の目っていう話で、軽いうちには多分何かの表紙にまた元に戻るんでしょうけど、
それがどんどんどんどんひどくなっていく方向に進んでいくと、
そういうスキルコンみたいな皮膚全体を周りの一番外側から溶かすじゃないけど柔らかくほぐすもので、
一旦そこ全体を除去するような形に結果的になりますよね。
それによってまた外側から正しい順序で再生されていったら治るみたいな、
本当にちょっと表現は稚拙だし間違ってるかもしれないんですけど、僕の中でそういうふうに捉えていて、
で、結構これがいろんなことに当てはまっちゃうんじゃないかなって、何かの表紙に思ったんですよ最近。
それがまあ、がん細胞とかもそれに近いようなことを思ったりもするし、
あとは花粉症とか。
本来異物ではない花粉を異物と判断して過剰に反応するみたいな、そういうサイクルが一旦でき始めると花粉症。
だからある年突然花粉症が発症するみたいなふうに捉えることもできるかなとか思ったり。
ごめんなさいね、本当にこれはいい加減なこと言ってますからね。
で、僕の感覚としては世の中が滝粒に向かう船みたいな流れになっているのも、
それぞれの人はさっき正真さんとか藤井さんが言ったみたいに、自分の生きていけるとかそういう立場を守るために必死で生きてるわけですよね。
だけど大元のその仕組み、根本的な部分が一個ボタンが掛け違ってて、
加速度的にそっちに向かうような形になっているっていう見方ができるかなとか最近思ってるみたいなのをちょっとさっきの話で思い出して、
また結論のない話をしちゃったんですけど。
どういう意味だろう。
逆に言うとそのボタンの掛け違いみたいなのが解消されると、
今全然不安に思っていることが解消されるような感じに進みうるっていう話ですかね。
可能性としてなんですけどね、僕も勝手にそう当てはまるのかなって思っちゃってるので、
ちょっとしたそういうボタンの掛け直しみたいなことがいろんなとこで、
まあまあ一箇所だけ、最初は一箇所だったけど今も広がっていると思うんですごく大きい五の目みたいになっていると思うんで、
それこそスピルコみたいにいろんな場所で同時多発的に起こって、そういうボタンを掛け直すみたいなことをちまちまやっていかないといけないかもしれないですけど、
そんな風に掛け直していけばいい方向にいかないかなみたいな発想のきっかけみたいなのをこの間ちょっと思ったなーみたいな話なんですけど。
そういう意味合いからすると本当に、今もう資本主義社会の中に風に乗っかっちゃってるみたいな前提を自分の中で持っちゃってるんで、
だからこう、何か興味あった行動とかするにしても、新しく何か始めるにしても、ちょっと心のどっかで収益につなげられないかみたいなところの思考が少し働くんですよね。
人生の制約と絶対的なものについて
そういうのじゃないなと思ってて、ちょっとスピリチュアル的な話になりますけど、最近そういう占いだったりそういう類の方面からは、もう本当に好きなことをやれって言われてたり、
そういう風に、個々的に資本主義社会を完全に解体させない範囲での活動を思いっきりやるっていうのが一つ大事なのかなっていうのは今の話聞いてちょっと思いましたね。
すごい大事だと思います。
なかなかですね、そこでそういう風に考えずに、時間も有限なんで、そういう時間も有限なんでとか考えてるのも多分良くないんでしょうね。
いやーでもそれは、序盤の時に富士山の絶対的なっていうのを持つっていう話の時にもイメージしてたぐらい、やっぱ時間の制約っていうのがあるから絶対的なのを持ちたいけど持ってないみたいな状況にもなりやすいしとか、
やっぱその制約があることは前提としてあるから、考えちゃうといけないというよりはもう前提として向き合わざるを得ない気がしますけどね。
正直ふと、あっという間に人生終わるなっていうふうに思う時があって、え、もうあと60年とか生きられるんかなみたいな。
60年とか多分生きられないと思うんですけど、ふと自分が死ぬ時のことを考えたらちょっと怖くなりますもんね。
今でもしょうがさんから60って数字が出たのに僕びっくりしましたね。ジェネレーションキャップですね。
60は絶対出てこないですよね。
いや僕60は数字言い過ぎですね。96になりますもんね。
僕は116とかなるかな。
それこそ普通にというか平均10秒まで生きられるかどうかじゃしょうもないしいつ死ぬかもわからないから、
本当に結局その日その日楽しくないと全く意味ないからですね。
そこらへんは最近念頭に置くようにしてるんですけど、何かを目指して今は我慢みたいなのは全く意味ないから、
かといって今だけがいいみたいな何も考えずにやってるっていうのは結局持続性がないので、
見据えつつも将来の目指すべきとこのために今我慢するみたいなのは絶対やめた方がいいなとは思いますね。
死について
そうですね。
橋本さんがなんで死ぬのが怖いとかっていうのを思ったかって何かきっかけとかあるんですか?
いやもうほんとふとですね、きっかけというか何でだったんだろうな。
何かドラマとかそういうシーンがあったりだとか何かしらのきっかけで死を意識することがあったんだと思うんですけど、
なんかふと考えたときに、それこそ今いつ死ぬかもわかんないから、それは嫌やなーっていうのと、それは当然なんですけど、それは嫌やなーと。
今まだ子どもたちも小さくてこれから大きくなっていきますけど、なんか子どもとかも今あっという間大きくなるんですよね。
これもうほんとにあっという間に成人して、あーもうなんか今をほんとにかみしめとかないと人生はもう絶対終わりあるんだなーっていうのを、
すいません、なんか言わず全然言葉にならないですけど、ほんとふとなんか思った感じですね。
子どもたちが成人したらとか60歳になったらっていうのを僕自身で考えてみると、すごいやったーこれから自分の時間がいっぱい増えるぜーみたいな。
ラッキーみたいな。好きなことに全振りできるっていう楽しいことしか思い浮かばなかったんで、
ちょっとなんていうか、しょうまさんの感覚がつかめなかったんで聞いてみました。
なるほどなるほど。なんかそういうところは子どもたちが成人した後、自分のほんとにやりたいことに全振りできるとかっていうのは、そういうのは僕もありますね。
ありますけど、なんか単純に今生きてて子どもたち、妻とか周りのお友達とか、皆さんと交流とかもしなくなって、
自分が無の存在になるんだなって思ったら、なんかめっちゃ悲しくなって。
子どもの頃から結構そういうのを考えてて、小学生ぐらいの時から、死んだらどうなるんだろうなーみたいなのを考えて、
もう多分、天国とか地獄とかもそもそも死んだら、自分の意識とかもなくなるだろうし、そんな知覚もできないし、
何も自分が、自分が死んだことさえ知覚できずに、他のそれ以外に存在するものがただ単に流れていくんだろうなっていう風なのを想像した時に、恐ろしくなって泣いてました。
おっしゃってましたね、前ね。
なんか今、しょうまさんから、周りの人間と交流しなくなったら自分が無になるっていう言葉を聞いて、私と全く違う発想ですげえ面白いなと思いました。
僕も自分が大好きっていうか、さっきで言うと絶対的みたいなのはやっぱりいくつかあるっていうか、
人との交流と自分のやりたいこと
一人でも全然大丈夫なんで、一人の時間、全く一人だとちょっと寂しいのかもしれないんですけど、
なんか、そういう風な考えっていうのは言葉になって出てくるんだなっていうか、
多分その、人と付き合う、人と交流することを喜びに感じる人もいるわけじゃないですか。
だから、そういう人がいるっていうのは、僕も知ってるし分かってるんですけど、
自分が、コミュニケーションというよりかは自分がやりたいことっていうところにすごく重きを置いてるんで、
すごい面白いなって思いました。
そしたらその、逆にとかじゃないですけど、
無になるっていうのは、自分が死んだことさえ自分では気づかずに、
自分の意識みたいなものが消え去ってしまうっていう風なことを考えるわけですけど、
そうなったときに自分が亡くなっても自分がやりたいことみたいなものっていうのもできなくなっちゃうわけじゃないですか。
そういう観点で捉えたときに、どうですか、その死みたいなものについては。
なんていうか、死とか老いとかっていうのは、
自分が例えば絶対的な世界の中で生きてるっていう表現はすごい抽象的だと思うんですけど、
人と比べてすごい意識するものなんじゃないかなと思ってて、
周りの人が年老いてるとか、自分より若いとかっていう中で、
死と老いは別だって話はあるのかもしれないんですけど、
周りの人間が例えば20年後、30年後ってちょっとずつ亡くなっていくわけじゃないですか。
友人とかもちょっとずつ減っていくわけで、
結局そうやって何か周りと比べていく中で意識していくものなんだろうなーって思うんですけど、
自分がやりたいことをやるんだとか、自分の世界に没頭するんだみたいなのって、
そっちに没頭していけば、別に死はいずれ来るんだろうし、
別に考えなくていいんじゃねえの?みたいな感じで、
自分の世界に没頭していけば、別に死は来るんだろうし、
別に考えなくていいんじゃねえの?みたいな感じで、
別に考えなくていいんじゃねえの?みたいな感じにはなってますね。
なるほど。面白い。
そうですね。だからあんまり深く考えたことがないというか、
もちろん今死ぬのが嫌なんですけど、
なんか死んだらどうしようとか、死んだらどうなるんだろうとか、こういう死に方がいいとか、
っていうのがなんか僕にとってはあまり重要ではないので、
考えないっていう感覚です。
もうなんか没頭してたら、もうそれだけですもんね、結局。
そして自分自身がもうこう亡くなってしまったとしたら、
もうそこで別に何もわからないし、
他の世界はまだ存在し続けるとか、周りとかは全然気にならないってことですもんね。
そうですね。だから周りを気にしないので、
なんか勝手にそのまま朽ちていくわけじゃないですか。
だからそれで終わりっていう。
なるほどな、なるほどな。
さすがに今言った私の性質っていうのは、
今結婚して子供もいるので、
少しずつなんていうか、妻は結構交流を楽しむ人なので、
結構僕も影響されつつあるなと思って、
その絶対的なところと交流とみたいなところがうまく調和しつつあるなと思うんですけど、
なんていうか子供とか妻とかがいるので、
子育てと家庭について
完全に自分の絶対的世界に没頭し続けるんだ、俺はみたいな、
そんな意向地なことは言ってられないんで、
なんていうか、社会的なところにもちゃんと行って生活をしなきゃいけないなとは思うんですけど、
とは言ってもやっぱりさっきの話に戻って、
絶対的な世界を自分が持っているってことが、やっぱり生きる上ですごく大事だなと思うんで、
もちろん交流もしてもらっても全然いいんですけど、
ちょっとやっぱり絶対的世界を作る方を、
大まけに置いた方がいいんじゃないのかなっていう気はしますけどね。
ちなみに今お子さん何歳ぐらいなんでしたっけ?
9歳と6歳ですね。
小4と小1ですね。
なんていうか、長男はすごい私に似てるというか、
自分の世界を持っているって意味ではすごく似てるし、考え方も似てるし、
僕の子供の時なんかよりすごい考えてるからすごいなと思いますね。
めちゃくちゃ思いますね。子供の方がしっかりする傾向があるのかな。
すごいですよね。
めちゃくちゃしっかりしてますね。
めちゃくちゃしっかりしてますね。
注意されます?
え?
子供から注意される時とかある?
今?
5歳でしたっけ?
すごいですね。
それは僕が言ってたことっていうのもありますし、
そうじゃなくても保育園とかいろんな経験から自分で思うようなことも言ってたりするかもしれないですけどね。
でも最近この成長が感動してますね。面白いですね。
面白いですよね。
うん。
でも僕も、しょうもさんがさっき表現の中で成人してとかおっしゃってたじゃないですか。
僕自身がもう成人っていうよりは10歳ぐらいを成人ぐらいの感覚で捉えてたことも影響してるんですけど、
この2人とも結果的に今一緒に住んでないんで、
自分が思ってた自立っていう意味ではもうしてるから全然いいんですけど、
これだから道のりの話題とは全然関係ないようなすごい俗っぽい話が急に挟まるかもしれないですけど、
フェイスブックとかで1年前の写真とか何年前の写真とか急に出る。
あとはGoogleフォトとかでも出るのかな。
ありますね。
あれやめて欲しくて。
辛いんですよねやっぱね。
だからそれがなんか不意に来るから異様に可愛いって感じる。
っていうのはやっぱり自分の中ではまだもうちょっと一緒にいるつもりだったんだろうなっていうのはそこで感じるんですよね僕は。
自分で10歳がもう自立、もうそっから先は自由にしてっていうふうに頭では考え込もうとしてたっていうと大げさなんですけど、
自分がそれでいいはずって思ってやってきたことではあるのに感情の方はやっぱりもっと一緒に過ごしているはずだったって思ってんだなぁと思って、
可愛い子供の写真見てめちゃくちゃ凹んでる自分がいるんですよね。
なるほどね。
そこも何でしょうね。
責任と迷惑
感情と理性のままならないところというかバランスで言うとやっぱ感情っていうのにすごく左右されがち、比率で言うとそういう感じがあるなーって。
また関係ない話でしかもフワッとした話しちゃいましたけど。
大丈夫です。
一つちょっと話題を変えると言いますか。
はいはいお願いします。
さっきしゅうさんと私で責任という言葉の定義についてちょっと話したときに、しゅうさんは人に迷惑をかけないっていうことをおっしゃってて、
私はなんだろう、私何て言ったかな、自分で責任を取るじゃなくて、あれ何だったかな。
ごめんなさい、僕も忘れました。
自分で、他人に迷惑をかけないっていうのと、
人のせいにしない。
人のせいにしない。
はいはいはい。しっくり聞いたやつですね。
その2つが定義が違うとニュアンスが違うなって感じたんですけど、
人のせいにしないっていうのは、僕もすごく強く思っていて、絶対人のせいにはしたくないなと思っているんですけど、
そのもう1個の方、人に迷惑をかけないっていう方は、
あんまりあんまりというか、全然思ってなくて、むしろもっとみんな迷惑をかけまくってっていうか、
何でしょうね、これ迷惑っていうからちょっとなんかネガティブな印象になるんですけど、
もっと、もっと繋がるっていうか、
なんていうか、おせっかいとかも含めて、
なんか、もっと、
人を頼るってことですね。
頼るんですかね。
頼ればいいのになーって思うんですけど、
みなさんどうお考えですか。
そう思いますね。やっぱり頼った方がいいと思います。
でもなんか、自分で何でもやりたいし、人のせいにしたくないっていうのがあるからこそ、
1人でやった方が楽みたいなところは多分ある、あったりしたりすると思うんですけど。
それは仕事でですか。
仕事、
仕事の中で具体的に、
人のせいにしたくないから自分でやった方がいいみたいなやり方はしないんですけど、
それこそ前とかはそれこそ、
後輩の成長とかを考えて、
任せたりだとかありますし、
今は自分がっていうよりも、
人のせいにしたくないっていうのがあると、
自分だけの中で収めとけば絶対大丈夫じゃないですか。
言葉のニュアンス
そうですね。それが多分すなわちさっきの自由の話にもつながると。
そっか。
なるほど、頼らない方がいいってことですか。
人、1人じゃ生きていけないし、
意外と頼ってよかったって思えることって多分いっぱいあるからですね。
そういう風に頼るとかっていうのもやっぱ大事だなって思いますね。
思うし、さっきの人に迷惑をかけないっていう言葉ですけど、
それはあんまりちょっとネガティブなイメージがあって、
確か何かの本でもちょっと読んだんですけど、
あんまり子供にかける言葉としてよくないような話があって、
人の迷惑にかからないようにしなさいみたいな感じの言い方ですね。
結局それって萎縮しちゃうじゃないですか。
迷惑かけないようにって。
そもそも迷惑かけるの前提みたいな話し方になるし、
結局行動は促さないというか、何もしない方がいいみたいな発想にもなり得てしまうから、
そうじゃなくて、人の役に立つとか、
迷惑をかけないというネガティブな言葉みたいなのよりも人の役に立つとか、
そういう言い回しの方が良かったりするのかなっていうのがさっきの話聞いて、
ちょっと今ふと思い出したんで出したんですけど、
なるほど。
迷惑について
ありますね。
面白い。
やっぱり迷惑っていう言葉も、
名前を付けた時と違う意味に転んできてる部分があるみたいな感じで今感じたりしてましたね。
本当に相手が迷惑に感じてるかどうかはこっちは本当はわからないし、
かけようとしてかけるのはなんか困らせようとしてする。
それは迷惑に確実になり得るとか、
結果として迷惑になったら、またそれはそれで悪かったなって思ってそれをフォローしようとするのが出るとか、
なんかいろんなパターンであり得るのに、
言葉としては迷惑をかけちゃいけないっていう一言で言っちゃうから、
いろんな語弊というか不都合というか子供に悪影響を見て、
そっちの方が大きくなってるっていう風に捉えることができるのかなと思いながら今聞いてましたね。
でも迷惑って言うと自面からしたら迷い、まどってるだけだからそんなに、
確かに。
対して、対してなんか思いあれじゃないですよね。
むしろその迷い、まどわせることって別に良かったりしますよね。
大事ですよね。
自分の今の状態を否定じゃないにしても疑うタイミングというか、
なんで迷惑って言うんだろう。
確かに。
面白い。
なんか日本人は結構好きですよね。迷惑をかけないでみたいな。
すごい強い感じで言ってるなーと思って。
心が安定してる方がストレスがないから、
そういうまどわされる相手っていうのは軽減したくなっちゃうじゃないですか。
そしたら、人によると思うんですけどね。
そしたらコミュニティというかからは外れていっちゃうから、
やっぱりちょっと一つ同調的な文化みたいなのがある気がしますね。
迷惑、まどわせるような人だと軽減される。
会話の流れから人間の共感について
でも、そこを迷い、まどうことをちゃんと肯定的にみんなが受け止められれば、
全然そっちの方が健康的というか、
お互いそこを需要し合える関係っていうのはやっぱり心理的安全性が高い場所なんだなって思いますね。
さっきの絶対的な話とか得意なことを。
次回へ続く。