1. たべものラジオ 〜食を面白く学ぶ〜
  2. #99(s13-9)【じゃがいもと日本..

ヨーロッパと違ってあっさりとじゃがいもを受け入れた日本。だがしかし!一般にはなかなか普及しなかった・・・。なんで!?


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00:03
はい、では前回からの続きです。で今回は はい、我らが国ジャパーンでございます 焼き立てジャパーンみたいな
前回産業革命の話をしたので、もうそろそろ日本話ししてもいいかなと思いましてね 一応日本の産業革命というところだけ軽く触れときますか
日本も一応産業革命っぽいことはあるんですよ 産業革命っぽいこと
明治の食産工業がそれに該当するかな それまでの江戸時代の経済とか工業から一気に近代化を図るわけですね
これは自分たちで考えて勃興してきたというよりも、もうそのまま西洋のものをコピーする コピーか
移植するっていうことをやるんです この裏側でジャガイモどうなったかっていうとですね、あんまり活躍してないです
そうなんだ というのも例えば100年くらい時代の差はあるにせよ
イギリスの産業革命の時代っていうのは前回もお話ししましたけど 三方式農業からノーフォークになったとか言ってる時代ですよ
だけど日本の場合は単位面積あたりの米の収量が遥かに高いんですね ああそうか
もちろんお米が国民全体に行き渡って株足なくみたいな状態なのは戦後の話なんですけど
その当時の海外と比べると日本の方が穀物の生産量っていうのは結構豊か ああそうなんだね
かつ肉食べないじゃない 食べないね 家畜いないんですよ
いないの? 基本的にねだから鶏とか一部いるよ
いるけど食肉にしなきゃいけないとかミルクを取るための牛だとか豚だとかを買うっていうことはしないわけじゃないですか
ということは家畜の飼料がいらないですよ ああ確かに だってお魚だから
確かに魚文化だね お魚さんっていうのはさ家畜と違って
家畜で言ったら野生の獲物と一緒ですからね 自然が自然で育つわけですから
なので特別何かを生産しなきゃいけないってことがない こういった事情があって比較的豊かなのでそこまで酷くないんだけど
でもやっぱり食産工業の時代っていうのは労働条件が過酷 ああそうなんだ
で寮の中で結構厳しい生活というか苦しい生活を強いられることにはなるんですけど
で寮の中で食堂でご飯出してくれたりするのね ただやっぱり米と味噌汁とかね
すごいオーソドックスだね 勝手飯とか麦飯に変わるぐらいでそれが基本
一部の工場とかだとじゃがいもが出てきたりとかするぐらいの感じ そんな感じね
っていうのも明治の初期の頃っていうのはあんまりじゃがいもが普及してないんですよ
明治ってまだなの そうなんですよ
03:03
確かにヨーロッパっていうのはじゃがいもがヨーロッパに到達してから
一般的に認識をされて食べられ始めるまでの間に100年ちょっと時間あったじゃないですか
あああったね ですけど一回食べ始めたら一気に基金が来た戦争が来た
パンパンパンパンつってすぐ普及していく だいぶ外的要因が大きいけどね
もういろんな要因があって食べ始めたら食べれるんだつって一気に広がってくんですけど
日本人の場合は違うんですよ 日本にじゃがいも到達しましたすぐ栽培始めるし
すぐ受け入れるんですよ 柔軟だね
めっちゃ柔軟なんだけど日本全体に普及するまでには200年以上かかってる
どうしたんだろうねそのタイムラグ ここの違いが面白くてさ
今日その話をしますということでまずじゃがいもが日本にやってきたのは1600年頃
1600年頃 はい赤ヶ原とかね江戸開封とかねそんな時代ですよ
でこれは諸説があってですね1598年だとか1620何年だとか1641年より後だとか
いろんな説があるんです で運んできたのはオランダの商船
やっぱりオランダだったんだね ということになっています定説では
でオランダ東インド会社の拠点がインドネシアのジャカルタにあったのでそのジャカルタがもともとジャガトラと呼ばれていましたと
あーあったね でジャガトラから日本にやってきてるのでジャガトライモジャガタライモなどと言われるようになり
後々だいぶ時間が経ってから縮まってジャガイモ あーそこもまだタイムラグあったんだ
江戸時代の間はほとんどジャガトライモとかジャガタライモって書いてます
あと別名でオタスケイモとかゴショウイモとかいろんな名前ついてますけど
そんないろんな名前あったんだね あるんですよオタスケイモは後々後で言いますけど基本的には
キキンの時にそれがあったおかげで植えずに住んだからだからオタスケイモ
なんかヨーロッパだけの名前ではなかったんだね 日本でも言われてますね
あとは広めた人の人名がついてたりとかあとオランダとかアップラとかね
アップラ カンプライモとかねそんな名前がついてますね
いろいろだね アップラとかアンプラとかカンプラっていうのは全部オランダ語のアーダブル
アーダブル オランダ語喋れないからわかんないんだけど意味は大地のリンゴっていう意味で
それでアーダブルとかっていうらしいですオランダ語で 大地のリンゴ
ちょっとおしゃれよね なんでそんな呼び方したんだろうね
わかんないけどこれ多分1回目の概要回でも触れたかもしれないですけど結構リンゴっぽい名前をつけてるところ多いですね
へえ そのぐらい禁断の果実の意味なのか栄養が豊富で良いという意味なのかちょっとその辺わかんないですけどね
06:06
まあなんかリンゴのあったんだろうね うんこれが生まれて日本に定着した地域もあって
例えば福島県なんかは味噌カンプラっていう料理があってね
味噌カンプラ ジャガイモを味噌で絡めて煮たものかなそれを味噌カンプラっていうくらいだから
あの辺りではジャガイモのことをカンプラって呼んでた風習が残ってるみたいですね
まあジャガバタみたいなもんか ああそうそうそんな感じジャガバタ違うなジャガイモがカンプラだから
なんだ味噌バタジャガ バタカンプラ
っていうことで そうそんな感じよくわかんないですね
あとねまあちょっと打足になっちゃうんですけど本当にオランダ人なのかっていうのもあって
どういうこと 要は江戸時代の日本人が知っているヨーロッパ言語って言ったら
もうオルトガル語かオランダ語ぐらいしかないわけですよ
途中で鎖国しちゃうから日本にやってくるヨーロッパの船って言ったらオランダしかないわけですね
オランダと中国の2カ国だけなんで
そうすると外国イコールオランダになっちゃうんですよ
ああなんかそのくだりどっかであったね ありましたっけ
そうなるとねポルトガル語が運んできたとしても200年間あるんでオランダ語化されることもあるし
そもそもポルトガル人なのかオランダ人なのか区別つかねえだろって話もあるんですね
確かに他の国知らないからわかんないよね そうそうそう
あと1600年頃の段階でオランダの人たちがじゃがいも食ってたのかっていう問題もあるんですね
一般に言われてるのは前々回ちょっとお話しましたけど30年戦争
あの後あたりでオランダでもじゃがいもが普及していったというふうに言われてるんですよ
そのくらいだと1640年代超えてこないとね
オランダの人たちがじゃがいもそんなに食べて運んだりするかなっていう謎は残りますけどね
確かにね 一応一般的には1598年にオランダが長崎県に持ち込んだというふうに言われてるそうですね
長崎いろんな漫画あってんね まあね
出島ができたら出島その前までは長崎の平戸港が外国との接点になってたってことですよ
その前もあったんだ出島の前 出島の前も平戸っていう港がやっぱり
西側諸国との取引の入り口になってた へえそうなんだ
なので民船とかもそこ入ってたっぽいですね
出島は後なんだね 出島は1640年頃だったかな1641年かなくらいにオランダ召喚が出島にできて
その2年くらい前にポルトガルが入国禁止令出てるんですよ
この辺りから本格的に出島っていうのが確立されてくるっていう状態なので
09:06
出島に入ったとしたらそれより後じゃねえのっていうのもあります
という感じで長崎に着いたのであんまり知られてないんですけど
実は長崎県じゃがいも生産量第2位です ああそうなんだ
ただ北海道が77%8%占めてるんで相当格差ありますけどね
だいぶ空いてるね 2位から10位まで団子みたいな状態なんで
ああそういうことね そんな感じですけど長崎で入って
実は長崎県の方々ってすごくじゃがいもの品種改良頑張ってるので
今でもいろんな品種を生み出してるところでもあります
ああそうなんだ 今回そこはあまり触れないので次行っちゃいますけどね
さっきも言いましたけど受け入れ はめっちゃスムーズ
スムーズ もうね1700年頃には普通に栽培やってるんですよ
はあ 全然育たないけどね
育たないの あんまり収穫量良くなくて
ちょろちょろやってるだけ ああそうなんだ
これね1775年っていうともうだいぶ後になるんですけど
その時代にカールツンベルクっていう人がやってくるんですね
カールツンベルク この人スウェーデンの人だったかな
この人は前にちょっと触れましたけどカールフォンリンネの弟子
あの植物学者の二名法を作って 博物学も確立させたあの人の教え子で
日本にやってきて一応名目上はオランダ東インド会社の社員としては来るんだけど
やってることは植物学 そこは一緒なんだ
日本に西洋の学問を伝えてくれた人でもあるし
あとは江戸幕府に呼び出されて行くじゃないですか江戸まで
その道中でいろんな植物採集したりとかねやってるんですけど
この人が書いた当時の日記かな記録の中に
ジャガイモについては栽培を試みているけれども成功はしていない
あんなに過酷な状況で育つのに
温かすぎるんですよ 温かすぎる
長崎あたりだと ジャガイモの生育適温っていうのがあって
だいたい10度から23度なんですって 結構涼しいんだね
そうだってもともと鉱山植物だから
アンデスだっけね アンデスだから
温かすぎて全然外はないんですね そのパターンなんだ
しかも味があんまり好まれなかった
ジャガイモっていうのは今はだいぶ
美味しくなってるんですけど品種改良 前の元の種ですからちょっとパサパサ
してるし見た目もゴロゴロしてて あんまり綺麗じゃないしまたこれ
間の悪いことにほとんど同じぐらい のタイミングでさつまいももくるんですよ
ああそうなんだ
でさつまいもっていうのは中米メキシコ
12:03
とかあのあたりの植物なんで温かい とこの植物なんですよね甘くてしっとり
してるじゃないですか水気の多い タイプで日本人ってどうもパサパサ
してるものよりもしっとり系を 好む傾向が強いらしくて
今もそうだね 今でもそうですねたぶん
これ唾液の分泌量とかが関係してん じゃないかなって勝手に思ってるんですけど
たぶんそういうのもあってさつまいも の方が先に広がっちゃうんですね
そこは馴染みというか美味しく 感じた方が普及するんだね
受け入れが早かったのはもちろん
理由があってヨーロッパの場合 ってもともと芋がない
ああそうか芋がないね 芋が存在しないからなんだ
これって言ってるじゃないですか ところが日本にはもともと日本
原産の山芋山の芋イコロですけど 山芋がありましたとトロロとか
にしたり焼いたりして食べてました なんなら里芋あれは東南アジア
が原産ですけど日本にやっていた の縄文時代
縄文時代 だからもう日本を代表
する芋といえば里芋なんですよ もう数千年の間
長いね こっちが強いです本当は
これがあるからすんなりスッと 行くもちろん宗教的な変形もない
しけど里芋が強いしでさつまいも が強いの来ちゃったし気候的に
ジャガイモ合わないしでこのまま チーンってなるかなと思ったら
なんと長崎から一気に北海道に 飛ぶ
飛ぶ飛ぶあの時代に そう普通に考えたら西から
順番に広がっていったのかなって 行くじゃないですかスペインに
来たらスペインからフランスに 行ってフランスからドイツ行って
みたいなずーっと陸続きに行くの かなと思うじゃないですか陸飛ば
していきなり北海道 北海道
そうなんですよ どういうこと
これはね寒いからです 寒いところから来たから寒い
ところに持ってけば育つかもっていう 考えがあったんだね
多分ねこれ明確な文献 が残ってないのでどういうふう
に持ってったかわかんないでしょ 多分北海道という場所特に函館
の辺りですね本州から近い地域 っていうのは徐々に徐々に和人
が住むようになってくるんです 函館からちょっと左上の辺りなんか
松前藩っていう藩ができたりとか ねそこが和人で今の日本人のエリア
になってそこから北が藍の人たち がいて藍の人たちと和人が貿易
をするっていう状態なんですよ 日本人が寒いところに行くじゃない
ですか青いのもだいぶ寒いです けどもっと寒いところ行っちゃ
いますよね米育たないそこまで 行っちゃうと自分たちも食べて
いくために何かを植えなきゃいけない じゃないですか農業として何が
いいだろうって言っていろいろ 持ってった中でじゃがいもが入って
たんじゃないかなってこれは僕の 予測ですけど明確にわかっている
のが1706年1706年に海岸のあたり にバレーショを植えたという記録
15:03
が残ってます ああ海岸のあたり
へえ これはねバレーショって書いて
るんでじゃがいもでいいと思うん だけど当時の学者さんの中では
江戸時代のねバレーショはじゃがいも と違うって言ってる人もいる
ので 確かに急にバレーショという
名前が出てきたね そうなんだよだからこれは
なんなんじゃがいもでいいのかな じゃがいもじゃないかもしれんな
っていう謎は残るんですけど九島 郡瀬棚町今の元々松前漬けの松前
藩領のあたりに植えたと明確に わかっているのが1786年だいぶ
後ですけどこれは阿部太郡阿部 太町ってもんかなここに最上徳
内っていう探検家みたいな人が じゃがいも植えてます
ああそうなんだ これは幕府の仕事で言ってる
のでその後も確認してるんですよ もがみさん自身は次の回のとき
には行ってないんですけど行った 人に栽培状況どうなってるっていう
のを確認してもらって1798年の 段階でちゃんとそこに住んでる
松前藩の農民とか人たちがじゃがい もの栽培してますよっていうこと
が確認取れてる そこは確認が取ったんだね
はいこれなんでいきなりじゃがいも
に植えたのかなと思ったら実は 松前藩っていうのは北海道の南部
なので米取れんじゃないですか 米取れる取れないね
作れないんですよ当時の品種 だと寒すぎて当時江戸時代って
の黒鷹制でしょ黒鷹ゼロなんですよ 確かに
だからちょっとドックみたいな 藩でアイヌと貿易をした利益から
納税してくれればいいよって そうだね納税する米がない
からしょうがない しょうがないですでも食って
かなきゃいけないでしょ米どう すんのって言ったら弘前藩わかり
ます今の青森県弘前市ですよ北の 端っこのところですねあそこの
藩から買うんです送ってもらう 買うの一回
ずっとですよ定期的に独占的に そこから送ってもらう
買うんだ普通に買って食べる そうそう米食べたいから一応
青森県はお米取れるんでずっと 買ってたんですけど1782年に天命
の大飢饉が起きるんですよ有名な 江戸四大飢饉の一つですよねこれ
が起きて東北全域の米がかなり 厳しい状態になる当然弘前もよ
その藩にやってる場合じゃないと そうなるよね
そうなると松前藩食うもん ないっすね
確かに輸入に頼ってるからね そうなんですそうなんです
なんか今の日本に似てるんだよね ちょっとね今似てきちゃった
ね これでおそらくこの最上徳内
っていう人がじゃがいもが急行作物 になるんじゃないかって言って
植えたと ああそこでちゃんと植えたのか
はいこれねいきなり思いついたん
18:00
だとしたらすごいことじゃないですか 実は前例がある
前例 前例がちゃんとあるんですよ
あとね北海道経由ではなくて今度 はねいきなり長崎からダイレクト
に飛んでるケースなんですけど 例えば1700年代前半に新宿今の
長野ですねあたりでちょっとじゃがいも 植えたりなんかしてたらしいん
ですよこの人は高田善太夫さん っていう人ですね日田藩
日田藩ね 日田高山の日田ですね
長野の 長野のあそこのこれは大館
だな藩主領主っていうよりはここ ね直下地なんで幕府の役人がいて
そこを統制するっていう場所なんです けど日田っていうのはそこの大館
として高田善太夫さんが赴任するん ですねでやっぱりあのあたりほら
寒いじゃん 寒いね
でひとたび基金なんかあったら もうたまったもんじゃないじゃん
まあ言っちゃ悪いけどだいぶ 卑怯だからね当時
で徒歩の時代にさ交通の便 めっちゃ悪いし輸出乳とかやってる
場合じゃないじゃんでこの人が 1748年に隣の新州からじゃがいも
を移植して持ってきて普及させるん ですよこれは直前の1732年に共法
の基金っていうのがあるんですね ああ習ったわ
ありましたこれが共法の改革 につながるやつですけどこの共法
の基金を経験して何か急行作物 になるものがないかっていうので
植えられたのが一つにはじゃがいも もう一つに蕎麦蕎麦の実は気候
不順でも育ちますんで ああそう言ってたね
めっちゃ強いですよあれ だから山ばっかって言った
もんね で山のあるところ行くと蕎麦
が多いっていうのはそういうこと ですね名物蕎麦ですって言ったら
苦しかったんだな頑張ったんだ なっていう
まあそういうことになるんだね
そういう地域ですねあとは 山梨県かな甲州
甲州 甲州ワインの甲州ですね
ここもやっぱり大官がやってくる ようなところで日田から遅れる
こと30年くらいかな1778年に仲井 聖太夫という人が甲州大官に着任
しますこの人めっちゃいい人だった らしいよ
いい人 もう普段から上から目線では
なくて領民目線で物事を考えられる 人
この時代にしてはすごい珍しい ね
すごいめっちゃ好かれてた っぽい
だろうね 俺こういうのが困ってるん
じゃああそうかだったらこういう ふうにしたらどうだろうっていう
のでいろいろ試してくれるとその 考えてる中の一環でこれは幕府
に直接掛け合って長崎からジャガイモ 取り寄せる
めちゃくちゃいい人じゃん めっちゃいい人ほら持って
きたぞだとそこだけでもありがたい でしょじゃんこの人自分で種芋
を持って説明して回るの へえそこまでする
でこれを植えたらいいよ植 えたらいいよって一生懸命教える
21:00
の自ら すごいね
ねこれはすごいなと思う そこまでやったんだね
これフリドリーダイオーラ の強権発動とのギャップ植えねえ
と処罰みたいな ねえあっちはなんかすごい上
から目線のさらに上から言ってる からね
ねパルマンティエだってちょっと 奇策みたいなことやったじゃん心理
操作的なこと そうだねマーケティングね
違う聖太夫さんね人徳で人を 誇らした
すごいねお手本みたいな人 だな
めっちゃいい人なんだよで この後に天命の大危機に来るじゃない
ですか1782年から87年の5年間苦しい わけですよその後の天保の危機
もありますよね乗り切る 乗り切るんだ
まさにお助け芋 ちゃんと広めてくれたからこそ
乗り切れたんだね そうなんですよだからこの
地域ヒダとか甲州今でも使ってる かどうかわかんないですけど甲州
だったら聖太夫とか聖太夫芋とか 生て聖太夫芋とかねいうふうに
呼ばれてたりするそうですしヒダ の方で言ったら善太夫芋もう名前
で呼んじゃってる 楊 へえそれだけ人のために尽くした
人 そうですね感謝の意を込めて
俺たちを救ってくれた聖太夫さん ということで聖太夫芋と
楊 はあすごいな
これはすごいっすわ 楊 それはそうやって呼ぶわ
やっぱ三幹部とか東北地方 って今言った官営共奉天命天保
っていう四大基金以外にも基金 起こりがちなんですよ
楊 がち
まず寒いじゃん山がちじゃん 田んぼとかも苦しいわけですよ
ちょっと冷えると例外起きるでしょ 楊 そうだね
なんならまだギリ商標期だから 楊 そうか商標期なんだ
そうそうなかなか苦しい状況 のとこにこういうのは救いの神
のようにお助け芋というふうに して定着するんでこれちょっと
興味深いのが山梨県外例えば 今で言う埼玉県とかあとさっき
かんぷらって名前出てきた福島 県とかでは甲州芋っていう呼び
方をする地域が一部あるらしい ですね
楊 ということは甲州から伝わった 可能性があってそれだけ
甲州ではジャガイモの普及が進ん だというふうに言われてます
楊 そんなことがあったんだね
こういう前例があるから最上 徳内は気がついてそれで北海道
に移植するとそういうことが生まれる わけですねジャンプつってもワン
ステップ踏んでますけどね
楊 ちゃんと一回真ん中に着地してる よね
一回さすがに遠すぎたね
楊 遠いでしょ
ぶっ飛びカード引いても行かなか った一回真ん中着地した
楊 空路ないからね
空路ないからねちょっと桃 鉄入っちゃったな
楊 そう空路あんだよね桃鉄はね 今度じゃないです
今度じゃないですからねこういう 事例が実は他にも読んだんですよ
24:02
あちこちであるですね特に 東北地方ではけどちょっと全部
紹介してるとそれだけで終わっちゃ うんで飛ばしますね
楊 そうね今回じゃがいもの話なん でね
もう9話目なんでいい加減 楊 ちゃんとフォーカスしていき
ましょう
ちなみにもうちょっと後も 幕末近いですけど高野長江っていう
人いますよね
楊 高野長江
名前は超有名ですね僕の中では スーパーやんちゃな人のイメージ
なんですけど
楊 そうなの
でもすっごく愛国心の強い 人
へえ
楊 最後捕まって大変なことにな っちゃうんですけどそれはちょっと
後々いずれどっかで話しますね
話すことあるそれ
楊 わかんないどっか裏で話す感じ なのですね
この人ね割とというか真面目に 乱学者として今で言う哲学者みたいな
感じで政治のことも考えていて 国のこと一生懸命考えてるんですよ
やっぱり基金がいっぱい起きる たびに心が荒れてで街が荒れた
りするでいさかいが起きたりする そうするとどんどん悪循環が始ま
ってしまうからやっぱり食料の 確保ってのは大事だよねけど偏向
はどうにもならないだから急耕作物 を植えるのが大事だとこの人すごい
頭いいんだけどさすがにそういう ジャガイモとかの情報知らなかった
らしくて知り合いのお医者さん とかにジャガイモというものがある
らしく公衆ではこうだというの を聞いてなんと素晴らしいそんな
ものがあるのか他にはないかあ ったら蕎麦というものがあるあの
蕎麦か蕎麦の実ってのはあでな こうでなってこういうふうにすごい
んだそれは素晴らしいこれは世 に広めるべきだって言って1836
年急耕二仏耕 楊 急耕二仏耕
急耕作物の急耕救われる ですね急耕ってのは二仏ってのは
二つのものです 楊 ああ二つのもの
で考える急耕二仏耕という 書物を発行します
楊 ああ書物の名前ね そうですそうですだから蕎麦
とじゃがいもを栽培しようよっていう 勧めの本ですね
楊 すごいピンポイントだね 超ピンポイントで中に書いて
あってそうだなと思ったのが貴金 の時に米蔵を開いても一町一村
を救うに過ぎぬ町一個救うのが 限界だとでもこの二仏は全国又
は後世の世を救うだけの苦毒の あるものだこのプロジェクト絶対
止めてはならぬ 楊 言い切ったね
言い切ったこの人言い切り がちなんです言い切りがちなんで
目つけられて大変なことなんです 楊 そういうところも弊害があった
のね そうそういう人なんです熱い
人めっちゃ熱い人 楊 熱い人ね必要ですこういう人
これでおおやった1700年代には もうじゃがいも普及したじゃんって
思ったらそうでもない 楊 ああそうでもない
そうでもない 楊 ここまで押し進めたのに
今めっちゃ熱く語ったけど あくまでも急行作物としてなのよ
楊 大体品みたいな
そんな感じありがたいけど やっぱり主食は米や冷えや泡や
穀物だしやっぱり芋は里芋なんよ 楊 ああ里芋なんだ
27:04
里芋強いんだよ 楊 まあ年月が違いますから
そうもう定着具合半端ない の気候もさ本州以南だったら
もうどこでもちゃんと採れるし これ今でも風習残ってますよね
東北上でね ああそうなの
楊 芋2回って聞いたことないですか 家族とか友達同士とかで集まって
河原で里芋と当時はあんまり豚肉 とは鶏肉とか入れてないでしょう
けど入れて醤油とか味噌とかで 地域になって違うけど鍋を炊いて
でそれをみんなで囲んでつまんだ り酒飲んだりするっていう
まあ諸説ありますけど収穫を祝う 時にやるみたいな
ああそうなんだね 楊 だからあれ秋にやるらしいんですよね
ああ確かに 楊 でその時の主役芋2回って言ってる
ぐらいから芋ですよね まあ芋だろうね
楊 当然里芋です 里芋か
楊 明らかに里芋がメインなんだな っていうのが分かるんですね
でこの里芋自体も急好作物の一 つとして日本中に広がっていったん
ですけどおかずとしても定着して く日本人の感覚ではもともと芋
があったからじゃがいも受け入れ ましたなんだけどこれは貧者のパン
みたいにパンの代替品と思ってない ですよおかずだと思ってる
ああおかずの一つね 楊 野菜と思ってるから
まあ今と変わらんな 楊 貧者のパンとかねいうふうに
アイランドみたいにじゃがいもメイン で食べてる人たちとかあとロシア
も結構その傾向強いですよね じゃがいもがあるから生きていける
みたいな地域があるんですよそれが 定着してじゃがいもが半分以上
主食化してるところがあるんで そういう人たちからするとじゃがいも
野菜ってどういうことよベジタブル っちゃベジタブルだけどさみたいな
感覚がやっぱあるんですってこれ お米に置き換えると分かります
よお米は野菜ですって言われても まあ野菜っちゃ野菜だけどさ
確かに 楊 米は米じゃんってなる
でしょそういう感覚が僕ら日本人 と違うんですよ
ああそれがじゃがいもだと 楊 なのでじゃがいもはおかずとして
成立しないと日本では普及しづらい っていうのはやっぱ一面あるっす
ねそうなんですよ お米が全国的に取れすぎん
のかね基金の時以外 楊 まあそれも一つ大きいでしょう
しあと日本人ねお米に対する 執着がやばい
まあこれはお米のシリーズ でだいぶやったからね
もう深刻化しちゃってるから さ 楊 確かに
もう神への捧げ物がさ白米 と餅と酒じゃん全部米かよじゃん
楊 全部米だったね
そうなんですよ 楊 そうか米の地位が高すぎる
高すぎる 楊 し基金の時以外はだいぶ量取れる
これ聞いてない方いたらお米の シリーズ聞いていただきたいんです
けど米の圧倒的な主役感もうね だいたいとかいうもう次元じゃない
30:05
よねもう取って変わるとかあり えんのよ
ありえないねそうなんですよ 主役なんですやっぱり
楊 主役だねむしろ米イコール日本 だね
楊 ジャガイモをやっててうわやっぱ ここで米かっていうね今米をもう
一度感じるよくわからん流れに 来てる
米やったからこそ米の強さがわか ってるからジャガイモの変われない
っていうのがよくわかるんですよ ね
でそこでネックになるのがホクホク 系のジャガイモご飯食べる時の
おかずになりにくいんですよ口の 中の成分みんな持ってっちゃう
から 確かに
楊 サツマイモはそうでもないから しっとりしとるけど
しっとりだね
楊 でカボチャもしっとりしとる からあれもアメリカ大陸産ですけど
広まってるんですねちゃんと ジャガイモはそんなに普及しなかった
のはそういう背景もやっぱある そうなんだ
楊 はいっなしいですね
あるね
楊 言われるとあるなって思います もんね
あるある
これ全然ジャガイモの生産量 が上がってこなくてブレイクする
のはさっきも見せたけど明治の 終わり頃なんですよね
うん
じゃあ明治の始めくらい になったらぼちぼち統計とってる
だろうなと思って
楊 統計
生産量統計をね江戸時代わかんない じゃないですか
わかんないね
明治政府できたあと何年か 経っちゃあるだろうなと思って
探したら一番古かったのが1874年 明治7年
やっぱ明治入ってから
ジャガイモの生産量生産量 っていうか額で表示されてたから
明確な量が何冠だとか何国だとか っていうの出てなかったですけど
ざっくり言うとねジャガイモの 生産額は里芋に対して5.6%
楊 少な
20分の1しかない
楊 まあそれを少ないと見るのか 里芋がそもそも多すぎるのか
いやねさつまいもは里芋と接点 の
楊 ああそうなんだじゃあ少ない ね
だいぶ少ない
楊 だいぶ少ない
あれジャガイモだいぶ出遅 れてんなっていう感じなんですよ
楊 ってかさつまいももその時期だった のに今もなんかジャガイモって
ちょっと養殖感あるよね
そうなんだよねさつまいも の方がなんか日本に帰化した感じ
がするよね
楊 なんか元からあった感は今感じる
けど
名前もあるかもしらんけど ねさつまって言っちゃってるから
楊 確かに
まあ鹿児島行くと辛いもって 呼びますけどね
楊 ああそうなんだ
だってさつまでさつまいも って呼ばないでしょあれもヨーロッパ
からやってきてるじゃんだから東 の国から来たと思ってるから辛い
もって
楊 鹿児島になった場所って大体 来た国の方向とかでざっくり呼ぶ
よね
これ江戸時代の日本人ありがちな
名前のせ方なんですけど海外から 来たものはネーミング基礎決ま
ってるんですよもう中国系の名前 が付く唐とか漢とか唐とか清とか
ああいうのが付くだいたいねあと 蘭が付くランダの蘭あと南蛮が
33:04
付くまた一体これと収まる 楊 蘭と南蛮すげえ近いけど
だいたいこんな感じで決まる からさつまいもに関しては辛い
もって呼ばれたりします
楊 もうざっくり中国とオランダ 由来以外ないっていう
もうよくわかんなくなってる クシャッとしてるちょっと脱線
したんだけどじゃあ現在じゃがいも の生産量は里芋に対して何パーセント
楊 里芋に対して何パーセント半分
ちょっとぐらい
いやいや里芋1としたら12から 15ですよ
楊 倍
じゃがいもの方が12倍から 15倍取ってますよ
めちゃくちゃ取ってんね 楊 めちゃくちゃ多いっす
そうか北海道があるからか 楊 そうなんですよいいね台本つぶし
次言おうと思ったこと
だってそこまで前振りされたら もうカルビーしか出てこなかった
楊 ああそっかそうですね北海道を 抜きにして日本のじゃがいもを語る
ことはできないんですよ
そうねさっき76パーって言 ってたやん
楊 そうそうなんですよ80パー近い ですから北海道が日本国として
成立していくアイヌの人たちと 融合していっていろんなトラブル
はあったんですよ最終的に日本 になるわけじゃないですかそこから
開拓の歴史が始まりますよねこの 歴史がイコールじゃがいもの歴史
です
ああそうなんだ
楊 北海道の発展はじゃがいもが 必要だったしじゃがいもが拡大する
には北海道の発展が不可欠なんですよ ということでこの後北海道の話
をちょっとするんですけど北海道 に行った北方開拓史って聞いた
ことありますかね
北方開拓史
楊 何でしょ開拓史とか北海道開拓 史って言われるんですけど正式
には開拓史だけで通じますけど ね
歴史みたいな
楊 開拓史の詩は使うっていう詩 です
使うね
楊 これはなんて言ってるんでしょう ね今でいう省庁みたいな何とか省
大蔵省とか財務省とかさああいう 国の機関です
ああビールの時に出てきた もしかして
楊 出ました
出てきたよね
楊 はい札幌ビールの前身の開拓 史爆収あれですあれです
そうだよね開拓史のこここの 機関がなかったら札幌ビールできて
ないって
楊 はいできてないです
話があったよね
楊 はい今回ねもう一回なぞります から
なぞるんだ
楊 なぞります
すごい今ふっと思い出した 気がする
楊 日本が鎖国をやめて開国をして 11年目に開拓史ができます
ああそうなんだ
楊 本腰入れて北海道を開拓しよう っていうもう強い意志の現れなん
ですねこれはね背景があってこれ 1869年に開拓史が設置されるんです
けどこの時点でまだ藩はあるんです 藩はあるんだな
楊 県ができてない廃藩地権が行 われるのはこの2年後なので明治
36:01
4年くらいなんですねなのでまだ 藩があるんですね明治政府でき
たばっかりなので弱いんです 今までの幕藩体制っていうのは
一応トップが幕府ではあるけど 各藩がイコール国として行政の
になってるわけじゃないですか だから中央集権じゃないですよ
完全なる新政府としては自分の 力でやった独自政策で開拓した
場所が欲しいんですよこここそ 直轄だっていう
そういう権力じゃないけど 楊 藩の影響を受けない政府独自
の政策を持てるエリアっていう のが必要であるもう一つはこの
時代ロシアとちょっと緊張関係 にあるんですね
この時から 楊 実は日本が江戸時代だった
時代からすでにロシアがちょっかい 出してきますから来てるんですよ
もうペリーさんよりも前に来て るんです
そんな前なの 楊 それ打ち払ったりとかしてる
んですなんでもうちょいちょい来 てるんですよしかも接点じゃない
ですか北は当時はカラフト左上 のほうですねあそこは日本領なん
ですね なぜかっていうと開拓史以前
に松前藩の人たちがそこに行って たりとか日本人和人がもうすでに
住み着いたり藍の人も住んでる 藍の人の住んでるエリアなんです
もともとで後にカラフト千島を 交換するっていう条約が結ばれる
ことでじゃあカラフトはロシア ね千島列島は日本の領ねっていう
ので交換してでカラフトに住んで た和人とか藍の人は全員北海道
に移住させるっていうそういうこと が起こるんですけどこの時点で
まだそうなってないなんでロシア と緊張関係があるんで北の守り
の前線が欲しいっていうのも一つ ありますよね
そんな背景が 楊 あともう一つは幕府消えた
じゃないですか領地召し上げですよ ねあちこちの
そうだね 楊 そうするとリストラに会うわけ
ですよ侍たちが 侍たちがね
食いっパグれるじゃないですか で彼らが開拓をするための人材
になって北海道に移住をしていく いわゆる失業対策ですね
大人の時と一緒だ 楊 そう徳川家の家臣団は静岡に
移植しましたけど幕府の直接の 人たちじゃない武士団がいます
よねその人たちが続々と例えば 藍津藩氏とかさすがに殿様はい
かないですけど藍津藩の中のなん とか寮の人たちとかが先代藩とか
が行くんですよめっちゃ力入れる のここにここに力を入れたその
覚悟の度合いがすごくて開拓し 十課年計画なるものをぶち上げ
るんですね 十課年
楊 だから六十計に立ち上げるんですけど
少し居酒屋を出して準備をして よしやるぞって決めて十年計画
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を組むんですよ当時の金額にして 1000万円の予算積むんですよ
当時の金額で1000万 楊 現代の価値だとすっごい雑な
計算しかしないですけど20兆とか そうだよね何千とかの世界
だもん今の当時 楊 そうなんですよ1円で多分今の
感覚で2万円とか2万いくらの価値 があると思うんですよね仮に1円
が2万円と同等だとすると20兆円 規模ですね10年間で20兆円を使う
ような開拓規模 楊 めちゃくちゃな金額だね
これを明治政府は覚悟を決めて 重要人物と薩摩バスとか長州バス
の人たちがグラって向こうに行って 頑張ると
楊 そりゃあ施設団も送るよね海外 に
そうなんですよこれはすごい ことになる
楊 ビールと今繋がってきちゃった 繋がってきた
楊 あんなに施設団を送った理由 っていうのがよくわかってきた
わかりましたじゃあそこの ところを今からしゃべると丸々
一本分言っちゃうので次回切り出し をしますってなんでそこに行った
のかっていうのは今ちょっとお話 しましたけど行った人たちの中に
どんな人たちがいたのかっていう カテゴリーですねとその背景の
お話とあとその中に二人キーマン が混ざってますので主にそのお
二人の人生と影響について次回 お話をしようと思います
楊 久しぶりに人物フォーカス
やってみようと思いますね 楊 だいぶぶりだねちょっと期待
しとこうじゃあ今回はこの辺で 終わりたいと思いますありがとうございました
ありがとうございました
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