難しい下宿生活
お聞きの皆様、お運ばんちは、現役リフォームプランナーの寸尺かんなです。
老いたちシリーズ、立て続けに行こうと思います。
ひどい下宿で、このおばさんとはとにかく反りが合わず、結局10ヶ月で、ついにもうこれ以上お宅のお嬢さんを預かれません、みたいになったんですよね。
そこに至るまでに、一回、母は呼び出されてるんですよね、ちょっとお宅のお嬢さんは手に負えませんと。
あなたが思っているよりも悪いお嬢さんですよ、というふうに、母に連絡があったそうですね、私が知らないところで。
母は、そうですか、すいません、いろいろご迷惑をおかけして、すいません、すいません、みたいな感じで、一旦謝ってたんですが、最終出ることになるんですよね。
でもね、この時の母の対応がね、面白いなと思ってね、そういう話し合いがあったっていうことをね、私はほとんど聞いてないんですよ。
で、ある時ね、これが2回、3回とね、もう立て続けになってきて、ついに母がね、えっと、まああんた、もうちょっとね、うまくやんなさい、みたいなね、こと言われましたね。
で、だから、責めなかったですね、私をね。まあ、あの、とにかく責めませんでした。で、ちょっと話が前後するんですけれど、私は結構ね、自分でも自己憐憫ですよ。
これ自分の番組なんで、いくらでも自分を都合よく話すことはできるんで、ちょっとご容赦していただきたいんですけれど、小学校だからとにかく帰国史上で帰ってきて、日本語が喋れない。
で、ずっとね、頭が悪いと思われたみたいなんですよね、学校でね。だからね、これもちょっと語弊を恐れずに言いますが、学校の先生とかっていうものが、これも私が嫌いな人種の人ジャンルなんですよね。
うちの家の家族も、学校の先生の部類に入るんですが、この人たち、全般にわたって全然好きになれない人種の、その最大の理由がね、この小学校の時にひどい仕打ちを受けているっていうのもあるんですよね。
でまぁ、普通にね、普通だったらですよ。あの、そこまで賢くなくても、この子は帰国史上だから日本語が喋れないっていうことはね、見ればわかるじゃないですか。
だけど、私が普通に他のクラスメイトたちよりもできないことが多いことで、この子はバカだっていうレッテルを貼られちゃったんですよね。
で、何度も母は実は私が知らないところで呼び出されてたらしいんですよ。で、勝手に私には言わずにめっちゃ怒ってたらしいですね。それはだいぶ後になって聞きました。
で、私が小学校、それでもね、なんだかんだ言って卒業する時に、今までお世話になった先生たちって言って、なんか、そんなにその先生たちに対して悪い印象を持ってなかったんですよ。
そしたら母が、卒業した後にね、あの先生は、あの、ろくでもない先生だったよっていうようなこと言うんですよね。で、なんでっていう、例えば私が小学校3、4年生の時の担任の、何々先生って、とかいう話になると、ああ、もうあの先生も大したことない、ないない、もうあんなバカばっかり、みたいな感じで言うから、
何々って言って、私はそんなに学校先生に対して、そこまで悪い印象もいい印象も特になかったんですが、母がもう、ああ、バカ、バカとか言ったんで、なんでっていうふうに聞くと、いや、今だから言うけど、実はね、何度もあんたのことで私、学校から呼び出し食らってるんだと。でね、忙しいのにね、言ってたんですね。
全て私にバレると、私が傷つくと思って、私が知らないうちにね、私がだからもう家に帰ってるか、学校にいないタイミングに時間を合わせて、でも母も忙しかったでしょうからね。すぐにはいけなかったんでしょうが、でも上手に時間をずらして、学校にはね、もう結構な頻度で呼び出されてたらしいんですよ。
で、オタクのお子さんは問題児ですと。で、オタクは皆さん優秀な方ばっかりなのに、どうしてカンナちゃんだけあんなにダメなのか分かりませんって言われたらしいんですよね。で、その理由が何度も言うに、まず日本語がしゃべれないから当然授業についていけてなかったっていうことと、あととてもね、一人っ子だし、割と内向的な人間なんでね。
で、ずっと絵描いたり、一人遊びの名人なんですよ。一人っ子って皆さん多分そうだと思うんですけど、一人でいるのを全く苦にならないんですよね。いろんな自分の中で物語を作ったりね、いろんな試作にふけたりとかして、全然一人でいても、むしろ一人でいる方が自由に自分の想像の翼を広げて楽しく過ごしたりするんですよね。
で、私がね、おばがね、私の母の妹が、私のお姉さん代わりみたいな存在だったんですが、ある時ね、二人で遊んでて、私のね、このまだ子供の時の手ってぷくぷくして、子供の手で可愛らしいんで、おばがね、面白がってね、私の手が可愛いって言って、腕にね、油性ペンで鱗を描いたんですよ。
で、鱗を描いて、手のひらを口に見立てて、人魚だって言ってね、二人で遊んでたことがあったんですよ。たわいもない遊びです。油性ペンで鱗を描いたのが翌朝になって、もう取れてなかったんですね。お風呂で洗ったんですけども、取れてなくて、そのまま学校行ったらこれが大騒ぎになったんですね。
なんですか、その手は?って言う。で、これは家でおばさんと遊んでて、絵を描きましたって言いたかったでしょうが、多分日本語ができないんで、えーとかって言って、しどろもどろだったら、速攻それで呼び出しされたらしいです。
だから母はね、もうすごい小学校の先生たちのことをバカにしてたそうですね。ああ、この人たちバカばっかりだと思って、適当に呼ばれれば言って、先生の話を聞いてましたが、一切私の耳には入れなかったんで、まあもうこんなのも付き合うだけ無駄だというふうに思ってたみたいですね。
だからこういうところうちの親は、いちいちそこでガミガミ言ったりしない、いい親なんですよ。うちのお母さんね。バカばっかりだなって、そんなことでうちの娘の耳に入れることもねえわって言って、放置してたらしいです。
小学校の教育体験
私がね、ようやく浮かばれるのは、小学校5年生の時についにまともな担任に当たるんですよね。この先生は今でも覚えてますね。愛先生っていうね、すごくいい男の先生で、この子はバカなんじゃなくて、日本語が喋れないんだなって気づいてくれたんですよ。
当たり前のことなんですけど、気づいてくれて、普通に接してくれたんですね。バカ扱いもしないし、私が他の子と違うことしかできなかったり、一見言うことを聞いてないように見えるのは単にわかってないだけだってことを理解してくれたんで、すごい私に寄り添ってくれたら、爆発的に私はどんどんクラスに溶け込めるようになり、日本語が喋れるようになったんですよね、結果的にね。
だから本当に愛先生には感謝してますが、当たり前ですよね、ある意味ね。そんなめちゃくちゃ賢くなくても、そんな日本語ができないんだなっていうことぐらい想像できないんですよ、でも、学校の先生ってね。
だからもう思考停止っていうのは、まさに彼らみたいな人のことで、彼らは勉強はできたんでしょうよ。ですけども勉強ができただけで止まっている人たちなんで、ごめんなさい、これ聞いてる人の中に学校の先生とかになっている人もいるかもしれませんが、全体をバカにするつもりはないんですけれども、この人たちはもう言われたことしかできないし、言われた通りにできない人のことが理解できないんですよ。
だから、ここでちょっと発達障害とか、私みたいに単に日本語がわからなかった程度のことでも、もう変人、奇人扱いですよ。こんなことでね、自尊心を傷つけられたり、自己肯定感がすごい低い子どもたくさん生まれてるはずですよね。しょうがないです。これもしょうがないです。
あとですね、この日本のね、私は母の再婚騒ぎで、自分の中学じゃなくて高校受験がぐちゃぐちゃになっちゃったんですが、ここはね、母は明確に自分のせいなんですよ。これ自分の再婚騒ぎがめちゃめちゃタイミング悪い時にやってしまって、娘に迷惑をかけたんですが、母には母の思いが実はあってですね、
私はある程度中学で結構勉強ができて、勉強ができる友達とかもできていたので、そのまま彼らと競うようにして、それなりにレベルの高い高校に行き、そのままそのある程度レベルの高い大学に行きたいっていう、ちょっと野心を持ち始めてたんですよね。中学の時に。
ですけども、これはカンナには合わないというふうにはね、実は思ってたみたいなんですよ。母も大学を熟知してるんですよね。自分が教えたりとかして、音楽の学校ですけども、教えたりして日本の大学のレベルとか、そこに行くためにどれぐらいその内心象を整えなければいけないかとか、
内心象っていうのはつまり全部オール語で、他の課外活動とか、その相対的な評価で見るわけですよね、子どもをね。でもその相対的評価っていうのがいかにフェイクかっていうことも母は分かっていましたし、日本のそういうエリート教育みたいなものがいかに浮っ面なものかっていうことも分かっていて、
それというのもね、母が目指させられた英才教育っていうのはもっともっともっと高いところのことなんですよね。だからアメリカとかの英才教育っていうのはもうレベチなわけですよ。
だからもう5歳ぐらいで天才だってわかれば、もう一気にその専門分野をぐわっと押し込んでやって、そこに特化した天才を育てていくみたいな教育をするじゃないですか。一方の日本っていうのは優等生を量産する教育システムだったんですよね。今ちょっとずつ変わってきていると期待したいですけれど、相変わらずどちらかというとそうだと思うんです。
だから得意なことを伸ばす教育じゃなくて、何でもまんべんなくできる人を育てるっていう教育なんで、そこに対しては母はものすごく批判的な目で見ていたんですよね。なおかつ本物の英才教育っていうもののいかにシビアでハードなものかということを見て、自分はそこから転げ落ちている人間なので、そういう厳しすぎる競争に晒すのも嫌だし、
あと日本のとりあえずどこかいい大学、例えば関西で言えば関関同率ぐらい行っておけばなんとかなるんじゃないみたいな、そういう価値観はうちの娘にはそぐわないということは思っていたみたいなんですよ。
だからデタラメな親ではある一方で、自分がものすごい先鋭的なエリート教育をやらされた犠牲者でもあるんでね、だからそこは娘には絶対そういうところに身を置かせたくない、のびのびと育ってほしいというふうに思ってたみたいなんですよね。
で、その後、高校こうやって全然私真面目に学校行ってなくて、サボってばっかり、でも遊んだり、正直悪い友達とかもこのあたりできてました。
ただ全くここはここでね、この不良みたいな人たちともちょっと仲良くなったりしたんですが、全然ここはここで話合わないんですよ。ただ家に居場所がないとか家庭環境が悪いとか片親で育って苦労してるとか、そういう身の上は近いんですよね。
だけども、興味関心ごととか、やはりその辺では全然話が合わないんですよ。彼らは大体不良の人っていうのはすごく早熟なんですね。そこそこいいおうちの子供よりも肉体的な精神は変わらないと思うんですが、肉体的な成長が早いんで、
早々に中学とか中学高学年とかね、高校の前半ぐらいでさっさと初体験とか済ませてたりとかね、彼らは彼らでセックス、セックス、恋愛、セックスみたいな、そんな感じなんですよ。あとはそのウェイウェイとか、そんなことばっかりなんです。興味がね。
あとバイクとかね、シンナーとかね、バイク、シンナー、セックスみたいな、そういう人たちとも全然話ははっきり合わないんで、本当に不良とも話が合わないし、そこそこの優等生たちとも話が合わないし、本当に踏んだり蹴ったりで、そんな時にね、高校にはほとんどいい思い出は一つもないんですけれど、
当時ね、私が行った学校は第二外国語っていうのがあったんですね。以前ね、配信でも話したことがあるんですけど、すごい珍しいあの時代にね、就学旅行は韓国だったんですよね、行き先がね。だからそういうちょっと海外を意識している教育方針の学校ではあったんです。
高校から第二外国語っていうのが選べる珍しい学校だったんですよね。私はフランス語を選んだんです。フランス語の授業はもうね、学級崩壊してましてですね。
フランス語の授業の苦悩
ここもね、本当に私はこの自分のクラスメイトたちをすごく内心ね、嫌な人たちだなと思ってたのは、このフランス語っていうのは別に大学の受験で関係ない科目ですよね。
なのでここではね、みんな全然先生の言うことも聞かないし、真面目に勉強しないんですよ。だからこいつらみんな受験に関係ある科目と、あと内心書を稼げる科目とか以外は全部手抜くんですよ。
でそれがね、もう顕著で、フランス語とか当時フランス語と何語だったかな、中国語とスペイン語かなんかが選べたんですけど、みんなだからその国の先生でした。
だからフランス人、中国人、スペイン人の先生が来てたんですが、この人たちのことなめてるんですよね。全然言うこと聞かなくて、もう全然学校がね、クラスがね、まともに授業が進められない状態だったんですよ。
今思ったら恵まれた環境ですよね。高校1年生から他の英語以外のね、言語を学べるっていうのは素晴らしい機会に恵まれたと思うんですが、もう全然そんな意識は誰の頭にもなくてね。
みんなもう寝てるか、ベラベラおしゃべりするかね、とにかく全然聞いてなくて、フランス人の先生がね、もう血管切れそうなくらい怒ってましたね。
いつも、シルブブレ!シルブブレ!とか言ってね、めっちゃ怒ってたのがね、懐かしいですね。
でもとにかくね、あんまり言うこと聞かないんで、ついに先生はね、諦めたんですね。1年半ぐらい経ってね。
で、我々がね、2年生ぐらいになった時からもうね、授業をしなくなったんですよ。
代わりに先生が何やったかっていうと、フランス語の映画を視聴学室っていうのがありましたよね、学校ってね。視聴学室って映像を見せてくれたりする学科の時に使う教室にね、毎回行って、そこでね、フランス語の映画を見せてくれるようになったんですよ。
これがね、私はとにかく素晴らしい教育機会をもらったなと思って、今でも感謝してますね。
フランス人の先生、いつも怒ってましたけど、だけど諦めてフランス語の映画をね、見させてくれるようになったんで、これがなかったら私はアメリカの映画は常に子供の頃から見てますが、
フランス語の映画をこんなに早くから見れるようになったのは、この先生のおかげだと思ってるんですよね。
トリュフォーの映画とか、ゴダールの映画とか、あともっと古いね、文芸作品とか、いろんな映画を見せてくれたんですよ。
その一発目が、もう忘れもしません。大人はわかってくれないっていう映画だったんですよ。
この映画との出会いっていうのは、もう私の人生の宝の一つですね。
これはフランス・オアーズ・トリュフォー監督の名作映画の一本なんですけれども、一本というか、私はトリュフォーの映画の最高傑作にして最大の作品はこれだと思いますね。
あの、突然炎の如くっていう映画もね、いい映画でしたけれども、この大人はわかってくれないっていう映画は、自分のことだと思ってみました。
主人公のね、アントワーヌっていう少年が主人公なんですが、これはフランス・オアーズ・トリュフォーの辞伝なんですよね。
このアントワーヌ少年は、だんだんこれ20歳、30代、40代ってずっと生涯ね、これシリーズになっていくんですね。
アントワーヌシリーズで、これはトリュフォーの自分の話なんです。だからアントワーヌ少年は自分の分身なんですよね。
当時シングルマザーの母親が家に男を連れ込んできたり、アントワーヌ少年は全然可愛がらなくてネグレットで育っていて、
家に居場所がなくて不良になって、外でずっと遊んでね、学校行かなくなって遊んでたりするんですけど、周りの友達たちも徐々にもっとまともなんですよね。
アントワーヌよりも、もうちょっとまともな家の子だったりとかして、夜になったら家に帰れる家の子ばっかりなんですよ。
アントワーヌだけは何時になっても家に帰りたくない子なんですよね。家に居場所がないので帰れないんですよ。
なんとなく初めて映画に行ったら映画に取り憑かれて、しょっちゅう子供のくせにね、親の同伴なしで映画に行くっていうね。
映画館にずっといりびたる少年になっていくっていう、これがトリフォー監督自身の少年時代の思い出を映画にしてるんですよ。
これはもうちょっと私人事として見れなくて、視聴各室でね、この映画を見させてもらって、授業は50分ですよね。確かね45分か50分で。
確か2回に分けて見せてくれて、フランス語のクラスっていうのは週に1回かなんかだったと思うんですが、楽しみでね、前半見て、でも次どうなるのかなと思ってね。
次の週にまたこれ見せてもらって、本当に感動してね、感動したというか、もうこれは自分の話だなと思って見たことをね、今でも思い出しますね。
この頃ますますね、孤独というかね、大げさですけども、孤立感を深めている私が、より映画に系統していくようになるんですよね。
当時ね、大阪にはね、ダイマイチカっていうね、映画館があって、これねどこだったかな、本町辺りだったと思うんですけれど、
日本立てで500円で映画をやっているっていう映画館があったんですね。大好きでここね、しょっちゅう行ってました。
で、たった500円で2本映画を見れるんですよ。
ここでね、ヒッチコックリバイバルとかね、あとロードショーから少し時間が経ったような映画を日本立てでやってくれたりとかね、とてもありがたい映画館で、
私ね、またこれも大金持ちになったらシリーズで、大金持ちになったら自分の映画館作りたくて、
この時のね、500円で安くでもいい映画を見れるっていう映画館をやりたいなと思ったりしてね。
もう営利目的じゃなくて趣味でね、やりたいなと今でも思ったりしますね。ダイマイチカ、復活してほしいですよ、本当にね。
とにかく、コジマックスさんとの対談でも話しましたけれども、こういう行き場所がない人っていうのがね、いて、
大人はわかってくれないっていうね、映画の中のこの安と安の少年のようにね、家庭にも居場所がなくて、
社会でも不適合者というレッテルを貼られてね、行き場がない人が映画の中に一時の現実逃避をすると、
今みたいに映画がね、1回2000円ぐらい撮られるんじゃなくて、2本で500円とかね、そういう破格の値段で見れたっていうこともあって、
映画館にね、しょっちゅう逃げ込んでいましたね。はい、というわけで、また次回のおいたちシリーズに続きます。ごきげんよう。