水戸ホーリーホックの現状
はい、しゃあめ茨城いしけーラジオ、始まりました。よろしくお願いします。
今日は、今まで固い話と言ったらいいんですけど、
わりと思い厚く語るみたいなことばっかりやってきたんで。
今回も思い厚く語るのは語るんですけど、
ちょっと内容をガラッと変えまして、
僕が応援している水戸ホーリーホックについて話させていただこうかなと思います。
本当はホーリーホックだけで番組作れちゃうぐらい話したいことたくさんあるんですけど、
単純に、佐野さんからも言われたんですけど、
そのホーリーホックについて、サポーターの生態とかもそうだし、
なんでそんなにかまっちゃってるのかみたいなのも聞いてみたいっていうことがあったんで。
おそらくホーリーホックの番組作るとサポーターの方は聞いてくれるんですけど、
サポーターとか興味がある方じゃない人にホーリーホックの話をするっていうのが、
案外僕ぐらいになるとあんまりなくて、
そういった機会をせっかくなんで、ポッドキャストを自分でやってますから、
せっかくなんで喋ろうかなと思って、
今日は水戸ホーリーホックの回です。
さすがにご存知の方多いと思うんですけど、
水戸ホーリーホックというサッカーチームが、
ここ茨城県にはありまして、
Jリーグの2部、J2リーグというところに所属しておりまして、
超有名な鹿島アントラーズっていうのがすぐ隣にあるんですけど、
鹿島アントラーズはJ1ですね。
いわゆる1部、2部。
我々水戸ホーリーホックはJリーグの2部、J2というところに所属しておりまして、
J2で上位に入ると、J1に昇格っていう形になるんですけど、
逆にJ1で下位に定名してしまうと、J2に降格っていうのがあって、
またその下にJ3というのもありまして、
なんでJ2で成績が悪いとJ3に落ちてしまうという。
プロ野球とかが日本に馴染み深いので、
プロ野球は降格、昇格がないんですけど、
サッカーは割と降格、昇格があるリーグがほとんどで、
それなんで結構過酷というか、サポーターも厚くならざるを得ないっていうところがあるんですけど、
現在ホーリーホックはかなり苦戦しておりまして、
今シーズンは現段階で、今日日曜日なんですけど、
4月14日日曜日のゲームが終了した時点で、
J2全部で20チームあるんですけど、17位でございます。
はい、非常に厳しい戦いを強いられております。
ちなみに先ほど言ったJ3への降格は下位3チームなので、18位以下のチームになってます。
なので実は先週まで降格権18位に行ったんですけど、
今週降格権はギリギリ脱出しまして、17位となってます。
とはいえですね、年間の勝ち点で順位を決めていくんですけど、
勝つと3点ですね、引き分けで1点、負けると0点ということで、
現在ミトは勝ち点が8なんですね。
18位の藤枝と藤枝も8なんですよ。
なのでこの勝ち点が同じだと得点と失点の差ですね。
で順位が決まってくるんですけど、現在ミトはマイナス3点なんですね。
藤枝はマイナス12点なので、得点差で過労して降格権を脱したっていうところなんですけど、
まだまだ非常に厳しい状態ではあります。
北関東ダービーのホーリーホック
昨日ですね、北関東ダービーと言いまして、
サッカーはダービーっていう名前で、ライバルチームとの対戦はダービーと称してすごい盛り上がるんですね。
国内で有名なところだと、先日行われた東京ダービーとか、
あとは横浜ダービーとか有名だったんですけど、
茨城も茨城ダービーって言って、ミトと鹿島が対戦するときは茨城ダービーなんですけど、
これはまだ同じリーグに立ったことがないので、リーグ戦では実現したことがなくて、
毎年2月にプレシーズマッチっていう練習試合、オープン戦みたいな感じですね。
で、やってはいます。
あと天皇杯でも2回対戦したことが、公式戦だと天皇杯が2つかな。
まだまだ、いつかはJ1で茨城ダービーしたいなと思うんですけど、
現状はミトのライバルと言えるのは北関東の2チームですね。
栃木と群馬で、北関東ダービーというのがありまして、
ミトは実は何気にJ2の中では最古産でして、
2000年からJ2リーグに行って、昇格も降格も経験してないっていう非常に軽衣な存在なんですけど、
途中2005年かなに群馬が前のザスパ・クサツですね。
今はザスパ・群馬になってるんですけど、
上がってきて初めて北関東ダービーっていうのができまして、
その後2009年だったかなに、栃木SCっていう栃木のチームがJ2上がってきて、
北関東ダービーっていうのが始まりまして、
3チームで勝敗勝負を決めて、その勝ち点で北関東ダービー王者っていうのを決めるんですけど、
長らくミトは北関東ダービー9連覇ぐらいしてたんですよ。
成績は正直J2の中でも中位から下位だったんですけど、
北関東では本当に狩りの強さを発揮して北関東王者だったんですけど、
近年北関東でも勝てなくなってきてまして、
サポーターにとってはとても北関東王者であることが、
ミト法力サポーターの誇りみたいなところがあるんですよね。
なので本当に負けられない戦いなんですけど、
それが実は先週4月7日に群馬と対戦して、
昨日ですね、7月13日に栃木と。
いきなりシーズンの序盤で北関東ダービー2連戦っていうのがあったんですけど、
結局のところ群馬戦は0-0で引き分けで、栃木戦も2-2で引き分けという。
どちらも現地に足を運んで観戦したんですけど、
ダービーは本当に勝つしかないんですよね、サポーターにとっては。
WIN OR WINなんて最近の選手は言ってますけど、本当に勝つしかないんですよね。
勝ち以外受け入れられないみたいなところがあって。
そんな中、両方とも引き分けということで。
本当に今シーズンはなかなか勝ててなくて、
まだ開幕戦でいわきに相手に勝って以来、負けと引き分けが続いていて、
昨日で5連続引き分けという、なかなか勝ち切れない状態が続いていて、
サポーターとしてもなかなかしんどいシーズンを過ごしてるんですけど、
水戸ホーリーホックの過去とサポーター
そういった北関東ダービーも、普段生活してる方々にあんまり関係のない世界で。
でもサポーターにとってはとても大事で、
それを最近は選手とかも感じてくれて、
それが一回プレッシャーになっちゃったりするのかなと最近は思うんですけど、
そういった少しずつ文化として根付いてきてるかなっていう。
水戸放流区も、今年30周年を迎えまして、
少しずつ文化として根付いてきたなっていうところがあります。
そんな厳しい状況が続いていて、正直、水戸放流区って全然強くなくて、
分かりやすいのは鹿島とかは毎年優勝争いをしていて、
J.G.チームとして一番国内のタイトルを取ってるのかな。
そういう競合クラブでもう名門とも言われるクラブなんですけど、
そうではなくて、本当に市民クラブで、
お金もなくてチーム人件費、選手の年望総額とかですよね。
リーグで会を争うような、そんなクラブなんですけど、
なぜかそんな水戸放流区に心を奪われてしまって、
20年ですかね。
僕が放流区を見始めたのが2002年になるんですけど、
その頃って、僕が2002年に大学卒業して初めて就職したときなんですよね。
僕、前回も言いましたけど、元々スポーツが好きだったんで、
スポーツライターとかそういった仕事をしたいなと思ってて、
マスコミ関係を志望してたんですけど、
ちょうど就職氷河期の時代だっていうのもあるし、
僕の単純な実力不足っていうところもあって、
なかなか自分の希望とする仕事にはつけず、
結局ギリギリ泣いていただいたのが、
大日本印刷という会社のDNPメディアクリエイトという、
印刷会社のクリエイティブ部門みたいなところだったんですけど、
そこに就職しまして、
僕が最初担当したのが、岡村製作所って皆さんわかりますかね。
オフィス家具の会社なんですけど、そこのカタログを作る仕事なんですけど、
オフィス家具の総合カタログって見たことありますかね。
昔の電話帳、タウンページみたいなすっごく厚いやつで、
細かく家具がたくさん載ってるんですけど、石とかテーブルとかね。
そういったのを作っていくっていう仕事だったんですけど、
実は就職活動の時期から若干メンタルがやられてたのもあって、
それを引きずったまま就職してしまって、
もともとやっぱりやりたい仕事でもなかったっていうのもあって、
ちょっと病んでしまって、
結果的に4ヶ月で辞めて帰ってきちゃったんですけど、
でも最初に見たのが、たぶんまだ辞める前だと思うんですよね。
2002年のゴールデンウィークだったと思うんで、
ゴールデンウィークの時にたまたま地元の茨城に帰ってきてて、
最初に見た試合は大分大分戦かな?だったように思うんですけど、
当時本当に人いなくて、
あやすんに日立高陸上競技場でやってたんですよ、試合。
近くなんで行ってみようかって。
前から存在は知っていて、気にはしてたんですけど、
学生の時はちょっと、はい、こっち帰ってくるって言ってたの少なかったし、
あんま受けてなかったんですけど、たまたま行ってみようってなって、
友達とかも誰もいない中見に行ったんですけど、
そしたらお客さんいないんですよ。
たぶん1000人も、公式発表は1000人超えてると思うんですけど、
1000人入ってないぐらいの感じで、
芝生席で応援とかして、サポーターの近くの席にいたんですけど、
声出しとかは全然してなくて、
なんかすごい牧歌的な試合をやってて。
でも大分って当時J2の中でも優勝争いしてて、
強豪だったと思うんですけど、
たまたま2-1か何かで逆転勝ちしたんですよね。
で、なんかすごい見てて楽しいなっていうのもあって、
その頃はまだ東京にいたので、東京にいながらちょっと気にしてて、
結果的に7月いっぱいで辞めて、
まあでもその後も結局粘って10月ぐらいまでいたんですけど、
お金なくなっちゃって帰ってきたんですけどね。
夏は自分の家業の民宿の手伝いをしながら帰ってきてたので、
ちょいちょい合間に、ひたちなかとか、かさまつ運動公園がホームだったんで、
そこにちょいちょい見に行ってたんですよ。
たぶん2002年は5試合ぐらいしか行けてないんですけど、
なぜか結構負けなしぐらいだった気がするんだよな。
なんか俺がたまたま見てた試合はすごい勝ってたんですよね。
で、まあそれが楽しいなってなってね。
最初の頃はサポーター席も行ってましたけど、
実はメインスタンドの方で見たりもしてました。
で、どっちかっていうとスポーツ好きで、
剣術とかそういったのも好きなんで、
スカーフックとかつけながら見てたりとかっていうことをしてました。
そんな中から始まって、2003年になるんですけど、
そうすると完全に僕はこっちに帰ってきて、
家の仕事を手伝いながらフラフラしてるっていう。
そういうモナトリアムな期間が10年ぐらい続くんですけど。
そんな中、2003年はトゥーリオがいた年なんですよね。
トゥーリオは皆さんご存知ですかね。田中マルクス・トゥーリオと言って。
後に日本に帰化して、日本代表としてワールドカップに出場した、
日本を代表するリフェンダーなんですけど、
彼が2003年に広島からレンタルで来て、
ミトで大活躍するんですよね。
オリンピック代表に入るってことになって、
実はトゥーリオってミトで帰化審査してるんですよね。
ミト主役所で帰化審査をしてたっていうこともあって、
やっぱり2003年にトゥーリオの活躍があって、強かったんですよね。
結構メンバーも揃ってて。
法力の最初の成功体験って言ったら変ですけど、
実は上がってからの最初の一番成績がいい年が2003年で。
2002年、2003年は割と勝ちをたくさん見ていて、
こういうのって最初の肝心だなと思うんですけど、
やっぱり勝つと楽しいんですよね。
それで継続して見るようになっていったっていうところなんですよね。
その頃は平日暇なんですよ、僕の仕事って。
平日の練習とかを見に行ってたんですよ。
当時は当然集まれもないですし、
集まれっていうのは今、城里町に配考を利用した
水戸法律法専用の練習場があるんですけど、そこもないし、
法律ピッチっていって、水戸の水戸橋の田元にグランドがあるんですけど、
水戸ホーリーホックと練習場
そこもなかったしっていうところで、いろんな練習場を点々としてたんですよね。
かつてJA農村研修センターっていうところだったりとか、
あと今はなくなっちゃいましたけど、
日立大学学校の火力発電所の脇にグランドがあったんですよね。
そこでやったりとか。
あとは2.45沿いの減電のグランドとか。
あとは、日沼触れ合い公園。
日沼に四角節あるんですけど、いこいのみの日沼か。
そこの、本当に芝生とは言えないような公園みたいなところで
サッカーをやったり練習するみたいな。
そんなのもあって、それを後に日本代表になるトゥーリオが
ここで練習してたっていうのがなかなか感慨深いんですけど、
そういったところで練習を見に行くと、
やっぱり物好きが一手過ぎまして、だんだん顔なじみになってくるんですよね。
結構定年退職したおじさんとかおじいちゃんとか、
あとは結構選手の追っかけみたいなことをやってるおばさんとかお姉さんとかがいらっしゃって、
そういった方たちと話をして。
それで当時の僕の状況と言いますか。
僕は、要は4ヶ月で会社を辞めて帰ってきてしまったので、
実は僕の周りには意外に多かったんですけど、
政策で入った会社すぐ辞めて、
また公務員の勉強をし直して、
1年後にまた公務員として働くみたいな方たちが結構周りにいっぱいいたっていうのもあって、
多少ちょっと辞めやすかったっていうのもあるんですけど、
ただ通常はやっぱりまだまだ20年前なんで就寝雇用とかも残ってましたし、
入った会社で一緒に勤めるみたいな文化もちょっと残ってたんで、
今よりもより新設で入った会社辞めるとは何事だみたいな空気があって、
とはいえ今もやっぱり4ヶ月で辞めるのはさすがにあんまりないかなと思うんですけど、
今よりもより社会的にはそういう悠長がある中辞めて実家に舞い戻ってくるという状況だったんで、
やっぱりあんまりしばらくは近所の人とかともあんまり顔を合わせたくなかったし、
練習場の人々との交流
そもそもそういう意味はなっちゃってたんですけど地元の友達ともなかなか会いにくいみたいな、
そんな状況ではあったんですよね。
新しい仕事に就いていればよかったんですけど、僕の場合は家業手伝いみたいな感じなんで、
家業といっても毎日業務があるような仕事ではなくて、
本当に週末お客さんが入っている時だけ手伝ったりとかっていう状況なので、
そもそも平日の昼間からほっつき歩いているような人間になったんで、
自分自身は社会不適合者だなと思ってたし、
社会に顔向けできないというか、
表だって明るいところ歩けないよ、そこまでは言わないか。
そんな少し後ろめたい状況の中にいたんですよね。
そんな中ホーリー・ホッグと出会って、
練習見学でそういったサポーターの人たちとも知り合って、
そうこうしていくうちに当時のミトリックのサポーターってやっぱり数が少ないんで、
行けばだいたい知り合いみたいな、そんな状況になってくるんですよね。
当時の僕としてすごい良かったのは、
世代も本当に子供からおじいちゃんまでいるし、
正直その仕事何やってるのかっていうのは別にそんなに問われなかったし、
聞かれることもそんなになかったし、
あとは本名とかも全然知らなくて、
あだ名とかぐらいしか知らない人がたくさんいるんですよね。
そういった仲もあるし、
やっぱりちょっと当時のミトサポーターは今よりも濃い人が多かったというか、
やっぱり普通に生活してるとたどり着けない場所というか、
そんなコミュニティーではあったんで、やっぱり物好きですよね。
そういった人たちが集まるようなコミュニティーだったなというふうに思ってるんですけど、
今はもう全然そんなんじゃなくて、
なんか広く開かれてる感じがするんですけど、
昔はやっぱりちょっと本当に濃い人が集まっていて、
でもやっぱり地元が好きというか、
ミトが好きみたいな人はすごい多かったんですよね。
あとはホーリー・ホッグという共通言語があったんで、仲良くなりますし、
そういった中で結構サポーターの中心的な存在の人たちとかとも仲良くなったりして、
あとはミトの妖精って、
お酒に酔うって書いて妖精のミトの山ちゃんっていう、
名物サポーターがいるんですけど、
そういった人たちと仲良くなって、
一緒に練習みたいとか試合みたいとかっていうことをしだして、
試合関係なくプライベートでも会ったりとか、
そういう大人になって友達ができたというか、
職場も関係ないし学校も関係ないし、
そういう、僕にとっては本当にミト・ホーリー・ホッグっていうのが第三の居場所、サードプレイスですね。
っていう存在だったんですよね。
こういう、いわゆる自分の立場とか、所属とか、仕事何やってるとか、
そういったのを全然気にしないでいられる、
ただただ一人の人間として存在することができる。
そんなコミュニティに、おそらく初めてと言っていいんじゃないかなと思うんですけど、
触れたのが、このミト・ホーリー・ホッグのサポーターのコミュニティだったかなと思うんですよね。
僕の場合、比較的どうだろう。
まあでも普通、通常の人もそうだと思うんですけど、
部活を昔からやってたんで、
そうすると結構さまざまなコミュニティに出入りする形になるんですよね。
高校のときなんかは部活のコミュニティが一番大きいんですけど、
それとは別に学校のクラスの中のコミュニティもあるし、
大学に行ったら、やっぱり大学のクラスのコミュニティもあるし、
僕は野球サークルに入ってたんで、その野球サークルのコミュニティもあるし、
あとは3年になったからゼミがあって、ゼミのコミュニティもあったし、
あとは予備校でバイトしてたんですけど、トフルゼミがあるっていう。
そのゼミのコミュニティとかもあったし、
なんかそういうコミュニティで、複数のコミュニティに出入りするみたいなのをみんなやってると思うんですけど、
僕の場合は、結構コミュニティによって顔を変えてるというか、
なんか少しキャラを変えてたりしてたんですよね。それは多分当時で言う自分の生存戦略なんですけど、
まあなんかそういうのがちょっとあって、
ミト・ホーリー・ホッグとの親交
まあ多分ね、それ結構ね大変なんですよ。
まあおそらく結構やってる人多いと思うんですけど、
今の子だとまあね、SNSを複数持つのが当たり前でみたいな感じなんですけど、
まあそういうコミュニティによって顔を変えてるというのは結構めんどくさくなってはいたんですけど、
まあやらざるを得ないみたいな。
で、それが一回就職活動失敗して、
で、会社辞めたことで、一回全て崩壊したというか。
で、そっから立ち直っていく過程でその暴力と出会って、
まあそういうコミュニティに出会ったことが、ギリギリ社会との接点を保てたというか。
やっぱり僕の場合、家で基本仕事してたんで、やっぱり家も出ないんですよね、ほとんどね。
家と職場と、まあ職場が家なので。
で、まあ外に出ると言えば、まあそういう買い物行ったりとかぐらいしかなかった。
まあ旅行とか結構一人旅行もしてたんですけど、
まあそういう暴力を通じて社会とギリギリにつながってるみたいな。
そんな生活がわりとずっとしばらくは続くんですよね。
なので、コミュニティ始めじゃないですけど、
まあそういった大人になってからの新しいコミュニティに入る。
新しい友達を作るということを実体験としてできたのは、
わりと今の活動につながってるところがあるのかなと思っていて。
まあなんかそういうのもあって、候補力にどんどんはまっていったっていう経緯ですね。
まさに今で言うとルマにはまるみたいな感じですかね。
っていう経緯がありました。
そこからいろんな話がどんどん出てくるんですけど、
もうちょっとだけここでしゃべりますかね。
あとはもう候補力の番組立ち上げようとも考えてるんで、
そっちでもゆっくり話していけたらいいなと思うんですけど、
もうちょっとだけ、候補力について話させてください。
今日は一旦これで終わります。ありがとうございました。