2021-08-25 47:08

第250回 【対談】教育×国際協力×起業家のキャリアを学ぶ(前編、ゲスト:イッポラボ合同会社 田中大一さん)

鳥取県を拠点に、木製の知育玩具を中心とした子どもの成長に役立つ商品作りや、運動スクール運営等の教育関連事業や発展途上国の子どもたちの学習能力が向上するよう、学習道具を提供する国際協力活動を行うイッポラボ合同会社代表の田中大一さんと対談します。

大学や東京外国語大学大学院で培った経験の事や今までのキャリアの軸についてお聞きします。  


【ハイライト】  

・2020東京オリンピック聖火ランナーの経験  

・大学時代でのカンボジアのボランティアについて  

・東京外国語大学大学院で培った事  

・フランスパリでのUNESCOインターンについて  

・大学院卒業後からのキャリアについて  

・イッポラボ様創業での素晴らしい出会い 

・鳥取に戻って事業をしようと思った一番の動機 


本エピソードの後編のリンクはこちらです。

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ゲストプロフィール:

田中大一さん

鳥取県鳥取市ご出身。大阪教育大学教育学部で学ばれた後、東京外国語大学大学院に進まれ、国際協力専攻を修了されました。その後、日本の政府開発援助(ODA)プロジェクトのマネジメント業務に就き、東南アジア、中央アメリカ、アフリカの国々に小学校などの教育施設を建設する案件をご担当されました。その後、インテリア家具の商品開発、大手広告代理店の営業という複数キャリアを経て、2018年にイッポラボ合同会社を創業されました。

鳥取県を拠点に、木製玩具を中心とした子どもの成長に役立つ商品作りや運動スクール運営等の「教育関連事業」や発展途上国の子どもたちの学習能力が向上するよう、保護者や先生たちにも働きかけを行いつつ、子どもたちに学習道具を提供する「国際協力活動」を行うという二つの軸を基に事業に取り組んでいます。


今回ゲストでご出演頂いたイッポラボ合同会社代表の田中大一さんの配信するポッドキャスト・インターネットラジオ番組『WHAT's YOUR IPPO~あなたの原点おしえてください!~』のリンクはこちらです。

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番組Twitterアカウント(@whats_your_ippo)です。


番組内でご紹介ありました、現役の歯科医師監修・イッポラボ様が開発したお子様の口の発達にも役立つ離乳食スプーン「歯並びまっすぐスプーン(子ども用、大人用2本セット)」のリンクはこちらです。

https://ippolab.official.ec/items/48034359

番組内でご紹介ありました、模様をヒントに自然とひらがなが身につく新感覚のひらがな学習ツール「ひらがながすきになるカード」のリンクはこちらです。

https://ippolab.official.ec/items/43699332

番組内でご紹介ありました、幼稚園のお子さんから大人まで、家族一緒に飲めるファミリープロテイン「バランスプロテイン(500g)」のリンクはこちらです。

https://ippolab.official.ec/items/48515410


~お知らせ~

サニーデーフライデーは、社会保険労務士として活動する田村が普段のサムライ業という固いイメージから外れ、様々な分野で活躍する方やその道の専門家・スペシャリストと語るトーク番組です。


人生に前向きでポジティブな方をゲストとしてお呼びし、経営者や従業員として働くリスナーの皆様が明日から明るく過ごせて、心や気持ちがパッと晴れるそんな『働き方を考える』ラジオをお送りします。


話すテーマは社労士業、働き方改革、キャリア、海外駐在、外国人雇用、海外放浪等です。


パーソナリティー:田村陽太

産業機械メーカーの海外営業、社労士法人での勤務経験後、社労士事務所を開業。海外駐在員や外国人社員の労務管理、外国人留学生・技能実習生の就労支援等、企業の国際労務・海外進出対応に強い。ラジオDJ、ナレーター、インタビュアー、番組MC・ナビゲーター等、音声メディアや放送業界でも活動。また、番組プロデューサー、ポッドキャストデザイナー等のPRブランディング事業も手掛ける。


カバーアート制作:小野寺玲奈


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社労士ラジオ 【サニーデーフライデー】
社労士ラジオ 【サニーデーフライデー】 田村陽太です。
この番組は、社会保険労務省として活動する田村が、 普段の侍業という堅いイメージから外れ、
様々な分野で活躍する方や、その道の専門家、 スペシャリストと語るトーク番組です。
本日も素敵なゲストをお呼びしております。
イッポラボ合同会社代表の田中大一さんです。 田中さん、よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
サニーデーフライデーに来てもらいまして、 ありがとうございます。
こちらこそありがとうございます。
田中さんとの出会いのきっかけなんですけれども、 ちょうど僕はポッドキャストを配信していて、
誰か外来の方でポッドキャストを やっている方がいないかなと思って検索していたら、
ちょうど田中さんがポッドキャストをされていまして、
タイトルがこの世界の歩き方、 鳥取から落雷に乗っていきましょうという番組をされていて。
ふざけてますね、タイトルが。
外来生とか陰性の時の方と ゲストで呼んでましたよね。
そうですね、呼んでました。
それで面白く聞かせていただいていて、
いつか収録の依頼ができないかなと ずっと思っていたんです。
ありがとうございます。
私の大学の先輩がフェイスブックを通って 投稿していらっしゃって、
その投稿の内容が田中さん、 今日出ていらっしゃる田中さんが、
2020東京オリンピックの聖火ランナーに 出ているというのを投稿をあげていらっしゃって、
これ、あの田中さんだと思って、
このタイミングで収録オファーできないかなと思って、
ダメ元で僕の先輩にお願いして、
田中さんいいよって言ってくれたんで、
収録に今回つながったという感じですね。
ありがとうございました。見つけていただきまして。
ありがとうございます。
今回聖火ランナーを2020東京オリンピックに 出られたじゃないですか。
そのきっかけって何かあるんですか?
きっかけは、今回4つ大きいスポンサーが ついていたじゃないですか。
トヨタとNTTと日生とコカ・コーラか、 4社だったんですけど、
4社がそれぞれ聖火ランナーを 募集された時期があったんですよね。
その時にトヨタの枠で応募してみたら、
選んでいただけたっていう感じです。
そうなんですか。毎回走りたかったって感じですか?
何かしらオリンピックに関わってみたいな 気持ちがあったんですよね。
その一つが聖火リレーかなっていうのがあって、
鳥取県として募集している方法があったのと、
スポンサーとして募集している方法が 2つあったんですけど、
県の方はいとこが推薦してくれて、
スポンサー枠は自分で出してみて、
当たる可能性を高めて応募したんですけど、
そしたら結果的にトヨタさんから 選んでもらえたっていう感じですね。
03:00
自選の方が選ばれたんですね。
そうですね、自選の方が。
アピール強めだったかもしれないですね。
NHKのサイトの走っている姿も 見させてもらったんですけど、
実際どうでしたか、走ってみる聖火ランナー。 どんな感じだったんですか?
実際は多分走っている自分が 一番感動していたと思います。
鳥取県はコロナの影響もあって、
県として聖火2デーの規模を 縮小したんですよね、直前になって。
そうなんですか。
1人あたり走る距離短くなったりとか、
会場がコンパクトになってお客さんが 減ったとかあったんですけど、
それでも会場の盛り上がりはすごい熱気もあって、
テンションも高くって、
ちょっとしたフェスみたいな感じだったみたいな。
その中で聖火を持って走って、
みんなにも見てもらえたんで、
すごい貴重な位置、ワンシーンに 参加してるんだなっていうのを
走りながらも実感しました。
すごい監修でしたよね、 いろんな方に見込まれて。
そうですね。
家族はもちろんみんな来てくれましたし、 友達も来てくれたし、
知らない人たちも拍手とかしてくれたんで、
なんか感動しましたよね。
またいつ日本でオリンピックされるか わかんないですけど、
また出たいなって思いますか?
そうですね。
でも次回は他の方に譲りたいですかね、 僕は。
もう一回でいいかなと思いました。
皆さんもぜひ経験してみてください って感じです。
ちょっと僕も今度いつか参加してみたいです。
とてもかっこよかったんでやりたいなと思って。
ありがとうございます。
なのでいろいろと田中さんの方が
Facebookで知り合いを見させていただいて、
ここ自身でポッドキャスト番組された時も、
結構ゲストの方呼ばれてたんですけど、
いつか自分のお話もできる機会があればな みたいなことをちょっとつぶやった時があって、
僕もすごい知りたくて、田中さんってなんで
鳥取から大阪に出てこられてとか、
また起業されたのかってすごい気になってて、
国際協力と偏りがあるってところの繋がりというか、
ちょっと私がもしポッドキャストで聞ければなと
今日思ってちょっと来させてもらったっていう形です。
ありがとうございます。
私の番組は働き方の番組ですので、
その起業に当たっての経緯だったりとか、
その働く上での大事にしてることっていうところを
ぜひ田中さんの方から勉強させていただきたいなと思ってます。
わかりました。
よろしくお願いします。
お願いします。
それでは簡単に私から田中さんをご紹介させていただきます。
鳥取県鳥取市でお生まれになり、
その後大阪教育大学教育学部で学ばれた後、
東京外国語大学大学院に進まれ、
国際協力専攻を修行されました。
その後、日本の政府開発援助、ODAプロジェクトのマネジメント業務に就き、
06:01
東南アジア、中央アメリカ、アフリカの国々に
小学校などの教育施設を建設する案件をご担当されました。
その後、インテリア家具の商品開発、大手広告代理店の営業という複数キャリアを経て、
2018年に一歩ラボ合同会社を創業されました。
鳥取県を拠点に木製玩具を中心とした子どもの成長に役立つ商品作りや、
運動スクール運営等の教育関連事業や、
発展途上国の子どもたちの学習能力が向上するよう、
保護者や先生たちにも働きかけを行いつつ、
子どもたちに学習道具を提供する国際協力活動を行うという
2つの軸をもとに事業に取り組んでいらっしゃいます。
ということで、あってますか?
もう完璧です。
ありがとうございます。
よかったです。
川岡さん、もともと鳥取県で生まれて、大学は大阪の方へ出てこられたじゃないですか。
そうですね。
どのようなきっかけで大阪に出てこられたんですか?
きっかけはですね、一番は鳥取を出たかったんですよね。
鳥取生まれで高校まで鳥取にいたんですけど、
やっぱり田舎だし、都会への憧れはずっとあって、
高校が新学校だったんですけど、大学に行くんだったら鳥取を出て、
都市部に行きたいという気持ちはもう高1からずっとあったんですよね。
なんで東京とか大阪とかそういったところに行きたいという気持ちはずっとありまして、
最初は東京に行きたかったんですよ。
そうなんですか?
はい。都会だったら東京が一番かなと思ってたんで、高校生になってそれぐらいだったんですけど、
かつ当時の夢としては高校の英語教師だったんですよね。
そうなんですか?
はい。なんで英語の教員免許を取れる大学を探して、かつ都市部に行こうと思ってたんで、
最初は東京学芸大学っていう教員要請の大学あると思うんですけど、
ありますね。
そこの中等英語だったかな?を志望してたんですよね。
そこって中学校、高校の英語の先生になりたい人が集まる一番難しいところで、
そうなんですか?
はい。でもなんかそこに行きたかったんですよ。
行きたかったんで、高3の時にまずは推薦入試を受けるチャンスがあったんで、推薦を受けました。
当たらず落ちました。
でも諦められなかったんで、センター試験を受けてもう一回行こうと思ったんですけど、
センター試験の点数が取れなくて、判定はEだったんですよね。
E、一番悪いやつだったんです。多分Eだと思うんですけど。
論理もできなかったんで、行きたくなかったんで、もう東京学芸は諦めたんですよ、その時点で。
09:08
とはいえ、教師になりたかったし、かつ都市部にも行きたかったんで、東京の次は大阪だなと思って、
そういった順番で選んだ結果、大阪教育大学を見つけたんで、そこに行けたっていう感じなんです。
なるほど。
なんて言うんですかね。大阪に行くご縁があったっていうことで大阪に行きました。
なるほど。一つ質問したいんですけど、もともと高校の英語の教師になりたいと思ったきっかけって何かあるんですか?
これはですね、今思い返すとですけど、僕の時って中学校から英語の授業が始まったんですよね。今は小学生からと思うんですけど、中1から英語の授業が始まって、
その時の英語の先生がすごい面白くていい先生だったんですよ。それがあって僕は英語好きになったんですけど。
どんな感じで面白かったんですか?
ハイテンションで、日本人の先生なんですけど、ネイティブ化のような英語を話されて、かつ優しい、丁寧、面白い、楽しい、大好きみたいな感じです。
なんで英語楽しかったし好きだったし、その先生もよかったんで、こういう先生みたいになりたいなって思ったんだと思うんですよね。
あとはもともと誰かに何か教えるとか、誰かの役に立てるようなことをしたいっていう気持ちはもともと強くて、
英語の先生になろうって思ったはずです。
そうだったんですね。実際どうですか?大阪出てこられて鳥取から出て、一人暮らしだったんですね?
一人暮らしです。
どうでしたか?大学生活は。
大学生活はすごい楽しかったですね。最初の方は確かに東京に行けなかったっていう残念な気持ちはあったんですけど、
それでも同じ教師を目指す仲間に囲まれて、かつ大阪ももちろん都会だったんで、徐々に徐々に好きにはなっていきました。
大阪弁は完璧マスターされて出てきたんですか?
大阪弁はですね、喋ろうと思ったら周りがそんな関西弁喋んなっていうもんなんで、全然うまくならなかったですね。
喋らせてもらえなかったっていう方が強かったんですけど。
でも言語以外の大阪の文化っていうのもそこで培ってていうか。
大学生活、大兄弟の生活の中で一番の経験を挙げるとすると、1年生の時に行ったカンボジアのボランティアですよね。
12:04
これが国際協力に関心を持ったきっかけになるんですけど、この話してもいいですか?
もうゲストなんで、ぜひ。
大兄弟に入った時にバレーボールサークルに入ったんですよ。
元々バレーボールやってたんでバレーボールサークルに入ったんですけど、そこにアシア出身の友達がいたんですよ。
兵庫県アシア市。
金持ちエリアのアシア市。
彼のお父さんが会社されてたんですけど、慈秀カンボジアに小学校寄付したんですよね。
びっくりしたんですけど、ちょうどその学校の開校式典があるということで、
そのお父さんが子供、僕の友達ですよね、友達何年か連れてきていいよって言ったみたいで、
僕は友達仲良かったんで、カンボジアに呼んでもらえたんですよ。
これが本当に良かったんですけど、それでカンボジアに行けて、
カンボジアでのボランティアというものの、新しくできた学校に日本人何人かで行って、
現地の子供にノートとか鉛筆とかを渡すだけっていう活動ではあったんですけど、
それをカンボジアでやったんですよね。
もちろんその時初めて、いわゆる途上国っていうところに行って、
かつ、ポノンペン都市部首都から車で1時間ぐらいですかね、
ところにあるすごい田舎のところに新しい学校ができたものなので、
子供はもちろん先生も地域の人もすんごい喜んでて、
実際に今まで使っていた学校を見せてもらったんですけど、
そこがもうテレビで見たような4本の木にブルーシートだけのような場所を学校って呼んでたんで、
ものすごいギャップがあったんですよね。
新しい学校がそういった場所にできることの意義とか喜びとかインパクトとかを生で見たときに、
こういった場所の教育を良くしたいなっていう気持ちが初めて出てきて、
これが国際協力っていう分野に進むことになった原体験だったんです。
なるほど。もともとカンボジアで初めて行かれたんですか?
海外はですね、僕鳥取県なんですけど、鳥取県が韓国のとある町と姉妹都市なんで、
修学旅行で韓国に行ったんですよね。
そうなんですか。
海外経験はあったんですけど、でもいわゆる都城国が初めてでした、そのときが。
15:02
なるほど。初めての都城国でカンボジアを見られて、どうでしたか、実際見られて。
実際はですね、今はそれこそ中国資本が入って発展してるんですけど、
僕が行った18歳のときは今から16年前なんで、
首都といえてもまだまだ水準が低くて、
僕らはトヨタの四駆とかに乗って町とかに移動するんですけど、
赤信号で止まるたびに、小敷の方が窓ガラスノックして、
ダラープリース、ダラープリースって言って、お金くれお金くれって言ってきたり、
顔面が潰れたような人、要はこれ見せ物ですよね。
その人からお金くれって言われたりとかして、
そういう人がまだまだ都市部にさえいるような状況だったんで、
すごく貧しく見えました、国として。
結構10代後半でそれを見られると衝撃的だったんじゃないですか。
衝撃でしたね。
顔面が潰れた人に近寄られたときは本当にもう怖かったですからね。
多分それも裏で誰かが後引いてると思うんですけど、見せ物として。
そういった人、日本じゃもちろん見ないですし、
お金くれなんて子供から言われたりしたこともなかったし、
結構衝撃が強かったですね。
なるほど、そういう衝撃的なご経験と、
あと学校を作る意義っていうのをすごい考えられて、
1年生のとき過ごされたじゃないですか。
そこからまたカンボジアから日本に戻ってこられて、
大学生活とどうやって変わっていったんですか。
変わったこととかありますか。
カンボジアの経験が強すぎたんで、インパクトとして。
もう都道府の教育を良くするためには、
どういうことをしたらいいんだろうかっていう調査というか、
調べ始めたんですよね。
そしたら国際教育っていう学問分野があることを知ったので、
そこで勉強したいと思ったんですよ。
ただ当時は大学1年生で大教で入ったばっかりだったのと、
あとは大教大には国際教育を勉強できるコースがなかったんですよね。
教員要請の学校だったんで。
なので教員免許は大教大に入ったからにはしっかり取るけれども、
大学院に進学して国際教育を勉強しようと、
もう18歳で思いました。
早い。
そうですね。
大教大生活はもちろん楽しかったですけど、
割ともう3年生ぐらいの時から大学院の調査とかして、
気持ちはもう次のステップにステージに行ったという感じですね。
すごいですね。教職で取るだけでも結構カリクラも多いじゃないですか。
18:00
そうですね。
そうですよね。
時間を見つけて国際協力の方に向かうというところで、いろいろ葛藤されていたんですね。
そうですね。
その質問をしたいんですけど、
そこから東京外国語大学の大学院、私の先輩というか大学院の人もいないんですけど、
東京に出てこられたじゃないですか。
東京外大の大学院に出てこられたきっかけはどんな感じなんですか。
きっかけはですね、国際協力が勉強できるということと、
もともと達成できなかった東京に行こうという両方を何とか実現したかったんですよね。
なので、国際協力勉強できて東京にある大学院という条件で調べたら、
東京外大と東大と、ちょっと東京離れますけど筑波があったんですよ。
それぞれ勉強できることとか調べて、研究室訪問とかもできるところはやったんですけど、
一番東京外大大学院の岡田先生という先生がいらっしゃるんですけど、
岡田先生。
大人気のゼミなんですけど。
聞いたことありますよ。
本当ですか。
とてもとても多国籍な人数の多いゼミなんですけど。
岡田先生のところに行ったらすごいウェルカムしてくれて、
ぜひおいでよって言ってくれて、かつ勉強したいこともきちんとできそうなことがわかったんで、
実際に訪問したんですけど、岡田ゼミを。
それあれですか、院に進む前に学部生のとき、大阪教育大学院にいたんですか、東京に来て。
大教大の3年生のときから院の著作をしてて、3年生のときにゼミ訪問してました。
早いですね。
そのときから岡田先生には顔と名前を覚えていただいて、
実際入試のときにも、元からいた院生の方にメンターとしてついてもらって、
手取り足取りを教えてもらってたんで、
そういったご縁もあって、大学院は独大大にしようと。
もうスッといった感じですね。
なるほど。
結構準備万端の状態で行ったんですね、3年生くらいから。
行きました。
なるほど。
田中さんも府中に来られてたんですか、住んでたんですか、府中に。
もちろん通ってましたし、住まいは当時姉が東京で働いてたんで、
2人暮らししようって話になったんで、僕は中野から通ってました。
そうなんですか。中野から武蔵坂入れて、武蔵坂で多摩線ですか。
ですですそうです。
そんなラインですね。
じゃあすごい親近感湧きますね。
同じですもんね。すれ違っているくらいもあるかもしれないですね。
そうですかね。
食堂とかで。
サポールとかで、ミールとかで。
懐かしいですね。
21:00
なるほど。どうでしたか、大学院入ってみて、留学されてどうでしたか。
外大はそうですね、実際入ってみて、むちゃくちゃ刺激的でした。
外大ってもちろん多国籍なんでいろんな方いらっしゃいますし、
日本人でも帰国主義とか一匹狼タイプとかいっぱいいるじゃないですか。
いますね。
あと狼隅は社会人の方もいたんですよ。
そうなんですか。
はい。なんで僕もともと大兄弟はもう純粋に教員になりたい人が割と同年代の人だけがいた感じだったんですけど、
外大はなんかもうしっちゃかめっちゃかっていうか、
なんていうんですか。
もういろんな属性の人がいたんで、楽しかったですね。
社会人ってどれくらいの方がおられてたんですか。
30代後半とか50代。
学び直しの人ですよね。学び直したい人。
なるほど。
来てました。大学院はそういう人もいるんで、いろんな人もいて。
そうですね。やっぱり一番は国際協力をちゃんと勉強できたっていうところですかね。
元に戻ると。
どんなことを勉強されてたんですか。大学院では。
大学院は国際協力を歴史に順を追って、
この時にどういう法律があって条理があってとか、世界の流れとかそういったものを体系的に学ぶことができたのと、
あとちょうど僕が入った1年前ぐらいからですかね、
当時国連でもう20何年働いてた方が外大の先生になったんですよ。
すごいですね。
その方が旗振り明けになって、
外大生を国連の期間でインターンシップさせるっていうのが始まったんですよ。
女性の先生ですよね。
うの先生。
うの先生。
うの先生がまさに本当に着任されて1年か2年ぐらいだったんですよ。
その先生的にはやっぱり日本人の国連職員を増やしたいっていう思いがあられて、
宅外大と例えばUNDPとかUNESCOとかIOMとか国際機関と覚書を結んでくださって、
陰性を派遣するっていう授業を始めてくださったんですよね。
僕もその制度を使ってUNESCO本部、パリにあるんですけど、
そこに派遣していただくことができまして、
半年間インターンシップしたんです。
陰性のときにそれを経験されたんですか。
です。
なるほど、すごい経験ですね。
それは本当にありがたくて、
大学陰性になったときに国際協力を仕事にしようと思ったら、
国連職員っていうのを一つの選択肢で上がってきたんですよ。
24:03
果たして自分が国連で働けるかどうかを見るためにも、
インターンシップはすごい良い経験で、
意気揚々とUNESCOでのインターンシップを始めたんです。
実際行ってみてどうでしたか、その6ヶ月間の経験は。
実際はですね、僕は結構…
パリに行かれたんですか、パリにいたんですか。
すごいですね。
半年間パリに住んでて、
UNESCOの本部はエッフェル塔の前にあるんで、
むちゃくちゃリッチが良いところにあって。
すごいですね。
そうですね。
僕の社会人経験の中で一番リッチが良いところで働いてたんですけど、その日が。
結果的には結構コテンパンにやられて帰ってきたんですよね。
どういうことですか。
多分本部なんで、やっぱり経験積もらった方が多く集まってらっしゃって、
かつ英語はもちろんみんな話すんですけど、
フランス語も結構皆さん話されるんですよね。
国際協力の分野でも、分野の経験ももちろん終わりだと。
そういった人が働く中に、
僕は実は留学も経験したことないですし、
英語はまあまあ話せましたけどフランス語はあんまりできなかったし、
かつ国際協力の仕事経験も皆無だったんで、
そこにいきなり入っても、
対して周りが期待する成果を出せなかったんですよ。
具体的には僕が所属したチームは、
リバフプロジェクトと言って、
イギリスの資金を使って、
リーマンショックが世界10カ国、ランダムで選んだ10カ国なんですけど、
どんな影響を与えているのかっていうのを、
実際現地の先生とか校長先生とか親にアンケートを配って、
それを集めて分析するっていうチームに配属されたんですよね。
でも何か聞くだけでは難しいじゃないですか。
そうですね、難しいですね。
そのチームが4人ぐらいのチームだったんですけど、
リーダー1人いてそれ以外3人が手を動かすメンバーだったんですけど、
僕が与えられた仕事は本当に簡単なものしかなくて、
例えばアンケートを取るためのアンケート、
質問項目を作ったりとか、
上がってきた結果を単にまとめるだけとか、
いうところが主で、
でも他の人はそれを元に調査結果を英語とフランス語で書いたり、
イギリスに報告したり、
そういったより重要な仕事をされてたんですよ。
なので明らかに僕がやった仕事と他のメンバーがやった仕事にはギャップがあって、
かつそういった仕事しかなかったんでしょうね。
僕はまだ力がなかったんで。
そういうのをまざまざと見せつけられて、
27:01
自分には全然力がないんだと感じたんです。
なので国連行きたいという気持ちはもちろんあったんだけど、
まだ力不足だなっていうのを
6ヶ月間じわじわと感じ続けて、
もうちょっと早く帰りたいなと思って終わったっていうのが正直なところです。
すごい経験ですね。
日本人一人で行かれたんですか?
一人ですね。
確か僕の時で外来生が派遣されたのが、
10もいないか、10前後かな。
みんな期間バラバラだったんですよ。
ニューヨークの人もいれば、バンクの人もいれば、
アフリカの人もいたりして、バラバラだったんですけど。
グローバルワイドですね。
パリ本部は僕しかいなかったんで、
もちろん日本人の職員の方がたくさんいらっしゃったんで、
相談とかもってもらってたりはしたんですけど、
でもそれでも日々の仕事は外国人のパートナーとやるしかなかったので、
心を打たれながら、自分で自分を励ましながら、
生活してましたね、半年間。
すごい経験です。それって月勤で働いて土日は休みみたいな感じだったんですか?
そうです、カレンダー通りですね。
6ヶ月間悔しい思いをして、どんな感じで土日とか過ごしたんですか?休日とかって。
土日は、極力リフレッシュをしようと。
僕ネガティブな感情とかは、
体の中に残しておくとどんどん弱っていっちゃうタイプなんで、
ちょっと遠出してみたりとか、
カフェ行って本読んだりとか、
できるリラックス方法をいろいろやってた感じですね。
なるほど、経験をしてきてまた日本帰ってくるじゃないですか、インで。
その中で活かされたことってありますか?思ったことっていうか。
そうですね、なんだかんだそういう辛い経験はしたものの、
やっぱり国連で働くっていう目標自体はなくならなくて、
そうなったんですか?
そうなんです。
力不足を感じたんで、力をつけて戻ってくればいいよねっていうのに、
日本に帰ってきてから思えるようになって。
かっこいいですね。
なんか前向きな感じなんで、ポジティブ心境っていうんですか。
はいはいはい。
なんで、いつか国連で働けるようになるために日本に帰ってきて、
就職先を日本国内でも国際協力ができるような団体に絞って
就活しようとか思うようになりました。
なるほど、そこ繋がってたんですね。
その後、大学院卒業された後にODAの先開発園長のプロジェクトの案件に
携わるお仕事っていうことだったんですけど、これはどのようなお仕事というか。
これがまさにZIXっていう名前の団体なんですけど、日本国際協力システムっていう名前なんですけど、
30:13
外務省とか在家が作ったODA案件を実際に回していくような団体だったんですよね。
なるほど。
日本国内でそういう国際協力の経験を積んでいく組織としては
とても良かったなと思ってるんですけど、そこで働き始めることができて、
かつ最初に配属された部署でやっていた仕事が学校を作るという部署だったんですよね。
そうですよね。
なので、少し過去を振り返ってみると、もともとカンボジアでボランティアするときに思っていた
都市国に学校を作ったりして、教育環境を良くしたいっていう思いを実現できる環境にはなったんです。
なので、当時はすごい嬉しかったです。
田中さんがオファーしたんですが、私が建設をやりたいみたいな感じで、それともたまたまなんですか?
最終面接の時に、こういった部署で働きたいですってことは伝えてたんですよね。
なので、多分それを踏まえて団体側が配属させてくれたと思います。
なるほど。
願ったり叶ったりですね。
そうですね。
ありがたかったですね。
実際どうですか?やってみて、その学校建設のお仕事をされて、どうでしたか?
実際は、特に現地とかに行って、建設状況とかを確認するような時には、とてもやりがいを感じました。
自分が関わっている仕事で、都市国に学校ができているっていうのを実感することができたので、
すごくやりがいはあって、ただ、やっぱり人間欲深いもので働き続けると、
良いところもあれば悪いところも見えたりするし、
こういった組織、公務員ではなかったんですけど、公務員に近い働き方をしている、
その働き方が果たして自分には合っているんだろうかっていう、別の視点からの考え方とかを
持ったりしたので、もちろん日々やりがいはあったものの、
変化したいなっていう、環境を変えたいなという気持ちは少しずつ湧いていきましたね。
なるほど、変化したいというのはどのような変化したいという感じですか?
例えば、これは割と社会人として働き方にもなってくるんですけど、
やっぱり公務員用の組織だったので、年功受劣だし、年功受劣かつ、
若いからいくら頑張っても、給料が変わらないみたいな、
33:00
そういう社会人としての不満とかはやっぱり溜まっていきましたし、
あとは、僕がやっている組織はちょっと特殊なんですけど、
例えば学校を作るって話になったときに、案件になったときに、
外務省がまるっとその資金を支援対象の国の政府に渡したとしても、
そのプロジェクトのスケジュール通りかつ予算通りに案件が進むかどうか保証できない場合は、
僕らは代わりにお金とかを預かって、先方政府に代わって進めていくっていう言い方だったんですよ。
代理機関って言ってたんですけど、
日々の業務の報告先は先方政府であり、日本の外務省であり、
果たして地元の実際その地域の子どもにどれだけ恩恵があるんだろうかとか、
自分が付き合う相手は政府のお依頼さんだけだったりとかしたので、
もっと現場、もっと子ども寄りのところで働きたいなという気持ちも湧いてきたりしたんですよね。
なるほど、現場に寄り添いたいなみたいな。
そうです。
最初はもちろん学校建設できて嬉しいという気持ちはあったんですけど、
やっぱり働けば働くほどいろんなところが見えてきて、より良い働き方があるんじゃないかなっていうのを思い始めた感じです。
なるほど、いろんなストーリーがあって、いろんなこと経験されて面白いですね。
本当ですか?もうちょっとうまく話せればいいですけどね。
伝わってます?大丈夫ですか?
めちゃめちゃ伝わってますよ。
その後、いろんな葛藤がありながらも複数キャリアを経てということで、
インテリア株の商品開発とかオーデモ国大リティの営業というキャリアを経て、
また創業に移ったと思うんですけども、その経緯ってどんな感じで移ってきてたんですか?
経緯はですね、ちょっとこれもいろいろな経験があったんですけど、
ZIXっていう国際協力の団体で働いているときに、ちょうど東京オリンピックの開催が決まったんですよね。
これを受けに日本の外務省と文科省が日本のスポーツ文化を海外に広めるっていう事業を始めて、
スポーツスポートモローと呼んでるんですけど、それが始まったんです。
それの初年度の授業にアフリカのマラウィと南米のグアテマラで運動会をするっていう授業が始まりまして、
僕は幸いにもマラウィの運動会のメンバーとして現地に行くことができたんですよ。
それまでの学校建設とはまた違う仕事が体験できたんですけど、それをやるにマラウィに行きましたと。
アフリカですよね?
はい、アフリカです。5週間くらい滞在して運動会をやってきたんですけど、
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それはそれでとても意義のあることができたんじゃないかなと思ってるんですが、
その運動会に参加してくれた子どもに1人1本ボールペンを配ったんですよね。
このボールペンにはスポーツフォートモローのロゴマークが入っているので、
半分は広報、半分は純粋な企画みたいな感じだったんですけど、実際このボールペン。
今ね、映ってますね。本当はスポーツフォートモローって書いてますね。
ずっと持ってるんですけど、このボールペンを配ったところ、
県内の子どもがどんな反応をしましたかっていうと、
1本1本ビニール袋に入ってたんですけど、
そこから出さずにギュッと握っている子どもが何人もいたんですよね。
それを見たときに、確かに学校はあって先生もいて、黒板とかもあるんですけど、
子どもが自分で使える勉強道具を持ってなかった子どもが何人もいたんですよ。
勉強をするって自分の手を使って文字を書いたり計算したりしないと、
僕は身につかないと思ってるんですけど、そういう機会が彼ら彼女らにはない。
果たしてそういう状況で教育を受けてるって言えるんだろうかっていう疑問が湧いてきてですね、
僕的には言えないっていう結論になったんですよ。
なんでこういう子どもにそういった勉強道具が提供できるような仕組み作りができたらいいんじゃないかなっていうのをその時は思い始めてですね。
ただ、その仕組み自体はその時は出てこなかったんですよね。
どういう風にやったらいいかわからなかったので、そういったことがしたいっていうアイディアがずっとあったんですけど、
日本に帰ってきてからしばらくしたときに偶然出会ったんですけど、
アメリカのブランドでトムスっていうブランドあるのご存知ですか?
鳥取のYouTubeの時にお聞きさせてもらいました。
アメリカのブランドなんですけど、もともとはスリッポンを作るところから始めてて、
そのスリッポンが一足売れるごとに海外の子どもに一足靴を無償提供するっていうのをビジネスとしてされていらっしゃって、
これをワンフォーワンっていうキーワードで呼んでるんですけど、
その仕組みがすごいいいなと思ったんですよね。
なんでそれを真似したらいいんじゃないかと。
つまり、教育に関するものを作って販売して、
それが売れるごとに海外の子どもに学習道具を提供すればいいんじゃないかっていうところに行き着いたので、
じゃあその仕組みで将来は起業しようというところに行き着いたんです。
なるほど。
たまたま動画か何か見たんですか?アメリカの会社さんは。
これがですね、
行きがってとあるときに表参道の美容院で髪を切ったことがあったんですけど、
そのときに偶然目の前に出された雑誌を読んでたら、
偶然トムスの靴が出てきて、
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かつ多分今もあるんですけど、原宿のキャットストリートに路面店があるんですよね。
で、トムスの靴が出てきて、
その路面店の住所も書いてあったんで、今いる場所が表参道だし原宿近いんで、
じゃあ歩いて行ってみようと思って行ったんですよ、散髪終わった後に。
実はお店に行ってスリッポの実物とか見たり、
あとそのお店の世界観とかを触れたときに、めっちゃいいなと思って。
どのとこがいいなと思ったんですか?
一足売れたら海外の子供に救うっていう、そういった授業はしているものの、
靴そのものがめちゃくちゃかっこよくてオシャレだったり、
あと、もともとビバリーヒルズのセレブから広まってたんですけど、
オシャレな人が履いている感の店内のディスプレイとかデコレーションとかだったりしたんで、
ブランド的にもハイセンスだなとか思ったりして、
その会社のやってることもかっこいいし、商品自体もかっこいいし、
お客さんのお気に召し上がりもかっこいいし、
お客さんのお気に召し上がりもかっこいいし、
お客さんのお気に召し上がりもかっこいいし、
その会社のやってることもかっこいいし、商品自体もすごくセンスがあってかっこいいなと思ったんで、
これめっちゃいいなと思ったんですよ。
その時でも全てがつながって、
トムスのやり方をパクらせていただいて、
それの教育バージョンができないかなと思ったのが最初です。
トムスさんも喜んでるじゃないですかね、日本で同じようにされてるってことで。
そうですね、いつかお会いしたいですよね、社長さんに。
対談ですね。
対談できるもんなら相当相手は大きいですけどね。
今、一歩ラボさんで木製玩具の製造とかされてると思うんですけど、
自分たちのブランドのコンセプトだったりとか、ビジネスのスキームだったりとか、
それも意識されてる感じですか?
そうですね、意識はしました。
ただ今回は僕の場合なんですけど、大学から県外に出たので、
逆に少しずつ将来は鳥取に貢献したいなという気持ちが生まれてたんですよ。
企業するタイミングでは鳥取に帰ろうと思ってたので、
鳥取でもできる商品作りからやろうということもあって、
鳥取は田舎なんで木もたくさんあるなということが分かりましたし、
かつ新規参入できなくはないジャンルでもあったので、
木製玩具から始めたというのがきっかけですね。
なるほど。
質問したいんですけど、最初は高校卒業して大阪に出る時には鳥取に出たいと言って出たじゃないですか。
42:00
後悔の経験されて、いつかまた鳥取に戻りたいという気持ちは強まっているじゃないですか。
そこってどういうきっかけというか、やっぱりどんな感じになったんですか?
そこはですね、大阪にいた時も東京にいた時もなんですけど、
例えばお盆とかお正月とかで鳥取に帰るとすごいリラックスできたんですよ。
で、やっぱり鳥取出身ということもあったんで、多分この土地が自分に合ってるんでしょうね。
この穏やかな感じとか、全てを知ってるような感覚とか。
鳥取に帰るたびにすごく癒されている自分がいたっていうのがありましたし、
あとは東京にいる時にすごく大きなシェアハウスに住んでたんですけど、
人数が180人くらいいるシェアハウスがあって。
そんなシェアハウスあるんですか?
そうなんです。文教区にあるんですけど。
ドミトリーですか?
もともとドミトリーだった大学生向けのところがイノベーションされて、
社会人向けのシェアハウスに変わったんですけど、
そこに岡山の津山市っていうところ出身の友達もいて、
彼が先に津山にUターンして帰ったんですよ。
で、帰った後も僕は東京に帰って、
情報教育をさせてもらう中で言われたことがあって、
大地が鳥取に帰ってやりたいことをやったら地域が変わるよって言われて、
当時それを言われた時にはよくわからなかったんですけど、
でも今思うと鳥取人口が少ない分、
大地が鳥取に帰って、
そういう立場で新しい活動として始めたら、
地域に刺激が与えられたり、
いろんな人に面白いと言ってもらえたり、
あ、そんな仕事もあるんだとか思う。
そういう立場で新しい活動として始めたら、
地域に刺激が与えられたり、
いろんな人に面白いと言ってもらえたり、
あ、そんな仕事もあるんだとか思う。
若者も出てきたりするっていう話を聞いて、
自分が帰るだけでも意味があるんだっていうのを、
その人からちょっと教えてもらってですね、
それもちょっと後押しにはなりました。
【佐藤】津山と鳥取って結構近いじゃないですか、結構。
近いです近いです。
結構今でもその方とは繋がりがあって。
ありますよ。
なるほど、それが影響してたんですね。
影響しましたね。
その方はすごいご立派な活動をされている方で、
すごい尊敬してたので、
その言葉を信じて行動したっていうのがあったかもしれないですね。
なるほど。鳥取の魅力って何ですか?
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田中さんがやっぱり落ち着くっておっしゃってましたけど、
リスナーさんだけ鳥取の魅力というか、
ぜひ教えていただきたいんですけど。
鳥取の魅力はですね、
大体他の地域と同じなんですよね。
自然が豊かとか、
食が美味しいとか、
家が安いとか、
人が少ない。
都会と地方の二拠点生活をしたい方がいれば、
多分鳥取は良くて。
なぜかというと、
東京とかであれば飛行機で1時間ちょっとあれば着きますし、
かつ鳥取空港って街中にあったりするんで、
鳥取に来ても行きたいところまですぐ行けるとか。
そうなんですか。
はい。
時間とかお金のゆとりが、
二拠点目の場所としてはとてもお勧めです。
本当ですか。
いいですね。
田村さんもお待ちしてますので。
鳥取は一度できたスタバ行きましたね。
鳥取にできたスタバ。
砂漠行った後に、
砂丘行った後にスタバができたって言って、
すごい車がドライブするのがめっちゃ混んでて。
今でも混んでますからね、ドライブする。
みんな行きたいですから。
それは覚えてますね。
いいところですよね。
僕も好きです。
本当ですか。
ぜひまた来てください。
ありがとうございます。
いかがでしたでしょうか。
次回もこのお話の続編をお楽しみに。
次回もこのお話の続編をお送りいたします。
魅力的なお話たっぷりです。
お楽しみに。
シャローシュラジオ サニーデイ・フライデー
DJの田村 陽太でした。
それでは次回もリスナーの皆様の
お耳にかかれることを楽しみにしております。
今日も気をつけて。
いってらっしゃい。
47:08

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