2025-06-18 38:02

#6 今なぜフードテックと人文社会科学なのか【前編】〜本質を見失ったビジネス〜

食で何を実現するか。言葉どおりの表面的な理解や、利益追求型のビジネス構造で本質を見失いがちの現在、食産業は人文社会科学をどう活用し、未来の食を描いていくのか考えていく。

・パーソナリティ

株式会社UnlocX:田中宏隆・岡田亜希子

たべものラジオ:武藤太郎・武藤拓郎


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サマリー

食と人文社会科学の関係を探る中で、フードテックの重要性が浮き彫りになります。このポッドキャストでは、食と健康、環境との関連についてさまざまな視点から議論が行われます。このエピソードでは、フードテックと人文社会科学の関係について考察し、ビジネスの視点だけでなく、日常生活における食の重要性が強調されます。また、歴史的な視点から食材とのつながりを理解することが、豊かな食文化を形成するために重要であることが解説されます。フードテックと人文社会科学の関係に焦点を当て、ビジネスの本質が欠けている現状について考察します。特に、日本の思想や文化が現在の食における合理性への抵抗感にどのように影響を与えているのかを探ります。また、フードテックと人文社会科学の関係を探り、特に米国におけるエスニックフードの受容についても考察しています。

フードテックと人文社会科学の重要性
この番組では、食をテーマに、食にまつわるニュースや人物などから、変化し続ける現在地を学び、食の未来像をあらゆる視点で探っていきます。
MCを務めますのは、たべものラジオの武藤太郎と、
武藤拓郎と、
アンロックスの田中裕孝、
岡田内子です。
本日もよろしくお願いいたします。
よろしくお願いします。
ということで、今日はトークテーマが決まっていますので、早速参りましょう。
ということで、今回のテーマは、
なぜ今、フードテックに人文社会科学なのか。
なぜ今、フードテックに人文社会科学なのか。
人文社会科学とフードテック。
なんでこの話になったのかということなんですけど、
ここからは岡田さんにちょっと概要も含めてお話をいただけると助かります。
実はイベントに太郎さんが来てくれたんですよね。
私たちが開催していた、
フードスコープスナイトというイベントを、
6月4日に初めてやりまして、
このテーマがまさに、
食×人文社会科学。
またそれをビジネスというところにどうやってつなげていこうかということをテーマにした
コミュニティイベントというのを初めて開催しまして、
そこに太郎さんに来ていただいた。
それがちょっと発端になっています。
食と社会の関係性を考える
このコミュニティイベントなんですけれども、
今何が起こっているかと言いますと、
私たちずっとフードテックの話をよくしているんですけれど、
そもそもフードテックで一体何を実現したいんだろう
というところを考えるのがすごい大事だと思っていて、
そこで食ということになると、
やっぱりそれって私たちの健康とか、
あるいは最近だとウェルビングという言い方もしますし、
環境にも良しと。
結構こうやって社会にとってこういう食がいいよね
というところに向かっていく。
そのためにテックがあるというのがスリだと思っていて、
それを考えるには、
人文社会科学というところがすごく大事なんじゃないかなというふうに、
前々から思っていたんですよね。
その時に実はすごくいい出会いがありまして、
一般社団法人デサイロという団体があるんですけれど、
ここが何をやっているかというと、
人文社会科学の若い研究者の方々をプロデュースするということをやっています。
というのを最初おっしゃっていたんですよ。
どういうことだろうと思ってよく話を聞くと、
自然科学の場合ですと、
結構その研究者の方って、
企業と一緒に共同研究をしていたり、
例えばこの発見があったらこの病気が治せるみたいに、
すごくわかりやすくて、
この発見があればこれぐらい車の速さが変わりますとか、
すごいわかりやすいので、
結構その研究者の方とビジネスの世界がすごい近いんですけど、
人はなぜ音楽をするのかとか、
資生館の歴史って何かとか、
そういう人文社会科学みたいな話っていうのは、
もちろん面白いとは思うんですけれど、
結構日頃みんながビジネスをしていくっていうところの中では、
直接的に関係しているようで難しいみたいな感じがあって、
研究者の方は研究をひたすらやっているし、
ビジネスの人たちとはあまり接点がないっていうところも結構多くて、
こういうところをつないでいくっていうようなことをされている、
デサイロさんというところであって、
まさにここなんじゃないかなと思って、
この職っていうものに対して研究されている先生方とか、
あるいは哲学とか宗教とかちょっと違う領域なんだけど、
私たちの生活の様式を形作っているみたいな、
そういうことを研究されている方と、
めっちゃお話ししてみたいっていうふうに結構盛り上がって、
そこから実は研究者の方をお招きして、
お話を聞いてみんなで考えるっていうプログラムを作って、
それがフードスコープスっていうプログラムなんですけど、
ちょっと話長くなっちゃったんですけど、
今ちょっとそういう活動をしていてですね、
このコミュニティに来ていただいたと。
太郎さんにもずっとこのプログラムをいろいろ参加していただいていて、
っていう流れになっています。
すみませんね、僕はご招待いただいたのに、
全然聞けず自前で行ってないっていう。
お待ちしてます。
内容はお店の料理をしながら、
料理をしながら、厨房で聞きながらしてたことはあったんですけど、
片手間では追いつけないってことがよくわかりました。
集中してないとかいつまんでは無理だってわかって。
視点から見る食の多様性
内容自体はすごく面白いなって思いながら見てたなっていう記憶はあるんですね。
歴史の話も過去の話もね、いつも食べ物ラジオでしてるような話とかも出てきたりとか、
それの専門家の方とか、そもそも時代交渉部みたいな形で、
研究者としてこういう裏付けがあるよみたいな話まで踏み込んで話してくれる方もいらっしゃいましたし、
化学の方もそういうところをやってる方もね、マニアックな方がやっぱりいらっしゃったので、
聞きたいなと思いながら、一回逃すと次の話についていけなくなるっていう。
次回はぜひと思うんですけど、人文社会科学って言ってもものすごく広いので、
これを私たちはどうやって体系化すれば分かりやすいプログラムになるかなって考えたときに、
実はこのフードスコープスっていう言葉を生み出しまして、どういう意味かというと、
フードは食べ物、スコープスは例えば望遠鏡とか双眼鏡とかみたいに、
どういう視点で見るかっていうそこのスコープっていうことで、
食をいろんなスコープで見てみようということで考えて、
6つのスコープっていうのを考えたんですよね。
一番最初が個人、個ですよね。
自分の身体を通して食っていうものを私たちは食べてるわけなんですけど、
自分の体と食っていう関係を考える。
次は家族、パートナーと食。
やっぱり食って家族で一緒に食べるとか、そういうことがあると思うんですけど、
今その家族の在り方が変わっていたり、
特に日本ですと女性が料理をしてとかっていう時代もずっとあって、
今それがまた変わろうとしているわけなんですけれど、
そういうことって、昔からずっと続いていることって変わらないようでいて、
実は変わっていってるみたいな、そういう視点っていうのが考えたかったところですし、
次はコミュニティと食。だんだん広くなっているんですけど、
今ですと、例えばアメリカだとビーガンみたいなそういうコミュニティがあったりもするし、
あるいは自分の民族の食事っていう考え方もあるし、
私たちはやっぱり多かれ少なかれ、自分が所属しているところで食が決まってるなっていうのがあって、
今エスニックのいろんな食べ物が、私たちも日本にいながらいっぱい食べられますけど、
実はそういうエスニックな料理ってどういう経緯で日本に入ってきたのかとか、
そこの民族からするとどういう意味があるのかとか、
そういうところに思いを馳せるっていうこともあると。
さらに行くと町と食っていう関係性。
町も引いてみると、この辺にレストランが固まっていてとか、
いろんな地理的なものもあるし、
実は私たちだって結局いつも通勤で通っている道の動線に何があるかで、
結構自分の食が決まってたりもするわけなんですけど。
確かにそれはありますね。
めっちゃありますよね。
だからどこにコンビニがあるかで決まるみたいなこともあったりもしますし。
そういうものっていうのは、結構町づくりをされている、
都市開発とかそういうことをされている食料の方とかもいらしてるんですけど、
やっぱり町の中にどういうふうに食を配置していくと、
人の行動変容が起こるのか、結構そういうことも大事かなと。
町づくりの話聞いた時にめっちゃ面白いなと思った記憶があります。
今思い出してました。
そこも時代の変化があって、
昔だとファーストフードとかコンビニとかいろんなところに張り巡らされていたけど、
だんだんコーヒースタンドみたいなものが増えていく話だったりとか、
そういう視点からも見るのが、この辺がなってくると空から町を見て、
そこにどういう食が点在しているかを見るみたいなところも非常に面白いし、
さらに進んでいくと国家不足みたいな。
めっちゃ広いですね。
めっちゃ広くなる。今度は国として安全保障みたいな、
食の安全保障っていう問題もありますし、
じゃあスウェーズ運河が封鎖されたらどうなるのみたいな。
結構日本にとっては海洋とかそういうところも非常に重要なインフラになっていて。
確かにありましたもんね。
故障したりとか封鎖されたりして物流途絶えるっていうのありましたね、昔。
今だから割と希望法を回ってわざわざ行くっていうのも実際行われているわけで、
国としても今米の話もすごくありますけど、
国家単位で考えるっていうことも非常に重要で、
さらに最後のスコープは地球というか、
動物との共生みたいなところで、生態系として考えたときに、
人間としてどういうものを今まで食べてきて、
人間っていうのはあまり捕食されない。
他に食べられるっていう恐れがない食物連鎖の一番上にいるわけなんですが、
これからずっとそこに本当にいられるのかっていうこともあるし、
地球環境との昭和っていうところもどう考えるのかみたいな。
こういう感じでどんどん高いところから見ていくっていうようなやり方で、
捕食について考えるっていうことを、いろんな学問と掛け合わせてやるっていうことをやっております。
文化圏みたいなのはないですか、アジア人種みたいな感じですか。
そうですよね。
おっしゃる通りで、
国と地球の間に多分もう少し大きなアジアとか、そういう文化圏はあると思いますし、
ビジネスと生活の実態
町と国の間にも、例えばその東海地方とかそういうものもあるので、
実はこれグラデーションだから、どこの段階で切るかかなっていう気はしますね。
確かに、やろうと思ったらいくらでも切れますもんね。
こういうスコープスってデサイロさんの方で設計していただいたんですけど、すごく面白くて、
実は職以外でも使える視点のような気もしていますし。
確かに。
最初は歴史学から見たらどうかとか、例えば文芸とかから見たらどうかとか、
学問ごとに切るみたいなことも考えたり、
あるいはもう少しビジネスでいうと流通とか外食とか、
そういうことから入っていくっていう切り方もあり得るよねっていう話を知ってたんですけど、
いまいちしっくりこなくてっていうか、あんまり新しいことが生まれてくる気がちょっとしなくて、
面白くなかった。
もしかしたらちょっと違う方向の軸なんじゃないかって言って考えたのはこれですね。
なんかあれですよね。
ストレートに考えると、ビジネスの構成要素で考えると、
まさにバリューチェーンの上流の一次産業、二次産業、三次産業みたいな形で分解して、
食品加工から卸し、物流、氷とかで分解するのが一番わかりやすいんですけど、
でも私は思っているのはですね、卸しとか物流とかってすごい概念的なもので、
実体世界の中に形として日々の生活の中で見るものじゃないと思うんですよね。
確かにそうですね。
例えば企業は不思議なことにその概念の中で分類されていて、
うちは流通業ですとか言われてるけど、
僕はこの切り口はすごいやっぱり面白いなと思うのは、
自分たちが本当に実際に暮らしている形に合わせてるんですよね。
個人であり家族でありコミュニティに存在していて、
あと町に住んでいて、国家に属していて、もちろんその中にジオポリティクスが入ってますし、
大きな生態系の中に入っているとか、もっと言うと宇宙ってこの先あるんでしょうね、
宇宙銀河系とかね。
だから結局、やっぱり今の世の中っていうのがビジネスというレンズで物事を見過ぎているから、
その中で意識されずに、
さっきというか前回お話ししたですね、
地球環境を汚していたってそこは見えなかったわけですよね。
だけどやっぱり自分たちがビジネスというレンズ以外で実際の生活は生きているわけで、
自分に聞いてみてほしいんですよね。
1日の中で食品メーカーを意識して生活したことありますか?
卸とか物流とか、それは本当に日常生活の中では多分感じないし、
街の中でも感じないんですけど、
なのになんかみんな世の中はそっちの方向を見ていて、
ちゃんと世の中見たらどうだい?みたいな、
なんかそんなようなことを僕は言われたような気がしました。
だからなんかこれ10年前だったら、
僕はこう返してたと思うんですよ。
いやそんなこと言ったってお金に結びつかないでしょうみたいなことを言ってた自分も多分いたんですよね。
だけどやっぱり今は、
いや自分生きてる生きてるのって、
自分のリアルはここにあるよなみたいな。
だからそういった意味では、これから自分が生活する空間であれば、
デジタルと食みたいな観点もスコープとして出てくるっていうのが、
さっき拓郎さんが言ってたVRの話ですね。
そこと絡んでくるような気がしていて、
そんなことをですね、ちょっと思ったりもしましたね。
でも実は本当にこれインスパイアされたのは、
食文化の変化
お二人の食べ物ラジオっていうのが結構発端にあって、
前々から人文社会科学というところはすごく関心があったけれど、
自分たちが授業を考えていったりする上では、
少し距離があったっていうのが正直なところで、
なんですが、お二人のラジオを聴いたときに、
これを入れないとダメなんだっていう、
謎な譜に落ちるところがすごくあって。
そうなんです。
ありがとうございます。
でも僕は、2年、3年前のSKSジャパンでも、
最初参加されたときにも言ったんですけど、
お二人のラジオを聴いて、やっぱりお米食べようっていう風に変わったんですよ。
確かにコメントいただきましたね。食べてましたね、本当に。
それまでは血糖センサーつけて、
お米がすごい自分の中で血糖値上がるから、
これはお米を食べるものではないみたいなことを判断してた自分が、
お米と味噌でしたっけ?
はい、味噌汁です。
味噌汁の回を見たときに、
なんかあれ?とかと思って。
こんな歴史があるのに自分がお米を食べないとかって、
たぶん自分のDNAレベルでダメだなと思って。
で、実際にお米食べても太んないんですよね。正直な話言うと。
どんなに食べても僕、やっぱり太らなくて。
やっぱりその行動変容するぐらいのパワーが、
当時は人文社会科学という言い方は僕はしてなかったですけど、
歴史にはそういう力があるなぁと思って。
なんかやっぱりそういうようなきっかけを与えてくれたというのは、
僕の中ではなんか自分の中では和を体験でしたね。
なんか食材で切ってるで、
食材ごとのストーリーだったっていうのがすごく新鮮で、
なんか全然違う切り口で見えるんだなと思って。
なんかもちろん歴史は私も学校で勉強してきたわけなんですけど、
それとは全然違うストーリーに聞こえたので、
そこと繋がるんだみたいな、そういう感覚がすごいあって、
身近な生活の歴史っていうのは初めて意識したかもっていう風に思って。
大体こう大きな政治とか、
経済とか。
将軍とか、そうそうそう。
そういう人の歴史がほとんどなので。
教科書に載ってるのって大体政治じゃないですか。
政治と文化じゃないですか。
食ってないですよね。
じゃがいもに至っては本当になんか、
人類がいたのかどうかみたいなところから入っていってたので、
そこまで広げることができるんだっていうところを
教えてくださったっていうのが、
本当に私たちの中では非常に重要なポイントで、
そこの気づきもあって、
このプログラムになっていったっていうのがあるので。
あれは僕は歴史が本当に苦手というか、
完全なる歴史弱者なので、
身近に置き換えてくれないとわからんって言って。
なるほどね。
あんまり接点がないじゃないですか。
歴史の教科書だけ読むって。
もちろん点数は当時取った記憶はあるんですけど、
今覚えてるかって言ったら覚えてないんですよ。
でも兄野太郎はそういう歴史を好きだし、
そういうのを日常的にいろんなところに紐づいて話をするので、
やっぱりそれで初めて理解ができて、
っていうので食べ物ラジオもそのタイミングで始まって、
やっぱり歴史が兄が好きなので、
歴史の話が割とメイン。
食なんてもほぼ歴史の話なのでそうなんですけど、
その解説を受けてるうちに、
最近はよりともさんそこで頑張ったんだみたいな話を
この間ちょっと別番組で聞いてて、
ちょっと紐づいてしまって。
4年前じゃありえんかったなっていう自分がとか、
そういう話もあったので、
そういうふうに身近にしていかないと、
テックに関してもそうなんだなっていうのをちょっと感じてます。
確かに。
新しい視点の模索
まさに今回のテーマのなぜフードテックに、
今フードテックに新聞社会科学なのかみたいな、
言い換えるとビジネスにても言い換えると思うんですけど、
なぜなんでしょうか?
それぞれの考えを述べるというのはどうでしょう?
そうですね。
太郎さんとかどうなんですか?
まず食べ物ラジオのところから少し遡ってお話をすると、
もともと僕がこういうジャンルに興味を持ち始めたのは、
飲食店の経営をすることになったからっていうのがきっかけなんですよね。
前回のお話でも少しありましたけど、
最優先利益ですみたいなことをやると一時的には多分儲かるでしょうし、
あの手この手使ったら僕の台くらいまでは利益すごい上げられるとは思うんですよ。
だけどそれって本当にみんなハッピーなのかなとか、
この地域にとってどうなのかなっていうのを考えてたら、
そもそも街における飲食店、外食産業ってどういう役割を担っているんだろう?
そこがちゃんと捕まえられれば大儲けできないかもしれないけど、
ちんと社会の中で気持ちよくピースとしてはまって、
何だろうな、存在としてサスティナビリティみたいなイメージがあったんですよね。
なので上っ面でやりたくないなと思って、
じゃあ飲食店って何だろうっていうのをずっと考えてたら、
歴史だけじゃなくて哲学の論文読まなきゃいけないとか、
何で俺は今ヨハン・ホイジンガーを読んで、
ホモルーデンスって何だろうっていうのを勉強してるんだろうとか、
そんなことになってていたんですよ。
で、ふと料理人の仲間とか大先輩方とお話をしたりとか、
今こんな料理作ってこんなチャレンジしてんだよねみたいな話を聞いたときに、
あれそれって100年前に1回やってポシャったやつだとか、
いやそれって200年前までは常識だったやつだとかのが見つかってきて、
あれなんか車輪の再発明みんなしまくってるぞとか、
本質ずれてるぞみたいなのに気づき始めたんですよね。
僕もともと高校までは理系の人間だったので、どっちかっていうと化け学好きなんですよ。
だから料理やり始めてすぐのときはもう化け学の教科書と参考書を横に置いて、
料理、調理自体を化け学的にずっと、何なら分子式書いてましたからね。
分子構造式とか分子式を書いて、
人文社会科学の重要性
これ何度で何分やってこれとこれを混ぜるとこういう化学反応が起きるから、
この伝統の手法は理にかなってるとか、
だったらこれもうちょっと10分長くした方がより良いみたいなことやってたんですよ初め。
コブ出しとかね。
コブ出しとかもずっとそれやってたんですけど、
でもそれをやってる人たちはそこそこいて、
あと経験的な、経験に基づくなんちゃった化学みたいなこともたくさんあって、
いうのを見てたら、あれこの人文系すっぽり抜けてるわっていう感じなので、
食べ物のことを番組にするときには、もし社会が合理性に寄ってなかったら、
逆に人文系に寄ってる人が多かったら多分僕は、
合理性の方とか自然化学を中心に番組やってたはずなんですよ。
どっちかというとそっちが得意なんで本来。
ただ今はそうじゃない逆なので、穴の開いてる方を中心に喋ろうっていう風にしてる感じですかね。
ただ直感的に両方あった方がいいとは思ってるんですけど、
じゃあこれがなぜ今必要だと思ったのかっていうのを言語化しろって言うと、
なかなか難しいなとは思ってはいるんですが、
東京に疲れた。
まあ東京に疲れたはある。それはある。
ちょうど帰ってきて、それまで帰ってきたときって僕は高知にいたので、
超田舎に、もっと田舎にいて、そこから帰ってきました。
兄ちゃんは東京から帰ってきました。温度差すごかったもんね。
そうね。
ものすごいギャップがあったよね。
もう完全に経済合理性の中で10年以上生きてきましたんでね。
すごかったです、この温度差っていうのは。
なので田中さんもおっしゃってましたけど、
うん。
横断しないとダメなんだなっていうのはすごく思うんですよやっぱり。
で、ほら西洋哲学だとデカルト大先生なんかだと、
とにかく物事は分割して考えなさい。
デバイド&コンカーが最高ですみたいなことやるじゃないですか。
あれ組み立て直してみたら意外とパズルはまんなかったりして、
いやなんか元通りになんねえけどみたいな。
あるんですけど、一方で日本の長きにわたる仏教の中、
哲学としての仏教の中には無分別知っていう考え方が根付いていて。
無分別知。
分別ってあるじゃないですか。分別、分ける。
分別をする知識の知。で、その前に否定の無がつくんですよ。
分けるなと。世の中はそんなに単純じゃないから、
あるものを全部そのまま受け止めてそのまま感じろっていうことなんですよ、ざっくり言うと。
これのアプローチの方法が、例えば前習じゃないんですけど、
浄土系、浄土習とか浄土新習だと、もう一個の作業、
職人さんだったら、絵付け師だったら、もう絵付けだけに超集中して丁寧に生きていくと。
そのN超える1のミクロの世界にずっと入り込んでいくと、逆に世界が見えてくるよ。
体感知ですよみたいなことをやるんですよ。
ただこれ、何十年という日常生活習慣の中で培ってくると、あるときふっと気づいていくみたいなの。
これ僕が言っていいんじゃなくて、鈴木大雪という日本人の冷静っていう本の中に出てくる話なんですけど。
これってすごく大事だし、僕らは日本人のいわゆる職人的気質、オタク的気質の人たちって
無意識でやってる部分があると思うんです。
すげえ突き詰めた、例えば野球で言ったら一郎選手と、あとは将棋の羽生さんみたいな人って対談すると共通点出てきちゃうみたいなのって
無分別地的なとこだと思うんですよね。
僕らはそこに行くには時間が結構足りないので、今度は逆に言語地で全体を理解しに行くっていうのが必要なのかなーなんて思ってはいるんですよ。
こう突き詰めてミクロに行くと全体が見えるんじゃなくて、もう鼻から言語で全体を捕まえて、
自分の価値観をコロコロコロコロ入れ替えるようにしながら、あらゆる角度でものを見ていくみたいな。
文化と自然の関係
インテグラル、この番組自体がそれなんですけど。
そういうことをすると、一企業の利益じゃなくて、社会全体のウェルビーングって何かなとか、
自然としてのウェルビーングって何かなみたいなところに一回行って、またここに帰ってきてっていう危機ができるようになるのが、何の価値をもたらすんだろうね。
理解しようと思ったら結局構造的に分解しないとわかんないけど、そうするとまた見えない部分があるからまた戻んなきゃいけなくて。
仏教とか愛宗教ってすごいよね、だってもう区切りとか十戒とかいろいろあるじゃん、戒律みたいなのもあるじゃん。
あれも一応言ってはいるけど、もっと漠然とした戒律だから成り立ってるのかね。
構造化しすぎたら宗教とかっておかしなことになりそうだし、世界観とかじゃん、言ってることが。
それを構造化したらいろいろこぼれ落ちる人たちいっぱいいるんじゃないかと思ったりするんだけど。
仏教側はわりと日本人にとっつきやすいので仏教的な話をする先生方がすごく多いんですけど、僕の個人的な感覚でいくと道教思想がすごく強いなっていう感じがしますね。
道教思想。 道教ってあれだよ、教師とかのあれじゃないよ。
あの儒術使ってやる道教とかではなくて老子とか宗師の水の流れるが如くみたいな。世界はタオに包まれているみたいな。
無意自然の世界観がどうも日本の思想の根底にありそうだなっていうふうに仮に一旦置いてみるじゃないですか。
そうすると日本人がビジネスの上でとか職で何かを選択するとか、なんとなく世論としてこのテクノロジー嫌がってるなみたいなのって傾向でぼんやり出たことがあると思うんですよね。
その抵抗感の源には思想の背景が本人の意識とは別にもう潜在的にあって、その思想でいくと確かにそうなる可能性あるよねってわかると不可能と思えたところにまた別のアプローチができるかなとかそんな感じに捉えるようにはしてるんですかね。
日本ってあれだね、ふと思ったのは職の神様ってちゃんと崇めてないね。崇めてる? 崇めてるというか。
信仰というか。よく学業とか恋愛成就とかさ、そういうこと言うけどさ、職の神社みたいなのは感じたいなと思ったけど。
でも他に地域でやってるのはもちろんあるんで、宝作とかのやつはあるんだけど、どちらかというとお祭りごとでざっくりまとめられてて、なんかみんな学業成就とかすごいいくし、商売繁盛もいくし、お金の神様とかはいくけど、なんで職ってねえんだろうなって思って。
そういうところなのかなと思ったり。 職はあるというか、神道の中だったら豊けの神とかね、伊勢神宮の外国に神社されてますけど、ちょっと一神教的な神様へのお祈りとは違う感じしますよね。
神様が、これ本の中にも出てくるんですけど、牛を食べる。なんならフランスとか行くと、昔から頭を丸ごと丸焼きにしてみんなでナイフで切り刻んで食べるみたいな文化が。最近ちょっと減りましたけど、一般家庭でもあって。
貴婦人方がおしゃれな格好をして、目玉の周りをぐりっとナイフでえぐり取るみたいな。それ日本人から見るとちょっとゾッとするわけではないけどびっくりするわけですよね。だけど彼女たちからすると、何を言ってるの。牛というのは神様が私たちに食べられるためにお作りになったのよ。ありがたくいただきましょうっていう感覚。
日本人、神の姿焼きやってるもんね。 僕らはそれをやってるんですけど、神様に感謝するというよりは、自然のごく一部からエネルギーを分けていただくっていう感覚。神が作り保ったその目的ありきで、これはそもそも人間の食料なんだと。
大いなる神が作ったっていう感覚と、たまたまあるものを一部ごめんなさいいただきますっていう感覚でものすごく乖離があるわけですよね。というところを僕は理解した方がいいなと思うのは、このグローバル社会において同じ言語を仮に使っていたとしても、同じ英語で会話していたとしても思いっきり価値観が違う。
食文化の誤解
それは日本人は日本のことを言語化できてないし、フランス人はフランスのことを言語化できていないので、すれ違うんだと思うんです。
ちょっと僕語っちゃいますね、ついでなんで。僕今一番いろんなところで方々でお話をするのは、主食。ステイプルフード。
ステイプルフードっていうのは。
そう、僕らで言うお米ですよ。今問題になってますけど、このお米の感覚をパンやパスタやインドのナンだったりとか、ああいうのに当て込んでいくわけですね。じゃがいもとかも。これでみんな勘違いめちゃくちゃ起きてるんですよ。
ウェブ記事とか雑誌の記事とか食関係の見てても、僕から見ると大いな勘違いがいっぱいあるんですよね。ステイプルっていうのは定番のっていう意味もかなり強く含まれていて。
ステイプルね。
例えば日本人の感覚だったら、ご飯をおいしく食べるためのおかずですよね。引き算して最終的に残るのはご飯で、ご飯さえあればいいよっていう究極ね。
そうだね、ご飯ありきで周り構成してるからね。
そういう感じですよね。ところが特に西ヨーロッパ系の食文化ってそういう傾向低いんですよかなり。
そう言って言うね。
あれはメインの肉を食べるためにちょっと添えがある。添えの中のタンパク質じゃない炭水化物っていう扱いなので、
ポジティブな意味で削っていくんじゃなくてネガティブな意味で食料削っていったらたまたまそれが残ったっていう感覚で、
大陸系の朝食みたいにパンとコーヒーっていうのは残ってるだけで、あれは全然ポジティブはなくて、どちらかというとネガティブなイメージであれが残ったに近い。
そういう意味では肉が中心にあるっていうところで、肉がなくなるかもって思ったら必死で大体食材を考えるっていうのはすごくわかりやすいですよね。
だからか。大体にめっちゃ作って頑張ってんの。
それこそフルテックベンチャーデイでも一部の方と立ち話したんですけど、僕はイミテーションミートを作るのであれば、この先広めていくのであれば、
アメリカみたいな環境で肉を食べるために生まれたと言ってもいいようなハンバーガーとかにするのはナンセンスだと思ってるんですよ。
だって肉食べたいんだよ。 そう、肉が食べたいんだもんね。
エスニックフードと受容
メイン肉でとにかく肉で全部それ用としたらバンモンズもいらない、トマトもいらない、玉ねぎもいらない、最終的にはパティ食わせろって言ってる民族の人たちに、
ここの本丸を偽物ですって言われたらそれはたぶん取っつきにくくなると思うんですよね。
今お米の大体ものを作ってんのか。
そういうこと。
日本人の格好でしょ。
そうそう。
それはいろいろ大変。
大変ね。
多いってなるじゃないですか。
だったら、例えば特にアメリカだったら比較的エスニックとしてチャイニーズフードっていうのはもうデフォでインストールされているので、
だったら麻婆豆腐みたいなやつね、あれの中のミートを豆腐と大体肉にするとかね、の方が受け入れられやすいかなっていう。
麻婆豆腐っていうとは何でかな、前も中坊で話してるときに麻婆豆腐を作ったらいいっていうニュースでしたけど、よくわからなかったけど、
ご飯にかける麻婆豆腐丼を僕はイメージする。
日本人的な感覚で言うとお米を食べるための麻婆豆腐だけど、あの人たちは肉だから麻婆豆腐のみを食べるんだよね。
そうなんです。
麻婆豆腐はラーメンみたいなワンプレートワンボールに混ぜ込んでいくと、その肉主役感が薄れるじゃない。
そうだね。
そういう感じにした方がいいのかもなっていう仮説を立てて検証したら、イミテーションミートの未来が少しまた違う可能性開拓できるのかなとか、
こういう使い方を僕はしたらどうだろうっていう提案を最近ちょっとし始めてますかね。
語っちゃった。
どうぞどうぞ。
すいません。
テーマの再考
なぜ今フードテックと人文社会科学っていうのを一緒に考えるのが求められているのかっていう、それが最初のテーマだったかなと思うんですけど、そこにもう一回戻りますと。
本日ご紹介したフードテックに関する情報をもっと知りたいという方は、アンロックスが配信する無料メールマガジンフードテックアイズでお読みいただけます。
メールマガのお申し込み詳細は番組の説明欄をご覧ください。
また皆様からの感想や質問、お仕事のご相談も受け付けております。
メールアドレスはinfo.tabemonointegral.com、または公式ホームページのお問い合わせフォームからお送りください。
SNSでの投稿は、ハッシュタグ食べ物インテグラル、ひらがなで食べ物、カタカナでインテグラルをつけて投稿いただけますと嬉しいです。
それではまた次回お会いしましょう。お聞きいただきありがとうございました。
おだしょー ありがとうございました。
ありがとうございました。
38:02

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