京町屋の忘年会
お聞きの皆様、おはこんばんちは、現役リフォームプランナーの寸尺かんなです。
昨日はですね、京町屋の、今私塾に入っているんですけれども、ここのね、忘年会がありまして、それに参加しておりました。
すごい楽しかったんですけれどね。この塾はですね、何度か私、この京町屋シリーズで話をしているんですけれども、
ちょうど私が今、リノベを手掛けている案件が9月から着工したんですけれども、少し遅れて、10月にこの塾があるってことを知って、
知った瞬間にすぐに申し込んで入ったんですが、だからわずかまた3ヶ月ぐらいの付き合いなんですけれどね。
月に1回か2回会うぐらいの間柄で、昨日の忘年会で初めてね、どんなメンバーが来ているのかっていうことを大体知ったんですよね。
実際にはね、今何人ぐらいいるのかな、15人ぐらい入っているうちの半分ぐらいしか来てなかったんですけれど、まあ、面白かったですね。
あの若い人がね、多いんですけれど、昨日ね、来ていたのはほとんど男性ばっかりで、一人はね、25歳の大工さんだったんですね。
彼はパッと見はね、すごいアカデミックな感じのする青年なのでね、まあてっきりね、設計事務所のね、あの若い設計の方かと思ってたんですよね。
で、図面も引けるし、いろいろ何でもよくわかってるんですよ。ところがね、昨日話してみると、実は彼は大工さんで、しかもお父様がね、めちゃくちゃ有名な左官屋さんなんですよ。
テレビにも出たりとか、有名な建築物のね、改修工事にも関わるような、超有名人ですよ。
で、それの息子さんなんですけれど、あえてお父さんとは違う道に進むということでね、大工さんになられてて、かつお父様は関東の方なんですよ。
で、関東であの会社されてるんですけれど、わざとお父様とは違う場所でね、あのお父様、要するに関東にいたら、あってもう苗字を聞いただけで、誰々さんの息子さんですよねって言われるような人なんですよね。
で、それが嫌なので、お父さんのことが知られていない関西までわざわざ来て、ここでね、古民家とかばっかりを直している大工さんのところにね、武者修行を兼ねて入っておられるっていうね、めちゃくちゃすごい根性の座った、でもサラブレットの子なんですよね。
すげーなと思って、彼の場合はもう戦略的に僕は大工になりましたってはっきり言ってました。だからいつも私が配信で言っているような、これから絶対にホワイトカラーじゃなくてブルーカラーの時代ですよとよく言ってるんですけれど、まさに彼はそれを見越して、僕はもう何でもできる大工を目指して、これからも勝ちに行きますみたいなね、ことを言ってる非常に頼もしい青年だったんですよね。
その大工さんと結構仲良くしている29歳の青年もいましてね、この青年は建築家というか建築家の卵で、大手住宅メーカー、京都の社員なんですよ。
まだ一級建築士の資格は取ってないんで、卵なんですけども、京都大学の設計家を出てるんで、すごいエリートなんですよね。なのでこの大手企業で働きながらゆくゆくは一級建築士取れば建築家になるっていう人なんですが、すごい仕事が会社が肌に合わないっていうので、メンタルちょっと病んでる男の子だったんですよ。
すごいイケメンなんですけどね、とにかくいろいろモヤモヤしてるんだって言ってましたね。ただ京町屋のこの設計塾でこうやって大工さんだとか、いろんな面白い人たちが集まってるんでね、そういったことが彼のいい刺激になって、これからうまく乗り切ってくれたらなと思うんですが、正直この会社では厳しいみたいなこと言ってました。
明らかに大手企業なので、ライフワークバランスとかめちゃ整ってるわけなんでね、下手になんかちっちゃな私みたいに冷裁器具が入ったりとか、アトリエ系の設計事務所とか入るとね、休みなしで働くみたいなことになっちゃうんで、今の会社ならね、福利構成とかもバッチリでね、ちゃんと休みもあって、9時5時で帰れるんで、今の間に一級建築士の免除を取れみたいなね、みんなで励ましてたんですけど、いやもう僕限界なんですみたいなね。
2杯ぐらいしか酒飲んでないのに途中からいなくなっちゃって、で見たらトイレでこもってゲーゲー吐いてたっていうね、そんな彼とかね。
あとはね、ちなみに昨日の忘年会はですね、私が入るきっかけになったこの教マチアの塾の主催者の人ではなくて、ここでいつもその人から呼ばれて講師をやってくれている設計の先生、一級建築士事務所をされている先生が、
ご自分の中業区にある自分のオフィスで私たち生徒を呼んでね、忘年会やってくれたんですけども、この先生ももちろん、この人出身は関東だって言ってました。
埼玉の人だって言ってましたね。だからね、標準語でしゃべる人だなと思ってたんですよね。ですけども、この人も京都大学の建築学科に来てからずっと京都にいらっしゃるという人でしたね。
もうすっかり京都に見せられてそのまま移住されているという人なんですよ。
いろいろこの方から私たちは教マチアの歴史とか構造とかそういったことを習っているんですけれど、この先生のアシスタントっていうんですかね、そういう役割、多分だと思うんですけどね、若い男性がいて、
若いというか38くらいだそうです。この人は見たところスキンヘッドにされていて、本当にザ職人っていう感じの人なんですよ。職人っていうかな。僧侶にも見える感じでしたね。修行僧みたいなね。
なんかすごいストイックな感じの人でね。で、この人がね、なんかもういろいろみんなの世話してくれてね、なんか食べ物用意してくれたり、お酒がなくなったらなんか新しいお酒用意してきてくれたりとかね、すごいなんかマメな人だったんですが、この人は秋田から京都に来ているという人で、この人はね、職人です。職人というかね、どう言ったらいいんでしょうね。職人もやるし、
今風に言うと現場監督なんですよね。プロの現場監督なんですけど、僧侶ですね。この人は設計事務所の先生の仕事もやるし、他の仕事も受けながらいろんなことやってるんですけれど、この先生の事務所に曲がりしながら自分の仕事も並行してやってるみたいなね、そういう人で。
で、この人もね、もう本当にその最初ね、7、8年ほど奈良でいろんな古い建物の修繕をやったりする公務店で修行した後、その後京都に今度移住してきてね、京都のやっぱり町屋に見せられてね、他のね、秋田にももちろん古民家はありますし、もちろん大阪にもあるし、奈良なんかさらに古い建物があるわけなんですけど、京町屋っていうのはちょっと違うらしいんですね。
で、その京町屋の成り立ちとかそういったことにどっぷり沼っていって、今もうずっと京都に住んで、奥さんといたらしいんですけど、離婚してね、もう建物に深く関わってて、今もう晴れ晴れとね、離婚してもう生成したみたいな、俺はこれからもう建築と共に生きていくみたいな感じの人でしたね。
リフォームの思い
で、この人と今言った大工さんとね、いろいろもやもやしている29歳のね、一流のこのゼネコンで働いている彼とね、この3人は結構わちゃわちゃね、ほもそで仲良さそうにしてましたけど、なんとも微笑ましい感じでしたね。
あとですね、関西ではですね、先日あの京町屋のね特集番組があの読売テレビのね、5時半のワイドニュースっていうんですかね、そこで取り上げられたんですよ。で、私これ運良くリアルタイムに視聴することができたんですけどね。
ここで出てきた京都のね、公務店の社長さんもね、昨日の忘年会には来ていて、この方もね、結局はこの京町屋の研究会っていうんですかね、ここの関係者なんですよね。
彼はそのお父さんが作った公務店で、2代目社長としてね、まあ継いだわけなんですが、もうそのやっぱ伝統広報っていうものをね、あの日本のそのちゃんとした広報を学びたいっていうことで、たまたまこの京町屋塾を知って一期生で入ってきた人だったらしいんですよね。
多分ね、年の頃は今40代半ぐらいじゃないかなと思うんですけれどね。で、すっかりね、自分はこれは京町屋を日本に、てか京都にね、残していきたいっていう思いで、その公務店はどちらかというとこの伝統広報の家を修繕していくっていう仕事にシフトしていっているという社長さんなんですよね。
この方とか、あとはね、自分でアトリエ系の設計事務所をやっている一級建築士のね、30代ぐらいの男性とかね、こんな人たちと昨日は酒盛りしてたんですけれど、みんな好きなんだなぁと思ってね、建築というか。
すごい盛り上がりに盛り上がってですね。で、これ昨日の忘年会を急に企画してくれた講師であるね、この建築の先生がですね、優先生としておきましょうか。優先生はね、もうなんかね、楽しくて楽しくてしょうがなかったんでしょうね。
で、酔っ払っちゃって、もうレロレロにロレロレになって、で、これ3階建てのオフィスビルだったんですけどね。で、トイレが2階なんですよ。3階に先生の事務所があって、2階にトイレがあるんですけど、階段からドダダダダとか言って、転げ落ちたりするぐらいね、ベロベロに酔っ払っちゃってね。
そこでね、大変だって言って、助けに行ったりとかして大騒ぎだったんですけどね、それぐらい楽しかったみたいで。でね、このね、優先生の事務所ね、だから適当に秋田から京都に移住してきてる、この何ていうか、統領を目指している、あのあんちゃんとかね、いろんな人が曲がりしてるんですよ、この事務所の中にね。
でも、まだスペースあるから、よかったら、あの、かんなさんもね、来てくれていいよとか言われて、行くかもしれません、私。もうここで、岡田社長に何の了解ももらってないんですけど、もう京都事務所勝手にここで開設して、でも京都に半分行ってやろうかなとかって思って。
でね、今ね、私昨日この忘年会、本当に楽しかったんですが、実はね、あの、私ね、落ち込んでたんですよ。もうすんごい落ち込んでて、この今日待ち屋の、今自分の手がけてる工事なんですけども、順調にね、うまくいってるんですよ。仕事自体は。
ですけども、あの、非常になんていうかね、こんなこと言ったらね、これに関わってくれている職人さんたちにね、申し訳ないんですが、まあね、すごいね、不本意なんですよ、私自身は。もっとやれたことあったんじゃないのとかね、もっとこうしたかったなとか、いろいろ思うことがあるんですけれど、これはあくまでもね、これはちょっと私の研究課題でもなんでもないんで、お客様からちゃんとお金いただいてね、
お客様が住むためのリフォームなんで、ここはね、予算ありき、お客様の暮らしありきなんでね、いかに完成度の高い今日待ち屋のリノベをできるかっていう別に私の研究課題じゃないんでね、そこはね、妥協の産物なんですよ、はっきり言うと。
古民家リフォームの悩み
もっとできたことがあったんじゃないのかっていうことをずっと頭の中に思いながら、でももう予算とあとは限られた後期ね、何月何日までには絶対に引っ越したいんだっていう、当然お客様の方の希望の日時があり、そこに間に合わさなければいけないっていうことと、
あと今回私が一緒にやってもらっている職人さんたちの経験とかね、知識とか技量とかそういったこともろもろでですね、できることとできないこと、あとどこまでこだわってやるべきなのか、今の一番最新のというかね、効率のいい現代的なそのリフォームの手法でね、やるべきなのかっていうその辺の判断とかもね、すごい悩んじゃって、
例えばですね、何を例えにしようかな、例えばですけれども、以前も少しお話ししました、この土壁っていうのが一番この小民家というかね、この京町屋とかで特徴的な施工になると思うんですけれどね、
例えばこれも本格的にやろうと思ったら現状ですね、土壁が剥がれ落ちているところがあって、ここを直すに際してね、本当であればこの中にね、竹こまいと呼ばれる竹を編んだ編み編みがあるんですよね、ここに土をベタベタ塗り込んでいって土壁って作るんですけども、
この例えば下半分ね、床の下の方のところがだいぶ剥がれてきて、穴が開いたりとかしてるんでね、この辺をうまく綺麗にこそぎ落として、もう一回竹こまいっていうね、この編み編みを綺麗に編み直して、もう一度土を塗り直すっていうのが本ちゃんのやり方なんですよ。
さらにね、ここの家の、私が今手がけている家の場合でいうと、もともとの土壁の上からですね、接着剤を塗って、その上からね、新たに左官を塗り直すっていうことをね、もともとの土壁から見るとね、もう6層ぐらいになってたんですよ。
だからね、もう重たくなっちゃって、壁がね。しかもその古いところ、悪いところをちゃんとこそぎ落として、新たに塗り直すのではなく、上から上から塗り直してるんで、もうめちゃめちゃ壁が重くなって、壁が重みでうねってるんですよ。
だから、何だろう、アイスクリームがドローと溶けてくるみたいにね、部分的に壁の重さがね、ずり落ちてきてるようなね、そんな感じになってたんですよね。
これを綺麗に削ってですね、もう一回塗り直すっていうかね、なるべく自然素材で塗り直したんですけれども、本当だったらね、本当だったら竹こまいを編み直すってところからね、やりたかったんですけども、これをね、やるためには私自身が竹こまいの編み方を学ばないとね、職人に教えられないじゃないですか。
今ちょうどね、京町屋の設計塾行ってますんで、ここでいずれこういったことも習う予定なんですよ。でもまだ習ってません。だからこれを私自身が教えられないんで、職人もそのやり方をわからない。
こういうことをわかる職人を段取りするっていうことももちろんこの現時点でできるわけがないんで、結果的に今私が声をかけている職人さんたちができることでやるしかないわけなんでね、こういったところも今の現代的な材料でやりました。
だからこの樹脂のネットでね、貼ってそこの上からまた土壁を塗っていくっていうことをやったんですけども、これもね、だからどこまでこだわって原材料とかね、その天然100%の素材にこだわるかみたいなことがね、ものすごい悩むんですよ。
京町屋の歴史
あとはね、例えばこれ簡単な砂缶の塗る方法とかもあるんですよね。だから砂缶っていうのは基本的にコテという材料を使ってやるんですよ。あのなんていうのかね、この平たい道具ですよ。これでやるんですよね。
だからこのね、砂缶屋さんの仕事と塗装屋さんの仕事って似てるけれども、使う道具が違うっていうのが一番わかりやすいですね。とにかく砂缶屋さんはコテを使って塗っていく。で、塗装屋さんはこのハケで塗っていくっていうね、こういう差がありましてですね。
これをね、だから砂缶屋さんというのはだから結構技術もいりますし、また何よりも砂缶屋さんというのは腕のいい人はどんどん人数が少ないんで難しいんですよね。で、これが塗装屋さんの範疇であればね、材料も例えばローラーとかペンキのハケとかね、そういった手軽な道具で塗れますので、何だったらここ予算カットしたい場合は自分で塗ったりする人もいると思います。
ですけれども、これローラーで塗れる砂缶材料みたいなって今出てるんですよ。これを例えばやれば実際の砂缶を塗ったことになるんですよね。仕上がりも非常に綺麗です。
ただ、これもね厳密に言うと、石膏ボードを張った上から、この砂缶がちゃんと塗るためのクロス、壁紙のような素材を張って、そこから砂缶を塗るっていうことになるんですよね。
これだとね、まず大工さんがボードを張った上から、さらにこのクロスを壁紙屋さんがね、内装屋さんが張って、そして最後この塗装屋さんが塗るっていうね、ちゃんとやろうと思えばですね、産業者は噛まなきゃいけないんですよ。
たったね、この一箇所の壁をやるために、その砂缶屋さんだけでやるんじゃなくてね、産業者も噛ませてまで、その綺麗な砂缶仕上げにこだわるべきなのかとかね、こういうね、いろんな攻め合いがあって、実はめちゃくちゃ悩んでたんですけども、
昨日のね、忘年会でみんなと話していて、ちょっと救われたというか、心が晴れたのがですね、実はね、今の京都に残っている京町屋っていうのはほとんどがね、大正時代以降に建てられた京町屋なんですよね。
実はね、明治時代までの京町屋とこの大正以降に建てられている京町屋でも様式が実は違うらしいんですね。ただね、ほとんどがね、火災によって消滅してしまっているので、明治時代に建てられた京町屋をその実際にね、どれぐらいその違いがあったのかということはね、職人さんたちの伝聞であったりとか、当時の残されている数少ない資料とかで確認するしか実際にはないらしいんですが、
おそらく、昨日忘年会に集まっていたこの京町屋オタクの人たちから言わせると、明らかに明治時代の京町屋の方が完成度が高く良かったらしいんですよね。
でね、これ、なんでこの明治時代までの京町屋が残ってないかっていう話を先にするとですね、これは江戸時代の超末期ですね、現時元年1864年にこの時に武力衝突が起こってましてね、日本国内で長州藩と薩摩藩と藍津藩、この3つの派閥が戦争というか争ってたんですね、幕末ね。
この時に金門の変と呼ばれる事件がありまして、この時に大規模な戦闘に伴う火災が起こっているんですよね。
これがね、折島をこの強風に煽られて、市街地の方にまでね、広範囲にまで及んで、ほとんどね、この時に大火災になって、その時の木造の建物はね、消滅しているらしいんですよ。
この時のことをね、どんどん焼けと呼んでるんですよね。どんどん焼けるからどんどん焼けだと思うんですけどね。
こういうことがあったんで、今ね、私たちが目にしているのは全部大正時代以降に建てられた京町屋だそうなんですよ。
材料選びのジレンマ
というわけでね、だからもともとの建て方じゃなくなってるんですよ、この時点でね。
それを思えばね、その都度その都度世の中も、あとこの天候風土も、あと材料も変わっていってるんでね。
だって現に今これ昔の通りの建て方をしようと思ったら、もう明治時代の現存している京町屋ってほとんど残ってないんで、
私たちはそれが実際どういうふうに建てられたかってことを本当には再現できないかもしれないんですよね。
あとはもう今の時代は、むしろ天然素材の方がめちゃくちゃ高いわけなんですよね。
ただそこらにある土を使えばいいっていうものでもないですしね。
なるべく粘り気があって長持ちする土となればね、これはもうめちゃめちゃ値段が高いんで、
それであればね、今の流通しているね、漆喰もどきというか、漆喰風の樹脂が入っている素材を使ったりとかするという方が
安上がりなわけですよ。あとは油に及ばず木材とかも全部全部高いし、塗料とかも高いですし、
こんなのも本当はベンガラ塗装とかね、そういうのをこだわってやりたいところですけども、
材料を手配するのも大変ですし、なるべく自然にまだ近いやり方を選びましたけどね。
だけど本当はね、これだってもっともっとこだわろうと思ったらこだわりたかったです。
でも難しいっていうね、このせめぎ合いがね、昨日いろいろこの人たちと話しているうちにね、だんだん気が晴れてきて、
やれる範囲のことをやって、しかもこれは何度も言うようですが、自分のための研究課題じゃないんでね、
お客様のご予算を預かって作っている工事なんで、本当にこれはもうやれる限りのことをやって、
それはもういいんだというふうに思うようにしています。
だから本当にこれ、やっぱり本当の意味でね、きょうまち屋を学ぼうと思ったら、
私はどっかのタイミングで自分できょうまち屋を買わないといけないと思いますね。
買って好きなだけ時間をかけて、半年とかじゃなくて、1年でも2年でもかけて、
本当に自分が納得がいくようにやるってことをやらない限り難しいんじゃないかなというふうにも思いましたね。
ただね、もう一つ思ったのがね、きのうこの集まりなんですけどね、
もうみんなね、これもうオタクの集団なんでね、
例えばね、面白かったのはこの細々とやっているきょうまち屋の塾なんですけど、
これ前もお話ししましたけど、半年でたった3万円なんですよね。
だから全く儲ける気がないんですよ。
昨日の忘年会もね、私たち回避一銭も払ってなくて、
みんなちゃんと飲み物とかね、おつまみとかちょっとしたお寿司とか全部用意してくれてて、
私たちもただ酒とただ飯を食べて、
でも何時間もわーっときょうまち屋について熱く語って解散したんですけども、
かつてね、何年か前にはきょうまち屋塾でね、職人コースっていうのもやってたらしいんですよ。
これ1年半ほどやったらしくて、
先ほどお話しした読売テレビに出ていたとある公務店の社長さんなんか、
これの一期生だったらしいんですよね。
ここでは全ての技術、だから木工事から左官工事からいろんな工事を、
全部ね、その時の熟練した京都の職人さんが手つかずで教えるっていう塾だったらしいんですよ。
今もね、なんでやっててくれないんだと思って、
だけどね、こんなのもただ同然でやってたみたいなんですよ。
それはね、続くわけないですよね。
だってこれ、つまりこの職人さんたちね、教えてあげてた職人さんたちのギャラとかも、
たぶんボランティアだったと思うんですよね。
これではね、やっぱ長続きしませんよね。
だからね、こんなのこそね、
先日ちょっとお話しして、大変反響がありました。
某ビジネスコンサルの話じゃないんですが、
これこそね、小地区倍でね、
京町屋と運営方法
70万コースと50万コースと25万コースとかやればいいのにと思って、
70万払って半年ちゃんとやればね、
本当に一人前の社幹職人になれますみたいなコースと、
ちょっとケチった50万コースだったら、
ある程度竹こまいの修繕ぐらいはできるようになりますとかね。
25万の方だったら、これは座学中心で、
ある程度、京町屋の成り立ちとか、
ある程度、机上で学べるようなことが学べますみたいなね。
こういうふうにやったら、もうちょっとお金儲けになって、
継続的な運営ができたんじゃないかなと思ったりしてね。
やっぱりね、このオタクの集団というか、
クリエイターの集団の中でね、
この一級建築士のユウ先生ですけどね、
よくこれで食べていけてるなと思って、
ちゃんとね、京都市長賞とかね、
京都市長賞とかもらったりとかする立派な建築家の先生なんですけども、
いやー、だからこういうアカデミックな人とかね、
このクリエイターとかにはね、決定的に金儲けしようっていう発想が、
もう著しく欠けてるのでね、
こういう人たちがね、ただもう本当に大好きなんでね、
情熱と、あふれるほどのアイディアとかね、
後世に残していこうとか、いろんなロマンと夢をたっぷり持ってる人たちなんで、
この人たちがね、本当に、
こういう人たちこそがね、後世に残る文化をね、
作っていく人たちなんでね、
この人たちが好きなだけね、仕事に専念できるように、
やはりね、ビジネスマンがね、やっぱ必要だなと思うんですよ。
だからね、カレンさんなんかね、こういうところにね、
もうちょっとビジネスチャンスを、カレンさんじゃなくてもいいですよ、
カレンさんのようなね、ビジネスの最確が金儲けに、
三道の飯より金儲けが好きだっていう人がここにひっついてくれればね、
もうちょっとね、実利のあるね、
ビジネスモデルができるんじゃないかと思ったりしました。
はい、なんかね、この京満家塾、
もうちょっとね、ビジネスとして成り立つ形で、
実りのあるね、学びの場みたいなものがね、
継続的に運営できたらなって思ったりしました。
私はもうまず無理なんで、
岡田社長に巻き込もうかなと思ったりしてるんですよね、今ね。
はい、というわけで厚く語りましたが、
京満家は最高だと、何かもう無理やりね、
結末に持ち込んでるんですけども、
いやー奥が深いし、そこなし沼ですよ、これは。
だからね、この優先生のオフィスに曲がりして、
無理やり京都支部を作ってですね、
どっかのね、もうボロボロのバス絵の、
どっかの京満家をね、なんとかゲットして、
でもこれは何年かかけて、
自分で京満ちゃんを直していくみたいなことをしてね、
沼ってみたいなと思ったりするというお話でした。
はい、それでは終わります。ご機嫌よう。