分析読書の基本
次はレベル3の分析読書なんですけど、ここで言われてることがめちゃくちゃあるんですよね。
ここが、第2部が一番この本の中でもやっぱ長いので、またここも盛り上がるんじゃないかなとちょっと思ったりしてます。
本の要であるぐらいのことを言ってましたよ、本人も。
そうですよね。ちょっとバランス悪いですよね、この本の。その部で分けて見た時には。
ただ、レベル4はレベル高すぎてあんまり難しいやろみたいな感じなんでしょうね。
一般的に、一般人が割と実用できるレベルだと、たぶんレベル3になってきそう。
レベル3まで来たら、OK、だいぶもうパッチリですみたいな感じですね。
じゃあちょっとレベル3に行くんですが、分析読書って言っていて、
こいつは、分析読書は本の主張とか構造を深く理解し、著者の意図を探りましょうと。
本のテーマや論理的な流れを分析しながら読んでいくんだよっていうのが分析読書なんですけど、
分析読書にもまた段階があるんですよね、ステップが。
どういう構造になってるかっていうと、まず3段階に分かれてます、分析読書は。
1個目が何についての本であるかをまず見分けましょうと。
2番目が内容を解釈しましょうと。
3番目は知識は伝達されたかっていうふうにこの本では書いてるんですけど、
解釈をして、もうちょっとさっき言ってた、著者の意図をちゃんと汲み取って、
汲み取った上で批判だったりとか、不足がある点を明らかにしましょうとか、
こっちは死んだけど、こっちは誤りがあるよっていうようなことを明らかにするとか、
っていうような作業をやっていきましょうという、この3つのステップに分かれてますね。
だから本当に第一部じゃない、第一段階何についての本であるか見分けるっていうので、
構造だけ見るみたい、構造とか。一番最上段の見出しだけ見るみたいな感じがして、
第2段階が解釈、第3段階が評価みたいなことに近いのかなっていうふうに個人的には読んでました。
そうですね。でもそれ、ちゃんとステップ踏みながら行こうねって書いてあるのがいいなと思いながら、
割と早急に解釈して、いやこれは間違ってるから消しかないみたいなのをやりかねないなっていうのがあって、
ちょっと思いながら読んだりもしてましたね。
知的エチケットの一般的心得って書いてありますからね。
そうそうそう。
これ部の終わりかな、172、173ページに改めてというか、全体の流れがおさらい的に要約されていて、
いやー助かった、これがなかったら全部読み返さなきゃって思ってたんで。
そうなんですよね。この本ちょっと、このまとめは毎回いろんなところでここに限らずちゃんと作ってくれてるのでありがたいんですけど、
ちょっとその部とこの3段階のステップとか、さっきのレベル感とか、
なんかその構造があるはずなのに、その構造で初打てが作られてなくてちょっと苦労しますね、読むのに。
何回か読んだほうが入りやすいというか、1回目は本当に流して、とりあえず最後まで通読するみたいな感じが良さそうな気がしますね、1冊読むんだったら。
そうですね。もうなんかこの言葉あの辺で出てきたなとか、なんかごちゃったなみたいな、ごちゃごちゃってなったなってことを頭に入れながら2週目読むと、
ちょっと多分ここで言ってたのかとか、ちょっと気にかけながら読むようになると思うんで、2週、実際自分も2週読みましたね。
分析、分析読書って言ってたり分析的読書って言ってたりするな。なんか点検と分析の違いは改めてどういうところですか。
そうですね。点検と分析の違い、なんかちょっとそこ自分もうんって思った部分はあって、
特に最初何についての本であるか見分けるみたいなところで、これって点検とどう違うのかなっていうのはちょっとうんって思ったんですけど、
多分点検と分析の違いは、点検は本の概要を掴んだりとか、この本がどういう本であるかっていうことを知っていくってことで、
分析の方になるとやっぱりそこに書いてあることを解釈して、言ってることがより高いレベルで正しいかどうかとか、
この著者が本当に表面的にはこうだと捉えられたけど、点検ではね。
分析の段階では、著者が本当に課題としているものは何なのかっていうところまで深く潜っていくみたいなところが結構大きい違いかなって思いましたね。
その解釈の結果、この本はどうであるかっていう評価をするっていうところが加えて、分析の方に入ってくるっていうことかなっていうのは思ったんですけど、
ちょっと最初の何についての本であるか見極めるっていうのが、点検とちょっとどう違うのかなっていうのは思ったりしましたね。
やってることはかなり似てる気はするんですよね。点検でも全体構造とか、そもそも主題を掴むみたいな話は最重要。
読書のステップ
点検読書が結構頭の中で要約を作るみたいなところがゴールっぽい印象なので、
あくまで積極的な読書をするっていう上で、その本の要約を作るとか、主題を掴むとかっていうのは絶対に欠かせないし、
それをやるにあたって全体構造を掴むとか、そもそもこの本は何であるかっていうのを見抜くみたいなところは大事なはずなので、
本を分類するみたいなところももちろん分析的な読書でも出てくるんですけど、
その分析した結果をどう使うかっていう、何ですかね、講談の繋がり、生かし方、使い方みたいなところが違うから改めて出てきてるのかなみたいな気はします。
点検だとこの本はどういう本でしたかまで言えればいいのに対して、分析だとこの人は何をしようとしてますかっていうところまで見抜いた上で相対しなきゃいけないので、
ベクトルじゃないですけど、なんていうか、の本はそもそもどういうフィールドで戦おうとしてるんだっけみたいな感じの設定するために最初の分類から来るのかなっていう気が個人的にはしてましたね。
あとは使う目的が違うから違う目的で、違う視点で本を読んでいくっていう感じですかね。
あと、そんなに民心のものじゃないでしょうしね。
確かに。
どこに重きを置くかっていう違いだよなっていう気はしてて、やってることは本読んでるだけなんで。
確かに。だからさっき点検のそこができるようになるとめちゃくちゃいいぞっていう話をしたんですけど、この本を分類する、この本はどういう本であるか見極めるために結構いろんな方法が書かれてるんで、
そこもできるようになると、その本を点検読書の方にもすごく行けるよなっていうのを思ったりしましたね。
そうですよね。なんか上の方のレベルができる人は自然と下のことはもうできるようになってるみたいな思想というか体系だと思うので。
そうですね。分類じゃないって書いてましたもんね。レベルだから、レベル1にはならなかったけどレベル3になりますみたいなことではないんだぞっていうふうに言ってたから。
そうそう、種類というかABCじゃなくて、あくまで1、それの上の2、それの上の3、最終段階4みたいな。
なのでレベル3ができるっていう人はレベル2もできるぞっていうふうに、そういう前提では書かれてました。
分析読書をするたびには分析読書の段階みたいな、どういう要素があるのかみたいな話はしたんですけど、どういう努力が必要なんですか?分析。
どういう努力が必要なんですかね。
どういう方法なんですかね。
自分がこれを読んで思ってたのは、やっぱ本を構造的に理解するっていうのがすごく大事だなと思ってて、この本の中でいうと本を投資するみたいな表現が。
本を投資するって表現がすげー好きなんですよ。
87ページからの7章を本を投資するっていうのがあって、どの本も2枚の表紙の間に骨格が隠れているっていう風にから書き出しが始まるんですけど、
本の始まりがあって終わりがあって、その本がどういう構造をしているのかというところを見抜きましょうっていう風に言ってて、
これまさに目次を読む時とかって、どういう論理展開で主張しようと思っているのかとか、この本は大きいピックテーマが何個あるんだろうかとか、
いうのってものすごくいつも買う前からやってるというか、自分はやっていて、そこが結構できるようになると、どこだけ読めばいいかも分かってくるし、
あと主張があってそれの根拠はどこだっけっていう風に探していくと、この人が言おうと思っている、著者が言おうと思っている意図とか言いたいことっていうの等で、
それに自分が乗れるか乗れないか、好きか嫌いかっていうこととその主張が合ってるか合ってないかみたいなマトリックスで考えて、
それが主張に対して自分も賛成だし、真であると思えた時はすごくいい本だなってきっと思うし、主張もなんか怪しいし乗れないなって思う時はこの本大丈夫かなってきっと思うなとか、
そういうことができるようになるといいんだろうなと思うんで、そういうことを見つけるトレーニングをするといいんですかね。
なんか本読む時のメリハリもつきますしね、ここ一生懸命読めばいいんだなとか、そういう時は一旦ここ先読むかみたいな。
そうそう。
どこで盛り上がるか分かってたら力抜けますもんね。
そうそう、なんか主張があって、私はこうだと考えてますっていう主張があって、サンプルケースがいっぱいその後に列挙されて、最後にもう一回、ほらこういう例があって、だからこうなんですよっていう風な構造になってたら、
そこのサンプルケース別に読まなくたっていいんですよね、その主張だけを取ろうと思ったら。
そう、そこでOK、分かったみたいな、分かるわ、アグリーだわ、共感できるわみたいな感じだったら、なんかもう弊社と仲間になってるんで、じゃあショーの最後でお会いしましょうみたいな。
あなたのまとめだけ確認させていただきます。
いいですね、部下のレビューみたいな。
本の評価と理解
方向性が合ってれば大丈夫みたいな。
その構造パターン、希少転結みたいな、メタなスタイルみたいなのもあるかもしれないし、
特にね、英語圏の人が、英語圏なのかな、アメリカなのかな、人が書いたビジネス書とか本当にそこがすごいしっかりしてて、
だいたい一章ごとに最初の方に背景があって問題提起、命題みたいなのがあって、で、だいたい具体例がバーって書かれてるんで、そこはなんか本当に読み物以上の価値があまりないなって思って、楽しく読むか退屈で読み飛ばすかみたいなことはめちゃくちゃしますね。
なんか多分我々もポッドキャストで喋るときに、いつこの本が書かれたかって結構気にしながら喋るじゃないですか。
で、それって結局この本が書かれたのはどういう環境にあって、どういう問題意識がこの著者にはあって、だからわざわざこういう本を書いて、こういう主張をしようと思ったんだっていうとことをすごく密接に繋がってるんですよね。
特にあれなんですよ、〇〇以前〇〇以後みたいなところでだいぶ読み方変わったりするものとかありますもんね。
散々我々アジャイルソフトや開発人権の。
アジャイル以前アジャイル以後。
そう、ビフォーアフターで喋ってるけど、そうなんですよね。
CICDとアジャイル以前以後がだいぶ違う。
この本の中に行間を読みましょうみたいな話もちょっと出てきたりもあった気がするんですけど、自分は行間も大事だけど、この本が書かれた当時とか、
この時代の人のインタビューとかはあんまないかもしれないけど、最近の本だったらインタビュー動画とかあったりするから、インタビュー動画を見て、
そもそもこの人はこういう問題を思っていて、その問題を解決するためにとか、その問題が問題である、なんで問題であるかっていうことを提起するために本を書きましたっていうようなことをだいたい喋ってたりするんで、
先にそっちを見てから本を読むみたいなことをやると、すごい理解が早くする。
なるほど、こういうことを言いたかったんだ。で、それは乗れる乗れない、合ってる合ってない、合ってる合ってない、真と見えるか偽と見えるかっていうことが一気に行けるようなことは思ったりしました。
この人の影響を受けてるんだなぁみたいなのとか。
論文を読む訓練
はい。
そうだから我々が読んできた話で言うと、結構デマルコが言ってたようにみたいな言及があると、じゃあデマルコが言ってたような考え方と似たような立場っていうふうに解釈していいんだなっていうふうに。
そう思うとめちゃくちゃ楽ですもんね。超省エネルギー読めるみたいな。
そうですね。ここで突然なんか思った方と違う方向にはいかないんだなって思いますもんね。
なんかチャッシュに載ってますそれはみたいな。
ベイビーアクセスまでは行きませんみたいな。
そうましては計算する必要がないので。
そうそうそう。
そうですよね。動詞する。なんかあれですね。大学入試とかで論文の読み方みたいな。やってると。大学入試で限らないのか。
大学の研究室とかで、自分はやったことないですけど、他の人がやってるのを見たのでは、英語論文をひたすら読むトレーニングとしてサマリを作るみたいな。
100本ノックじゃないですけど、主要な論文を読んでサマリを作るみたいなのをやってるのは聞いたり見たりしたことはあって。
それって本当にトレーニングだよなみたいな構造を抜き出してきて、その主張がなんで正しいか妥当だって判断されてるのかってことを根拠を抜き出して言うっていう訓練してるのは見たこと聞いたことありますね。
高校の時の現代文がようやくトレーニングをしてる学校だったんで、だいぶやってましたね。
それができるとできないで、得られる情報が全然違うなと思って。本当に本読んでこなかったんですよ、大学生になるまで。
部分的に真実かどうかみたいな。
さらに国語めちゃくちゃ苦手で、どれくらい苦手かっていうと、小説と評論があるわけじゃないですか、現代って。
ブレイブストーリーっていう宮部みゆきの小説が模試で出たことがあって、選択式の問題で0点を取ったことがあるぐらいには国語はすごい苦手です。
僕はでも世界史センター模試6点取ったことがありますけど。
全部Aに、全部一番でよかったんじゃないって言われて、うるせえ俺は本気だって言って。
確かに4分の1の確率でいけば25点ぐらいは取れるはずみたいなことですもんね。
進路指導の先生とかに相談したら、世界史を捨てるか、数学を捨てるか、選ぼうかって言われて。
本当になので、文章の読み方みたいなのは全然自分はできなくて、読めないし書けないし、文章の繋がりとかもうまく表現もできなかったし。
しかしとか、順説なのか逆説なのかに注目しなさいよって言われたら分かるんだけど、注目するだけでここから通したらいいみたいな状態だったんで。
でもそれがめちゃくちゃ本を読むようになって、だんだん本ってこういう構造があるのかとか、あれ全部読む必要なくないとか。
全部読んでたからこそ、途中で話が分かんなくなっちゃう。
どういう道順で進んでるか全然汲み取れてないけど頑張って全部読んでるから、あれって結局何だったんだっけとかって思っちゃうことがあって。
文章を書くことの重要性
あれか、スパゲティコンの読んでる時と同じ気持ち。
そうそう。
この編集どこ行ったみたいな。
そうそうそう。
でもなんかいっぱい本読んでたら、気づいたら、目次が大事っていうのってそういうことだったんだとかいうのは、ある時期に分かるみたいな気持ちになって。
で、それ以来ちゃんと構造をつかみましょうみたいなことを思うようになりました。
すごい感覚的な表現になりますけど、立体的に見えてきますよね。
ここはぼやけてるけどこっちは飛び込んでくるなみたいな感じとか、色の濃淡でもいいかもしれないんですけど。
なんかね、あの、シンタックスハイライトついてるというか。
めっちゃホールディングされてるなみたいな、さっきの実例1、実例2、実例3みたいな。
ケース1よりだから2、3いいやみたいな。
あとなんかつながり、グラフみたいなものがシンタックスツリーで今度見えてきたりね。
っていう感覚はすごいいつからかあって、いつからかあったし、僕もすごい積極的な本読みようになったのって、いつやらここ数年ぐらいなんですけど。
本当ですか。
大学、もともと読書好きなんですよ。
うんうん。
中1ぐらいで宮城みゆきとか親のせいで読んでたんで。
いいですね。
めちゃくちゃ教育に悪いと思ってた。村上隆と宮城みゆきを読ませるのみたいな。
だから読書自体はもともと好きだし、大学時代も準駆動行って大人買いするみたいな生活はしてたので。
うらやましい。
バイトばっかりしてたから。
でも別にプログラミング始めたらそっちが楽しくなっちゃって、本読まなくなったんですよね。
一生やることあるじゃんみたいな。
それが本当に何社目が入った時に同僚でめちゃくちゃ本読んでる人がいて、
すげえ人ってめっちゃ信じられないぐらい本読んでるんだみたいな感じになり、っていうのでこじれたの、ここ数年なんですけど。
でもゲインさんの話にちょっと戻したいんですけど、だから後天的にというか本をめちゃくちゃ読めるようになったわけですよね。
そうですね。
それって単純に最初からめちゃくちゃ本を読むようになったから、本を読んだ結果ですってだけじゃないんじゃないかなっていう気もしてて、
どういう能力を鍛えたんですか?
それがわかんないんですよね、みたいなことを。
向いてたんでしょうね。
個人の資質みたいな話と環境ってどっちも合わせて向いてる向いてないだと思うんですけど。
多分知識欲自体はあったんですよ。
なので周りに本を読んでる人がいないとか、本を読んでる本について喋る相手がいないっていうのが多分今まで読んでなかった時代はあって、
その代わりインターネットをやってたんですよね。
色々調べ物をするとか、周りの人が知らないようなことを自分で調べて見つけてくるみたいなことをやっていて、
東京に出てから本屋に行ったら、インターネットで全部調べられると思ってたけどこんなことねーやとか、
自分が知らない世界ってこんなに広いんだみたいなことが分かって、そこから分からないなりに本を色々読んでいくみたいなことはやっていて。
だから知識欲が満たされるとか好奇心がくすぐられるっていうの自体はすごいポジティブな体験ですね。
相手が活字というか読書であっても。
そうですねそうですね。
今あと喋りながら思ってたのは、文章を書く、ドキュメントを書かないといけないとかことがあった時にどうやったら読みやすいかとかっていった時に、
最初に結論を書いておきゃ、ここだけ読んでおきゃ分かるかっていうことがTLDRとかありますけど、
ああいうのを書いておきゃ分かりやすいじゃんみたいなことがだんだん分かってきて、
そうすると文章ってなんか構造ってものがあるなみたいなことに気づき始めて、
あれ?これってもしかしてこう書いたら読み手にとって読みやすいのかみたいなことがだんだん分かってくると、
ああ、これってつまり普段読書する時にそういう風に読むと意味が汲み取れるようになっている本は読めるんだなっていうことにだんだん気づいたっていうのはあるのかもしれないですね。
良い書き手は良い読み手でもあるのだってどっかで書いてありましたもんね、この本にも。
そうですね。
なるほどな、なんかあれですね、めちゃくちゃ量やってるうちに、ライティングの方かもしれないですけど、量やってるうちに原理原則にたどり着くみたいな。
で、なんか後から気づいたら、これ一般的に言われてたことなんだ、みたいな感じの話に近そうだなって今思いますと聞いてて。
そうですね、そしてそれって多分普通の人は中学生、高校生の時に国語の時間で習ってんだろうっていうことにも思いながら、
多分その時には全然気づけなかったけど、評論とかで評論文の読み方で多分、どことどこが対比されているのかっていうことを書き抜きなさいよとかって多分あったような気がしていて。
ありますね、マスがあって20時以内でみたいな。
そうそう。
20時以内って言われたら最低でも18時以上のものを抜き出すんだよみたいな。
ある種小手先のテクニックだけみたいなところでいくと、もしかしたら身についてないみたいな部分はあるのかもしれないけども、
なんかそこでは多分本当は文章の読み方みたいなものっていうのは多分習ってたはずなんだけど、
自分はそれがあまりにも頭が悪くて、多分全然理解できてなかったんだなっていうことに後で気づきました。
なんかでもそれあれだな、僕今の話聞いてて結構中1、中2、高1、2、3の国語の先生とか現代文の先生がだいぶ恵まれてたなっていう気がしますね。
なんかめちゃくちゃ教え方うまい人が多かった。教え方がうまいのかな。
中1、中2の時はすげー教え方がうまい先生、なんか超厳しい、元レディース上がりっていう噂が絶えない厳しい先生だったんですけど。
分析読書の意義
その人は非常にカリスマで、高校の人は何だろうな、なんか地中海生命体ぐらいの感じのエネルギーを放ってたすごい先生だった。
ペンジンにあたってそれが良かった、いいようなことを思い出したんですけど。
だからこなしてればできるっていうのと、なんかあれですね、秘訣というか構造を意識して色々読んでいく、もしくは書いていく、文章に付き合っていくと、
なんか透けて見えるようになるかもねー的な話ですか。
そうですね。
なんか僕で言うと、この次の章の著者と折り合いをつけるっていうところが結構好きでしたね、分析読書の話で言うと。
どの辺が良かったんですか?
同じ単語でもどう使われてるか、もしくは何をするために、文字ってある意味シンボルじゃないですか。
何を表現したくて、もしくはメッセージとして伝えたくて、その記号、形、使ってるのかなっていうのを読み取りなさいよ、みたいなことが書いてあって。
次の章で著者の伝えたいことは何かっていう話も出てるんですけど、著者と折り合いをつけるっていう表現がめちゃくちゃオシャレでいいなって思って。
本を読みながら、あなたが言いたいことは良いですね、こういうことね、分かった、よしよし、みたいな感じがしてですね。
それって、著者が言いたいことをある意味自分の心の中にちょっとその単語とか主張を迎え入れるためのスペースを打って迎え入れてあげるみたいな感じもあり、
これ折り合いをつけるっていうのは非常にいいな、ただ言いなりになってる感じもしないっていう意味ですごい説得的な感じもするし。
どう解釈するかっていうのはあくまで自分の努力でやらなきゃいけないんだなっていう感じもしたりとか。
なんかそんな雰囲気があってこの章を好きでしたね。
自分はこの章をちょっと見てうって思ったことがあって、逆に好きじゃないってことではないですけど、
122ページに一つの単語はいくつもの意味を表すことができるということは忘れてはならない。
著者が使っている単語とその独特の使われ方に注意すればこのことがわかるだろうっていうのがあって、
ある単語をその著者が独特な意味で使ったりすることってあるわと思って。
ノーマンですか?
ノーマンに限らず、ノーマンもそうだったなって今しゃべりながらノーマンを思い出しましたけど。
この話ってすごく丁寧にテキストを読む人たち、文学部だったりとか哲学専攻だったりとか、哲学だけじゃなくてもそうだと思うんですけど、
すごく丁寧に読む人たちって、ここの単語の意味はこことここで違うとか、
その人の思想の前期と後期で同じ言葉を使ってるんだけども、その意味合いは違うよねっていう話とかあって。
全部ノーマンに行き着きますね。
そもそもデマルコも前期と後期でだいぶ違うし、アレクザンダも違うし。
っていうのがあって、それを昔聞いて、本読むってそんな辛いのかって思ったことがあって、
そこまで細かく理解しないと本って読んだって言えないんだって思ったことがあって、
そういうことを思い出して、ここの著者と折り合いをつけるっていうところは打って、ちょっと嫌なことを思い出しました。
単語の意味と読者の解釈
なるほど。それで言うと僕結構小っちゃい頃に、それこそ中学生で宮部みゆきとかって、語彙も漢字も難しいんですけど、
別に中学生になってからいきなり大人の本読み始めた、大人の本って言うと変なんですけど、
大人も読むような本読み始めたわけじゃなくて、小学生の時から読んでて、
その当時に培われた感覚って、知らない単語とか何だったら読めない単語にこういう意味かなって、
推測めちゃくちゃしながら読むみたいなことをやってたんですよね。
単語本来の意味っていうよりかは、この文脈においてどういうことを意味してるのかなっていうのをかぎ取りながら、
自分なりに勝手に舌かぶりしながら読むみたいなことをやってて、
っていうのもあって、単語以上に著者が言いたいことなんだろうっていう手がかりとして、
そのボタブラリーが使われてるっていう感覚がすごいしっくりくるのかなって思ったりしましたね。
あと関連しそうな話で言うと結構、翻訳された本で横文字ばっかじゃんみたいな批判があるじゃないですか。
別に全然僕よくないっていうふうに思っちゃう派で、むしろカタカナにしておいたほうが読みやすいまであるなっていうのも結構あるんですけど、
そういうのも、何ですかね、著者と折り合いをつけながら読んでると、なかなかストレスになりづらくなったりするのかなとか思ったりしました。
オリジナルの意味が逆に失われたりするので、
デイリースクラム、朝会って訳したらアウトじゃないですかみたいな。
そうですね。あとさっきの横文字のまんまっていうのは検索する上でとかも結構そうであってほしいがあるんですよね。
それもありますね。
オブザーバビリティとか、そのまま訳しといてくれよみたいな。
可観測性とかって言われると逆にピンとこないし、可観測性で検索するよりもオブザーバビリティで検索することの方が多いよなとか、
特に英語の情報を手に入れることすると、もう一回元に戻さないといけないのは大変だったりしますからね。
そうですね。機械翻訳とかされたドキュメント出てくるとたまにイラッとして英語に戻してるからな。
わかる。
ブランチをエダって訳されると、まあそうだがって。
ブランチはブランチでいいよみたいなね。
ブランチはブランチでいいですけどね。でも分析読書は本当に中身に踏み込んだ形ですよね。
点検だと結構形式的な感じはして、分析はそういうふうに本当に中身とか裏側というところに踏み込んで、
そっか本を正しく批評するみたいな話ですね。違反じゃない、批評か批評。
そうですね。いや批評も難しいなって思いながら、これこそ本当にロジカルにできないと、
なんか俺これ違うと思うんですよね。なんか気に入らないでは通用しないので。
それが書いてありましたもんね。
気に入らないはダメだみたいな。
そう、ダメって書いてあって。でも普段そんなになんていうか、全部を論理的に処理してるわけじゃないし、
やっぱなんかこれ好きじゃないんだよなとか、それに対してちゃんと深掘りして、
いやこの部分がこうなっててこうだから自分に合わないと思うんですっていうところまで掘り下げることって、
手をつけたらだんだんそうなっていくかもしれないですけど、
何も言われないと多分本当になんか好き嫌いで全部語るようになってしまうので、
なんか批評のトレーニングとか、まあディベートでもいいのかもしれないですけど、
なんかそういうトレーニングがないとこの辺ってすごい難しいんだろうなっていうのを思ったりしましたね。
そうですね。賛成するにも根拠が必要みたいなことが書かれ、それなりの準備が必要かっていうふうに書かれてたり、
ここら辺からなんかしっかり積極的に読書を読むっていうのが、
負荷が高い作業だなっていうふうなことを感じ始めたぐらいでしたね、僕はここら辺が。
ただめちゃくちゃいいこと書いてますけどね、毎回やることではないなと思いつつ。
そうそうそう。これで全部やってたら疲れちゃうって思いながら。
そうしたら本の内容というか著者に対して自分なりに質問だったりだとか意見を出していくみたいなことが、
本当にこの本を正しく批評するっていうステップから出てくるので、
対話になってきますよね。ただ読み解く、受け取るだけじゃなくて。
そうですね。読んでて後、連想して、なんかコートレビューとかもなんかちょっと近いよなと思いながら、
ここをこうしてください、俺その書き方好きじゃないんで、だと通じないけど、
なんかこういうルールにのっとってこうしているので、ここはこういうふうにしてくださいっていう、
批評の重要性
ちゃんと批判?なんか気に入らないからダメですっていう批判ではなく、
批評コードをレビューするっていうことって賛成?反対?
ここはこの書き方いいね、自分もこここう思ったからとか、計算量的にもこっちの方がいいね、すごくいいコードだねみたいなことを賛成も書くし、
ここはちょっとフォールループ2回書かれてて遅くなっちゃうんで、
もうちょっとこうループを1回にする方法があるのでこういうふうにしたらどうですかとかっていうような反対意見とか、
あと別に本当にその場で結論出さなくていいものに関しては判断保留みたいな、
いう態度を取るとかってなんか結構コードレビューとかでもやってるなーっていうのを思ったりもしましたね。
そうですね、確かに。それで言うとここの章の批評のいくつかの規則が書かれてるんですけど、
なんか全然いろんな場面で役立ちそうな気がします。第3の規則まであるのかな?
そうですね。
あと逆にレビューしたのを無批判に受け入れられるとちょっとムってなったり。
そうね。
いつですかね。
コードを読むのにも役に立つかもしれない、本読む知識が。
で、そっか。で、まあ著者に賛成するか反論するかみたいな話まで、分析読書が完成って感じですかね。
そうですね。なんか論文書くみたいな世界が近いなって思ったりもしましたね。
先行研究をひたすらあれこれ読んで、これに対して明らかな間違いがあったりとか、その誤りがあったりとか、
で、誤りがあるからそこをちゃんと自分はこんな風に修正して、さらに提案をしますみたいなことまで考えると、
これ論文の読み書きの世界だなって思ったりもしました。
論文の読み書きぐらいのシビアさ、厳密さで読書するかいって言われると疲れそうなんですよね。
そうなんですよね。もちろんそれが必要とされる場合はあるかもしれない。
なんか月にじゃあそれを10冊やってくださいって言われたらもうちょっと勘弁してくださいね。
気が付きそう。
力はつくが、とても疲れますね。あと他のことがだいぶおざなりになりそう。
そう、分析読書ほどのコストをかけて読むに値する本っていうのは必ずしも世の中全ての本がそうではないっていうのが本当にこれぐらい書かれてた気がする。
そうですね。あとなんか著者もそこまで深く読まれることを意図して書いてないっていう本とかも多分あると思うんですよね。
あるでしょうね。
どういう人に手に取ってほしいかとかもね、ターゲットの話とかもあるだろうから。
本読むアプローチの考察
本当にその全部ここまで分析的に読むっていうことが正しいかどうかって言われたらまあそうでもないかもしれないねっていうことまであります。
そうですね。
だからどのレベルの本を想定してこの本を読むもん書かれてるのかなみたいなのはちょっと思いますよね。
全部専門性なのかな。なんかすごい高度な本との向き合い方っていう感じも後半に進むにつれてちょっと個人的にはしてきていって。
そうですね。
例に挙がる本が全部アダム・スミスとかそういう感じだからっていうのはあるかもしれないですけど。
そうですね。文学のところでシェイクスピアとか出てきてまあそれはそうだよなみたいな。
ちょっと落ち着いたかなみたいな。簡単にその本がやっと出てきたみたいな。
1940年代がどれくらいどんな本が出てたかってね、全然我々知らないからね。
まあでも少なくとも多分今我々がその巷に溢れていて、なんかちょっと本を開くと全体的にちょっと白い部分が多いなとか重要なところが全部太字になっていて、最後の章の最後には全部まとめがついててみたいな。
そういう本を対象として書いてるっていう気はしなかったなって読みながら思いましたね。
でもなんか棒線を引いてあったりボールドになってるのは手掛かりになるぜっていうのは書いてありましたね。
そうですね。まあ多分そういう本、そういう本。いやなんかすごくバカにしてるような言い方になるからよくないんだけど。
まあだからターゲット層が多分こう普段本読んでない人にどうにか手に取ってもらおうっていうことを考えてるな本っていった時には、
別になんか深くツッコミを入れてもらうってよりは、その人が読んで勇気づけられるとか本一冊読み通せたみたいな体験をしてもらうみたいな設計をしてるような本とかっていうのは、
まあ多分手掛かりがたくさんあって、読みやすく設計されてたりするんだろうなって思いながら読んで、
それを難しい本と同じような、わかんないですけど、ビト・ゲンシュタインの論理哲学論考を読む時と同じように読むっていうことはきっとないんだろうなっていう感じですね。
そうですよね。なんかわざわざバシッとフォーバルな服装でファミレスに行くが如きことを求めてるわけではないと思うので。
でも分析読書そんな感じですかね。読書の補助手段って話もありますけど。
そんな感じですかね。
次が小説とかの話はあったんだけど、そこはスキップで第4レベル、レベル4ですね。