アメリカの大学の教育システム
お聴きの皆さま、おはこんばんちは。現役リフォームプランナーの寸尺かんなです。今日はノブさんのご質問にお答えしようと思います。
私がアメリカの大学を卒業しているんですけれども、そこでどういった本を課題図書で読まされたか、およびリベラルアーツっていうね、一般教養っていう風に訳すと思うんですけれども、
これがどういう内容だったかっていうすごく興味深い質問をされましたので、珍しく今日は教育系の内容をお話ししようと思います。
私がアメリカの大学に出たのはもうゾッとするんですけれども、もうはや40年前なんですよね。
時は、パパブッシュ、ジョージブッシュの、最近やったジョージ・W・ブッシュのお父さんの方ですね。お父さんがちょうど大統領をやっていた時代なんですよね。
そこからクリントン大統領に変わっていくあたりに、私は大学でアメリカにいたんですよね。
それは今もアメリカの教育システムっていうのはそんなに変わってないと思うんですけれども、おおむねリベラルアーツっていう、一般教養を身につけさせることにすごく力を入れてるんですよね。
要ほどテック系の大学とか、専門性の高い学問を収めに行っている学生とか、そういった大学でない限りは、一般教養に力を入れてる大学っていうのがすごくすごく多いんですよね。
まだ自分の専門分野が決まってない人は、まずはこういった大学に入るんですよね。
私もここに入りました。ここでは4年かけて、いろいろ守備範囲広く、だからまんべんなくいろんな勉強をやらされます。
理数系も文系も歴史も科学も、何でもかんでも全部やるんですよね。
その中から徐々に自分が、これはより興味があるなという分野が出てくると、3年生くらいから専門、専攻というやつですね。英語だとメジャーとマイナーというんですけど、メジャー専攻を選んでいくんですよね。
読まされた文学作品
私の場合は歴史を選んでしまったんですよね。なぜ歴史なんか選んだのかって、いまだに激しく後悔することがあるんですけれど、歴史を選んでしまった以上、どういったことがソースになるか、テキストになるかっていうと、ひたすら本を読まされたんですよね。
ただでさえリベラルアーツっていうのは、各教科がそれぞれ山のように本を読ませるんですよ。
例えばですね、私が入った大学はカソリック系の大学だったんですね。カソリック系の大学とか、アメリカはプロテスタントの大学とか、いろいろあるんですけれども、主にその2種類ですね。
カソリックの大学に行くと、やはりリリジョンという宗教の授業がちゃんとあるんですよ。これは多分宗教系の大学はあるんじゃないですかね。修立の大学とか以外はね。
そこでね、必ず4単位取らされました。4単位というのは、4教科ですね。リリジョンの教科を収めないと修了できないんですよね。
リリジョン、あとはフィロソフィー。フィロソフィーは哲学ですね。こういったものも興味があろうがなかろうが、絶対取らなきゃいけないんですね。
もちろん歴史。理数系は普通に数学とか物理とか科学とか全部取りました。ちょうど私たちの世代からは、いよいよですね、ITがめきめきと出始めてですね、ビル・ゲイツとかスティーブ・ジョブスがいよいよ登場してこようという時代だったので、
当時、IBMのパソコンですね。これで勉強をしました。パソコンね。当時のパソコンって本当にね、もうパソコンじゃないですね。コンピューターですよね。箱型のやつでね。
これでね、もう大変でした。今のWindowsとかが出てくる前なので、全部自分でこの変な数式っていうんですかね、アルファベットと数字と記号でね、組み合わせた暗号みたいなものを入れて、コンピューターに指示を出さないと何も出てこないっていうね、コンピューターで、自分が一体今何をやらされているのか全然わからないままね。
あとはね、フロッピーもまだディスクになる前で、フロッピーはね、ちょっとこのペラペラのね、なんかあのモフモフしたね、パフパフした、なんかちょっと柔らかいあの正方形のね、そんなものを使ってたんですよね。これをコンピューターのこのハードの中に入れてね。
で、まあ使ったり、これを保存したりね、そういうこともしてて、もうわけがわからなかったんですよね。本当にコンピューターの黎明期で、いかにね、ビルゲーツとスティーブ・ジョブスが我々にね、使いやすいコンピューターを提供してくれたかということでね、当時からですね、私の知人なんかは、あの2人はいずれ教科書に載るようなすごい人だよってね、言ってました。
だから彼らがその使いやすいパーソナルコンピューターというものを作ってくれるようになる前からですね、こうやってリベラルアーツの大学ではコンピューターの授業をやったりしてたんですよ。ただ、今思うとね、やっぱりすごいですよね。
本当にバランスの良く何でも勉強させられたんで、苦手なものもね、全部ちゃんと手を抜かずにやらされるんで、そのやってる方はね、死ぬほど大変だったんですけれども、今思ったらね、すごく良かったなって思いますね。
話を戻すと、こういった感じでね、各教科それぞれ取っていて、どれもね、それこそ宗教の授業も哲学の授業も全部ね、本をいっぱい読まされるんですよ。
さすがにね、理工系の勉強はテキストとかね、実習とかで勉強していくんですけれど、文系の科目っていうのは、もう必ず書籍を読まなきゃいけなかったんですよ。この読書量はね、すごかったですね。
でも今だからというかね、恥ずかしい話なんですけどね、もう1週間、毎週授業が来ますよね。週2回とか週1回の授業が毎週来ると。で、次の授業までにこれを読んできなさいって言ってね、いきなりゲーテの、例えばファウスト読んでこいとかね、あとアリストテレスの何とか論読んでこいとかね、プラトンのこれを読んでこいとかって、そういう本の出され方するんですよ。
で、おそらく日本の学生はこういう勉強の仕方してませんよね。だからあくまでもプラトンっていう人がいて、こういう哲学を編み出した人だなあっていうことをぼんやりと暗記科目として出てくる人としてしか認識してないと思うんですけれども、よほどね、だから自分が哲学を専攻してたとでもない限り、こういった本を普通の一般教養の学生が読んだりはね、おそらくそんなにしてないと思うんです。
してるんだったら、すいません、私が日本のそういう教育について認識がないのでね、お許しいただきたいんですけれども、私が同世代の友達とか聞いてて、こういった本を読んでるっていうのを聞いたことあまりないので、おそらく間違ったこと言ってないと思うんですけれど、こういうのが週一の宿題で出ちゃうんですよ。
で、これが、この教科だけじゃないわけじゃないですか。もう何教科も毎日受けてるわけなんでね。これが各科目、例えば七、八科目、そのワンセメスターでね。
ちなみにセメスター制なんですよね、アメリカの大学っていうのは、二学期制なんです。夏期の学期と冬期の学期ですね。夏と冬と二つに分かれていて、で、大体4ヶ月、4ヶ月です。
で、あと残りの4ヶ月っていうのは、夏休みだったりとか冬休みに当てられるところなんですよね。だから、あっという間に終わってしまうんですよ。
で、この4ヶ月の間に自分がとっている必修単位として絶対にクリアしなければいけない何教科をずっととっていくわけなんですけれども、こういったね、ドサッドサッと書籍の宿題が出てくるわけですよ。
これはもう地獄のようでしたね。ただでさえ大変なのに、私はなぜか歴史がすごく元々好きだったんですよね。だから歴史取っちゃったんですよね、専攻にね。だから大学の3年生からさらに課題図書が増えてしまって、歴史はいっぱいいろいろあるんですよ。
例えばジャーマンヒストリーとかね、あとそのアメリカは近代アメリカ史ですね。だからモダンアメリカンヒストリーか。とにかくね、膨大な数の本を読まされて、この本がのぶさんなんかすごく興味持たれていると思うんですけれど、これはね、皆さんはね、これ本読まされるって言うとね、想像するのは専門賞だと思うと思うんですよね。
歴史学者とか、その道の専門家が書いた実用書を読まされているのかなと思うかもしれません。だから哲学においてアリストテレスやプラトンを読んでいるのはなんとなくイメージがつきやすいんですけれども、歴史の参考図書として一体どういうものを読まされるかっていうと、普通に文学を読まされるんですよ。文学です。
だから近代アメリカ史を勉強するときには、このアメリカの歴史的な、だから近代のアメリカで言うと、例えばヘミングウェイとかね、スタインベックとかね、こういった人の本をワンサカ読まされたんですよね。もちろんもっと古い時代になれば古い時代の作家の本を読まされるんですよ。もうね、死にそうですよ。
さらにね、地獄なのが、アメリカの文学者の本を英語で読むっていうのはわかりますよね。でも例えばジャーマンヒストリーとか、フレンチレボリューションとかね、フランス革命の時代とかを勉強しているときには、フランス人の当時書かれたね、ルソーとかが書いたものを英訳したものがテキストなんですよ。
フランス人が書いたものを英語で書かれたものを課題図書として出すと。正直言って、ここは母親にしょっちゅう泣きを入れて、この課題図書の日本語を読んでくれっていう、日本語の本を買って送ってくれって言って、岩波文庫とかのね、こういった日本語の翻訳本をいっぱい送ってもらって、もちろんそういったチートはしましたよ。
主体性を持った学び
でもね、そんなことをしたってね、日本語でルソーの本を読んだってね、それは大変じゃないですか。だから、いかにアメリカの大学が勉強させられるかっていうことなんですけど、今の日本の勉強のさせられ方とは全然多分違いますね。
必ず授業に出席して、ちゃんと始業ベルからね、就業までちゃんといなきゃいけなくて、必ず出された宿題とかね、論文書かなきゃいけないとかね、そういう大変さ、以上の大変さがあるんですよ。
授業に出ないと中身についていけないから、これは授業に出ないと単位をくれないっていう、そこに強制力がかかっているから出るっていうだけじゃないんですね。出ないとついていけないので出ざるを得ない。
さらにそこで出される課題図書とかっていうのは読まないと、もちろんテストも論文も書けないので読まざるを得ないんですよね。もちろんアメリカ人にもカンニングする学生はいっぱいいます。
例えばフランス革命のね、この時代のなぜこの当時ジャコ版派がどうしたこうしたとかっていう論文を、ちなみにアメリカは全部自分で考えろっていう主体性を持った勉強のさせ方をするので、テーマって意外に与えられないんですよ。
ふんわりとしか与えられないんですよね。この時代の、この例えばちょうどこの18世紀のこのぐらいにロマン派が出てきて、フランス革命の産声が聞こえ始めた時代があるとしますね。
この時代を、例えばこの時代になぜこういう流れが来たのかっていうことを論文にしなさいみたいな。そういうしくだの出方がするんですよね。アメリカでも一緒です。アメリカでこういう南北戦争が起こりましたと。
南北戦争っていうのはなぜ起こったのかっていうことを、例えばこの視点で書きなさいみたいな。この程度の主題の決められ方をして、あとは自由に書けるんですよね。だからそうなるとですね、いろんな歴史学者が書いた本をパクってきたりとかね。
その当時はまだインターネットがないので、全部図書館にこもってですね、いろいろこうやってパクれそうな本をみんな見て、それを丸パクりして論文出したりしてる人はもちろんいっぱいいるんですけれど、先生はこんなのを見通しですよね。これ自分の意見で書いてないなってことは。
そうしたらCとかDとかね、ABCDの評価なんで、そうやってつけられてまたもう一回出させられたりとか、そういう感じだったんですよね。だからアメリカの教育においてはですね、大したこと書いてなかったとしても、自分で考えて自分の言葉で書かなきゃいけないんですよね。
そうすると多少の温情が働いて、Bマイナスぐらいとかね、ギリギリ単位がもらえる、ギリギリの成績をくれたりするっていう、そんな感じでしたね。
はい、なのでね、野部さんのご質問にもう一度、どういう本が課題当初に出たかっていうと、私は歴史を先行して、特に歴史でも近代史を、近代世界史を先行しました。歴史って一言で言っても、日本史もあるし、中国の歴史もあるし、何でもいろんな国、いろんな時代があるんでね、細かく分かれてたんですけれど、
私は全体的なグローバルな近代史を一応学んだんですよね、これでもね。死にそうでしたね、これは。今でも自分で自分の首を絞めたなって思ってるんですけれども、だからいっぱいいっぱい読みましたよ、本当に。
学生時代の読書体験
えーと、もうキリがないですね。正直言って、文学全集に選ばれているような本の半分ぐらいは読んでるんじゃないですかね。だから自分があまり興味がないって言ったらあれですけれども、自分が学習してたのと関与してないような国の本は、それほど読んでなかったりします。それで日本人に特に人気があるロシア文学なんかは、意外に私読んでないんですよね。
やっぱりアメリカ、ヨーロッパの中でもね、イギリスが大好きだったんですね、私は。イギリスには一度しか行ってないんですけれど、イギリスが大好きで、イギリスの文学とかすごくたくさん読んでるんですけれど、課題図書として出されたのはやはり第一次世界大戦から現代に至るあたりのね、代表的な本はね、片っ端から読まされました。
それから、さっき言った一般教養の必修としてどうしても宗教の教科と哲学の教科がね、かなり厳しく単位多めにね、取らされてたんで、このあたりは哲学書の代表的なものもほとんど読みました。
岩波文庫でですね、読んでますね。あと何だったかな、いっぱい読んでますよね。だから意外に私のいろんなこの考え方とか、大それた言い方ですけどね、大した別に思想の持ち主じゃないんですけれども、この哲学書をね、たくさん読まされたのは、ものすごく自分の柱になってるっていう自覚はありますね。
この時、こういう本をいっぱい読まされたって、すごく良かったなぁと思ってるし、全然私自身は信仰を持ってないんですけれど、だからクリスチャンでもないし、何もないんですけれど、やはりね、ちゃんとこの聖書とかその宗教というものをね、学問として学ばされたっていうのはね、ものすごく面白かったですね。
哲学と宗教とかね、あとその科学とか数学とかね、全部実はつながってるんですね。ものすごく面白かったです。はい、今思うとですね、どうして例えば歴史を勉強するのに文学作品を読まされたんでしょうっていうね、ことを思われるかもしれないんですけれど、私も思いました当時ね。
歴史勉強するんだったらそのね、いろいろその歴史についてね、その時代こういうことがありましたとかっていうことを普通に勉強するのが日本人なんかの歴史の授業の在り方だと思うんですけれど。
例えば私は近代史を勉強したんですけれど、ナチズムですよね。ナチズムが起こるその前後の歴史っていうのは、要するに第二次世界大戦に向かっていくところなので非常に重要なところ。
この辺りの勉強をするのに、例えばですね、ユダヤ人の人が書いたね、小説なんだったかな、カフカとかね、いっぱいそういったものも読まされましたね。
なんでこういうものを読まされるかっていうと、小説っていうのはフィクションじゃないですか、だから架空の物語ですよね。実在の人物じゃない人たちが出てきて、架空の作家が空想して作った物語だと思われてるんですけれども、実際はその時代に生きた人が自分の時代を見ながら書いているものなので、ものすごく色濃くね、その時代を切り取ってるんですよね。
だから何よりもね、歴史の証言、歴史の実証に小説、その同じ時代に書かれた小説を読むっていうことはものすごく有効な学習教材になり得るっていうことなんですよね。
だから、なるほどなと思いました。本っていうのはこういうふうにして読むんだなっていうことも当時思いましたね。だから自分がすごく共感できる主人公が出てきて、その人がそのいろんな冒険に出かけたり、すごい魅力的な異性と出会って大恋愛をするっていうね、そういうものすごく筋書きがはっきりした、エンタメ性の高い物語を読むのだけがね、
小説を楽しむっていうことじゃもちろんないんですよね。その同じ時代に書かれた文学作品の中にはですね、当時の臭いとか、どういう価値観でどういうふうに人々が営みをしていたのかっていうことがもう全部書かれてるんですよね。
そういう目で本を読むとね、やっぱり自分タイムスリップできるんですよね。第2次世界大戦の時の人々ってこういうふうにしてたんだなとかね、南北戦争の頃の黒人奴隷ってこういう暮らししてたんだなとかね、そういうことを一番リアルに感情移入して没入できるのが文学作品だっていうところがあって、そういったものを教材にするっていうね、アメリカの教育はやっぱりすごいなって当時思いました。
教育の意義
はい、だから例えば、私の母親は音楽のプロなんですけれども、音楽なんかもですね、ただただ弾くというね、技術を習得するというだけで非常に大変な分野ではあるんですけれども、やはりね、クラシックとか、そういう当時古い作者が作った作品を演奏したりとか当然するわけなので、そうなった時にね、やはりそのロマン派とか、
印象派の時代とか、いろいろそういうバロックの時代とか、そういった時代をちゃんと理解してなくて、どうやって本当にその感情移入してね、ベートーベンが弾けるんだみたいなことをよく言ってるんですよね。
なので、リベラルアーツっていう一般教養っていうのがどういうものかっていうと、つまりこういう自分たちの生きていく、なんていうかな、その中で、万全と生きてるんじゃなくてね、こういう一般教養で身につけた、何かな、この土台となるね、基礎教養みたいなものがやっぱりね、自分のこう石杖になるっていうところがね、すごいあるなと思ったんですよね。
だから自分の、例えば専門分野とか興味のある分野がIT系であったとしてもですね、一旦この若い、まだ柔軟な時にね、頭が、4年間、みっちりこういう自分の得意も不得意も関係なくですね、一般教養で身につけさせられる、この全部ね、必修科目を全部一旦はね、学ばせられるっていうのはね、めちゃめちゃ有効というか、非常に役に立つというか、
非常に役に立つんですよね。それはね、もう50過ぎた今、改めて思いますね、あの頃ね、もう大学がね、なんか爆破してなくなればいいのにとしょっちゅう思ってましたけれど、それぐらいね、だから、要するに単位を取っていくってことが本当に厳しいんですよね。
本を読むことばっかり話してますけど、読むだけじゃないですからね。読んだから合格じゃもちろんなくて、読んだ後、この感想とかね、あとその研究課題とかで論文書かなきゃいけないんですよ。さらには論文書いた後、それを自分でスピーチでみんなの前で発表したりとか、いろんなことをやらされるのがアメリカの大学なのでね、だからもう本当に辛かったんですよ。
今でもね、時々単位を落とす夢見ちゃうんでね、よっぽど苦しかったんだなと思うんですよね。だけど、やはりね、ものすごく意味があったなと思ったりしました。
はい、あののぶさんね、本当にご質問ありがとうございました。また折に触れてね、こんな本が面白かったとか、またね、こんな話してくれとかね、いろいろリクエストお願いします。はい、というわけで、今日はこれで終わります。ごきげんよう。