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たべものラジオ
たべものの世界を探求する、たべものラジオの、掛茶料理むとう、むとうたくろうです。
むとうたろうです。
このラジオは、少し変わった経歴の料理人兄弟が、食べ物の知られざる世界を、ちょっと変わった視点から学んでいくラジオ番組です。
はい、ということで本編行きます。
はい。
おっと、前回からの続き。
1600年代。
1600年代?
はい、1603年。江戸幕府開封。
はあ〜ずいぶん飛んだね。
はい、間室町とかね、戦国時代全部消えましたよね。鎌倉時代の話も今回ないです。
ないの?
平安時代の話すらしてません僕。
確かに。
平安時代でこんなふわ〜消えた〜って言って出てきたら、オランダっていうのがいきなり出てくるんだよね。
はあ〜で1603年?
に江戸幕府ができて、ポルトガルがうろちょろしていて、まだ当時出島ができてないんで平戸とかね、長崎とかにうろちょろしてて。
はいはい。
で、オランダ将官が平戸にできて、でそのうちにポルトガルが悪さするもんだから、わちゃわちゃするからお前ら出島に閉じこもっとけ〜みたいなことして押し込めるわけ。
はいはいはい。
そしたら島原の乱みたいのがあって、でポルトガルもゴリゴリ来るもんだからお前ら出てけ〜って言って追い出す。
出島が開く。
開くね。
出島が開いたので、それまで平戸にあったオランダ将官に言って、お前ら出島が開いたからあそこに行けって言って。
あんなに開放的な町だった、自由に行き来できた平戸から出島に封じ込められるというのが1641年です。
1641年か。
はい。いわゆる鎖国の完成って呼ばれてるのはこの頃ですね。
はいはい。
で、1641年に平戸から長崎の出島にオランダ将官が移設されます。
移設されて完成したので、おめでとうなのかわかんないけど、長崎武行だったりとかね。
長崎武行ってのは江戸幕府直轄の地方官僚ね。長崎武行だったりとか。
地区語の久留米藩。
地区語の久留米藩。
久留米藩って久留米市って今でもあるよね。
あー久留米甲子園あるわ。
あそこに藩があって、そこの藩主が有馬って言うんだけど、もともと出は兵庫の値だったかな。有馬山荘の有馬ね。
あーその有馬なんだ。
その警府が実は掛川の横須賀城に一回城主やってたこともあるんだけど、その人が一回本拠地の有馬に戻って、家族をされて天父になって久留米のお殿様になるの。
で、ちょうどその時がオランダ将官が出島に移設される時だろうね。
で、この有馬のお殿様と長崎武行とそのお供の者たちがオランダ将官を訪ねる。
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どんな奴らだろう。公務人。
公務人。
公務人。あの紅の毛の人って書いてある公務人ね。
はいはいはい。
昔の日本人はね、人種を肌の色で見てないんですよ。
あ、そうだな。
壁眼って言ったら青い目だよね。
確かに。
公務っていうのは赤い髪だよね。
あーはいはい。
白人黒人とか黄色人っていうこの切り分け自体がまさに西洋史観なんで、ヨーロッパ人から見た見え方ね。
うんうんうん。
だって日本人で日焼けしたら黒人になっちゃうじゃん。
確かに。
凝弱な奴白人になっちゃうじゃん。
確かに。
黄色人種ってそうだから。だから鼻の高いやつ天狗みたいなのとか、壁眼で目が青いとか公務人とかって言って、当時はオランダ人のことで公務人って呼ばれてたんだよ。
へー。
だから興味本位もあっただろうし、幕府が許した海外との交易をする重要なパートナーでもあるから訪問したんですって。
へー。
だからカピタン、カピタンっていうのはオランダ省官庁ね。
はい。
オランダ省官庁とかってオランダ省官っていうとオランダの国家がやってるようにも見えるんだけど、国家が作った会社があるよね。
会社が。
オランダには。東インド会社っていうのがあるね。
あーはいはい。
東インド会社の支店。
支店なの?
がここですよオランダ省官の支店。
へー。
言ってみれば。
あーそういうことね。
インドにもあったりとかアフリカにもあったりとかするわけ。いろんな支店みたいなのが。
それの日本支店の支店長みたいなのがオランダ省官の省官庁。
当時日本人はカピタンって呼んでたね。
カピタン。
これ英語に直すとキャプテンって意味だけど。
あーキャプテン。
ポルトガル語でカピタンって言って、ポルトガル人が先に来てカピタンカピタンって言ってるから日本人そのままカピタンって言っててさ。
オランダ語ではどうも全然違う単語らしいんだけど、変えずにカピタンって呼んでたんだって。
へー。
で、カピタンがアリマさんとか長崎の武行がやってきたときにいろいろと宝物を見せてほしいって言ったからこんなものがあってねって。
要は視察に来たんでいろいろ説明をして、我々の国はああだこうだっていうのを通訳を返して話をして。
せっかく来てくれたからっておもてなしをするわけですよ。
宴。
宴。
で、オランダの人たちが料理を作ってお酒を振る舞ってくれたと。
ワインとね、オランダ風の料理とね、アラクシュって書いてあったから多分アイラクのことだろうねこれは。
アイラク?
バニューシュ的なやつだろうね、おそらく。
そこまで言及がないからよくわかんないけど、響き的にはそれじゃないかな。
あとこれは日本語で書かれているものなのでよくわかんないけど、ギューラク、カンラクという文字が出てくる。
ギューラク、カンラク。
これ古代のでいくとヨーグルトになっちゃうじゃない。
なんだけど、もう古代の乳製品のことを日本人はもうわからなくなってるんで。
だって間1000年経ってるから。
まあ確かに。
しかも途切れたでしょ。文献読む力ないからね。武士だし。
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ついこのあたりまで戦場でオラーって言ってた人しね。わかるわけないじゃん。
だからギューラクは多分バター。
バター?
おそらくね。
そうなんだ。
で、カンラクはおそらくチーズだろうと言われてます。
カンラクがチーズ。
こういったものが振る舞われましたと。
だからその食事の間中通じを返して有馬殿や長崎仏教良明らから
これらについていろんな質問があって困ったみたいなことが書かれてますね。
へえ。
興味持ったんだろうね。うまいし。
まあおいしいもんねどっちも。
バターパンに塗ったんだろうね。
これなになになにこれ。これ塗るとすげえ濃厚でうめえんだけどなんだこれみたいな。
確かに。
爆上がりでしょうねテンション。
だって昔なかったと考えたらバターってミラクルだもんね。
これがあの葡萄酒か信長殿もこれを召しておられたそうな。
これはいかにも酸味が効いておるがうまいものじゃ。
この生け物肉と合わせると何とも相性がよいまして
このカンラクと合わせるとワインってものはみたいなことを言ったかもしれない。
言ったかもしれない。
というような会話が取り交わされてびっくりするんだよね。
したらさこの長崎武行たちがみんなが帰ったあとしばらくして
そっからね長崎武行からちょいちょいバターちょうだいチーズちょうだいエリクサーちょうだいって言わないか。
エリクサーちょうだいはそれはゲームの世界だけどバターちょうだいチーズちょうだいってちょくちょく言ってくる。
めっちゃ気に入ってるね。
めっちゃ気に入ってる。
でね長崎武行っていうのは幕の旗元がなるんだよ基本的に大名とかじゃなくて。
旗元。
だから大名みたいに両国持ってるわけじゃないからそんなに収入が高くない。
何万国とかじゃなくて数百国とか2千国とかだよね。
だからこれは歴代ずっと江戸時期を通してるんだけど長崎武行っていうのはそこの着任期間中にオランダから急使急使急ぎの使いを出してね。
そういうことね。
江戸へ送ったと。
これは幕府だからそのまんま将軍に献上されたと思う。
本当に急いでもってくぐらいだもんね。
こういったものがございましたっていう報告だよね現物をつけた報告書を書いて送ったと。
自分の上司ですからね。
送ったということなのでどうやらこの時代に少しずつ江戸幕府の要人は乳製品についてちょっとずつ知識を入れ始める。
当然ですけどオランダ人との交流が一応あるのでそこからも知識を得ていくんですね。
ちなみにこのバターとチーズどうやって手に入れていたか。
どうやって手に入れていたか。
オランダ人が。
オランダ人がね。
出島ですよそんな広くないですよ。
ミルクないしね作るような場所ないからね。
日本はもう長らくミルク作ってないので牛はそんなに大きくないしいても少数だけど大体農耕用ですから。
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どうしてたか。
初期の頃は輸入してる。
持ってくる。
持ってくるのは牛を。
チーズとバター。
チーズとバターの状態で持ってくる。
これはねオランダからオランダ本国から持ってきた部分もあるでしょうし各地に植民地を持ってますんで。
インドとかね。
日本に一番近い植民地で言ったらバタビア今のインドネシアのジャカルタですよね。
ジャカルタ。
植民地時代オランダの人たちはバタビアって呼んでました。
バタビアって言うんだ。
バタービア。
バタービル?
わかんないけどこれバタビアの語源が調べても調べてもよくわかんないんですよ。
でもありそうなのでいくとビアってさ港とかああいう時に着くやつですよね。
道路とか道とか交通の英語で言ったらビアなんとかでviaとかで使い分けするじゃん。
港なんかもビアってついたりするよね。
このバターは何だろうなって。
僕の素人な見解ですよ。
もしかしたらバタビアの可能性もなくはないかなって勝手に想像してますけど。
可能性はあるよね。
本当のこと知ってる人がいたら教えてください。
一応ねバタビアにも牛を飼ってたらしいです。
それはアジアにおける一大拠点なのですぐ隣にスパイス商棟とかあってね。
そこでスパイスとってオランダが持って帰って売るみたいなことやってたんでこの時代。
そこの拠点にオランダ人がたくさん住んでいて彼らにとっては日常食ですよね。
日常食だね。
これはもうヨーロッパのミルク文化のところでお話をしたと思います。
日常食として食べてます。
特にオランダはノルマン系ゲルマン人ですよね。
ノルマン系ゲルマン人。
ゲルマン人なのでルーツをたどっていくと数千年前の話になっちゃうけどもともと遊牧系の人たちですよね。
確かにその話あったね。
遅れてきたゲルマン人ノルマン人みたいなね。
ノルマだからノルマン人って言うんじゃないですか。
ノルマン地方にいるからノルマン人って言うんですよ。
そこはあんまり思ったことない。
あの辺オランダっていうのはそういう地域なので。
割と楽土も盛んだったこともあって牛乳から作られる乳製品っていうのは主食に近い日常食だった。
日本人が海外に長らく投入するときに日本のものが食べたいのと同じでやっぱりバタビアにも牛を連れて行ってそこで買っていろいろバターだとか乳製品を加工していたと。
それが輸入されてたんだけどそのうちにバタビアからデジマに牛を連れてきてデジマの中で乳製品加工するようになっていくみたいな感じで。
これが江戸に送られるようになっていくんです。
当時のオランダ将官東インド会社のカピタンは義務があるんです。
江戸幕府から申し付けられた義務があります。
これは年に一度江戸城を散歩しなきゃいけないです。
行かなきゃいけないです。
行くってことね。
行ってご挨拶しなきゃいけないんですね。
これは一応お礼ですね。
12:00
お礼。
日本というのは鎖国を完成させましたよね。
鎖国という言葉は後からできるんだけどそうなりましたと。
そしたらポルトガルは追い出されました。
書物読んでて面白かったんだけどオランダとポルトガルが一緒に幕府に呼び出されて行ってるとかあるんだよ。
そのシーンが記録に残ってて。
その直後にポルトガル追い出されるから多分その時点で決まってんだろうね。
サタが言い渡されるときにオランダの人たちが勝ち誇ったように見下ろしてたっていうのが書いてあって。
彼らからするとエンペラーですからキングですから。
日本の将軍っていうのは当時ね。
彼らはオランダには総督とかキングとかいる世界観にいるので。
だからその人から貿易の許可をいただいてるっていう観念はあるんですよ。
だからお礼に行く。
そういう流れね。
これ日本のことを野蛮と思ってたかどうかっていうよりは
もともと中世ヨーロッパもそういう慣習があるんです。
もうほとんど土下座のような格好で中世の王様たちにそのお礼を言うときに膝貸しづいてね。
で、ははーって言って献上品を渡す。
で、良きに儚い。よくやったみたいなことで。
で、帰りにお手土産を渡されるみたいなのがあったので。
その延長上だと思ってるからオランダ人もそういうもんだろうと思って江戸散歩してます。
でも屈辱的だったらしいけどね。結構嫌だったらしいけどね。
嫌なんだね。
タカトリヤ 遠いしね。
めちゃくちゃ遠いね。
タカトリヤ 遠いしね。わざわざ毎年1回行かなきゃいけないしね。
そうね。今みたいに新幹線でパッて行くわけにいかないからね。
タカトリヤ で、当時はヨーロッパのように土足じゃないけど江戸城御殿だったり本丸とかだったりするからさ。
西武寺で畳なのかな板沼なのかわかんないけどそこで頭を畳につけるぐらいの土下座をちゃんとして。
これはもう日本人だってみんなやるよね。当時の人はね。
タカトリヤ そうだね。
初期の頃はそんな厳しくないけど途中からは将軍様の顔を直接見てはいけないとかね。
もういるんだけどミスがかかってる。すだれがかかってて直接見えないとかね。
そんな風になってっちゃう。初期はそうでもない。一応頭巾をかぶってる程度で直接会話ができるレベルだったらしいけど。
土下座した状態のまま前に出て行って隣で日本人の抜角が口上を述べたら母って言ってそのまま下がる。
ザリガニのように前に出て行ってザリガニのように下がってくるみたいな。
タカトリヤ 例えが。
それ書いてあったな。
タカトリヤ 書いてあったの?
ザリガニスタイルって書いてあったもんね。
タカトリヤ まあそっか土下座のままだもんね。
そう。
タカトリヤ そっか手が前に出てるからね。
タカトリヤ そんなような状態で行ってたんだって。だからその時点では将軍と直接会話はしていないんだけど、でも将軍家越見の前にだいぶ待たされるんだって。
へえ。
タカトリヤ 一刻から二時って書いてあったから2時間から長いと4時間くらい。
長いな。
タカトリヤ ただ待ってる。
待ってるだけ。
タカトリヤ メディア何もないからね。
まあ確かに。
15:00
タカトリヤ 無言だからね。緊張感漂ってるから。隣に老中とか長崎武教とかいるんだからさ。
その状態で待つの?
タカトリヤ 地獄の有馬の殿様だけが心の頼りみたいな感じでずっと待ってたんだって。
へえ。
タカトリヤ でも待ってると退屈だしさ、老中たちも興味はあるから。
タカトリヤ 非公式に会いに来るんだって。
へえ。
タカトリヤ で、チーズとがんらくというものがあるらしいとか、バターというものがあるらしいがこれは何用のものじゃとか。
タカトリヤ おのしらが持ってる毛織物というものは一体どういったものかのとか。風俗のことを聞かれたりとか。
タカトリヤ そこで通じの人がいるから通訳をしてくるというような時間もあったらしいです。
タカトリヤ 中には後代将軍の綱吉あたりになってくると直接話したいというので、公式の越見の儀式とは別に非公式の直接会話をするような場も設けられていたようです。
タカトリヤ これはいろんなのがあって、踊りを踊らされたとか歌を歌わされたとかいろんなのもあるんだけど。
そんなのあるんだ。
タカトリヤ ただこれ1691年のエンゲルベルト・ケンペルという人の。これはドイツ人のお医者さんでオランダ証券のお医者さんの日記なんだけど。
エンゲルベルト・ケンペル。
タカトリヤ これはヨーロッパに戻った後に日本史っていう日本の雑誌の詩で日本のことを紹介した本を書いたことで有名になっていく人なんだけど。
ちなみにこの日本史が後1700年代後半に日本語にもう一回翻訳をされてその時に本のタイトルが死ぬほど長いのでその翻訳者が使った言葉が鎖国論。
鎖国論。
タカトリヤ その鎖国っていう言葉はそこで使われて初めて出てくる。
それでさっきね。
タカトリヤ さあ後に出てくる話。その元ネタになったのはこのエンゲルベルト・ケンペルの日本史という書籍。
この人はドイツ人なんだけどオランダ商艦で働いていて出島でお医者さんをやっていた。この人が長いな。
カピタン・エド・サンプに随行して将軍に直接会っている。
すごいなんか入れ込みみたいなのが聞こえた。
タカトリヤ 実は後代将軍綱吉公は少しお会いしただけだがとても賢そうに思えた。
素晴らしい英明な君主であるように見受けられたという記録を残して結構絶賛してるんだけどね。
そうなんだ。
タカトリヤ この人の記録によると蕎麦要人の牧野成貞という人からチーズが欲しいというような要請があった。
牧野成貞という人は将軍のお付きの人なんだよ。
将軍のお付きの人。
タカトリヤ 綱吉のお付きの人。蕎麦要人だからね。
本当に側近みたいな。
タカトリヤ 側近。蕎麦にいて用を足す人だから。いろんなことやってくる人ね。
この人が憲兵のところに来てチーズが欲しいと。
そしたらチーズをこれとこれを持ってってくださいと渡しをする。結構でかいの丸ごと持ってる。
これね、どうやらたまたま持っていたのではなく、持参していたっぽいよ。
持参していた。
タカトリヤ わざわざ欲しいっていう人がいるだろうなと思ってちょっとチーズ余分に持ってったっぽい。
まさかの将軍様から言われたのではいじゃあこれ全部みたいな渡し方をしてる。
18:03
そうなんだ。
タカトリヤ っていうのはね、長崎武行が旧市で江戸にチーズ送ったりとかもしてるし、
綱吉っていうのは5代目の将軍だからね。
初代は家康で秀田だ。家光3代とかあたりからだから、綱吉から見ておじいちゃんかな。
そのぐらいの時からは多分オランダに関する知見っていうのがたまってくる。
オランダ召喚で蕎麦節が家光の時だからそうだね。そのぐらいおじいちゃんぐらいの時だからね。
だからある程度知っていて情報も聞いてる。
この将軍越見の義っていうのは世史、世史ね、子供。
世史。
タカトリヤ 四次。四次の次の将軍候補が大体一緒にいるんだって。
っていうこともあるので多分若い頃から綱吉はある程度知っていた。
で献上物の毛織物とかお酒だとかチーズだとかバターとかもある程度知っているから
今度来た時にもオラ会おうと思ってて。ちょうだいって言ったら
うんうん言うと思ってましたよどうぞみたいな。
こういったことがずっと続いていく。
特に綱吉以降こういうのが交流が盛んになっていくんだよね。
で大が少し相手で次の次の大ね。
吉宗。次の次が八大将軍。
暴れん坊将軍徳川吉宗公ですって。
暴れん坊将軍ね。
タカトリヤ 思い出しました米将軍ね。
この人がチーズちょうだいバターちょうだい牛ちょうだいって言う。
そうなのそんな感じなの。
タカトリヤ 牛を持ってまいると。
他の将軍でも馬が欲しいとかも言ってんだよ。海外の馬が欲しいとかね。
日本の馬と海外の馬を掛け合わせてより強い馬が欲しい。
言っても徳川幕府っていうのは軍事政権ですから。
軍力軍事力はある程度持ってなきゃいけないのでそういったこともやってます。
同時に政治も内政もやってる。外交もやってる。そんな感じね。
でどうやらその日本日の元の牛ではないものがいるらしいと。
でコウモー人、オランダ人の持っている牛はちょっと違うらしいということを知りました。
当時っていうのはね吉宮の時代にも限った話ではないんだけど
世界全体が社会全体が頻繁に感染症に見舞われるような時代なんですよ。
もう感染症流行ったところ。
タカトリヤ 流行ったというかね感染症と人類っていうのは常に付きまとってるのね。
現代でもそうじゃん。ついこの間コロナあってコロナに似たパンデミックっていったらスペイン風邪まで戻るじゃない。
あれも新型インフルエンザですよ言ったら。けど間にSARS、MARSありましたよね。
あったね。
タカトリヤ いろいろあったじゃん。大体ねサイクルったら3、40年に1回感染症が大小を合わせていろんなパンデミックが起きてるんですよ世界中で。
これは常に人類史はずっとこれ。
21:00
そうなんだ。
タカトリヤ これの対策もしなきゃいけないのに海外の人がやってくるとまたそれによって新しい菌が持ってこられて
耐えられないとかっていうことも起きますよね。
特に日本は獣との接点が少ない。
肉食禁忌以降とっても少ない。
だから動物由来の感染症ってのは結構少ないんですよ。
ところが牧畜民っていうのは獣と共に暮らすのが当たり前ですから。
羊だとか馬だとか牛だとか当たり前ですよね。
その四足動物由来の菌を持ってるんだけど彼らも大変な思いをしたけど千年以上経っているので体制を持った人たちが生き残ってるわけですよ。
その人たちが日本にやってくるとひとたまりもないわけですよね。
これ南米征服の時でも話をしたと思うんですけど、コンキサドウの時にもジャガイモとかサトウのシリーズとかで出てきたと思います。
あんな状態のちっちゃいのが来るわけですよ。
これに対して将軍吉宗っていう人はですね、結構ね国民の健康が大事だという思想を持っている人らしいんです。
国民の健康。
健康を守ることはすなわち国益につながることだと。農業も大事だこういう思想を持ってるんですよ。
これなんで名言できるかっていうとこれね限定音声でちょっと話をしてるんですが農業全書覚えてますか。
農業全書。
宮崎康生が編参した1697年に発行された農業全書ですね。
めっちゃ作り方集めたやつ。
農業の素晴らしい本。明治に至るまで更新されないくらい素晴らしい本です。
これは例えば徳川光子くん。見とこう思うんですね。
この本は片続きもこの世の中から消してはならぬっていうぐらいの名著だと呼ばれてるし、
吉宗はこの本のことを座右の書と公言してはばからなかったっていうぐらいですから。
すごく大事にしてた。
実際この農業全書からも結構学んでいて、
この農業全書の中で著者である宮崎康生はこんなこと言ってます。
農業と薬種の栽培はすなわち国益のもとである。
農業を発展させること。薬種っていうのは薬草とかのことですね。
野菜も含めて、当時の薬草っていうのは幅が広いですから。
健康食品も含めて体を強くするもの。健やかにするものはすなわち国益にかなうものである。
ひの元の民が皆健康で元気でいれば栽培も良くなって生産量も上がってどんどんどんどん伸びていくんだという思想の持ち主ですよ。
これを座右の書としている吉宗がその影響を受けないわけがないんですね。
だから目安箱に登床された中から療養所を作ったらどうですかって言ったら、
うん、それはいいね。たたすけ、お前やってまいれって言って小石川養生所みたいなのが作られていく。
これ大河越前っていう昔の時代劇を見ると出てきますから。
24:01
興味があったら古いドラマですけど見たらわかると思います。小石川のお医者さんがいるから。
ドラマとか映画化されていくのでいくとこの小石川養生所を作った時の最初の院長先生が赤ひげ先生ですよ。
映画の中で聞いたことない。
赤ひげ先生のモデルになった人が目安箱に登床してこの養生所を作らせるんだけどさ。
ざっくり言うと結構国民の健康とかに意識の高かった吉宗。
この時代に三頭の牛を連れてまいれっていうのはもう頭の中に醍醐とか楽がありますよね。
っていうのもケンペルの西とかその辺を読んでいくとですね。
バターを丸めて固めて含薬にして処方したとかっていうことが書かれてるんですよ。
含薬として。
バターをね。
バターを。
日本っていうのは比較的動物性脂肪とか動物性タンパク質が少ない生活をしてるわけですよね。
だから栄養がちょっと足りてない病気で伏せてる時なんかはもうエネルギードカーンって注入するとダメな時もあると思うんだけどいい時にはすごく働くわけじゃないですか。
だから砂糖が薬になったりするわけですよね。
栄養剤としてっていうのもあったのでそれを身をもって将軍は知ってるわけです食べたことがあるから。
知識も今まであんだけ断絶されてたのに8代くらいまで来ると知ってるから。
でインドかどこかわかんない品種がハメしないんだった白牛って書いてあるだけでホルシュタインなのかなまったくわかんないけどコブシかもわかんないよ。
だけどとりあえず連れてきてで阿波の国の峰岡牧という牧場だよねそこに持ってって買わせることにした。
阿波の国って暴走半島の南の方だよね千葉の。
暴走半島の方。
あそこ立山っていうところだよね。
立山。
昔立山藩っていうのがあってさとみ家って言ってさとみ発見伝の元になったところだね。
そうなんだ。
いやたくわかんなくてもリスナーさんの誰かが知ってると思う。さとみ発見伝くらいは。
あのあたりに幕府が直接運営してる牧場があったと。でそこで馬とか飼ってんだよ。
馬飼ってんだ。
それはね本当平安時代とかの頃からあの辺は馬を飼って育てる地域なの元から。
牧場があるからそこに幕府直轄だし牛もそこに行って育てよう。
でこれで国民の国の民の健康に寄与するように台を作れということを言ってやらせます。
ただ3頭だからさ。
3頭だけか。
そんな簡単にいかないんだよ。だからね頑張る。
頑張る。
次の代になっても次の代になってもその牧を任された牧の人ね牧人の人たちだったりとか
その統括をしている野間武行っていうお武行さんとかが先代の将軍様がおっしゃったことなんで
先々代の将軍様がおっしゃったことなんでって言って頑張る。
先々代の将軍の言ったことも頑張るんだよ。
27:00
すごい長いね。
ずっと頑張ってやって60数年後1792年ついに乳製品が作られる。
この峯岡牧でね。
そうなんだ。
で醍醐を目指してたらしいんだよ。バターオイルのはずじゃん。
だけど文献見てもこの時代にいろんな文献出てくるんだけど江戸人が書いてるものだから
作り方がほわーっとしてなんだかわかんない。
幕を取って重ねるくらいのところまでで止まってて
そのことを言っても楽のことを書いても醍醐のことを書いてもみんなその作り方なんていうのが何のこっちゃわからないわけですよ。
そのくらいぼやっとしてる。
そうなんだ。
でも甘酪っていうのはチーズだというのを知ってるわけ。
それは古代の甘酪とは違うよ。オランダ人が持ってきたものだからさ。
違うんだけど甘酪とかバターみたいなものがどうやら体にいいということがわかってる。
それを目指して作ろうとした。
したけれどもこの時代の日本人が知っている乳製品の作り方唯一わかるものが醍醐だけなんだよ。
そっかもうなくなってるからね。
だから甘酪はその作り方であればたどり着けると思い込んでるわけ。
だいぶ手順違うね。
ケンペルとかいろんな人からもらってるからさ。
これかこういうふうに固まればいいんだな食べたらうまいよしこれ目指していこう煮詰めてみようそれっぽい形になったなんか違うちょっと塩入れてみようなんか違う砂糖入れてみようって言って甘酪ができるんだよ。
当時甘酪と呼んでいたもの。
で内善の将って言った将軍家の食事を統括しているお役人さんがいてさその人が峰岡に行って料理はプロだからさこの人行って加工とかやるわけ。
プロって自分が作ってるわけじゃないけどね役人だから。
実際に手を動かすのは別の武士だけどその人が行って指導をして何とかかんとか形にするわけ。
江戸城に直接いる人だから将軍の食事を管理するってことは当然江戸城にいるわけじゃない。
チーズとかバターのこと多分知ってたんだろうね。
で行って峰岡で指導をして形になってやっと将軍に献上したときには将軍は8代ではなく9代ではなく11代家成の時代になっていました。
これが1792年の出来事です。
で献上したうまい元気が出る。
ちょっとね家成さんね体が弱いんですよ。
で元気になったって逸話が残ってるんですけどね。
だからこれは体に良いものだっていうことでどうもカンラクとは味が違ういわゆるチーズとは味が違う。
だからこれをカンラクとして呼ぶにはふさわしくないということで白牛からできたラクチーズみたいな感じで白牛ラクと名前が付けられました。
もうもはやヨーグルトでもなんでもないぞ。
30:01
でこれは江戸の庶民の健康に期するものであるべきだと吉村が言ってましたからね。
だから幕府の旗振りでもって内善の将岩本正道という人は白牛ラクを売りに出すわけですよ。
幕府から江戸の庶民に対して売るわけですね薬として。
でここでこの白牛ラクを作り出した功績によってこの岩本さんという方は食事の管理者から牧場の管理者に変わります。
野間武行という武行なんだよね。
で野間武行の役所が江戸城の近く江戸城の吉橋っていうお堀にかかってる橋があってそこに門があったんだよね。
でその吉橋門の前にあったのが野間武行の役所だったのでそこに馬屋牛舎。
馬屋って言ったら普通馬が飼われてるんだけど牛を峰尾から連れてきてそこで日常をしてここで白牛ラクを作って売れば江戸城界隈の江戸の庶民に届くじゃない。
でこれを売ると。
だけどこの白牛ラクがどれだけ体にいいものかが伝わらないと宣伝ができないといけないじゃない。
でお医者さんである桃井寅さんっていう人にお主ちょっと白牛ラクについて一筆書いてもらえんのか。
わかりましたって言って白牛ラクこう考えるね。
白牛ラクこうという書物をしたため序文はわし自らが書いて死んぜよって言って岩本さんが書いてこれを献伝して江戸市中で販売するというね。
やっと武士から旗元くらいまで届いた。
で面白いのがこの白牛ラクレシピ残ってんだよ。
残ってんの。
だって1700年代終わりから1800年代だからね。
もうだいぶ近いもんね。
だいぶ近くきたからね。
で現代でも峰岡の牧場とか行くと売ってんのかなわかんないけどだいたい牛乳200ccに対して黄米砂糖6グラムですよ。
でミルク200ccをフライパンに入れますか。
弱火でずっとコトコト煮ながらヘラかなんかで焦げ付かないようにずっと練っていきます。
あとだんだん煮詰まって量が半分くらいになってドロッとしてきますよね。
そのタイミングで砂糖入れます。
でまたこう練っていきます。
あとドローッとしてこうねっとりしていきますね。
結構重くなってきて固くなってきますね。
これを取り出して型に入れて冷ます。
型に入れて冷ます。
全然チーズでもないし全然ヨーグルトでもないけど楽なんだね。
もう見た目だけというかイメージだけだよね。
イメージだけでできるっていうような状態が江戸の後期の話です。
江戸後期にそんなことやってたんだ。
やってたんです。
これね知らない方すごく多くて日本料理やってる人もあんまり知られてないんだけど
料理名の中に峰岡と名の付くものがあるんですよ。
あるね。
これは牛乳を使った料理を江戸時代から明治くらいに考案された料理は大体峰岡なんとかって言ってますね。
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確かに多いね。
僕もこの間までこれからかな夏場なんかになると体力が落ちるっていう理由もあって
夏の季後のように扱われるのが峰岡豆腐なんですね。
これはゴマ豆腐の出汁の代わりに峰岡を使うつまり牛乳を使うんです。
で練っていくゴマ豆腐のように練っていく。
だから外用にも思えるけどこれはくず粉を使ってるので全く別物ですよね。
そうかくず粉で固めてるのか。
そういう感じのものも出てくると。
峰岡は日本乳製品の発祥の地みたいなことで楽能発祥の地っていう歌いで
現在も南坊村のあたりで売り出しをしてますが
正確に言うと楽能の発祥の地も乳製品発祥の地も多分奈良県ですね。
500年代ですけど。
そうだね。
そしてヨーロッパ式の乳製品発祥の地は出島ですね。
まあまあまあ出島だね。
純国産ヨーロッパ風アレンジ楽能が峰岡かもわからないです。
遠いな。
遠いな。
っていう感じのが本編の前。
前ね。
本当ここから面白いのは明治以降ですからね。
ここから明治以降に行くの。
多分日本のミルクの歴史って言って多くの人が思いつくのは
蘇の話と後はぶっ飛んで明治以降の話なんです。
つまり開国した後に西洋文化肉食が入ってきてとか
西洋近代化の歴史の中でっていう話が多いと思うんですよ。
ただこれは日本が開国した後に一気に発展途上国のように
経済的に急成長していったのと同じ理由でですね
いきなりやってあんな風になるわけがないんですよ。
いきなりやって軍国帝国になって帝国主義貫けるかというとそんなわけもないし
一気に経済発展できるわけがないです。
できたのは江戸時代の積み上げがあったからできてるっていう話
たぶん寿司館何かの世界の時にちょっとお話ししたと思うんですね。
同じようなことがこの乳製品でも起きているということですね。
この峰岡牧なり岸橋門の馬屋での出来事
白宮楽という存在こういった土台があって
ここに西洋文化としてのミルク牛乳ですね。
この瓶詰めの牛乳あったものが入ってきた。
前回のアメリカとかイギリスとかのあれですよ。
白い毒薬が解決した後のあれが入ってくる。
この峰岡の経負そして岸橋門前の馬屋とこの経負がギューッとクロスして
36:03
現代の日本の乳酸業界に向かっていくという流れですね。
そういうことなんだ。
どうでした。
日本になった瞬間情報詰め込んだね。
書いてないんだけどね。
長かったね。
この1時間ほぼ俺合図値しか打ってない。
すごくない?
何ワード喋ったのっていうぐらいめちゃくちゃ喋ってたからね。
そうだね。
弾丸トークってこんな感じかなって思うぐらい。
いつもの多分1.5とか俺途中であれ今1.2倍速再生だっけって思うぐらいの感じだった。
ごめんなさい早くなっちゃいましたね。
よく回るな口と思いながら途中で疑問すら突っ込めずにうんだけずっと言ってた。
得意っていうか情報があるところに入ってきちゃったので。
自分の一番得意の舞台に立ったからね今ね。
詳しいとこ来ちゃったんで。
メインストリートを歩いてますみたいな感じでね。
下手するとこれ今こうやって収録してるんでどうなるかわかんないですけど、古代編と江戸時代編分かれる可能性あるね。
これねちょっともう1回聞いてみないと俺もこれ切れるというか。
みんなにいつも詰め込んでるねって言われてるのをさらにもう1.3から1.4ぐらい詰め込んでるからどうかなっていう感じがある。
大本場はすごく短いんだけどね。
そうなんだよだからびっくりしてるの今。
何も目も見ずに喋ってるってことだよね俺ね。
ほぼだって俺本当に目で追ってるけど今どこって思って。
俺が目で追ってる意味は何だろうって思いながら。
途中でちょっと俺も迷子になってました。
話の流れについていくので精一杯で。
はいはいはいって感じで。
1個思ったのは暴走半島。
やっぱこの時も政治というか幕府の流れで暴走半島ってやっぱ使われるんだねっていう醤油とかもあったじゃん。
そうですね。今の千葉県ですね。
カズサ、シモウサ、あとはアワですかね。当時まだ国3つですけど。
3つなんだ。
南からアワ、カズサ、シモウサかな。
なんかその話聞いたね。なんか醤油どこで聞いたか忘れちゃったけど。
醤油なんだっけな。忘れちゃったけど調子のあたりとかですよね。野田とか。今の千葉県の右上の方。
もしかしたら地域編の食べ物ラジオでやったのかもしれない。
たぶん本編でやってる。
本編か。
うん。そこで川が流れてて運び込んでみたいな話したよ。
なんかしたよね。
寿司かな。
寿司か。醤油か。
寿司に醤油つけ始めたって話したかもしれない。
あーそうかもね。確かに。
か、蕎麦だ。
あ、蕎麦だよ蕎麦。
味噌から、蕎麦汁が味噌から醤油に変わったとかで言ったかもしれない。
割と最近だから蕎麦。
じゃあ蕎麦ですね。
39:00
そうそう、その話を聞きながら、醤油を大量に作るためにあの辺に作ったって話を思い出しながら、結局こちらの楽能もそうなんだと思って。
今でもあれだよね、なんか江戸の東京の台所的な存在だったりするじゃん千葉県って。
そういうのはもう立地的に地形がそうなんだろうね。江戸に対してのその周辺地域っていうのは。
まあそうね、土地いいというしね。
あのちょっと古い情報だけどさ、1500年代の太古堅地。
太古堅地。
秀吉あたりでやったあの堅地でいくと、今の神奈川県ってあんまり穀高ないんだよ。
あ、ないんだ。
19万穀とかだからね。
これに対して阿波が、阿波はちっちゃいんだよ、先端しかないから。
4万5千穀程度だけど、数差が38万ぐらいだいたい。
で、志望差が39万くらいある。
これ江戸より前の時代で、まだ江戸が開かれる前なんで、未開拓の状態でこれだからね。
結構ある。
そう結構ある。
ちなみにこの時代、とうとうみここね、25万穀。
その時代か。
三河29万穀。
三河で29。
この程度の時代に志望差39、数差37なんで、千葉って農業生産量高いんですよ、すでにこの時代から。
そういうことだね。
これ戦国時代の話だからね。
そうか。
っていうことを考えると、食料生産のみでは今の千葉あたりっていうのは枝を支えてきた食料庫になったんでしょうね。
そういうことだね。
振るからさ、すぐ新しい情報出しちゃうんだけど。
ここからまだいくんだ、出てくるんだって感じだったけど。
いつでも出せるように出してる、持ってんだよ俺手元に。
常に持ってるんですよ。
これ以上伸びると俺の編集が後で死にそうなので。
これはごめんけど前後編かな。
しかも切れ目ないからフェイドインフェイドアウトするかもね。
そうだね、ちょっと流れを聞いてみて。
次に出てくるの江戸ですぐらいのところからじゃない。
そうだね。
ということで今回はこの辺で終わりたいと思います。ありがとうございました。
ありがとうございました。めっちゃ疲れてる。
疲れたよ。
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